
利子付き消費貸借について
本稿は、ピロリッタの著作物ですので、引用等をされる場合は、少なくともピロリッタの名称とアドレスを明記して下さい。
アメリカでは、暴力的で残忍なビジネスとされる高利貸し(loansharking)も、実際に暴力を使う場合は少ないとされている。殺したり不具にしたのでは金利も払ってもらえなくなるし、暴力の行使は目立つので法執行機関の注意を引いてしまうからだとされている。(Michael D. Lyman & Gary W. Potter, Organized Crime, Second Edition, 2000, pp.195-196)しかし、「組織暴力事犯は絶対に捜査できない」体制の下にあっては、暴力の行使も警察の注意を引くことはなく、「090金融」の跳梁跋扈に見られるように、恣に暴利を貪ることが出来るであろう。日本のように家族愛の醇風美俗のあるところでは、当の債務者の家族を恐喝するなどの事例はよく見られるところでもある。そして、それ自体が、家族愛という醇風美俗を衰退させてもいくわけである。かように、組織犯罪の蔓延は古き良き文化的伝統を根こそぎ破壊していくのである。又、暴利を貪っていればこそ、多数の畜群を擁し得るばかりか、各種のハイテク機器さえ悪用して尚更に組織犯罪を強力に展開できるわけである。かように、高利貸しは組織犯罪と因果的にも強く結び付いているのである。この理を押し進めるならば、組織犯罪の主要な動脈の一つに、詐欺・恐喝・窃盗といった明白な犯罪には該当しないように擬装しつつ集積される・利子を始めとする種々なる不労所得があることは見易い道理であろう。高利にたまらずに債務者が強盗を働いて返済しようとした場合には、彼をかく突き動かした背景にこそ、壮大な組織犯罪の展開を看取すべきなのである。彼が元来組織的背景を持っていなかったのに強盗団を組織して犯行に走ったならば、とりわけその「分け前」の配分に照らして、彼をかく突き動かした背景と彼の犯行に協働した組織連関の双方が交差していると見ることの出来る場合が多いのではないだろうか。もし彼が刑に服することになれば、彼は三重に搾取・収奪されることになるのである。双方を交差させている「大きな組織」は、座したまま暴利を貪ることが出来るわけである。本章では、この交差する二つの組織的背景のうちの前者の法的核心を成す利子付き消費貸借について私見を述べることにする。
社会的全体を業績連関として捉えたものを規範的に動因づけ得る社会的債権関係(それは広く不法行為も包摂するものである。不法行為と契約については後述。)を構成できれば、不当に高い利子を受け取ることは(刑事法上)違法・(民事法上)無効となり、不当には至らない利子を受け取る者も、その利子の生じる背景を構成している第三者群に対して、受け取った利子の形成に応じた対価を支払わなければならないことになろう。家賃・地代などの広く不労所得と言われるものも同様である。価格の「相場」は、仮構的に狭隘化された「需要と供給」に大きく左右されるので、社会的債権関係を歪めてしまう。移動の自由(法的なものにとどまらずに、物理的空間的なものをも意味する。)や情報の流通などが飛躍的に高まり、地域性・時間性などが意味を持たなくなれば、家賃や地代は、それによって、真の社会的債権関係を反映した「正当」な価格に収まるであろう。(へんぴな山奥から都心に楽に通勤・通学するのが常態化することなどを想起)利子についても、貸し手と借り手の媒介が無限大に広がれば―その名に値しない「金融」機関の媒介なしに全ての人が公正なネットに媒介されて何時でも貸し手にも借り手にもなり得るような体制を想起。つまり、一握りの「金融」機関に寡占支配されることのない・真に公正な金融ネット体制が確立されれば、暴利ということはあり得なくなるであろう。「自由」経済や「市場」を慫慂する者は多いが、既存の体制はその名に値していないことに口を拭っているのは不当であろう。―、同じように収まるであろう。そうならない限りに於いて、貸し手は狭隘化された市場の不足分に応じた不当利得を得ているのである。
ところで、消費貸借を通して債権者が金利を受け取ることが非人間的なのではないかと言うことは出来ないだろうか。仮に金利が年1割とすると、債務者は1割以上の利益の出る商売を営まなければならないが、そうしたことはそもそも可能だろうか。もし、1割以上の利益が確実に見込まれる商売があるならば、まず以て、債権者に当たる者は手持ち資金を貸さずに自らそれを行うのではないだろうか。土地・機械器具の購入乃至は賃借、労働者の雇用など、固定費用を賄うためにも、1割を超えなければならない収益は相当大きくなければなるまい。更に、原材料の購入、販売先の開拓、管理費と来れば、相当な利益を上げるべく債務者は強制されるわけである。それらも含めて余りある利益が確実に見込まれるならば、その市場に生産者として参入する者は日毎に加速度的に急増してくる訳だから、尚更、競争は激しくなる(=利益率が下がる。)。それら諸制約を含めても、尚十分に利益が確実に出るとすれば、それは、全体の市場が日毎に増殖していくような社会に於いてのみ可能であろう。帝国主義の教科書的定義そのもののような植民地獲得競争時代が継続しているならば、その限りで、そうした市場が存続し続けるかも知れないが、その際には、植民地人民の抵抗は未だ計算に入っていないのである。それさえ計算に入れられる商売とは一体何であろうか、想像を超えているのである。又、ニッチとも呼ばれるような、今までは商品化が行われていなかった外部性の領域を市場化・商品化する動きはどうだろうか。空気や水の商品化は勿論だが、家計乃至は企業内の内部業務としてそれ自体が注目されることのなかった分野が市場化・商品化の波をかぶったとしても、これまでと違って商品化されてしまった財貨・サービスに対して尚更に対価を支払えるかどうかという需要の側の問題が残るであろう。購入者の意識の問題ばかりではなく、そもそもの購入者の財布の中身の問題である。一日の家計が仮に千円でやりくり出来た時代からあれもこれも商品化されて2千円必要な時代になると、家計は差額分を他の市場から算段してこなければならない。しかし、それが容易だとすることは(今問題にしているのは、市場の拡大の可能性如何ということなので)問を以て問に答えることになる。以上の次第で、消費貸借の金利は、種々の商売の現場で実証できる個々的な利益率に応じて、日毎に更新される限りで、収受出来る(かろうじて正当性を持つ)ものである、と言えよう。そこでの更新は、経済統計をふんだんに独占する国家が、議会や利害関係者の協働のもとで行うべきであって、債権者の一方的な行為によって決める筋合いのものではないのである。本来的には債務者側が決めるべき筋合いのものなのである。(荘園制下の年貢支払いも、戦国期に向け、農民側が左右するようになっていったであろう。荘園領主の支配はそれ自体多元的・多層的であったが、時代の進展と共に、尚更に《fragmentation》化していったという背景は、《post-modern》の現代と一脈通じるところを持っていたであろう。ここでの債務も同じ道を辿るべきなのである。)
それとも、妥当な範囲の金利を受け取るのは良いとして、金利支払いに加えて元本の還付を期待することが非人間的なのだろうか。債権者は体一つで全ての儲かる商売を営むことは出来ないが、かと言って、もし、自ら行う商売の利益率が低くて生活に困窮するほどであるとしても手持ちの額を食い潰して行くほかないとすべきではないであろう。だが、それを投資することによって得られる利息を元にして生計を保つ(金利生活者)限りに於いて何ほどかの正当性を持ち得るが、更に、いずれの時にか、元本をさえ回収出来るとしたならば、二重取りになって仕舞うであろう、とは言えないだろうか。金利が1割なら10年で元が取れる訳であり、それを超えるほどに超過分が累積して行く訳である。元金を、自ら全てを管理する商売に於いて増殖するならば格別、他人の管理運営に於いて増殖するならば、それに応じた管理費を支払うべきではないのか。或いは、元本を[少なくとも]民法の法定利息を超え出る部分に応じて償却した還付を受けるにとどまるべきではないのか。元本+利息を収受出来る社会というのは、商圏の絶えざる拡張を伴う、典型的には帝国主義の時代に於いてのみ、しかも独占資本の立場から辛うじて考えられるものであって、平和と人権が唱導される(いたずらに商圏の拡張を図ることは出来ない)時代にあっては、利息を低く抑えるか元本は放棄させるかのいずれかの方途を法定すべきであろう。だから、金利の公定歩合との差が[少なくとも]法定利息を超過しており、抵当権のほかに人的担保も取っている(=支配従属関係を象徴している)ような・「不正権益」と表裏している消費貸借は違法・無効と解すべきであるほか、次代の債務と言うべき国債等に庶民に手の届く預金の利息に比すれば高利を付して、尚更に元本返済を認めているのは、金持ちを利するばかりか、次代の庶民に対する収奪であると言うべきなのである。
いわゆる「不良債権」問題については、「不良債務」者だけを非難すべきであろうか。この問題に於いて「不良債務」者とされているのは、少なくとも金融機関と何らかのただれた関連性にあって、本来為すべき抵当権などの実行を金融機関自ら躊躇せざるを得ない関係にある者だけである。いわば金融機関そのものの不良性を種々の相に亘って顕現するに至る筈のものであるところに真の問題性があるのではないだろうか。実際、めぼしい問題群は《enterprise conspiracy》に纏わるところで発生しているのはこれまでにも報道されたところであろう。そうした腐れ縁を保持し続けようとする金融機関に対する制裁の意味も込めて、せいぜいのところ締約時の担保権を実行してそれに甘んじるのが金融機関の義務であると言うべきなのである。諸個人の決済機能は郵便局に独占させて置けば、それを除いた「金融」システムの崩壊などはわれわれには無縁の話となるのである。(真の金融ネットを構築するためならば、それは祝賀すべきことになろう。)金融・経済の(少なくとも一般的な債務者との対比に於いては)専門家である筈の「金融」機関としての自己責任からもそう言わなければならないのである。専門家たる金融機関に翻弄・搾取されるばかりの消費者に対してのみ自己責任を唱いながら、専門家たる金融機関にはその責めを全国民に拡散して莫大な「公的」資金を注入する不正は、最底辺にある公定歩合に比して著しい暴利を金融機関に貪らせている不正や郵便局にボロ株を買わせて潰そうとする陰謀と相俟って、公私に亘る共謀の巨悪の構図を浮き彫りにしていくであろう。その一端が朝日新聞襲撃事件や石井衆議院議員殺害事件に垣間見られた筈である。これと顕著な対象を成しながら、そうした腐れ縁乃至は共犯関係にはない庶民は、初発の消費貸借関係にあった金融機関と連動している暴利貸しや各種の悪徳商人をも含めた不当企画乃至は共謀に基づく組織犯罪によって隷従を強いられ、骨の髄までしゃぶり尽くされているのである。そもそも、「ない袖は振れない」人に対して、自ら彼の「袖」を奪って置いて(不正競争や各種の暴力を用いた業務妨害を典型とする。)、返済を強要すること自体が彼の心身をも傷害するのである。だから、「借りた金は返すべきなのか」・「利息を支払うべきなのか」という絶えざる問題意識が前提問題として不可欠ではないだろうか。歴史的に累積し来たった社会的業績連関に照らせば、借りた金は、元々借り主の懐に対応する部分から出た部分を大きく持っていたのであって、たとえ貸し主が返済を履行させることを認めるに際しても、その寄与に応じて第三者に応分の還元をさせなければならず、そしてそれは、借り主にも還元されるべきものだとすると、どうだろうか。それにも拘わらず、そうしたことには目をつぶったまま借り主を非難するとすれば、それは歴史的・社会的には論理と実証を欠いたものとなるであろう。それは、例えば、自営業者は構造的に脱税しやすいのだから増税すべきだとか、どこかで「租税回避」している者があると(特に、特権階級に近い者であった場合)虱潰しに増税すべきだとか、いずれにしても、そんなことを主張する当の本人には直接関わりないようではあっても、国民負担を増加させる増税論に組みする意見が出てくるのと似ているのである。魯迅が描いたように、誰かが権力の犠牲に供されるとワッと歓声を上げるのである。こうした発想に抗して、「常に権力は悪である」という信念が国民を貫いて、常に、権力の犠牲にされようとしている者に対して付せられる種々の「罪」名に応じて、「それは罪ではない(それを罪とすること自体が誤りである)」、「この場合はそれに該当しない」、「それが罪ならば、権力者の行うこれこれも罪でなければならない」、「罪にしても、罰が他の罪(権力者が行うもっと重大な罪に対する罰)と均衡を失している」などと、あらゆる論難を加えていくような社会にしなければならないと思われるのである。そして、これらの前提を成すのが手続的正義の理念であろう。手続を抜きにして実体判断を先行させることは、認識することなくしてあれこれの存在を論じるようなものであって、反論理・反実証の空論を弄ぶ態度なのである。
総じて社会認識一般のありようが問題なのである。人間生活の環境因子が因果的に単純に組成されていて、原因=目的達成手段と結果=目的が一対一に対応しており、且つそれで完結している(遡及的・波及的乃至は複合的な因果関係がない)ならば(少なくともそうだと一般的に信じられているならば)、目的を欲すれば目的達成手段を手中にして置けばよいと言える。しかし、一方では科学の進歩、他方では複雑化した社会の網状組織の進展によって、社会の因果連鎖は複合化、無限化しつつある(ことが認識される状況)に至っている。ある事象が複数の原因の複合的結果であるとか、ある原因が更なる遡及的原因を持つとか、ある結果が広く遠く波及的結果を惹起するとか、総じて外部経済論や社会関連会計論に象徴される事態となっている(ことが広く認識されるに至った)わけである。ある原因=目的達成手段を供給しているが故にある結果=目的を独占している人は、その手段と複合的に作用している原因や更なる遡及的な原因を供給している人々にも、これまで独占してきた目的=結果のうちで各人に相当する部分を還元しなければならない。又、自己の供給した原因が複合的・波及的に及ぼす諸結果に対して応分の責任を負担しなければならない。さもなければ、「前=法律的社会関係ないし前=法律的価値をそのまま承認してこれに法的保護を与えることを原則とする近代法」(川島、「民法総則」、昭和40(47)年、205頁)の欺瞞的なイデオロギー性は極限化していくであろう。市民革命によって現状を根底的に改変した上に施行された近代法であれば、この原則をそのまま承認してもほぼ間違いはないであろうが、果たして現実の社会的諸関係が十全に改変済みであったかが疑問であるし、まして市民革命を経ていない日本では、根本的に不当周延となっている筈なのである。対立の契機を専制的に潜在化させた上に現象してくる調和なり秩序なりを物神化しているに過ぎないという根本問題は未だ―少なくとも潜勢的には―続いている筈なのである。時代がかった前法律的社会関係は、少なくとも伏在しながら広く強く波及累積効果を及ぼし来たっている筈である。その波及し来る流れの何処に実定法が介入してくるかは、歴史的偶然や政治的力関係、そして因習的な思考類型などに拘束されるのであって、必然的に「正しい」段階が把捉されるわけではないのである。その問題性を修正・克服していくためには、単に偶然的に把捉された段階を表す実定法上の「権利」・「義務」にこだわらずに、広く深く遠大な前法律的社会関係の全体を探究していかなければならないであろう。そうした場に於ける力としての前法律的な[今風に言えば]権利[と観念されてしまう暴力]の発生・発動・機能・消滅を包摂する、より広範な諸関係を引照しつつ、真の法としての正義を探究していくならば、実定法上の法的関係に適正に反映され得ずに放置されている力関係(支配=従属関係)、不当利得、搾取と収奪が看取されてくる筈である。それらをも法的関係として適正に照射するならば、今現在債務者たらしめられている者が実は[少なくとも歴史的には、或いは、広範な社会的業績連関に照らして]債権者であって、当の債務を相殺できるに止まらずに、却って自らの債権を[当の、真相としては虚構の「債権者」に対しても]行使できるといった関係が浮かび出てくる筈なのである。そうすると、歴史的社会的諸関係全体を十分客観的に踏まえるならば、現在の債権債務関係はその[権力側に有利な]一部を虚構として浮かび上がらせている(それは、組織的背景をフェードアウトさせて単独犯に仮構する現行刑事司法の対応と酷似しているであろう。)に過ぎない、と言えるようになる筈なのである。少なく見積もっても、利子付きの消費貸借の実相に照らせば、本来的には、債権者たる者が自前で商売を行って利益を上げるべきところを、怠惰を決め込んでいる債権者に代わって、[不当にも]彼の資産に計上されている[本来的には]社会的な富[と言うべきもの]を生かすために債務者が汗をかいてやっているのだから、債務者は、その借り受けた金銭を経済活動で回転させることで得られる利益に対する応分の報酬を彼が支払う「利子」から相殺できる筈なのである。そもそも債権者にはその主張する額面通りの利子を取る正当化根拠がないのである。機会費用の考えを適用する究極の正当化根拠がないことは、本章の論旨に照らして(全ての個人を縦横に網羅するネットとしての・真の自由な金融市場があれば、ということである。)明かであろう。むしろ、利得を正当化するために機会費用の考えを用いざるを得ないほどの富とは、本来的には社会に還元されるべきものだったのであり、彼には相応しくなかったものなのである。金融機関には殆どコストがかからない。そのことは、預金金利の底ばいのほかにも、畜群が気軽に設営している090金融開設・運用の手軽さに顕現しているであろう。公定歩合が亢進しても金融機関が収受する泡銭もそれに増して膨満するのであるから、コストがかかるなどとうそぶくことは許されないのである。コストがあるとすれば、挨拶もできない古狸や「大きな組織」の指令に基づき業務妨害にも協働している黒縁眼鏡の女狐を飼い集めて疑似動物園を運用していることに起因するそれぐらいであろう。就中、自らその取引資金を浮き貸しした大口の麻薬取引が失敗したことに起因するそれが最たるものであろう。
不動産担保について、明治6年の地所質入書入規則(太政官第18号布告)は、「不可抗力による質地滅失は被担保債権を消滅させる。質地毀損は質地の価値減少に比例して被担保債権を減額させる(第12条)」(牧英正・藤原明久 編「日本法制史」、1993年、291頁)と規定していた。担保を差し入れた債務者の立場から見れば、不動産担保を設定したのは、担保不動産の―その都度変動する―価値に見合う限度で被担保債務に対する責任を負うという趣旨であり、幕末の動乱を経た当時の社会情勢に照らせば、それが条理に適うというのが当該規則の趣旨であったと解することが出来よう。債権者としても、不動産を担保に取ったからにはその担保価値の変動を甘受する趣旨であったと言えよう。(尤も、売り渡したわけではないので、担保価値が増額したからといって被担保債権も増額されるわけではないことは言うまでもないであろう。)そうであれば、担保物件の価値変動に応じて被担保債権[の価額]まで連動する―担保物件の価値が上昇した場合には、被担保債権の価額ではなく、融資可能な枠の価額が上昇することとし、担保物件価値が下降した場合には、被担保債権価額が減少する―とすることには合理的理由があったと言うことが出来るであろう。これは「担保物権としての未成熟」(同)を示しているのではなく、未来のあるべき正義の法を先取りしていたと言うべきであろう。この規則を今様に推及すれば、住宅ローンを消費者が組んだ後に担保不動産の価値が減少した場合には被担保債権の価額も減少しなければならない、と言うことが出来るのである。進取の気性に富む明治初期の大蔵省・司法省の有能な官吏は、未来に妥当すべき・かかる正義の法を先取りしていたのである。
尚、天保の改革以前に於いては、「利息付・無担保の金銭債権に関する給付請求」たる「金公事」(同、241頁)について「債務の一部を弁済すると残額について長期分割弁済(『切金』)が認められ」ていた(243頁)とされる制度も復活すべきであろう。社会的寄生虫と言うべき金銭債権者の勢力支配をこそ制圧して債務者側の生活形成の自由を回復しなければならないからである。そのためにこそ、古き良き法を生かすべきなのである。
ここで、勢力支配に関与している金融機関に限らず、企業舎弟として設立されたわけでもないのにそうなってしまう企業も含めて、《enterprise syndicates》が形成される背景としての組織構成の在り方について述べる。組織のトップが腐っている場合にはそう成り易いのは見易い道理であるが、それこそが鼻からの《enterprise syndicates》、或いは企業舎弟であって、ここでは度外視し、むしろ下部成員が他の成員と通謀して組織内に非公式組織を形成する場合や、下部成員がその帰属する組織とは別の組織や別組織成員と通謀して組織をまたぐ形で非公式組織を形成する場合を採り上げて、かかる背景が形成される組織上の基を探ろうとするのである。そうした場合には、それに関与する成員が表向き帰属する組織に忠誠心を持たない場合も多いであろう。しかし、全体経済が不況下にあっても、かようにして形成された悪の枢軸がそれなりに活況を呈していれば、組織のトップも含めて組織全体として犯罪へ傾斜していくのは見易い道理であろう。さもなければ、トップが率先してかかる枢軸形成を阻止した筈なのである。かくして組織全体が犯罪へ傾斜すればするほど、枢軸形成を主導した成員も組織に「忠実」になるわけである。他面、忠誠心に溢れているために、その帰属する組織の犯罪(外部経済上のそれを念頭に置いている。)を隠蔽工作したりする場合もあるわけであるが、この場合には、組織に忠実であっても、当の組織が既にして犯罪へと傾斜しているわけであるし、その成員の個人としての自負心なり自らの主権性に対する配慮、或いは公民としての資質に問題があった筈なので、ここでは除外することにする。まず、組織体全体の運営としてはうまくいっているかのように見える場合に於ける組織成員の一般的な境遇について纏める。
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成員の自負心 |
仕事のレベルとの関係 |
不満・要求 |
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(a) |
自分には能力があり過ぎる。 |
今の仕事はレベルが低すぎる。 |
もっとレベルの高い仕事とそれに見合った高い給料が欲しい。 |
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(b) |
自分には能力がある。 |
今の仕事は鼻歌混じりでも出来る。 |
こんな楽な仕事でそこそこの給料が貰えるなら、現状こそがベストだ。 |
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(c) |
自分には能力があるかどうかははっきりしない。 |
今の仕事はレベルが高い。 |
精一杯頑張ってついていけることに充実感を日々覚えている。 |
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(d) |
自分には能力がない。 |
今の仕事はレベルが高すぎる。 |
生活のためとはいえ、疲労困憊している。 |
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(e) |
自分には能力があるかどうかは気にならない。 |
今の仕事のレベルについていく積もりもない。 |
仕事をしている振りだけをして、他事に専念している毎日だ。 |
(a)には転職か昇進が必要である。或いは、組織内作業工程を改善する必要があろう。さもなければ(b)や(e)に転落する可能性もある。組織内部を改革すると、(b)が(a)や(c)になったり、場合によっては(d)や(e)に転落することもあり得よう。さもなくとも、(b)に対しては労働強化が必要であろう。(c)に対しては、金銭的なものに限らずとも「努力賞」とより一層の能力開発が不可欠であろう。組織内に於いて常に(c)が最大数を誇っていることが組織運営としてベストであろう(それによって組織体として何を社会に供給しているのかも問われるべきなのは言うまでもないが。)。(d)が多いことに照らせば、組織内作業工程の配分や編成などに問題がある筈なので、早急に改善すべきであろう。幹部が自分では何もやらずに下部の達成した成果のみを独占しているなど、全てが下部成員に押しつけられているときに(d)の数が増え易いのである。又、(d)にも単なる休養を越えた能力開発の機会が与えられるべきであろう。(e)の専念する他事が趣味の域にとどまるならよいが(それにしても組織全体から見れば無駄となっているわけである。)、組織内外の不良分子と接触を重ねるにつれて犯罪の共謀へと傾斜する危険性が高いわけである。かかる危険性の兆候は、自己の職務と関係ない組織内成員や自己の職務と関係があってもなくても組織外成員との関係を表示する対応が見られるところにあるであろう。そこに分極の偏差が滲み出ているのである。(a)から(e)まで万遍なく分布している組織は無理・無駄・むらに被覆されているのである。組織内の人事異動で分布状況が一時的に変わろうとも、又一定の状態に戻る場合には、間違いなく組織の在り方の問題と判明するわけである。(c)から(a)、或いは(c)から(d)に傾斜する成員分布が増すにつれて、組織全体としての業績達成も貧相化していくのである。だから、組織内の在り方の改革は急務なのであるが、上述したとおり、それ自体が新たに(a)から(d)に亘る成員の分布状況に影響せざるを得ないのである。
かかるジレンマを克服するための一里塚として、組織が成員を最短でも9時から17時まで拘束する(或いは、組織が拘束されると言うべきかも知れない。)という因習を対象化してみたい。産業革命は、それまでは熟練工を不可欠とした作業行程を細分化・単純化して、婦女子でも作業可能にしたという側面を持っていたであろう。その理は、いわゆるデスクワークにも妥当しなければならないであろう。細分化・単純化された仕事は各成員の<cell>で遂行されるわけだが、既にして<portable>である仕事をこなす<cell>は自宅であってもよい筈である。機密が保持され得るかとか、成員間のコミュニケーションの円滑さ―これに人生の拠り所を求めている成員もこれまでは多かったであろう。―に支障を来さないかという問題が残るが、前者は別の技術上の問題であり、後者はそのために別途の機会を設営すれば足りる筈である。そうなれば、例えば、ある人は、午前中は組織Aでの業務を自宅でこなし、昼過ぎは組織Bの販売促進に関与し、帰宅して昼寝をしたあと、深夜に亘って組織Cの会計処理をこなすといった場合も想定できるのである。それは、各組織と各個人の種々の都合の合成によって構成されるであろう。ここで、かかる構成を公正に媒介し得る条件を考えてみる。
l 各人が確実に平均以上の能力を開発済みであること
そのためには、単一学部卒では意味を成さず、幾つかの学部を卒業して一人前という時代が来なければならないであろう。その前提として小中高を連続して再構成し、無駄を省かなければならないと同時に、教師の資質の格段の進歩向上が求められるのである。暇つぶしにうつつを抜かす教師が溢れている趨勢は除去されなければならならないであろう。ましてや、暴力親和的対応をもっぱらにする教師は徹底的に排除されなければならない。
l かかる市場に提供される(とりわけ個人の能力に関する)情報は真実と合致していること
それは単なる「資格」などではない。資格社会の到来は、金と暇を持て余す階層に労働力市場さえ寡占支配―イギリス産業革命期の二重雇用制のような間接的なものも含むに到るであろう。尚、その弊害は族生する人材派遣業を舞台に今後噴出して来るものと推定される。―させることに連なる弊害も持っている。資格取得過程に於ける不透明な選考に潜む《Selektivität》を足場に公権力(種々の組織暴力を典型とする多数の畜群を動員して構暗活動を展開しているところが中心的役割を果たすものと推定される。)が介入して撹乱・操作してくる危険性は亢進する一途を辿るであろうと危惧されるのである。だから、情報の真実性という条件を資格社会化の徹底によって事前に担保しようとするばかりではなく、事後的に実効的に補償させる―「資格」に見合わない失態を演じた者が出た場合には、当人に補償させるばかりでなく、選考過程を全て公開した上で、そこに関与した者全員に応分の責任を負わせる。それを通して始めて選考過程の透明度も高まるであろう。―体制化も重要ではないだろうか。
l どの組織もどの個人も漏れなく自由に参加できるということ
参加を妨げられたとか参加できなかったとかいうことの立証責任は市場の管理者に負わせるべきであろう。)
l 健康保険や年金は国民健康保険と国民年金に一本化されていて、特定組織への従属状態からの離脱に対する憂懼がないということであろう。
尚、心身障害者と言われる人達は、その障害の故に、ある側面に特化して健常者以上の能力を発揮できるであろうから、それをネット上で組織化すれば、業績給付能力が格段に高い企業が成立し得るのであり、近未来的には障害者こそがもてはやされる時代が来ないとも限らないであろう。(産業革命期の婦女子は―それは徹底的に搾取された例であるが―こうした障害者像を前哨していたであろう。)
総じて、前述したような、「金融」機関の独占・寡占に汚染されていない・全ての個人が参加できるネット上での真に自由な金融市場と表裏して、誰もが<employer>であり、誰もが<employee>でもあり得るような市場が確立したならば、上記のジレンマは日毎に(日給・時給が当たり前になるであろう。)解消されていくことになるであろう。
そうなってさえも、《enterprise syndicates》が形成され得るかという問題であるが、かかる組織の兆候は、その業務が表と裏に乖離していることにある。かかる乖離を生む余地を残す無駄があるということでもある。お茶を飲みながら新聞を読んで一日を潰している多数の県庁職員、議会開会中であるにも拘わらず議場を離れて(自ら収賄した者に纏わる)公務員人事に凄みを効かせながら容喙する県会議員、110番通報に対して電話応対だけで済まそうとする(事件はなく天下泰平であると仮構しようとする)警察官、人相の悪い営業マンがたむろしていて、販売に意欲はなく、深夜にもっぱら暴力行為に勤しんでいる自動車販売会社、毒入り食事を提供する百貨店、「大きな組織」の防衛のために各種の謀略的犯罪に特化している警備保障会社、暴走族の溜まり場であり、カード詐欺にも特化しているガソリンスタンド、詐欺・恐喝や管理売春などの常習者の溜まり場であるばかりでなく、ポルノ女優や売春婦の顔見せ場も兼ねるファミリーレストランなどの典型例に照らせば、その本来の目的から乖離した業務に勤しんでいることが共通しているのである。多忙を極めているようでも、実相としては、本来の組織目的(それが<to profit from crime>であるならば、立派な犯罪企業になるのだが。)から外れた「業務」の故の空騒ぎでしかないのである。そうした腐食をもたらす背景は、暇つぶしの体系化としての業務処理系列・責任逃れの体系化としての人員組織機構にあるであろう。そして、そうした組織のトップは妾宅にしけこむのを常態としているのである。組織内的にも、組織外的にもかかる無理・無駄・むらを省いた社会が現出するならば、《enterprise syndicates》が形成される余地は少なく、あとはもっぱらそれに関与した個人の資質の問題に還元されるのではないか、と思われるのである。そういう意味では、市場化・自由化が(上記の諸前提の下に)極限まで推進されたならば、個人主義も一層強固に確立され得ると言うことも出来るであろう。問題は、個人主義や市場化・自由化などが表面的に仮構されたものとして(実相としては、独占・寡占の一層の強化として)唱導されているところにあるのである。
貸し手が有利な地歩を占め得る根拠は、金融市場の狭隘さにある。そして、その狭隘さは、暴利を貪ろうとする・種々なる金融機関を核として支配体制内の一部勢力も巻き込んで構成された事実上の勢力より成る疑似カルテルに淵源しているであろう。この脈絡に於いて、公的な規制はむき出しの悪徳業者の族生を防止しようとする正当性を持っているにしても、それを踏まえつつも貸し手市場を狭隘化しようとするものでもある出資法第二条には重大な問題があるように思われるのである。そもそも、本来的には消費貸借は無利息を原則とすると読むべきなのである(民法第五百八十七条の「同シキ物」)。又、真に「国民経済の民主的で健全な発達を促進」(独禁法第一条)しようとするならば、金融関係を遍在化させることによって社会的業績連関のパイを拡大再生産していくことも図られるべきであろう。そのためには、少なくとも差し当たりは、例えば、郵便貯金の預け入れ限度額を撤廃して潤沢な資金を集め、各郵便局長の裁量によって、小口低利融資を広範に展開させるべきであったのである。民間の「金融」機関は、金融の名に値する業務を適正に遂行する能力も意欲も失っているからである。もしそうした能力や意欲があったならば、そもそも不良債権問題は生じなかった筈なのである。
尤も、バブル経済の発生から終焉に至る過程は、通貨管理を動脈とする日米両政府の共謀によって展開された壮大な組織犯罪という側面も持っていたであろう。だからこそ、当局者は、<new poor>の族生と富の局所集積という壮大な矛盾の亢進を当然視して憚らないのであり、しかも、市場化の亢進が犯罪の蔓延を駆動付けていることに口を拭っているのである。
この点を踏まえれば、民営化は金融市場の《Selektivität》を尚更に亢進させようとするものでしかないと判明する筈なのである。もし、金融関係の遍在化が推進される一方、低利化乃至は元本放棄という方向で消費貸借が本来の形態に復帰していくならば、高利貸しは、その法的権能も、それと「照応する事実上の勢力」(アントン・メンガー「労働全収権史論」、森田勉 訳、1971(1972)年、170頁)も喪失して淘汰されていくと思われるのである。そして、「不正権益」の重要な核の一つが消滅していく筈なのである。