
甲斐庄楠音研究18
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From: "hakushou" <copper@par.allnet.ne.jp> 白翔です。 それにご自分の言葉が飛び交うようになった分面白くなっている。ところで皆さん、絵の解釈が楽しいようですねえ。まあいろんな楽しみ方をしても良いのだけれど、聞いていられない。例えばマムさんが横櫛胸像に対して「狂相がある」と言った場合、その感じ方の裏に用意されている物語を語って欲しいなあということが注文としてあります。私には狂相には見えませんから。「神々しい」という場合もおなじです。つまり絵の感想であれ解釈といった場合、まさしく投影ですからその裏には必ずご自分のある物語を用意しているわけです。感想や解釈が面白いというのも想像力がかなり自由に羽ばたけるということがあるんじゃないのかな? そう? だから、いかようにもなるわけです。感想や解釈とはそんなもんですから。特に解釈は理論じゃあありませんから。恣意的なものです。気分と言っても良い。だから、ここで使っている解釈という言葉は感想と同じ言葉です。例えば精神分析的解釈といった場合、臨床のデータとして、ある一定の方式による分析を行ってあるマニュアルによって結論を導き出す。初めて理論になります。だからその裏に持っている用意している切り口を明確にしませんか? 実際トータルで語るしかないというのが結論ですが、それではまるで味気ないと言うことなら厳密に検証していくと言葉だけがグルグル回るだけです。でも面白い議論にはなります。昔から「唯物論」か「観念論」かという一大哲学論議が有名です。 マムさんの甲斐の庄論、絶賛こそすれまだ確たるものは聞いてないような気がする。とっ掛かりだけでもいかがでやんしょうねえ? 「白百合」の件、反論する必要があるのかなあ? 「白百合は、瑞々しいのがふつうではないでしょうか。」フンニャ。そうとは限らん。絵描きは大体写生するもんです。写生するとああなります。意味的には「白百合」の範疇です。付帯的なものはついてない。純白の百合を描こうたって描けますか? 甲斐の庄に。「きたない絵」が個性だから、清らかな純白の百合を描く方が難しい。彼は最大限純白に描いたつもりだよ。さて誰を知ってますかねえ? ユトリロは? 彼はモデルを前にして誰を描くにしても長い首に卵型の頭部が乗っている。彼のフィルターを通すと花を描いても同じような雰囲気になるわけです。ビュッフェなんか思いだしますか? 人物を描こうが花を描こうが針金みたいな厳しい作品になる訳です。必ず作者のフィルターを通した絵にしかならない訳です。 「しかし甲斐庄の『白百合と女』のそれは、黄ばみ、うなだれ、葉がちぎれています。ですから、甲斐庄の表現意図は、「けがされた」ということなのではないでしょうか。」フンニャ。絵描きの私から見ても普通の写生画の百合としか見えないのだけど。読み過ぎの解釈としか思えないんだけどねえ。むしろ素直に描いてある方だ。いずれにしても純白の花を描いてもきたない絵にしかならない訳よ。甲斐の庄は。いいですか? ヤマネさんは甲斐の庄の無意識の領域の話をしているのではないよ。だってこの絵は聖母マリアの受胎告知を少し一般化して日本訳して描いたんでしょう? トクの妊娠に刺激されたのはどうも考えられる。そうらしいんですね? ん? 裏切りの後だよねえ。トクには憎しみはあると。延長して女なんてという気持ちはあると。「白百合の女」は穢れた女を意識的に描いたんですかねえ? 違うでしょう? マリアのつもりで描いて汚いんでしょう? 神々しいでもいいけど。白百合だけ殊更に綺麗に描けると思う? 甲斐の庄に。 もし、明確にそう言いたかったら、しおれた百合を描きこめばよい。それとも綺麗なままで散ってしまった百合を描けばよい。解るように描けばいい。それくらい変えないと伝わらない。もし甲斐の庄がそれを伝えたかったならばよ。ただねえ、まあ、そういう象徴のいじり方はしないということです。何故か? わしゃ知らん。きまりのようなものだ。梅に鶯、松に鶴。牡丹に蝶に朝吉つあんに貞やんてなもんで対なのよ。甲斐の庄もパロディーを描いたつもりはないだろうから。少なくとも甲斐の庄は神々しく描いたのは事実かな? 正確には解らないけどねえ。本人も無意識の出来事は自覚できない。まあ、無意識の中でヤマネさんのいったことは含まれるかもしれない。それは否定しないよ。要はヤマネさんのその解釈がヤマネさんの甲斐の庄の物語とどう繋がるかということが大事です。そこに触れていったほうが良い。論証とはそこまでやってから。証明のプロセスと言ったって、感受性の問題だからねえ。すべからく感じるというのが基本だなあ。しかも、感じるって正反対の感じ方もしばしば出ている訳でしょう? だから断片断片ではどうにもしょうがない。自分なりの甲斐の庄論の中で語っていかないとどうにもならないて。 一体全体我々の感覚を刺激している物達は本当に存在していると言えるのかい? ただ幻影としてあるだけかもしれない。まるで夢の中のように。それは確めようがあるのだろうか? しかし、一つだけ確かなことは、ああでもないこうでもないとそう考えている自分がいることだけは間違いないだろう。人間は考える葦である。デカルト?? あくまでも私の解釈ですが、「中世の洋画の言葉遣い」がしたかった。そういう絵が描きたかった。何故か? 西洋を取り入れたいという欲求はこの時代あったろう。そして特にダ・ヴィンチは甲斐の庄にとっては救世主だから。皆よりはるかに強い。この絵が自分を捨てて妊娠したトクにどう繋がるかが解らない。一般化したとはいえ聖母マリアだろう? この辺のアンビヴァレンツな心境は解読不可能。 ああ、そうだ。あの「モナリザ」だって妊娠した女という説がある。眉毛がないだろう? それに男性だという説が昔からある。まあダ・ヴィンチが男色者ということからきている説だ。ただ、そんな解釈をいくらしてみてもあの「モナリザ」を理解したことにはならない訳さ。あの不思議な微笑みは感ずるしかないんじゃないかい? あんた方絵描きの企みしらねえな。絵描きと言わず芸術家の企みといっていい。小説を書いているヤマネさんがどうして簡単に絵づらを追うんですか? ご自分の物語に引きつけてどうして分析しないの? 人の良いぼんぼん騙そうといろんな仕掛けをするでしょう? 確かに深層の無意識の快感原則は避けがたく出ます。だからといって表現者ですがな。奇をてらい人を驚かすような仕掛けは十分やりますて。それが表現というものです。自分をどう大きく見せるか。自分の凄さをどう見せるか。考えているのはそのことだけさ。 甲斐の庄論、概ね輪郭は掴まえた。それにテーマも決まった。そして止めた。まあ8割方、私の仕事の方で忙しくなったということはあるけど、他にいくつかの理由があります。一つはじっくり落ち着いてやらないと奇妙なところに迷い込むねえ。テーマの根幹はだいたいお話したあれから大幅には動いてないです。以後、何やかんや考えているが解けなくてねえ。放っております。 あれですよ。直感で掴まえる方がいいんですよ。自分なりのの甲斐の庄論を描こうとするとき、テーマを掴むまで他人の書いたものは読まない方がよいです。資料も最小限の方がよい。だから感じることが総てになる。釣り糸を垂れるようにじっと感じる。資料にしても書いた人の気持ちを感じて下さいね。疑ってよ! というのは、全部が全部本当だとは限らない。編者の評価も伝聞も入っている。 禰子さんへ。私が感じた。私が感じたことこそ重要。それ以上何が必要なのかい? そう言っておやんなさい。感じなければ理性も働かない。熱に浮かされたように考えて、ああ、もういいや、という時がある。興味が尽きたということではなくて、ほぼ私の全体が見えたとき。甲斐の庄の全体が見えた時ではありませんので念のため。結論は若き日と同じようにどっぷり夢中にはなれぬ。ただ出来の悪い奴ほど気にかかる。栗田の讃歌もそんな気分かなあ? 皆さん根幹のところで異議を出してね。空想的甲斐の庄論はまだいいんじゃない? 次のは、まあ、私の残務整理です。寄らば切るぞ。てな調子。 残念ながら、栗田勇の論理のいい加減さが目についてなりませんのでそこから。一体全体この一級の評論家にしてこのていたらく。彼はてっきり理論派だと思っていたのだが情念派なのかねえ? 私は以前、彼の本を読んで感涙に咽んだことがある。いえ、mephistoさんが掲載した断片を読んだに過ぎないからお叱りを受けるかも知れないが、(今は全部は読みたくも無い。)何だろうかとつっかえてしまった。それに、そこまで甲斐の庄を謳いあげてどうするどうする? あたかも天才ダ・ヴィンチのごとく謳いあげるのは意味あることだろうか? ン? そのことで何かを語っているのかい? 「御遺族の好意でみせて戴いたおびただしい写真のなかには、まだ二十歳の頃と思われる楠音と、その友人たちが、惜し気もなく、アポロンの裸身をさらしている。」 甲斐の庄の若き日の懐かしきちんちんに惚れはったん? あんたはんも惚れてしまえばあばたも笑くぼの口かいなあ。えげつなぁ。では麦僊を大観を春草を論じる場合、どんなお褒めの修飾語が見つかると言うのだろうか? それとも甲斐の庄の方が上だと? そいつら評論せえへんてか? いかに異端者好みといえどもそれはあきまへんやろ。ちゃんと位置付けしとかな論理そのものが滅茶苦茶になりまんがな。大観が麦僊が春草が革命者でなかったことはない。謗られてついに王道を勝ち取った日本画の革命者である。その評価をひっくり返すのは無理がある。絵を見比べても無理がある。 甲斐の庄の時代、男女の恋愛が公にはままならない時代、代償行為として稚児遊びは当たり前の公然たるものとしてあったとしても、それも青春期までの話だ。二十歳を過ぎ二十五を過ぎても尚、そのことに執着すれば男色者としてのそしりが待っていた。そのことだけで異端者の汚名はきせられる。麦僊に「きたない絵」と排斥された因にはそのことも入っていたのだろう。もはや公然の秘密になっていたことは疑を入れない。 「私は芸術家なんです。ゲイで何故悪い?(馬鹿こけ。ゲイは最近の言葉や。)多くの優れた芸術家がそうではないか。レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロだってそうじゃないか?それは天才の証でなくて何だ。」甲斐の庄は密かに訴える。「今に分かる。私の絵はダ・ヴィンチなんだ。ダ・ヴィンチの聖母なのだ。いつか分かるときがきっとくる。その時にはほえずらかくな。今はきたないと謗りを受けているが、ダ・ヴィンチの再来だという評価は必ず来る。いまにみていろ。なにしろあの天才ダ・ヴィンチなのだから。」「穢い絵で綺麗な絵に打ち勝たねばならぬと胸中深く刻み込んだ。」というのは評論家の感想なのかもしれないし、甲斐の庄の悔し紛れの言葉かも知れない。やはり、麦僊の言った「きたない絵」の意味はまるで分かっていない。 甲斐の庄の恐ろしい勘違いである。浅はかなものだ。精神性を追求する線の日本画の世界に聖母といえどもの豊満な裸体を顔の陰影をその表情をそのまま持ち込んだ。単に模倣しただけだった。ヴォリュウムの観念をそのまま模倣しては日本画の線が消えてしまう。精神性は跡形も無く消えてしまう。モナリザの陰影を真似てつければ汚くなるだけだ。色感も悪い。油彩の絵具の色をそのまま使えば岩絵具にそぐわない。それが甲斐の庄には分からない。 明治に入ってからフェノロッサの指導のもとに日本画の世界に西洋絵画の陰影の概念を持ちこんだのは岡倉天心率いた横山大観・菱田春草らのそうそうたるメンバーであった。後、彼らは日本美術院を創立する。しかし、当時、新聞などでは朦朧体という悪口をたてまつられて見向きもされなかった。丁度一世代前の話だから、恐らくその影響はある。朦朧体も少しずつ目になれて認められ定着したころだ。西洋を取り入れるべし。彼らの至近の課題であったろう。甲斐の庄は気付いていなかった。何物をも掌の中でこなさないと・・・。横山大観・菱田春草らは西洋のヴォリュウムという概念を光と空気のアンサンブルという日本的な解釈でこなし取り込んでいたのだった。 栗田の同性愛に関する記述を追う。(本位ではありませんよ。ただ出版されたからには正しいか否かの検証には晒される。もう亡くなった方だ。いいだろう。ん? まだだったかなあ?? ん? 確か栗のような顔をした人だよねえ?) 栗田「一般の男女にとっては、肉体の欲求と精神的渇望は肉欲という形で一体化している。肉の渇きと精神の渇きは同じ渇きであり、肉が満たされるとき、精神もみたされて、肉と精神は、いわば即自的に融合し、欲望は消えさり、意識は消えてゆく。」果たしてそうか? そんな幸せな男女の組み合わせが一体どれだけいる? 性を売る女たちの交合はしばしば肉と精神の乖離であるという説明がなされる。さぞ辛かろう哀しかろう。合わせてさぞかし屈辱であろう。よがっといて金取ってついでに後ろを向いて舌まで出したのに辛かろうとはこれいかに。愛し合っていない男女の場合はどうなのか?男女の睦み合いが全て上述のようにきれいに昇華されていくとは限らない。むしろ幸せなごく一部の愛し合う者達にしか当てはまらない。で? その場合でも男が早漏だったらどぎゃんする? 女が頑なな理性の鬼だったらどぎゃんする? いくものもいきゃあへんたい。 栗田「しかし、同性愛にあっては精神的な渇望は肉の欲望によって、完全に満たされることはない。あるいは肉欲が、不自然なために、つねに精神は渇きつづけている。一口でいえば、精神は肉体のなかで眠ることなく、いつも肉を肉として意識しつづけているのである。肉体と精神はひとつの身体のなかでの二つの原理として別々に働かざるをえない。」 男女の場合もそうだ。肉体と精神はいつも二つの原理として働く。肉体と精神との乖離が大きくなり、夫々の渇きが充満し、社会問題にされ始めたのは何も新しい話ではない。新手の風俗産業の隆盛のたびに「寂しき現代人」の性と愛が語られる。それに同性愛の肉欲が不自然だとは時代の感なきにしもあらず。人間にとって本能は壊れている。それゆえに文化という擬似本能を作った。日本の文化における「男色」の禁忌というのは一体全体あったんかい? 明治以後、御上が政治的に多少持ち込んだとしても民衆のレベルでは特別に恥ずべき行いとしてあったとは思われぬ。たとえ一夫一婦制度を御上が強制はしたところで依然として農村においては乱交は続いているようなもの。ただし、女は不浄の者として社会的にも低い位置にあったとしたら、その仲間には加えられるのは言うまでも無い。そのことで恐らくプライドは傷つけられる。そして、社会的地位は保証されない。 栗田「さらに、肉欲が弱ければ、生理的、社会的な条件の枠に多くの場合はとじこめられて、自然の性にしたがうはずである。だからホモセクシュアリティには、そのような条件をすらふり切るほどの激しさがつねにつきまとうのである。ホモセックスが、しばしば、ふつうの性愛より過激なのはそのためである。そして、男らしさは意識的であるために、いっそう自然の男より男でなければならないし、女らしさもまた、純粋に女以上に女らしさが強調される。さもなくば、とうてい同じ性の人間が、男・女として異った性を演ずることはできないからである。」 これも又頭で作り上げたような観念の物語に過ぎない。ひたすら静かに抱き合うホモセックスもあれば、むやみに激しく演じ合うホモセックスもある。人夫々の好みだと言っていい。その代わり、好みはうるさいよう。デブ専。ちび専。なんのかんのんて。シチュエーションもうるさいのなんのかんのんて。いや〜ん、先生、恥ずかしい。 その後の説明もおなじみの観念の物語をやすやすとはめ込んだだけなのか? 栗田「そして、その肉の鎧をまとった、ついに肉の宿命のなかに宿住できない悲哀が女の瞳に永遠への思慕を宿らせるのである。あの神秘への目差しはむしろ甲斐庄その人の純粋なる性への憧憬であった。霊と肉との闘いというキリスト教徒にとっての宿命的な課題を、彼は身をもって生きねばならなかった。熊沢氏が、彼の作品の女に、マグダラのマリアの七つの原罪を見るのはそのためである。じじつ、甲斐庄自身、「私の描く女たちは皆聖女なのです」というほかはなかった。彼にとって女とは肉であり肉とは呪いであり、彼自身の負った宿命であった。」 驚くべき話だ。罪と罰という神を介在させた精神の抑圧のドラマの無い日本人の精神構造に「霊と肉との闘いというキリスト教徒にとっての宿命的な課題を」押しつけるとは?甲斐の庄にとって肉とは生身の体であり、歓喜であり彼自身の巡り合わせなのである。彼自身も何故アヌスに快感が生じてしまったのか?謎であったろう。たまたま男に愛されたいと願う自分がいた。それ以外ない。それ自体忌まわしいものでも何でもない。男女であろうと男男であろうと、夜の想像力は猥褻であらん限りの逸脱を欲している。本音を言えば血と肉と糞尿のごちゃ混ぜスープを欲しているかも知れないのだ。当たり前の話だ。性の快楽が重々しくも畏くも秘め事としてあったのは途方も無い知恵なのである。昼と夜の想像力の水位の落差を作り出す儀式なのだから。俯いたチンチンが天を指差すのもその電位差に他ならない。しんどいよう。ほんとにね。この電位差いかんでは俯いたチンチンは前へ習いをするに過ぎないから。もしくはフニャフニャ。ムニャムニャ?狸寝入りをするしかない。 Aテン神経にドーパミンがドバーっと走るのに忌まわしいもくそもあるものか。快感以外、喜び以外にありはしまい。あえてキリスト教徒の受難を持ち込むは意味の無い遊びではない。聖なるものを汚すことこそ法悦への近道。そのくらいの仮想禁忌を作る知恵はある。聖セバスチャンだってさ? そしてなによりもカニよりも私はダ・ヴィンチ。駄・ヴィンチ。気取り屋のアポロンとナルキッソスの気質は生涯変わることはあるまい。 男色者の悲しみとはひとえに社会的存在としての否認と差別にある。激しく燃え上がるのはその為だ。肉の喜びは倍化し二人の一体感も倍化する。これは男女の間柄とて同じことである筈。道ならぬ恋こそ激しく燃え上がる。この世にはあなたはんしかいやしまへん。ひしと抱き合う二人。あんたはんねえ、40人もとっかえひっかえ、あんたはんしかいない、って? ええかげんにしとくんなはれ。浄瑠璃・歌舞伎でおなじみの心中・駆け落ちが扱われる道行きの場面はきまって道ならぬ恋の物語。個々の睦み合いにあるのは痺れるような快感だけである「ええか?ええのんか?そんなにええのんか?」「へえ〜。男はんに一度抱かれたら、もう死ねられへん。」後は好いて好かれて、ほられて泣いて、又、好いて好かれて飽きられてという男女と同じ恋物語があるだけである。 いずれにしても、栗田は男色者の精神の何物をも説明したことにはならない。だからそのことが彼の絵とどう関係しているのかは栗田も私も未だ不明。男色者(特に女型の方だが)の感性に何か特質といったものがあるのだろうか? これも取りたててあるとは思えない。そして同じように前に打ち立てた疑問。一体全体、直腸のどこに失神するような快感の所在があるのか? そのことが「きたない絵」にどう関係するのかどうか? それに次のような疑問だ。「ほう?分裂病と同性愛?何か閏係がありますか?」「はあ。発症時に男の患者がよくその妄想を口走るということですがねえ。フェラチオの妄想なんですが・・。彼らは無性に吸いたがるのです。アレを。何故かきまってそうなんです。」 恐らく甲斐の庄の心の乖離はもっと奥深いところに認められなければならない。もう一歩全体を捉えきれないねえ。さあ、どこから始めたらいい? 「昭和53年 1978 84歳 6月16日、夕方5時頃、北区西白梅町の丸山アパートの友人大坪末雄氏宅を訪ね、同所で持病の喘息の発作を起こし8時50分頃急逝する。 」年とって尚恋人の元へ駆けつけるはいじらしくもあり、当たり前のようでもあり。84歳にして静かに静かに抱き合ったと思うがいかに。合掌。 ダ・ヴィンチもミケランジェロも甲斐の庄も。取りあえず男色と絵の出来とは切り離すがよかろう。 あいたあいた。ものすげえ時間をくってしまった。いやあ、取り返しがつかない。どげんしょう? では又来週。 |
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Date: Sun, 17 Oct 1999 14:44:04 +0900 《引用はhakushouさんの「[gs-club:0238]久しぶり。」から》 この人って、何様のつもり? なんでしょう。 MLのメンバーみなさんにたいして、「おまえら、ものも知らんの、いいかげん 大した自信ですね。 |
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From: "hakushou" <copper@par.allnet.ne.jp> あはっ。すまんすまん。君をことさら反論しているつもりはないけどねえ。許してくれたまえ。私はプロなんだ。それに甲斐の庄は私の庭先というよりもう仕事場であるアトリエの出来事なんだ。そして本気になって描こうとしている。だから、端はしでけちつけても勝つわけがないじゃないか。でも違うんですよ。オセロゲームに似ている。単純な一言の切り口を示せば、数十年考えつづけてきたことが一遍にひっくり返ってしまう。そんな場面を期待している。私は何度もそれを経験しているからねえ。 |
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Date: Mon, 18 Oct 1999 18:39:43 +0900 mephistoです、どうもどうも。 《引用はhakushouさんの「[gs-club:0242]すまんすまん。」から》 いやぁ、勉強になりました。ありがとうございます。 芸術家の方は、自分だけが「プロ」で、自分だけが「本気」で、ほかの人のやってることは「端はしでけちつけてる」にすぎないことだと、お考えで、この俺様たいして、ほかの連中は「勝つわけない」と信じておられるのですね。 それぐらいの自信がないと、やってけない。それが芸術家なのだ。 この命題は、感情移入できることであり、理解できることです。 世の中の俗物どもが、楽しげにわいわいやっているのを、横目で眺めながら、ある人は詩を書き、ある人は金属板をひっかいている。それを何十年も続けなくちゃならない。それが実業の周辺で虚業を営む芸術家先生の宿命です。柔らかなソファ、とろける料理、香り立つ女体から疎外され、また知識が偏ってるので、ユーモアあふれる談笑にもついていけず、埃っぽいアトリエにとじこもり、ひたすら、冷たい金属板をキーキーひっかき続けるしかない運命です。そんな自分を奮い立たせるには、おれは天才だ、誰にも負けない天才だ、俺の感性は絶対だ、と思うしかない。それしかない。そうしなきゃ自己正当化ができない。 そうですよね。それしかないんだから、しょうがない。(不遇な?)芸術家には、多分、そのほかの選択肢はないのでしょう。それならわれわれは、芸術家先生ってそんなもんだと思って、その無根拠な自信過剰を許容するしかない。そんなとこですか。 どうも、どうも、芸術家先生とのつきあい方、学べました。ありがとうございました。 |
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From: "hakushou" <copper@par.allnet.ne.jp> 白翔です。 私はmephisto三人集めて本音トークをしようとしているんだ。おしいおしい。私がこの話をするや否やつっかかって来たから鋭いやつだとは思ったけど。解ってますよ。男色者の事実を揺らしてみるのは切り口探しだということを。でも聞いていられない。それを揺らすと空想的甲斐の庄論になってしまう。松尾芭蕉は伊賀の忍者だった。これも面白いけど後々種がつきてからのことだねえ。君の甲斐の庄論こそ絶対である。その切り口を示せ。ニの句も告げないような切り口を示せ。 |