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=子供の領分について=

   幼児期の環境は、

(a)子供自身が自由に構成できる領分

(b)親の協力を得ないと自由にはならない領分

(c)親の決定に委ねるべき領分

の三者に分類できると言えるでしょう。(託児所などでは「親」の代わりに保母さんなどがその立場に立つわけです。)それぞれが、時間的(子供の成長などに応じて)・空間的(子供の居場所の変化に応じて)に遷移していくでしょう。

  (a)は、実際に子供の力で自由に構成できるし、そこに危険性は潜んでいない領分と言えるでしょう。尤も、子供の非力さを前提すれば、子供の自由な構成と言ってみても、より大きな枠組みの下に捉え返せば、それ自体、親の側が事前に体制付けておいたものである場合が多いでしょう。この事前の体制付けが意味を成さない子供は、何をやり出すか予測がつかないという意味で、親の側の絶え間ない心労の種(ひとときも目を離せないとか)となるわけです。

  (b)は、子供だけの力ではどうにもならないとか、子供だけでも何とかなるが、そこには危険性が伴う領分であると言えるでしょう。

  (c)は、親が子供に協力を得て構成してはならず、親自身が単独で決定すべきである領分とか、子供に関与させることがそもそも危険である領分とかを意味します。

  尚、危険性には、子供本人にとってのそればかりでなく、周囲の子供や大人にとってのそれも含まれます。又、生命体として被るかも知れないそれ(けが・病気など)ばかりでなく、社会的存在として被るかも知れないそれ(非難とか、法体制によっては刑罰など)も含まれます。更には、直ちに被る危険性ばかりでなく、時間をかけて浸潤してきて露見するような危険性(有機水銀を多く含む魚類を食し続けた結果、聡明だった子供に異常を来す、などといった例が想定されます。)もあるでしょう。

  本人にとっての危険性であっても、それが危険なのだと判断する者が本人以外である場合には、判断者の側の(子供本人の利益と対立する)利益のために「本人にとっての危険性」を僭称しているに過ぎない場合が想定されるのであり、まして、本人以外の者達にとっての危険性を口実に本人に帰属すべき領分へ容喙するのは許されない筈なのですが、そうした《paternalism*[i]は枚挙に暇がないと言えるでしょう。

  総じて、幼児期には、親の配慮がこの上なく重要であり、諸学に通じていることさえ親には要求されていると言えましょう。

この点で、日本の義務教育が、その指針とする指導要領に照らしてみても、将来親の立場に立った時に要求される知識を伝授するという本来的な需要に答えているとはとても言えないことは明らかだと思います。自律的に生き抜く力を養成するどころか、種々の領域に於ける出来合いの「権威」に盲従せざるを得ない境遇に放擲しているだけではないでしょうか。heuristicな視点の養成問題解決のための道筋の俯瞰は、[必要最小限度に於いてであれ]自律的に生き抜く力を要請すべき義務教育に於いては不可欠である筈です。

  成長するに連れて、それぞれに於ける「親」の立場を種々の「他人」が取って代わる場合が増えていき、学校生活に於いては、この「他人」が「先生」とか「友達」とかに細分化していきます。学校での行為規範は先生の指示するそれに準拠すべきであるとか、友達の家に遊びに行った場合は友達の家のそれに従うべきであるとかいった事例が想定できます。

  そして、成長するに連れて、自律の足場であり創造力の基盤であるものとして(a)の領域を拡充しつつ、他律される領域である(c)の領域を可及的に縮減していって、(b)という協働領域に改変していくべきでしょう。更には、(b)の領域として現れて関係者の協働を必要としていたものが、実相としては(a)に帰属すべき領域であったことが判明して、(a)の領域に組み込まれていくといった事態も想定されます。総じて、(a)の拡充・(c)から(b)への(場合によっては、更に(a)への)遷移という変化が、人格の全面発達と言われる変化と表裏するのではないでしょうか。特に(c)の領域を極小化し、(b)の領域での協働形式を民主化しつつ、《heuristic》な視点の進歩向上によっては、それまで(b)に帰属するとされていた領域をそれが本来帰属すべきであると判明した者の(a)の領域へ可及的に遷移させていくべきでしょう。各人の(a)の領域の豊穣化が個人の尊厳を実体的に定礎し、それに基づいて真の創造力が発揮され、平等問題が仮象問題として―さもなければ、平等問題は現実を規定付けている体制的問題のままにとどまります。―極小化されていく道筋が見えてくると思われます。

  (a)に関連して卑近な事例を挙げると、地方から上京して学生生活を送る多くの方が四畳半生活を余儀なくされ来たったという戦後日本の状況こそが、(欧米から批判されるような)日本の創造力の減退に何ほどにか寄与していたことは否めないと思います。尤も、大学キャンパス内にテントを張って自活しつつ勉学に励み、後に連邦最高裁判事になって著名な判決をたくさん残した人もいましたから、そうとばかりは言えないのですが、ここでは平均的な学生像に照らして述べているわけです。(a)の領域は、その人のかけがえのない固有性―それは社会的交流を経て成される絶えざる可変性を帯びているとしても―を表現するものとして《property》と(この語の本来の意味に於いて)呼ぶにふさわしいと思います。実生活上に於いて捉えれば、まさに「財産」が基幹を成しているわけですが、それにしても何を以て「財産」とするかについての既存の枠組みに囚われていてはならないでしょう。例えば、私が構成する空気の振動(音声)、私がそのありように応じて構成した光の反射具合(姿態)も私の財産であって、それを盗聴・盗撮した側の財産になってはならないと思います。又、ホームレスの方のなけなしのずた袋を盗む所為は、億万長者の下から(盗まれた当人の視点から見て)たかだか数億円程度(に過ぎないと見なされる量)の貴金属を盗む所為に比して、尚更に万死に値すると思います。かく理解された体制の下であって初めて、その持つ財産の大小に拘わらない自律とそれに対する平等な尊重ということが観念され得る筈です。この脈絡に於いてのみ、(通常の理解に基づくそれも含めて)《property》というものはこの上なく重要であると言い得ると思います。その防壁は消極的自由権です。自由は、民主化を単なる多数派の横暴に貶下しないためにも不可欠のものであると言うべきでしょう。

一票の価値に見られる地域差さえ拡大・承認されつつある趨勢に照らしてみても、「多数派」と称するものが、実相としては、少数派である場合が多いものです。いろんな分野に於いて、真の多数派を構成している人々の声を政治的・経済的・社会的な種々の相に於いて国民の声としてcountしないというexclusion》が体制化されていること(この点でマスコミは大きな役割を果たしているでしょう。場合によっては、多数派の声をかき消すために真の少数派の声を声高に喧伝しているのです。裁判上は、請求棄却ではなく、訴え却下によって、そもそもの声さえ審理して貰えない場合が多いでしょう。)に依拠してのみ、真の少数派は「多数派」を擬装できるのです。猿ぐつわを咬まされ、手足をもぎ取られた・真の多数派たる「少数派」は、そのリソースと情報を集積して組織を形成する道筋から疎外されているのです。更には、自ら持っている潜勢的な活動能力に対する知覚そのものさえ歪められて来ているのです。社会問題とされるものも《他人》の問題と映じてしまい、自らに押し付けられている体制論理に基づいて、その視野から排除して顧みようとはしないのです。その脳裏は、せいぜいのところ、政府公報のコピーに過ぎないマスコミの論調で飽和状態に押しとどめられているのです。かかる体制的な《Selektivität(Claus Offeによる。選択制とでも訳すべきか?)を告発し得るものとして自由を再構成すべきでしょう。

尤も、民主化を批判する側は、多数人をそこへと巻き込んでいるような・仮象の(a)の領域―典型的には外部経済の問題を想起―に対して、そこへと巻き込まれた人たちからの批判を封殺するために、「自らの(a)の領域へ容喙するな」と強弁している場合が多いのであって、(a)の領域に帰属するかどうかも慎重に吟味しなければならないと思います。

  (b)の領域は、そこに関与する者達が協働する領域であり、総じて民主化や手続的正義、自然的正義が妥当すべき領域でもあります。尤も、そこに纏わる議論の中には(a)の領域に属するかどうかの問題と混交しているものも多く、それが民主化問題を複雑にしていると思います。(かつては(c)の領域に帰属すべきかどうかが争われました。)又、如何なる手続を設営すべきかという点については、単純多数決を認めるものから個々人に拒否権を認めるものまで種々に考えられます。各人に拒否権を認めては、政治は一歩も立ちゆかなくなりそうではあります。しかし、だからといって何らかの多数決を採用するためには、その大前提として、利害や意見の対立する複数当事者の間に多数決を妥当させても良いような共通項(例えば、議会制であれば、かつては、共にBesitz und Bildung(=財産と教養)を持つ者だけが選挙権を持つという前提の下で言われたところの社会的同質性という階級的なものが想起されます。)があるか、という問題を議論しなければならないと思います。(尚、ここで社会の斉一性と言うべき広義過ぎる原理を措定することは、余り意味を持たないでしょう。同じ日本国民である、などの類も同様です。)「少数派」は真理を見誤っていたのであると断言し得る根拠があるかということです。そう考えれば、学問・芸術・生活スタイルに到るまで、多数決は妥当しない領域の方が遥かに広い筈です。どんな分野でも、今の少数派の中には未来の多数派が含まれている筈であり、多数決に引きずり込むことで以て未来の多数派を未来の少数派がねじ伏せて歴史から抹消してしまうことは許されないと言わなければならないのです。政治の問題であっても同じ論旨が妥当する筈ですが、そればかりでなく、それが対象とする事態を広い枠組みの中で捉え返して、問題の実相をより掘り下げてみれば、多数決でごり押ししない解決法が見つけられる場合が多いのではないでしょうか。ごり押しされる側の生活基盤を奪う手法に頼るよりも、ごり押しする側の[生活上その他の]余剰を寄せ集めて対処する方が望ましい場合が多いと思います。両当事者のどちらの意見を採るかを急ぐよりも、そうした手法を探索し得る第三者の立場が要請されるわけです。だから、理性的・建設的な対話を拒みたい方こそが多数決に走りたがるのです。(この点は、戦後に累積された強行採決によって強力に例証されているでしょう。兎も角も「決定」してしまえば、その決定に基づいて展開される「政策」によって、強行採決されなければ論議されたであろう政策を国民ばかりか当の野党にとっても視野から失われたものに転化してしまうわけです。尚、戦前は、そうした政策は議会に上程されないような社会体制が強力に構成されていたので、政治屋の利権争いを除けば、強行採決の必要はなかったのです。)上述のこうした諸前提が満たされて初めて、しかるべく構想された民主的な決定に委ねられることになるべきです。

  (c)の領域は、一方の側がhoheitlichに(=上から押し付けるように)決定付けるもので、民主主義とは本来この領域に妥当することを目指して主張されたものです。(c)の領域とされたものが(b)の領域に帰属すると主張されるようになったことが背景を成しています。(c)の領域に帰属するとされていても、そこに本人が巻き込まれている事情に変わりはなく、「決定権者」の専横に委ねるべきではない、とされるようになってきたわけです。精神障害者や囚人に纏わる諸事情の決定付けについても、精神科医や看守などの専横に委ねるべきではないとされるようになっているでしょう。

  子供の領分の話からだいぶ外れてしまったようです。しかし、上述の論旨は子供の領分にも妥当すると思います。

  まず乳児の段階では、全ては(c)に帰属すると言えそうです。尤も、ほほえみや泣き声といった働きかけに適切に対応していないと、その最初期から人との交流を知らずに育つことになりますから、無力感がいわば刷り込まれてしまったり、強度に攻撃的な態度を持つようになったりするかも知れないでしょう。

  幼児期に於いては、大きな枠組みの下でその自発性が発揚できるように(a)を構成しつつ、(b)での協働形式を―家庭内に於いて―より良く学習すべきでしょう。無前提に集団生活に慣れさせようとするのは、我が子を畜群として養成する元になるだけです。正しい協働形式を学ぶことが先行しなければならず、それがあってこそ、例えば中学生になり、自我意識が発達した段階になって、親から見て隠れた学校生活上の問題に起因して災いを招いたり、災いを被ったりという悲惨な結末を事前に(親の側も)察知して防御できる筈なのです。協働形式の学習が事前に十分に先行してこそ、「孟母三遷」を活かす余地も生まれるのです。それがなければ、孟母であっても子供に纏わる諸事態を掌握することが出来ずにほぞをかむ結果となるでしょう。又、就学前という・諸行事に拘束されない段階に於いてこそ、充実した家庭学習が可能なのです。言語障害児とされた子供でも、三歳前後には小学三年程度までは学習可能なのですから、まして健常児とされていれば、就学前に小学校の(教科書程度の)学習課題は殆ど全て習得可能である筈です。より大きな枠組みに於いては[親などによって]体制付けられたものであっても*[ii](a)の絶えざる拡充を図りつつ、(b)での協働形式の十全な学習を積み重ねていくならば、上記の家庭学習と相俟って、万般に亘ってheuristicな視点が養成され、種々の問題解決のための道筋が広く・遠く俯瞰し得るようになりますので、更に進んで、(c)を当然視せずに、主体的にそこへ関わっていこうとして努力する態度を醸成できることにも連なるわけです。

  総じて(c)→(b)→(a)への遷移という運動は、就学後もたゆまずに進展されなければならないでしょう。*[iii]学習面に於いても、得意科目は出来るだけ独立達成方式に依拠する環境を整え、不得意科目は当初は追随達成方式に依拠していても、徐々に独立達成方式に移行できるように配慮すべきです。

  少年に纏わる問題症例の全ては、その成長期の環境が、上述来の観点に照らしてみて、如何に構成されていたかという問題に還元できる筈です。そこまでさかのぼることによって初めて、その少年にとっても明るい道が開けてくる筈です。浪人とか失業とかが社会に蔓延している現代、そこで開けてきた明るい道が遅すぎるということはないでしょう。


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*[i] これは、家庭内ばかりか、学校や会社、果ては病院、刑務所など、広範に問題を掘り返すのに役立つ指標ともなると思います。例えば、《informed consent》というものは、医療に纏わってこれまで勢力を行使してきた《paternalism》に風穴を開ける標語となっているでしょう。嫁−姑問題にしても、嫁[姑]が姑[嫁]の(a)に容喙するところに端を発しているならば、かかる嫁[姑]の所為は姑[嫁]の自律権を侵害するものとして非難されるべきなのです。

*[ii] 問題は、学校を始めとして、社会体制上、(a)の拡充が―かけ声とは裏腹に―図られてはいないというところにあります。そもそも子供の安易な序列付けも「長いものには巻かれろ」という悪習を子供の脳裏に刷り込むだけなのです。序列付けるならば、各人の努力の足跡に照らして行うべきでしょう。つまり、各子供にとっての「敵」は[過去の]己であるという序列付けです。各人の「成長率」を基準にすべきであるとも言えましょう。そう出来ないのは、学校という体制側に子供を成長させ得るという自信がないからではないでしょうか。尤も、我が子の問題を体制問題に移し替えて放擲するわけにはいかないですね。それにしても、我が子の成長率を基準の一つとして家庭学習を指導することは究めて有益である筈です。成長率の変化を絶えず微視的に捉えていけば、各科目や各分野が当人にとってどう相関しているかも見えてきますから、より有効な対策を講じる手立てに成る筈です。望ましくない態度・習慣に関しても、こうした対応をしていけば、講じる対策の有効性は増すでしょう。母親は総理大臣であり、文部大臣でもあるべきです。心底わが子を思う母親ならば、余り「お出かけ」をしている暇はない、ということにもなると思います。統計をとり、深く読み取るなど、やるべきことは山ほどあります。

*[iii] それは、成人しても、老齢に達しても、継続されるべきだと思います。最近喧伝されている生涯学習が真の意味を持つとすれば、単なる物知りを目指したり、暇つぶしを代行するのではなく、上記の運動を尚更に進展させるものとして機能しなければならないでしょう。

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