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他者との交流について

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引きこもりやリストカットなどについて述べてみても、実際に痛々しい状況にある方の愁訴を見て回ります(楽天日記を元にしています。)と、もっと広く、人と人との交流そのものを掘り下げなければならないかなあ、と思っています。そこで、他人をどう理解して交流するのか、という角度から以下に述べることにします。今日は、交流以前の段階の問題について、以下の表題で述べようと思います。

=交流以前の他者理解のあり方について=
俗に積極的な人と言われる場合、自分が作り上げた相手像―それが相手の実相に符合していればいいのですが、そうではなかった場合に問題が発生するわけですね。―を固化したままに、相手との交流を強引に推し進めてしまう人である場合が多いでしょう。「君はこういう人なのだ」と勝手に決め付けておいて、だから「こうしなさい」とか言ってきて、もしそうしないと、「何だ、あいつは」と怒り出したりするわけです。これが夫婦間だと悲惨な結末を迎えるわけです。ただの友達ならば、別れればいいわけですが、回り中のみんながそういう対応を採ってきた場合、丸ごと誤解されまくっている当人としては立つ瀬がなくなってしまい、却って自分の方が「悪い」「身勝手だ」と非難される羽目にもなってしまうでしょう。

自分の方から「そうではないんですよ」と説得しようにも、説得するための接点さえ、相手側から閉鎖されてしまう場合が多いでしょう。「相手側の言い分も聞け」という自然的正義が失われている社会は《exclusive society》と言うことも出来るものであって、一枚岩のようでも、中には種々の亀裂を潜在させているものなのですね。もし、そうした社会に閉じこめられているならば、その非難される「自分」を演じることになってしまいがちでしょうね。
回りが決め付けることで、実際、その決め付けられた自分像を演じてしまう、これこそが悲劇でしょう。

だから、回りが何と言おうと、「百万人あるとも我行かん」とか言うような孤高を保つ姿勢を固持すべきなのです。自分の、たとえ如何に狭小であっても、その足場にしっかりと根を下ろし、「栄華のちまたを低く見る」勇気を持つべきでしょう。正義をわきまえない畜群にまみれる必要はそもそもないのです。孤立結構、孤独万歳、引きこもり立派、これでいいじゃないですか?あのGiordano Brunoと共に、群れたがる畜群にではなく、
孤高を保つ個人にこそKosmos(普通に言う宇宙よりも広く全体性という意味でしょう。)が圧縮されて投影されているのだという矜持を持つべきです。その高みに登り始めたならば、畜群の汚物が漂うヘドロの海の中に、同じ高みに登り始めている幾多の真の人間を見出すことが出来、高みへ向けた上昇の旅を共にすることが出来るはずです。

逆に、積極的な人は、勇み足にならないような慎重さをわきまえなければならないでしょう。
「この人はこういう人なんだ」と判断した根拠は何だったのか、そう判断した「自分はどうだったのだ」、これらを絶えず慎重に吟味すべきです。その深化が、自らを覆っていた幻想の暗雲を取り払い、当人との真の和解に進むことになるはずなのです。