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甲斐庄楠音研究6

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From: "Masao Kohmura" <komura@cg.tuad.ac.jp>
Subject: [gs-club:0141]「甲斐庄楠音展」のカタログ
Date: Wed, 6 Oct 1999 13:06:04 +0900

>送信者 : hakushou <copper@par.allnet.ne.jp>
>件名 : [gs-club:0131] RE: [gs-club:0130] RE: [gs-club:0125] 謎解き
>
>> >>>デビュー作の「横櫛」は後年加筆修正され今のようになった。
>> >>>顔の横の色紙の所に「切られのお富」が描かれていた。
>>
>> ??お富さんが描いてあった?それとも切られ与三郎が描いてあった?
>> お富さんでは重複するから切られの与三か?甲斐の庄の贔屓の役者絵?
>> 個人的過ぎる。だから消した?

モデルは兄嫁の彦子・大正4年8月結核で没。南座の沢村源之助の歌舞伎「切られお富」を見終わった後着物を脱ぎながら、それの真似をしている

>加筆修正の前の作品らしい、写真です。
>http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/8284/kainoshou/yokogushiOld.JPG

京都国立近代美術館と笠岡市立竹喬美術館で平成9年に開催された・大正日本画の異才―いきづく情念・「甲斐庄楠音展」のカタログを入手しました。いろいろな疑問が解けました。
1.「横櫛」の色紙の文章は「こくがそうさくかいだい一かいしゅっぴんさくよこぐし」
2.「横櫛」は作品が3点あります。近年発見された大正5年頃制作と考えられる「横櫛1」大正7年にかかれ昭和初年と昭和38年に加筆されている「横櫛2」大正8年頃制作と考えられる「横櫛胸像」
3.「横櫛2」のヴァージョン番号をいえば第一回国画創作会に出品されたのが「横櫛2.0」
  昭和初年の奥村正之助所蔵時代に色紙形の切られお富が消されて「こくがそうさくかいだい一かいしゅぴんさくよこぐし」の文字が書き加えられた「横櫛2.1」。昭和38年の国画創作協会回顧展の際大幅な加筆が加えられた「横櫛2.2」。それが今広島県立美術館のコレクションされている。
4.もしPHOTOSHOP等で復元するとしたら、「横櫛2.0」を作るのは意義がある。それと「横櫛2.1」も
5.戦災で燃えたといわれる因縁の問題作の「女と風船」の色付け復元は特に意味がありそう。
6.このカタログには「女装の甲斐庄楠音」のページがあり15点の写真が掲載されている。
7.写真と絵画の関係史の中で甲斐庄楠音は特別興味あるテーマに成りうる。
8.写真家としての甲斐庄楠音という展覧会なり写真集の出版がなされてよい。

とりあえず。マム・山形

 

From: "hakushou" <copper@par.allnet.ne.jp>
Subject: [gs-club:0142]折にふれて、甲斐の庄。
Date: Wed, 6 Oct 1999 15:27:52 +0900

白翔です。
ヤマネさんは何て凄いんだ。どこでこんな写真を見つけてくるんだろうねえ?ウ〜ン。もう何も言うこと無いね。ヤマネさんのつけたキャプションで答えがでたね。これを読んでいる最中にマムさんのメールが入ってきたところ。夕日ガ丘にお散歩でしたか? マムさんのは少し違う。ヤマネさんの方が正解。でもそれも正解ではないかも?

>楠音と将来を誓い合っていたが、
>実業家に強姦されてそこに嫁ぐことになった女性と
>http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/8284/kainoshou/pic0107.JPG

横櫛のモデルは明らかにフィアンセだね。なんと匂い立つような清楚な美人。相当な美人じゃないかい? 彼女をモデルに横櫛を描いた。マムさんの言うようにモデルは兄嫁ではない。多分。それに南座の沢村源之助の歌舞伎「切られお富」を見終わった後着物を脱ぎながら、それの真似をしているという風評も間違い。でなければその後のただおとの分裂症状とこの絵の変遷の説明がつかない。

力作で彼のデビュー作であり出世作になるはずだった。一校目の作品は本当に良い作品だねえ。日本画の順当な描き方。つまり最初の作品。「切られのお富」を入れ込む前の作品のこと。海老さま命というのはどちらかというと「ただおと」の趣味でしょう。「横櫛」の物語設定は囲いものか遊女か芸者の設定でしょう? 旦那のおいでで着物を脱いでいるところ。
「ねえ、見ておくんなまし。海老さまの襦袢したてましてよ。嬉しいわ。」
「はは・・。これは素敵じゃないか?えっ?そりゃあ高い!いいよいいよ。
お前の喜ぶ顔を見るだけわしはでうれしいよ。それにしても十一代目の助六は天下一品だ。」普通の家のお嬢さんの設定ではない。海老さま命の歌舞伎くるいは十七〜八ではないね。二十歳も半ばだ。

>楠音と将来を誓い合っていたが、
>実業家に強姦されてそこに嫁ぐことになった女性と
>http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/8284/kainoshou/pic0107.JPG

この金色夜叉の物語は恐らく甲斐の庄の方の言い分だね。そういう理由で婚約者が去って行ったと。だから云々と。甲斐の庄は間(はざま)貫一を演じた。どこまでも芝居じみた男だ。彼は男色者となって宮や世間に対して復讐しようとする???

さて本当の物語なのかどうか?だが恐らく違う。後年、彼が言い訳のように語った事柄に真実はない。甲斐の庄ただおとに女を喜ばせる意欲があったかどうか? 彼は根っからの女性願望者だ。若い頃の写真はそれを伺わせる。十四〜五のときから稚児遊びで手馴れたものでしょう。そこまで惑溺していてチンチン使おうたって容易くは無い。

しがねえ恋の情けが仇、十四のときから手癖が悪く、男と見ればたらしこみ、めぐる月日も十年ごし、すっっぽりはまった悪癖に、悪い浮名も龍の口、名さえゆかりの甲斐の庄ただおととは俺のこったあ。

それに分裂症の気配はあったと思うのだが・・?いかに?

お母さんと一身同体であった時期、これを一次的ナルシシズムの状態と呼ぶ。もし彼の自意識がそこから分離できなくて、自分の事をお母さんに同化して女であると思ったとすると、男から愛される事を望む様になったとしても不思議ではない。

ただおとは3歳を過ぎてもずっと、7歳を過ぎても尚母親の乳房に顔を埋めて眠りにつく。生まれてこの方15歳になるまで母親の胸から離れたことがない。幼い頃からの習慣で眠りにつくまでの間布団の中で母の乳房をもてあそんだ。時にはホトを弄繰り回したけれども自分の体をいじるのと同じ気分であった。お尻の穴とちっとも変わらない。母親の穴という穴には指を突っ込む。何の違和感もない。拒否されたことも無い。母親が喜ぶように自分も喜ぶ。まるで一心同体。母の乳房を噛めば自分が痛い。彼の乳首が感じるのだ。
幼い頃から幾度と無く感じたことだが、眠りの最中にえもいわれぬ快感に襲われる事があった。それは物心つくころから始まっている。激しい振動に夢うつつの中で母親の胸にしがみ付く。遠くで母のうめき声が聞こえる。地鳴りのような嗚咽。やがて母の全身の痙攣と共にただおとの体にも震えるような快感が襲ってきた。彼の下半身の内奥が熱くなり、失神するように又深い眠りにつく。そんな時はいつもきまってやさしい父がそばにいた。たくましい父さんがいた。そしてかあさんが死ぬほど好き。

こんなん書いてみましたけど。これではまだ次の疑問を解いたことにはならない? 一体全体、直腸のどこに失神するような快感の所在があるのか? これはもう才能としか言いようが無いのだろうか? それに次のような疑問だ。「ほう?分裂病と同性愛?何か閏係がありますか?」「はあ。発症時に男の患者がよくその妄想を口走るということですがねえ。フラチオの妄想なんですが・・。何故かきまってそうなんです。」

甲斐庄楠音の生涯を辿ることで先の答えを出すべし。宜しく。

 

From: "Eiji Yamane" <eiji_yamane@hotmail.com>
Subject: [gs-club:0146]♪「甲斐庄楠音展」同じ本みつけましたね〜
Date: Wed, 6 Oct 1999 17:35:13 +0900

こんにちは。ヤマネです。 mailto:eiji_yamane@hotmail.com

----- Original Message -----
送信者 : Masao Kohmura <komura@cg.tuad.ac.jp>
件名 : [gs-club:0141] 「甲斐庄楠音展」のカタログ
> 京都国立近代美術館と笠岡市立竹喬美術館で平成9年に開催された・大正日本画の異
> 才―いきづく情念・「甲斐庄楠音展」のカタログを入手しました。

----- Original Message -----
送信者 : Eiji Yamane <eiji_yamane@hotmail.com>
件名 : [gs-club:0140] 甲斐庄の本人の写真
> 『甲斐庄楠音展』日本経済新聞社1997が入手できました。
> その中から甲斐庄の本人の写真を紹介します。

同じ図録ですね。ぼくは近くの図書館から借りてきているのですが、まだ販売しているのでしようか。作品だけでなく、紹介しましたが珍妙な写真も多く、とても楽しい本ですね。できれば購入しておきたいものです。

----- Original Message -----
送信者 : hakushou <copper@par.allnet.ne.jp>
件名 : [gs-club:0142] 折にふれて、甲斐の庄。
> 白翔です。
> ヤマネさんは何て凄いんだ。どこでこんな写真を見つけて
> くるんだろうねえ?ウ〜ン。もう何も言うこと無いね。

いやぁ、そんなに凄いことてはないんですよ。図書館で甲斐庄で検索して、図録を見つけ、それからスキャナして、ネット上にアップ下だけのことですから。確かに、たくさんの写真の中から選択したのは、僕の判断力ですが、印象的なのは限られていましたから、どなたが選ばれたとしても、同じような写真を抽出すると思いますので、今回はぼくはそんなに大した仕事をしたという気はしていません。・・・・手数はかかっているので、それに、ご苦労さま、と言っていたたけるのは、うれしいことですけど。

 

From: "Masao Kohmura" <komura@cg.tuad.ac.jp>
Subject: [gs-club:0149]RE: さらにUP
Date: Wed, 6 Oct 1999 21:42:19 +0900

>いやぁ、そんなに凄いことてはないんですよ。図書館で甲斐庄で検索して、図録を見つ
>け、それからスキャナして、ネット上にアップ下だけのことですから。確かに、たくさん
>の写真の中から選択したのは、僕の判断力ですが、印象的なのは限られていましたから、
>どなたが選ばれたとしても、同じような写真を抽出すると思いますので、今回はぼくはそ
>んなに大した仕事をしたという気はしていません。・・・・手数はかかっているので、そ
>れに、ご苦労さま、と言っていたたけるのは、うれしいことですけど

大変ありがとうございます。さらのお願い。
図録の8の横櫛、10の横櫛胸像、18の幻覚、20の春宵(花びら)、25の悪女菩薩、36の母、51のふたり、57の汗ばむ頃、等をUPしてください。議論のベースができると思います。立派な図録に成ると思います。

マム・山形

 

From: "Eiji Yamane" <eiji_yamane@hotmail.com>
Subject: [gs-club:0150]甲斐庄楠音の年譜
Date: Thu, 7 Oct 1999 00:16:43 +0900

こんにちは。ヤマネです。 mailto:eiji_yamane@hotmail.com
日本経済新聞社『甲斐庄楠音展』の年譜です。

明治27 1894
  12月13日、甲斐荘正秀、かつの三男として京都市上京区(昭和4年中京区
  となる)竹屋町適新植木町西入西草堂町188番地に生まれる。かつ(文久
  元年生)は御所土田中則久の三女であった。正秀には、妻かつとの間に、
  楠香(明治13年生)、秀子(明治18年生)、楠鋭(明治23年生)、楠音、
  委子(明治32年生)の5人の子供のほか、いそとの間に、楠郷(明治22年
  生)、楠武(明治27年生)、季子(明治32年生)、楠幹(明治38年生)の
  4人の子供、千代との間に楠雄麿(明治4年生)、楠實男(明治7年生)の2
  人の子供があった。 甲斐荘家は楠正成の後裔と伝えられ、水戸光圀が楠
  公の後裔の絶えているのを憂えて河内甲斐荘村に残る女系の子孫を旗本と
  して取り立てて九千五百石を与えたものという。父正秀(嘉永6年生)は
  西本願寺の連枝下間真人の次男で、子供がなかった甲斐荘正博が将軍徳川
  家茂の供をして上洛した際、西本願寺で小姓をしていた源吾に目を止めて
  江戸に連れ帰り明治2年4月入籍して正秀と名乗らせるが、まもなく正博に
  実子が生まれ、同年7月甲斐荘の隠居跡目を相続した。正秀はこの時得た
  多額の慰謝料により京都での相当広い区域の武家屋敷群を入手するととも
  に、旧旗本として御陵衛士職を得て京都に戻ったという。

明治34 1901 7歳
  4月、京都市立銅駝尋常小学校に入学。
  
明治38 1905 11歳
  3月、京都市立銅駝尋常小学校を卒業。
  4月、京都市立銅駝高等小学校に入学。
  
明治40 1907 13歳
  3月、京都市立銅駝高等小学校を卒業。
  4月、京都府立京都第一中学校甲組一年に入学する。
  10月13日、父正秀が没して長兄楠香が家督を相続し、楠香の戸籍に入る。
  
明治41 1908 14歳
  4月、生来の喘息による病弱のため京都府立京都第一中学校一年修了後、
  京都市立美術工芸学校図案科に編入する。 当時の教諭は竹内栖鳳、山元
  春挙、菊池芳文、谷口香嵩で、助教諭は川北霞峰、川村曼舟であった。教
  室には余り顔を出さず、図書館に通って西洋の画集等を読みあさり、レオ
  ナルド・ダ・ヴィンチの《モナ・リザ》に感銘を受ける。
  
明治43 1910 16歳
  11月30日、長兄楠香、馬場郁太郎養女彦子(明治22−大正4)と結婚する。
  
明治45 1912 18歳
  3月25日、京都市立美術工芸学校図案科を卒業。(図案科卒業生5名、うち
  楠音と大高為山の2名が京都市立絵画専門学校に進学。)
  4月、京都市立絵画専門学校に進むとともに、川北霞峰の塾に通う。
  京都市立絵画専門学校の教諭は竹内栖鳳、山元春挙、菊池芳文で、助教諭
  は合田一蜂、猪飼嘯谷、菊池契月、西山翠嶂であった。
  この頃、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロに傾倒し、外国出版
  の高価な画集などを入手して模写する。 また、ウィリアム・ブレイクに
  も心酔する。特にレオナルドには30歳頃まで虜になったという。
  
大正2 1913 19歳
  年末、楠香ヨーロッパから帰国して東京牛込区若宮町で生活を始める。
  
大正4 1915 21歳
  3月25日、京都市立絵画専門学校卒業式が開かれ、同級の佐野一星、玉村
  方久斗、ァ本一洋、三宅呉月(鳳白)、山田星村などが卒業するが、楠音
  は余り出席をせず、竹内栖鳳に顔を知られていなかったことを理由に留年
  を言い渡される。(同級生のうち一星、一洋、鳳白は研究科に進む)。
  3月、京都市立絵画専門学校・京都市立美術工芸学校の校友会展(3月26−
  28日)に「桂川道行恋柵」の楽屋を主題とした《桂川の場へ》を出品する。
  同展には他に三宅呉月の《楽屋風呂から》、山田星村の《涙雨》、ァ本一
  洋の《今年竹》などの卒業制作が出品された。級長の三宅呉月(凰白)か
  ら一学期だけ原級にとどめるという学校の決定通知を受ける。
  4月、卒業が引き延ばされたため、一級下の紅葉谷楠一、菊岡一太郎(天
  蜀)、丸岡比呂史らと一緒になり、特に比呂史と親しく交友する。7月、
  密栗会同人絵画習作展(京都・大丸呉服展 7月24−26日)に《朝顔日記
  京屋の梅川》《歌衛門の千早姫》《或悲劇の主人公》《舞台裏の羽左衛門》
  《菊五郎菊三郎の十六夜清心》を出品。他に、伊藤柏台、入江波光、星野
  空外、榊原始更、玉村方久斗、三宅凰白、岡本神草、不動立山、小西長広、
  梅景香雪、松山致方などの出品がある。(紅葉谷楠一、菊岡天蜀、佐野一
  声、山内神斧は不出品。)
  この頃、東京の長兄楠香を訪ね、兄嫁らと本郷座で四代目沢村源之助が切
  られお富を演じる河竹黙阿弥作「処女翫浮名横櫛(むすめごのみうきなの
  よこぐし)」を観て帰宅後、兄嫁彦子とそのポーズをまねたりしながら、
  作品の構想を練るか(?)。
  8月、京都市立絵画専門学校・京都市立美術工芸学校の機関誌『美』8月号
  に、丸岡比呂史の《秋色》 とともに、京都市立絵画専門学校本科三年生
  の作品として楠音の《露の乾ぬ間》が掲載される。 この作品を最後の提
  出作品として京都市立絵画専門学校本科を卒業し、研究科に進んだと推測
  される。
  8月26日、長兄楠香の妻彦子東京において歿する。
  8月、京都・南座9月公演(8月31日−9月15日)で、四代目沢村源之助が切
  られお富を演じる河竹黙阿弥作「処女翫浮名横櫛」や「吉田御殿」「文七
  元結」が演じられる。
  この頃、《七妍(のち《虹のかけ橋》と改題)》《畜生塚》の制作を始め
  る。
  
大正5 1916 22歳
  3月8日、長兄楠香、斎藤たみ養女フミと再婚する。
  この頃、前年南座(あるいは本郷座)で観た「処女翫浮名横櫛」の印象を
  もとに、彦子をモデルとして一過間程で《横櫛》を描き上げる。《横櫛》
  は先輩村上華岳や梅景香雪らに注目される(3月の校友会展に出品したか
  どうかは確認できない)。
  6月、密栗会、結成以来一年を経過したため、会規に基づいて一旦解散し、
  新たに第2次密栗会を結成し、これに参加する。(新同人は他に星野空外、
  不動立山、村上華岳、入江波光、岡本神草、松井香瑤、小西長広、三宅凰
  白、菊岡天蜀、紅葉谷楠一、榊原始更、伊藤柏台、玉村方久斗、山内神斧、
  山口草平)
  
大正6 1917 23歳
  3月25日、京都市立絵画専門学校研究科を修了。
  4月、第8回大日本産業博覧会(大阪天王寺公園?)に《秋心》を出品し入
  選する。
  10月、第11回文展に出品するが落選する。(この前後2、3回落選したとい
  う。)
  この頃から、丸岡比呂史がアトリエとして使っていた堀川通りの丸岡六神
  丸本家の別荘を訪ねて一緒に制作、比呂史の妹トクと親しくなり、やがて、
  将来結婚することが本人同志や両家での公認事となる。
  
大正7 1918 24歳
  11月、村上華岳の勧めにより、第1回国画創作協会展(東京展1−15日、京
  都展11月27日−12月11日)に《横櫛》を出品し、入選する。岡本神草の
  《口紅》とともに樗牛賞候補に挙げられる。《横櫛》を推した村上華岳と
   《口紅》を推した土田麦僊とが互いに譲らず、竹内栖鳳の仲裁で金田和
  郎の《水蜜桃》が受賞するが、《横櫛》と《口紅》はともにこの回の評判
  となる。
  
大正8 1919 25歳
  11月、第2回国画創作協会展(東京展1−15日、京都展27日−12月11日)に
  《青衣の女》を出品するが、落選する。
  
大正9 1920 26歳
  11月、第3回国画創作協会展(東京展2−15日、京都展27日−2月11日)が
  開催される。友人岡本神草は《拳を打てる三人の舞妓の習作》、丸岡比呂
  史は《母と子》、榊原始更は《路》が入選するが、楠音は不出品あるいは
  落選したと思われる。
  この頃、丸岡トク、中京区土手町丸太町下ルの新実八郎兵衛に見初められ
  て新実の妻となる。
  
大正10 1921 27歳
  10月、国画創作協会展が土田麦僊、小野竹喬、野長瀬晩花、入江波光ら中
  心会員の渡欧により展覧会の開催を中止したため、第3回帝展に《舞ふ》
  を出品するが落選する。
  この頃、新町竹屋町上ルの大畑後素堂において開催される京都帝国大学講
  師植田壽蔵の美学に関する講義に出席する。
  
大正11 1922 28歳
  10月、第4回帝展に、国画創作協会展落選作《青衣の女》を出品して入選
  する。
  
大正12 1923 29歳
  1月、京都新進作家展(文房堂 1月18−23日)に堂本印象、宇田荻邨、福
  田平八郎、中村大三郎、杉田勇次郎らとともに、《毒婦おでん》など3点
  を出品する。
  この頃、植田壽蔵宅で、よき楠音の理解者となる熊沢五六(京都帝国大学
  経済学部卒)と知り合う。
  
大正13 1924 30歳
  1月、岡村宇太郎、粥川伸二、榊原始更、吹田草牧、杉田勇次郎とともに
  国画創作協会会友に挙げられる。
  9月、鹿ケ谷で共同生活をしていた友人、伊藤柏台は衣笠小松原に、榊原
  始更は綾小路大宮西入ルの寺に移り、楠音は実家にもどる。
  11月、第4回国画創作協会展(東京展11月30日−12月13日、京都展大正14
  年1月11日−25日)に帝展落選作《舞ふ》と、《半裸の女》を出品する。
  
大正14 1925 31歳
  5月、国画創作協会第1回春季展(京都商業会議所5月1日−10日)に《逃亡》
  《貴姫舞》《雛》《習作》《夕》を出品する。
  
大正15 1926 32歳
  3月、第5回国画創作協会展(東京展3月7−21日、大阪展3月28日−4月11日、
  京都展4月17日一21日)に《南の女》《歌妓》《裸婦》《女と風船》を出
  品するが、《女と風船》は土田麦僊から“きたない絵”として陳列を拒否
  される。
  4月、伊藤草白、岡村宇太郎、粥川伸二、榊原始更、吹田草牧、杉田勇次
  郎とともに国画創作協会会員に挙げられる。
  
昭和2 1927 33歳
  1月、池田(日高)昌克、貞木英一、宮本春吉の発起により、「榊原始更、
  甲斐荘楠音小品画会」を開く。
  3月、第2回青陽会展(福村祥雲堂3月19−20日)に出品する。
  4月、第6回国画創作協会展(東京展4月22日−5月15日、京都展5月21日−3
  0日)に《雪女(未成)》《娘子》《母》《逃亡》《道行》を出品する。
  
昭和3 1928 34歳
  4月、第7回国画創作協会展(東京展4月27日−5月14日、京都展5月20日−2
  9日、大阪展6月2−12日)に《椿姫》を出品する。
  7月、図画創作協会第一部(日本画)解散する。
  11月、もと図画創作協会会員、会友らとともに新樹社を結成(土田麦僊、
  小野竹喬、野長瀬晩花、村上華岳、榊原紫峰、入江波光は賛助員)、事務
  所を楠音宅に置く。
  この年、川北霞峰塾蒼穹社第1回展が開かれる(出品したかどうかは不明)。
  
昭和4 1929 35歳
  6月、第1回新樹社展(京都・第二勧業館6月1−5日)に《一輪》《抒情小
  品》《蝶々》《春》《歌妓立姿》を出品する。
  
昭和5 1930 36歳
  5月、第2回蒼穹社展(華族会館5月24−26日)に《美人》を出品する。
  6月、第2回新樹社展(京都・第二勧業館6月7−9日)に《山吹・女・蛇》
  《紫君》《肌》《雪女(習作)》《林檎むく人》《ソプラノ(写生)》
  《コンポジション(写生)》を出品する。
  
昭和6 1931 37歳
  2月16日、母かつ死去。これに伴い上京区出水通油小路西入4丁目187番地
  の借家に転居し、一人で生活する。偶然向いに京都市立絵画専門学校時代
  の同級生で千家十職の飛来一閑の住まいがあり、以後同家と家族ぐるみの
  交際を続ける。
  4月末、新樹社出品者のうち、土田麦僊の山南塾に属する画家全員(伊藤
  草白、吹田草牧、小松均、丸岡比呂史、粥川伸二、猪原大華、林司馬、要
  樹平、沢田石民、四辻喜一郎、三岡明ら)が連袂脱退し、第3回展は無期
  延期となる。 また、杉田勇次郎、多田敬一は脱退して菊池塾に参加する。
  楠音と榊原始更、森谷南人子、池田(日高)昌克、荻原大径らが残ったが、
  新樹社はそのまま解消のかたちとなる。 これ以後、「甲斐荘」を「甲斐
  庄」に改める。
  5月、第3回蒼穹社展(植物園・昭和図書館)が開かれる(出品したかどう
  かは不明)。
  この頃、国画創作協会展や新樹社展出品の代表作を集めた複製画集を刊行
  する。
  
昭和7 1932 38歳
  5月、第4回蒼穹社展(八坂倶楽部5月28日)に《汗ばむ頃(春)》《をく
  れげ》などの作品5点を出品する。
  
昭和8 1933 39歳
  6月、第5回蒼穹社展(八坂倶楽部6月17−18日)に《裸婦》を出品する。
  
昭和9 1934 40歳
  5月、京都市主催大礼記念京都美術館美術展覧会に《花子さくら子》を出
  品する。
  
昭和13 1938 44歳
  6月25日、長兄楠香が没し、楠香の長男正興が家督を相続するが、引続き
  正興の戸籍に入る。
  
昭和15 1940 46歳
  この年、映画「芸道一代男」(昭和16年2月公開)の仕事で溝口健二監督
  と出会い、以後生涯の交友となる。
  
昭和16 1941 47歳
  5月、個展(東京銀座・菊屋ギャラリー5月10−12日)を開催し、《夏の女》
  《口紅》《花かんざし》《秋の女》《朝鮮の女》などの小品美人画や《源
  蔵夫婦》《落人》などの芝居絵を出品する。
  この年、溝口健二監督の「元禄忠臣蔵(前編)」(昭和16年12月公開)の
  衣裳考証を担当。以後、ほとんどの溝口映画の衣裳、風俗考証を担当し、
  映画人として生きる。
  
昭和18 1943 49歳
  この頃、溝口や観世流の太鼓打ちの小寺金七、俳優の伊志井寛や水谷八重
  子、村上栄之助、表千家の家元、楽吉左衛門、永楽善五郎らによる集い
  「山賊会」が生まれ、溝口一門の一人として参加する。(昭和27年当時の
  名簿では、伊志井寛、池田遥邨、花柳章太郎、半田辰五郎、早川尚古斎、
  智照尼、甲斐庄楠音、金島桂華、川口松太郎、梶原緋佐子、小野竹喬、山
  口華楊、故ァ本一洋、福田平八郎、永楽善五郎、溝口健二、吉井勇、楽吉
  左衛門、村上栄之助、上村松篁、延永実、小寺金七、三宅凰白、千宗左、
  千宗室で、東京事務所を伊志井寛、京都事務所を甲斐庄楠音、大阪事務所
  を半田辰五郎が担当している。)
  
昭和24 1949 55歳
  この頃、吹田草牧、上田真吾らと新たな美術団体「由果知社」結成を相談
  するが、経済的な問題等から断念する。
  
昭和28 1953 59歳
  3月、宮川町歌舞練場における、まねき会・民政歌舞伎合同公演で民政歌
  舞伎の演し物「時雨の炬燵、紙治内の場」で紀ノ国屋小春を、「妹背山婦
  女庭訓 三笠山新御殿場」のむすめお三輪を、〈甲斐庄紫水〉の芸名で演
  じる。
  この年、溝口健二の「雨月物語」(ヴェネツィア映画祭銀獅子賞受賞)の
  風俗考証を担当する。
  
昭和29 1954 60歳
  京都市立美術工芸学校、京都市立絵画専門学校出身の映画人によって〈は
  みだし会〉が結成され、その大先輩として参加する。会員は宇野正太郎
  (壮太郎?)、吉田義夫、井川徳道ら。昭和40年頃まで続く。
  
昭和30 1955 61歳
  12月、「雨月物語」がアカデミー賞衣裳部門もにノミネートされる。
  
昭和31 1956 62歳
  8月、溝口健二死去。
  
昭和32 1957 63歳
  この頃から再び絵の世界に戻る。
  
昭和35 1960 65歳
  11月、京都土橋画廊で開催の〈さんぞく会展〉(28・29日)に出品する0
  11月27日、京都八坂倶楽部で開かれた坂東三都美主催〈紅扇会〉に、「甲
  斐庄紫水」の芸名で特別出演し、地唄「黒髪」を披露する。
  
昭和36 1961 66歳
  6月、大阪難波高島屋美術部の〈さんぞく会展〉(6−12日)に出品する。
  
昭和37 1962 67歳
  4月、東京高島屋美術部の〈さんぞく会展〉(17−22日)に《舞妓》など
  を出品する。
  
昭和38 1963 69歳
  6月、〈さんぞく会展〉(会期、会場不明)に出品する。
  11月、京都市美術館で開催された〈国画創作協会回顧展〉(11月3−27日)
  に国画創作協会展出品作《横櫛》(第1回展)、《舞ふ》(第4回展)、
  《母》(第6回展)が出品される。この展覧会を機に再び画家として注目
  される。
  
昭和39 1964 70歳
  2月20日、東京都杉並区清水町24番地の甲斐荘正興の戸籍から分家して、3
  5年間住んできた京都市上京区出水通油小路西入4丁目187番地に戸籍を持
  つ。
  
昭和40 1965 71歳
  夏、〈さんぞく会展〉(会期、会場不明)に《丸髷》《化粧》などを出品
  する。
  
昭和46 1971 77歳
  6月、日本橋三越の〈さんぞく会展〉に出品する。
  秋、北区小山下総町15の14の天理教西中央分教会松浦氏宅の裏の離れの一
  室に移る。
  
昭和49 1974 80歳
  4月から6月にかけて東京国立博物館で開催された 〈モナ・リザ展〉を観
  るため東京に出かける。
  
昭和50 1975 81歳
  8月、翌年の三越の回顧展の資金調達のために、画会の計画を練り、案内
  文を作成する。
  
昭和51 1976 82歳
  3月、千宗左、永楽善五郎、楽吉左衛門ら山賊会以来の友人の尽力で〈甲
  斐庄楠音回顧展〉(東京日本橋三越美術画廊3月23日−28日)が開催され
  る。「山賊会」はこれを最後として一応解散する。展覧会終了後、《虹の
  かけ橋(七妍妨)》を京都国立近代美術館が購入する。 また、画集発刊
  のための趣意書を作成したりするが、実現できなかった。
  6月、『三彩』346号で、特集「近代美術史の発掘−甲斐庄楠音−」が組ま
  れる。
  8月、この頃、唯一の弟子であった古田安経営のa々社の別邸(嵯峨亀ノ
  尾町)を借りて制作する。
  9月、〈第2回実の発掘展 美人画の鬼才 甲斐庄楠音〉(名古屋・千種図
  書館9月16日−10月14日)が熊沢五六コレクションにより開催される。
  
昭和52 1977 83歳
  4月、京都市中京区寺町通御池下ル西側のギャラリーカトにおいて〈甲斐
  庄楠音展〉(4月7−17日、4月24−30日)を2回続けて開催する。
  7月、ギャラリーカトにおいて三たび〈甲斐庄楠音展〉(7月10−17日)を
  開催する。
  
昭和53 1978
  6月16日、夕方5時頃、北区西白梅町の丸山アパートの友人大坪末雄氏宅を
  訪ね、同所で持病の喘息の発作を起こし8時50分頃急逝する。
  遺体は、翌17日午前1時頃、妹委子の嫁ぎ先北野の安部氏宅に引き取られ
  る。17日、弟楠幹死亡届を出す。18日、原谷の蓮華谷火葬所で荼毘に付し、
  金戒光明寺西翁院に納骨する。7月18日、金戒光明寺西翁院において告別
  式が行われ、同院墓地に葬られる。戒名至芸院風雅楠音居士。
  9月、〈第5回美の発掘展 美人画の鬼才 甲斐庄楠音〉(名古屋・千種図
  書館9月16日−10月15日)が熊沢五六コレクションを中心にして開催され
  る。
  
昭和58 1983
  10月、〈国画創作協会の歩みT〉展(笠岡市立竹喬美術館10月18日−11月
  23日)が開催され、《横櫛》が出品される。
  
昭和59 1984
  8月、『芸術新潮』8月号で、特集U「稼い絵ではいかんのか 甲斐庄楠音
  の栄光」が組まれる。
  
昭和60 1985
  10月、〈図画創作協会の歩みV〉展(笠岡市立竹喬美術館10月5日−11月1
  0日)が開催され、《舞ふ》《母》が出品される。
  
昭和61 1986
  10月、〈京都の日本画1910−1930〉展(京都国立近代美術館10月26日−12
  月7日)が開催され、《横櫛》《裸婦》《舞ふ》が出品される。
  
昭和62 1987
  8月、栗田勇著『女人讃歌−甲斐庄楠音の生涯−』が新潮社から出版され
  る。
  9月、〈謎の出逢い・今甦る大正デカダンス 甲斐庄楠音展〉(西武アー
  ト・フォーラム9月5−16日)が開催される。
  
平成2 1990
  10月、〈新樹社の画家たち〉展(笠岡市立竹喬美術館10月20日−11月25日)
  が開催され、《白百合と女》《桜子》《虹のかけ橋》が出品される。
  
平成5 1993
  9月、〈国画創作協会回顧展〉(京都国立近代美術館 9月28日−11月7日)
  が開催され、《横櫛》《舞ふ》《歌妓》《裸婦》《母》が出品される。
  
平成9 1997
  2月、「大正日本画の異才−いきづく情念 甲斐庄楠音展」(京都国立近
  代美術館2月4日−3月9日、笠岡市立竹喬美術館3月15日−4月20日)が開催
  され、本画83点、素描・草稿等30点が展示される。

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