計らざりき、万歳期せし都も、今は何ぞ狐狼の伏土とならんとは

汝(ナレ)や知る 都は野辺の夕雲雀(ユウヒバリ) あがるを見ても落つる涙は

応仁記

 

  • 応仁の乱と室町幕府

1467 年(応仁 1)から 11 年間続いた内乱。細川勝元と山名持豊(宗全)との対立に,将軍足利義政の跡継ぎ問題,斯波・畠山両管領家の相続争いがからんで,諸国の守護大名が細川方の東軍と山名方の西軍に分かれて戦った。戦乱は地方に拡散し,幕府の権威は失墜し,戦国時代を現出した

ほそかわかつもと【細川勝元】
    (1430-1473) 室町中期の武将。将軍家や畠山・斯波氏の継嗣争いをめぐって山名宗全と対立。応仁の乱では東軍の将として戦ったが,陣中で病没した。
やまなもちとよ【山名持豊】
    (1404-1473) 室町中期の武将。法名は宗全。1435 年山名氏惣領となる。嘉吉(かきつ)の乱の功で播磨・石見などを与えられ,一族の勢威を回復。応仁の乱では西軍の大将となり,細川勝元と戦い陣没。
 

足利幕府(1336-1573)200年

室町幕府はそもそも、京都に今でもある、室町に幕府を開いたゆえんでそう呼称されています。

足利氏が1336年、「建武式目」制定をした武家政権であり、鎌倉幕府の形を継承模倣していた。

南北朝時代を終了させ全国統一政権であった。1573年織田信長が15代将軍義昭を追放したことにより滅亡、

応仁に乱以降は、流浪の幕府であった。

あしかがよしみつ【足利義満】(1358-1408)
   室町幕府 3 代将軍(在職,1368-1394)。義詮(よしあきら)の子。号は鹿苑院殿。1378 年室町殿造営。92 年南北朝合一を成しとげ,有力守護大名を抑えて幕府権力を確立し,94 年将軍職を義持に譲る。97 年北山に金閣を建て,北山殿と呼ばれた。1401 年明に入貢,貿易につとめた

あしかがよしみ【足利義視】(1439-1491)
     室町時代の武将。義教(よしのり)の子。義政の弟。今出川殿。義政の後嗣となる。翌年,義政の妻日野富子に義尚(よしひさ)が誕生したことから将軍継嗣争いとなり,義政と対立,応仁の乱を誘発した
あしかがよしまさ【足利義政】(1435-1490)
   室町幕府 8 代将軍(在職,1449-1473)。義教(よしのり)の子。弟義視(よしみ)を養子としたが翌年実子義尚(よしひさ)が生まれ,将軍継嗣争いは応仁の乱の一因となった。73 年将軍職を義尚に譲り,のち東山に銀閣を建立。宗教・芸術を愛好し,東山文化が栄える因をなした。東山殿。

ひのとみこ【日野富子】(1440-1496)
     足利義政の夫人。日野政光の女(むすめ)。実子義尚を将軍に立てるため,山名宗全を頼んで養子義視と争い応仁の乱の一因をつくった。高利貸し・米相場・賄賂(わいろ)・関所設置によって蓄財をはかるなど,積極的な活動家であった。

戦国時代を誘引した応仁の乱は権力の争いのよって生じ、全国に飛び火していくのであった。

  • どろどろとした戦争、弱体化している幕府。この時代はそういう面をありながら、今の日本における芸術の根本が現れ始めた文化としてはすばらしい時代であった。

軽業(かるわざ)・奇術や滑稽な物まねなどの演芸。奈良時代に唐から伝来した散楽(さんがく)を母胎につくり出されたもの。鎌倉時代頃からこれを職業とする者が各地の神社に隷属して祭礼などに興行し,座を結んで一般庶民にも愛好された。室町時代になると,田楽や曲舞(くせまい)などの要素もとり入れ,観阿弥・世阿弥父子により能楽として大成される。さるごう

猿楽、能楽から能がうまれた、能は信長や秀吉も愛した。公家の文化とお寺などの禅宗文化が融合し、室町の武家文化として足利義満などが作った、金閣寺などを代表する、北山文化が花開いた。また、五山文化といわれる、

五山文化は京都・鎌倉の五山の禅寺を中心に発達した漢詩・漢文などのことおいい。栄西が宋から禅宗と文化を伝えたのがはじまりとされる。

五山とは室町幕府が定めた禅宗官寺制度。五山・十刹・諸山のうち最高の寺格。京都五山と鎌倉五山がある。時期によって多少異なるが、南禅宗を別格の第一山とし、京都五山は天龍・相国・建仁・東福・万寿寺のそれぞれをいう。

後五山は戦乱で衰退し、秀吉の養子、秀次が復興させた。

茶の湯もこの時代からおこった。

貴族文化は、一方で民衆の現状を把握せず遊びほうけ,飢饉や天災なので、各地で略奪、生きるための戦争が頻発し鎌倉時代からの御家人制度など、欠陥のある制度が抑えきれず、治安を安定できる強い勢力が弱い勢力を食っていた。というのが私の愚論である。


 

三代将軍義満は、細川・斯波・畠山の三家を管領とし、鎌倉政権の執権に相当する足利家の執事管領を交替で出させました。管領に次ぐ要職である政所長官には、山名・赤松・一色・京極の四家から交替で出させ、これを四職家と呼びました。いわゆる三管四職に権力を分散させ、互いに争わせることで、足利家を脅かす勢力を未然に防ぐ役割を果たそうとしたが、結果逆になった。

  • 1467年応仁の乱タッグ表
西軍 8代将軍義政 東軍
日野富子

〔義政の嫁,義尚の母)

将軍後継争い 足利義視

〔義政の弟、後西軍へ)

山名宗全 主導権争い 細川勝元
畠山義就 管領後継争い 畠山政長
斯波義廉 管領後継争い 斯波義敏
六角氏〔近江)一色氏〔志摩伊勢丹後)

土岐氏(美濃)河野氏(伊予)

大内氏(周防長門筑前豊前)

1477年終結。騒乱は全国へ 京極氏(近江飛騨出雲)

赤松氏(播磨備前)

富樫(加賀)

武田氏(安芸若狭)


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