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甲斐庄楠音研究15

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Date: Tue, 12 Oct 1999 11:39:54 +0900 (JST)
From: SmokymonkeyS <smokymonkeys@hanuman.co.jp>
Subject: [gs-club:0204]偶にしか出ない猿ですが

意見の差異(つまり反論ではなく異論)が認められないMLはつまらないですよ。それが本音というモノなんですかね? 感情的な要素を言葉上から排除するのは、言葉の性質上まず不可能なので、それらを踏まえた上での議論なりコミュニケーションが図れるといいのですが。

例えば数式に「攻撃」するヒトはあまりいません。ところが言葉に対して攻撃するヒトはいますね。どちらもヒトがつくったモノなのに、不思議なものです。

言葉には「価値観の違い」という便利な表現があります。この価値観とはなにか、わたしにはそれがよく判らない。たとえば、価値観が「違っている」ことが「解っている」とすれば、それは理系的な意味での「理解」にほかならない。わたしにとっては、ヒトとのコミュニケーションとはこういう「理解」を得るのが大まかな目標なので、できればここを前提にして、意見の差異をいちいち表明していったほうが面白いです。

 

Date: Tue, 12 Oct 1999 21:17:31 +0900
From: mephisto <mephisto@jwg.vip.co.jp>
Subject: [gs-club:0209]栗田勇『同性愛なればこそ……』

mephistoです、こんちわ。

栗田勇『女人賛歌・・・甲斐庄楠音の生涯・・・』の中の、
「同性愛なればこそ……」という文章です。

   楠音の生涯をたずねてゆくと、その伴侶として現れる女はいない。榊原
  始更をはじめとする、細面で若々しい肉体をもった青年たちの群像がある。
   親しい人の話では、二人はほとんど夫婦のように同棲生活を営んでいた
  という。御遺族の好意でみせて戴いたおびただしい写真のなかには、まだ
  二十歳の頃と思われる楠音と、その友人たちが、惜し気もなく、アポロン
  の裸身をさらしている。三島由紀夫が偏愛したあの聖セバスチャンの像の
  ようにポーズをとり、あるいは大作の絵画作品のまえで、ニンフと半獣神
  のようにたわむれている作品としての映像が残されていた。そこでは青春
  と欲望と肉体が、美と快楽のなかでなんのためらいもなく受け入れられて
  いる。ホモセクシュアルの華麗な精神風土が展開されていた。
   ホモセックスといえば、男の世界で女は関係ないではないかと言うかも
  しれない。それは浅薄な誤解である。
   一般の男女にとっては、肉体の欲求と精神的渇望は肉欲という形で一体
  化している。肉の渇きと精神の渇きは同じ渇きであり、肉が満たされると
  き、精神もみたされて、肉と精神は、いわば即自的に融合し、欲望は消え
  さり、意識は消えてゆく。
   しかし、同性愛にあっては精神的な渇望は肉の欲望によって、完全に満
  たされることはない。あるいは肉欲が、不自然なために、つねに精神は渇
  きつづけている。一口でいえば、精神は肉体のなかで眠ることなく、いつ
  も肉を肉として意識しつづけているのである。肉体と精神はひとつの身体
  のなかでの二つの原理として別々に働かざるをえない。
   さらに、肉欲が弱ければ、生理的、社会的な条件の枠に多くの場合はと
  じこめられて、自然の性にしたがうはずである。だからホモセクシュアリ
  ティには、そのような条件をすらふり切るほどの激しさがつねにつきまと
  うのである。
   ホモセックスが、しばしば、ふつうの性愛より過激なのはそのためであ
  る。そして、男らしさは意識的であるために、いっそう自然の男より男で
  なければならないし、女らしさもまた、純粋に女以上に女らしさが強調さ
  れる。さもなくば、とうてい同じ性の人間が、男・女として異った性を演
  ずることはできないからである。
   楠音が女を見るとき、自然の女のなかにある、さまざまな姿のなかから、
  もっとも、女である部分が強く意識され、強調されることになるのはその
  ためである。小柄な楠音は、ホモセックスの場合、子供の頃から自ら女と
  して人生の性を演じてきた。女性である証しの受胎と、妊婦、女体の太り
  ぎみの肉附が、彼には女の精神とは異った、いわぼ純粋な女の性として認
  識されている。だから顔も頭もいらない。彼の女体はなによりも、肉体と
  精神の分離・乖離から生まれた女の生理そのものの真実を描いていた。
   そして、その肉の鎧をまとった、ついに肉の宿命のなかに宿住できない
  悲哀が女の瞳に永遠への思慕を宿らせるのである。あの神秘への目差しは
  むしろ甲斐庄その人の純粋なる性への憧憬であった。霊と肉との闘いとい
  うキリスト教徒にとっての宿命的な課題を、彼は身をもって生きねばなら
  なかった。熊沢氏が、彼の作品の女に、マグダラのマリアの七つの原罪を
  見るのはそのためである。じじつ、甲斐庄自身、「私の描く女たちは皆聖
  女なのです」というほかはなかった。彼にとって女とは肉であり肉とは呪
  いであり、彼自身の負った宿命であった。
   この肉体が、意識をかなぐりすてて、たとえば酒に酔ってむき出しに生
  きはじめるとき、すさまじい肉の乱舞が花ひらく。彼は、ウィリアム・ブ
  レイクに似た、舞姫の姿を描いているが、日本画の舞い姿が、むしろ肉体
  を、衣裳と様式の中にとじこめ、いわば肉を昇華し、肉の匂いを消してし
  まうところに究極の美を求めたのに対して、甲斐庄の舞姫は、衣裳のなか
  の肉の途方もない、すべての抑制をかなぐりすてた、裸をむき出しにして
  みせる。まさに魔女の夜宴が現出する。
   彼の描く太夫は、美しく着かざっているが、しばしば島原の格式高い太
  夫ばかりでなく、「船まんじゅう」とか「白首」と呼ばれる最下等の娼婦
  をも、驚くほどの迫真力をもって好んで措いている。いや、云ってしまえ
  ば彼の描く裸婦像は、ほとんど、いいようのない娼婦の匂いをただよわせ
  ている。それは、いま述べたように、娼婦という身の上からくる、心と肉
  体の乖離、精神を欠いて、ただ投げ出された肉だけが描かれているからで
  ある。このほとんど動物的な雌の生理を官能的に自然に描ききった作家は
  他にない。

 

Date: Tue, 12 Oct 1999 21:57:49 +0900
From: mephisto <mephisto@jwg.vip.co.jp>
Subject: [gs-club:0210]栗田勇『虹のかけ橋』

mephistoです、こんちわ。

《引用はEiji Yamaneさんの「[gs-club:0153]甲斐庄の「やせた女」」から》
>「虹のかけ橋」大正4年〜昭和51年
>http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/8284/kainoshou/s-s5101.JPG

上の甲斐庄の『七妍』別名『虹のかけ橋』という作品について、
栗田勇は『女人賛歌』で以下のように論じています。

    虹のかけ橋

   それから、展覧会に向って、この「七妍」とよばれる処女作を六十年ぶ
  りに完成する作業がはじめられた。
   七人の太夫に、楠音は、人生のすべての関心を盛りこもうとしていた。
   すでに述べたように太夫は、席のなかで身分は高くともひっきょう売買
  される肉そのものである。それだからこそ、肉以上のものとするための簪
  や衣裳打ち掛けの人工の極をきわめた儀式が必要なのである。
   そこに、人間の心の表現である一通の手紙が、言語が、精神が投げこま
  れている。
   手紙とは、見知らぬ外界から、とつぜん訪れる、闖入者である。時をえ
  らばぬ侵入者である。肉体とはまったく次元の異ったものである。
   その精神が七人の肉体にどのような反応を惹きおこすのか。
   心にめざめた肉体を仲間はどう眺めるか。
   そこには肉と霊のドラマがあり、そして、誰のものとも分からない手紙
  のひきおこした運命の展開が危機を孕んで、絢爛たる衣裳の装置のなかで
  いま華ひらこうとしている。
   頽廃と激しい精神のドラマが、伝統的な構成と画面のなかに見事に集約
  されている。
   ここにはまさに日本画という伝統美、京都という土地に、美の官能を一
  身に引きついで生きてゆこうとする甲斐庄とその友人達、そこに投ぜられ
  た洋画の世界、日本の近代をとりまいて受けとめかねている七人、また、
  それぞれに自らの運命をえらびとろうとしている七種の人間の姿が問われ
  ているのである。
   彼は、この手紙を「虹のかけ橋」とも呼んでいる。まことに自らの意図
  を云いあてたといえるだろう。
   これをついに完成するために、楠音は六十年を要した。
   手紙は誰から誰に宛てられたものとも分からない。一人一人が、己れに
  向ってあてられた恋文と思って読むがいい。未知の愛人からの手紙をどう
  読むかでそれぞれの運命が変ってくるはずだ。
   七人の絢爛たる太夫が髪に櫛、笄をさして一巻の手紙をひろげて、手に
  手にとっている。
   中央には、正面を向いた、もっとも華麗な衣裳をつけた太夫がきっと見
  得をきるように、いわば己の宿命をまっこうから受けとめ、挑むように静
  かに力強く未来を見すえている。
   右方には二人の芸妓が、何か相談をしている。一人は朱の長いきせるを
  口にささえ、うつむきかげんに手紙をみている。
   もう一人は、みかえり美女の姿でこれにこたえている。
   左方には四人の太夫がいる。
   やはり三人が、手紙の文に目をやり、一人が見かえっている。
   ここには、あの「彦根屏風」いらいの、女人群像を描いた桃山から江戸
  初期にかけて華を咲かせた美人画の源泉が、あざやかに意識され描き直さ
  れている。
   また「七妍」という、七人の妍〈ケン〉を競う太夫という画題は、有名
  な水墨画のテーマである「竹林の七賢」の七賢をもじったものである。
   じつは江戸末期、固い道学者風の水墨画のテーマを粋にもじって美人画
  を描くのが流行ったことがある。
   甲斐庄はその伝統をふまえて、七賢にかわって七妍を描いたのであろう。
   しかしそこには、美人画を、たんに浮世絵の延長上にだけとらえずに、
  むしろ、元禄以前の日本ではじめて遊里の生々しい女人像が描かれた、寛
  文美人画の構図にさかのぼって、女の生きた姿を描こうとしている。ここ
  には、きわめて正統的な日本美人画に対する研究とまっとうな伝統の継承
  とがあきらかに試みられている。
   彼以外に、江戸初期のほぼ五十年、寛文までの生々しい生気にあふれた
  遊女に注目し、これを現代に再現しようとした画家は見あたらないのであ
  る。
   江戸初期風俗画に深い人間描写をよみとるようになったのは、美術史的
  にみても、近々、
  ここ十年ほどのことにすぎない。
   その当時でも、甲斐庄の狙いは革命的であり、天才的な直観をもって、
  近代日本画の立ちかえるべき原点を見据えていたといっていい。
   この頃、麦僊は例の新古典主義にとじこもる以前、いわゆる桃山調とい
  われる、大胆、奔放で、開放された肉体を誇示する女人群像を措いている。
   しかし、麦僊のこの類の女人は、あまりに素朴、健康で、単純に肉体を
  誇示しているにとどまっている。
   じつは美人画は、桃山においては成立していないのである。桃山調・桃
  山的ならばこうだろうという推測にすぎない。
   これは私の持論だが、あの激しく荒っぽい桃山時代の心と肉体をもった
  女人像が熟し描かれたのは、桃山時代が終り、名前が江戸と名をかえた江
  戸初期、慶長から寛文にかけてなのである。この時代こそまさに桃山的な
  ものが、実をむすんだのである。
   なぜなら、桃山時代に生まれた人々が育ち生きたのは江戸だったからで
  ある。
   この自明の理を忘れている。
   甲斐庄は、この「七妍」を、またわざわざ「虹のかけ橋」と呼んでいる。
   なぜだろう。
   手紙は彼女たちにとって、空に描かれた美しい幻想、虹に他ならないか
  らである。
   手紙はおそらく男がめんめんと恋心を述べ、そして彼女たちを落籍〈ひ
  か〉せて愛の巣を持とうと輝く幸せな未来を約束していた。しかし、それ
  が虹にすぎないことを女は知っている。しかし、虹はいつも美しい。七人
  の女たちは、ともに虹を夢みることでいま心はつながっている。
   しかし、虹が消えたらどうなるのか。
   その虹は青春の別名だといってもいい。
   大正は日本画の青春だったといってもいい。
   そして虹は消えた。
   甲斐庄が、そこまで意識したかどうか分からない。しかし、今日この絵
  をみる者はそこに虹のかけ橋の隠された、あまりに正確な寓意をよみとら
  ずにはいられない。

 

Date: Tue, 12 Oct 1999 22:38:17 +0900
From: mephisto <mephisto@jwg.vip.co.jp>
Subject: [gs-club:0211]「畜生塚」の謂れ

mephistoです、こんちわ。

《引用はEiji Yamaneさんの「[gs-club:0155] 甲斐庄の「肥えた女」」から》
>「畜生塚習作」大正8年
>http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/8284/kainoshou/f-t0804.JPG
>「畜生塚」大正4年頃
>http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/8284/kainoshou/f-t0401.JPG

「畜生塚」について調べました。

まず広辞苑です。

 ちくしょう‐づか【畜生塚】
  一五九五年(文禄四)豊臣秀吉が、養子秀次の乱行を憎んで自殺せしめ、妻
  妾子女三十余人を斬に処し、その死骸を秀次の首と共に埋めた塚。今、京
  都瑞泉寺内にある。

次に栗田勇『女人賛歌』の一文です。

   はじめに竹村俊則「新撰京都名所図会」によって畜生塚をあらためて紹
  介しておこう。
   瑞泉寺は三条小橋の東南(中京区木屋町通三条下ル東側、石屋町)にあ
  る。慈舟山と号する浄土宗の寺で、慶長十六年(一六一一)角倉了以〈す
  みのくらりょうい〉が豊臣秀次の菩提を弔うために建立した寺である。
   豊臣秀次は秀吉の姉の子で、その甥にあたる。彼は、秀吉に実子がない
  のでその養子になったが、文禄二年(一五九三)八月秀吉に実子(秀頼)
  が生れるにおよんで次第にうとんぜられた。これは秀次に性格異常のとこ
  ろがあって、日常の行動に粗暴で残酷なおこないがあり、遂に謀反をくわ
  だてたという理由で捕えられ、文禄四年(一五九五)七月十五日、高野山
  において自刃せしめられた。年二十八であった。次いで同八月二日、秀次
  の幼児および妻妾二十九人(あるいは二十八人ともいう)も、同じく三条
  河原において処刑された。
  「甫庵〈ほあん〉太閤記」によれば、徳永邸に捕えられていた妻妾達は、
  その前日に今世のいとまを告げ、袂別の文、辞世の歌などをかきしたため
  た。そして当日は白装束に身をかため、囚車にのせられて三条河原に引っ
  立てられた。河原には二十間四方に壕を掘り、鹿垣〈ししがき〉をゆいめ
  ぐらし、橋の下、南に三間の塚を築き、その上に秀次の首を西向きにうち
  すえてあった。妻妾達は、そこで秀次の首を拝ませられ、次いで壕のそば
  にすわらされ、冷血無酷な河原者によって首を斬られた。いとけなき幼児
  は、小犬をひっ下げるようにして、二太刀につき刺し、まだ息があるのに
  壕へ投げすてられた。これは処刑にあらずして、屠殺である。
   このとき、奉行として立会ったのは、石田三成・増田長盛・前田玄以で
  あったが、この惨酷な処刑にもかかわらず、彼等はすこぶる冷静な態度で
  あったので、世の人々は、この事件は彼等のざん言によるものであろうと
  噂し合い、このことがあって以来、秀吉への呪祖の声は一層たかくなった
  という。またこの処刑は、かくかくたる秀吉の伝記中に一大汚点を印した
  ものとして、後世の史家のひんしゅくをかったことは注目される。
   妻妾達の遺骸は一カ所に埋葬し、その上に塚を築き、「秀次悪逆塚、文
  禄四年七月二十一日」と刻した石塔をたててしるしとした。この塚を一に
  「畜生琢」ともいわれるのは、殺された妻妾達の中の一ノ台局(右大臣今
  出川晴季女・三十一歳)と、お美屋ノ前(十三歳)は母子であり、また右
  衛門ノ後殿(三十五歳)とお松ノ前(十二歳)も母子であって、それを妾
  としたのは人倫にそむく行為である、といわれたからであろう。
   一説に一ノ台局は、もと秀吉の側室であったが、秀吉の好色にたえかね、
  親元へ逃げ帰っていたのを、今度は秀次に所望され、秀吉に内証で妾にな
  っていたからともいわれ、諸説あってあきらかでない。
   この塚は、その当時、順慶(一説に慶順)なる法師によって菩提を弔わ
  れていたが、その後、鴨川の氾濫などによって荒廃した。それが十六年後
  の慶長十六年(一六一一)角倉了以が高瀬川の開鑿にあたり、たまたま墓
  石を発掘したので、僧桂叔と相談の上、碑面にある悪逆の二字をけずりと
  り、修築した塚にこれを埋めるとともに、さらにその上に新たに碑を建て
  た。そして、大仏殿建立の余材を得て一宇を創建し、秀次の法名をとって
  瑞泉寺と号し、桂叔和尚を開山とした。これが当寺の起こりである。
   現在の堂宇は天明大火後の再建であるが、本堂には本尊阿弥陀如来像を
  安置し、地蔵堂には秀次の引導仏といわれる地蔵尊を安置する。また寺宝
  に有する妻妾達の辞世の和歌は、生前着用するところの着物の裂片をもっ
  て表装したものとつたえる。
  〔秀次及び妻妾達墓〕は境内の西南隅にある。世に悪逆塚とも畜生塚とも
  いわれる。墓石は石造六角型の宝塔で、表面に
    瑞泉寺殿前関白秀次入道高巌道意尊儀
   としるし、側面左右に子女五人の法名をきざむ。その右には妻妾達の墓
  があり、左には篠部淡路守外殉死諸士の墓がある。また墓前の左右になら
  ぶ四十九基の小五輪石塔は、昭和十七年(一九四二)大阪豊公会によって
  建てられたもので、秀次の子女五人、妻妾侍女三十四人、殉死者十人の姓
  名・法名・年齢をきざむ。

 

Date: Tue, 12 Oct 1999 23:26:59 +0900
From: mephisto <mephisto@jwg.vip.co.jp>
Subject: [gs-club:0212]栗田勇の『畜生塚』讃歌

mephistoです、こんばんわ。

「畜生塚」大正4年頃
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/8284/kainoshou/f-t0401.JPG

この甲斐庄楠音の『畜生塚』について、栗田勇が讃歌を書いています。

   ここには二十一人の裸身が描かれている。
   ただ二人だけが顔に胡粉を塗るところまで描きこまれているだけだ。
   顔や人物よりも女の肉体、いや肉が、とことん、おそるべき存在感とヴ
  ォリユームをもって墨一色で描かれている。描くというよりも盛り込まれ
  ているのである。
   一目見たとき、誰しもその肉の激しい、叫びに圧倒される。しばし息を
  のんでいるだけだ。
   中央には、失神しているまだ幼い躯の少女を、しつかりと抱きかかえて、
  正面から運命を見据えている女人がいる。
   おそらく、この二人は母と娘であろう。
   右から傷ましい乙女の髪に口づけをしている女、崩れよこたわる乙女の
  躯を下からさし上げるように膝をつく女。母の嘆きを共にしようと迫る女。
   自らの汚辱と苦悩、それにもましていたいけな娘の苦悩をわがこととし
  て受けとめている母は、女としての二重の苦悩の底にいる。そこでは血の
  つながった肉の痛みが、まさに能面の目のように冷たくシンと静かに燃え
  ている。
   死をまえにして、苦悩に燃えあがる炎のように、二十一人の女人が、裸
  の肉ビラミッドを盛りあげているのだ。
   私たちは、そこに直ちに、ミケランジェロの彫刻、三つのピエタの像を
  想起することができる。
   当時楠音は、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチ、ラファエロなどイタリア
  ・ルネサンス期の作家の画集を毎日、あくことなく眺め、熱心に模写をし
  ていたという。そのルネサンスの古典的な構図が見事に、死をまえに苦悩
  の炎をあげて燃えあがる若々しい女人の肉体によって実証しているではな
  いか。
   キリストの受難もミケランジェロのピエタにあっても、そこには深い肉
  の悲しみがこめられていた。
   三つのピエタのうち、初期の像はむしろ静かで古典的なマリアの腕のな
  かに眠るようなキリストが彫られている。そこには、苦悩と死から解放さ
  れた、やすらかな永遠の眠りがうかがわれる。
   ところが、中期になると、キリストは果して救われたのか、彼は果して
  神の子であったのかという苦い疑問が彫刻の肉体を重く、息苦しいものと
  している。
   晩年のピエタ像には、死と苦悩にうちひしがれ、崩れたキリストの肉体
  と、ただわが子を失った悲惨そのものの母の姿が、未完の荒削りのピエタ
  に刻まれている。
   ミケランジェロは晩年にいたるほど絶望の淵へと歩み入ったのであろう
  か。
   私は、楠音も同じこの疑問を抱きながらこの女人群像を描いたのではな
  いかと思う。
   ここには、死をこえて何かを見据えている女人が中央にいる。だが悲嘆
  の叫びが彼女を炎のように包んでいる。
   そして右方には、あるいは祈り、あるいは涙にくれている五人の女がい
  る。
   左方には、放心したようにあらぬ方を見すえる少女、うちのめされたよ
  うに首をうなだれ歩み去ってゆく三人の女が描かれている。
   この、未だ運命に抗がい、泣き嘆く人々、そして、うなだれて歩み去っ
  てゆく人々、その只中にあって、いまや苦悩の源と化した愛する娘をしっ
  かりと抱いて立ちつくす母。
   その描かれた肉体が墨一色でありながら、あまりに生々と、輝くばかり
  に描かれているが故に、その死が信じられないほどの傷ましさを思わせる。
  永遠の生を生きつづける女人の肉体の汚辱がそこにある。
   肉体は、死という意識や心の傷手とは無関係なほど美しく輝きつづけて
  いる。
   だが彼らは知っている。己たちの死と凌辱を。この引き裂かれるような
  ジレンマのなかで彼女たちが見すえたのは何だったろう。
   それは人間の宿命である。人間が人間であり女が女であるという、どう
  しようもない真実である。
   だが、これほど明らかな真実にのっぴきなく直面させられるとき、人は、
  己の運命という仮のたわむれに動かされるのである。
   その向うに天も地も、宇宙の星が永遠にまたたく真理にこれが合致した
  のを実感する。
   その時、諦念から静謐へと転身する。
   この画面は、そう語っているように私には思える。
   するとピエタの像からいつしか、あのボッティチェリの春の女神たちの
  姿がみえてくるのであった。
   女神たちはさらに燃え上り焔となって天へ昇る。そこには、ウイリアム
  ・ブレイクの「神曲」挿図、煉獄で永遠に愛人と抱きあって宇宙を舞いつ
  づける愛の歌がきこえてくる。
   この作品にはひとつの【讃歌】のひびきがある。
   彼は、日本画と洋画の源泉をさぐつて、ついに、ルネサンス初期に独り
  達していたのだろうか。
   彼が学んだ、ルネサンスの天才達の遺産が、みごとに京の日本画の土壌
  に花を咲かせているのに驚かざるを得ない。
   私はいつも思うのだが、西欧画の油絵が、完成したのは、近代せいぜい
  三、四百年のことにすぎない。
   それ以前の西方の絵は、遠近法もちがって、壁に水彩で描かれたフレス
  コ画や、聖像、宗教画、そして、ロマネスクの芸術であった。
   そこでは東と西という決定的な相違はない。もし、日本画と洋画の接点
  を求めるとするなら、中世末からルネサンス初期へ遡るのが正統であるは
  ずだ。それ以外にはありえないと。
   そんな私の考えをすでに五十年も昔に、甲斐庄楠音は実現していた。
   しかし、この絵は未完である。
   ついに完成にいたらなかった。
   私にはそれは必然だと思われる。完成するにはまだ永い年月が必要だっ
  た。彼自身としてもまた日本画の歴史にとっても、その時期はまだ来てい
  なかった。
   戦争が、そして文化の方向がそれを中断させていた。
   いまになって日本画もようやく、この楠音が立ちどまったところから歩
  きはじめたようである。
   しかし、この作品は未完なるが故に、ひとつの精神の極致をあざやかに、
  そしてあらわに結晶させていたのである。

                      (栗田勇『女人讃歌』新潮社から)

 

Date: Wed, 13 Oct 1999 18:00:02 +0900
From: mephisto <mephisto@jwg.vip.co.jp>
Subject: [gs-club:0214]『毛抜』@「甲斐庄、異性愛者説」

mephistoです、こんちわ。

《引用はEiji Yamaneさんの「[gs-club:0195]甲斐庄、異性愛者説」から》
>----- Original Message -----
>送信者 : mephisto <mephisto@jwg.vip.co.jp>
>件名 : [gs-club:0194] 楠音の祖父について
>> 彼は、オカマとして日本で最高の家柄にうまれたサラブレッド、なのです。
>
>この結論は、以前のmephistoさんの、「甲斐庄、異性愛者説」につながるの
>ですね。甲斐庄の同性愛は、幼少時からの特別な教育の結果であり、
>彼の素質は、通常の異性愛者であったであろうという。

そうです。先天的に同性愛の素質を持っていた人でも、後天的に異性愛を教育されて、異性愛者として一生を送ることができるように、先天的異性愛者でも、教育次第では、その一生を同性愛者して送ることができるはずです。 甲斐庄楠音の場合、そうであった可能性も考えられる、ということです。 もしそうであったとしますと、彼の絵の解釈をするときに、別の平面がひらけてくる、ということがあります。

たとえば、

《引用はEiji Yamaneさんの「[gs-club:0179]甲斐庄の「ふたり」「その他」」から》
>「毛抜」大正4頃
>http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/8284/kainoshou/m-t0401.JPG

この『毛抜』という絵は、「細面の若い男性が、顎のヒゲを、毛抜きで抜きながら、憂鬱な顔をしている」というものですが、解釈として、二つが可能になります。

甲斐庄が同性愛者でり、女性として振る舞いたいという性向を持っているとしますと、この絵の人物は「私は、女でいたいのに、どうしてこんなヒゲなんか生えてくるのだろう」と、自分に肉体を不愉快に思っていることになります。

甲斐庄が異性愛であり、男性でありたいと感じているとしますと、「俺は男のだから、ヒゲが生えるのは当然だ。それなのになぜ俺は、ヒゲを抜かなくてはならないのだろう」と、自分の境遇に不快感を持っていることになるでしょう。

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