
完全正解完全正解
遂にピリ・レイスが写し取った地図を描いたのは誰かまで判明した。
ピリ・レイス地図が製作された1513年、
その基となった地図を描けた人物は当時ただ一人。
と言ってもその人物はその前の年に亡くなっているが。
その人物とはアメリゴベスプッチ。
アメリカ大陸にその名がつけられた男である。
彼は1501〜1502年に南米大陸にに沿って航行し
南緯52度に到達したと書簡に記している。
だが、この報告は嘘だという説もあり、
現在でもそこまで行ったか行かなかったかで意見が分かれている。
せいぜい南緯35度周辺、
ブエノアイレス辺りまでしか行ってないとの説もある。
しかも南緯50度まで達したとする人の中でも
到達最南地点がどこなのかで意見がわかれている。
なぜなら彼は「大陸に沿って『南東』に航海した」と
書簡に記しているからだ。
南米大陸に沿ったなら「南東」ではなく「南西」に航行したはずだ。
この矛盾のせいで
「彼がたどり着いたのは南米大陸ではなくフォークランド諸島かサウスジョージア島ではないか?」
とも言われている。
だが、ピリレイス地図には
すべての答えが完璧に残されていたのである。
ピリ・レイス地図こそアメリゴ地図の完璧なコピーだったのだ。
証拠1:地形、緯度の一致
南極の正体で述べた通り
ピリレイス地図の右下に描かれた陸地の海岸線は
南米南緯45〜50度辺りと一致する。
アメリゴの書簡では南緯52度まで達したとあり、
ピリ・レイス地図では丁度南緯50度辺りで地図が切れている。
証拠2:アメリゴの報告と地図中書き込みの一致
南極の正体で述べたようにピリ・レイス地図の右下の陸地には
「ここは荒れ地。ポルトガル人は上陸しなかった」
とのことが書かれている。
アメリゴは彼が最後にたどり着いた土地は「荒涼たる海岸」と
書簡に記している。
そして南米南端までたどり着いた時は
ポルトガルの船団に所属しての航海だった。
ピリ・レイス地図の書き込みもアメリゴの書簡も
「南限の土地」がともに「荒れている」ということで一致している。
だが、詳しい人ならピリ・レイス地図の右下の陸地に
「ここは非常に暑い」とも書かれていることを知っているだろう。
しかしアメリゴの書簡は「非常に寒い」と伝えている。
到達時は4月、南半球は冬にむかっていた頃だ。
これは単なる写し間違いではなく
南は暖かいと思い込んでいる者が寒いを暑いにしたらしい。
というのもピリ・レイス地図内の南米南部(ピリ・レイス地図左下)には、
昼夜の長さに触れ「昼はとても暖かい」という書き込みがあるのだが
それに該当すると思われる記述がアメリゴの書簡内では
「夜が15時間あり(省略)船隊にこの寒さに耐えられる者はいない」
となっている。
どうやらこの箇所も
「4月の南が寒いはずがない、暖かいはず」
という思い込みによって書きかえられたように感じられる。
証拠3:湾曲した南米大陸
アメリゴの書簡の
「大陸に沿いながら南東に向かい航海した」
との記述は確かに実際の南米大陸の地形から見れば矛盾する。
だが、これをアメリゴがその通り地図に再現したら・・・?
アメリゴは南回帰線を越えてから南東へ向かったと記している。
ピリレイス地図の南米が曲がり始めているのは
その海岸線からしてリオデジャネイロ〜サンパウロ辺りと思われ、
その緯度は南回帰線の緯度とかなり近く
そこから大陸は南東へ向けのびている。
つまりピリ・レイス地図ではアメリゴの報告
「大陸に沿って南東へ向かった」が矛盾なく再現されているのだ。
何のためにそんなことをしたのか?
ピリ・レイス地図の南米最東端のすぐ上の方にある書き込みに
「ポルトガルの異教徒は西へ行かない。
ジブラルタルの西側にラインを2000マイル作った。
(「ジブラルタルの西側2000マイルにラインを作った」か?)
ポルトガル人は向こうへ越えない」うんぬんと書かれている。
どうやらこれは1494年のトルデシーリャス条約のことらしいのだ。
この条約は西経46度線の西側がスペインの管轄で
東側がポルトガルの管轄というもの。
そしてこの南米南方への航海時、
アメリゴがいたのはポルトガル船団である。
ということはそのラインを越えることは条約違反となりうる。
というわけで
「大陸に沿って航行しながらも南東へ向かった」
ことにしたのではないか?
それをそのまま再現した結果、
ピリ・レイス地図の南米大陸は
まさに南緯25度辺りから東南に延びたのである。
そしてまたピリ・レイス地図の左下にある
よく見ると矢印付きの書き込みには
「大陸から吹く風にでくわした。大陸からの風・・・」うんぬん
とあるらしい。
英語だと encounter が用いられているがこれには
「(敵などに)立ち向かう」の意味もある。
風に向かうのもencounterでいいのかは知らないが
アメリゴの書簡によると「シロッコ」の方向へ
向かったとあり
「シロッコ」とは地中海で北アフリカの方から吹いてくる
南東風のことですなわち「南東」を意味するとのこと。
ということはピリ・レイス地図中の
「大陸から吹く風に向かっていった」とは
「南米大陸から吹く風」ではなく「シロッコ」の方へ、
つまり南東へ向かって行ったと解釈できる。
地図の湾曲だけでなく
この書き込みもアメリゴの書簡の記述と一致したことになる。
証拠4:製作年
ピリ・レイス地図が製作されたのは1513年。
アメリゴが南米南緯50度に到達したのは1502年。
彼の後にアルゼンチンまで到達したとされるのは
ネーヴェン・ツァイトゥンクという人が考えられるそうだが、
彼の航海は1514年。
ピリ・レイス地図が製作された後である。
よってアメリゴが南米を探索した後、
それに匹敵するような航海をしたとされる者は
ピリ・レイス地図が製作された翌年まで存在しない。
つまり、ピリ・レイス地図が描かれた年に
南米の南緯50度をあれ程正確に描くことができたのは
アメリゴしか存在しないのだ。
ピリ・レイス地図は
・アメリゴが到達した南米南端の地形が実際のものと一致
・地図中の最南緯度がアメリゴの書簡と一致
・最南到達地点の荒れた土地との書き込みがアメリゴの書簡と一致
・南米大陸が南緯25度辺りから
南東へ延びている点がアメリゴの書簡の記述と一致
・アメリゴの書簡の「南米大陸から『シロッコ』の方へ向
かった」
との記述と地図中の「大陸からの風に向かった」
という書き込みが一致
・製作された1513年に南米南部まで到達したのは
アメリゴ以外に存在しない
そして付け足すならばアメリゴは航海時月と火星との「合
」を
観測し、かなり正確な経度をはじきだしとという。
あくまでも「当時としては」らしいが。
ピリ・レイス地図の経度が(当時としては)正確だとしたら
やはりアメリゴによるものと見てもいいだろう。
以上、これだけの証拠が揃ったからにはピリ・レイス地図は
アメリゴの地図が基になったとしか考えられない。
今まで謎とされてきたアメリゴ南米南緯50度到達の証拠は
なんと世界で最も有名で最も人目に触れた古地図、
ピリ・レイス地図だったわけである。
1502年以来の謎、
「アメリゴがたどり着いた最南の土地はどこか?」
が2002年に、
実にまる500年ぶりに明らかになったのである。
それは同時にピリ・レイス地図=オーパーツ説が
完全に砕け散り
消え去った瞬間でもあろう。
参考:「アメリゴ・ヴェスプッチ」中央公論社、
「航海の記録」岩波書店
http://www.sacred-texts.com/piri/pirik
ey.htm
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