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「伝説」になった釣り師
         (文)本木雄介 

 祖父が他界して20年が経つ。
 近隣の港でも名の通った「釣り師」のひとりだった。元来無口な男だったと記憶している。無愛想ではないが、彼から口を開いて客と会話を楽しむ、といった社交的な雰囲気はなかった。古びた小さな木造船は定員4名。客は多くても3名までだった。だが、祖父は2名以上の客を乗せることはなかったという。どうしても3名乗りたい、と頼みこむのを頑として断りつづけたという。今となってはその理由を聞くすべもないが、そんな船に予約が途絶えることはなかった。

 私が小学校へ上がったころだったろうか。なにがきっかけだったか忘れてしまったが、祖父の船に乗ることになった。春先のおだやかな海だった。
 波止場での釣りしか知らなかった私にとって、祖父の操る船での釣りはすばらしいものだった。空気をかぎとるように祖父は遠くの山並みをながめ、潮の色を見つめ、キコキコときしむ船体を自分の手足のように動かしていた。ポンポン、と威勢のいい単発のエンジン音が心地よかった。
 朝一番のポイントで魚の食いが止むと、すでに行き先を決めていたかのように次ぎのポイントへと移る。夕方までのあいだに何十ヶ所移動しただろう。魚の気配、そう、まさしく気配だ。祖父が見定めたポイントはたしかにそんな魚の鼓動が海底深くから届いてきそうな感じがしていた。
 「カサカサ…」「シワシワ…」「ゾロゾロ…」こんな言葉で魚が釣り針に触る感触を私に教えてくれた。そのイメージはやがて見事に私の脳裏に魚の姿を映し、日を重ねるごとに祖父の言わんとする気配らしきものが分かりはじめていた。

 小学生の6年間、休みのたびに祖父の船に乗っていた。私は一風変わった子供だったようだ。釣り客が急にはいった日などは、家で1日中ぼんやりとするしかなかった。友達と遊ぶことにも夢中にはなれなかった。祖父と過ごす船の上がなにより気分がよかった。卒業文集には、将来は漁師になる、と書いた記憶がある。
 祖父の体が衰えはじめたころには、風や潮の周期、その時どのポイントを狙うべきかなど、祖父の動きが私にも理解できた。
 魚が餌に感づいた、近づいている、鼻先で触った、つぎにくる、一連の動作がありありとイメージできた。魚の気配はぴりぴりと肌に伝わった。

 ある日のことだ。朝から餌も取られないまま、道具だけを引きあげ続けていた。潮の流れが変わってポイントを移動する時、祖父がにこりと笑って言った。「わしがつぎに行きたい場所がわかるか?」その時、私は海面が一瞬桜色に見えた場所を指した。満足げにうなずく祖父。ただの偶然ではなかった。移動するや、シーズン外れの真鯛が入れ食いになった。鯛が海面近くで群れていたはずはない。その感覚を気配、としか例えようがない。不思議な体験だった。

 昭和56年の初冬、祖父は漁から帰港した。舳先の綱をしっかりと結わえ、荷物をもって陸へ上がった。そして力が抜け落ちたように倒れた。「漁師は死ぬまで漁師」祖父がいつだったかそんなことを言っていた。

 葬儀には田舎の港町には似つかわしくない紳士達が列をなした。狭い路地裏まで続く参列者は、ゆうに200名を超えた。みな釣り客として祖父の船に通いつづけた面々だった。
 時代遅れの木造船「壱栄丸」は廃船となった。後日、解体業者が引き取りにくる日、再びあの日の紳士達がどこからともなく集まってきた。浜で潰されていく船体を見つめ涙を流す者もいた。そしてみな、思い思いの木片のひとかけらを持ち帰っていった。

 漁師にはならなかった私だが、仕事と趣味の間で釣りに関わって生きている。
 漁師の血を引き継ぐことができなかったのは「こんな田舎町でおまえは終わるな」と祖父が言った言葉に従ったからではない。とうていかなわない、と葬儀の日に悟ったのかもしれない。いまも祖父の生き様を想うと胸が熱くなる。

 「釣り・漁師・釣り船」には口うるさい、ただの中年男になってしまった。
 そしてまた、祖父を知る者も少なくなったはずだ。
 あの日、船の骸(むくろ)を涙で拾い集めていた彼らの中の伝説として、今しばらく残っていてくれればいい。そう思っている。


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