甲斐庄楠音研究15
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Date: Tue, 12 Oct 1999 11:39:54 +0900 (JST) 意見の差異(つまり反論ではなく異論)が認められないMLはつまらないですよ。それが本音というモノなんですかね? 感情的な要素を言葉上から排除するのは、言葉の性質上まず不可能なので、それらを踏まえた上での議論なりコミュニケーションが図れるといいのですが。 例えば数式に「攻撃」するヒトはあまりいません。ところが言葉に対して攻撃するヒトはいますね。どちらもヒトがつくったモノなのに、不思議なものです。 言葉には「価値観の違い」という便利な表現があります。この価値観とはなにか、わたしにはそれがよく判らない。たとえば、価値観が「違っている」ことが「解っている」とすれば、それは理系的な意味での「理解」にほかならない。わたしにとっては、ヒトとのコミュニケーションとはこういう「理解」を得るのが大まかな目標なので、できればここを前提にして、意見の差異をいちいち表明していったほうが面白いです。 |
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Date: Tue, 12 Oct 1999 21:17:31 +0900 mephistoです、こんちわ。 栗田勇『女人賛歌・・・甲斐庄楠音の生涯・・・』の中の、 楠音の生涯をたずねてゆくと、その伴侶として現れる女はいない。榊原 |
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Date: Tue, 12 Oct 1999 21:57:49 +0900 mephistoです、こんちわ。 《引用はEiji Yamaneさんの「[gs-club:0153]甲斐庄の「やせた女」」から》 上の甲斐庄の『七妍』別名『虹のかけ橋』という作品について、 虹のかけ橋 それから、展覧会に向って、この「七妍」とよばれる処女作を六十年ぶ |
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Date: Tue, 12 Oct 1999 22:38:17 +0900 mephistoです、こんちわ。 《引用はEiji Yamaneさんの「[gs-club:0155] 甲斐庄の「肥えた女」」から》 「畜生塚」について調べました。 まず広辞苑です。 ちくしょう‐づか【畜生塚】 次に栗田勇『女人賛歌』の一文です。 はじめに竹村俊則「新撰京都名所図会」によって畜生塚をあらためて紹 |
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Date: Tue, 12 Oct 1999 23:26:59 +0900 mephistoです、こんばんわ。 「畜生塚」大正4年頃 この甲斐庄楠音の『畜生塚』について、栗田勇が讃歌を書いています。 ここには二十一人の裸身が描かれている。 (栗田勇『女人讃歌』新潮社から) |
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Date: Wed, 13 Oct 1999 18:00:02 +0900 mephistoです、こんちわ。 《引用はEiji Yamaneさんの「[gs-club:0195]甲斐庄、異性愛者説」から》 そうです。先天的に同性愛の素質を持っていた人でも、後天的に異性愛を教育されて、異性愛者として一生を送ることができるように、先天的異性愛者でも、教育次第では、その一生を同性愛者して送ることができるはずです。 甲斐庄楠音の場合、そうであった可能性も考えられる、ということです。 もしそうであったとしますと、彼の絵の解釈をするときに、別の平面がひらけてくる、ということがあります。 たとえば、 《引用はEiji Yamaneさんの「[gs-club:0179]甲斐庄の「ふたり」「その他」」から》 この『毛抜』という絵は、「細面の若い男性が、顎のヒゲを、毛抜きで抜きながら、憂鬱な顔をしている」というものですが、解釈として、二つが可能になります。 甲斐庄が同性愛者でり、女性として振る舞いたいという性向を持っているとしますと、この絵の人物は「私は、女でいたいのに、どうしてこんなヒゲなんか生えてくるのだろう」と、自分に肉体を不愉快に思っていることになります。 甲斐庄が異性愛であり、男性でありたいと感じているとしますと、「俺は男のだから、ヒゲが生えるのは当然だ。それなのになぜ俺は、ヒゲを抜かなくてはならないのだろう」と、自分の境遇に不快感を持っていることになるでしょう。 |