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1/5 あけましておめでとうございます。 1/6 種村季弘『偽書作家列伝』(学研M文庫)を読む。 ニセモノを作った人たちの伝記集。 多くの偽書作家が、年齢の点で間違いを犯しているのは面白い。 ニセモノなんかより、私はリアルとリアリティの違いに興味がある。 1/8 舞城王太郎『山ん中の獅見朋成雄』を読む。 『世界は密室でできている』に似ていると言えば似ている。 だから、面白い。 圧倒的な文体。奇妙な擬音語・擬態語。ラストシーンのカタルシス。 「千と千尋の神隠し」に似てるとか、そんなことは、どうでもいい。 1/9 ドストエフスキー『悪霊』(新潮文庫)を読む。 新潮文庫版でよかった。 「スタヴローギンの告白」が最後に収録されているからである。 最大の読みどころが、最後に来るとカタルシスの度合いが最高になる。 また、マリイの出産時は、かなり感動的。 生命に対する手放しの称賛がドスト氏の魅力でもある。 が、平野啓一郎に倣って言えば、「良質な退屈」が多い。 構想も書きながら変化しているのが、透けて見える。 だから、こう表現してみる。 『悪霊』は、あらゆる文学の失敗作の中で、最高の傑作である、と。 1/13 成人式での若者の素行が問題になっている。 別にいいではないか、と思う。 彼らは、希望のない世界を生きているのだ、とか 彼らは、礼儀というものを教えられてこなかった、とか、 彼らは、自己を表現したいだけだ、とか。 そんなもんではなく、成人式とはマツリゴトなのだから、 壇上に上がるくらいいいではないか、と思う。 「告訴も辞さない」が私には 「お母さんに言いつけてやる」と聞こえる。 文句があるなら、彼らと対峙すべきだ。 退治するんじゃなく。 1/14 ドストエフスキー『白痴』(岩波文庫)を読む。 ムイシュキン公爵を書きたかったのだろうが、どうも退屈。 公爵は、キリストをモデルにしてると思われるが、 キリストのすごさは、「反復」によってしか理解できないはず。 公爵になりたいとも、思えないし。 1/15 ジョイス『フィネガンズ・ウェイク・』と カルヴィーノ『宿命の見えない城』を買う。 『ユリシーズ』『フィネガンズ・ウェイク』が、 文庫落ちしたのは、非常に意味のあることである。 全著作が邦訳されたとき、また代表作が文庫になったとき、 その著者の研究は、爆発的に加速し、深化する。 1/16 19才と、20才で芥川賞ですか。 丸山、石原、大江、平野の23才を抜いて、最年少受賞か。 まあ、男の芥川賞最年少受賞は丸山健二ということで。 1/19 Yoshi『Deep Love』シリーズ4作と、『Dear Friend』を読む。 いわゆる文学的な視点から言えば、「ひどい」の一言に尽きる。 では、なぜ100万部も売れたのか。 ●「絶望→売り→救い→希望」というわかりやすい図式。 ●渋谷という憧れの世界を描いている。 ●読者が「文章の下手さ」に気づいてない。 ●外で傷ついて、内(もしくは周辺)で癒される。その閉塞感。 ●「アユの物語」のアユが、浜崎あゆみの「あゆ」だと、思って買ってる? ●文字量が少ないわりに、いっぱい読んだ感がある。 ●ケータイになれた人たちには読みやすい横書き。 ざっとこんなもんだろうか。 売れるにも売れないにも、必ず理由がある。 それが内在するか、外在するかは別にしても。 1/21 吉川良太郎『ペロー・ザ・キャット全仕事』『ボーイソプラノ』 『シガレット・ヴァルキリー』を読む。 『ペロー〜』『ボーイ〜』は、非常によく書けていると思う。 こりゃ今後の展開が楽しみだと、『シガレット〜』を読んでちょっと萎えた。 文学に不必要な汚物にまみれた小説が反乱する中、 吉川の小説はそういったものからは、自由だ。すべてそぎ落とされている。 ルサンチマンのないハードボイルドは面白い。 だから、マルケンも面白い。 1/22 『人生はAV監督に聞け!』『がなり説法』『てっぺん』を読む。 「若者は勝ちたいと思ってんのかね」という言葉が印象的だった。 確かに、「勝てればいいな」くらいにしか思ってないのかもしれない。 勝利を決めるのは、意志である。 そんな明確で、力強い「イデオロギー」に胡散臭さを感じてしまうのは、 何故だろう? まあ、本当は、問うまでもないんだけど。 1/23 「ダイソー文学シリーズ」全30冊が発売された。 著者一覧を見たとき、どこかで見たことがあるような感覚(デジャビュ)を覚える。 一冊だけ購入してみると、テキストは青空文庫からDLしましたとの注意書きが。 やはりそうか。 冗談でも、勢いでも、悪ふざけでも、間違いでも、何でもいい。 多くの人が本を購入すれば、出版界は活性化する。 ダイソーでも、BOOKOFFでもいい。 ともかくも、本を買いさえすれば、それでいい。 読まなくてもよい。 それからは、あなた自身の問題だから。 1/26 藤原伊織『てのひらの闇』を読む。 まさに、イオリン節全開! 全共闘世代のマスターベーション! 一回りも違う女に「あんたパンピーじゃないわ」って。 ついでに読んだ、「踊りつかれて」「風の魚(うお)」はまあまあ。 「気分はいつも、四月の光」は、とても面白い。 イオリンを読み解くには「成熟」の一言で足りる。 1/27 『回文・人生劇場 好いたらパラダイス』を読む。 が、同じ回文なら土屋耕一の方が数倍魅力的だ。 まあ、以下の句には感動したが。(濁点無視) 星砂は 握って月に 話す思慕 ひたすらな 願いあの愛 鐘ならす旅 くぎり問ひ 遠き滝音 ひとり聴く 1/28 松屋で「豚めし」が始まった。 吉野家がひっそりと縮こまっているのに対して、なんとも果敢な挑戦である。 うまいかまずいかは、別だけど。 2/2 ペーター・ハントケ『不安』『左ききの女』『反復』『空爆下のユーゴスラビアで』。 『反復』は特にすばらしい。 物語そのものを可憐に歌い上げるその声に、ただ聞き惚れた。 現時点での2004年ナンバーワン。 2/3 『ニラサワさん。』(たま出版)を読む。 自社の社長をネタに本を出すという、とんでもない企画。 「トンデモ」の韮澤さんを嘲笑せんとするその意図に反して、 物事を愚直とも言えるほど素直に信じる姿に、本気で感動。 ついでに、綴じ込み付録も笑えた。 そんなひねくれた読み方をするのは、私と韮澤さんぐらいなのかもしれないが。 2/4 森博嗣『君の夢 僕の思考』議論の余地しかない』『詩集 MATEKI −魔的』。 最初の2冊は過去の作品からの抜粋である。 なかなかいい言葉が並んでいる。 それに反して『MATEKI』は・・・。 記憶が正しければ、作者はこれを1日で書いたという。 一言で言えば、詩の冒涜だ。 だって、悪魔的なものから、悪を取ったら、いったい何が残るというのだろう? 2/5 『母さん。』(←164から直売)『死にたい』を読む。 ネタの大量生産を可能にした、枠(=フォーマット)の設定。 だからこそ、中身(=言葉)に対する配慮がもう少し欲しいところ。 まあ、俳句や短歌ほどではないにせよ。 2/6 マックス・エルンスト『百頭女』『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』 『慈善週間』を読む。 文字のほとんどない、絵の小説である。 意味を捕まえたと思ったら、もう手の中にはない。 意味不明なガゼットが盛りだくさん。 絶えず読者を裏切り続ける小説。 読者(=私)の期待だけは裏切らない傑作だった。 2/9 浅暮三文『ダブ(エ)ストン街道』(講談社文庫)を読む。 ポストモダンのさらに先へ進もうとすると、こんな小説になるのだろう。 高橋源一郎推薦というのも、非常によくわかる。 ルサンチマンのない小説を読むと心が弾む。 2/10 浅暮三文『カニスの血を嗣ぐ』(講談社ノベルス)を読む。 五感(六巻?)シリーズの第一弾。 匂いをテーマにした作品なのに、匂いが感じられないのは、どうしたことか。 理由は簡単。慣れていないだけだ。 ラストの解決方法が、匂いにまつわるものであったので、まあ満足。 2/12 浅暮三文『夜聖の少年』(徳間デュアル文庫)を読む。 リーダビリティのかなり高い、上質のエンターテインメント。 浦賀和宏的なガジェットも、さりげなく散りばめたビルディングスロマン。 2/13 浅暮三文『左眼を忘れた男』を読む。 ネットを見ると、目玉の親父かよ、との突込みが散見されるが、 私は、家でのドリッピーを思い出した。 いや、そんなことより、ラストの描写がとても美しい。 それだけで、この本は読む価値がある。 2/16 浅暮三文『石の中の蜘蛛』を読む。 五感シリーズ第三弾。今回は聴覚。 彼の存在を世に知らしめた、ブレイク作である。 音を発掘するという、考古学的なイメージで、小説は展開されていく。 狂気に突っ走るラストのどんでん返しに仰天。 2/17 浅暮三文『似非エルサレム記』(集英社)を読む。 e-Novelsの単行本化。 エルサレム(土地)が動き出すという奇抜な設定。 愚鈍な動物(たとえば、カバとか)が、のっしのっしと動いているイメージ。 ポリティカルなものを目指すなら、もっとラディカルにする必要があるのでは。 2/18 浅暮三文『殺しも鯖もMで始まる』(講談社ノベルス)を読む。 最初のほうはそこそこ面白いが、解決も含め後半がだるい。 初めて書く本格ミステリだから、仕方ないのかもしれない。 2/19 浅暮三文『10センチの空』(徳間書店)を読む。 教科書に採用された、やさしいファンタジー。 伏線の張り方が見事。 浅暮の真骨頂は、ファンタジーにある。 2/20 浅暮三文『針』(早川書房)を読む。 五感シリーズ第4弾。 まず魅力的な謎が提示されていない。 そして、描写がひたすら冗長。 著者自身の文体練習という意味でのみ、読む価値がある。 2/26 初心者マークが貼ってある、自動車教習所の車を発見。 これは一般的なことなのか? 2/27 えなりかずきが、法政大学と成城大学に合格。 あれ、早稲田と青山は? 3/1 安田均『神話製作機械論』(BNN)を読む。 これは面白い。とても面白い。 TRPGのことや、SF関係の本にも言及した コンピュータ・ゲームの批評集である。 どれくらい面白いかというと、エミュレータをやりたくなるくらい。 3/2 『ハイネ全詩集(T−X)(角川書店)』を読む。 「超」がつく豪華な装丁。 表紙の金箔、挿絵の数々。 ハイネのほとばしるロマンティシズム。 数万円したが、本当に買ってよかった。 3/3 livedoorのCMって、ここからパクったのか? 3/4 霞流一『おなじ墓のムジナ』(カドカワノベルス)を読む。 終始ギャグのオンパレードだが、不思議と嫌にならない。 なによりも、素直に笑える。 でも、謎を解決する後半は、あまり面白くない。 3/5 霞流一『フォックスの死劇』(角川書店)を読む。 前作よりも上手くなっている。 ケレン味が薄れ、読みやすい。 でも後半は、やっぱり面白くない。 3/6 霞流一『ミステリークラブ』(角川書店)を読む。 蒐集家の描写は、なかなか読ませる。 山口雅也ほどうまくはないにせよ。 3/10 芥川賞作家二人が売れまくっている。 出版界が活性化するのではとの見方に対し、 村上龍は、構造的な問題を解決しなれば無理だと反論している。 私は「ブーム」がジャンルを確立させると信じている。 「お笑いブーム」しかり、「サッカーブーム」しかり。 だから、綿矢はもっとアイドルに、金原はもっとイタくなればいい。 えっ? ブームが、構造的な問題なんて言わないで! 3/11 「噂の真相」休刊号に舞城王太郎の顔写真を発見。 現在の彼は、よくしゃべり、恰幅がいいらしい。 時を同じくして、サカキバラが仮釈放。 純粋な偶然だろうが、そうとも言えない不思議なパワーを 感じてしまうのは舞城の圧倒的文体のせいか? 3/12 ラルク・アン・シエルの「瞳の住人」を聴く。 泣きそうになるくらい、美しいメロディ。 hydeののびやかなボーカル。 が、詞はもう少し洗練させることが出来たはずだ。 3/15 「佐藤友哉×滝本竜彦 ファウスト・リベンジ・トークライブ」の招待状が届く。 抽選で150人らしいが、後ろから片手で数えられる番号なので、 滑り込みセーフといったところか。 3/16 霞流一『赤き死の炎馬』『オクトパスキラー8号 赤と黒の殺意』 『屍島』『スティームタイガーの死走』 『牙王城の殺劇』 『首断ち六地蔵』『デッド・ロブスター』『呪い亀』 『火の鶏』『おさかな棺』『ウサギの乱』を一気読み。 ものすごくというわけではないが、それなりに面白い。 山口雅也と霞流一は、ともに論理のアクロバットという志向性を持っていて、 それをまじめにやるか、茶化してしまうかで、 それぞれの作風が生まれたのだろう。もちろん、評価もだけど。 3/17 ある人物の「●周年」(「生誕」「没後」など)は、100年間に何回設定できるか。 (1)その人物の歴史的出来事(「生誕」「没後」「渡米」など)を列挙する。(X) (2)出来事(甲)が、出来事(乙)のちょうど50年・100年後の場合、 (同じ年に祝うことになるので)その分だけ総数から引く。(X−Y) (3)一つの記念日は、100年に2回祝われる。 (生誕150周年・200年記念など)(2(X−Y)) 結局、業績が多ければ多いほど、より多くの記念日が設定されることになる。 まあ、でも10年に一回ぐらいが限度(節度)だと思うが。 3/18 コンビニの外にある、警告ランプが光っていた。 気づいていないのか、誰も通報しない。 5m先の交番も反応しない。 誤動作したのは、警告ランプだけじゃないはずだ。 3/19 『モンテーニュ旅行記』『モンテーニュ書簡集』を読む。 モンテーニュ萌えしてる人だけが読めばいい本。 「〜に行った。」という記述が延々と続く旅行記と、 事務的な手紙ばかりを集めた書簡集。 それにしても、『エセー』を読んで萌えない人などいるだろうか? 3/22 Manuel Puig『Blood of Requited Love』を読む。 邦訳がないので、英訳で。 男と女が、対話形式で、過去の出来事を回想するという物語。 二人とも結構、嘘をつく。信用できない語り手というパターン。 読み進めるうちに、読み手である自分も信用できなくなる。 プイグの小説は、時として過ぎるほど挑発的だ。 3/23 Manuel Puig『Under a Mantle of Stars』を読む。 死んだはずの人物が、役割を変えて再び登場する戯曲。 Doesn't matter who you are, it matters how you are. You are...exactly the way I imagined you. この二つの台詞が、すべてを語っている。 3/24 Manuel Puig『The Mystery of the Rose Bouquet 』を読む。 小説では感情表現に禁欲的だったプイグが、戯曲になると一転、 ほとんどすべての台詞の前に「責めるように」などの感情表現を挿入している。 元も子もない言い方をすれば、看護婦と患者が傷をなめあう物語。 (You) brought me into this world. という台詞が印象的。 3/26 「リベンジ・トーク・ライブ 佐藤友哉×滝本竜彦」に行く。 巨視的な視点で創作活動をしているという発言をした佐藤友哉は、 作家として非常に成長しているように思えた。 また、滝本竜彦の「本を(どんなジャンルよりも)愛している」という言葉は胸に響いた。 まじめな話を茶化さずに語れたら、もっと素晴らしいトークショーになっただろう。 3/29 3/26の続き。「リベンジ・トーク・ライブ 佐藤友哉×滝本竜彦」について。 佐藤友哉は「文芸は激変していない」と言い切った。 反対に、東浩紀に影響されて「激変してる」と発言したものの、 論拠をまったく提示できなかった滝本竜彦が、情けなかった。 自分の言葉で語ることができるのが、作家だと私は信じたい。 3/30 飯島洋一『現代建築・アウシュヴィッツ以後』『現代建築・テロ以前/以後』を読む。 アドルノの「アウシュヴィッツ以後、詩を書くのは野蛮である」に反論した建築論。 「それでも多くの詩は書かれてきた。平凡からは何も生まれない。」 アドルノを軽々と論破した傑作評論である。 3/31 畑山博『地上星座学への招待』(生活人新書)を読む。 湖の配置と星座のそれが似てるという、要はトンデモ本である。 しかし、である。 想像力をたくましくすれば、とても楽しめる。 星座はロマンであることを再認識させられた一冊。 4/1 私は嘘が嫌いだ。 だから、今日も嘘一つつかず生きていこう。 そんな嘘をつく。 4/2 小浜逸郎『頭はよくならない』『やっぱりバカが増えている』を読む。 誰でも頭がよくなるわけではない。 それぞれの役割をきちんと考えよう、という趣旨のエッセイ。 タイトルで『バカの壁』に負けている。 でも、内容は面白い。 4/5 土曜日、友人の結婚式に出席。 かなり酔っ払い、派手に騒いでしまいました。 まぁ、慶事ということで許してください。 Yさん。Kさん。末永くお幸せに。 お子さんへの絵本は絶対に作ります。 4/6 dwangoのCM。ダウンタウンの浜田が、 「なんかもぉあれでしょ、もっとつこたらええと思いますけどね。 着メロや着と〜くもあるんやからね」と満面の笑顔で言う。 と、松本が「まぁ俺としてはちょっと微妙やけどね」とコメント。 こういう「しゃれ」のわかるCMがもっと増えて欲しいと思う。 4/7 柄澤齊『銀河の棺』『ロンド』を読む。 『銀河の棺』は、超傑作エッセイ。 本を突き抜けて、宇宙を漂っている自分に気が付く。 『ロンド』は、登場人物の美術についての対話が読み応えあり。 でも、結末に向かうにつれて、どうでもよくなった。 柄澤は狂気を書ける筆力を持っている。 なら、どうしてもっと書かない? 4/8 深夜のNHKで、曜変天目を特集していた。 半年ぐらい前にも放送されていたが、ついつい見てしまう。 世界に3点しかない曜変天目だが、なぜか全部日本にある。 中国政府は、日本にキレたほうがいいよ! 4/9 アンソロジー『未来っぽい戦争』(TBSブリタリカ)を読む。 15人の競作だが、面白いのは蛭子能収と喜国雅彦だけ。 二人ともスタニスワフ・レム的志向があると言ったら、穿(うが)ちすぎだろうか。 4/12 ブレット・イーストン・エリス 『レス・ザン・ゼロ』『ルールズ・オブ・アトラクション』 『アメリカン・サイコ(上下)』『インフォーマーズ』を読む。 『アメリカン・サイコ』には、ぐいぐい引きこまれた。 正気と狂気のぎりぎりのせめぎ合い。 ジョイスを模したという文体。 充溢するディテールの描写。 目を背けたくなるほどのグロテスクな殺人。 久々のヒットである。 が。 他の三作は習作なので、読む必要はない。 4/13 ついにこのサイトが、googleにヒットするようになりました。 「遍歴の汗牛充棟」と入れると、1番目に。 「汗牛充棟」と入れると、6番目に。 というわけで、コンテンツにABOUTを加えました。 4/14 メジャーリーグにあまり興味はないのだが、 松井稼頭央の「稼」「頭」「央」だけは妙に気になる。 誰か突っ込んで!! 4/15 新堂冬樹『血塗られた神話』(講談社文庫)を読む。 メフィスト賞とは思えぬ異色作。 ラストの京子の描写は、ドスト氏を髣髴とさせる。 人間の汚さを思い知らされた一冊。 4/16 新堂冬樹『闇の貴族』(講談社文庫)を読む。 何気なく読み進めるが、いつの間にか、すごい展開に。 ベテラン詐欺師に巧妙にだまされた感じ。 でも、この作品はデビュー2作目。 4/19 新堂冬樹『ろくでなし(上下)』(幻冬舎文庫)を読む。 リーダビリティは、相変わらず高い。 ディテールの描写も、かなりのリアリティがある。 しかし、物語全体のプロットが、あまりに脆弱すぎる。 大きな物語が発動しない世界に私たちが生きているからか。 4/20 新堂冬樹『無間地獄(上下)』(幻冬舎文庫)を読む。 面白いのだが、どうも芯まで伝わってこない。 昨日のプロットの話が、解説で言及されている。 ちょっとだけ驚く。 4/21 新堂冬樹の文学的素養について。 今まで読んだ中で言及された文学的なものは、 シェイクスピア、ブルータス、ヘミングウェー(ヘミングウェイではない) それにしても教養のないホストがどうして、 「ブルータスお前もか」なんて、言うのかね? それ以上は、言わずもがなってことで。 4/22 ニュースでも、新聞でも、なんでもいいのだが、 最近、善悪の判断を安易に行いすぎているのではないか。 拉致られた状況で、テロリストが優しかったとしても、 日本人は演技せざるをえないでしょ? それぞれの立場になって物申せば、善悪なんて決定できる訳がない。 この世界には、善悪以外に憂慮すべき問題がいくらでもある。 でも、今あなたが頭に思い浮かべた問題は、必ず善悪の要素を含んでいる。 その理由が分かればニーチェの言うように「善悪の彼岸」へと行ける。 4/23 特に書くべきことなし。 存在した。 4/26 新堂冬樹『カリスマ(上下)』(徳間文庫)を読む。 リアリティが完全に失われている。 嘘くささは、この作品に始まったことではない。 ディテールを書くとか、そういうレベルの話ではなくて、 描きたいのが「人間」なのか「世界」なのか。 ただそれだけの問題だ。 当然のことながら、「人間」と「世界」は両立できない。 それにしても。 ハイデッガーの「存在論」とデカルトの「大陸の合理論」には笑った。 4/27 新堂冬樹『鬼子(上下)』(幻冬舎文庫)を読む。 なんじゃこりゃ? だから、こういうのだったら、浦賀和宏の方が100倍うまいって! 4/28 山尾悠子『仮面物語』(初版・帯付)を読む。 頭がおかしくなりそうになる。 狂気の世界を正気で読むことはできない。 山尾悠子は天才だ。 真の狂気を目前にした時、くだらぬ狂気などふっとんでしまう。 4/29 山尾悠子『角砂糖の日』を読む。 特異な言語感覚が紡ぎだす迷宮的な短歌たち。 深入りは禁物である。 「金魚の屍彩色のまま支那服の母狂いたまふ日のまぼろしに」 「百合喇叭そを枕として放蕩と懶惰の意味をとりちがへ、春」 5/6 山尾悠子『ラピスラズリ』を読む。 待望の、本当に待望の新作である。 「もう私はこっちにいるのよ」とでも言いたげな、余裕のある文体。 年齢とともに、独特の硬質さが削げ落ちたのは倉橋由美子と同じ。 意外な時に新作が出ることも。 5/10 小泉義之『レヴィナス 何のために生きるのか』(NHK出版) 合田正人『レヴィナスを読む 異常な日常の思想』(NHK出版) 岩田靖夫『神なき時代の神 キルケゴールとレヴィナス』(岩波書店) 合田正人『レヴィナス 存在の革命へ向けて』(ちくま学芸文庫) レヴィナス『実存から実存者へ』(講談社学術文庫) レヴィナス『全体性と無限』(国文社) レヴィナス『存在の彼方へ』(講談社学術文庫) を読む。 久しぶりの衝撃。コペルニクス的転換。レヴィナス万歳。 ・・・というわけで、今週は勝手にレヴィナス・ウィークです。 5/11 解説書とは何か。 まずはこの問いからはじめよう。 字義通りに解釈すれば「ある物事に対して解説を施した書物」ということになろう。 この意味において、合田正人によるレヴィナスの解説書は、解説書ではない。 多くの解説書は、理解した「後」に書かれている。そこには迷いがない。 堂々と結論が配置されている。 合田正人は、理解し「ながら」書いている。 問題は、合田正人が、書き「終わった」後もなお「考えている」ことにある。 レヴィナスの提起した問題は、そもそも解答など持たないのだろうか。 それとも、読者に対して、自らが解答することを要請しているのだろうか。 合田正人をめぐるこのアポリアのなかにこそ、レヴィナス読解の意味が隠されている。 5/12 アウシュビッツという悪夢にうなされながら、レヴィナスを俯瞰してみよう。 ・幽閉され決して逃れることのできない収容所(=地獄)ともいえる<存在>。 ・自らを虐待する了解不可能な存在としての<他者>。 ・拒否できずに、従うことしかできないという他者への<責任>。 ・慢性的な飢餓状態のなかで、享受するものとして存在した<糧>。 ・収容所から生き残り、ユダヤ人を存続させるための<繁殖>。 ・観念的倒錯を起こし、すべてを併呑するナチス(全体主義)こと<全体性>。 ・アウシュビッツ(=全体性)を越えたところにある<無限>。 驚くべきことに、どの解説書を見ても、アウシュビッツは過小評価されている。 断っておくが、私は還元主義者(reductionist)ではない。 還元してもしきれない残滓物とでも言うべきものを、私は哲学と呼びたい。 誤読の可能性は大いにある。それでも一向にかまわない。 なぜなら・・・理由は明日。 5/13 レヴィナス哲学において、<他者>は永遠に了解不可能な存在であった。 難解かつ偏執的とも言える哲学的記述が、ひたすら続く。 読者にとって、レヴィナスは<他者>である。 キルケゴールが、美的実存・倫理的実存を「わざと」魅力的でないように記述したように、 ソクラテスが、己の無知を武器として、人々を真実へと導いたように、 レヴィナスは難解な記述で、<他者>の了解が不可能であることを告げているのだろうか。 5/14 哲学に限ったことではないが、何か一つでも足場を持つと そこから世界を無限に広げていくことができる。 レヴィナスを読み解く際の、私の足場はキルケゴールであった。 いささか乱暴ではあるが、以下のような数式が成り立つように思われる。 「キルケゴール:神=レヴィナス:他者」 (=ルソー:直接性のユートピア=ニーチェ:超人(?)とも言える) 永遠にたどり着けないものと知りながら、それでもなお求め続ける。 愚直なまでの真摯さ、そんなことをクソまじめに考えて、しかも一生信じぬいたバカがいる。 それだけでもう、どうしようもなく私の胸は熱くなるのだ。 5/17 藤原幸治『イルカを殴る』(新風舎)を読む。 「何の賞もとれなかった小説。金の力で細々と出版」という帯で衝動買いしたもの。 前半がすこしタルいのと、会話が多すぎるのを除けば、かなり面白い。 なんらかの賞をあげても、よかったのでは。 ってか、どの賞に応募したんだよ?と聞きたくなる。言えないだろうけど。 5/18 穂村弘『求愛瞳孔反射』(新潮社)を読む。 ブックオフの歌集コーナーで何気なく手に取ったもの。 「まあ、買わなくていいか」と本を閉じようとした瞬間、 『月は静かに』の文字が飛び込んでくる。 新刊案内が挟まっていたのだ。 気になって、表紙をめくってみると、著者のサインが! ・・・というわけで、読了。 穂村弘の言語感覚は、誰にも真似できない。 シュール、プチエロティック、デカダンとでも言うべき世界観。 すばらしい詩集。 丸山健二には、いったいどれくらい世話になればいいというのだろう。 5/19 ランダム・ウォーク(乱歩・酔歩)って知ってるかい? コインが表なら勝ち、裏なら負けってゲームを考えてみよう。 まあ100回もやれば、だいたいプラマイゼロとか、思うだろ? そうじゃないんだよ、世の中は、さ。 勝ち「続ける」か、負け「続ける」か、どっちかなんだ。 嘘だと思ったらこいつで試してみな。 5/20 朱川湊人『都市伝説セピア』『白い部屋で月の歌を』を読む。 ホラーと銘打っているが、ホラーではない。怖くない。 純文学という形容がもっとも似合う気がする。 「昨日公園」と「鉄柱」が特に面白い。 5/21 綿矢りさ『インストール』「蹴りたい背中」 金原ひとみ「蛇にピアス」「アッシュベイビー」(『』と「」の使い分けに注意)読了。 まずは、綿矢りさ。 「蹴りたい背中」にこんな台詞がある。 「あんたの目、いつも鋭そうに光ってるのに、本当は何も見えてないんだね。 一つだけ言っておく。私達は先生を、好きだよ。あんたより、ずっと。」 「先生」を「文学」に置き換えれば、もうそれ以上、言うことはない。 いや、でも、あと5作くらい書けば、一定の水準までは行くだろうけど。 次に金原ひとみ。 辻仁成の言うように、「彼女は持っている」。 自分の知りたい世界を疑似体験するために、金原は小説を書いている。 なんでも想像でカバーできると思ってしまうところに、実は「罠」があるのだが。 最後に。 綿矢は藤沢周と「細部」について、金原は村上龍と「全体」について対談していた。 どちらが「現代的」で、どちらが「文学的」かは言うまでもないことである。 5/24 松本賢吾「三代目」「厄刑事」『月虹』『新仁義なき戦い/謀殺』 『黄金町クラッシュ』『凶劇』『女の街』『殺し屋』を読む。 プロフィールと違わない、ぬくもりのあるハードボイルド。サクサク読める。 マツケンのうまさは、「男と男」や「男と女」という関係性の中にある。 ちなみに松本賢吾も、丸山健二経由で発見された作家の一人である。 5/25 中島望『ハイブリッド・アーマー』『人形はひとりぼっち』を読む。 ほとんど忘れられたメフィスト賞作家による、講談社を離れての第一作、第二作である。 リーダビリティはそこそこある。 新境地と言えなくもない。 続編を書かせてほしいのか、思わせぶりな終わり方が妙に笑える。 5/26 巽孝之『メタファーはなぜ殺される』を読む。 魔術的ペダントリーとでも言うべき、評論集。 見たことも聞いたこともない評論家に、いつの間にか囲まれている。 彼らの言葉(理論)は、まるで外国語のようである。 それでも、私はこの本を読みたいと思った。 なんとしてでも理解してやろうと躍起になった。 こんな気持ちにさせる書物に、これから、どれくらい出会えるのだろうか。 5/27 『別冊宝島 編集の学校』を読む。 編集の発想法から、絵画史まで、幅広い分野をカバーした非常によく出来た入門書。 タロットを使ったプロット作りの章を読み、「これって、大塚英志じゃん」と思う。 そこで疑問が浮かぶ。 そもそも、どの程度 tarot と storytelling は結びついているのか。 そしたら、こんなサイトを発見。 西洋ではタロットがインスピレーションを与えるというのは、よくあることらしい。 よく考えたら、カルヴィーノの『宿命の交わる城』ってそういう話だよな、と妙に納得。 5/28 そういう意思があったわけではないが、自殺志願者のサイトを見る。 テキスト量がそんなに多くなかったので、すべてに目を通す。 自分が「透明」であるから、そのまま「消失」してしまいたいという衝動。 わからなくもない。いや、非常によくわかる。 しかし、である。 「透明」というのは、純粋さ(イノセンス)ではない。 それどころか、もっとも遠いところにある。 「透明」は、無知であることの無知である。密室で捏造された観念的倒錯である。 「透明」には、他者がない。それゆえ、自分がない。 意外かもしれないが、自分と他者の間に、対称性は存在しない。 (それゆえ、傷つけられたからといって、傷つけてはいけない) もし対称なのであれば、鏡を覗けばいいだけの話だ。 自分と他者の非対称性は、世界の深遠に潜んでいる。 決意なくして、深遠を覗き込むことはできない。 5/31 大塚英志『戦後民主主義のリハビリテーション』を読む。 当然のことながら、全体的に面白い。納得できる。 特に印象的な部分を引用。 -------------------------------------------------------------------------- そもそも人をなぜ殺してはいけないのか、ということを論理で証明できないし、 過去、それをなしえた「文学」も「哲学」もない。 (・・・)それは論理で証明できれば是であり、できなければ否であるという水準にはない。 (・・・)「殺してはいけない」ということは大前提としてある倫理なのであり、 倫理を論理の問題とすりかえてはいけないのである。 (・・・)たったいま「十七歳」に対していうべきことは、 「殺せば死刑だぞ」ではなく、まず「殺してはいけない」というその一言ではないか。 なぜ、その一言が発せられないのか。 それこそがこの国の危機の本質であるように思える。 -------------------------------------------------------------------------- 6/1 高田崇史『QED百人一首の呪』『QED六歌仙の暗号』『QEDベイカー街の問題』 『QED東照宮の怨』(すべて講談社文庫)を読む。 高田の著作において、つねに問題となるのは「現在と過去」の乖離である。 『QED百人一首の呪』では、二つを平行線でなぞるに留まったが、 『QED六歌仙の暗号』以降は、二本の直線を重ね合わせようとしている。 無理だとわかっていながら、それでも強引に現在と過去をつなごうとするところに、 ミステリーらしさというものが顕現するのかもしれない。 でも、私は決して交わることのない平行線の方が好きだ。 6/2 最近、軍手を見かけない。 幼い頃はよく道端で見つけたのに。 不景気だから、軍手を無駄にするなとの指示が出ているのか。 すると、天から聞こえてきた声。 「軍手は、本当は落ちているんだ。でも、大人には見えないんだよね」 この話自体、全然落ちてないなぁ。 6/3 『ヨブ記』(岩波文庫)を読む。 悪魔にさんざんいじめられて、それでも神への信仰心を失わなかったヨブの物語。 聖書の中で最もインスピレーションに満ちた(inspiringな)話の一つと言われている。 聖書にはない詳細な解説・訳注が、読解の道しるべとして大活躍。 それにしても。 因果応報的な相対的服従ではなく、何があっても(なくても)絶対的服従をすること。 果たして、そんなことが可能だろうか。 可能だとして、絶対的服従を教えることなど、できるのだろうか。 絶対的なものは、最初からわかっているか、最後までわからないか、 どちらかであるはずである。 以上の理由から、私はヨブの信仰心に対して懐疑的である。 6/4 小路幸也『高く遠く空へ歌ううた』を読む。 物語(それゆえ、世界)というものに対する考え方が、根本的にズレているのだろう。 読んでて、首を傾げっぱなしだった。 ノスタルジーに浸るだけでは、人は生きていけない。 きちんと、帰り道を用意してほしい。 (もちろん、迷子にするという帰り道もあるが、この小説では迷子にすらなれない) 子供に単純に迎合するのではなく、自信を持って自分の世界を提示すること。 これこそが、作家の使命であり、宿命であるべきだと私は思う。 6/7 オトフリート=プロイスラー『大どろぼうホッツェンプロッツ』 『大どろぼうホッツェンプロッツ ふたたびあらわる』 『大どろぼうホッツェンプロッツ 三たびあらわる』(偕成社文庫)を読む。 小学校の給食の時間、先生に読んでもらい、すごくドキドキした記憶があったので。 第一作目は、非常に面白い。帽子の使い方が巧み。うならされた。 二作目、三作目はそれなり。普通レベルで面白い。 それにしても、ホッツェンプロッツとは、難しい表記である。 読もうと思ってから、ホッテンプロッツとか、ホッチェンプロッツ、大泥棒、おおどろぼうなど、 検索エンジンで、たどり着くまでに時間がかかった。 幼い頃に戻るにはそれなりの苦労が伴うものなんだろう。 6/8 James Yaffe『Nothing but the night』を読む。 現実の犯罪をもとに書かれた小説である。 Barry Morris(17)が、Paul King(17)に「だまされて」幼児誘拐計画を立てる。 気絶させようとするが、加減を間違って、幼児を殺害してしまう。 現場に落としたメガネにより、犯行が発覚。裁判で、終身刑になる。 - 印象に残ったのは、「実存性」をめぐるBarryの苦悩である。 1つめは、完璧な犯罪計画を作り、実行に移す段階で、 想像上の幼児から、実在する幼児にイメージが切り替わる時。 2つめは、想定していた幼児が予想外の行動を取り、他の子供にターゲットを変えた時。 - 交換不可能な人格に対峙した時、Barryは恐れと戦きを感じる。 振り払おうとして、それでも襲い掛かってくる恐れと戦き。 それらと、本気で向き合おうとした時、Barryの贖罪は始まる。 50年前の本で、しかも絶版なので、感動的なラスト部分を引用。 He will get used to the routine, the dullness, the absence of hope or anxiety. He will grow cheerful, even contented in a way, because he knows that every hour brings him closer to the only moment that really matters -- the moment he and Peter Phillips face each other again. Until then he is simply marking time. - ジェイムズ・ヤッフェは、「ブロンクスのママ」シリーズで、著名な推理作家である。 『アメリカのユダヤ人』という評論も書いているが、これはまた明日。 6/9 ジェイムズ・ヤフェ『アメリカのユダヤ人−二重人格者の集団−』を読む。 統計とアネクドートをふんだんに散りばめたユダヤ人論。 もしかして自分は日本人じゃなく、ユダヤ人なのではないか。 そんな思いにさせるほど多くの共通点を見つける。 中心を失いつつある世界にとって、ユダヤ人の存在意義は、 今後ますます拡大していくことだろう。 6/10 タワレコの通販でBLOOD(=鈴木慎一郎)“CRACK!”を買う。 成長し続ける稀有なアーティスト、鈴木慎一郎。 永遠の未完成とでもいうべき、微妙に壊れた楽曲。 脳みそを切り刻むような、破壊的な楽曲。 それでも、慎が所属していた頃のCRAZEを越えるのは至難の業である。 不可能と言ってもよい。 慎がダメなわけではない。CRAZEのメンバーがすごすぎるのだ。 それでも、チャレンジし続ける慎に、人々は胸を熱くする。 それと。 このアルバムを深夜のドライブで聴いたりするなよ。 スピードの出しすぎで、事故っちまうぞ。 6/11 例えば、もうこれからは一切説明しない、というのはどうだろう。 「凶悪な」殺人犯の「心の闇」は、こんなところにあった! 「不幸な」家庭が、現代社会の「ひずみ」が、殺人犯を形成した! 説明するという行為は、きわめて暴力的な行為である。 自分の理解の範疇外にも世界は広がっている。 それを皆が認め、過剰な説明を忌避すれば、 多少なりとも世界はよくなる。 そんなことを、あの事件を通して思った。 6/14 今週は、諸事情により更新が不定期になります。 - 久しぶりに「裸の王様」という物語を思い出した。 斎藤肇『思い通りにエンドマーク』『思いがけないアンコール』(講談社文庫)と 『思い上がりのエピローグ』(講談社ノベルス)を読む。 「思いシリーズ三部作」と呼ばれている作品群である。 ミステリという虚構は、一定のルールを遵守することで、面白さが生まれてくるジャンルである。 だからそこで、「王様は裸じゃないか!」と喚(わめ)いたところで、 それは単なる興ざめにしかならない。 裸の王様に、どれだけ豪奢な服を、着せられるか。 裸の王様に、どれだけ貧相な服を、着せられるか。 これこそが、ミステリという形式の命題である。 裸であること(=虚構性)を暴き立てるのは、ルール違反である。 それでもなお、ルール違反をやるというなら、もっと上手くやるべきだ。 例えば「王様は、裸どころか、皮も肉もない、ただの骨だった」というぐらいの。 「斎藤肇です。斉藤肇でも、齋藤肇でもありません。」 こんなことは、(失礼かもしれないが)本人以外にとっては、 どうでもいいことである。 誰の目にも明らかで、しかもそれが驚きであるような差異。 そんな衣装を、私はミステリという王様に求めている。 以上を踏まえた上で、ただの小説として楽しめるかというと、 「それは、まぁ、それなりに」というぐらいの感想である。 6/15 斎藤肇4作品を読む。 ●『夏の死』(講談社ノベルス) TRPGを通して、5年前の事件の真相に迫ろうとするというその趣向にヤラれた。 斎藤肇のベスト2。 - ●『殺意の迷走』『あいまいな遺書』(テンザンノベルス) それなりの緊張感はあるのだが、それまで。 - ●『たったひとつの 浦川氏の事件簿』(原書房) まず、帯の惹句(じゃっく)。 「浦川氏のめぐる、極北でも究極でもない限界本格推理!」 このキャッチコピーを、見て読まずになんていられようか。 次に、文体の使い分け。 中年の作家が若者言葉の文章を書くと、どこかぎこちなさが 出てしまうものだが、この作品にはそれがまったくない。 これだけの数の文体を使いこなすのは、並大抵の力量ではない。 最後に、全体の構成。 どこまでも拡散的に話が進み、最後に一気に修練させるその手練手管に、感動。 もちろん、これが斎藤肇のベスト1。 6/16 ボケが創造で、ツッコミが破壊。 そんなふうに考えてみた。 大きな偽物を造り、破壊してみせる。 そこに、笑いのカタルシスがある。 - 長井秀和、だいたひかる、テツandトモ、 今話題の波田陽区、意外に笑えるマイケル、いつもここから 安井順平、ハローケイスケ、アップダウン、ついでにつぶやきシロー。 数え上げれば、きりがない。 ボケのない、ツッコミだけのお笑い。 現存する世界を、ただ破壊するだけ。 「架空のものを創造する必要なんてない。 この現実こそが、十分すぎるほど偽物ではないか」 エンタの神様、笑いの金メダル、爆笑オンエアバトルなど見ると、 彼らの後ろから、そんな声が聞こえてくる。 - なにもお笑いに限ったとこではない。 アウシュビッツや9・11を目の当たりにし、 世界は創造への意欲を失いかけている。 「壊すのに、なんで創るの?」 「創造することは、むなしい」 「創造することは、無意味だ」 「創造することは、儚い」 そんな芸術性(=創造性)を喪失した世界に、 「おいおい、そうじゃないだろ。創造にこそ意味があるんだよ」と 突っ込んでみせることぐらいしか、できないのだろしたら、 芸術なんて、文学なんて、いっそのこと滅んでしまえと思う。 芸術は、アウシュビッツ程度のことで、9・11程度のことで、 その意味を奪われたりはしない。 私はそう信じている。 6/17 もう少し、お笑いの話を。 ツッコミだけの芸人でも、もちろん差異はある。 - ●攻撃系と日常系 攻撃系はサディスティックな笑いである。 他者(=芸能人)を攻撃するのは、長井秀和、だいたひかる。 自己を攻撃するのは、マイケル、ヒロシ。 巧妙なのは、波田陽区である。 基本的に彼は他者攻撃系なのだが、 最後に、自己攻撃系(=自虐系)で締めくくる。 この自虐ネタで、今までの他者攻撃ネタをはぐらかしている。 (反感を買わずにすんでいる。少なくとも今のところは) たいしたものである。 - 日常系は、「ああ、なるほど」と気づかせる笑いである。 つぶやきシロー、テツandトモなどである。 日常系の長所は、人に不快感を与えないこと、 短所は、ネタ作りに苦労すること、である。 (芸能人は、話題に事欠かない) 長所と短所をひっくり返せば、攻撃系の長所と短所になる。 - 細かな所に注目すれば、違いはいくらでも見つかる。 しかし、微細な差異に目を向けなければいけないほど、 彼らの芸は、大筋において同じなのである。 - 「だいたいでいいじゃない」(by吉本隆明)という言葉を 乗り越えるだけの個性が、今の時代、求められているのかもしれない。 6/18 深堀骨『アマチャ・ズルチャ 柴刈天神前風土記』を読む。 むちゃくちゃである 頭の中を引っ掻き回したら、脳みそジュースができて、 さあどうぞ。おぉ意外にいけるじゃん。 そんな感じの短編集である。 なぜ、この作品が評価できるかというと、 根底に流れているものがナルシシズムではなく、 ユーモアだからである。 「ハヤカワSFシリーズJコレクション」から発売されているが、 これのどこが、SFなんだろうか? キワモノは、ひとまずはSFに分類されてしまうものなんだなぁ。 6/21 L'Arc-en-Ciel「自由への招待」を買う。 - ●tetsu またシングルの作曲? P'UNK-EN-CIELでも、2パート担当してるのはtetsuだけ。 なんであそこまで、tetsuは目立とうとするのだろうか。 D'Ark-en-Cielが懐かしい・・・。 - ●歌詞カード 「手に負えない衝動」の前は、半角じゃなくて全角アキであるべき。 - ●歌詞 タイトルも歌詞も、不満足。 英語を使わないというなんらかの意図があるのだろうが、その本質が見えてこない。 もう少し、日本語を洗練させてほしい。RAPのエピゴーネンみたいな歌詞。 「瞳の住人」というタイトルは、バラードだから許される。 - ●ファルセット これもtetsuの引き金だと思うが、裏声使いすぎ。 「大切に」「今日こそは」のパートは、歌詞の意味も考えて裏声を使うべきではない。 - いろいろ不満があるのにせよ、今回はyukihiroのドラムが控えめで、その分kenのギターが 暴れまくっているので、かなり満足。 ラルク・アン・シエルだからこそ、要求はどこまでも苛烈になってしまうのである。 6/22 「女優・桃井かおりの. “赤秋”のススメ」を観る。 「青春」の反対として、「赤秋(せきしゅう)」。(青→赤、春→秋) 桃井の造語である。 とてもいい言葉だと思う。 「若さ」だけがいいものなら、さっさと死んでしまえばいい。 失われていくものを、せっせと追いかけても仕方ないだろ、と思った。 人は何かを喪失したら、その分、何かを獲得するものだ。 6/23 斎藤栄「ヤングレディ短詩形シリーズ」(←影山荘一の命名)四部作を読む。 『女高生俳句殺人事件』『女子大生短歌殺人事件』 『OL現代詩殺人事件』『花嫁川柳殺人事件』(すべて光文社文庫)である。 これほどまでに、シリーズ力のない作品群を私は知らない。 メイントリックが、短詩形ではないのだ。 脇役をタイトルにしてる感じ。「ワトソンの冒険」みたいな。 申し訳程度に出てくる俳句や短歌。 「シリーズをなめとんのかー」と啖呵(たんか)を切ってみたりする。 まぁ、竹本健治を読んだら、どんな暗号ミステリも物足りなくなってしまうんだけど。 6/24 赤坂真理の著作を読む。 『蝶の皮膚の下』(河出文庫) 、『ヴァイブレータ』『ヴォイセズ/ヴァニーユ』(講談社文庫) 『コーリング』(河出書房新社)、『ミューズ』(文藝春秋)、『彼が彼女の女だった頃』(新潮社) ●『蝶の皮膚の下』は、すばらしい。 「私」を語り手にすることで、ぎこちない文体を正当化している。 ●『ヴァイブレータ』になると、ぎこちなさが少しだけ弱まる。 その分、語りが巧妙になっている。はじめて読む人にはお勧め。 ●『ヴォイセズ/ヴァニーユ』『コーリング』『彼が彼女の女だった頃』は、ほぼ同じ出来。 駄作もあるが、全治としてレベルはかなり高い。 ●『ミューズ』は失敗作。自己模倣、自家撞着に陥っている。 - 赤坂の世界観は、こんな感じ。 人と繋がりたい。でも、私には皮膚という膜がある。破って繋がりたい。 私が固体ではなく、水になれば、皮膚を通って、あなたとひとつになれる。 文体も、言おうとしてることも、金原ひとみと似てる。 - それにしても、赤坂真理は、「歯」を書くのがうまい。 親知らずを抜いたばかりなので、文章を読むだけで、歯がうずく。 6/25 丸山健二サイン会へ行く。 『鉛のバラ』はもちろん、『銀の兜の夜』(新潮社)と 『争いの樹の下で』(新潮文庫)にもサインをしてもらう。 握手をしてもらったのだが、60歳とは思えない、 ごっつい手だった。(庭仕事のせいだろう) - 最初、庭や花のネタを持っていこうと思ったのだが、やめた。 そんな小賢しい小細工こそ、丸山健二が嫌うところだからだ。 「ブツを持って来い」 もし、こう言われたら、私が差し出せるのは、 丸山健二作品への愛情だけだ。 「先生の作品は、すべて読んでいます」 「ありがとう」 丸山健二は、温かい言葉で、そう返答してくれた。 6/28 ミシェル・トゥルニエ『イデーの鏡』(白水社)を読む。 二つの対立するものをテーマにさらりと書き綴った、 哲学的エッセイである。 まさに「洒脱」。まさに「エスプリ」。 上質なワインを髣髴とさせる知性がここにある。 それぞれのエッセイの末尾に引用があるのだが、 以下はその中のひとつ。 -------------------------------- ものがふたつあれば、ひとつは月に決まってる。 ならばもうひとつは太陽だ。 ジャック・プレヴェール『パロール』 -------------------------------- l'uneの駄洒落なのだが、 それを知らないほうが詩的なイメージが広がる。 6/29 真剣10代しゃべり場。 タイトルを見て、どんな議論が行われるか予想するのだが、 (残念なことに)だいたいその通りに番組は展開する。 議論の訓練を多少なりとも積めば、それくらいの予想は簡単である。 そんなことより。 「あらゆることを一度は疑い、議論する」ということを突き詰めるのならば、 最終的には、議論そのものの是非について問わなければならない。 (哲学はそうやって、自らを隘路に追いつめ続けている。) まずは徹底的に自分の足元を見つめてみること。 すると自分が拠って立つ地盤が、いかに頼りのないものなのかがわかる。 この問いこそがニーチェが苦渋を持って主張した「神の死」である。 問いとは、本来的に、苦痛なものなのだ。 6/30 後期クイーン問題。 エラリー・クイーンが陥った有名なアポリアである。 「探偵は、事件に関わることで、事件そのものを変質させてしまう」 「探偵も、所詮は一介の登場人物にすぎない」 「探偵が推理することを前提として、犯人はミスディレクションを配置する」 つまり、こういうことである。 「探偵は、特権的な存在ではない」 「メタレベルでの観察は不可能である」 この結論は、人を謙虚にさせるよい教訓となる。 もし探偵が、特権的な存在でいられないのならば、 メタレベルにいることで逃れることのできた多くの責任を、探偵は負わされることになる。 他者に関わっておきながら、メタレベルにとどまろうとするのは、傲慢以外の何物でもない。 - ここで、少しでも物理学に素養のなる人ならば、「量子力学」を思い浮かべるだろう。 「微細な物質を観察しようとすると、観察するという行為そのもの(例えば、光を当てるなど)が、 微細な物質を変質させてしまう。影響を与ない観察は存在しない」 後期クイーン問題と、根底にあるものは同じだが、 学問はどこまでもメタレベルを志向するので、上記のような「謙虚さ」は解決にはなりえない。 同一の問題でも、状況によって答えは異なるといういい例である。 - ゲーデルの不完全性原理や、シュレディンガーの猫など、 量子力学の成果と探偵小説を比較するとなかなか面白いのだが、それはそのうち。 7/1 後期クイーン問題のつづき。 「名探偵−特権=ただの登場人物」となる。 刑罰という責務から免れている(メタレベルに経つ)犯人から、特権性を略奪し、 自らのものとするのが、名探偵である。 推理こそが、名探偵の唯一の道具であり、 一介の登場人物を名探偵の地位に押し上げるキザハシでもある。 名探偵は、犯人を供物とし、神になる。 - 10代の若者が陥りがちなナルシシズム。 「自己−特権=ただの平凡な人間」となる。 そもそもナルシシズム(ナルシズムは誤り)とは、 何もないものに、強引に「特権性」を付与したものである。 空っぽの虚栄心とも言える、そのグロテスクなまでに膨張した ナルシシズムを、世界はいとも簡単に破壊する。 - 特権性を永遠に保てるような、そんなユートピアは、どこにもない。 (そもそもユートピアとはラテン語で「どこにもない場所」という意味である) 世界との関係性において、自己は自己になり、他者の前に跪く。 - それでは、名探偵の条件とは何だろうか? 苦悩して、虚無感に苛まれ、それでも答えを求め続けるその真摯さこそが、 名探偵の条件だと、私は思う。 ヤヌスの名探偵ならいざしらず、後ろ向きの名探偵など、名探偵ではない。 7/2 四色問題(四色定理)。 隣り合った領域が、異なる色となるように塗り分けるのには、いったい何色必要か。 答えは四色。(どんな複雑な図形でも四色で十分である) これは、あくまでも平面での話である。 それでは、自分の周りの人間を「好き」「嫌い」のみで区別する人はどうだろう? 世界は、驚くほど多くの色彩から構成されている。 それを好悪などの色で塗りつぶしてしまうのは、あまりにももったいない。 夜は、すべてを黒く塗りつぶす。 朝と昼ぐらい、鮮やかな色彩に染めたいものだ。 7/5 スプーナリズム(spoonerism)。頭音転換。 2つ以上の単語の頭の音を取り換えて発声することを言う。 William Archibal Spoonerが、この誤りを多く犯したことに由来。 私の周りの例としては、「ジョン・ベンソン」「ディームス・ジェーン」がある。 混乱するのが音だけなら、特に問題はない。 - 「聖−俗」において、「聖」は瞬間的にしか経験できないものである。 平凡なる「俗」からの、刹那的な超克としての「聖」。 これを踏み外すと、観念的倒錯が起こる。 7/6 たまに本がまったく読めなくなることがある。 そんな時は、音楽を聴く。 昨晩はBLOOD(=鈴木慎一郎)のNOISES,TONIGHT,SPADE。 1時間程度で吹き飛ぶくらいの陰鬱に 悩まされていたかと思うと、なんだか笑えてくる。 7/7 丸山健二『鉛のバラ』が、増刷されていた。 おいおい、これって、『惑星の泉』以来じゃないの? しかも、発売10日で! 欣喜雀躍、狂喜乱舞、有頂天外、観天喜地、 歓喜雀躍、驚喜雀躍、狂喜踊躍、手舞足踏、 歓欣鼓舞、歓喜抃舞、喜踊抃舞、丸健万歳。 7/8 曇りの七夕。 織姫と彦星は、会えなかったのだろうか。 いや、そんなことはない。 私たちに見られたくなかっただけだ。 衆人環境のデートに飽き飽きしている。 雲に隠れて逢引を重ねている。 そう考えよう。 7/9 法月綸太郎『密閉教室』『雪密室』『誰彼(たそがれ)』『頼子のために』 『一の悲劇』『ふたたび赤い悪夢』『法月綸太郎の冒険』『二の悲劇』『パズル崩壊』 『謎解きが終ったら』『法月綸太郎の新冒険』『法月綸太郎の功績』を読む。 なんとも陰鬱な作家である。 こっちまで、暗い気持ちになる。 先週からずっとネガティブな(?)あいさつが続いたのは、法月のせいである。 探偵小説に変形された私小説としてなら、全作品を書かれた順に読む価値はある。 そういうことを度外視して、小説として面白いものを選ぶのなら、 『頼子のために』『一の悲劇』『法月綸太郎の冒険』の三作だけしか薦められない。 7/12 「ヨンゲル係数」と「ヨンフルエンザ」。 『冬の恋歌(冬のソナタ)』で、一躍スターダムに登りつめた ヨン様こと、ペ・ヨンジュンについての造語である。 で、こんなことを考えてみた。 「ホン様」(=本、書物)について使う金の割合を「ホンゲル係数」、 「ホン様」の魅力に取り付かれた状態を「ホンフルエンザ」と呼んではどうかと。 でもなぜか、しっくりいかない。 秘密は「ヨ」にあった。 音韻学的に「yo(jo)」は、「io」とほぼ同値である。(発音すればわかる) 「ヨンゲル(ion)」と「エン(en)」はともに母音なのに対し、 「ホン(hon)」には、子音が入っている。 「ヨンフルエンザ(ion)」「インフルエンザ(in)」「ホンフルエンザ(hon)」も同様である。 あぁ、本当に、どうでもいい話だ。 7/13 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』(イーストプレス)を読む。 面白い。笑える。受ける。 とげのある文章で、世間の「常識」をバッサバッサと斬り捨てていく。 要するに、社会学版「トンデモ本の世界」である。 しかし、ここで注意が必要である。 彼の書いていることは、本当に正しいのだろうか? ただ笑うだけだったり、マッツァリーノの説を無条件に受け入れるのならば、 この本の意味は半分しか達成されていない。 常識を疑い、「自分の頭」で再検討すること。 これが反社会学の真の目的である。 7/14 マグナス・ミルズ『フェンス』(DHC)を読む。 帯に「トマス・ピンチョン激賞」とある。 ただひたすらフェンスを作る職人の話。 本当に、本当に素晴らしい。 細かい描写をせずに、ここまでシュールな空間を作り出せるとは。 陰鬱にならずに、悪夢的な話を描くと、洒落たブラックユーモアになる。 どことなく漂うやさしさ。 繰り返す。本当に素晴らしい本である。 ちなみに、DHCは、コンビニ・通信販売などで有名な化粧会社だが、 もともとは、翻訳会社からスタートした。 DHCは、Daigaku Honyaku Center (大学翻訳センター)の頭文字から。 7/15 フォルカー・ミヒェルス編『雲』(朝日出版社)と 『ヘルマン・ヘッセと音楽』(音楽之友社)を読む。 ヘッセの小説・詩・散文には雲や音楽が頻出する。 漂流する形のないものの象徴として雲。 美の結晶である完成形としての音楽。 ヘッセは天性のロマンティシストだ。 - 遍歴高校校則は本日で終了です。明日から、本日の押尾サマが始まります。 7/16 アラン・ライトマン『宇宙は語りつくされたか?―アインシュタインからホーキングへ』(白揚社) 『天文学の新時代』(朝日選書)、『宇宙と踊る』(早川書房)を読む。 3冊とも宇宙理論の解説書である。もうめちゃくちゃ面白い。 『宇宙は語りつくされたか?』は、宇宙理論をめぐる対立がスリリングに描かれている。 『天文学の新時代』は、淡白すぎて、まぁそこそこの面白さ。 そして、『宇宙と踊る』である。 文学と天文学の幸福な蜜月関係が、ここにはある。 文学が空を見上げれば、「天」文学が誕生する。 そんなところに、文学と天文学の秘密が隠されているのかもしれない。 - 本日の押尾学サマ、始めました。 7/20 アラン・ライトマン(Alan Lightman) 『アインシュタインの夢』(早川書房、ハヤカワepi文庫) 『Good Benito』(←洋書)『診断』(早川書房) を読む。 ●『アインシュタインの夢』は数年前にハードカバーで読んでいたが、 再読に耐える名品だった。 (イタロ・カルヴィーノ『マルコポーロの見えない都市』や プリーモ・レーヴィの『周期律』を思わせるとアメリカでは評されている) ●『Good Benito』も、傑作。 単純にいうとポール・オースターに物理学の隠し味をまぶした感じ。 面白くない訳がない。 で、Barnes&Nobleで、「People who bought this book also bought」 を見ると、ちゃんと、”The Book of Illusions” Paul Auster と書いてある。 ●『診断』は、あまり面白くなかった。 ちょっと長く書きすぎたのかもしれない。でも「絵」の章は気に入った。 7/21 海猫沢めろん/ぴぃちぐみ『左巻キ式ラストリゾート―ぷにふごEX 』(パンプキンノベルズ)を読む。 エロゲーのノベライズ(っぽい?)ものである。 どうやって、「セカイ」を抜け出して、本当の「世界」への扉を開けるか。 エロや殺人や暴力なしで、この小説のテーマが語れたら、 とんでもない傑作が生まれることだろう。 - 【祝!】googleで「汗牛充棟」と検索すると、トップに表示されるようになりました。 7/22 「CUBE2」を観る。 「1」をはるかに凌ぐ傑作である。 が、ネット上では、非常に評価が悪い。 理由は簡単だ。彼らは量子力学を知らないのだ。 エヴェレット解釈じゃなくて、 やっぱりコペンハーゲン解釈でしょ、と 思わず膝を叩きたくなる快作。 7/23 ソムトウ・スチャリトクル『スターシップと俳句』(ハヤカワ文庫SF)を読む。 なんともぶっ壊れた世界観である。 意味を無理して汲み出そうとするのではなく、 わからなさを楽しんだほうが得策である。 「赤トンボ 羽をとったら! ・・・トウガラシ」 という弟子の俳句を、師匠が 「トウガラシ 羽根をつけたら! 赤トンボ」 と直すシーンが印象的。 7/26 『アダプテーション』を観る。 『蘭に魅せられた男』というノンフィクションを映画化しようとする男の物語。 構造は以下のようになる。 『蘭に見せられた男』←「アダプテーション」←『アダプテーション』 つまり、メタフィクションである。 メタではお約束となった、境界の侵犯も起こる。 妄想が爆発した作品である。 「原作のほうがいいよね」なんていう戯言はどこかへ吹っ飛んでしまう。 アメリアとチャーリーのラストシーンが、すばらしい。 "Anyway it's done, and that's something"という台詞も。 7/27
駅の近くでたまに売ってる、ピョンピョンはねる紙人形。 知り合いが購入したので、じっくりと見せてもらう。 タネはというと・・・。 ●●かよっ! 確かに、対角線上に、いや、これ以上は言えません。 7/28 「道に迷った場合、とにかくまっすぐ進め」とデカルトは言う。 「そうすれば、必ず外に出られる」と。 本当にそうだろうか? 本人は、まっすぐに進んでいる「つもり」でも、 いつの間にかリング・ワンデリング(輪形彷徨)してしまうのではないか。 人間の重心は傾いている。 輪を描くように、同じところをぐるぐる回ってしまうのだ。 誰かの足跡だ、この先に人がいる、と興奮してみたところで、所詮は、自分の足跡である。 それでは、どうすればいいのか? 自然の中で迷った時は、星を目印に進めばいい。 人生に迷った時は、信念に忠実であればいい。 まず見つけるべきものは、不動の定点である。 7/29 タスクフォース編『シミュレーションゲーム』(KKベストブック)を読む。 第二次世界対戦下の日本軍の行動から、 現代のビジネスに通じる知恵を学ぶという趣旨の本である。 (なぜかSFチックな設定も混じっている) Operation(問題編)で、状況が説明され、3〜4つの選択肢が与えられる。 Decision making(解答編)で、「<考課>@−3点、A−0点、B−8点。」のように それぞれの行動に対して点数がつけられる。 全体を通して楽しく読めるのだが、難点がある。 Operation1。この問題の正解は、@AB全部の活用、である。 っておい! 一問目からかよっ! その後も、ポツポツとこんな<考課>が・・・。 <考課>正解は、ない。 <考課>ズバリ満点はA@Bである。 <考課>正解は@とAの中間である。 <考課>残念ながら、一戦隊長のきみが、どんなに歯ぎしりをしても、 @ABとも、まず絶対に聞き入れられないだろう。 まぁ、変則的な解答があってもよい。戦争にもビジネスにも正解はないのだ。 それだけなら、そういうものだ、とたかを括っても構わない。 最後に、総合点での評価(あなたは伍長レベル、あなたは軍曹レベル、など)があると思ったら・・・。 何もない・・・。 まえがきもあとがきもない。 文字通り問題だらけの戦争の本であった。 7/30 勢古浩爾『まれに見るバカ』(洋泉社新書y)を読む。 要は、バカを告発したバカ本なのだが、 奥底に流れる人間への温かい眼差しが、類書には見られない魅力の一つである。 著者は、本当の意味での常識人である。 (真の常識人はめったにいない) ------------------------------------------------------------------------- 「頑張れ」という言葉は他人に向かっていうときは「安易」に使うものなのだ。 だが、そのときの気持ちまで「安易」であるとはいえない。(153) ------------------------------------------------------------------------- 絶対に不可能なこと以外、すべての人間にとって「できない」は禁句である。 「当たって砕けろ」という成句は間違いである。 「砕ける」かどうかは、当たってからの話だからだ。(190) ------------------------------------------------------------------------- 8/2 ヘルマン・ヘッセ『人生の歌 回想の手記』(新潮社)を読む。 弟について描かれた「ハンスの思い出」が、特に面白い。 ヘッセの文章は、ものすごくうまいわけではない。が、なぜか癖になる。 日本語のリズムを脱臼させるような、バランスを失った文体なのだ。 『ふるさと紀行 他6編』(改造文庫)も読むが、こっちは入り込めなかった。 ヘッセの訳は、高橋健二に限る。 8/3 デカンショ(節)。兵庫県の有名な民謡である。 「出稼ぎしよう」がなまって「デカンショ」になっただけなのだが、 デカルト・カント・ショウペンハウエルの頭文字に 由来すると、一時期まことしやかに言われていた。 でも、考えてみよう。 ショウペンハウエルが、デカルトやカントと同列に並ぶはずがないではないか。 (「もっと上だよ」と言いたいところだが、ここはぐっと飲み込んでおこう。) ちなみに、ショーペンハウアーは英語読み。 ショウペンハウエルは独語読み。 ショーペンハウエルやショウペンハウアーという表記は、何か気持ち悪い。 8/4 「オープン・ユア・アイズ」を観る。 夢オチを重ねてなんとか意味のある世界を造ろうとしている。 が、成功しているとは思えない。 理由は簡単だ。 夢と現実の世界を強引に統合しようとしているからである。 夢と現実が、相互に影響しあいながらも、決して交わることはない。 そんな構成のストーリーにすれば、もっとスリリングな映画になったはずだ。 8/5 津田庄一『京極堂の偽 暴かれたパクリの手口』(データハウス)を読む。 京極夏彦は、断じてパクっていない。単なる便乗本である。 それを承知の上で読むなら、かなりオススメ。 いろんな意味で、多くはコメントしたくない本である。 8/6 クリストファー・ノーラン監督「フォロイング」「メメント」を観る。 2作品とも、自分の頭の中で、各シーンを時系列順に再配列する必要がある。 「フォロイング」においては、時系列を混乱させたことに、あまり必然性を感じなかった。 話の内容もポール・オースターっぽかった。このプロットなら文学のほうがうまく表現できる。 「メメント」も、ラストシーンまでは「素直に見せればいいのに」と思っていたのだが、 最後で「なるほど」とうなずく。膝を叩く。 ただ、厳密に言えば、前向性記憶障害を表現するのは不可能だ。 記憶を喪失した瞬間から、物語を始めれば、記憶喪失は語れる。 前向性記憶障害は、何回も記憶喪失に陥る。 そして物語は、一度しか始められない。 8/9 三大倒叙推理を読む。 倒叙推理とは・・・ 探偵の側からではなく、犯人の側から、犯行を描く。 「刑事コロンボ」や「古畑任三郎」でおなじみでの手法ある。 - ●フランシス・アイルズの『殺意』 ドツボにはまっていく主人公が面白い。 倒叙推理というより犯罪心理小説と形容したほうがよい。 - ●クロフツの『クロイドン発12時30分』、 3作の中では一番面白い。 端正なミステリという言葉がよく似合う。 でも、最後のフレンチ警部の謎解きはなくてもよかったのでは。 倒叙推理なんだし。 - ●リチャード・ハルの『伯母殺人事件』、 これは倒叙物ではない。 とてもユーモラスな、悪意に満ちたサスペンスである。 8/10 「デトロイト・ロック・シティ」を観る。 KISS(キッス)のコンサートチケットを求めて東奔西走する 少年たちのスラップスティックコメディ(ドタバタ喜劇)。 こんなにゴキゲンで、クレイジーで、ファンキーな映画は他にない。 8/11 志茂田景樹『戦国の長嶋巨人軍』(実業之日本社 Joy novels)を読む。 長島ジャイアンツがタイムスリップして、戦国時代へ。 織田信長と仲良くなって、なぜか一緒に野球をする。 武田信玄や徳川家康も出てくる。 当時はまだ新人だったゴジラ松井が、初々しく描かれている。 でも、2000円の価値はなかったなぁ。 8/12 志茂田景樹の絶版本を読む。 『羊群は地獄に堕ちる』(廣済堂文庫)、『折伏鬼』(文春文庫) 『法城壊滅の日』(ケイブンシャ文庫)、『青ざめた彷徨』(中央公論社) 『汚れた偶像(『俗物教祖』を改題)』(ケイブンシャ文庫)の5作。 ●価●会(作中では聖護道会となっている)を批判した小説である。 創●学●の裏側を知りたければ、上記のうち1冊を読めば事足りる。 下田忠男が、創価●●から何を学んだか。●●学会を通して何を見つけたのか。 何に失望し、その代わり、何を信じたのか。 それを私は知りたかった。 暴露なんて、どうでもいいことである。 そして、以下の一節を見つけた。 ------------------------------------------------------------------------- からっぽという状態はけっして悪い状態ではない。 なにか新しいものをそこへ入れようとするから、求めようとする。 求めて、そして、いつも求められないでいる。 袋小路に突き入って、それを破ろうとして、さらに別の袋小路に迷いこんでしまう。 その袋小路のひとつひとつに、なにかが落ちている。 拾いあげてみると、思想であったり、恋愛であったり、病気であったりして、新たに傷つくもとになる。 青春は、そうした袋小路が房となって待ちかまえている時代と言える。 (・・・)青春とはもがき、傷ついても、あとになってみると、少しも苦しくもないものである。 なにもかも身になり、骨にしてしまう貪欲さが青春のよさで、 そのため、悔いがない結果になるのだと思う。 (『折伏鬼』のあとがきより) ------------------------------------------------------------------------- 8/13 金春智子『中華名人 周ロック・ホームズ 香港デラックス・ツアー殺人事件』(湘南出版センター)。 サイン入りである。・・・・・・周富徳の。 周富徳が探偵となり(←なんでやねん!)、殺人事件の謎を解くという、なんてことない内容の話。 「周ロック・ホームズ」というネーミングセンスと、「周富徳のサイン入り」という奇抜さ。 それだけの本なのに、とてつもないインパクトがある。 - 1995年11月に金春バージョンが、1996年7月に志茂田景樹バージョンが出版されている。 共通の設定・登場人物で、異なる作家が物語るという趣向はとても面白い。 ある意味、JDCトリビュートである。 でも、そんなこと言い出したら、ラブクラフトのクトゥルー神話とか、 もっと前にさかのぼって、ギリシャ悲劇なんかも、シェアード・ワールドと言える。 - ちなみに、志茂田景樹『周ロック・ホームズ』(湘南ノベルス)は2冊、所有している。 もちろん、2冊ともサイン入りである。・・・・・・1冊は、周富徳の。もう1冊は、志茂田景樹の。 どうでもいいけど。 8/16 マグナス・ミルズ『オリエント急行戦線異状なし』 (DHC)を読む。 あいかわらずのシュールさ。 明らかにおかしな状況を、「普通」と感じてしまう不条理。 攻撃性の欠如が、とても心地よい。 でも、『フェンス』ほどの衝撃はない。 これ以上、邦訳は出なさそうだから、他の作品は英語で読もうかな。 8/17 「ビートニク」を観る。 ジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズの3人をフィーチャーしたドキュメント。 つぎはぎだらけの映像とビートジェネレーションの思想が、見事に共鳴している。 動くアレンとビルにだまされているだけなのかもしれないけど。 8/19 「ザ・セル」を観る。 心の中に入り込むと言う、なかなか野心的な作品。 映像が、とてつもなくシュール。そして残酷。 不思議な既視感(デジャビュ)がある。 ストーリーは、内容を詰め込みすぎ。ひどい。 映像も内容も「残酷な」映画である。 8/20 ニック・ホーンビィ編『乳首のイエス様』(ヴィレッジブックス)を読む。 ヘレン・フィールディング、ロディ・ドイル、アーヴィン・ウェルシュなど、 なかなか豪華な執筆陣である。 全体的にレベルはとても高い。 チャリティとして発売された本なのに、インモラルな作品も結構ある。 12編のうち白眉は、やっぱりホーンビィの「乳首のイエス様」 例によって、引用。 ------------------------------------------------------------------------- 「こんなもんなら私だって作れたよ」 「ああ、いまのあんたにだって作れるさ、老いぼれ(・・・) でも、もう見ちまったからな。誰にだって作れるけど、 あんたはそれを思いつかなかった。だから手遅れなんだよ」 ------------------------------------------------------------------------- あと、改題前のタイトル『天使だけが聞いている12の物語』のほうがよかったな。 8/23 ニック・ホーンビー編『サッカー狂時代』(キネマ旬報)と ニック・ホーンビィ『ぼくのプレミア・ライフ』を読む。 サッカーにそれほど入れ込んでない私でも、すらすら読めた。 プレミア・リーグが誕生する前のディヴィジョン1や、 まだ弱小チームだった頃のアーセナルを知りたい人には特にオススメ。 8/24 ニック・ホーンビィ『ハイ・フィデリティ』『ハイ・フィデリティ--シナリオ・ブック 』 『アバウト・ア・ボーイ』『いい人になる方法』(すべて新潮文庫)を読む。 どれも面白い。リーダビリティはきわめて高い。 なによりも。 現代文学ではありふれたガジェットと化してしまった「悪」が、全く出てこない。 これがいい。すごくいい。 『いい人になる方法』の篤志的な感性は、 ノーベル賞作家、クヌート・ハムスンの傑作『飢え』を髣髴させる。 8/25 クリストファー・ノーラン監督「インソムニア」を観る。 善悪の区別があいまいで、それゆえ、言いようのない不安を醸している映画。 昼と夜が、善と悪に対応していることは言うまでもない。 結末のカタストロフィーは、必然の結果だろうか? それだけが、心残りである。 8/26 ギルバート・アデア『ドリーマーズ』(白水社)を読む。 1988年に発表された『The Holy Innocents』を、映画化のために書き直したものである。 (『The Holy Innocents』のブック・デザインは、かなりかっこいい) 「スタイリッシュで洗練された文体」「読者を突き放した文体」 そんな表現がよく似合う。 ジャン・コクトーの『恐るべき子供たち』と比せられた作品である。 男女の双子と少年。 世間と隔絶された生活を送る3人。 押し寄せる5月革命の波。 そんな話。 それだけではない話。 傑作。 8/27 ギルバート・アデア『ラブ&デス』(角川書店)を読む。 大作家デアス(De'Athe)が、映画の中の男性アイドルに恋をする話。 普段買わないティーン雑誌なんかを手に入れて、 少しずつ青年アイドルに近づいていく。 すさまじいリーダビリティ。 「巻置く能わざる」とは、このことだ。 ちなみに、14ページにある『空虚の高級化』というタイトルは覚えておいたほうがいい。 - 『ラブ&デス』は、ジョン・ハート、ジェーソン・プリーストリー共演で、映画化されている。 おお、『ビバリーヒルズ高校白書/青年白書』だ・・・。 8/30 ギルバート・アデア『作者の死』(早川書房)を読む。 これまた、すごい。 academic sophisticated metafictional、mystery。 ナチに加担したポール・ド・マンを、露骨にパロディしたもの。 P.35で、『ラブ&デス』に登場した、ディーアース『空虚の高級化』が出てくる。 (ディアスとディーアースと表記が違うのは、訳者のせい) こういう intertextual な遊びも、アデアならではである。 マルカム・ブラドベリ『超哲学者マンソンジュ氏』とともに、強く推薦。 8/31 Gilbert Adair『The Key of the Tower』を読む。 雨の日、狭い一本道に倒れた大木。 どうしても向こう側へ行きたい。と、大木の先にも、同じような男がいる。 二人が車を交換するとこから(ロールスロイスとミニ!)、物語は始まる。 『塔の鍵』という名画をめぐる詐欺。 『塔の鍵』は、どこに隠されているのか。 - ゴルフ場のシーンはダラダラしているが、その他は、すべて、緊張に満ちている。 語彙レベルがかなり高いので、ちょっとつらいが、乗ってくれば気にせず、どんどん読める。 - それにしても、アデアって、笠井潔に似てるよな。 言いたくないけど、五木寛之にも似てる。 9/1 ギルバート・アデア『閉じた本』(東京創元社)。 盲目の作家が、筆耕者を雇う。 盲者の「視点」から描かれているため、物語は「声」のみで進行する。 ラストのトリックは、うまいと思った。 これだけの感想で、ネタバレすれすれってことは、甘いトリックなのかもしれないが。 9/2 ギルバート・アデア『ポストモダニストは二度ベルを鳴らす』(白水社)を読む。 どこかで、イギリス版大塚英志だと書いてあったが、まさにその通り。 皮肉と諧謔に満ちた、というか、その2つしかないだろっ!、っていう不思議なエッセイ。 なんかすごいこと言ってそうに思えるのは、きっと気のせいだ。 - あとがきによると、全訳ではないらしい。ということで、 Gilbert Adair "The Postmodernist Always Rings Twice" の中から、邦訳版には未収録である以下の17編を読む。 (番号は任意。とくに意味はない) - (1)Reflections on the names of pop groups (2)Ologies (3)Closed circuits (4)O’Hanlon in Amazonia (5)Lookalikes (6)Bilko (7)Liff, death and the whole dawn thing (8)Andy Hardy grows up (9)The art of luxury (10)The poetry of embarrassment (11)Indecent exposures (12)Here is the news and here the news reader (13)The mother of all battle axes (14)Outing Grandstand (15)The ‘the’ and the ‘and’ (16)Show business (17)Illusions of grandeur - 最近の音楽は、タイトルとグループ名が区別できないと嘆いた(1)、 顔の相似を、言葉の韻と比較して論じた(5)、 「架空の言葉辞典」についての書評(7)、 小説のタイトルにおけるtheやandについて語り尽くした(15)、 の4篇がとくに秀逸。 (7)で言及された"The meaning of Liff"と、 その続編"The deeper meaning of Liff”は面白そうなので、買ってみることにする。 ちなみに、Liffとは・・・。 A common object or experience for which no word yet exists. 訳すと、「まだ、それを表現する言葉が存在していないが、 皆が感じている共通の物や経験」といった感じ。 「小指を、たんすなどの角にぶつけること」とか、 人に言うと、「あるあるー」という同意を得られそうな経験のこと。 9/3 BLOOD『DO IT YOURSELF!』を聴く。 捨て曲がない、非常に完成度の高いアルバム。 「真実とリスク」「LIFE&SONGS」「STAR」が特にいい。 『CRACK!』のデザインはどうかと思ったが、 今回のジャケットは、めちゃくちゃかっこいい。 9/6 ミシェル・ヴォケール『愛書趣味』(文庫クセジュ)を読む。 何もいう必要はない。 本好きにはたまらない一冊。 でも、後半はフランス人向け。 以下、引用。 ●愛書趣味は一番金のかかる暇潰しであると広く認められてはいるが、実際はそうではない。時と所とを得て書物を買う術を心得ておれば、今もなお立派な書庫を建てることができる。 ●愛書家は蔵書の損傷を恐れて本を読まない、とよく言われた。これは必ずしも正しくない。触れる快感は見る快感としばしば混じり合う。だから、貴重な原刊本より広く流布しており、手に取り易い刊本を稀覯本のそばに並べておけばよい。何はともあれ、愛書家は蔵書を尊重し、注意して取り扱わなくてはならない。 ●汚染(しみ)や湿潤や多様な欠陥は必ずしも時のせいではなく、しばしは不注意のせいである。 ●自分の好きな本を買っておけば、やはりその本を好むようになる人が必ず現れる。 ●旅行についても、もちろん航海についても、左記三書を含めて、すべての本を蒐集すればよい。 ●後者の作物で揃えるべきは次の三書である。 ●次の二書だけは揃えるに値する。 ●彩色版画を期待したのに、黒白版画に出会うことも時にはある。美しさと楽しさはあの色彩にあるので、そんな本は買わない方がよい。 ●しかし狩猟書の蒐集者はこのような稀覯本だけに満足してはならない。 ●真に本を好むなら、すべての本を好むべきであるのだから、この愛書趣味を軽視するならば、間違いをおかすことになろう。 9/7 「記憶のはだたき(Till Human Voices Wake Us)」を観る。 なんとも美しい映画である。 喪失と再生の物語。 ピアノが作り出す、はかなくて切ない雰囲気。 時系列順に事件を並べたから、きっとよかったのだろう。 フラッシュバックなんかを使ったら、この切なさはすべて壊れてしまう。 9/9 『ヘルダーリン全集 1.2.詩』『3.ヒュペーリオン:エンペドクレス』 『4.論文:書簡:ドキュメント』(河出書房新社)を読む。 8年ぐらい前、『ヒュペーリオン』(岩波文庫)に感動し、 いつか全集で読もうと思ってたのだが、やっと実現。 - 詩は、あまり感心できるものがなかった。(やはり詩は難しい) が、「ヒュペーリオン」は、詩人が書いた散文なのだと実感する。 詩的に書かれた散文と、散文として書かれた散文は、全く違う。 - 「エンペドクレス」は、ヘルダーリンの最高傑作。 もし、完成していたら、とてつもない名作が生まれたことだろう。 『エンペードクレス』(岩波文庫)の解説もついでに読む。 - また、これほどまでに、興味深い書簡集も珍しい。 シラー、シェリング、ヘーゲルがたくさん。 ゲーテ、ティーク、ブレンターノ、シュレーゲルがちょっとだけ。 シャルロッテまで登場する。 なんという顔ぶれだろう。 - ヘルダーリンは、ギリシャを失われた楽園(=アルカディア)として謳いあげた。 現代において、シュトルム・ウント・ドランク(=疾風怒濤)を謳うことは困難である。 私たちは、二重に失われた次代に生きている。 9/10 川端香男里『ユートピアの幻想』(講談社学術文庫)を読む。 一時期、ユートピア文学にはまったことがあり、 いつか総決算するような本を読みたいと思っていた。 大変よくまとまった入門書であり、通読すると、 ユートピア像とも言うべきものが浮かび上がってくる。 「ユートピア」の反対語として、「アンチ・ユートピア」という表現を使っているが、 「ディストピア」という言葉が出てこないのはなぜだろう。 9/13 金子務『思考実験とはなにか』(講談社ブルーバックス) 橋元淳一郎『われ思うゆえに思考実験あり』(早川書房)を読む。 ガリレオの落下速度に関する試論に始まり、相対性理論や量子力学の話に終る。 カール・ポパー、ファイヤアーベント、ペンローズも出てくる。 思考実験とは言いながら、思考だけでどこまでも行けるわけではない。 正しい現実解釈を基にして、思考実験は組み立てられなければならない。 間違った思考を根拠に思考実験をすれば、誤った結論にたどり着く。 上記の意味において、哲学は偉大なる思考実験とその失敗の歴史と言えそうである。 9/14 『萌える英単語 もえたん』(三才ブックス)、『もえたん Appendex of Animage』 『恋する英単語(恋たん)』(三修社)を読む。 ぱらぱらめくったのではなく、きちんと通読した。(この程度の英単語なら、ほぼ100%知っている。) 確信犯的な、あざとすぎる例文が並ぶ、英単語帳の革命児である。 『もえたん』には、おたくの生態を的確に捉えた描写が、 『恋たん』には、18禁すれすれの露骨な描写が、それぞれ散りばめられている。 どうでもいいけど、英語はできたほうがいい。 ECCとかNOVAは、英「会」話を習う場所である。 英語を習得するためには、きちんと文法を覚え、ボキャビルをした後、 未邦訳作品のある海外の作家を好きになればよい。 9/15 大塚英志『戦後民主主義の黄昏』『Voice増刊号 選挙に行く前に読んでおけ。』 『ナショナリズムと戦後民主主義 最後の対話』(すべてPHP研究所)を読む。 『戦後民主主義の黄昏』は、かなりのヒット。 「成熟」をキーワードに、戦後民主主義を評論している。 この一冊で、大塚英志がますます好きになった。 後ろの二冊は、福田和也との対談本。 つまらなくはないのだが、彼ら二人のよさというのは、 読者に語りかけるその文体にある。 だから、二人で盛り上がる対談は、まぁ、それなり、ということになる。 9/16 トム・クルーズ主演「バニラ・スカイ」を観る。 「オープン・ユア・アイズ」の忠実すぎるリメイクである。 クオリティはアップしているが、 もしかしたらトム・クルーズにだまされているだけなのかもしれない。 オチがああいうものである以上、 どうやっても後半はグダグダになってしまうのだろう。 ぎりぎり及第点というレベル。 9/17 大塚英志編『新現実 vol.2』(カドカワムック178)を、いまさら読む。 大塚英志の作った雑誌という外枠がなかったら、 たぶん一生読まなかったであろう評論やエッセイがもりだくさん。 どれもかなり高いレベルで楽しむことができたし、納得もできた。 ついでに昔話。 第1回文学フリマで、藤林靖晃の私家版を購入。 その時、先着3名様にプレゼントだったFFのフィギュアをもらう。 たぶんコカコーラのおまけ。たぶん捨てた。 第2回では、コピー版を購入。 コピーを必死に折りたたむ藤林を、隣にいた大塚英志が笑ってた。 9/21 大塚英志編『新現実 vol.3』(カドカワムック199)を読む。 とても面白かった。 宮台真司と大塚英志の対談が特に秀逸。 「ギャグ」としてやってるのに、「本気」として伝わってしまう。 そんな逆説でしか語ることのできない機微に満ちた現実を、宮台は語り続ける。 - 『新現実』3冊を通じて、「違和感」という言葉が頻出する。 「違和感」を覚えることこそが、批評の始まりとでも言いたげである。 でも、どうもそのことに私は「違和感」を覚える。 これを本気で言ってるのか、ギャグで言ってるのか、 そんなことは言わずもがなである。 9/22 マーク・Z・ダニエレブスキー著/嶋田洋一 訳『紙葉の家』(ソニー・マガジンズ)を読む。 amazon.comが以下のように紹介している。(原文英語) 「『ブレアウィッチ・プロジェクト』が映画ではなく書物の体裁になり、 ナボコフが稚気満点に書き上げ、スティーヴン・キングが知性を総動員して加筆し、 未来派のエディターが可能な限りアヴァンギャルドにレイアウトを組んだら、 『紙葉の家』のような本が生まれるだろう。」 見事な書評である。 そこで。 こんなのはどうだろう。 「大西巨人が重度の妄想に捕らわれ、ありもしないことを書き連ね、 それを真実だと信じ込んだ竹本健治が、普段にはない速筆で加筆修正し、 さらにそれを笠井潔が、大西と竹本に内緒で加筆修正し、 冥界からよみがえった辰巳四郎が、鼻から零れ落ちる脳みそをずるずるいわせながら レイアウトを組んでいるのを、清涼院流水が指をくわえて見ていたら、 『紙葉の家』のような本が生まれるだろう。」 - ドストエフスキーや手塚治虫にも言えることだが、 どうしてこんな壮大な物語を、たった一人の人間が創造できるのか。 とんでもない傑作である。 - ついでに、「真夜中のすべての光------サルバトーレ・ヌフロ・オレホン『エロrの物理学』と リヴィア・バッシル『物理学の心理学』」(新潮2003年7月特大号)も読む。 この短さで、この世界観。すごい。 物語の先に、もう一つの世界が見える。 ちなみに原題は All the Lights of Midnight: Salbatore Nufro Orejon, "The Physics of Eror" and Livia Bassil's Psychology of Physics 9/24 古東哲明『ハイデガー=存在神秘の哲学』(講談社現代新書)を読む。 プロローグと第1章までは、本当に素晴らしい。 こんなに美しく哲学を語る人を私は知らない。 問題は、それ以降である。 《本来的》と《非本来的》を区別してしまったり、 存在を至高のものとして謳いあげてしまうことにこそ、 ハイデガー哲学の最大の罠があるのだが、 そのことに対して、著者はあまりにも無自覚であるように思える。 - とはいいつつ、私は『存在と時間』を読破していない。 周辺を探って、知ったような気になっているだけである。 もういい加減、格闘・対峙しなくては、と自らに猛省を促す。 9/27 竹田青嗣『言語的思考へ---脱構築と現象学』(径書房) ポストモダンや分析哲学隆盛の中、果敢に現象学の復権を唱えた快著。 こんなにもワクワクした気持ちで読める哲学書は『存在論的、郵便的』以来。 難点を挙げるとすれば、その「わかりやすさ」である。 「それなら、この本を読んでやろう」という気分に不思議とならないのだ。 謎を解明するのもいいが、少しぐらいは読者のために残しておいてほしい。 9/28 竹田青嗣『現象学は<思考の原理>である』(ちくま新書)を読む。 昨日の『言語的思考』を補完するという意味において、好著である。 が、ちょっと噛み砕きすぎて、もどかしく感じてしまう部分も多い。 これから竹田がどこまで行けるのか、リアルタイムで見届けたいと思う。 - 『近代哲学再考』(径書房)も読むが、これはあまりよろしくない。 哲学を読み直すというコンセプトは理解できるのだが、 そこまで近代を肯定しなくても、という気がする。 9/29 「パニック・ルーム」を観る。 頭のいい人が作った映画である。 (少なくともバカには作れない) かなりご都合主義的な展開ではあるが、 全編にわたって持続する緊張感はなかなかのものである。 9/30 「ホテル・スプレンディッド」を観る。 このどうしようもない壊れ方には、もう笑うしかない。 本来なら悲劇的であるはずのシーンが、 ピーヒャラという間の抜けたBGMのせいで喜劇的なものに変わる。 音楽が世界を裏返す不思議な悲喜劇。 10/1 Knut Hamsun『In Wonderland』を読む。 ノルウェーでの出版から100年前たって、はじめて英訳されたクヌート・ハムスンのロシア旅行記。 police officerが、ハムスンを逮捕しようとする場面と、 ロシア文学について熱く語った一節が特に面白い。 旅の同伴者(=妻)が、ハムスンに「あなたは細かいことを書きすぎてると思うの」と発言する メタフィクショナルな仕掛けもある。 10/4 トム・ロビンズ『カウガール・ブルース』を読む。 帯に、「脳みそをくらくらさせる面白さ。トマス・ピンチョンが絶賛。」とある。 この小説に秩序はない。 本を読み終えたとき、混沌(=秩序のなさ)こそが、秩序なのだと気がつく。 「こんな小説読んだことがない」 そんなありきたりな賛辞では、とても表現しきれないくらいすごい小説。 以下、本文と解説から引用。 -------------------------------------------------------------------------- チンクがテュール湖を脱走したのは、例外があるべきだと信じたからなの。 さんざん考えた末、彼は普通の逆である特殊な行動を起こすこと、 規則よりも例外を体現することを、自分の役割と考えたのよ。 -------------------------------------------------------------------------- ロビンズが一般にも広く知られるようになったのは、 第二作の『カウガール・ブルース』からである。 この本も出版当時はさほど話題にならなかったが、 ペーパーバック化されてからじわじわと人気が出始め、 最終的には二百万部を超えるほど売れたらしい。 特に若者のあいだで、ロビンズはトマス・ピンチョン、カート・ヴォネガット、 リチャード・ブローディガンらと並ぶカルト作家となった。 -------------------------------------------------------------------------- 原題 Tom Robbins "Even Cowgirls get the Blues" 「カウガールだって、たまにはブルーな時もある」という意味。 10/5 トム・ロビンズ『香水ジルバ』(新潮社)を読む。 1000年生きた主人公を通して、生命の意味を描き出す。 非常によく練り上げられたプロットであるが、 小説の出来は『カウガール・ブルース』の方が上。 以下、引用。 -------------------------------------------------------------------------- 「ディア・アビーって、本当に男なの?」 「ええ、本当よ。車椅子にすわっている禿ちゃびんの老人なんですって。 オーストラリアかどこかに住んでるって話だけど」 「彼女の姉はどうなの?」 「え?」 「もう一人いるでしょ、人生相談のプロが。アン・ランダーズ。姉のほう」 「ああ、アン・ランダーズね。アン・ランダーズも男よ」 -------------------------------------------------------------------------- 10/6 デビッド・フィンチャー監督「ゲーム」を観る。 よくある「バーチャルゲーム」もの。 どれだけ本当のゲームから逸脱できるかが、最大の見せ場である。 で。 これだけかよ。 人間の強さも弱さも、中途半端にしか描けていないのが残念である。 タイトルが「ゲーム」っていうのも安易だし、含意する特別なものも何もない。 10/7 やまぐち健一『相対性理論が面白いほどわかる本』(中経出版) 佐藤勝彦『【図解】相対性理論がみるみるわかる本』(PHP研究所) 佐藤勝彦『【図解】量子論がみるみるわかる本』(PHP研究所) J.P.マッケヴォイ『マンガ 量子論入門』(講談社ブルーバックス)を読む。 - 20世紀物理学の二大理論として著名な、相対性理論と量子論だが、 量子論のほうがはるかに興味深い。 アインシュタインは、(ほぼ)一人で体系を作り上げてしまったため、 理論の生成されていく過程が、見えにくいのだ。 小粒(!)の天才が「ああでもないこうでもない」と論争を繰り広げる 侃々諤々の試行錯誤が、学問の面白さだと私は思う。 アインシュタインは、天才すぎるのだ。 10/8 高橋昌一郎『ゲーデルの哲学---不完全性定理と神の存在論』(講談社現代新書)。 「嘘つきのパラドックス」などを起点にして、「神の存在証明」まで一気に駆け上がる快著である。 著者のゲーデルに対する思いが、にじみでている。 思うに、ゲーデルの存在証明は、アンセルムスのそれを全く越えていない。 正気と狂気の狭間で苦悩するゲーデルこそ、まさに天才の名にふさわしい。 10/12 テオドール・W・アドルノ『プリズメン』(ちくま学芸文庫)を読む。 以下の一節がもっとも有名なアドルノの言葉であろう。 - 社会がより全体的になれば、それに応じて精神もさらに物象化されてゆき、自力で物象化を振り切ろうとする精神の企ては、ますます逆説的になる。非業の宿命のもっとも鋭い認識でさえ、単なるお喋りに堕すおそれがある。文化批判は、文化と野蛮の弁証法の最終段階に直面している。アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。そしてそのことがまた、今日詩を書くことが不可能になった理由を言い渡す認識をも侵食する。絶対的物象化は、かつては精神の進歩を自分の一要素として前提したが、いまそれは精神を完全に呑み尽くそうとしている。批判的精神は、自己満足的に世界を観照して自己のもとにとどまっている限り、この絶対的物象化に太刀打ちできない。 - 確かに、アウシュヴィッツを言葉にするのは困難である。 すべてを併呑する全体化の社会へと、世界が向かっていることは間違いない。 しかし、である。 野蛮であることを承知の上で、それでも人々は、 アウシュヴィッツを風化せないために、言葉を発してきた。 その勇気をさげすむことなど、いったい誰にできようか。 もし、詩を書いたり、言葉を紡ぐことが、野蛮だとすれば、 この勇気ある言葉たちを前にしてのことだろう。 10/13 cherry filter『made in korea?』を聴く。 日本のレコード屋には置いていないので、 韓国モノを扱っているネットショップから取り寄せる。 2曲目の「cherry filter」で完全にやられた。(1曲目はインスト) You Jeen の唄が、もう、めちゃくちゃうまい。 喜怒哀楽というアンビバレントな感情を、 突き抜けた高音で「同時に」表現する、稀有なボーカリストである。 彼女は Youjeen 名義で日本デビューを果たしており、 Jや室姫深などによる楽曲を見事に歌いこなしている。 Youjeen のプロデューサーである室姫深が、 4曲目のアレンジとプログラミングに参加しているのもうれしい。 10/14 『お厚いのがお好き?』『なおかつ、お厚いのがお好き?』(フジテレビ出版)を読む。 微妙。かなり微妙。 10行程度でまとめられる思想を、わざわざ数ページにわたって説明している。 これなら普通の哲学入門書を読んだほうがいいのではないか。 アナロジー(何かにたとえること)は、とても便利な説明方法である。 だが、(乱暴に言えば)哲学という学問には「抽象的思考の訓練」という意味合いもあり、 「具体的な経験に」落としこまれた哲学は、もはや哲学とは言えないのではないか。 上記の2冊には、そんな居心地の悪さを感じる。 石原壮一郎『哲學者に訊け! 大人の男女関係・その叡智と真実』(集英社インターナショナル)や 富増章成『空想哲学読本』(宝島文庫)を読んだ時にも同様の気分を味わった。 10/15 目的地を告げられぬまま、ただ誰かについて行く旅があるとする。 案内人は、私の少し先を歩いており、視界からはすでに消えてしまっている。 足元に残された痕跡の意味を、慎重に解読し、案内人の後を追っていく。 何一つとして、見落としてはならない。 自分は一体、どこに連れて行かれるのだろう。 鬼界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた』 (講談社現代新書)は、そんな本である。 副題「哲学的思考の全軌跡1912‐1951」が示すように、 ウィトゲンシュタインの哲学的思索の軌跡を丹念に追いかける旅である。 難解だと言う評が、ネット上に多数あるが、私はそうは思わない。 簡潔で、無駄のない、ウィトゲンシュタイン本人を髣髴とさせる美しい文体である。 哲学とは、本来的に、純粋であり、無垢であるべきなのだ。 10/18 藤本隆志『ウィトゲンシュタイン』(講談社学術文庫)を読む。 誰よりも真摯に、哲学をしたウィトゲンシュタイン。 その姿が、伝記と著作の抜粋を通して浮き彫りになる。 思想の解説部分は、分量の少なさもあり不満。 10/19 ウィトゲンシュタイン著/野矢茂樹訳『論理哲学論考』(岩波文庫)を読む。 「およそ語られうることは明晰に語られうる。 そして、論じえないことについては、人は沈黙せねばならない」 後半の「沈黙せねばならない」ばかりに注目すると、なんとも陰鬱な気分になる。 前半の「明晰に語られうる」というのは、それ以上に、希望のある力強い言葉である。 「答えが言い表しえないならば、問いを言い表すことはできない。 謎は存在しない。 問いが立てられうるのであれば、答えもまた与えられうる。」 ウィトゲンシュタイン本人は、写像理論を誤りであると捨て去ったが、 それでもなお、これらの言葉は生き残る。 言葉に生命を与えるのは、真実性だけではないのだ。 10/20 羽田圭介『黒冷水 こくれいすい』(河出書房新社)を読む。 著者は当時、17歳。 レトリックの豊かさに多少難はあるが、リーダビリティはきわめて高い。 兄の部屋をあさる弟と、弟を罠にかける兄。 兄弟の不和をとことんまで突き詰めた作品である。 「本編」については、これくらいにして、 問題となっている「メタ部分」について書いてみる。 (以下、たぶんネタバレ) - おもな「メタ部分」の不要論は、その短さに由来している。 「これなら、なくても同じじゃん」というわけである。 「いや、だからこそ、効いてくるのだ」と私は反論したい。 著者は、なぜ「メタ部分」を書いたのか。 そして、なぜ「もっと」書かなかったのか。 この問いを突き詰めれば、自ずと答えは出る。 - そこらじゅうで言われてることではあるが、現実に現実感は、もはやない。 「小説の話」であったと「あえて一瞬だけ」救いを与えておいて、 いや、外(=メタ)の世界も、どうしようもない世界だと切り返す。 このマジックのような早業は「短さ」を要請する。 そして、小説が終る。 本を置いて、現実を見たとき、「この世界は?」という疑問が沸いてくる。 たった一つの短いメタによって、無限に続くメタ構造を示唆しているとも言える。 あの「短いメタ」は、現実と虚構を曖昧にする装置なのだ。 著者の「悪意」は、この世界にも充満している。 10/21 「ウェイキング・ライフ」を観る。 夢から醒められない主人公が、 いろんな人の話(というか演説)をただひたすら聞くというアートアニメ。 ストーリー性はほぼ皆無。 「さまざまな話題」について言及されているように思えるが、 注意深く聞けば、根底に流れているものは共通している。 精神、魂、進化、自由など、いかにもアメリカらしい、 ヒッピーみたいな主張がほとんどである。 ニューソートとか、プラグマティズムと言い換えてもよい。 10/22 「ブラック・キャデラック」を観る。 なぜか、黒いキャデラックに追いかけられる若者3人。 かなり都合のいい展開の連続ではあるが、 生み出されるサスペンス感はなかなかのもの。 それにしても、オチはひどい。 「おいおい」って突っ込みたくなるほど。 しかし、ラストの会話が印象的なので、観終(みおわ)わった後の気分は悪くない。 『黒冷水』ほどではないが、兄弟関係もかなりうまく描かれている。 10/25 『サバイブ・ルーム』を観る。 TV番組の企画で、ある空間に閉じ込められた8人。果たして生き残るのは誰か。 この映画で決定的に欠けているのは、意思の自主性である。 自らの運命に対して、登場人物は、抗う姿勢をほとんど見せない。 それならば、誰が生き残ってもいいということになりはしないか。 人は自らの力で世界を変えていくべきなのだ。 もちろん、映画の中にかぎった話ではない。 10/26 CRAZE『CORE』『SLICK』を聴く。 CRAZE史上初のスプリット・ミニアルバムである。 自身が語っているように、それぞれに明確なコンセプトはない。 「Hummer Hammer」で口火を切る『SLICK』が特に素晴らしい。 CRAZEを聴くとなぜだか、舞城王太郎を思い出す。 ITAYA TUSK(板谷祐)は、one and only のボーカリストである。 10/27 講談社現代新書とカッパ・ノベルスの装丁が一新された。 ○講談社現代新書 白地バックにパステルカラーの正方形を中心に配置してある。 女性を中心に読者層が広がりそうである。 ○カッパ・ノベルス 表紙カバーには、タイトル・著者など最低限の文字情報だけが記載され、 帯(腰巻)で個々の特徴を出している。NHK出版の生活人新書の手法である。 - できるだけシンプルに。できるだけフラットに。 『ファウスト』(『メフィスト(小説現代増刊号)』の兄弟誌)が、 作家ごとにフォントを変えるなど、知の画一化に必死の抵抗を続けているのに対して、 上記の新書たちのリニューアルは、なんともあっけない敗北宣言であるように、私には思われる。 10/28 田辺保『シモーヌ・ヴェイユ その極限の思想』(講談社現代新書)。 まったく期待せずに、この本を読んだ。 最終ページに鉛筆で「1972・5・31読了 2度と読まなくてよい」 と書かれていていたからだ。 このコメントで、ハードルがかなり低くなったせいなのかもしれないが、 かなり興味深く読むことができた。 殉教した聖人を思わせるストイックなヴェイユが非常によく描けている。 ヴェイユの思想についてはほとんど触れられていないのが残念であるが。 ちなみに、小豆色の表紙は、講談社現代新書の最初期バージョンである。 10/29 シモーヌ・ヴェイユ『ヴェーユの哲学講義』(ちくま学芸文庫)。 ロアンヌ女子高等中学(リセ)でヴェイユの授業を受けていた 一人の生徒のノートを編集したものである。 テーマごとに授業は展開されていき、 自らで物を考えるという「哲学」を生徒に促すような内容になっている。 どういった流れで考えが出てきたのかという「哲学史」には比較的無頓着である。 この本には、なぜだか居心地の悪さを感じた。 そもそも哲学を語るとは、自分を語ることであって、 なにかしらの形で自分の思想は反映されてしまうものである。 初期のヴェイユはあまり好きになれない。 11/1 シモーヌ・ウェーユ『抑圧と自由』(東京創元社) (訳者の石川湧によると、Weilは、「ヴェーユ」ではなく「ウェーユ」と発音するらしい) シモーヌ・ヴェイユ『労働と人生についての省察』『ロンドン論集とさいごの手紙』(勁草書房) 『シモーヌ・ヴェイユ詩集 付 戯曲・救われたヴェベチア』(青土社)を読む。 後期ヴェイユの著作には、どうしようもない息苦しさが満ち満ちている。 自らをひたすら苛め抜いて、最後には餓死を選んだヴェイユ。 希望は、絶望を通してしか、その姿を現さない。そして希望はすぐに潰える。 事物の陰に潜む真実とは、どこまでも痛ましい存在なのかもしれない。 11/2 吉本隆明『甦えるヴェイユ』(JICC出版局)を読む。 簡潔に、かつ批判的にヴェイユ思想を解きほぐしていく好著。 巧妙に自身の思想を滑り込ませているのも乙。 見事。 11/4 「アイデンティティ」を観る。 よくある○○○○ネタである。 はやりの○○○○ネタである。 (1)枝分かれした物語をどちらも放棄せず、きちんと最後まで描ききっている。 (2)2つの物語は、最後まで相互補完的である。 以上の2点から、この映画は評価できる。 伏線の張り方は、ちょっと粗いが。 11/5 「23(トゥエンティースリー)」を観る。 カルト小説「イルミナートゥス」を妄信したハッカーを描いたドイツ映画。 あらゆるところに、「23」という文字が隠されており、 それはすべて「イルミナートゥス」がこの世を操っている証拠だと主人公は考える。 (イルミナートゥスは、フリーメーソンみたいなもの) 派手さはないが、ぐいぐい引き込む魅力を持った映画である。 - 「イルミナートゥス」は、未邦訳なので、原書を買うことにする。 カバーにある「10万部突破」という規模の小ささが、巧くカルトっぽさを演出している。 Robert Shea, Robert Anton Wilson 『The Illuminatus Trilogy: The Eye in the Pyramid, the Golden Apple & Leviathan』 11/8 「テッド・バンディ」を観る。 初めて「シリアル・キラー」という言葉が使われた、凶悪殺人犯についての映画である。 どれだけ犯人の実像に迫れるかが、この種の映画の肝なのだが、 不快な殺人シーンが淡々と繰り返されるだけで、胸に迫るものは、まったくなかった。 テッド・バンディを偶像視するメディアや大衆の危険性、 彼のコンプレックスなど、いくらでも材料はあったはずだ。 いったい何のために、この映画は製作されたのか。 テッドは、ヒーローなんかではなく、ただのサイコ野郎だと、 言いたかっただけなのかもしれないが。 11/9 モブ・ノリオ「介護入門」「ダウナー大学」を読む。 どうなんだろう、家族の一員を介護するのは当たり前なのではないか。 「派遣介護士は信用できない」という意味の一説があったが、 そういう他者こそ、受け入れる価値があるのではないか。 介護入門というからには、派遣介護士を主人公にして欲しかった。 「ダウナー大学」はとても読みにくい。 カタカナだらけの文章なのだ。 意図的に読みにくさを演出しているのだろうが、まぁ成功はしている。 一番安易な方法ではあるが。 11/10 月の土地を購入する。 ルナエンバシーという会社が、法の網目をくぐって月を所有する権利を手に入れ、 1エーカーあたり、3000円という破格値で販売しているのだ。 試しに1エーカーだけ買う。 (月球儀、火星儀などというなかなかシュールなものも売っている。) もちろん本当に月の土地を所有できるなどとは思っていない。 こんな反論もあり、たぶんその通りだろう。 それでも私は大満足である。 月を見上げて、「あそこら辺は自分のものだ」などと考えるだけで楽しくなってくる。 買ったのは、月の土地だけではないのだ。 もし何十年後かに、私の購入した土地をめぐって何らかの争いが起きるのなら、 それはそれで運のツキということで、あっさりと所有権を捨てようと思う。 冗談のような本当の話。 本当のような冗談の話。 11/11 星の贈り物 ステラレジストリーなるサイトがある。 13等星以上の星の名付け親になれるというのだ。 情報はコンピュータで管理されており、名前が重複する心配はないらしい。 登録料は30,000円。 月の土地と星の名前。 定義上、所有権は1つの土地に1つしか存在しない。 情報は1つの事物に複数の解釈が存在しうる。 情報は互いを否定しあうことはないからである。 受け手に柔軟な思考が求められるのは言うまでもない。 11/12 星座を音符に見立てる。 なんともロマンのある話である。 神山純一のEtoile(星座の音楽)シリーズを聴く。 こんな風に空に五線譜を描き、星を音符に変換する。 ストリングスや古楽器の演奏もあるのだが、ピアノの清冽さにはかなわない。 白鳥座と射手座が飛びぬけていい。 ヒーリング効果抜群のCDである。 これらの楽曲はケータイの着メロにもなっている。 ついでに、星めぐりの歌(宮沢賢治作詞作曲)なんかも聴いてみようと思う。 11/15 「キャメロット・ガーデンの少女」を観る。 「シナリオが未消化だ」「未完成だ」「意味が理解できない」 そんなコメントがネット上には溢れている。 本当にそうだろうか? 少女デヴォンの見る世界が、この映画の世界そのものであり、 あの寓話的な閉じ方こそが、最も「リアル」な現実なのだ。 以上のように解釈すれば、2つの「死」が果たしている役割もおのずと明確になる。 少女にとって、「死」は受け入れることのできない外部なのだ。 11/16 大槻義彦『大槻教授の反オカルト講座』(ビレッジセンター出版局)を読む。 月刊『噂の真相』に10年間連載された原稿を一冊にまとめたものである。 「大槻教授は科学バカである」というイメージは、テレビが作り出したものだ。 科学の力で、ひとつひとつ世界を解明していこうという誠実さには、胸を打たれる。 イメージだけで大槻教授を笑う者こそ、本当は笑われるべき存在なのかもしれない。 11/17 谷間真『「非常識」な組織づくりが会社を強くする』(実業之日本社)を読む。 最後の「GO!」サインを(社長ではなく)自分が出さなくてはいけない会社の話。 とてつもない責任を、社員は負うことになる。だからこそ、そこには成長がある。 言われてみれば当たり前のことである。 著者は、タイトルの非常識に「」をつけることで、それを示しているのだろう。 11/18 第三回文学フリマの会場が、「青山ブックセンター本店カルチャーサロン青山」から 「東京都中小企業振興公社・秋葉原庁舎」に急遽変更された。 若者の街「渋谷」から、オタクの聖地「秋葉原」へ。 この移動は、とても象徴的な出来事であるように私には思われる。 大塚英志の訴えで始まった文学フリマは、簡単に言えば、文学版「コミケ」である。 奇跡的でさえあるアマチュアの商業的な成功を、うまく文学に移植しようとしたのだが、 結局は、マンガ・アニメに呑み込まれてしまった。 文学は、もう自分自身を守ることができないのではないか。 そんなことを、今回の会場変更から私は感じた。 なぜ、会場変更にこだわっているかと言うと、当日、会場を間違えたからである。 11/19 (1)大谷長訳編『婚約 セーレン・キェルケゴールの遺稿』(創言社) (2)玉林義憲、久山康訳『キェルケゴールの日記』(アテネ文庫)を読む。 キェルケゴールの日記や手紙類が、日本語に訳されていたということを知り、 いろいろ購入したのだが、 『婚約 セーレン・キェルケゴールの遺稿』(三笠文庫) 『キェルケゴオル選集. 別巻 許嫁への手紙』(人文書院) の2冊は(1)と同一のものであることが判明。 まぁ、コレクターでもあるし、キェルケゴールには圧倒的な影響を受けたので、そこはそれ。 - さて、問題の内容である。 (1)の手紙はあまり面白くない。(2)の日記はかなり面白い。 この違いは、一体どこから来るのだろうか。 キェルケゴールが刊行を意図した文章は、例外なく面白い。 単純に「他者に対して書かれたもの」が面白いならば、(1)手紙と(2)日記の結果は逆であるはずである。 しかし実際は、著作と日記との距離が、著作と手紙のそれよりも、短い。 これは何を意味するのだろうか。 ヒントは、日記に隠されている。 - 大抵の人間は自分自身に対しては主観的で、他の一切の人に対しては客観的である。しかも時として驚くほど客観的である。--ああ、なさねばならぬことは、まさに自分自身に対して客観的であり、他の一切の人に対して主観的であることなのだが。(一部訳文変更) - 日記は自分自身に対して、手紙は他者に対して書かれている。 著作のほとんどは、レギーネに向けて書かれていると言われている。 つまり、以下の関係が成り立つ。 - 著作:客観的:対レギーネ 手紙:主観的:対他者 日記:客観的:対自分 - キェルケゴールは、レギーネをあまりにも自己と同一化しすぎてしまったのだ。 刊行された著作は、自分自身に対しても書かれていたということになる。 - 『そもそも「面白い=客観的」なのか』という疑問は一切受け付けない。 なぜなら、人は、他者に対して、主観的な文章を書かなければならないからである。 11/22 『Live at『ファウスト』@講談社』の招待状が届きました。 今週末が楽しみです。 11/24 大谷長訳『キェルケゴオル選集 第13巻 日記』(人文書院)を読む。 キェルケゴールの翻訳において、日記の扱いは極めて低い。 (『セーレン・キェルケゴールの日誌』(未来社)も1巻しか出ていない。) 1949年に出版されただけあって、違和感を覚える訳文はもちろんある。 しかし、キェルケゴールを理解する上で、日記は欠かすことのできない重要なファクターである。 - 例によって、本文より引用。 どちらもキェルケゴール哲学の核心をなす記述である。 - 完全な愛とは、自分が不幸にさせられた相手の者を愛するということである。しかもそのようにしてまた愛されることを求める権利は人間にはない。神はそれを要求することができる。それは無限な尊厳さを示すものだ。そして厳格な意味で宗教的な者についてなら、たとい祝福を得たとは言え人間的に言って彼がこの世では不幸にさせられた相手の者を、神を愛することによって愛するということはもちろん言えることだ。(一部訳文変更) - 最も弱いビールといえども、よく泡立つことは最も強いビールと同じくらいだ、だが違うところは、弱いビールの泡はたかだが一分間くらいしかもたないのに、強いビールの泡はその強さの割で長く続く。人間においても然り。違うところはある者は泡立つことができるが他の者はそれができないということ、ではない、人間は皆ある一定の時間泡立つものだ、問題は泡がいつまで続くかということだ。(一部訳文変更) 11/25 『キルケゴール著作集18 わが著作活動の視点 野の百合・空の鳥』(白水社)を読む。 キェルケゴールは、はじめて「嘘」をついた哲学者である。 (著作を残さなくても哲学者だと言うなら、ソクラテスなのではあるが) 「わざと」説得的に書かないことで、読者を反発させ、 結果的に、真のキリスト教へと導いていく。 「なんでまた、そんな複雑な方法を。素直に言っちゃえばいいではないか」 それに対する解答が、「わが著作活動の視点」である。 A「あんた間違ってるよ」そう言われて素直に B「はい、わかりました」なんて認める人は少ない。 A「私が間違っている。あなたは正しい」という「嘘」が、 B「いや、本当にそうだろうか」という懐疑を生む。 結局のところ、自分を変えることができるのは、自分自身だけなのだ。 11/26 『キルケゴール著作集19 瞬間 自らを裁け』(白水社)と、 Soren Kierkegaard『Attack upon "Christendom"』(Princeton Univ Press)所収の 「Articles in the Fatherland」を読む。 - キェルケゴール最晩年の著作は以下の通りである。 ・自らを裁け ・祖国誌に掲載された諸論説 ・これはいわねばならぬ だからここでいわせてもらう ・瞬間 ・公認のキリスト教をキリストはいかに判断するか ・神の不変性 - この中で、なぜか「祖国誌に掲載された諸論説」だけが訳されていない。 (『キルケゴール著作集』(白水社)、『キェルケゴール著作全集』(創言社) 『キルケゴールの講話・遺稿集』(新地書房)を組み合わせれば、他はすべて日本語で読める) 『祖国』という雑誌に掲載されただけで、 単独の著作(パンフレット)として出版されなかったからだろうか。 いろいろ調べた結果、英語には訳されていることを知り、購入した次第。 - 晩年のキェルケゴールの著作には、レトリックが少ないとよく言われる。 その分だけ、彼の剥き出しの情熱が、文章に横溢している。 文章を美しくするのはレトリックだけではない。 11/29 「Live at『ファウスト』@講談社」に行く。 『ファウスト vol.4』の第一特集である 「文芸合宿! Live at 『ファウスト』」についてのトークショー。 「リレー小説の中に矛盾が見つかった時、前の人が遡って修正することは許されるか」 について5人で話し合いが持たれ、 「修正は許されない。後に書く人がつじつまをあわせるべきだ」 という意見で全員が一致したという話は興味深かった。 ともあれ、ライブリレー小説「誰にも続かない」は、非常によく書けている。 かなりオススメ。 - 『ファウストvol.4』サイン会にも行く。 北山猛邦の既刊本三冊を持っていき、ついでにサインしてもらう。 ファウスト漬の週末。 11/30 「レザレクション (原題:Resurrection)」を観る。 ショッキングな内容で、飽きることなく全編を楽しむことができた。 グロテスクな描写はテーマ上、まぁ仕方ないにしても、 最後の屋上のシーンには言いようのない嫌悪感を覚えた。 食後だったら、違うものがレザレクションしていたかもしれない。 12/01 飯島洋一『光のドラマトゥルギー』(青土社)、『建築のアポカリプス』(青土社) 『アメリカ建築のアルケオロジー』(青土社)、『終末的建築症候群』(パルコ出版) 『王の身体都市』(青土社)、『アサヒグラフ別冊・シリーズ20世紀3 都市』(朝日新聞社) 『映画のなかの現代建築』(彰国社)、『〈ミシマ〉から〈オウム〉へ』(平凡社) 『キーワードで読む現代建築ガイド』(平凡社新書) を読む。 - どれも一定レベル以上で読める秀作ばかりである。 建築と他分野をリンクさせるのが、本当にうまい。 (飯島を通して、私は建築に興味を抱くようになった) しかし、彼の著作の真の価値は、ニヒリズムを超克しようとする、その意志にある。 以下の引用で、それは十分に感じ取れると思う。 - 父のいない時代、われわれが依存してきた大きな体系や世界がぐらつきはじめた状態は、単純にマイナスイメージで受け止めるべきではなく、世界のさらなる向こう側へと至るための一つのステップと見るべきではないか。(『アメリカ建築のアルケオロジー』) - 本書に取り上げたテーマは、病い、戦争とどれもが真に暗いものばかりだが、しかし先にも述べたように、半分死にかけている「仮死」にも蘇生の可能性があるように、この終末的症候にも、どこかに新しい時代への見通しが隠されているように思われる。(『終末的建築症候群』) - いまわたしは、戦うことが無意味であるとは考えなくなっている。具体的に戦う準備があるわけでもないし、強い意志をもっているわけではないのだが、しかし昔のように「無意味」だとは思わなくなった。(『王の身体都市』) - 建築は壊れるものである。けれども誤解してはならないのは、建築は決して壊されるためにそこに存在しているのではないということである。むしろ建築は、記憶を残すためにこそ存在する。(『キーワードで読む現代建築ガイド』) 12/02 Knut Hamsun「Wanderer Trilogy(放浪者三部作)」である『Under the Autumn Star』 『Wanderer Plays on Muted Strings』『The Last Joy』の3冊を読む。 『Under the Autumn Star』には、本当に美しい自然描写がいくつもある。 何度もため息をつきながら、読み進めた。 北欧ならではの澄みきった空気を感じられる、すばらしい一冊。 他の2冊は、まあまあ。というのも、主人公が「行為者」ではなく、 「観察者」になってしまっているからである。 「観察するだけの主人公」は、「四角い丸」と同様に 語義矛盾であるように、私には思われる。 12/03 絲山秋子(いとやまあきこ)『イッツ・オンリー・トーク』(文藝春秋) 『海の仙人』(新潮社)、『袋小路の男』(講談社)を読む。 やさしい小説である。 優しくて、易しい。 見えるか見えないかわからないぐらいの細い線で、輪郭を描いていく。 心の奥で人を信頼しているから、濃い線は必要ない。 繊細であたたかい物語。 12/06 12/5にBLOOD大塚RED ZONEで行われた BLOODワンマン〜DO IT YOURSELF!!! TOUR FINAL FLICKER!!!〜に参戦。 あの爆音、あの一体感。 ロックの全てが舞い降りた、奇跡のライブ。 12/07 雅-miyavi-『21世紀型行進曲/ロックの逆襲-スーパースターの条件-[DVD付限定盤 B]』。 作詞、作曲、編曲、プロデュースはもちろん、ボーカル、ギター、ベース、ドラム、 サンプリングなど、あらゆる楽器を使いこなす、まさに才人である。 これだけでもう、「ヴィジュアル系」という枠を大きく逸脱しているのだが、 それよりもさらに特徴的なのが、彼独特の「メタ思考」である。 大雑把に言って、ヴィジュアル系は「俺ってかっこいいだろ」というメッセージを送っている。 それに対して、雅-miyavi-は、その後に、「なんちゃってね」というアイロニーを追加する。 ロックやヴィジュアル系という概念が、単体では強度を持ち得ないことを認識し、 「適度」に利用するという戦略を取っているのだ。 ヴィジュアル系とメタ・ヴィジュアル系。 雅-miyavi-は、必ずその「どちらか」にいる。決して「同時に」両方をまたぐことはない。 ヴィジュアル系の時は、徹底的にナルシシズムに酔いしれ、 メタ・ヴィジュアル系の時は、どこまでもシニカルにヴィジュアル系を冷笑する。 (インタビューの中で、観察的な視線が自分の中に強くあるという旨の発言をしている) 「あれもこれも」ではなく「あれかこれか」という、選択的な戦略が、 雅-miyavi-を雅-miyavi-たらしめている。 12/08 加藤敏『創造性の精神分析 ルソー・ヘルダーリン・ハイデガー』(新曜社)。 狂気と創造の関係をめぐる論考。 書名の3人以外に、言及されているのは、アルトー、ニーチェ、カント、 スウェーデンボルグ、キルケゴール、西田幾多郎など。 私の傾倒する思想家が、ずらりと並んでいる。(2名を除く) これで、つまらないはずがない。 しかし、内容は「序論レベル」を紹介した程度。 エッセーとして読めばかなり面白いが、論文としてはまだまだ浅い。 著者が、これからどれだけ、この主題を深めていけるか、見届けたいと思う。 12/09 バリー・メイザー『黄色いチューリップの数式―ルート-15をイメージすると』(アーティストハウス)。 2乗するとマイナスになる。「i(虚数)」を、どうイメージすればいいのか。 高校数学で、虚数に出会った時、多くの人がこの壁にぶつかる。 そして、ほとんどの人が、「そういうふうに決まってるから」というふうに、この疑問を無化する。 著者は、逃げずに立ち向かう。 詩の話を絡めながら、虚数を鮮明にイメージさせてくれる。 それだけでも十分、読む価値があるのだが、さらにその先がある。 「虚数のイメージ」が、いかに正しいかを、三角関数を使って検証しているのだ。 (↑上の文章は、かなり不正確だが、「イメージ」するためには的確な表現だと思う) 「おい、おい、こう繋がってくるのか!」と心の中で叫んだ。 単語としては、(たぶん)一回も出てこないが、 『黄色いチューリップの数式』は、「アナロジー」についての良質な解説書でもある。 12/10 崎尾英子(さきおえいこ)『こころを聞く カウンセリング入門』(大修館書店)。 googleで「ロジカル・タイピング」と検索したら、たまたまヒットした本。 カウンセラーが、どのような視点で患者に接しているのかを、 平易な言葉で解き明かしている。 著者のまなざしは、どこまでも暖かい。 「ロジカル・タイピング(論理階型)操作」や、 「メタ・コミュニケーション」といったキーワードも魅力的。 12/13 ジョン・ウィンダム『トリフィド時代--食人植物の恐怖』(創元SF文庫)。 流星群を見たため、人類のほぼすべてが盲目になってしまう。 そして、トリフィドという名の植物が大地を、跋扈しはじめる。 奇跡的に視力を失わなかった人たちが、世界を立て直す。 要約すると、こんな話。 最初の30ページぐらいの部分で、 何が起きているのか把握できずに動揺する主人公の様子が、 本当によく書けている。 素晴らしい書き出しである。 その勢いだけで、あとの部分は、一気に読める。 12/14 藤原幸治『けつの穴を見る』(文芸社)を読む。 前作『イルカを殴る』(新風舎)が面白かったので。 出版社が、なぜか新風舎から文芸社に変わっている。 自費出版系の出版社でも、作家の取り合いというのは 日常茶飯事的に行われているのだろうか。 それとも作家自身が、動いたのか。 - 帯にもあるように、本当にくだらない内容である。 舞城王太郎のように、そのくだらなさの中から、 聖性のようなものがにじみ出てくるのではないかと期待したのだが、 ディテールは、トリヴィアルなものから離れることはなかった。 そして、この種の本としては、決定的な弱点なのだが、 読後、けつの穴を見ようとは全く思わなかった。 しょうもない本である。 12/15 ミシェル・タルデュー『マニ教』(文庫クセジュ848)を読む。 マニは、徹底的に「システム」作りを行った。 あいまいな言語を、精緻なそれへと変革し、 どのような体制でマニ教が伝播していくかを意識していた。 この点においてだけでも、「言いっぱなし」が多い宗教の世界で、 マニ教は特異な存在であることがわかる。 12/16 ロベール・オーロット『モンテーニュとエセー』(文庫クセジュ729)を読む。 文庫クセジュは、729でやっとモンテーニュである。 本家のQue sais-je? 叢書でも、2430巻である。 いいのか、クセジュ!? - 『エセー』『旅行記』『書簡集』を読んだ私のモンテーニュに対する印象は、 客観的に物事を観察する「相対主義者」だった。 この本の著者は、それを否定する。 モンテーニュは、気ままな引用者であり、自分の主張を補足するためだけに、 ギリシャ・ラテン哲学・文学を利用しているというのだ。 もう一度、エセーを読み直す必要がありそうである。 12/17 ジャン=ミシェル・アダン『物語論--プロップからエーコまで』(文庫クセジュ873)。 どんな「物語」でも持っている共通の構造をパターン化し、「分析」した本。 途中から「なんだかコミュニケーション論みたいだなぁ」と感じたのだが、 訳者あとがきで、著者は言語学者であることが判明、なるほどと、納得。 - 同じクセジュから出版され、すでに絶版・入手困難となっている ミシェル・シモンセン『フランスの民話』(文庫クセジュ685)は、 多くの「物語」を「分類」しており、さまざまなパターンを見比べることができた。 読み物として楽しむには前者が、 包括的な知識を得るには後者が、それぞれおすすめ。 12/20 オリヴィエ・ルブール『レトリック』(文庫クセジュ833)を読む。 さすがレトリックの本だけあって、文章は読みやすい。 頓呼法(とんこほう)なんていう、マニアックな修辞法も満載。 12/21 サーバーの関係で、メールの送受信ができません。 情報元からのメールが届かないので、 押尾・熊川語録の更新は、復旧までお休みとさせていただきます。 12/22 由良君美『メタフィクションと脱構築』(文遊社)を読む。 巽孝之の解説から引用。 - かつて由良氏は、しばしば<外国の文化や文物を研究して、一体なんの役に立つのですか。外国人のようには、どうせ分るわけがないでしょう?>と尋ねてくる輩に対し、苦笑混じりにこう反応していた。 「こういう問いをする人は<分る>ということを、つきつめて考えていないか、または、そのような疑念が吹っ飛んでしまうほど素晴らしい本---それも外国人による異国の文物研究書によって、魂をゆるざされた経験が一度もないかの、いずれかである」 - この本は、吹っ飛んでしまうほど素晴らしい本である。 12/24 『ビッグ・チャンス(原題:The Big Kahuna)』を観る。 ある大会社の社長を接待するため、サラリーマン3人がホテルでパーティーを開催する。 社長の顔さえ知らない3人は、彼を見つけ出し、説得できるのか? 映画というよりも戯曲。セリフが極端に多く、主な登場人物も3人だけである。 「ビジネス哲学は、ケビン・スペイシーに学べ!」というコピーのせいか、 ビジネスをめぐる話だと捉えている人が多いのには辟易する。 そうではない。 「現代において、いかに神を語るか」を、この映画は問いかけている。 なぜ、圧倒的な影響力を持つ「大会社の社長」なのか。 なぜ、彼は「顔」を見せないのか。 なぜ、若者は、彼を前にすると宗教の話しかできないのか。 - 本当に、本当に、素晴らしい映画だと思う。 メリクリなんて浮かれてないで、この映画を是非。 というわけで、メリークリスマス。 12/27 SHINICHIRO SUZUKI 10th アニバーサリースペシャルBOX 第1弾「WAISTED GARAGE」。 1曲目「FINAL WIRE」の衝撃。 ヘビー。メロディアス。 慎にとって、「限界」と「到達点」とは同義語である。 限界までたどり着いた者だけが、次の地平へと行ける。 【トップページ】へ 【過去の言葉たち2003】へ 【過去の言葉たち2005】へ 【過去の言葉たち2006】へ |