| 園 生 貝 塚 の 概 要 |
| 1.園生貝塚の位置と地形 |
| 園生貝塚は,
千葉市稲毛区園生町字長者山に所在する。京葉道路の穴川インターチェンジの西脇,モノレール穴川駅の駅前にあたる。 東京湾に注ぐ小河川である小中台川の支流で,全長約4qの草野放水路の丁度中間のところに,北向きに突き出した,幅約250mの箱形を呈した洪積台地上に形成された貝塚である。標高は約25m,比高は約13mを数える。 かつては,貝塚のある台地北端の下に三角池と呼ばれた小さな池があった。現在は池は埋められ宅地になっているが,現在も水が湧いており,台地の裾を流れ,小中台川に注いでいる。 台地上は緩く南に高くなるが,貝層のある部分に皿状窪地地形が認められる。凹地は,周囲がすべて凹地よりも高くなっており,いわゆる先導谷の箱形地形とは異なる。 |
| 2.現況 |
| 市街化区域で,しかも国道に挟まれ,モノレールではあるが駅前と,都市計画関係者が“無法地帯”と呼ぶ場所にありながら,環状貝塚の部分は千葉県の「緑のマスタープラン」で保存すべき緑地として高く評価されたように,杉の美林が残されてきた。 土地所有者の事情により,1987年から遊技場経営の企業が土地を借りて経営を開始したことに伴い,保存樹林を伐採するなどの開発行為が行われ,“貝層は破壊しないこと”という行政指導にもかかわらず貝層の一部を削平する事態が発生した。それでも,環状貝塚の大半と,そこから西側の台地上は,現在も山林として残されている。 現在は,遊技場を経営した企業が構築物の一部やゴミを残したまま撤退し,巨大迷路やパターゴルフ場など遊戯施設の跡地が荒れ地と化している。 また,モノレールが通る国道16号線沿いは,沿道サービスの店舗が建ち並び始めている。 このように都市開発の波が徐々に及んできているが,まだ環状貝塚の全貌をみることができ,岡田(1978)が評したように保存状態の良い希有の環状貝塚であることに変わりがない。 |
| 3.貝塚の形状 | |
| 園生貝塚の主たる貝層は,北に開口部を持つ,直径約120mの環状貝塚である。開口部にも東西50mの貝層があり,貝層の全形は月星形をていしている。 ピット内貝層など小規模な貝層の分布状況は明確になっていないが,これまで捉えられているものだけをみても,埋文財行政上いわゆる「園生貝塚」と呼んでいる範囲内で12箇所,本来園生貝塚と同一の遺跡である「向原貝塚」と呼ばれている台地の南側を含めると20箇所の小貝塚が環状貝塚の周辺に広汎に展開しており,東側では葭川水系との分水嶺にあたる国道16号付近まで貝層が存在することが知られている。 環状貝塚の貝層部は,周辺よりも1mほど高くなった堤状部に形成されている。凹地の周りは凹地の最も低いところよりもすべて高い,第1形態の環状貝塚である。 この環状に展開する貝層部を詳細に見ると6ヶ所の塚状部から形成されていることがわかる。塚状部は標高約27.5mで,凹地の最も低い地点との比高は3mに達する。 |
園生貝塚の地形と貝層の展開状況注:寺門・山下(1990)の測量図をもとに作成 |
| 4.研究略史 |
| 園生貝塚が最初に学界に紹介されたのは,上田英吉が1887(明治20)年に『東京人類学会雑誌』第2巻第19号に著した「下総国千葉郡介墟記」の記事中である。上田(1887)は,科学的に太古の歴史を明らかにするために,千葉貝塚(貝塚町貝塚群)や月ノ木貝塚など千葉市内の主立った貝塚を調査しているが,その中の一つとして園生貝塚が取り上げられている。こうした『東京人類学会雑誌』誌上の記事を通し園生貝塚の名が広く知られるようになり,明治天皇が千葉を訪れた際に園生貝塚へ立ち寄り,地主に恩賜の煙草が与えられている。 園生貝塚を研究の対象に据えた調査・研究は,1906年11月11日の東京人類学会第2回遠足会が最初である。しかし,参加者が求めた珍品の類は少なく,第2回遠足会は失敗であったし,園生貝塚はろくな物が出ないつまらない遺跡との烙印がおされた。第2回遠足会の模様を特集した『東京人類学会雑誌』第22巻第249号で坪井正五郎や山崎直方が指摘した貝塚の特徴や研究上の課題は,“環状貝塚とは何か”という問題に迫る上でのポイントを突いていただけに,珍品あさりで成功した堀之内貝塚での第1回遠足会より研究上の功績は大きかったのだが,それを発展させることなく終わらせてしまったことが惜しまれる。 その後園生貝塚が注目されたのは第二次大戦後早々で,早稲田大学,慶応大学,明治大学,千葉大学,学習院大学,千葉市誌編纂委員会などが相次いで発掘調査を行っている。だが,完形土器の出土が少なかったこともあり,多くの調査は論文はおろか報告書も出されないまま放置された。その中にあって千葉大学の神尾明正は,約10年間におよぶ継続的調査を実施し,沖積地質編年に関する論文・報告を発表し続けた。しかし,神尾が土器型式論を否定し考古学界から疎まれたことから,神尾のフィールドであった園生貝塚は,保存問題が持ち上がっていた加曽利貝塚を引き立たせるための当て馬にされてしまい,不等に低い評価が巷に広まる原因となった。 1960〜1970年代は園生貝塚を研究対象とする論文はほとんど無く忘れられつつあったが,1987年に園生貝塚が破壊の危機に立ったことから改めて注目されるところとなった 。 千葉市教育委員会は,1988・1989年度,1993・1994年度に発掘調査を実施し,諸磯・浮島式の遺跡でもあることや,「続加曽利E4式」の集落など,園生貝塚に対する新たな知見を加えた。また,1993年の日本人類学会のシンポジウムで園生貝塚が企画されるなど,僅かながら園生貝塚を再評価する動きがみられることや,そうした基礎研究とあわせて遺跡を地域形成の資源として活かす研究が展開されたことも特筆すべきことである。しかし,第2回遠足会の時と同様に後ろ向きのベクトルが甚だ強く,みすみす研究発展の芽を摘みかねない状況が続いている。 |
| 6.園生貝塚村落の空間構造 |
| 園生貝塚の貝種は,葭川流域の貝種と異なるため,小中台川を下った古稲毛海岸に出ていったと考えられる。ボーリングデータによると,園生貝塚が形成された縄文時代後期の海岸線は小中台川を2qほど下流に行った草野放水路と宮野木放水路とが合流する付近にあるので,園生貝塚を形成した人々は採貝のためにそこまでしばしば出かけていたと考えられる。 とすると,その間にある高崎貝塚,狐塚遺跡,東ノ上貝塚など同時期に形成された遺跡と無関係であったとは考え難い。また,最近,園生貝塚を小中台川谷の最奧にある貝塚との前提に立った議論を散見するが,これは明らかに事実誤認で,園生貝塚より上流にも金蔵院山遺跡,名木野内東遺跡など同時期の貝塚が点在している。したがって,園生貝塚の村落に接近するには,こうした遺跡を一体で捉え,その中におけるメジャーユース(大土地利用)を見出す視座が必要になる。 園生貝塚周辺に,居住域,墓域が集中しており,その背後地および小中台川の上流域にある遺跡は遺物量が極端に減り,安定的な居住の場になったとはみられない。だが,そうしたところでも園生貝塚と同時期に形成された黒ボク土がみられるところがあるので,アグロフォレストリや移動耕作の場が広がっていたことが想定されるが,土壌断面データが不備なためその範囲を確定するには至っていない。 また,湧水周辺に広がる湿地に面した緩やかな斜面に形成されている名木野内東遺跡は,表面に散布している遺物量が少ない遺跡にもかかわらず短時間の踏査で石鏃が3個表面採集されている。狩猟場の拠点であった可能性もあり,注目される遺跡である。 千葉市に多い巨大環状貝塚は,台門貝塚,荒屋敷貝塚,荒屋敷(西)貝塚,荒屋敷北貝塚,草刈場南貝塚,草刈場貝塚,姥ヶ作貝塚などが隣り合わせに形成されている貝塚町貝塚群(千葉貝塚)を筆頭に,北前原貝塚,廿五里北貝塚,廿五里南貝塚,東寺山貝塚,東寺山南貝塚が続く東寺山貝塚群,加曽利北貝塚と加曽利南貝塚,月ノ木貝塚と辺田ノ台貝塚,菱名貝塚,築地台貝塚,台畑貝塚など,近隣に複数の環状貝塚が形成される場合が多いが,園生貝塚は小中台川流域にある唯一の環状貝塚である。しかも貝種からみて東に接する都川・葭川流域とは採貝した海を明瞭に区別できるなど,園生貝塚を形成した一単位の村落を見出す上で有利な条件が揃っている。居住域の遺跡調査は無論のこと,遺物量が少ないところでも土壌を対象とした調査を実施することや,貝の微量原子分析を進めることによって,採貝した海,アグロフォレストリの場など,園生貝塚を形成した人々の村落の空間構造に接近することが可能と考えられる。 |