
17−5・真友
焦りが湧き上がったわけでもなく、腫れ物を扱うような周囲の空気に嫌気がさしたわけでもない。しかし、自然と刀魔の足は屋上に向かっていた。それが記憶を失う前に自身が好んだ場所である事をなぞるように、なんら違和感なく寒さの厳しい屋上の扉に手は触れ、重さを感じさせずその鉄扉を開く。
屋上が常に人気がないわけではない。
ただ、夏のうだるような暑さと冬の凍て付く寒さに耐えてまで憩いの場として扱うには厳しい。それだけにこんな休むのに適さない場所を使う人間は殆どいなかった。
御門前高校の学生は行動力と自分のテリトリーに定評があるのか、屋上以外の場所では常に人がたむろしている。人の視線から逃れるには、ここしかなかった。
屋上の開かれた場所よりさらに人が来ない高架水槽が配置してある場所が、刀魔の指定席だった。一度は殺女との出会いで半壊しかけたそれも今では新しく復元されている。お世辞にもそこが過しやすい場所とはいえないというのに、その場所には先客がいた。
「うんうん、行動が読みやすくなってるってるのはいいことだね」
顔の横で挨拶するように手を掲げているのは、五十嵐皐月でありそれ以外の何者でもない。一人きりになれるという思惑は外されたものの、刀魔としては回れ右してしまうのも躊躇われたのか高架水槽に背を預けて皐月を半眼で睨みつけていた。
「なんの用だ?」
「何の用だはご挨拶だね。これでもボクは刀魔の事を心配してやってきたんだからね。昨日のこととかさ、ちょっと気になってるんじゃないかと思ってるんだけど、どうかな?」
皐月の言葉に刀魔の方が僅かに動く。
御堂聖が何を持って涙を流したのか、それが分からない刀魔としては行動に移れないでいた。謝るにしても記憶をなくしてしまったことに関して自分自身の落ち度はなく、的を外していると考えた後はいくら頭を働かせたところで思い当たる節はない。相手が何を欲しているのかがまったく分からない状態で、頭を下げては余計に気まずい思いをさせるのが関の山だろう。
かといって、細かに自分の考えを話すのは癪に障るのか刀魔は押し黙った。皐月からすれば刀魔の行為そのものが雄弁な答えそのものであり、またその仕草が幼すぎて笑みが浮かぶ。
「聖から聞いたけど、うん、刀魔は悪くないらしいよ。少し涙腺が弱くなってるらしくて、逆に慌てさせたなら申し訳ないって言ってたくらいだし、気にする必要はないみたい」
皐月の口調にいつものからかいを含んだ響きがまったくなかったことで、刀魔は再び皐月のほうへ視線を向ける。皐月はそれを真正面から受けて肩を大げさにすくめて見せた。これ以上詳しい事を聞きたければ、本人に聞くといいとでも言いたげなその動作を見て、刀魔は咽喉元までせりあがっていた言葉を飲み込んだ。
「どうして、ここに来るのが分った」
代わりに口について出たのは、先読みされた疑問であった。意味合いとしては多少話を強引に切り替える意図があったものの、皐月はそれに応じる為に先ほどとは違った意地悪い笑みを浮かべる。
「記憶喪失前の刀魔もここが気に入ってたからだよ。夏と冬は特に人がいなくなるから、利用回数頻繁だったしね。まぁ、こうやって見事に捕まえる事ができてボクは非常に満足してるわけだけど、不満だって顔だねぇ」
胸元に手をあて、してやったりといった表情を見せる皐月に刀魔は軽くため息をつく。
「確かに捕まえられたわけだが、何か他にいいたい事でもあるのか?」
ないならばこんな場所からいなくなったらどうだといわんばかりの棘のある言い方だった。含まれているのは明らかな拒絶であるというのに、皐月はそれを受けても怯んだりはしない。
昔を少し思い出せばこの程度の拒絶など笑い話にしかならないのだ。初めて接触した時から、真友と呼べるようになるまで何から何までとんとん拍子だったわけではない。紆余曲折あって、それでも側にいるのが楽しいと思えるようになったのだから、腹は立たなかった。
刀魔には刀魔なりのスタンスがあり、皐月には皐月のスタンスがある。
互いに意見をぶつかり合わせて、築き上げたものだけあって、それを一から構築しなおすという手間は膨大に違いない。それでも本質が変わっていなければ、皐月にとってなんら苦にはならないだけの話だ。
「うん、あるならいていいって話だよね」
ここ数日で記憶をなくした刀魔でも皐月の性格については大体つかめてきていた。まず相手の言う事に何かしら茶々を入れる事が多く、相手が嫌がるギリギリのところを見極めて接してくる。煩わしいところはあるが、極端に嫌う事が難しいつかみ所のない部分があった。
「少し聞かせて欲しいのだが。記憶をなくす前の俺は五十嵐の事をどう扱っていたんだ?」
皐月は指をこめかみにあて目を瞑り、必死に見えるそぶりを作りながらしばらく唸ってみせる。独特の間を作る意味合いもあったが、本人を目の前に本人のとっていた態度を言うというのは皐月であっても難しかったのかもしれない。
唸っている間も刀魔は去ろうという気配を見せない。独りになりたがるというのは癖のようなものであり、別段意識して実行しているわけではないのかもしれない。刀魔が続きの催促を口にしようとしたところで、ようやく皐月は目を開けた。
「そういうのはさ、口で言うのは結構難しいね。邪険にしつつも、別にいても構わないって感じだったかなぁ。でもいざって時は、駆けつけてきてくれるっていう一昔前のヒーローみたいなとこあったね」
刀魔の目論見は皐月の言葉で、もろくも崩れ去る。
できれば記憶を失う前の自分と今の自分を引き合いにして、何とか状況を打破しようとしたというのに、普段の態度が今と殆ど変わらないというのならば反論に打って出る事ができない。刀魔が再び押し黙ったところで、皐月は分ってますぜ旦那といわんがばかりに笑いそっと言葉を付け足す。
「ただ、反論が今の刀魔より上手かったね。最近だと言いくるめられるってのはボクの方が多かったよ。今は立場が逆転してるから非常に気分がいいよ」
胸を張って優越感に浸る皐月は、馬鹿そのものに見えるというのに上手い反論が刀魔の口から出る事は終ぞなかった。
本質は同じでも経験が違えば差が出てしまうのは当たり前であり、人間関係ではそれが出やすい。時間がたつに連れて親しみが増せば、相手にどの程度踏み込めるのか自ずと身につく。その身についたものがかけてしまったのが今の刀魔であり、そうなってくると経験を持っている皐月が優位に立てるのは当たり前といえた。
もっとも、刀魔が記憶を失ってしまうという状況に必要以上に怯え適応しないようにしていれば話は別だったのかもしれないが、少なくとも刀魔のあり方は余り変わっていなかった。それが、皐月を優位たらしめた要因であったのだが、皐月にはそこまで分析する能力はない。
刀魔は僅かにそれが思考の端にかかったが、ないものを渇望したところで状況を覆せるわけではなかった。
それに冬の屋上という待ち伏せには適さない環境で、或いは外れる可能性もあったというのに待ち構えていた皐月に必要以上に突っかかることが刀魔にはできない。さらにそれを皐月が察しているのだから、刀魔の望む状況になるわけがなかった。
「まぁ、いいか」
刀魔にしても別段何かする予定があったわけではない。取り立ててする事もないのだから、必要以上に敵意を撒き散らしたところで意味はないと折れた。
「うんうん、そういう諦めって大事だよね。で、聖の事以外にもいいたいことがあっているんだけど」
「ああ、もう何でもいいから聞いてくれ」
「自分がどういう奴だったかって、気になるかい?」
刀魔は僅かに眉を吊り上げて、一瞬だけ口を開いてしまう。
昔の自分がどういう人間だったかというのを断片的に聞くことはあっても、これほど直接的に言ってきたものはいなかった。
記憶喪失になったものが、まず最初に望むのは消失した自分の記憶についてだ。積み上げてきた経験を失うというのは短期的には自分自身の喪失であり、死というイメージに近い。皐月達が記憶が戻ったかどうかを確かめて落胆するのと同様、刀魔も多少は落胆していた部分があった。
「気になるが、それそこ聞いても仕方がないような気がするぞ」
「確かに。昔の自分はこうでしたよーとか言われてもわかんないし、無理にあわせようとしたらきついと思うし、聞いても仕方ないよね。そこで少しばかり頭をひねって考えたわけだけど、実際自分がどういう奴なのかボクが言葉以外で示せばいいわけだと思うんだ」
言葉以外でどうやって分からせるつもりだと刀魔が口にしようとしたところで、隣の皐月に文句を言おうとしたところその姿は既になかった。忽然とその場から消えたわけではなく、何を思ったか一瞬にして高架水槽の真上に陣取っていた。
皐月は陰陽庁の退魔師であり、身体能力は常人のそれとは比べ物にならない。落ちたところで、受身さえ取れば大した事にはならないとわかっていても振り子のように一本足でバランスを取っているというのは見れたものではなかった。
「おい、何をしてる」
「うーん、まぁ、実験のようなものだね。後、真下から覗くのは流石にどうかと思うなぁ」
しっかりと位置取りはしているのか、スカートを押さえながら皐月が言い放つと、刀魔は慌てて視線を外す。勝手に上って勝手に人の行動を制限してと、いいたい文句は山ほどあったが、皐月の行動は止まらない。
「今から霊呪無しでここから飛び降りるから、しっかり受け止めてね」
何を馬鹿なことを先ほど言われた忠告を無視して、振り返った刀魔の眼に映ったのは大きく空を飛んで頭から落ちてくる皐月の姿だった。
高架水槽自体は精々6m程度の高さしかなかったが、そこに皐月の跳躍が加わり10mを越す高さとなっていた。いくら鍛えてあったとしても、この高さからコンクリートの地面に落ちればただではすまない。
遊びのハッタリだと刀魔の内心は叫んだ。
それでも刀魔の体は落下地点へと駆け出し、皐月の体を受け止めていた。落下による加重が腕に残ったものの、今の刀魔にはさしたる重さではないのか勢いを殺すだけの余力すらあった。
腕の中に残る皐月は目を瞑っており、刀魔は背筋に冷や汗が出るのをとめられなかった。冬の最中であるというのに、寒さとは別の意味で震えが来る。
受け止めなければ、本当に落ちていた。
そんな当たり前のことが、刀魔を戦慄させた。
「あはは、これは結構怖いね」
目を開けて固まっている刀魔の頬をペチペチと叩くと硬直していた刀魔の思考は動き出した。
「馬鹿か!? 受け止めなかったら、どうなったと思ってる!」
「いやー、打ち所が悪かったら死んでたね」
腕の中に納まっている皐月は落下の加重さえなければ、驚くほど軽い。それでもあの高さから落ちれば皐月の言葉どおりの最悪の展開があってもおかしくなかった。
「こ、この馬……」
「でも、まぁ受け止めてくれるだろうなと信じてたわけ。怒るだろーなーっていうのもわかってたけど、これで自分がどういう人間かいやって程分かったよね?」
文句をいい足りないと発せられた言葉をさえぎって告げられた皐月の発言に刀魔の怒りは沈静化する。
たったそれだけの事にただではすまなくなるような無謀をなした皐月に刀魔は言葉を失ったのだ。また、そこまでさせるほどの価値が自分にあったのかと自問する。
腕の中に居る皐月を無言のまま見詰めていると、皐月の頬に薄っすらと赤みがさす。
「どうした、どこか傷めた場所でもあるのか」
落下を受け止めた側としてはなるべく勢いを殺したつもりでも、落下した側が力を込めていればどこかを痛めたとしても不思議はない。ただ、皐月はその心配に対して首を横に振って気まずそうに視線をそらす。
「あ、あのさ。ボクが受け止めてって言ったのはいったんだけど……流石にずっとこのままは恥ずかしいんだけど」
皐月を抱きかかえたままだったと気づいた刀魔は慌てて、皐月を下ろして顔をしかめた。自分自身は何も悪い事はしてないはずなのに、どうにも振り回されている感があった。ただ、それを余り不快に思わない自分にも気づかされたためにさらに、表情は険しくなる。
そんな険しい表情を崩す為か、刀魔の頬を皐月は遠慮なく突く。
「ほれほれ、自分がどんな奴かわかったら、いくところあるんじゃないの?」
一連の行動が、この言葉に集約されていた。刀魔はしつこく頬を突いてくる皐月の指を振り払うと、無言で屋上から出て行く。聖に対して追い目があるのならば、行動してもおかしくないと背中を押されれば行かざるを得ないと皐月が見えなくなってから、刀魔は歩を早めた。
一人取り残された皐月は寒風の中、頭を掻きながらにやけようとする頬をつねって無理やり自分を制御していた。
「うんうん、やっぱり刀魔は刀魔だね」
誰に宣言する為かも分からず、何とか気恥ずかしさを吹き飛ばそうと声を張ってみるものの一行に笑みが納まらない。どうしてもお姫様抱っこをされた事を思い出してしまうせいか、つねるタイミングがつかめず、翌日痣になってしまったことのみが、この日の皐月の失敗だった。