自然保護の観点から。
【本木雄介】
「なんとか自然保護愛好会」と名乗る方からメールをいただいた。やたらと長い文章だったので要点をまとめると次のようなものだった。
「他人より一匹でも多く釣りなさい、と提言するのは釣り人としてはどんなものだろうか。釣りとは自然に抱かれ、遊ばせてもらうものであり、そこに敬愛と保護の精神がなければならない。貴殿の言葉によって釣り人のモラルが損なわれる事を危惧している」
というものだ。
たしかに、私は「より多くを釣ること」を提唱している。その前提は「より多くのヒットを体験する・釣ってこその釣り」だという当然の前置きがあるからだ。
仕掛けを研究し、情報を集め、現場に着いて竿を伸ばす。そういったプロセスだけで満足できる人もいるかもしれない。しかし「釣れない釣り」を望む釣り人はいないだろう。誰もが「釣り上げる」ことに胸をときめかせている。我々が釣果(結果)だけにこだわった集団ではないかと思われてのことだろうが、我々は上記のようなプロセスも当然大事に考えている。そして「釣りの楽しみ」を追求した結果、やはり「釣れる釣り」にたどり着くのだ。それがこと「釣り船」ともなれば、船長の腕次第でどうとでもなってしまう現実がある。
さて、自然保護だが「より多くを釣る」ことで自然が破壊されるだろうか。我々素人が月に数回の釣行でその海の自然体系を壊してしまうだろうか。もしそれで枯渇してしまうようなポイントであれば、すでに漁場ではなくなっているはずだ。渓流などの限られたエリアでならば理解できるが、海の上では条件が違う。
所によっては漁師の操業時間を制限している漁業組合もあるが、これは漁師が市場の価格調整をするためのものであり、安定した釣果(収入)を守るための措置である。「自然保護」は重要であり、乱獲してしまっては自ら首をしめることになる。その絶妙な調整が地元の組合員によってなされているのだ。
はっきり言えば、「乱獲」によって漁獲高の減少・自然破壊を懸念しなければならないのは「網漁法」である。細かい網の目で稚魚さえさらい尽くしてしまう漁法にこそ、その「保護の目」を向けなければいけない。
「釣り漁師」はそのあたりが敏感である。魚を生かし、海を守ることに徹している。我々アマチュアは彼らの枠の中で精一杯釣ればいいのではないだろうか。
それでも「保護」にこだわるのならば、我々釣り人としては「より多くの釣果」を望まなければ、釣るそばからリリース(放流)すれば事は済む。
私は「釣り船」に乗ったとき、たいてい多くを釣らせてもらう。しかし、必要以上が釣れた時は船長のイケスに置いて帰る。その後、船長がそれをリリースしているか売っているかは知らない。
稚魚が針にかかることもあるが、それをすべて持ち帰る人もいないだろう。調理し、食べるためのサイズがある。「釣り」ほど自然にやさしいものはない、と私は信じている。
そして「より多くのヒットを重ねる・より多くを釣る」ことにやはり釣り人は情熱をかたむけてほしいと思う。多くを釣り、必要な分だけ持ち帰り、きれいに食べきる。なんとも紳士的なスポーツではないか。
そして「敬愛と保護の精神」は「本物の釣り漁師」の「釣り船」に乗ることで理解できると思う。魚を釣り、その恩恵に生き抜いてきた彼らの会話の端々からそれを感じ取れるだろう。「網漁業転職組船長」からはけっして出ない珠玉の言葉が聞けるはずだ。
「釣り=人生」と胸張れる船長からこそ、「自然を守る意味」を我々は学ぶべきだろう。
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