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淀君の墓は、明治10年、要するに徳川幕府瓦解後,大阪、太融寺に改葬されて今にいたる。 家康はその後、秀吉の墓も暴き,秀吉から、神として祭られてるのを引き摺り下ろし、そこまでする 必要もないのに、破壊し尽くした。秀吉に忠誠を誓い、秀頼をひきたてるという約束もにぎりつぶした。 350年も大坂城の土の中で眠り、たぶん、大阪から出ることなく死んだ秀頼、あわれというしかない ものであった。 家康は、小心ものであったのか?家康自身自ら尊敬する武田氏の滅亡、今川氏の滅亡、織田政権の滅亡、哀れとしかいいようのない短すぎるそれぞれ、そして今滅亡させる豊臣家。徳川側として、いかに政権とういものはもろいものか、痛恨として認識していたのだろう。
いいがかりの、方広寺の鐘の文句である。これも京都五山の名僧たちがからんでいるのだが、このお寺もそもそも、建物道楽の秀吉が奈良の東大寺に対抗し、京都に作った馬鹿でかい大仏殿のお寺であるが、雷や不審火などで火災にあい、立て直すように家康に言われ、作ったところ、言いがかりをつけられたものである。 「国家安康」「君臣豊楽」という文字である。確かに、家康というをさいて、国は易しとよめ、豊臣が君子となりたい、と読める。
1. 秀頼の江戸参勤 2. 淀君の江戸城に人質としてだす。 3. 大坂の領地がえ、大和に移る。 いずれかを、選べとつきかえした。条件では、前田家の松殿も15年江戸城に軟禁されたのであるから我慢すればできぬこともあった。のんだかもしれない。 しかし、家康は、賢い。というか、老獪である。 後できた、大蔵卿の局にはまったく違うことを伝え内紛を期待したのである。 淀君にもプライドがある。片桐且元は家康の回し者とし、追放し、条件をすべて拒絶したのである。
1. 天下統一を果たした秀吉の家来であった、家康に対し、プライドが許せなかった。 2. 大坂城は要塞としては、当時不落とされていた。 3. 家康は城攻めは不得手で野戦でしか、力を発揮できない。大坂城を干し上げる間にも豊臣家に対しての後ろめたさから家康に反抗するものがでて、家康自身も老齢で、彼亡き後は政情不安におちいる。 4. 豊臣家には財力があり、関が原で負けた浪人たちを引き入れる力があった。 5. 秀吉恩顧の大名たちが加勢にくるはずと思っていた。
家康は、秀頼を亡き者とするには、関が原直後とせず。なぜ15年も経ってから実施したのだろうか? 秀頼を残すつもりであったのが、二条城会見のとき、あまりにも立派に成長した秀頼をみて愕然年不安になり、滅亡を図ったのであるともされる。 でないと、大切な千姫を輿入れさせないとおもうのだが、しかし、千姫の御付の人間たちはスパイであったとされる。大坂城の中のことはつつぬけであったのだ。 信長の天下を秀吉が得た時点で、天下は回りもちという一般常識があり、その常識が豊臣家には存在しなかったのかもしれない。
考えてみると、豊臣家は中世から近世江戸時代の地ならしのために存在し、数多くの戦乱で疲労して国土は安泰に世の中を収めてくれるリーダーを求めていたのかもしれない。 関が原の戦いの後、なぜ大坂城をおとさなかったのか、それはまだ、機は熟しておらず。豊臣秀吉恩顧の大名。加藤清正、福島正則が存命であり、関が原の戦いが、石田三成の私戦としていたからで、だまし討ちをさせる時間かせぎだったのだろうか・・・
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