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享禄2年(1529)生〜天正9年(1581)

 宇喜多直家の人生はすごい。すさまじい人生を送っているのである。 直家は本当に悪人であったのだろうか?

  • 直家誕生から流浪の少年、屈辱から再興えの足がかり。
1529年 享禄2年 備前国邑久郡豊原荘(現・岡山県

邑久郡邑久町)の砥石城に生まれる。家門は在地領主。

1534年 天文3年 祖父能家が同輩高取山城主、「島村貫阿弥」の攻撃をうけ、自刃。一家は父母ともに流浪の生活が始まる。備前福岡の豪商阿部氏に庇護を受ける
1543年 天文12年 浦上宗景(守護赤松氏の守護代)に直家仕える。初陣の勝利で翌年邑久郡乙子に知行300貫を賜わる。

※1.守護代
在国しない守護に代わり行政にあたった者

※2.浦上宗景は兄との確執から備前国天神山城に拠って実質的に独立をして東備前を支配していました

1548年 天文18年 砥石城の浮田国定を討ち奈良部城に本拠を移す。
1559年 永禄2年 仇撃ち、「島村貫阿弥」と舅の沼城中山信正をうち、沼城に本拠を移す。
1567年 永禄11年 上道郡竜野口城の個所穝所元常を謀殺して、邑久、上野の領土を拡張。
1565年 永禄9年 備中成羽城主三村家親を久米南町興禅寺で宇喜多方が狙撃し射殺

翌永禄10年

 三村氏が弔い合戦のため備前に進出、備前最大の明禅寺合戦となる。
          宇喜多方5千騎、三村方2万騎主3万騎ともであったが宇喜多方が勝利。

 いわゆる,明善寺くずれともいう。

 

現在の岡山県

  • 宇喜多家の由来

宇喜多家の歴史は長い、本姓が 三宅氏といわれ、天日鉾命「あめのひこぼこのみこと」の末裔とし、児島、備中連島などで住み繁栄した。古代、備前には、大和政権に匹敵する国家が存在し、肥沃な大地と,鉄器のなどの文化が進み、百済などから渡来人としてこの地方にきたのかもしれない。児島からその後、邑久郡に移住し、土豪として室町を迎え、時の権力となる「浦上氏」に仕えることとなった。

 

 

  • 宇喜多能家・・・うきたよしいえ

直家の祖父にあたる。戦に強く、浦上家を大いにたすけた。有能な武将であった。

なぜ、この浦上氏にとって、重要な家臣が城をおとされたかの背景だが、浦上家の事情におる。

  • 浦上家のお家事情。

備前守護代の浦上家。守護の赤松氏の衰退から、副長官がのさばるのだ。まず、応仁の乱で、各地に謀反さわぎがおこり、下克上が流行語大賞になるほどになり、備前でも、松田元成叛乱し、播磨では、浦上則宗も赤松氏を追放した。

応仁の乱後、三石城主の備前守護代である浦上則宗が、守護職である赤松氏を凌ぐようになります。 則宗の孫の村宗の代になると主家赤松義村と対立し、大永元年(1521年)村宗は義村を自害をさせた。
 

村宗の子政宗は、居城を播州国の室津城に移すと、三石城には城番が置かれ、弟の宗景、国秀が自立に動き、宗景は天神山城、国秀は富田松山城に移り、兄の正宗とは不和になります。 正宗が室津城で龍野の赤松政秀に殺されると、宗景は天神山城を居城として、美作国南部と備前国を領地とする戦国大名になる。、
 

浦上則宗三石城主______ 宗助       ______村宗 細川高国と三好元長の両家の戦いに参戦し摂津中津川で死亡。

浦上分裂______兄、政宗{播磨}松政秀に殺害される。政宗は播州室津に在城し、その子清宗のために黒田孝高の娘を娶ったが、その婚礼の席上に播磨州龍野の赤松上野守の襲撃を受けて父子ともに殺害された。そこで孝高の娘を二男忠宗に娶せて跡継ぎとした。ところが忠宗も宗景の命を受けた江見原某という者に殺害され、室津浦上氏は滅亡した。しかし、孝高の娘は男子一人を生み、その子は久松丸といい岡山の宇喜多直家に迎えられた。
 

訂正

浦上政宗の息子清宗と婚姻の儀を交わす約束だったのは黒田職隆の娘で。孝高は襲撃当時19歳です。因みに襲撃の年は1564年です。1566年だと襲撃者赤松政秀と浦上政宗の主君である赤松義祐は味方同士ですから。ついでに黒田職隆の主君小寺政職は当時赤松義祐派です

注  ご指摘をうけました。ありがとうございました。

黒田重隆、姫路の小寺則職(政隆の子)に仕える・・・1530年

黒田職隆の長男官兵衛生まれる。重隆が没。職隆が遺領を継ぐ・・・・1564年 松政秀襲撃の年

職隆が隠居し、孝高が継ぐ。・・・・1567年、    姫路城歴史年鑑。

 


 

 

 

         _____弟、宗景{備前}家に滅亡される

※上のものは諸説がありますのでご注意ねがいます。

下剋上によって主家赤松氏の領国を奪った浦上氏が、今度は家臣宇喜多直家氏よってその地位を奪われたということになる。
直家にとっては、主君などはどうでもいい存在だったのだ。主君そのものが、ハイエナのようなものだったのである。

皮肉にも、直家の祖父「能家」は、主君に忠実なばかり、兄弟の争いを辞めさせようとし、うとまがられ。有望視していた次男、四郎を戦線で無くし、凡庸な世継ぎ、興家に失望し、主君村宗が摂津で死んだあとは隠居してしまい、その隙に、島村某に滅ぼされたのである。


 

邑久郡乙子城は、吉井川沿いにあり、浦上宗景は兄弟と備前を分割してあらそっており、危険な地帯であった。また、瀬戸内の島には、海賊などがあり、浦上宗景は試そうとしていたのだ、もしくは、捨石にしようとしたのだろうか。

直家の流浪の時代が彼の性格、思考方法を育成したのだろう。なぜ、あんなにひどいことをしてでも自分の領土を広げ、祖父の敵も討ち、目的は果たしたはずだが、考えるのである。

 肥沃な土地、古代国家もあった、備前。備前は長船の名刀も存在する。権力争いを行う上で、この時代背景と生産能力をが優れていたのでは憶測する。

 余談であるが、鎌倉時代から現在まで長船の名刀は存在している。なかでも、南北朝期にいた、名刀長船兼光は足利尊氏より刀の注文を受け完成し。試し切りの場で,兜と鎧を一刀両断し、一躍有名になった。兼光は上杉謙信がこよなく愛し、今での上杉家につたえらているのである。

 

浦上家自体が下克上を行い、守護赤松氏をしのぎ、兄弟間親戚間で騒乱に明け暮れていた時代。だれしもが、律儀でなかったモラルのない時代であったと思う。

直家の父、「興家」おきいえ、落城後、各地を点点とし、家臣の縁者である、備前長船の豪商「阿部善定」いかくまわれた。しかしながら、おき家は家を再興できず、阿部家の娘に手を出し長年苦労をともにした、妻をおいやり、直家は腹違いの弟、忠家、春家が誕生する。弟たちと後妻との確執はあったに違いないと思う。裏切られた祖父、情けない思う父、世話になっているが、疎外感を感じる阿部家。すべてが、後の、行動にでていったのではと思う。

一遍上人絵伝で備前長船の鎌倉での繁栄が描かれている。中世以降、富が持たされた場所で。豪商に直家はお家再興のための教育もされていたのではと思います。

岡山城を直家が築城した折に、長船の商工街は岡山城下に移され、急速に長船は衰退していった。

  • 舅の沼城中山信正を謀り殺す。

天文20年〔1551〕直家は主君の命のより,上道郡沼城主、中山備中守信正の娘を正室に迎える。敵対する宿敵(島村観あみ)は

砥石城、高取山城をあづかっていた。浦上宗景は、直家にその、島村と舅中山に謀反の動きがあり、討ち取るように命じた。

その謀反の動きであるが、毛利家の通じる密書が暴露されたとある。その密書そのものは、直家の偽造であったという話もある。しかし、これ以降の直家の行動から推察すると、(目的達成には手段選ばず)密書捏造程度はおこなうものであった、それに主君宗景も、どんな理由であれ、地侍を整理することが自分の安定に不可欠であったはずだ。

直家は葛藤していたのであろうか、自分の嫁の父をうつ。そうすれば、必然に自分の嫁も自害する、結果そうなったが。

津本氏の小説では生き延びるため宇喜多家を守るため、としてる。黒部氏では、まず、嫁が自分の父にお城の縄張りの絵図をえるための出入り商人がスパイ行為をし、それを察知した上で、内密に行動したとある。

討つか討たれるか?後世の自分の名声などははまったく気にもしていない。

昨今の食品会社のことを思い浮かべた。社内の倫理観はその会社の創業者の意思から出ている。「こういうことはいかん」

「これくらいは、いいだろう・・」。今はまさに、倫理観喪失の時代。その会社のとっぷ。それがわるいのだ。今の利益しか考えない。それと同じだ。

トップ、浦上宗景は滅ぼされたこそ、悪名は響かないが、彼の命令には違いないだろう。と推察する。

直家は沼城の近くに、仮のための小屋を作り、そこで宴会をし、舅もよび,酔って寝入ったとこへ、惨殺した。

あわせて、敵 島村は主君と示し合わせ、中山が謀反をおこしたので、討ち取りにすぐ行くようにと命ぜられ

慌ててきたところを、討たれた。一石二鳥の謀殺である。

直家は、砥石城、沼城、を手に入れ。四つの城を持った。

沼城は、亀山城ともいい、岡山市沼にある。砂川の中流域に位置する小丘陵上に位置し、古代以来の吉備中枢地を形成した

旭川下流域の平野と、刀剣で有名な長船や、県南部では最も著名な中世の市場である福岡市のある吉井川流域の平野との中

間点であり、両地域を押さえる立地といえる。この城を抑えることは重要な戦略であった。しかし、陰惨すぎる。

 

直家はこの城を拠点として備前国西半の支配権を達成する。直家が岡山城へ移った後は、舎弟の浮田春家の居城となった。
 

  • 上道郡竜野口城の穝所(かしょ)元常を謀殺

旭川上流の龍野口城は山じろでなかなか攻め落とせない。現在の岡山市祇園たつのくち山にある、峻険で、前後に吉井川の流れに守られている。何度責めあげても落とせるものでない。

直家は有能な家臣岡平内に謀略を授けた。元常は男色家デアリ、衆道にふけっている。

戦国では信長でも蘭丸を可愛がっていた様に、戦線に女を連れて行くわけに行かず、旗本などから涼やかな男性がだかれていたようです。戦国では普通のことであった。

さて、その岡氏の息子(清三郎)が涼やかで、容色もすぐれていることから、たつのくちにしのばせ、殿様に愛されるように仕向け、謀殺する計画をたてた。

その計画はまんまと成功し、城を落とし、合わせて、和田城もおとした。


 

  • 直家、策謀と謀殺で、備前備中を手中に

 

永禄11年 1568年 津高郡金川城主 「松田元輝」 を攻略。美作、備中へ進出の足がかりとする。
元亀元年 1561年 石山(岡山)城主, 「金光宗高」 を自害に追い込む。城を接しゅうする。
天正元年 1567年 沼城から、この石山に岡山城を築き、街割りをおこなう。岡山の創生。
   2年 1568年 主君、「浦上宗景」が織田信長に服属したことで、毛利の安国寺恵慧、足利義昭の使者をむかえ、主君との関係を絶つ。
   5年 1577年 天神山城を攻め、主君を追放する。
   6年 1578年 織田軍団毛利攻め司令官の(秀吉)と西播磨において攻防、展開。尼子滅亡戦など、
   7年 1579年 結果、毛利家を裏切り、信長に属する。先鋒として働く。
   9年 1581年 岡山城にて、病死。53歳。戦時につき極秘にされる。
     

 

  • 松田元輝攻略

城主松田氏は田原藤太藤原秀郷を祖とし、相模国から地頭として移住してきたよう、承久の乱で幕府の御家人として褒美をもらい、このちにながれついたのであろうか・。

 

この備前が注目されるのは、西から(毛利の軍団)、北から、尼子、または山名軍団の南下、東からは黒田軍団を引き込んだ秀吉司令官の信長軍団が、出会う合流権力地帯となった。山名氏は尼子のせいで弱たいし、その尼子のひごを受けていた松田氏も弱まっていくのであった。

西備前を支配する金川城松田氏は出雲の尼子氏の支援を受け、備中勢や東備前を支配する浦上氏と戦っていましたが、安芸の毛利氏のために、尼子氏は衰退し、直家に竜の口城をはじめ各地をとられ、また備中も毛利氏の支援を受けた三村家親が、本格的に侵攻する気配をみせていた。
 

永禄11年、松田元輝は新興勢力宇喜多直家によって攻められ、13代235年続いた松田氏は滅亡した。
 

 

 

  • お福との出会い。

秀家の母、お福の方はすごい、美人でいい女であった。直家3人目の妻となった。

もともと、高田城主三浦定勝の妻であった。三浦家は関東の三浦半島の(三浦氏)から出ている。室町以降、美作の大庭、真庭。今の中国縦貫道のあたり、領していた。

天文17年の秋、当主の貞久が病没し、尼子勢の急襲受け落城。

其の子の貞久は生き延び、尼子の衰退を狙い、浦上氏の後ろ盾を得、奪い返した。

しかし、再び、三村勢に攻め立てられ、篭城するも落城。貞久は自害。

関東の三浦氏も北条早雲に滅ぼされ、備中三浦氏も三村勢に撒けた。

お福は子を連れ、親戚を頼り、その後、台頭しつつある直家にひき合わされた。

秀家の肖像画をみるに、いい男である。たぶんに其の母親の遺伝子を受けた秀家はお福似であったとおもいます。

お福はすごい美人であった。落城のときは20歳そこそこ。直家がめろめろになるのは、必然であった。

落城という経験はすごい体験であった、というのは直家にとって強烈な悲惨な体験であり。同じような立場にある、お福をおもうのは

これまた必然である。淀君は3回の落城を経験し、いまでいう、トラウマにかかっていただろう。直家もお福も苦い経験であったに違いない。

 

 

 

  • 家康は自らの幕府が成立した関が原以降、儒教を広めていった。

家康は、秀吉が半ば完成させた統一国家をそのまま、謀略切り崩して、自ら戦いにも参加し、三成を煽り、手に入れた。

しかし、秀頼を裏切った連中は難癖をつけて、家康は秀忠のじだいに滅ぼしていった。儒教朱子学は、直家の行動などは否定するものである。

小早川家は、宇喜多家が敗戦国になったあと、徹底的に、宇喜多の墓などを抹殺し、否定した。その後の、池田氏も否定した。

宇喜多直家の行動は、かたよった形で後世に伝えられてるのかもしれない。

秀家の行動は、律儀そのものである。秀吉のために、無益な朝鮮にもいき、裏切りもせず、関が原では中心になって、西軍についた。

祖父興家も、律儀であった。なぜ、直家だけがわるなのだろうか?

また、こういう考えもできる。謀殺であれば、無益な戦争はなるべくさけれる。戦争になればたくさんの命がおとされる。戦場では家もやきはらわれ、田畑もあれる。無益な戦いを避けることは、秀吉もそうした。

 

なぜ、これほどの悪行ができたのか?史実的に歪曲されたのかのかもしれない。

然し,一介の不浪人になった直家が、心ひとつで、備前一国を支配するようになるには、正攻法では到底無理なのかもしれない。

後世の評価も、同時代の風評も、きにせず、ひたすら,御家再興のためにおこなったことだろうか?と思う。

奇跡としかいいようがないし、結果、子孫たちは、秀吉とともに没落し,八丈島で暮らしたことは直家は想像もつかなかったと思う。

歴史の善悪は難しく、変化するものである。事実のみが存在すべきだ。歴史は教訓である。直家は祖父の行きざま、父の哀れさ。が骨身にしみた世間をうらんでいたのではと思う。

 

 

主な参考文献、PHP文庫宇喜多直家、黒部了著者。必見!

   文藝文庫 宇喜多秀家、津本陽


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