(1568-1595)

 

PHP新書の、小和田氏の豊臣秀次を参考にしています。

  • 安土桃山時代の武将。母は秀吉の姉日秀。翹(しず)ヶ岳の戦い,四国・小田原攻略で戦功をたて,91 年秀吉の養子となった。のち関白。秀頼誕生によって高野山に追放され,自害を命ぜられた。
  • 殺生関白と後世に言われ、悪名を着せられているが、近年の研究により悲劇関白となりつつある

秀吉の天下統一のために、利用された「悲劇」のひとかとしれないと・・・

小和田哲夫静岡大教授によれば、秀次は仕組まれた謀反事件にはめられ可能性がおおきいらしい。今、イトウヨーカドウ。や、伊藤忠など、伊藤とう言う名は、近江商人のあかしである。日本の経済支え発展させていったのは、彼らである。近江商人はいろんな地域に指し示されているが、秀次が近江八幡に城を築き、町割を行い、安土で信長が行った経済施策「楽市楽座」を引き継ぎ、本能寺の変で、信長が討たれ、その後、安土が廃れていく中で、近江八幡に呼び寄せ発展させた。日本の今日の経済の発展の元祖である人間が、こういう形で、語り継がれているのはおかしいと弁護する。

秀次は、教養人で文化人であり、謀反を犯すような人間でない。前田利家もそう述べている。

  • 秀吉の姉の子にうまれたおかげで、まず、秀吉に召し上げられる。
  • 近江の武将、宮部継潤の養子にさせられる

信長の浅井攻めにおいて、小谷城を落とすのは至難を極め、秀吉は浅井城の支城、宮部城の主で、彼もまた、養子であった。人たらしの秀吉に。寝返り工作を受け、日に日に信長軍が強くかち始めたので、寝返りの約束で、秀吉の人質として、養子を迎え、秀次はそこの養子扱いとなったのである。後に中国攻めにおいて、宮部継潤は従軍し、後に鳥取城に収まる。秀吉は、この浅井攻めに評価で、北近江の領地を信長より拝領し、秀次を役目が果たした時点でもどしているようだ。

  • 三好康長の養子になる。

信長の四国戦略において、長曾我部氏が勢力を伸ばし、四国統一の強さを見せ、三好氏が阿波鳴門の領土の庇護を求めてきた。そのトラブルで、秀吉が再び、名門三好家の懐柔策として再び秀次を養子に入れたのである。三好氏は名門で、秀次はそのときに、学問を学んだと見られる。

三好孫七郎信吉を名乗る。

 

  • 信長が本能寺に討たれ、三好康長が信長軍をまち、長曾我部氏との戦線で、自分の立場が危うくなると、阿波を逃げ出し、堺に入り込み、その後消息をたった。三好家の養子秀次後を継ぐことになった。その後、三好家の下を去り、秀吉の元に戻ったと思われる。

今までのパターンとして、養子、人質に取られ、必要になくなれば戻されるという形であった。しかしながら、幼少の身から、元仏門にいた宮部継潤。足利室町文化のサロンのような、三好家。それぞれに多大な影響を受け、変革していったと思う。

  •  しずがたけの戦い。

秀吉の政権掌握の戦い。において自らの派閥に池田氏を引き入れるために、恒興氏の娘を秀次の正室に向かいいれ、柴田勝家に有利に勝負を迎えた。

  • 小牧長久手に戦い。

信長の後継者争いで、織田信雄が家康に泣きつき、対戦と相成った。この戦いで、秀次は大きな失敗をしている、秀吉の反対を押し切り、舅の池田氏とその子元助、森長可、堀秀政たちの軍を率いて、中内を急襲し、かく乱する戦法であった、しかし、野戦の天才家康がそれを察知するわけもなく、秀次軍は大敗してしまうのである。池田常興、元助親子はその戦いで死亡している。秀吉は激怒し、秀次を叱責した。この戦いで秀吉が勝っていれば、徳川家康は死亡し、徳川幕府は存在していなかったろう、家康はこの戦いで、いつでも秀吉に勝てる自信を持ち、実際にはそうするのだが、この戦いにつけた鎧を記念として保管し、後に秀吉から寝返って関が原に東軍についた福島太夫に恫喝したといわれる。後に豊臣政権にとっては、痛い負け戦となった。

  • 紀州攻めにおいて、名誉挽回をする。
  • 四国攻めにおいて、

秀吉の伊予讃岐阿波の三方攻めにより、長曾我部氏は。苦戦し、秀次が岩倉城を落としたことを受け降参した。

  • 九州島津攻めにおいては、京、大坂の留守役となった。秀吉秀長がほとんどの軍勢が九州にいったことで、留守をまもるは、大変な仕事とであった。
  • 小田原北条攻め、秀次に任されろの心配した秀吉は家康に指南役をたのんだ。

秀吉の日本統一は、信長に念願であった「天下布武」を作り上げることである。その戦いには単なる武力で統一するという意味だけでなく、いろんな意味を踏まえたコンセプトがあった。その中で秀吉の戦いに数々参加させてもらい、帝王学を学んだ秀次は四国では黒田如水に、小田原では家康に、戦術戦略を学び、後に秀吉には、どういう存在になったのであろうか?

1.  恐れられる存在。謀反を起こし戦いをおこすかもしれない、

2.  いくら教えてもわからない、馬鹿な殿様。

3.  どうでもいい存在。

数々の戦いに参加すればこそ、の二代目である。秀頼が誕生し、秀頼の存在を恐れたのかもしれない秀次、過去の歴史からみれば、兄弟親この苦肉に戦いを知っていた、秀吉は、1.の気持ちであったろう。

なぜ、謀反疑いをかけられたのであるか?

 

  • 文化的教養と文化的事業の推進

1.  足利学校への保護、北条氏滅亡の後、庇護者が消え,そこに100石を寄進した。

2.  金沢文庫に収集されていた、日本の古典を整理保存し、写本などをおこなった。

  そこには、日本書記など重要な書物が保存されたいた。

3.  源氏物語を愛読し、古典文学を勉強し理解したしなみ、公家衆とのサロンを形成している。

4.  京五山文学の復興を成し遂げ、漢詩などをたしなむ。

5.  謡曲写本、集約を部下に命じ、死後完成し、江戸期を通じ現代に残っており。

※謡曲とは、能と深くかかわり、能の詞章だけを謡う

公家とのつながりが強くなり、叉、京の寺などともつながりを強く持ち、教養を持ちえていた。秀吉より関白を譲られ、関白はもともと、公家の世界のトップであり、昔は藤原氏が独占し、我が物でおこなっていたもの。武家の棟梁が征夷大将軍であるのに、いささか、方向性が狂ってきていた。

信長のコンセプト、「天下布武」は、日本統一を行うものであるが、それは武力だけでなく、社会全体の構造改革でもあった。東大寺、延暦寺などの、寺の支配。京を支配する、公家の支配。各地を支配する地方豪族の支配、もしくは、守護地頭などの支配。支配関係が複雑で、混乱がおきると解決できる力も偏り、政治、治安などが不安定になりやすいものであった。

応仁の乱以降。京は焦土とかし、文化的な側面はかなり、痛手を食った。

秀次は、三好氏の養子時代、薫陶されようの察するものである。

秀吉は、身分的低さから名門の憧れを持っていたが、それはブランド志向であり、そのブランドの素材や背景など、どうでもいいことであった。自分を着飾るため、自分の卑しい血族に、高貴な遺伝子が混じることのみを考え、文化的事業推進などは、余裕なかったのかもしれない。

  • 太田牛一の「太閤様軍記のうち」において、秀次は、暴君としてかきたたえられている。

 

1.  名刀の試し切りと称し、1000人を切った。中でも、盲目の人間を切った。

2.  上皇の喪に服するところ、比叡山山麓で鹿狩りを行った。

3.  鉄砲の稽古と称し、農民を打って遊んだ。

4.  弓の稽古と称し、往来の人を打つ。

5.  謀反を企てている。

このような記載がこの伝説の本でしか現れず、後の江戸に起こった、絵本太閤記では、もっとエスカレートし、妊婦を切って、胎児を見たとか。気に入らない料理人の両腕を切り落としたとか書かれている。

事実か事実でないか、今となってはわからない、しかし、小和田教授はうそであると指摘していいる。

秀吉人気のために、作り上げられたもの。たぶんに、太閤記は庶民の夢の物語、であった。

当時、秀吉の独裁状態で発言記録等、抹殺された可能性。

もし、これが権力抗争での。はめられた事件なら、秀次は本当に、かわいそうである。

  • 関白を譲ったとなれば、政治機能はどうであったか

関白を世襲として、秀次に継がせることを宮廷から認知させたが、秀吉は太閤となり、実際の政治を取り仕切っていた。

 

  • 秀頼が生まれ悲劇が起こった

秀吉は淀殿の間に、子ができて、かなり喜ぶはずが、鶴丸のことや、関白秀次のことなど、まだ老い先短い自分と、不安定な組織、もともと、織田軍団を毛利攻めで預かっていた軍勢であり、自ら、織田政権を豊臣政権に変遷させた経緯から、秀吉には義理があっても、秀頼には義理がなく、といった論理も秀吉自信危惧していたことである。

秀次は、役目柄、子ができない秀吉のために自分の人生、養子に出され続けた人生。を振り返ってみると、自分の人生は自分で切り開いたものでなく、秀吉に操られたものである、そういう、憂鬱が出始めたと思われる。

しかしながら、秀次は、家康の長久手の戦いではしっぱしたものの、四国、紀州、小田原攻めでは戦功があり、上記の文化活動は今日の伝統芸術芸能につづいてるもので、近江八幡の水運を利用した都市計画などは、評価できるものである。

  • 石田三成らの陰謀か?

石田三成は陰謀を行うような人間でなく、しかし、大儀名分、豊臣家のためなら、何でもやる人間かもしれない。

秀長の早死に、利休の切腹。秀次の切腹。朝鮮侵略の失敗。そひて、秀吉の死。

豊臣が民衆より、嫌われるの時間の問題であった。佐和山城に、三成が城を築き、近江ノ大名になるのは、秀次の死亡後である。

  • 騒乱の秀次後半の年表
天正19年 2月28日 千利休切腹。
  5月18日 秀吉、京の完成したおどいぼりを、謁見。
  8月5日 秀吉の子、「鶴丸」病死。
  8月6日 秀次、奥羽仕置き。
  8月23日 秀吉、朝鮮侵略を決定。
  12月28日 秀次、関白に任命。秀吉は太閤に。
文禄元年 4月12日 文禄の役、後の悪名高い、戦争を仕掛ける
文禄2年 4月18日 和議の申し受けを受ける。
  8月3日 淀君が秀頼を産む。
文禄4年 7月3日 聚楽第に秀次への謀反、詰問。
  7月8日 伏見城に申し開きにきた秀次に、秀吉は、高野山に上るよう命じる
  7月15日 秀次、切腹を命ぜられる。享年28歳。
  7月20日 秀頼に忠誠を尽くす,誓紙を各大名に出させる。
  8月2日 秀次の正室、側室、子供、39人、京三条がわらで、処刑される。
    石田三成が、秀吉より、近江を授けられ,佐和山城を築く。
  12月 家康、秀次の足利学校からの蔵書をもとにもどす。
     
  • 仮説として,

 秀吉は秀頼が生まれる10月10日前は、朝鮮渡洋の軍の控えとして、九州にいた。小田原攻めの吉例として、石田三成は、豊臣政権の内部分裂として、近江衆の筆頭、淀君を中心とした勢力を構想しており、正室北の政所を中心とした、尾張衆と反目しており、秀吉自身、今後の豊臣政権について、密談し、秀吉自身なやんでいたこともあろう。

秀次は、秀頼がうまれたあと、気の病になったという、曲名瀬玄朔の「曲名瀬道三配剤録」にでている。

秀次が、自虐自暴になったという視点であるが、秀吉の相談を受けた、三成がそういう方向性で秀次を追いやり、秀吉に讒言し、破滅に追いやったのではともかんがえられる、三成は、その後、関が原の戦いを起こし、豊臣家を滅亡させてしまった。豊臣家のことを一番に考え行動で示したのは三成である。しかし、秀次事件のあと、近江を拝領し、関が原で敗れた。

もしである、歴史ではIFはないが、秀次が秀吉亡き後と、全国を統治できてるであろうか?有能な部下を持ち、もしくは育て、官僚が諸事うまくことを進めても、荒くれた大名たちを統制できたであろうか?

秀次は関白として、秀吉と対立していたのは、なかったのか?

秀次が、ノイローゼ状態であり、はめられたとしても、それに対抗しうる知恵を持ち、文化活動に没頭せず、政治的な運命を伸ばすように手を打つ努力はなかったのであろうか?

すべて、秀吉の言いなりになり、最後、高野山にせめりくる、福島正則に切腹をせめるように、こられても、素直に腹を切っている。

秀次は決して無能ではなかった。豊臣家のために、あろうとしていただけと思う。

世間は、豊臣政権を見放し、次のリーダー家康に期待し、、かなりあとになって、儒教国家の徳川政権により、士農工商の身分世界に陥り、秀吉の異例の出世話の物語にあこがれ、その物語に、秀次のことが大げさに語られ、それを信じた民衆神話を今に続いてるのかもしれない。

秀次の正室は二人もいたそうである。不思議である。側室を合わせ39人もいたようである、その性欲は果てしないものであるが、こういう見方もある、秀吉に子供ができない、秀次が子供を作り続けることが一族の繁栄につながるのでないか?家康も、それにより、徳川政権を永続させようとした。

其の側室たちがすべて、殺戮された。地獄絵図であったはずです。39人の虐殺

中には.64歳のもの、捨て子の子もいたそうである。其のあたりも、謎である。

秀次の謀反が本当ならば、切腹でなく、磔で、見せしめである。謀反は事実無根であるが、秀頼様がうまれたのだから、消え去ってください。それが、事実かもしれない。

 

 

 

 

 

 

司馬遼の小説でも、秀次の行いが書いてあり、私も信じていた。しかし、この本を読んで愕然とした。


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