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1/1 あけましておめでとうございます。 今年もよろしくお願いします。 1/5 降雪した次の日の路面を見る。 光の当たる路面は、雪が溶けている。 車や人の通る路面は、雪がつぶれている。 どちらでもない路面には、雪が残っている。 そして、3日も経てば、いつもどおりの路面に戻る。 1/6 「ヒューマン・ネイチュア」を観る。 「マルコヴィッチの穴」「アダプテーション」でおなじみの、 鬼才チャーリー・カウフマンによる脚本である。 普通なら笑ってしまうような設定を、 真面目に演じきるところに、屈折したユーモアがある。 ルソー『人間不平等起源論』をガジェットに、 「自然に帰れ」なんてパフに言わせたら、 思想的な深みが出たのかもしれない。 (ちなみに、ルソーの著作に「自然に帰れ」という言葉はない) 1/7
白水社から出版されているサミュエル・ベケットのうち、 再刊されていない函(ハコ)もの5冊をコンプリート。 表裏それぞれを、ケータイで記念撮影。 ポイントは、真ん中にある本。 - 左 ベケット戯曲全集1 ベケット戯曲全集2 ベケット戯曲全集1 ベケット短編集 ベケット事の次第 - 右 ベケット事の次第 ベケット短編集 ベケット戯曲全集3 ベケット戯曲全集2 ベケット戯曲全集1 (ベケット戯曲全集3には、トレーシングペーパーを装着) - 「ベケット戯曲全集3」のみ、はじめから函は存在しない。 「1」「2」が函入りのため、どうも座りが悪い。居心地が悪い。気持ち悪い。 そこで、ページ数、価格、タイトルなどを検討し、「ベケット戯曲全集1」を2冊購入。 余った1冊(本体)は、友人にプレゼントしました。 えっ? 函が1200円って、安い・・・ですよね? 1/11 丸山健二『銀の兜の夜』(著者サイン入り、新潮社)を読む。 海の底から「銀の兜」を拾い上げた青年をめぐる物語。 『逃げ歌』と同様、「観念」が重要なテーマになっている。 自己を充溢させるのは、観念ではない。 自己信頼のみが、真の意味での自己を形成する。 ラストの突き抜けっぷりは、相変わらず。 とてつもないカタルシスが、 丸山健二の小説には必ず用意されている。 1/12 丸山健二『鉛のバラ』(著者サイン入り、新潮社)を読む。 主人公の源造を、高倉健が演じているという設定。 映画では表現しきれない「映像的」な描写を、 この小説で、丸山健二は見事に実現している。 そのため、丸山節とも言うべき観念的な言葉遣いが、 今までの小説に比べ、希薄である。 それにしても、ラストはやっぱりいい。 - 本書は、格好のマルケン入門書でもある。 だからこそ、なんで「鉛のバラ」という題名なのかは、 自分の目で確かめて欲しい。 1/13 「グッド・ウィル・ハンティング」を観る。 清掃員をしている青年には、天才的な数学の才能があった---。 彼を見出した数学者とその友人である精神分析医の物語。 心を開いていくのは主人公だけではない。 数学者、精神科医、友人、ハーバード大学生…。 登場するすべての人物が、互いに心をさらけ出し、 「わかりあう」ということの本当の意味を知っていく。 ラストシーンで、主人公を迎えに行き、不在と知ったときの友人の表情が印象的。 脚本は、なんと、マット・デイモン、ベン・アフリック。 アカデミー脚本賞受賞作。 1/14 Yoshi『もっと、生きたい』(スターツ出版)のコピーを考える。 (1)この物語の結末は人には教えないで欲しい。(帯の惹句、雑誌広告のコピー) (2)この物語の結末は誰にも教えないで下さい。(『めいる』のイントロ部分) - (1)この物語の結末は人には教えないで欲しい。(帯の惹句、雑誌広告のコピー) 日本語としてダメである。 「は」は、話題を表す助詞。英語で言うと、talking of 〜。 特別な意図がない限り、「単文」に一個しか入れてはならない。 「人には」を「誰にも」に変え、その前に読点を打てば、否定のニュアンスが強く出る。 「欲しい」は「ほしい」に。 「知っている漢字は、すべて変換しちゃえ!」という悪い癖。 - (2)この物語の結末は誰にも教えないで下さい。(『めいる』のイントロ部分) 携帯サイト「ザブン」に、『めいる』として発表された時のもの。 これは、「コピー」ではない。「注意書き」である。 このさらっとした感じ(=弱い禁止)が、うまく恐怖を醸している。 最後まで読もうという気になる。 少なくとも読み始めるまでは。 なぜ、Yoshi(または編集者)が、このコピーを書き換えたのか、私には理解できない。 - 結論。私なら次のように書き換える。 「この物語の結末は、誰にも教えないでほしい。」 いや、教えちゃうけど。 1/17 永江朗『恥ずかしい読書』(ポプラ社)を読む。 いつでもどこでも、時と場所を選ばずに、読みまくる。 そんな毎日。 歯磨きしながらの読書というのには驚いた。 読みやすい。一気に読める。 著者は一年間に、何冊本を読んでいるのだろう? 1/18 小林和之『「おろかもの」の正義論』(ちくま新書) を読む。 著者自身が、あとがきで述べているように、 ・自分の言葉で、 ・引用を使用せずに、 書かれているのが、特徴的である。 本書は、竹田青嗣の著書と同様の問題を抱えている。 読後、すべてがわかったような気分になり、 関連本を読もうという意欲が湧いてこないのである。 (もちろん、それは単なる思い上がりでしかないのだが) 明晰すぎる文章は、時として罪でさえある。 まぁ、逆ギレみたいなもんなんだけど。 1/19 デイヴィッド・ピース『1974 ジョーカー』(ハヤカワ・ミステリ文庫)。 徹底的にそぎ落とされた文体が、心の闇と狂気を抉り出す。 ヨークシャー四部作の幕開けである。 スピード感のある映画さながら、画面がどんどん切り替わる。 一気に読まなければ、このよさはわからないだろう。 ちなみに、サイン本。 - Who is the joker? David Peace 2004 - と書いてある。 1/20 デイヴィッド・ピース『1977 リッパー』(ハヤカワ・ミステリ文庫)。 ヨークシャー四部作の第二弾。 トリッキーな仕掛けがあって、二人の語り手が、 ともに「わたし」として登場する。 本来なら、きちんと整理するべきだが、 本書の場合、あえて混乱しながら読んだ方が、 頭の中がぐちゃぐちゃしてきて、心地よい。 どうせなら、とことんまで狂気に浸るべき作品だろう。 ちなみに、これもサイン本。 - Fear the Ripper! David Peace 2004 - と書いてある。 1/21 デイヴィッド・ピース『1980 ハンター』(ハヤカワ・ミステリ文庫)。 ヨークシャー四部作の第三弾。 一文が長くなり、説明的な描写が増えてきた。 短文だけでは、輪郭のはっきりした世界を形作れないことに 作者は気づいたのだろうか。 狂気を描くためには、正気が必要である。 しつこいが、これもサイン本。 - "1980 - Hunter!" David Peace 2004 - と書いてある。 1/24 デイヴィッド・ピース『1983 ゴースト』(ハヤカワ・ミステリ文庫)。 ヨークシャー四部作のグランド・フィナーレ。 長い。これは長い。 これでもか、これでもか、と狂気を叩きつけてくる。 - これまたサイン本なのだが、コピーがかっこいい。 "A cold noir for a hot night" David Peace 2004 - と書いてある。 1/25 ジョイス『室内楽 ジョイス抒情詩集<訳詩・原詩双書>』(白凰社)を読む。 ジョイスは、小説家である以上に、詩人だった。 名文家は例外なく、詩を書く。 - 原詩(1冊)と訳詩(1冊)の2冊が、まとめて箱に入っている。 英詩が圧倒的にうまく、訳はその雰囲気を伝え切れていない。 こういうのを読むと、原文原理主義に傾いてしまう。 - James Joyce "Chamber Music" 1/26 ジョイス『ダブリン市民』(新潮文庫)を読む。 大きな世界から、(物語性を考慮せずに)小さな場面を切り取ったような短編集。 それゆえ、細部の隅々にまでリアリティが満ち溢れている。 アイルランドとカトリックがいかに密接な関係を 持っているのかが、非常によくわかる。 - James Joyce "Dubliners" 1/27 ジョイス『若い芸術家の肖像』(新潮文庫)を読む。 はっきり言って、この小説は、ずるい。反則だ。 よくある「若書き(未熟な文章)」というやつである。 それが「神話的手法」「教養小説」という言葉で、正当化されてしまう。 つまり、こういうことだ。 真実を剥き出しのまま語ってしまうのは、ギリシャ文学を模倣した「神話的手法」ゆえだし、 文章が稚拙なのは、青年の幼い精神がそのまま文章化するという「教養小説」ゆえなのだ。 ジョイスは、ずるい。 - James Joyce "A Portrait Of The Artist As A Young Man" 1/28 ジェイムズ・ジョイス『さまよえる人たち 戯曲・三幕』(彩流社)。 これは、あまり面白くない。 (「以後の作品を読み解く鍵となる」というような、 後付け的な読み方なら、いくらでも可能ではあるが。) 作家は、真の傑作だけで評価されるべきだ。 - James Joyce "Exiles" 1/31 ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ(1.2.3.4)』(集英社文庫ヘリテージシリーズ)。 丸谷才一・高松雄一・永川 玲二、3氏による共同翻訳である。 レオポルド・ブルームの平凡な一日を、非凡な文体で描いた傑作中の傑作。 18の挿話を18の文体で描くことで、言葉の表現領域をどこまでも押し広げる。 「言葉とはこんなにも豊かなものなのだ!」と、叩きつけてくる。 20世紀最大の作家の1人という表現に、異論はない。大賛成である。 それにしても、後半のリーダビリティはすさまじい。 - James Joyce "Ulysses" 2/1 ジェイムズ・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク(1.2.3・4)』(河出文庫)。 柳瀬尚紀による超絶技巧的翻訳。 誇張ではなく、一つも意味が分からなかった。にもかかわらず、最後まで「楽しく」読めた。 これは奇跡である。 まったく意味不明な文章を、1200ページも読める。 こんな体験は、きっと『フィネガンズ・ウェイク』でしか味わえないだろう。 レトリックだけがグロテスクに膨張した、奇書中の奇書。 - James Joyce "Finnegans Wake" フィネガン徹夜祭、フィネガンの宵祭り、フィニガンの宵祭り 2/2 ジョイスの衝撃があまりに強かったので、印象的な部分を引用。 - 『ユリシーズ(4)』393ページ(注) スティーヴンはかなり強引な連想によって人名を結びつけているらしい。すなわちCicero「キケロ」はラテン語普通名詞cicera「ヒヨコ豆」を連想させるからpod「豆のさや」を含むイギリスの人名Podmore「ポッドモア」と、Napoleon「ナポレオン」の姓はイタリア語でBuonaparte「ボナパルテ」(フランス語でBonaparte「ボナパルト」)で直訳すれば「健康体」だからイギリスの人名Goodbody「グッドボディ」と、イエスはキリストでありその原義はanointed「油をそそがれた者」だからoil「油」を含むDoyle「ドイル」と、それぞれ結びつく(アダムズ『表層と象徴』)。 ●元祖「翻訳者は裏切り者」。ジョイスは、文学史上最大の裏切り者だった。 - 『フィネガンズウェイク(1)』374ページ - 『フィネガンズウェイク(2)』56ページ - 『フィネガンズウェイク(3・4)』401ページ ●これがわかる人は少ないのでは。 キェルケゴールには「教会墓地」の意味がある。超訳すると「寺地」か? 「キルケゴール」ではなく、「キェルケゴール」としたところに訳者の言語的センスが垣間見える。 『あれかこれか』は、キェルケゴールの著作の一つ。 2/3 (1)『さいとう・たかをのゴルゴ流血液型人物観察術』(PHPエル新書)と (2)『さいとう・たかをのゴルゴ流サバイバル人生論』(PHPエル新書)を読む。 - (1)作者オリジナルの「アンテナ理論」を通して、血液型を分析していく。 アンテナの種類は、A型・B型・O型の3種類しかなく、 AB型はAとBの性格を組み合わせたものだ、という論理の粗雑さがすべてを物語っている。 ちなみに、ゴルゴ13の血液型はA。作者が言うのだから、間違いない。 (2)作者の自伝に近い。 いかにワイルドな人生を送ってきたかが、よくわかる。 - それにしても、(1)と(2)の重複部分が、なんと多いことか。 (例えば、デューク東郷の誕生秘話) 同じ出版社で、執筆時期もそれほど離れておらず、 しかも同じ新書シリーズで、これだけ同じことが書かれているのは、問題である。 読者をなめているのではと疑いたくなる。 - 文章はすこし硬いが、慣れればすらすら読める程度。 2/4 ジョージ・ バークリ『視覚新論 付:視覚論弁明』(勁草書房)。 「視覚的観念と触覚的観念は、数的にも種的にも別個である」というのが主張。 明晰な論理で、ぐいぐい読ませる良質な思考実験の書である。 「月の大きさが、見る角度によって変化するのはなぜか」という「月の錯視」、 「先天盲が開眼した時、視覚だけでに立方体と球体を区別できるか」という「モリヌークス問題」、 「網膜では世界像が反転しているのに、なぜ認識上では反転しないのか」という「網膜倒立像」 などのアポリアも、魅力的に論じられている。 医学と哲学をクロスオーバーする3つの解説も興味深い。 - George Berkeley "A New Theory of Vision" 下條信輔、植村恒一郎、一ノ瀬正樹 訳 ジョージ・バークレー『視覚の新理論』 2/7 G.バークリ『人知原理論』(岩波文庫)を読む。 「存在するとは知覚されることである。(esse is percipi)」という 有名なテーゼを中心に、論理を展開していく。 想定される反論を、一つ一つ丁寧に論破していくのが爽快。 - ちなみに笑えた誤植は以下の2つ。 すなわさ知覚ちれずに(59) とろこで(109) 誤植は、知覚されなければ存在しないものの最たるものである。 - George Berkeley "A treatise concerning the principles of human knowledge" 大槻春彦 訳 バークリー『人間知識の原理』 2/8 阿部和重『アブストラクトなゆーわく』(マガジンハウス)を読む。 女性誌「an an」に掲載されたエッセイを、1冊にまとめたもの。 著者自身も言っているが、このエッセイで阿部は「芸」を見せている。 内面を巧妙に隠し、「an an」読者に届くような文体(と内容)を選び取っているのだ。 普通に読んだら、とてもつまらない内容だが、 メタレベルで、阿部の芸を読み解いていくのならば、ほくそえむ程度には楽しめる。 2/9 阿部和重『ニッポニアニッポン』(新潮文庫)を読む。 鴇谷(とうや)春生という引きこもり少年が計画した、 「ニッポニア・ニッポン(=鴇(トキ))問題の最終解決」をめぐる物語。 「トキ=天皇」という図式もいいのだけれど、私は単純に「トキ=春生」と考えた。 (斎藤環は解説で、隠喩性の欠如を指摘している) 「飼育、解放、密殺」の3つの選択肢のうち、「飼育」を早々と捨て去ったのは、 現状から抜け出したいという願望が反映されているからではないか。 リーダビリティはきわめて高く、説得力もある。 ただ、49ページから59ページの章で、 「母は思った」という部分の、視点の揺れが気になった。 2/10 『青山真治と阿部和重と中原昌也のシネコン!』(リトルモア)。 映画オタクである3人の会話を、盗み聞きしている気分。面白い。 以下、引用。 - 阿部 その誤解が生産性を持ったりするんですよ。 - 阿部 僕が文壇を守る! とか、言っちゃえばいいんですよ。すごい頑固に見えるよ。僕が日本語を守る! とかさ。 中原 それは辻仁成でしょ。僕がそんなこと言ったら殺されるでしょ。 阿部 だって、カッコいいじゃん。俺もそういうこと言いたい。芥川賞とったら言うもん。それでようやく石原慎太郎に認めてもらえる。都知事室とかに招かれてさ(笑)。 中原 招かれたいね。 - さぁ、どうする、阿部和重? 石原慎太郎には認められてないみたいだけど。 2/14 丸山健二『荒野の庭』刊行記念写真展&サイン会に行く。 サイン会へは、必ずネタを仕込むようにしている。 今回は、高倉健『旅の途中で』(新潮社)。 『鉛のバラ』誕生のきっかけとなった「それが高倉健という男ではないのか」 という丸山健二の短文が、掲載されているのだ。 「いいのかなぁ、本人に怒られちゃうよなぁ」と満更でもない様子。 「じゃぁ、端っこに小さく」と言いつつ、結構、大きくサインしていた。 2/15 ドストエフスキー『罪と罰(上下)』(新潮文庫)を再読。 殺人を犯した少年の心理を、見事に描ききった傑作。 気がついたら読み終わっている。 そんな幸福な読書体験を得られる数少ない名作のひとつである。 くだらない犯罪を起こして、得意になっている少年たちに、この本を叩きつけたい。 どれだけ自分の考えが陳腐なのか。そのことに気がついてほしい。 もし、『罪と罰』を読んで、それでも強固に生き残る信念を持っているのなら、 その人は、殺人なんかよりもはるかに困難で、それゆえ気高いものが、 この世の中にはあふれていることを知っているはずだ。 2/16 ドストエーフスキー『未成年(上中下)』(岩波文庫)を読む。 この長編だけ、なぜか絶版になっている。(しかも意外と入手困難) これでやっと、フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーの五大長編小説 (『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』)を制覇したことになる。 あまり趣味ではないが、ランキングをつけてみる。 1位『カラマーゾフの兄弟』(唯一の欠点は、未完であること) 2位『悪霊』(登場人物のブチ切れかたが、すばらしい) 3位『罪と罰』(ラスコーリニコフの登場しない場面をすべて削ったら完璧な小説) 4位『未成年』(全体的にフラットな印象。ドスト氏にしてはおとなしい) 5位『白痴』(ムイシュキン公爵に興味を持てなかった) 2/17 長谷川三千子『バベルの謎--ヤハウィストの冒険』(中央公論社)を読む。 J資料の作者ヤハウィストに焦点を当て、バベルの塔が破壊された本当の理由を読み解いていく。 - 旧約のモーセ五書は、以下の4つの資料のパッチワークである。 ヤハウィスト伝承(J資料(Jahwist)) エロヒスト伝承(E資料(Elohist)) 申命記文書(D資料(D-Quelle)) 祭司資料(P資料(Priestershrift)) - 「地」から離れた「人」を、「神」は望んでいた。 神は、言語の孕む地域性に絶望し、バベルの塔を破壊したのである。 - ミステリーのホワイダニットのように、加速的に読める。 旧仮名遣いもいい味を出している。 それにしても、聖書は奥が深い。当たり前だけど。 2/18 中野孝次『ブリューゲルへの旅』(文春文庫)を読む。 ブリューゲルの絵を覗き込んでいるうちに、 いつの間にか著者自身の心象風景に連れていかれる。 こういうのを本当のエッセイと言うのだろう。 2/21 ヤーノシュ・カシュ『ブリューゲル・さかさまの世界』(大月書店)を読む。 ピーテル・ブリューゲルの3作品(「子どもの遊び」「ネーデルランドのことわざ」「バベルの塔」)を、 それぞれ部分ごとに切り取り、詳細な解説を加えたもの。 部分を通して全体を把握するという手法は、なかなか面白い。 ブリューゲルの作品製作の過程を追体験できる興味深い一冊。 2/22 宮崎誉子『世界の終わり』『セーフサイダー』(リトル・モア)を読む。 第3回ストリートノベル大賞を受賞した「世界の終わり」は、 短文の積み重ねで世界を構築しようとしているが、 それほど成功しているとは言えない。 どれだけ意識しているかは、わからないが、 作品を重ねるごとに一文はどんどん長くなっている。 - 読み終えたときの爽快感は、なかなかのものである。 この手の作家は、量で勝負して欲しい。 とにかく書きまくって欲しい。 中毒になるには、それなりの量が必要である。 2/23 本間文子『ボディロック!!!!!!!』(リトル・モア)を読む。 この小説を単独で考えれば、よく書けているし、面白く読める。 が、この小説が置かれている状況を視野に入ると、どうだろう。 途端にその魅力は薄れてしまう。 この手の小説は、巷に溢れている。 もし作者が、このことに意識的であるならば、 それなりの芸で、何らかの差異化を行わざるをえないだろう。 第10回ストリートノベル大賞作。 2/24 星野智幸『最後の吐息』(河出書房新社)。 湿度と密度の高い、豊饒な植物の世界。 論理ではなく、イメージが物語を動かしていく。 人生を豊かにしてくる素晴らしい作家に、また一人出会った。 装丁(カバー)が、小説を本当によく表現している。 第34回文藝賞受賞作。 そして傑作。 2/25 星野智幸『嫐嬲(なぶりあい)』(河出書房新社)。 言葉には力がある。 しかし、言葉を信じなければ、言葉は無力だ。 著者はそう信じている。 そのことが、すごくうれしい。 2/28 星野智幸『目覚めよと人魚は歌う』(新潮社、新潮文庫)。 著者の本に出てくる登場人物は皆、複雑な人間関係を抱えている。 それが短い時間で、濃厚に絡み合う。 前2作のような熱気はないものの、優しい眼差しで人々の姿が描かれているのが心地よい。 第13回三島由紀夫賞受賞作。 3/1 星野智幸『毒身温泉』(講談社)。 正直、これはあまり好みではなかった。 語りが多すぎて、登場人物が活き活きしていない。 実在するURLもそれほど効果をあげているとは言えない。 著者の唯一の失敗作では。 3/2 星野智幸『ファンタジスタ』(集英社)。 「砂の惑星」「ファンタジスタ」「ハイウェイ・スター」の3篇のうち、 「ファンタジスタ」だけが妙に浮いて見える。 出版事情など、複雑な問題がいろいろあったらしい。 それはともかくとして。 書くことの意味をめぐる「砂の惑星」は、読み応え十分の逸品。 第25回野間文芸新人賞受賞作。 3/3 星野智幸『ロンリー・ハーツ・キラー』(中央公論新社)。 オカミ(=天皇)の死去を起点に、物語が立ち上がる。 思想性と物語性が、見事に融合した傑作。 星野智幸の著作はどれもそうだが、装丁が本当に素晴らしい。 内容を的確に表現しながら、単独の芸術作品としても楽しめる。 3/4 星野智幸『アルカロイド・ラヴァーズ』(新潮社)。 『最後の吐息』の幻想的な世界に似ている。 むせかえるようなエロティックな植物世界。 これもまた傑作。 繰り返すが、装丁も本当に素晴らしい。 - 星野智幸「在日ヲロシヤ人の悲劇」(「群像」2005年新年号)。 一般人がどう政治に関わっていくか。 時系列をばらばらにし、再構成したことで、登場人物のすべてが浮き彫りになる。 芥川賞候補作に、この作品を是非。 3/7 SHINICHIRO SUZUKI 10th ANNIVERSARY SHOW CASE 2005 at SHINJUKU HOLIDAYに参戦。 12/5とは違い、アンプのトラブルもなくスムーズに進行。 非常に完成度の高いライブ。 crazeの曲を2回ずつ演奏したのが、本当に感慨深かった。 ライブ会場を出た後、背中を押されている自分に気がついた。 3/8 ロバート・クーヴァーを読む。 『ユニヴァーサル野球協会』(新潮文庫)。 解説で高橋源一郎が絶賛している。 これに影響されて『優雅で感傷的な日本野球』を書いたらしい。 頭の中で架空の野球リーグを作り、サイコロを振って楽しんでいる主人公。 だんだん、現実と虚構のわからなくなってきて…。 というお決まりのパターン。 37年前に書かれた本である。 今の作家が書いたら、もっと上手く書けるはず。 2つのものがほどよく混ざるためには、ある程度の距離が必要である。 - 『女中の臀(メイドのおいど)』(思潮社)。 ご主人様とメイドの話。 いつもオイタをしてしまうメイドを、ご主人様がお仕置きする。 その繰り返しが延々と描かれる。 どれだけ入念に準備しても、間違えてしまうメイド。 それを待ち構えるご主人様。 状況を支配しているのは、ご主人様か、それともメイドか。 勢いで読めるが、それまでの作品。 - 『ジェラルドのパーティ』(講談社)。 ホーム・パーティで起きた殺人事件。 とは言っても、刑事の推理はあやふやで、信頼できない。 参加者は、殺人なんかモノともせずに、馬鹿騒ぎ。 「祝祭」とかそういうものを書きたかったのだろうけど、どうにも退屈。 - Robert Coover 著作リスト The Origin of the Brunists(1966)『ブルーノ教団の興隆(ブルーニストたちの起源)』 The Universal Baseball Association(1968)『ユニヴァーサル野球協会』(若林出版企画、新潮文庫) Pricksongs & Descants (short fictions)(1969)『ブリックソンとデスカンツ』 A Theological Position (plays)(1972) The Public Burning(1977)『(公開)火刑』 A Political Fable (The Cat in the Hat for President)(1980) Spanking the Maid(1982)『女中の臀』(思潮社) In Bed One Night & Other Brief Encounters(1983)(short fiction) Gerald's Party(1986)『ジェラルドのパーティ』(講談社) A Night at the Movies(1987) Whatever Happened to Gloomy Gus of the Chicago Bears(1987) Pinocchio in Venice(1991)『ヴェニスのピノキオ』 John's Wife(1996) Briar Rose(1997) John's Wife(1996) Ghost Town(1998) The Adventures of Lucky Pierre (Director's Cut)(2002) Stepmother(2004) 3/9 里川りょう『サム・メール』(ポプラ社)と 『スクラップ・スクラップ』(ランダムハウス講談社)を読む。 - 『サム・メール』 Some Mailではなく、Thumb Mail。 親指で打つメール、つまりケータイメールだけで物語が進行する。 「うまい」と思ったのは、「送信しないメール」と「迷惑メール」の挿入である。 この2つがあることで、作品にぐっとリアリティも出る。 短時間で読める分量も乙。 - 『スクラップ・スクラップ』(著者サイン本) 前作を越えようとした意欲作。 ケータイメール・PCメールのほかに、 ワイドショー、新聞などが入り混じり、登場人物も一気に増えた。 しかし、スケールはあまり大きくなっていない。 サスペンスは、2人いれば成立するものである。 3/10 藤谷治『アンダンテ・モッツァレラ・チーズ』『おがたQ、という女』(ともに小学館)。 『アンダンテ・モッツァレラ・チーズ』 これは、楽しい。 どうでもいい話が、めちゃくちゃ面白い。 読後、何が残るかというと、まぁ何も残らないのだが。 文芸社・新風舎的な自費出版系のノリを感じる。 いい意味で。 - 『おがたQ、という女』(著者サイン本) おがたQという女の生涯を、あらすじ感覚で描写する。 それにしても、おがたQは不思議な女である。 それ以上に、藤谷治は、たいした腕前である。 3/11 ケルテース・イムレ『運命ではなく』(国書刊行会)を読む。 ノーベル賞作家による少年時代の自伝。 子供がナチの収容所に捕らわれるという話である。 「加害者/被害者」の図式など、何の意味も持たないと訴えかけてくる。 運命ではなく、他ならぬ自分「たち」が、この歴史を作ったのだ、という決意表明。 積極的に、歴史の過ちに関わっていこうとする勇気。 最後の章がなければ、この著作の価値は半減する。 - ハンガリー語から英語に、2作品が訳されている。 Imre Kertesz "Fateless" Imre Kertesz "Kaddish for a Child Not Born" 『運命ではなく』がとてもよく書けていたので、 『生まれなかった子のためのカディッシュ』の英訳を買ってみることにする。 3/14 ルドルフ・ヘス『アウシュヴィッツ収容所』(講談社学術文庫)。 アウシュヴィッツ強制収容所所長であった著者の手記。 本を読みながら、これほどやり切れない気持ちになったことはない。 「自分は悪くない」「すべてヒムラー(や総統)が仕組んだ」 そんな自己弁護しか、見えてこない。 社会や組織や運命が悪い? 私はイノセントな被害者です? ほとんど殺意とも違わぬほど、強い怒りが私の心に湧き起こった。 - 「しかし、それなら、どうすればよかったのか?」 そう問いかけた時、私は自分が答えを持っていないことに気がついた。 きっと、何をどう言おうと、許されるようなレベルの罪ではないのだ。 どれだけ美辞麗句を並べ立てても、言葉は一瞬にして無化してしまう。 「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」というアドルノの言葉を思い出した。 3/15 デーヴ・グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』(ちくま学芸文庫)。 要旨をまとめると以下のようになる。 - 人は戦争でも、なかなか人を殺せない。 ↓ ベトナム戦争では、人を殺せた。 ↓ 訓練次第で、人は人を殺せるようになる。 ↓ テレビなどの暴力表現は、子どもに対する「訓練」になっている。 - 前半部分で、著者は「どうして殺せるか」ではなく、「なぜ殺せないか」を執拗に問いかける。 ルドルフ・ヘスの手記による虚脱感・無力感を、著者は一気に振り払ってくれた。 救われたような気持ちになった。 超オススメの一冊。 - クレジット表記が、Davaid Grossman になっているが、これは Dave Grossman の誤りであろう。 Dave Grossman "On Killing: The Psychological Cost of Learning to Kill in War and Society" 3/16 アドルフ・ヒトラー『わが闘争--完訳(上下)』(角川文庫)を読む。 アーリア人を特権的な存在と見なす迫力のある文体が、読む者の感情を高揚させる。 ・・・そのはずだったが、非常に警戒して読んだため、徒労感だけが残った。 一般に高く評価されている教育論も、ありきたりである。 - 排斥する者を捏造することで、自分を特権化する。 この誰でも陥りがちな罠を巧みに利用した 第二、第三のヒトラーはあちこちにごろごろ転がっている。 3/17 アドルフ・ヒトラー『続・わが闘争―生存圏と領土問題』(角川文庫) を読む。 国際政治に興味のある人なら、面白く読めるかもしれない。 それにしても、ヒトラーのレトリックはやたらと疲れる。 - この本の刊行は7月だが、2か月前の5月に成甲書房から 『ヒトラー第二の書―自身が刊行を禁じた「続・わが闘争」』が出版されている。 英訳からの重訳と知らずに買ってしまったので、テルフォード・テイラーの解説だけを読む。 ともに「本邦初訳」と銘打っているが、ドイツ語からの訳(やく)と、英語からのそれは違うのだろうか。 訳(わけ)がわからない。 - ちょっとだけ読み比べたが、成甲書房版の方がはるかに読みやすかった。 3/18 マーティン・セリグマン『オプティミストはなぜ成功するか』(講談社文庫)。 マイナー志向である私は、本の売り上げをほとんど気にしない。 売れてない本の中から、良書を見つけるのは楽しいものである。 が、自己啓発書だけは別である。 「いいことが起こる」と言っておきながら、著者に「いいこと」が起きていない。 そんな著者の戯言など読みたくはない。 - さて。 本書は、書店で平積みされており、奥付を確認すると7刷だった。 オプティミスト(楽観主義者)は以下のように考える。 良い事は自分のおかげで、悪い事は他人のせいで、それぞれ起こった、と。 - アメリカの自己啓発書は、ニューソートに大きな影響を受けている。 「自分が信じれば、何でもできる」 「奇跡も起こるし、病気も治る」 「信念で、何でも叶う」 「テレパシーでも、オカルトでも、なんでもござれ」 - 本書が優れているのは、信念だけではすべてを変える事はできない、と ぎりぎりの地点で、踏みとどまっているところである。 慎重を要する仕事には、悲観主義者(ペシミスト)の方が向いているとさえ言う。 このバランス感覚が、本書の価値を高めている。 - Martin Seligman "Learned Optimism : How to Change Your Mind and Your Life" 3/22 トール・ノーレットランダーシュ『気前の良い人類―「良い人」だけが生きのびることをめぐる科学』(アーティストハウスパブリッシャーズ)。 訳がよくない。何度読んでも意味が取れない部分が10箇所以上ある。日本語がたどたどしい。 内容もよくない。ゲーム理論は関連書物を数冊読んでいるので、読み進められたが、 もし知識のない人が読んだら、ほとんど理解できないのではないか。 - 以上の2つを「気前よく」見過ごしたとしても、やはり厳しい。 「みんなで、よい人になろうよ!」と「よい人」が言っても説得力はない。 自己啓発書ではなく、科学書(のようなもの)である以上、 論理的に説き伏せる意欲がなければ、その時点で「失格」である。 また、拡散的すぎる議論のせいで、焦点がぶれてしまっている。 - デンマークのコペンハーゲンと聞いただけで、私は「あの偉大な哲学者」と比較してしまう。 それだけで、もう大きなハンデなのではあるが。 3/23 ロレンス・スターン・朱牟田夏雄訳『トリストラム・シャンディ(上中下)』(岩波文庫)。 脱線に次ぐ脱線。 ジョイスやウルフなどの「意識の流れ」を先駆した作品として有名。 主人公であるトリストラム・シャンディが、なかなか生まれない。 伯父の話やら、戦争の話やら、なんやかんや。 結局生まれてから2日しか経たないまま、下巻が終わる。 - 解説によれば、スターンは『トリストラム・シャンディ』を、 「糊口のためではなく有名になるために "not to be fed but to be famous"」書いたとのこと。 言うまでもないが、Fの音を重ねている。 - 有名な一節を引用。 - ---行け---ある日の食事の時、叔父は、食事の間中鼻のまわりをブンブン飛びまわって散々に自分を悩ました、やけに大きな一匹の蝿---いろいろ苦労したあげくにそばを飛び過ぎるところをやっとつかまえたその蝿にむかって言ったものです。---おれはおまえを傷つけはしないぞ、叔父トウビーは椅子から立上がって、蝿を手にして窓のほうに歩みながら言いました。---おまえの頭の毛一すじだって傷つけはしないぞ---行け、と窓を上のほうに押し上げて、手を開いてにがしてやりながら---可哀そうな奴だ、さっさと飛んで行くがよい。おれがおまえを傷つける必要がどこにあろう、---この世の中にはおまえとおれを両方とも入れるだけの広さはたしかにあるはずだ。((上)189ページ) - この短い文章だけでも、いかにスターンが持って回った言い方をするか、十分すぎるほど伝わってくる。 饒舌こそが、意識の流れの原点である。 - Laurence Sterne "The Life and Opinions of Tristram Shandy, Gentleman" トリストラム・シヤンデー、シャンディズム、シャンディイズム 3/24 ローレンス・スターン『センチメンタル・ジャーニー』(岩波文庫)を読む。 日本語で「感傷旅行」と訳されているが、 sentimental は「心理、感情」ぐらいの意味。 単なる旅行記ではない。 というか、旅行記ではない。 同じ表題の章が連続したり、いつのまにか妄想の世界に行ったり、 『トリストラム・シャンディ』の一部として読めるような脱線ぶりである。 - 入手困難な岩波文庫として有名。 1952年10月25日第1刷 1987年 4月 8日第2刷 2001年 2月22日第3刷 私は3刷を所有している。 - Laurence Sterne "A Sentimental Journey into France and Italy" 松村達雄 訳、センティメンタル・ジャーニー、『風流旅情記』 3/25 スティーブ・マーチン『ショップガール』(集英社)を読む。 映画「花嫁のパパ」などで知られる、 あの白髪のスティーブ・マーチンである。(レスリー・ニールセンではない) - しゃれた恋愛小説。 あらすじのように淡々とした描写が、 都会的な雰囲気をうまく醸し出している。 人を傷つけない、さらりとした物語は読んでいて心地よい。 - Steve Martin "Shopgirl" 3/28 Steve Martin『The Pleasure of My Company』を読む。 ひきこもりの主人公が、外に出て行く話。 Mensa(IQ148以上の人の団体)、殺人事件、エッセイコンテスト、魔方陣など、 さまざまなガゼットをうまく料理している。 もちろん、ロマンスもある。 前半の自意識過剰な主人公も、後半の外部へ向かう主人公も魅力的。 暗さのない、不思議な小説。 表紙も笑える。 3/29 イセカタワキカツ『式神宅配便の二宮少年』(富士見ミステリー文庫)。 句点(。)を少なくすることで(文末にさえ、ない)、疾走感を出そうと試みている。 比べるのも失礼な話だが、文体だけ見れば、 丸山健二の『見よ月が後を追う』(文藝春秋)と同じベクトルを向いている。 ほんわかした微温的な世界。 伏線はバレバレだが、ミステリーではなくファンタジーだから、まぁ許せる。 第11回ファンタジア長編小説大賞特別賞受賞作。 著者は、瀧川武司。 3/30 大内延介『将棋の来た道』(小学館文庫)を読む。 将棋は、どの道をたどって日本に伝播したのか。 九段の棋士である著者が、実際に名人と指してみて、将棋に似ているかを判断する。 リーダビリティは、きわめて高い。 将棋と似ているゲームは、簡単にコツがつかめる、という記述が面白い。 そういえば、羽生名人もチェスをやっていた。 【チャトランガ世界征服計画】も是非。 3/31 青木淳悟『四十日と四十夜のメルヘン』(新潮社)を読む。 小説が「わからない」と言う時、作者か読者のどちらかが愚鈍である。 (もちろん、たいての場合、読者である) この小説(特に「クレーターのほとりで」)は、そのどちらでもない。 作者は意図的に、意味を脱臼させている。 体の関節をはずすことが出来る人がいるが、下手に真似すると大変なことになる。 確かな技術に支えられた、小説のアクロバット。 一言で表現すれば、「不快の快」。 こんな難解な本が、売れるわけがない。 だからこそ、読書家はこの本を買うべきである。 傑作。 4/1 朝倉祐弥『白の咆哮』(集英社)を読む。 重厚な文体で浮かび上がる<土踊り>と<入植者>の相克。 登場人物は、固有名詞ではなく、役割名で描かれる。 文体に翻弄されなければ、比較的簡単にテーマを読み取ることができる。 - 第35回新潮新人賞を獲った青木淳悟にしても、 第28回すばる文学賞受賞を獲った朝倉祐弥にしても、 まぁ、とにかく売れていない。 そのこと自体は、それほど大きな問題ではない。 少数でもいいから、この2冊と対峙するような読み手がいればそれでいい。 本の価値を決めるのは、影響の「広さ」ではなく「強さ」である。 4/4 ジョン・ファンテ『塵に訊け!』(DHC)を読む。 作家であるバンディーニが、成功するまでの破天荒なドラマを描く。 すさまじい勢い。感情の奔流。剥き出しの情熱。 これ読んでファンテに惚れなければ「嘘」だろう。 ブコウスキーの気合の入った「序」もすばらしい。 John Fante "Ask the Dust" 4/5 ダン・ファンテ『天使はポケットに何も持っていない』(河出書房新社)。 結論から言えば、親父であるジョン・ファンテの『塵に訊け!』よりも面白い。 意図したことなのだろうが、ジョンは文章が短すぎる。 ダンは、文章の長さに均整がとれており、読みやすい。 どうしようもない男の、すばらしい人生。 モデルは、 ブルーノ・ダンテ =ダン・ファンテ ジョナサン・ダンテ=ジョン・ファンテ。 と、バレバレ。 以下引用。 - 書き物机の奥の書棚から、俺はクヌート・ハムスンの『飢え』を取り出した。自分が作家になったのは、この本と出会ったからだと、父はよく言っていた。俺はその本を手に取り、古びたページをぱらぱらと捲った。真ん中あたりまで捲っていくと、四つ折にされた一枚のタイプ用紙を見つけた。どうやらしおりとして使われていたようだ。本の外に出ていた部分は、長い間空気にさらされて黄ばんでいる。 間に合わせのしおりを開いてみると、そこに書かれている手書きの文字は父のものだとすぐにわかった。しかし何度も何度も繰り返し書かれている書名は、「クヌート・ハムスン」だ。クヌート・ハムスン、クヌート・ハムスン。紙全体にびっしり書かれている。この奇行に俺は衝撃を受けた。というのも、リーガル・パッドを何ページもe・e・カミングズのサインで埋め尽くすという、まったく同じことを俺もそれこそ数え切れないほどやっていたからだ。結局のところ、親父と俺には共通する部分があったのだ。 俺は紙切れをたたみ直して自分のポケットに入れ、本をもとのところにしまった。部屋を出る時、スイッチを消すと、すべてはまた闇に包まれた。(73ページ) - まったくイカれた親子である。 それにしても、ジョン・ファンテが、ハムスンに影響を受けたというのは驚いた。 以前も紹介したが、K・ハムスン『飢え』(角川文庫)は傑作である。 「どれだけ自分が壊れても、人に対する暖かい眼差しは失わない」というメッセージを、 ファンテ親子はしっかりと受け継いでいる。 悲しむべきは、この本がかなり入手困難であること。 喜ぶべきは、この本を持っていると自慢できること。 Dan Fante "Chump Change" 4/6 トム・ジョーンズ『拳闘士の休息』(新潮社)を読む。 ボクサー、兵士、ガン患者などなど。 まともじゃない人たちが延々とぶつぶつ言っている。 いきなりの場面転換にかなり戸惑うが、勢いで読まされしまう。 ドライブ、ドライブ、ドライブする小説。 しかし、この量が限度である。 もしこれ以上、同じような作風が続くなら、 読者はすぐに飽きてしまうだろう。 舞城王太郎の元ネタとして有名。 Thom Jones "The Pugilist at Rest" 4/7 Thom Jones『Cold Snap』(Faber and Faber)を読む。 表題作の「Cold Snap(コールド・スナップ)」は、 舞城王太郎の翻訳が『ファウスト』に掲載され話題になった。 その他の部分は、誤解を恐れずに言えば、『拳闘士の休息』の焼き直しである。 わざわざ英語で読まなくても『拳闘士の休息』を二回読めば済む。 それだけのことである。 ちょっと言いすぎだけど。 4/8 Thom Jones『Sonny Liston Was a Friend of Mine』(Faber and Faber) 玉石混合だが、前に進もうとする気概が感じ取れる短編集。 ボクサーを夢見る少年を描いた「Sonny Liston Was a Friend of Mine」、 蜘蛛と校則が奇跡的に絡みあう「Tarantula」、 無職の男がねずみを飼育する顛末を描いた「Mouses」、 暴力的な父親を持つ娘の一生を綴った「Daddy's girl」の4編がすばらしい。 US版とUK版が出ているが、装丁のよさで後者を買った次第。 『拳闘士の休日』『Cold Snap』にも言えることだが、 こんなにも「ショーペンハウアー」という単語が頻出する小説も珍しい。 4/11 中原昌也『ソドムの映画市 あるいは、グレートハンティング的(反)批評闘争』(洋泉社)。 いわゆる「悪趣味な映画」についての本。 映画批評を楽しむというよりも、中原昌也の小説を理解するために読む。 ところどころで突然、まじめなことを中原は語りだす。 そこに小説を読み解くキーワードが隠されている。 中原昌也がわからないという人は、この批評集を読むべきだろう。 4/12 中原昌也『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』(河出文庫)。 中原昌也『子猫が読む乱暴者日記』(河出書房新社)。 小説の流れには、メインストリーム(主流)とサブストリーム(傍流)がある。 通常の小説は、分岐点にさしかかったとき、主流を選ぶ。 (それが主流の定義である) しかし、中原は主流を避け、傍流を選び取る。 もちろん確信犯である。 『マリ&フィフィ〜』よりも『子猫〜』の方が、 記述者と(=著者)と対象との距離が長い。 書き慣れたことで変化があったのだろうか。 それとも、この時期からすでに代作は始まっていたのだろうか。 4/13 中原昌也『あらゆる場所に花束が…』(新潮社)を読む。 くもの巣で迷子になったと仮定してみよう。 必死に糸を辿って、くもから逃れようとしても、 結局はくもの口の中へ向かっている。 あらゆる道は、くもへと通じている。 そんな奇跡的な体験を、この本は味わわせてくれる。 第14回三島由紀夫賞受賞作。 ついでに初版サイン本。 4/14 中原昌也『キッズの未来派わんぱく宣言』(リトル・モア)と 『待望の短編集は忘却の彼方に』(河出書房新社)を読む。 代作疑惑の2冊。 『キッズ〜』は、かなり怪しい。中原にしては「普通」に読めすぎる。 「書けない」と繰り返す最後のパートだけ中原が書いたのでは。 『待望の〜』も、かなり怪しい。中原にしては「薄味」すぎる。 独特なイラストとすぐに書ける超短編だけ中原が担当したのでは。 中原昌也は、書くことを放棄してしまったのだろうか。 4/15 中原昌也『ボクのブンブン分泌業』(太田出版)を読む。 いろいろな媒体に書き散らしたエッセイと対談をまとめたもの。 注目すべきは、なんと言っても、小学校・中学校時代に書かれた文章であろう。 小学校時代に中原昌也の文体は、すでに完成されていた。 小さい頃の文章と今のそれとを比べても、まったく区別がつかない。 いいのか、わるいのか。 表紙の芥川賞授賞式という文字が、笑える。さすが確信犯である。 これも初版サイン本。 4/18 ノワレ『道具と人類の発展(上)』(岩波文庫)を読む。 (下)は未刊。 いわゆる岩波文庫の中絶本で、極めて入手困難な一冊。 文意の取りにくい持って回った言い方と、 あまりにも多すぎる引用が、リーダビリティを著しく下げている。 - 動物の体は、「特殊」なものにしか対応しない道具のようなものである。 人間は、手という「普遍的」な器官を手に入れたため、 思考を発達させることができた。 ・・・という分析は興味深い。 - 語源を通して論旨を進めていく過程は面白いが、ごく少量しかないのが残念。 言語起源論みたいな本を書いているらしいが、邦訳されていない。 4/19 シュワープ/国松孝二訳『ドイツ民譚集(1)』(岩波文庫)を読む。 5巻の予定だったが、1巻しか出ていない。 これも岩波の未完結文庫本で、入手困難。 プロットしかない小説を読まされている感じである。 物語と民話は全然違うと、改めて実感できた一冊。 4/20 チャールズ・ラムの著作を読む。 - チャアルス・ラム『エリア随筆』(岩波文庫) 油断大敵。気を抜くと、いつのまにか、関係ないことを喋っている。 エッセイとは脱線である。 - チャールズ・ラム、メアリ・ラム『シェイクスピア物語』(角川文庫) シェイクスピアには、一つのプロットしかない。 陰謀を企んだり、人を取り違えたり、そんなのばっかりである。 シェイクスピアのすごさは「セリフ」にある。 - チャアルズ・ラム『ユリシイズの冒険』(角川文庫) あのジョイスが幼少期に、愛読したという本。 この本が書かれなかったら、『ユリシーズ』は存在しなかったかもしれない。 チャールズ・ラム『オデッセウスの冒険』(ちくま文庫)には、 著者による序文がついているので、こっちの方がお得。 - ラム『レスター先生の学校』(岩波少年文庫) 生徒がみんなの前で自分の話をする。 先生がチャチャを入れる所が、ちょっとだけメタフィクション。 思ったより、貴族的な話が多い。っていうかみんな貴族。 - Charles Lamb "Essays of Elia" Charles & Mary Lamb "Tales from Shakespeare" Charles Lamb "Adventures of Ulysses" Charles & Mary Lamb "Mrs.Leister's School" 4/21 ルーク・ラインハート『ダイスマン』(二見書房)読了。 海外ではかなりメジャーだが、日本ではかなりマイナー。 ダイスを転がして、自分の行動を決定することになった精神科医の話。 - 個性に関係なく、確率で運命が決定されるというのは、ロシアの収容所的であり、 複数の方向性が、確率で一つに決定されるというのは、量子力学的である。 そんなことを考えながら、読み進めたのだが、上の予想はまったくの的外れだった。 扇情的なコピーが表紙に書かれているが、それほど過激でも非倫理的でもない。 - サイコロを投げることで、自己の秘めた可能性を解放するとか、そういう方向。 時系列順にだらだらと描写しているので、核心に迫るまで集中力を保つのに苦労した。 日本で売れない理由はわかったが、世界で売れている理由がわからなくなった。 - Luke Rhinehart "The Dice Man" 4/22 Luke Rhinehart『The Search for the Diceman』を読む。 ダイスマンの息子、Larryが、父であるLukeを探しに行く話。 物語が加速するまでに多くのページを費やしてしまっている。 父の作ったコミューンLukedomに潜入していく箇所はかなり読ませるが、 そこから先はかなりだらだらしている。 明らかにおかしい名前の日本人が頻出するが、わざとなんだろうか。 最後に禅を持ってくるのも、ありきたりといえば、ありきたり。 4/25 パトリック・ズュースキント『コントラバス』(同学社)を読む。 すばらしいの一言。 コントラバスと自分を重ね合わせる主人公。 グロテスクに肥大化した妄想が、饒舌に語られる。 このドライブ感は、舞城王太郎そのもの。 傑作。 4/26 パトリック・ジュースキント『香水』(文春文庫)を読む。 五感の中でもっとも軽視されている「嗅覚」に焦点を当てた奇想天外な物語。 (1)誰よりも鋭敏な嗅覚を持つ主人公が、香水の調合士となる。 (2)「香り」を嗅ぎたいがために、処女を殺しまくる。 (1)と(2)が絡み合って物語が進むはずだったが、 後半、うまく処理しきれないまま物語が終結してしまっている。 単純にもっと量を書き込めばよかったのではないだろうか。 結末は、ブラックユーモアそのもの。 4/27 パトリック・ズュースキント『鳩』(同学社)と パトリック・ジュースキント『ゾマーさんのこと』(文藝春秋)を読了。 - 『コントラバス』『香水』という濃密な文章を読んだ後なので、 2作とも物足りなく感じてしまう。 『鳩』は一気に、『ゾマーさんのこと』はゆっくり、 読むのが、適切な楽しみ方であろう。 - Patrick Suskind 4/28 イスマイル・カダレ『砕かれた四月』(白水社)を読む。 フォークロアと小説の中間のような雰囲気。 血なまぐささは不思議と感じない。 感情に深入りしない抑制された描写だからこそ 表現できる登場人物の機微。 ため息の出る美しい物語である。 - Ismail Kadare "Avrile Brise" "Broken April" ビハインド・ザ・サン、Behind the Sun、Abril Despedacado 5/2 イスマイル・カダレ『誰がドルンチナを連れ戻したか』(白水社)を読む。 タイトルの通り、「誰がドルンチナを連れ戻したのか」をめぐる物語。 亡くなったはずの兄(コンスタンチン)が、本当にドルンチナを連れ戻したのか? あぁ、そんなもんかな、と油断していたが、最後にどんでん返しがある。 民話(物語)を、『砕かれた四月』は内側から、本書は外側から、それぞれ描いている。 もちろん好みも分かれる。 私は『砕かれた四月』の方が好きだ。 本書を読みながら、少しだけ丸山健二の『惑星の泉』を思い出した。 - Ismail Kadare "Qui a ramene Doruntine?" 5/6 イスマイル・カダレ『草原の神々の黄昏』(筑摩書房)を読む。 カダレの留学時代を描いた自伝的小説。 民間伝承などをうまく取り混ぜて、単なる事実の羅列を超えた世界を作り上げている。 作家たちが本当に神々に見える。 そんな瞬間が何度もある。 - Ismail Kadare "Le Crepuscule Des Dieux De La Steppe" 5/9 イスマイル・カダレ『夢宮殿』(海外文学セレクション/東京創元社)を読む。 夢を管理する事務局の話。 徹底的に閉塞的な物語。 プロット面でのカタルシスのなさが、密室性をさらに強めている。 政治的な寓話として書かれたということを考えただけで、背筋が寒くなる。 - Ismail Kadare "Le Palais Des Reves" 5/10 瀧井孝作『無限抱擁』(岩波文庫) 私小説。吉原の女との結婚、そして死別。 リアルとリアリティの意図的な混同で、物語を駆動させていくのが私小説である。 私小説を「フィクション」として読むか、「ノンフィクション」として読むか。 私は前者を選ぶ。 だから、「プロットが弱い、説得力もない」と感じる。 リアルに負けてしまった小説である。 5/11 長与善郎『竹沢先生という人(竹澤先生と云ふ人)』(岩波文庫)を読む。 筋らしい筋はあまりなく、竹沢先生が自分の思想を語るだけの小説。 弟子の一人になりきって竹沢先生の言葉に耳を傾けるのが、 一番ふさわしい読み方だろう。 埴谷雄高『死霊』と比べたらかわいそうだが、それにしても、思想が浅い。 哲学というより、人生論ぐらいのレベル。 5/12 小川大介・悠貴保登史『信長は生きていた!』(文芸社)を読む。 小川大介(10)の発想を、祖父の悠貴保登史(82)がまとめたもの。 年齢もすごいが、内容もぶっ飛んでいる。 信長の孫である三法師(サンボーラー)、月、空飛ぶ円盤、透明人間。 いやはや、なんともトンデモな内容である。 薄いので一気に読めるが、この量がぎりぎりである。 それにしても、ラストの気持ち悪さは何だろう。 10歳でこれは、やばい。はやりやまいよりもやはりやばい。 話題にはなったが、これでは売れないだろう。 税抜1300円。初版1000部。 …的確な設定である。 5/13 柴田正良『ロボットの心 7つの哲学物語』(講談社現代新書)を読む。 「ロボットは心を持てるのか?」について考察した本。 チューリング・テスト、中国語の部屋などの著名な思考実験や フレーム問題、コネクショニズム、クオリアなどの魅力的なタームが頻出する。 前半は引き込まれて読んだのだが、後半はかなりだるくなった。 「結論を留保しているから」という理由だけではないような気がする。 また、章の頭にそれぞれあるショート・ストーリーは、設定が掴みにくい。 フィクションは下手に触るとやけどする。そんないい例である。 5/16 有川浩『塩の街―wish on my precious』を読む。 連作短編集。 というよりも、前半と後半でまるっきり雰囲気が違う。 2冊の毛色の違うストーリーを無理やりくっつけた感じ。 前半のままラストに到達して欲しかった。 人間が塩になってしまうという世界観はため息モノだが、 刺激を求める若者には物足りなく感じるのかもしれない。 第10回電撃ゲーム小説大賞・大賞受賞作。 5/17 有川浩『空の中』(メディアワークス)を読む。 怪獣が分解して善玉と悪玉に分かれるというの発想が興味深い。 リーダビリティはかなり高いと言える。 - ・主人公だけが空中の生物(怪物)と直接コミュニケーションできる。 ・社会との関係がすっぽりと抜け落ちている。(描かれているが、関係性は希薄) ・世界の危機を主人公が一手に引き受ける。 セカイ系のお手本のような小説である。 5/18 吉永良正『ゲーデル・不完全性定理“理性の限界”の発見』(講談社ブルーバックス)。 あちこちのサイトで本書の「不完全性」が指摘されている。 それさえ気にしなければ、ゲーデルの手紙にもあるように 「小説のように」楽しむことができる。 ゲーデルについて何冊か読むつもりなら、そのうちの一冊に入っていてもよい本であろう。 5/19 クリス・ボイス『キャッチワールド』(ハヤカワ文庫SF)を読む。 「意味不明だけど、なんかすごいSFだ」という評の多い奇書。 物語の進行とともに、登場人物・設定を含め小説内のすべてを、 どんどん精製・抽象化していくイメージ。 ジューサーの中に果物をぶち込んで、液体化する過程を見ている感じ。 キャッチ・ワールド「捕獲世界」より、 キャッチ・ザ・ワールド「世界を捕獲する」の方が内容に即している気がする。 決して難しい小説ではない。 読み方を知っているか、知らないか。それだけである。 - Chris Boyce "Catchworld"(1975) 5/20 アイザック・アダムスン『東京サッカーパンチ』(扶桑社ミステリー)を読む。 確信犯的に間違った日本を舞台に、親日アメリカ人が暴れまくるハードボイルド。 佐藤実玖勝、奈比古武乱人、神道裕人、魁団。 なんともおちょくった名前である。 ディテールの奔流に、いつのまにかハマってしまうのは、 B・E・エリス『アメリカン・サイコ(全2冊)』(角川文庫)と同じ。 誤解された日本というのは、山口雅也『日本殺人事件(正・續)』(角川文庫)と同じ。 - 実は以下の引用が一番言いたかったのかもしれない。 - ああ、おれはどこまでガイジンなんだ。しょうもない慣用句のせいで、急にそんなふうに思えてきた。いくらたくさん漢字が書けても、おれはいつでもガイジンだ。ある意味では、この異文化を理解しようとがんばっても、外国人として浮いてしまうだけなのだ。同年代の日男児は、マイケル・デイヴィスを聴いてレイモンド・チャンドラーを読んでいる。おれは演歌バラードに涙し、三島の作品を正座して読む、コテコテな野郎だ。おれは彼らが<ピザハット>で食事してジム・ビームを飲んでいるときに、喉につまった握りを日本(ポン)酒で呑みくだしているのだ。(316) - Isaac Adamson "Tokyo Suckerpunch" 5/23 (カンタベリーの)聖アンセルムス『モノロギオン』『プロスロギオン』 『クール・デウス・ホモ 神は何故に人間となりたまひしか』(すべて岩波文庫)を読む。 考えていたことが、『クール〜』の解説にすべて書かれていたのでそのまま引用。 「内面→神→他者」という対象の変遷は、哲学史全体を俯瞰しているようで面白い。 - 「信仰の根拠について瞑想することの範例」を「独語」すなわち『モノロギオン』として書き、「知性を求むる信仰」を神に対して語る「対話」すなわち『プロスロギオン』として書いた聖アンセルムスは、「何故に神は人間となりたまひしか」を主題とする本書を書くに当たっては、見られる通り、弟子との対話という形式を選んでいる。このことが既に何ものかをわれわれに暗示する。自身の内心に語り、神に語った彼は、今や転じて人間に、人間とともに、語ろうとする。彼はまず信仰の根拠についてこころに深く瞑想し、ついでその信仰を神に向かって告白した。第三に彼がなすべきことは、人間に向かって「神がこの問題に関して開顕したまうところのものを」語ることであった。それを「頭脳の鋭敏ならぬ者にも」なお徹底的に理解せしめるためには、質疑応答の方法を用いるのが最も適していると彼は考えた。本書に対話の形式が適用せられた理由は、おそらくここにあったのだろう。(『クール・デウス・ホモ』263) - それから、少し気になる解説部分を引用。 - 昨年、『プロスロギオン』が、本文庫の一遍として公にせられるや、訳者の全然期待していなかった歓迎を受けた。なかんずく、訳者を感激--むしろ驚嘆--せしめたことは、前線にあって拙訳を紐解かれた読者のあったことである、おそらく学窓を出ると間もなく銃をとって立たれた人であろうと想像せられるが、そういう前線の読者から寄せられた二三の書信を見て、訳者はささやかな自分の仕事が、この乱時の時にあっても、決して無意義ではなかったことを感じた。(『モノロギオン』275) - 手持ちの『プロスロギオン』で確認すると、当時は初版しか出ていないはず。 一部の熱狂的な学生などに受け入れられたのだろうか。 参考までに、私の所有する書誌データを。 んー、見事なまでに売れていない。 - 『モノロギオン』 1946年2月20日 第1刷発行 2000年2月21日 第4刷発行 - 『プロスロギオン』 1942年1月15日 第1刷発行 1987年11月5日 第2刷発行 - 『クール・デウス・ホモ 神は何故に人間となりたまひしか』 1948年3月20日 第1刷発行 2002年2月29日 第4刷発行 - Anselmus "Monologion""Proslogion""Cur Deus Homo" - 「神を前提として、神を証明する」という現代人から見ればかなりアクロバティックな論法も、 当時からすれば不自然でない視点だったのかもしれない。 アンセルムスが今の時代に生まれたら、どうやって神の存在を証明するだろうか。 5/24 ゴットフリート・ケラー『ケラー作品集1 ゼルトヴィーラの人々 第一部』 『ケラー作品集2 ゼルトヴィーラの人々 第二部』 『ケラー作品集3 チューリッヒ小説集』(すべて松籟社)を読む。 「19世紀スイス最大の作家」とも「スイスのゲーテ」とも 「短編のシェイクスピア」とも言われているケラー(Gottfried Keller)の諸作品である。 - 『ケラー作品集4 マルチン・ザランダー』『ケラー作品集5 七つの聖譚』(松籟社)と 『緑のハインリヒ(全4巻)』(岩波文庫)は5年ぐらい前に既読。 長編は特に面白かったので一気読みした次第。 - ケラーの読みにくさの原因は、物語る順序にある。 物事が起きた順番に、そのまま物語が進行していくのだ。 「リアリズム」という枠組みで考えれば、ある程度許されることなのかもしれないが、 「プロット」よりも「ストーリー」を重視する小説は単純に読みづらい。 - ともかく、「ぶち猫シュピーゲル」「馬子にも衣装」は奇想天外で面白かった。 5/25 ケラー『白百合を紅い薔薇に--寓詩物語--』(岩波文庫)を読む。 一遍の寓詩をモチーフに、さまざまなストーリーが語られる連作小説・枠小説。 「如何ならむ、白百合を紅き薔薇にかへむすべば、 色白のガラテアに接吻(キッス)せよ。---顔赤らめて微笑まむ。」 長編ほどではないが、そこそこ楽しめた。 5/26 英田大輔『ハルジオン』(リトルモア)を読む。 第4回ストリートノベル大賞入選作「光彩」を含む3篇である。 うまい。 文章がうまい。 「瑞々しい」という表現が、これほど似合う文章はほかにない。 著者の問題意識だから仕方ないのかもしれないが、 もしゲイ以外の題材で書き始めたら、耽美的な傑作小説をものにできるだろう。 「傑作」というよりも「逸材」を見つけたという感じ。 ゲイ雑誌「バディ」で短編小説を発表していた(している?)らしいが、 これは書籍としてまとまらないのだろうか。 5/27 中原昌也『サクセスの秘密---中原昌也対談集』(河出書房新社)を読む。 中原昌也は「影響の不安(by ハロルド・ブルーム)」を感じている。 引用は通常、自分の好きなものに対してだけ行うものである。 中原の引用には際限がない。 無節操な引用で、引用の意味を解体しようとしているのだ。 対談でそれこそが「脱構築」なのだと指摘されていたが、 中原自身はそう呼ばれることを好ましく思っていない。 小説以外の著作(映画評論・対談)を読むことで、 はじめて中原の小説で意図したことが浮かび上がってくる。 まったくもって厄介な作家である。 5/30 中原昌也『エーガ界に捧ぐ SPA! BOOKS』(扶桑社)を読む。 後半は映画紹介をせず、ただ文句をぶつぶつ言っているだけなのだが、 それを読者に不快と感じさせない中原の筆力がすごい。 ここに載っている映画を観てみようと思わせない中原の筆力も、ある意味すごい。 5/31 Rabih Alameddine『Koolaids : The Art of War』(Picador USA)。 最初の1ページを読んだだけで、傑作だとわかる稀有な小説。 断片をつなぎ合わせることで、モザイク上に世界を構成していく。 「内戦」と「エイズ」が登場人物を内側から蝕んでいくが、 誰も内側に視線を向けようとしない。 架空の外側に憎悪を撒き散らすだけである。 やがて訪れる「内破」の瞬間。 日本では、まったくの未紹介なのが本当に惜しい。 同時に、少しだけうれしい。 - タイトルの「KOOL-AID」は飲み物で、文中に2回出てくる。 複数形にすることで、こっそりと「AIDS」の文字を埋め込んでいる。 - アップダイク、ヴァレリー、カルヴィーノ、クーヴァー、ジュネ、 セリーヌ、ナボコフ、ボルヘス、マラルメ、三島、ワイルドなど、 数多くの作家に言及しているのも乙。 6/1 Rabih Alameddine『The Perv : Stories』(Picador USA)を読む。 レバノンとアメリカの間で引き裂かれるアイデンティティ。 男と女の間で揺れるジェンダー。 この2つがモチーフとなって、さまざまなストーリーを織りなしていく傑作短編集。 ゲイの少年になりきる男を描いた「The Perv」や、 チェスの天才である祖母をめぐる「My Grandmother, the grandmaster」が特に面白い。 ちなみに、The Pervとは俗語でpervert(性的倒錯者)を意味する。 - 古本で購入したのだが、書店向けのプレスリリースと著者の生写真(!)が挟み込まれていた。 - 本書は、アメリカでもあまり注目を集めていないようである。 だからこそ、次のメタフィクショナルな作品『I, The Divine』で 著者は話題性を狙ったのかもしれない。 6/2 Rabih Alameddine『I, The Divine : A Novel in First Chapters』(Phoenix)を読む。 タイトルからもわかるが、延々と1章が繰り返されるメタフィクションである。 とはいえ、同じ場面を何度も読まされるわけではない。 「どこから始めるのか」「視点をどう設定するのか(1人称、3人称)」「何を描き、何を省くのか」など、 語り方が絶えず変化するので、退屈することはない。 同じことを語る場合もあるが、必ず新しい情報が提供されるようになっている。 ページが進むにつれて、隠されていた主人公のトラウマが明らかになる。 自分の人生を何度も語り直さなければならない主人公のもどかしさや息苦しさが、 痛いほど伝わってくる。 形式と主題が見事に一致した小説である。 6/3 ジェイムズ・ラスダン『角の生えた男』(DHC)を読む。 カフカとか、ボルヘスとか、P・オースターとか、いろいろ比されている。 前半は確かに面白い。 シュールで不条理な展開に期待感が募った。 問題は後半。説明しすぎである。 不条理を不条理のまま投げ出すか、それとも条理に回収するか、 一度どちからを見定めたら、「ぶれ」は許されない。 著者はいろいろ調べたのだろう。 それがあだとなり、知識に振り回されてしまっているようなのだ。 現実が虚構を面白くするわけではない。 虚構が現実を面白くするのだ。 - James Lasdun "The Horned Man" 6/6 トマス・ウォートン『サラマンダー 無限の書』(早川書房)を読む。 無限に続く(終わらない)書物を作り出すため旅に出た職人。 どこにたどり着くのか、さっぱり予想がつかないミステリアスな物語である。 「すべての物語には終わりがある」という考えを打ち砕くためにだけに、この本は書かれたような気がする。 読者に不快感を覚えさせることが、この書の目的である。 - ちょっと前に読んだロス・キング『謎の蔵書票』(早川書房)の方が、 雰囲気が重厚だという点でも、めまいを起こさせるという点でも、 語彙レベルが高いという点でも、上回っていると思う。 二書を読み比べてみるとなかなか面白いのでは。 Thomas Wharton "Salamander" Ross King "Ex-Libris" 6/7 ホレス・マッコイ(常盤新平訳)『彼らは廃馬を撃つ』(王国社)を読む。 前半はそれほど面白くない。 説明が必要最小限に抑えられているせいで、世界に入り込むまで時間がかかってしまうのだ。 23章の数ページで、小説としての価値が爆発的に高まる。 22章まで、ぶつ切りの判決文を鬱陶しく感じたが、最後まで通してみると、 構造上、要請されたものであることがわかる。 つまり、23章の突然すぎる結末が、それだけでは浮いてしまうから、 最初からタネを明かしておこうという訳である。 フランスで翻訳され、サルトルなどから「実存主義文学」と絶賛された。 - もともと角川文庫から出版されていたものを改訳したもの。 もちろん、初版・帯付。 Horace McCoy "They Shoot Horses, Don't They?" 『彼らは廃馬を撃ったか?』、『ひとりぼっちの青春』として映画化 6/8 ホレス・マッコイ(小林宏明訳)『明日に別れの接吻を』(ハヤカワ文庫)。 解説にもあるように、行き当たりばったりのプロットである。 「着地点がわからないから、ドキドキできる」とも言える。 文章が読みやすく、セリフはハードボイルドそのもの。 - Horace McCoy "Kiss Tomorrow Goodbye" 6/9 パット・バーカー(立花薫 訳)『アイリスへの手紙』(徳間文庫)を読む。 女性としてのさまざまな苦しみが描き出される連作短編集。 ユニオン・ストリートに住む女性が、それぞれ主人公になっている。 解説に「フェミニズム文学」とあるが、確かにその通りである。 絶望の先に少しだけ希望のようなものが見えるような気がしないでもない。 それは、弱々しい予感に過ぎない。 だが、希望というのは、いつでも頼りないものなのだ。 - Pat Barker "Union Street" 6/10 パット・バーカー(高儀進 訳)『越境』(白水社)を読む。 -「人を殺すのは悪いことか?」物議をかもした傑作長編!- と帯に書かれているが、この問いに本書は何も答えていない。 殺人を犯した少年が、名前を変えて出所する。 当時彼を精神鑑定した主人公との出会いから、物語が始まる。 最後まで、児童心理学者である主人公は、自分の夫婦関係に拘泥しており、 結局、少年の罪は許されることも、購われることもない。 カウンセラーとしてではなく、一人の人間として会っているつもりだが、 それは単なる傲慢にすぎない。 この物語に「越境」を見出すことはできなかった。 - また、本書には書誌的な誤りがある。 「最新作の本書が初めての邦訳となる。」 「今回わが国で初めて紹介される作者パット・バーカーは、(略)」 嘘つけ! 『Union Street』が映画化されたことについては触れられているのになぜ? 確かに、ウェブのない時代だったから、不便だったかもしれないが、 それはアマチュアにだけ許される言い訳である。 - Pat Barker "Border Crossing" 6/13 田口賢司の4著作を読む。 『sentimental education センチメンタル・エデュケイション』(角川文庫) 『boys don't cry ボーイズ・ドント・クライ』(角川文庫) 『ラブリィ』(新潮社) 『メロウ(「メロウ 1983」改題)』(新潮社)第14回Bunkamuraドゥマゴ文学賞受賞作/第132回芥川賞候補作 - ●sentimental education センチメンタル・エデュケイション ●boys don't cry ボーイズ・ドント・クライ たまたまBOOK OFFで見つけたもの。 装丁がキレイ。 悔しいが帯なし。 - ●ラブリィ 古本市場で、価格が異常に高騰している稀覯本である。 残念ながら帯なしなのだが、浅田彰の推薦文にはこう書いてあるらしい。 「デヴィッド・リンチの『ワイルド・アット・ハート』から闇という闇をぬぐいさったら? そんな白痴的な光の世界がここにはある。LOVELY? YES. VERY.」 なんともラブリィな文章である。 - ●メロウ こちらは帯付で、推薦文にはこう書いてある。 「いちばん大切なものはどこに消え去ったのか? もう戻っては来ないのか? いや、ここにある。この小説の中に。高橋源一郎氏」 なんともメロウな文章である。 - 『boys don't cry』が最も面白い。(技巧的にも一番優れている) 田口賢司を楽しめるかの試金石は、タイトルである。 「センチメンタル、ドント・クライ、ラブリィ、メロウ」という単語を ためらいながらも受け入れる感性があれば、それ以外には何もいらない。 - 浅田彰も田口賢司自身も言っていることだが、 「何も残らない空っぽ」を目指してこれらの小説群は書かれている。 読後のどうしようもない虚脱感は意図されたものである。 「昨日、かなり盛り上がったけど、何について話したんだっけ?」 そんな小説たち。 6/14 三崎亜紀『となり町戦争』(集英社)を読む。 あまりにも役人的なクリシェやステレオタイプのせいで、ページをめくるのがつらかった。 平易な文章なのにもかかわらず、である。 小説批評の世界において「リアルさ」というのは、とっくの昔に失効した概念である。 見えないのではなく、見ようとしない。 それを「リアル」だというのなら、目を閉じればいいだけの話である。 周辺にいただけでは、周辺しか感じることはできない。 - 「命の尊さ」というものが、戦争という条件をかぶせられることによって、いとも簡単に切り替えられるという仕組みがうまくわからなかった。「人の死」はいつ、いかなる時であっても「人の死」であり、「殺人」はどんなに言い換えようとも「殺人」でしかないのではないか?(141) - 今更、こんなことを暴き立てて、一体誰が感心するいうのか。 4刷だが、サイン本。 第18回三島由紀夫賞候補。 6/15 中村文則の2著作を読む。 『銃』(新潮社) 第34回新潮新人賞受賞作/第128回芥川賞候補作 『遮光』(新潮社)第26回野間文芸新人賞受賞作/第129回芥川賞候補作 - 同じモチーフのバリエーションだと考えてもよいくらい、この2作品は酷似している。 異物(=銃、小指)を持ち歩く主人公。 ひた隠しに隠そうとするが、結局、電車でばれる。 世間とうまく折り合いをつけられない苦悩。 語尾に「た」が連続するなど、読みにくいところはあるにせよ、 全体としてはとても面白い。 丸山健二の描くモチーフにも似ているが、小説としての深みを考えると雲泥の差がある。 6/16 ウィリアム・ゴールディング『後継者たち』(中央公論社)を読む。 H.G.ウェルズ「気味のわるい奴ら」が元ネタ。 ネアンデルタール人が、クロマニヨン人(=ホモ・サピエンス)に征服される話。 視点がネアンデルタール人であるため、リーダビリティはきわめて低い。 もともと、ゴールディングの文章は読みにくい。 しかし、その読みにくさこそが、この文体には求められているのかもしれない。 (バージェス『時計じかけのオレンジ』のように、人工言語を使った成功例もあるが) - ロクは「ようだ」ということを発見した。「似ている」、「ようだ」ということはいままでもずっと使ってはいたのだが、それと気がつかなかったのである。(中略)「ようだ」を使えば白い顔をした追手たちを片手でつかむことができ、でたらめな無関連な侵入者としてでなく、考えられる世界に彼らを投げいれることができるのだ。(137) - 「オアの腹のなかに引きとられる(=死ぬ)」「絵を描く(=心に思い浮かべる)」などの表現も面白い。 - 『蝿の王』『ピンチャー・マーティン(くすね屋マーティン)』『わが町、僕を呼ぶ声』は既読。 もう一度読み直したい気もする。 原題を見て気づいたが、ピンチャー・マーティンは、 タイトル(The Two Deaths of Christopher Martin)がネタバレである。 - William Golding "The Lord of the Flies" William Golding "Pincher Martin (aka The Two Deaths of Christopher Martin)" William Golding "The Pyramid" William Golding "The Inheritors" 後継ぎの人々 6/17 ウィリアム・ゴールディング『自由な顛落』(中央公論社)を読む。 自分はいつ自由意志を失い、罪を負いながら転落したのか。 その瞬間を探して主人公が、記憶をたどっていく。 リーダビリティよりも、文体の実験性を優先させるのがゴールディング流だが、 本書は珍しく読みやすい。 しかし、それも程度問題で、途中から「あれ?」ということになる。 意識の流れというか、意識の混交というか、その辺が絶妙といえば絶妙。 ゴールディングは、理性を抑えて感性で読むのがコツである。 - マウントジョイという主人公の名前は、 自由な顛落というタイトルと対比させると面白い。 - William Gerald Golding "Free Fall" 自由な転落、自由なてん落、自由な轉落 6/20 William Golding『The Spire(尖塔、塔)』(未訳)を読む。 磐石な基礎のない英国国教の大聖堂(cathedral)の上に、 400フィート(約120メートル)の尖塔(spire)を建てることになった男の話。 天使と悪魔が、そのまま登場人物として出てくる。 神学論争にも似た荘厳な雰囲気で、物語は進行していく。 完成してからの無力感あふれる描写が切ない。 それにしても、相変わらずリーダビリティは低い。 他の著作を日本語訳で読んでなかったら、ノーベル文学賞を取っていなかったら、 きっと読了することなく投げ出してしまっただろう。 6/21 W.ゴールディング『可視の闇』(開文社出版)を読む。 空襲で大やけどを負った少年マティと、愛を知らずに生きていく双子の片割れソーフィ。 二人の運命は、どう交錯するのか。 本書は、黙示録、ピカレスク、欽定訳聖書、意識の流れなどなど、文体実験のオンパレードである。 常々感じていたことが、解説に書かれていたので、そのまま引用。 - 概してゴールディングの文は息が長い。一センテンスの中にかなりの量の情報を盛り込みたがるのである。複数の概念を単一の場面として認識したがっているらしいのだ。(中略)その上、ゴールディングは元来が晦渋な文章を書く人である。読者に対する要求が途轍もなく大きい作家なのだ。いったい作家というものは、読者に共感や同意を求めてくるのが常だが、ゴールディングの場合は単なる共感だけでは飽き足らないらしい。作家との一体化、かなりの根源的なレベルでの思考様式や感覚器官の共有を強いてくる感じなのである。読者は自分固有の考え方をいったん放棄して、ゴールディングの頭の中へ溶け込んでいかなければならない。そのゴールディングの思考様式というのが、必ずしも明瞭明快ではないものだから、いよいよ読者の負担は大きくなる。文の流れは、論理的というよりも感覚的な原理に沿って進むことも多い。X、Y、Zという連なりを書くのに、ゴールディングの文章は間のYをすっ飛ばしていくのである。(466) - 文体実験を行う作家は、例外なく大きな不幸を背負っている。 目の前には、実験性とリーダビリティを兼ね備えた巨人、ジェームズ・ジョイスがいる。 - William Golding "Darkness Visible" 6/22 W.ゴールディング『通過儀礼』(開文社出版)を読む。 オーストラリアへの船旅中、牧師が酒飲んで、男に犯されて、屈辱のあまり自殺するという破天荒な話。 (1)(2)などの日数を記していく数字が、(Ω)(?)(BETA)などになっていく。 メタフィクショナルな展開に行くことを期待したが、そうはならなかった。 読みにくくはない分、小説としての深みに欠けている。 ゴールディングの場合、「リーダビリティの低さ」と「文学性の高さ」は表裏一体である。 1980年度ブッカー賞受賞作。 - William Golding "Rites of Passage [Sea Trilogy vol.I]" 6/23 William Golding『The Paper Men(紙人間)』(未訳)を読む。 私生活で危機を迎えた著名な英国作家に、アメリカの学者が「伝記を書かせてくれ」と接近する。 「俗物」な二人が、「あれやこれや」とバトルするのが、本書のテーマ。 「悲劇」ではなく「喜劇」であることが、本書を読み解く鍵になる。 重さではなく、軽さ。 隠された過剰な意味を読み取る必要はない。 表層のずれだけを楽しむだけでよい。 当時はまだ斬新な手法だったのだろう、最後の一行にニヤリとする。 6/24 イーサン・コーエン『エデンの門』(アップリンク/河出書房新社)を読む。 『バートン・フィンク』『ファーゴ』『ビッグ・リボウスキ』などで知られる、コーエン兄弟の小説集。 意外にも、映画を髣髴とさせるような雰囲気は希薄。 ユダヤ人文学ならではの陰鬱な神秘性が瀰漫している。 普通に文学として読めるのがすごい。 - Ethan Coen "Gates of Eden" 6/27 ロバート・ハリス責任編集『キネ旬ムック フィルムメイカーズ 注目の映画作家シリーズ 5.コーエン兄弟』(キネマ旬報社)を読む。 驚いたのは、まえがきである。 コーエン兄弟を深読みする必要はない。なんとなく楽しめばいい。という意味のことが書かれてある。 それじゃあ、この本は何のためにあるの?と聞きたくなる。 それなりに楽しめる、それなりの本である。 - 詳しく紹介されている映画は以下の7本。 『ブラッド・シンプル』Blood Simple 『赤ちゃん泥棒』Raising Arizona 『ミラーズ・クロッシング』Miller's Crossing 『バートン・フィンク』Barton Fink 『未来は今』The Hudsucker Proxy 『ファーゴ』Fargo 『ビッグ・リボウスキ』The Big Lebowski 6/28 穂村弘『現実入門』(光文社)を読む。 「虚構」を適度に混ぜ合わせることで、始めて「現実」を書きえるという手法は 若い作家特有のものだと思っていたが、そうではなかった。 ((ex)滝本竜彦『超人計画』や佐藤友哉「世界の終わりの終わり」) 著者の感性が、若いからかもしれない。 滝本や佐藤よりも自意識はきちんと抑えられており、読んで気分が堕ちるようなことはなかった。 - 著者サイン本。 6/29 Magnus Mills『Only When the Sun Shines Brightly - stories』(acorn book)。 これはすごい。 訳のわからないまま教会に入っていく「the Comforter」。 「北風と太陽」の寓話を換骨奪胎した「only when the sun shines brightly」。 邪魔な枝を切る顛末を描いた「At your Service」。 いつも食事に遅れてしまう男をめぐる「Hark the Herald」。 マグナス・ミルズ節全開の、シュールでやさしい、奇妙な味の短編集。 傑作。 「Something else by Magnus Mills...」として 「In a league of his own」がオマケでついている。 6/30 Magnus Mills『Three to See the King』(Picador USA)を読む。 裏表紙にあるロサンゼルス・タイムズの推薦文、 “サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』と安部公房『砂の女』の中間” という表現が非常に的確である。 ブリキ(tin)で出来た家に住む男が、さまざまな来訪者を迎える話。 『フェンス(The Restraint of Beasts)』を凌ぐ傑作である。 7/1 Magnus Mills『once in a blue moon - stories』(acorn book)。 「once in a blue moon(たまには顔を)」「the good cop(善玉の警部)」は、 『新潮2005年2月号』に、柴田元幸訳で掲載されているのため、日本語で読む。 「they drive by night」「screwtop thompson」も含め、 4編とも前の短編集よりもパワーダウンしている。 Something else by Magnus Mills...」として 「The School of Hard Knocks」がオマケでついている。 - Magnus Mills『The Scheme for Full Employment』』(Picador USA)も読む。 面白いのだが、新しさはなかった。 マグナス・ミルズは、傑作(◎)と良作(○)を繰り返す。 そんな気がした。 - 長編 ◎The Restraint of Beasts『フェンス』(DHC) ○All Quiet On The Orient Express『オリエント急行戦線異常なし』(DHC) ◎Three to See the King『王を訪ねる三人』(未訳) ○The Scheme for Full Employment『完全雇用計画』(未訳) 短編集 ◎only when the sun shines brightly(未訳) ○once in a blue moon(未訳) - 長編、短編集、どちらも次回作が楽しみである。 7/4 BLOOD『waisted garageV』を聴く。 『BLOOD』『NO GIMMICK』製作時の未発表曲を中心としたニューアルバム(とDVDと写真集)。 『waisted garageU』のセルフカバーアルバムに続いて、POP色がかなり強くなっている。 キャッチーな曲が多く、耳に残る名曲ぞろいである。 その分、『CRACK』『DO IT YOURSELF』『waisted garageT』での破壊的な楽曲は、息を潜めている。 鈴木慎一郎は、どちらに向かうのか。 POPならいくらでも「換え」はいる。 ROCKに行かなければ、嘘だろう。 7/5 ノーマン・マルコム『ウィトゲンシュタイン--天才哲学者の思い出』(平凡社ライブラリー)を読む。 小説のように読めるスリリングな伝記である。 具体的にはP.ヴァレリー『テスト氏』、G.アデア『ドリーマーズ』のようなイメージ。 ただ、小説のように接していると、後半多少グダグダしているように感じられるのが欠点といえば欠点。 純粋に学問するとはどういうことか、この本は教えてくれる。 - 本書は、1974年刊の講談社現代新書の再刊で、板坂元訳。 藤本隆志訳の『回想のヴィトゲンシュタイン』(法政大学出版局)は同一の書物。 Norman Malcom and others "Ludwig Wittgenstein, a Memoir" 7/6 S・トゥールミン、A・ジャニク『ウィトゲンシュタインのウィーン』(平凡社ライブラリー)。 いい意味で、ウィトゲンシュタインが、背景に埋もれている。 これほど本人を描かずに、本人像を浮かび上がらせた本は珍しい。 叙述は、ひどく緩慢なスピードでウィトゲンシュタインに向かっていく。 やっとたどり着いたと思ったら、一瞬にして通り過ぎてしまう。 ウィーンという景色の中にあるウィトゲンシュタインを炙り出すことが、本書の目的であるから、 それも当然である。 1978年TBSブリタニカ刊の改訂。 - 電車の線路沿いに珍しい建物がある。 「ほら、そこ」「えっ、どれ?」「白い建物の隣」「あっ、あれか」 「どう?」「見えたような、気がする」 7/7 ポール・ヴァレリー(清水徹 訳)『ムッシュー・テスト』(岩波文庫)。 以前、粟津則雄訳の『テスト氏』(福武文庫)を読んだのだが、新訳ということで再読。 筋らしい筋のない断章形式の小説群である。 本人ではなく、周辺の人々の言葉によって、 ムッシュー・テスト(=ヴァレリー)の精神遍歴が語られていく。 空虚さこそが、天才の証なのだろうか。 - 訳者によれば『テスト氏』というのは、原義を正しく伝えておらず、 京都風に「おつむはん(おつむ=頭)(はん=さん)」というのが、正確な(?)訳らしい。 Paul Val'ery "Monsieur Teste" 7/8 ヴァレリー(中井久夫訳)『若きパルク/魅惑 改訂普及版』(みすず書房)を読む。 ここまでわからない詩集も珍しい。 解説に目を通した後、繰り返し詩を読んでも、意味が取れない。 散文には核のようなものがあって、それを掴めば事足りる。 が、詩はそうはいかない。核が無限にあるように感じられるのだ。 まだ舞踏できるレベルではない。 歩行が精一杯である。 大幅に注釈を改訂し「セミラミスのアリア」を付した、95年刊の改訂普及版。 7/11 ポール・ヴァレリー(山田九郎訳)『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法』(岩波文庫)を読む。 ダ・ヴィンチを題材にして、芸術や哲学のあり方を探っていく論考。 思いも寄らない組み合わせや関係を、事物に見出すのが芸術家であり、哲学者である。 通常、思想家は「わかりやすい」順序で、論旨を展開するのもだが、 ヴァレリーは、自分の歩んできた道のりを、「そのまま」読者に強要する。 天才の脳みそに入り込んだような快楽が、そこにはある。 ダ・ヴィンチは、体系的な言葉を記さなかった「哲学者」である。 この意味を考えれば、「なぜヴァレリーは、拡散的に思考したか」の答えが、見えてくる。 - もしプラトンのもの、スピノザのものが論破されるとなりますれば、あの人たちの驚嘆すべき思索の大楼閣のその趾には、では何も残らないのでありましょうか。絶対何も残らないわけであります、そこに芸術作品としてのものが残らないかぎりは。(162) 7/12 P・ヴァレリー(東宏治、松田浩則 訳)『ヴァレリー・セレクション(上・下)』(平凡社ライブラリー)を読む。 ヴァレリーの魅力がぎっしり詰まった一冊。格好の入門書である。 真の詩人は、名文を書く。 書いた年齢が上がれば上がるほど、文章は彫琢・洗練されている。 以下、引用。(すべて上巻より) - ある種の作品はその読者によってつくられる。別種の作品は自分の読者をつくりだす。 前者は平均的な感受性の要求に応える。後者は自分の手で要求をつくりだし、同時にそれを満たす。(220) - とても偉大な芸術とは、模倣されることが公認され、それに値し、それに耐えられる作品だ。そして模倣によってこわされることなく、価値が下がることもなく、また逆に模倣したものがその芸術によってこわされることも価値が下がることもない。(220) - 書物。 わたしが評価するほとんどすべての本、そして何らかの意味でわたしの役に立った本は、例外なく、読むのが相当むずかしい本だった。 注意力がこれらの本から離れてしまうことはあっても、読み流すことは不可能だ。 ある本はむずかしかったけれど役に立った。別の本は、むずかしかったからこそ役に立った。(230) - 詩人の偉大さは、精神がかすかにかいま見たものを、自分のことばでしっかりとつかまえるところだ。(231) - <飾った文体>。文体を飾ること。 本当に文体を飾ることができる人とは、裸の明確な文体が可能な人だけだ。(235) - 知性をともなわない直感はまぐれにすぎない。(258) - 人に犯罪を思いとどまらせる《理由》は、その犯罪よりももっと恥ずかしい、もっと口に出せないものだ。(281) 7/13 田上竜也、森本淳生 編訳『未完のヴァレリー--草稿と解説』(平凡社)を読む。 重要とされる未刊テクスト(草稿)を集めたものとその解説。 草稿が断片的であるため、満足感はそれほど得られなかったが、 長大な解説がその隙間を埋め合わせてくれる。 少なくとも、わかったつもりにはなれる。 こんなのを読んだら、「カイエ」を読みたくなる。 困ったものだ。 7/14 グレゴリー・ベア『愛と成功の確率』(集英社)を読む。 「確率」と言われて、私が真っ先に思い出すのは、 東浩紀の「ソルジェニーツィン試論--確率の手触り」である。 確率は、尊厳や個性を剥ぎ取る。そして単なる「数」にすぎない人間を造る。 本書には、以下のような感じで、確率とその算出理由が書かれている。 ・大統領になれる確立 1000万分の1 ・エベレスト登頂に成功する確率 5分の1 ・"ケビン・ベーコンに近い6人の他人"の確率 ???(←算出不能の意) データがアメリカだから、役に立たないとか、そういうレベルの話ではない。 ただ確率のみで、人の運命を述べようとするところに人間性の迫害を感じるのだ。 しかし、本書には救いがある。 「確率をアップさせるには?(不幸な出来事の場合は、ダウン)」という項目が設けられていることで、 一度は失われた「自由」を奪還することができるのだ。 人は自分の意志で、確率さえも変えることができる。 本章は、こっそりとそう訴えかけている。 深読みと誤読の賜物であることは100も承知している。 しかし、そういう読解も確率的には捨象されていないはずである。 - Gregory Baer "Life : The Odds and How to Improve Them" 7/15 ラプラス(内井惣七 訳)『確率の哲学的試論』(岩波文庫)を読む。 哲学的、なのだろうか? 哲学的なのは最初だけであり、途中からは単なる確率論の話になっている。 また、数式を使わないせいで、不明瞭な部分も多い。 古典を読んで「当たり前じゃないか」と感じることがある。 しかし、「当たり前ではないこと」を、「当たり前」にしたのは誰なのか、 それを考えれば、ある程度、古典を尊重することはできる。 読み物としてはそれほど面白くない。 ラプラスの知性(デモン/デーモン/悪魔)として知られるのは以下の一説。 - 現実の事象は、それに先立つ事象との間にあるつながりをもっている。そのつながりは、いかなる事物もそれを生み出す原因なくしては存在しえないという自明の原理に基礎をもつ。この公理は十分な理由の原理という名前で知られるが、どちらでもよいような行為にまでも及ぶ。もっとも自由な意志でも、決定する動機なくして行為を生み出すことはできない。というのは、もし二つの立場の条件がすべて正確に同じなのに一方では意志がはたらき他方でははたらかないとしたなら、この意志の選択は原因をもたない結果となってしまうからである。(中略)われわれは、宇宙の現在の状態はそれに先立つ状態の結果であり、それ以後の状態の原因であると考えなければならない。ある知性が、与えられた時点において、自然を動かしているすべての力と自然を構成しているすべての存在物の各々の状況を知っているとし、さらにこれらの与えられた情報を分析する能力をもっているとしたならば、この知性は、同一の方程式のもとに宇宙のなかの最も大きな物体の運動も、また最も軽い原子の運動をも包取せしめるであろう。この知性にとって不確かなものは何一つないであろうし、その目には未来も過去と同様に現存することであろう。(9) - Pierre-Simon Laplace "Essai Philosophique sur les Probabilit'es" 7/19 オットー・ワイニンガー『新版世界性医科学全集第12巻 性と性格』(ヒューマンライフ社・河出書房新社)を読む。 性差を質的ではなく、量的な相違だとする論文。 論文自体はそれなりだが、ほぼすべてのページにあるイラストや写真のおかげで、 百科事典を読んでいるような不思議な気分に浸れる。 著者は23才のとき、ベートーヴェンが死を迎えた一室で自殺した。 論旨が跳びすぎると思ったら、やはり抄訳だった。 - Otto Weininger "Sex and Character" 7/20 テッド・チャン(浅倉久志他 訳)『あなたの人生の物語』(ハヤカワ文庫SF)を読む。 これは、すごい。 何がすごいかというと、物語の「設定」である。 哲学、物理学、数学などなど、多彩な分野を、一つの奇想に纏め上げるその「設定」である。 設定がすばらしすぎるから、内容なんてどうでもよくなってくる。 そんな名作集。そして全集。 頼むから、もっと書いてくれ。 - Ted Chiang "Stories of Your Life and Others" 7/21 谷川流『絶望系 閉じられた世界』(電撃文庫)を読む。 帯にも書かれているが、「実験作」である。 力を持った天使や悪魔が好き勝手に大暴れする話。 自分より大きな力に、謎を解決させてしまうという 「機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキーナ)」の変奏曲とも言える。 暴れだす妄想をカタチにするため、 作者はすべてをコントロールできる「力」を必要としたのだろう。 7/22 ウラジミル・ナボコフ(富士川義之 訳)『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』(講談社文芸文庫)。 ロシアの貴族に生まれたナボコフが米国に亡命後、初めて英語で書いた小説。 小説家である腹違いの兄の伝記を書くため、あちこちを歩き回る話。 当然フィクションなのだが、ノンフィクションのような顔で、物語は進行していく。 母国語ではない劣った言語(習得された言語)で書くことを余儀なくされたナボコフ。 虚構と現実。偽物と本物。物語と現実。兄と弟。 それらのほどよい混交が織りなす、大胆不敵な物語である。 かなりの傑作。 - Vladimir Nabokov "The Real Life of Sebastian Knight" 7/25 ウラジミール・ナボコフ(加藤光也 訳)『ベンドシニスター』(サンリオSF文庫)。 独裁政治に翻弄される知識人を描いた小説。 地口などの言語実験が、至る所に埋め尽くされている。 ナボコフという作家の持ち味なのだと言ってしまえばそれまでである。 しかし、それ以上の意味をこの作品には感じる。 独裁者の意図は(独裁であるがゆえに)理解に苦しみ、 市民の意図は(身の安全のために)隠蔽される。 圧倒的な相互の不理解が独裁政治の根本にはある。 エクリチュールが暴走し、深読みを挑発する。 読みにくい本だが、読む価値は十分にある。 - みすず書房版では、主人公のアダム・クルグが、アダム・クルークになっている(らしい)。 - 訳者サイン入り。初版帯付。 Vladimir Nabokov "Bend Sinister" 7/26 ウラジミール・ナボコフ(大久保康雄 訳)『ロリータ』(新潮文庫)を読む。 ロリコン(<ロリータコンプレックス Lolita Complex)の語源となった名作。 とにかく文章がいい。 特に、第一部がこれ以上ないくらい美文である。 アメリカとかロシアとかヨーロッパとか、ロリータはいろいろなものに例えられているが、 ロリータ=ナボコフ、ハンバート・ハンバート=世界、という図式がしっくりくる。 - ああ、ロリータよ、いま私には言葉しかたわむれるものがないのだ!(47) - 私は自分の苦悩を、言語芸術という気の滅入るようなきわめて局部的効果しかない緩和剤によってまぎらわす以外に方法はないわけだ。(428) - これが本になって一般に読まれるのは、おそらく紀元2000年の初頭だろう。(1935年プラス80年ないし90年。私の恋人よ、長生きしてほしい。)(451) - Vladimir Nabokov "Lolita" 7/27 ウラジミール・ナボコフ(中西秀男 訳)『ナボコフの一ダース』(ちくま文庫)を読む。 うまい。 難を言えば、ごく普通の名作すぎる。 ナボコフには、もっとブチ切れたタイプの文学を期待している。 ジョイスの初期短編集のように、「普通の名作も書けます。わざと崩しているんですよ」 とでも言いたげである。 - それにしても以下2つの著者紹介は似すぎである。 微妙な所を言い換えているが、バレバレ。 - 『ベンドシニスター』(サンリオSF文庫) 1899年、ペテルブルグの名門貴族の長男として生まれる。革命によって国を追われ、イギリス、ドイツ、フランスを経て、アメリカへ亡命する。以後、大学の教壇に立ちながら、創作活動を続け、次々に傑作を発表、今世紀の最も重要な作家の一人に数えられている。代表作には、妖精のような小女に倒錯的な愛を傾ける中年男を描いた『ロリータ』がある。好色文学の枠組みにジョイス、プーシキン、メリメ、ポーなどの一大パロディで埋め尽くしたこの前衛的な童話は、文学から文学を創り出す彼の手法を存分に発揮したものである。 - 『ナボコフの一ダース』(ちくま文庫) (1899-1977)ペテルブルグの名門貴族の長男として生まれる。革命で国を終われた後、英国等を経てアメリカに亡命する。以後、大学の教壇に立つ一方で、創作活動も続ける。55年、妖精のような少女と中年男の異常な性愛を描いた『ロリータ』で商業的成功を収めるとともに、現代を代表する前衛作家としての名声を確立する。 - Vladimir Nabokov"Nabokov's Dozen" 7/28 ウラジーミル・ナボコフ(富士川義之 訳)『青白い炎』(ちくま文庫) 詩人ジョン・フランシス・シェイドの遺作「青白い炎」の全文と、 大学教授チャールズ・キンボートによる膨大な注解。 もちろん、すべてナボコフの創作である。 キンボートが実は狂人(ストーカー)で、 シェイドの詩を都合のいいように誤読していくというメタフィクションの傑作。 それにしても、訳文のなんと読みにくいことか。 詩は英文も掲載されているので、明らかな誤訳が簡単に見つけられる。 こういうトリッキーな小説だから、それもまた許されることかもしれない。 - Vladimir Vladimirovich Nabokov"Pale Fire" 8/1 ウラジーミル・ナボコフ(大浦暁生 訳)『マーシェンカ』(新潮社)を読む。 もともとはロシア語で書かれた、ナボコフの端正なデビュー作。 エレベーターに閉じ込められる書き出しがすばらしい。 そのまま勢いに乗って、最後まで一気に読める。 ロマンティシズム全開の瑞々しい中篇。 - Vladimir Vladimirovich Nabokov"Machenka/Mary" 8/2 ウラジミール・ナボコフ(篠田一士 訳)『マルゴ』(河出書房新社)を読む。 ストーリーは2流だが、文体が1流。 こんなメロドラマでも、大作家によって書かれれば名作になる。 ナボコフはすごい。 - ナボコフ特有の言語遊戯は少なめである。 「ほう、さもありなんですな。ぼくの知りたいのは……ねえ、あなた、トルストイをお読みですか?」 「人形のおもちゃ?(ドールス・トイ)?」ドリアンナ・カレーニナはたずねた。「いいえ、読まないと思いますけど、なーぜ?」(195) - 『マーシェンカ』の訳者あとがきに以下のようにある。 1932年に33年にかけて書かれた『暗室』という中編小説は、1934年にドウシャ・エルガーズによってによって仏訳され(この仏訳は原作にほぼ忠実と思われる。仏訳からの邦訳、『マグダ』、河出書房、川崎武一訳)、1938年に作者自身の手で英訳されたが(英訳からの邦訳、『マルゴ』、河出書房、篠田一士訳)、この英訳を仏訳と比較してみると、題名も『暗のなかの笑い』と改められたほか、人物の名前もマグダがマルゴに、クレチマルがアルビヌス、ホーンがレックスにと全く変わってしまっている。 - 暗室(カメラ・オブクスラ)、マグダ(Magda)、マルゴ、闇の中の笑い、暗のなかの笑い、闇のなかの哄笑 Vladimir Vladimirovich Nabokov "Laughter in the Dark" 8/3 ウラジーミル・ナボコフ(大津栄一郎 訳)『賜物(上・下)』(福武文庫)を読む。 作家を志した青年が、『賜物』を書こうと決意するまでを描いた自伝的な物語。 苦悩の中に希望を見出していこうという主人公の姿勢には、 心を打たれるものがある。(特に上巻) ロシア語で書かれたものには、技巧的でないストレートな名作が多い。 (作中作があるが、後期に比べればまだ「素直」な仕掛けである) - 上巻のみ帯付。 Vladimir Vladimirovich Nabokov "The Gift" 8/4 ウラジーミル・ナボコフ(出淵博 訳)『魅惑者』(河出書房新社)。 破棄されたものと思っていたが、資料整理をしている最中に偶然発見されたもの。 代表作『ロリータ』の原型である。 確かに面白いのだが、『ロリータ』的な言語実験がなく、物足りなく感じる。 ナボコフの息子ドミトリーの文章を読めるのが、うれしい。 - Vladimir Vladimirovich Nabokov "The Enchanter" 8/5 イェール学派(The Yale Critics)。 ジャック・デリダの哲学(デコンストラクション・脱構築)を文学理論に応用したグループで、 イェール脱構築派とも呼ばれる。 最近、『影響の不安』と『美学イデオロギー』の邦訳が出たので、 一気に代表作を読んでしまおうという魂胆。 - ・ハロルド・ブルーム Harold Bloom (1930-) ・ジョセフ・ヒリス・ミラー J. Hillis Miller (1928-) ・ポール・ド・マン Paul de Man (1919-1983) ・ジェフリー・ハートマン Geoffrey Hartman (1929-) - ひとまずは、ハロルド・ブルームとJ・ヒリス・ミラーを、 しばらくして、ポール・ド・マンとジェフリー・ハートマンを読む予定。 第二世代のバーバラ・ジョンソンにまで、手をつけるかはまだわからない。 それにしても、「イェール学派の四羽烏」というネーミングはどうだろう? まあ、「四天王」でも微妙だが。 8/8 ハロルド・ブルーム『影響の不安--詩の理論のために』(新曜社)を読む。 (小谷野敦、アルヴィ宮本なほ子 訳) 批評界にその名を轟かせた「誤読(反読)の理論書」三著作の一冊目である。 持って回ったような言い方のせいで、全貌がつかめず、 長い序文を延々と読まされているような気分になった。 しかし、小谷野が日本の「影響の不安」を解説した「前口上」と、 ブルームがシェイクスピアの偉大さを描いた「汚染の苦悩」は必読。 - 私が関心を持っているのは、強い詩人、重要な人物だけである。彼らは、先行するやはり強い詩人たちと、死ぬまで執拗に格闘し続ける。それほど才能のない詩人たちは、偉大な先達を理想化する。その一方、有能な想像力を持つ者たちは、自力で先行者を押しのけて、自分の場所を確保する。しかし、割り込むにはそれなりの代価を払わなければならない。つまり、自分で勝手に一区画を占有したために、先行者たちに影響を負っているという非常な不安感がもたらされるのだ。なぜなら強い詩人=創造者は、自分が自分を創造することに失敗したなどということを直視したくないからだ。(22) - 詩的影響は--二人の強い、真正な詩人が関わる時は--いつも、先行する詩人を誤読することによって進む。誤読とは、実際、必然的に誤読である創造的訂正なのである。(59) - Harold Bloom" The Anxiety of Influence : A Theory of Poetry" 8/9 Harold Bloom『A Map of Misreading』(Oxford University Press)を読む。 「誤読(反読)の理論書」三著作の二冊目。 『影響の不安』では、まだ全体像を掴むことが出来なかったが、 今作でかなり明確に「影響の不安」のヴィジョンが見えてきた。 遅れてきたことに対する詩人の不安が、かなり詳細に叙述されている。 フロイトのエディプス・コンプレックスと、ニーチェの解釈についての考察と、 キェルケゴールの神への飛躍を混ぜ合わせれば、 ハロルド・ブルームのできあがり、ということである。 しかし、英詩を訳なしで読むのは辛かった。 それだけが、残念。 - 誤読の地図、反読の地図 8/10 ハロルド・ブルーム(島弘之訳)『カバラーと批評--クラテール叢書2』(国書刊行会)を読む。 「誤読(反読)の理論書」三著作の三冊目。 純粋に理論を知るのが目的なら、前半のカバラー解釈を読む必要はない。 後半だけで、十分体系的に「影響の不安」理論を理解できるからである。 「影響の理論」は、遅れてきた詩人の生半可な言い訳ではない。 偉大な詩人による影響をあっさりと受容するのではなく、 真っ向からむんずと組み合い格闘してやろうという、強い決意性が込められている。 それがわかった途端、ブルームの理論が、かなり好きになった。 - 次のような公式を敢えて呈示させていただこう。正しく読んでもらえるのは、誰をも脅かすことのない二流(マイナー)すなわち弱い(ウィーク)詩人たちだけだ、と。強力な(ストロング)詩人たちは誤った読み方をされ(ミスレッド)なければならないのだ。強力な詩人たちを読み解こうとする際に犯される誤り(エラー)には、偏見のない[ジェネラス]ものなどありはしない。それは、そもそも強力な詩人たち自身が読解の上で犯す誤りに、偏見のないものなど決してないのと同じことである。すべての強力な詩人は伝統を戯画化して嘲るものであるから、強力な詩人は皆、自分が育成する伝統によって必然的に誤読される(ミスレッド)のだ。殊に最強の詩人たちは極めて痛烈な誤読を受けるために、定説として堂々とまかり通っているような、彼らの作品に関する解釈などは、実のところ、詩の真実の姿とはまるで正反対のものとなりがちなほどである。(144) - 詩のなかには弱い詩と強力な詩とがあるのとちょうど同じように、誤読にも弱い誤読と強力な誤読とがある。しかしながら、正しい読解というものは断じてない。なぜなら、テクストを読むとは、必然的に、諸々のテクストの全体像の読解にほかならず、しかも、意味はテクストとテクストとの間を常にさまよい続けてやまないからである。(150) - 「修正主義の弁証法」「修正的公準」 Harold Bloom "Kabbalah and Criticism" 8/11 Harold Bloom『Poetry and Repression: Revisionism from Blake to Stevens』(Yale University)。 ブレイク。ワーズワース。シェリー。キーツ。テニスン。ブラウニング。 イェイツ。エマソン・ホイットマン。ウォレス・スティーブンズ。 10人の「強力な詩人」が、いかに「先行する詩人」と格闘したかを、 それぞれに章を設けて詳細に論じている。 オカルトチックな勢いのある激しい文体。 決して読みやすくはないが、引き込む力がある。 - 裏表紙にこんな推薦文がある。 "Bloom is the best and rarest of critics: he makes explicit the implicit." James R. Kincaid, Victorian Poetry 「明白とされていたことを、含蓄にとんだそれへと変貌させる」とも、 「わかりやすいことを、敢えてわかりにくく書く」とも読める。 - 詩と抑圧、詩と反-抑圧、遅来性(belatedness) 8/12 ハロルド・ブルーム(高市順一郎 訳)『アゴーン《逆構築批評》の超克』(昌文社)を読む。 文体と思想に慣れてきたこともあり、興味深く読み込むことができた。 全16章のうち、10章分の訳である。 原書→訳書:「A Prelude to Gnosis→1」、「1→2」、「2→3」、「3→4」、 「4→5」、「5→6」、「6→7」、「7→8」、「9→9」、「15→10」。 つまり、割愛された章は、「8」「10」「11」「12」「13」「14」である。 - 「ファンタジー」というジャンルの抱える不安をかなり詳細に論じた8章には、 『The Flight to Lucifer: A Gnostic Fantasy』の元ネタが、 デイヴィッド・リンゼイ『アルクトゥールスへの旅』(David Lindsay "A Voyage to Arcturus") であることなども、書かれている。 他にも、American Jewry を分析している14章など、削るにはもったいない章ばかりである。 - フロイドには「本当の」読み方とか「正しい」読み方などはないわけで、それはフロイドが非常に強い作家であり、あらゆる可能的な解釈法を内包しているからである。(128) - 能動的な読みをするということは、フィクションを受け入れると同時に一つのフィクションを作り出すことであり、われわれが「批評」と呼ぶ能動的な読み、すなわち意味を決定し、逆にどんな意味が決定されるかを見きわめようとする企ては、つねに非常に大きなフィクションの要素を帯びている。(中略)「読み」は自己習得的なプロセスであり、創意性に至る突破口のはずである。非常に「常識派的」な、あるいは自分をナイーヴ派と決め込んでいる極く繊細な批評家でも、暗黙のところで、みんな詩的な模型や哲学的なモデルに依拠し、プラトン的なモデルのように意図上、反詩的に見えても実際は詩的な範型に頼っていることは、明白なのだ。(266) - アゴーン、アゴン=知的超換闘争、修正主義の理論に向けて Harold Bloom "Agon : Towards a Theory of Revisionism" 8/15 ハロルド・ブルーム(山形和美 訳)『聖なる真理の破壊 旧約から現代にいたる文学と信』(法政大学出版局)。 英詩が中心だったが、今回は世界文学を総括している。 J記者(旧約聖書)、ホメロス、ウェルギリウス、ダンテ、チョーサー、 シェイクスピア、ミルトン、フロイト、カフカ、ベケット。 錚々たる顔ぶれである。 不安を天才たちはいかに乗り越えてきたのか、が詳述されている。 ブルームを理解するには、『アゴーン』と本作を読めば、十分だったのかもしれない。 - もっとも偉大な小説家たちのうち著しい数のものが、ショーペンハウアーを自分たちの気性に合う程度以上の思想家だと思ってきている。ここで私たちは、ツルゲーネフ、トルストイ、ゾラ、ハーディ、コンラッド、トーマス・マン、そしてプルーストのことさえも考える。これら七人の作家たちは小説を書くという行為だけを共通項として持っているので、私たちは、真にぞっとするようなショーペンハウアーの体系が小説家の仕事の手助けをするのではないかと思うのである。これは、ショーペンハウアーの知的・霊的説得力を否定することにはならない。ワーグナー・ニーチェ、ヴィトゲンシュタイン、そしてフロイト(フロイトは自身否定してはいるが)にかくも深く影響を与えた哲学者が、物語作家や物語行為に便利な手助けをするものとしてだけみなされうるとはほとんど考えられない。それにもかかわらず、ショーペンハウアーがたしかに虚構行為の芸術に刺激を与えたことは明らかではあるが、しかしそれは何故なのだろうか。『意志と表象としての世界』を虚構作品として読むことができないことは確かである。これを虚構作品として耐えることのできる人が、果たしているのだろうか。(273) - Harold Bloom "Ruin the Sacred Truths : Poetry and Belief from the Bible to the Present" 8/16 Harold Bloom『The Flight to Lucifer』(Vintage Books)を読む。 ブルームが書いたファンタジー。 異世界とか、塔とか、洪水とか、そんな話。 部分部分で楽しめる会話はある。 だが、全体としてレベルはそんなに高くない。 よく言えば、不思議な魅力がある小説。 悪く言えば、何がなんだかわからない小説。 - ルシフェールへの飛翔 新智的ファンタジー、ルシファーへの飛翔 グノーシス・ファンタジー 8/17 W.J.ベイト(小黒和子 訳)『古典主義からロマン主義へ 18世紀英国の文学的風土』(みすず書房)。 「影響の不安」の元ネタである『過去の重荷と英国詩人』を書いたベイト唯一の邦訳。 イギリス文学における、美の判断基準(=テイスト)の変容を辿る。 イギリス・ロマン主義が、過度の情緒主義や相対主義を免れることができたのは、 経験と直感を結びつけたから。という主張。 - キーツの造語「ネガティヴ・ケイパビリティ(Negative Capability、受容能力)」というのが興味深かった (W.J.Bateには『Negative Capability, The Intuitive Approach in keats』という著作がある。) 以下、引用。 (シェイクスピア)は「他者の体のなかに自分の魂を投げ込み、ただちにその人の感情にとりつかれ、その情熱をわがものとし、彼が置かれた状況のすべての機能と感覚に到達することができる」。このような言葉はシェイクスピアを「自己否定的許容力の人」と称したキーツの言葉や、次に見るハズリットの言を予想させるだろう。 彼は彼自身としては何ものでもなかった。彼は他者がそうであるもののすべて、あるいはそうなり得るもののすべてだったのである。 - Walter Jackson Bate "From Classic to Romantic : Premises of Taste in Eighteenth-Century England" 8/18 W.Jackson Bate『The Burden of the Past and the English Poet』(The Norton Library)。 昨日紹介した本にも言えることなのだが、ベイトの論調は穏やかで、激しさに欠ける。 偉大な先人が重荷・重圧だと感じるのなら、芸術家たちはそれをどう乗り越えてきたのか。 「大胆さによって」とか、「新しい分野を見つけることで」とか言われても、いまいちピンと来ない。 ベイトの主張を先鋭化させたブルームに軍配が上がる。 ブルームはベイトに「重荷」を感じなかったのかもしれない。 - We could go back to an almost forgotten Egyptian scribe of 2000 B.C.(Khakheperresenb), who inherited in his literally legacy no Homer, Sophocles, Dante, Shakespeare, Milton, Goethe, or Dickens - no formidable variety of literary genres available in thousands of libraries - yet who still left the poignant epigram : "Would I had phrases that are not known, utterances that are strange, in new language that has not been used, free from repetition, not an utterance which has grown stale, which men of old have spoken."(3) - 表紙に使用されているヘンリー・フューズリ(フュズリ)(Henry Fuseli) による絵画 "The artist Moved by the Grandeur Of Ancient Ruins" は、主題によくマッチしている。 - ウォルター・ジャクソン・ベイト『過去の重荷と英国詩人/過去の重圧と英国詩人』 8/19 J.ヒリス・ミラー(玉井あきら 他訳)『小説と反復―七つのイギリス小説』(英宝社)を読む。 この本を読み始めたとき、あまりの衝撃に体が震えた。 内容もさることながら、その華麗な文体に魅せられたのである。 「反復」だけでなく、「受け取りなおし」の意味もある「repetition」が、 テキストを過剰なまでに豊かにする。 壮大なマジックを鑑賞した時のような爽快感が、本書にはある。 - 『嵐が丘』の解釈には数々の困難があり、またその示すことのできる(そして実際の)解釈は並外れて多種多様であるということは、読者が自分の希望する意味ならどんな意味ならどんな意味でも自由にこの小説に付与してよい、ということではない。明白な単一の意味あるいは意味作用の原理が特定不可能であるという事実は、さまざまな意味のすべてが等しく妥当だということを意味しはしない。(71) - 作品の言葉に促されて、読者はテクストのなかの反復される要素の連鎖の外部に、ある単一の解釈原理あるいは根拠が存在するにちがいない、と確信したくなる。そこで、その確信に動かされて、原理なるものを探索しようとすると、何らかの形で結局は挫折に終わることを、それぞれの位相から、これらの四つの作品は明らかにしている。(203) - 小説の意味が不確定なのは、与えられることがあまりにも少ないからではなく、読者があまりに多くのものを与えられるからである。(304) - Joseph Hillis Miller "Fiction and Repetition: Seven English Novels" 虚構と反復 イギリス七小説 8/22 ジョウゼフ・ヒリス・ミラー(伊藤誓・大島由紀夫 訳)『読むことの倫理』(法政大学出版局)を読む。 読むこと、それはキェルケゴールにおける神のようである。 読むとは、永遠に読み解けないテキストに、ひたすら対峙しつづけることである。 いかようにも読めるからこそ、人はその読みに対して責任を負わなければならない。 「何でもありだから、無責任でいいのだ」という幼稚な論理は通用しない。 この種の議論にありがちなナルチシズムを辛うじて免れているのは、 そこに責任(倫理)という問題が発生しているからである。 - 我々の夢とは、読解不可能性の苦痛のなかで、あるいはむしろ、言説の放浪と逸脱のさなかで、偶然正しい読みに巡り会うのかどうか知るすべもない苦痛のなかで、さらに学習を重ねること以外の何ものでもない。しかしながら一つ一つの読解は、「不確定な」ことでも、「虚無的な」ことでも、また勝手気ままに戯れることでも、でたらめに選択することでも決してなく、厳密に言えば倫理的なことなのだ。つまり、絶対的欲求への応答として、非情な宿命により生じなければならないという意味で、そしてまた、読者が、個人的、社会的、政治的世界における、読解とその結果に責任を持たなければならないという意味で、読解は倫理的なのである。(80) - 読解の倫理学 Joseph Hillis Miller "The Ethics of Reading" 8/23 J・ヒリス・ミラー『アリアドネの糸--物語の線 (ストーリーライン) 』(英宝社)を読む。 「アリアドネ・プロジェクト」四部作の第一作である。 物語は、一本の糸のようなストレートなものではなく、 迷宮に張り巡らされた複雑なもつれ合う糸のようなものだと、ミラーは説く。 - 物語の糸(線状性)を9つに分類し、以下の著作でそれらを詳述する。 (1)物としての本 (2)語り・プロット(4『物語を読む』) (3)キャラクター(1『アリアドネの糸』) (4)人物間関係(1『アリアドネの糸』) (5)経済 (6)地図(3『批評の地勢図』) (7)挿絵(2『イラストレーション』) (8)比喩(1『アリアドネの糸』) (9)写実主義 - 「第1章 線」「第2章 キャラクター」「第3章 アナストモーシス」「第4章 フィギュア」のうち、 1・4章が特に興味深い。 絡まるのは「糸」だけではない。 意味の不決定性を巡り、物語の「意図」もまた、 どうしようもないくらいに混迷しているのだ。 - Joseph Hillis Miller "Ariadne's Thread : Story Lines" 吉田幸子・室町小百合 監訳/太田純・兼中裕美・杉村寛子・林千恵子 訳 物語線/ストリーライン 8/24 J・ヒリス・ミラー(尾崎彰宏・加藤雅之 訳)『イラストレーション』(法政大学出版会)を読む。 「アリアドネ・プロジェクト」四部作の第二弾。 前半はコンピュータが与えた学問への影響についてと、 カルチュラル・スタディーズ(文化研究)の抱えるアポリアについて。 後半は、アリアドネ・プロジェクトの「7.挿絵」について。 コンピュータについて予見したことは、かなり当てはまっていて驚かされる。 が、プロジェクトの一部として読むと、それほど面白くない。 それにしても、口絵のJ.M.W.ターナーは、光を本当にうまく表現する。 - 「われわれの」自由は、読む責任、つまりあらゆる種類の記号を読み、それらを批判したりする責任やそれらを現実において再発現させる責任に結局のところもう一度戻るのである。この責任は政治的でかつ倫理的なものである。その責任は、先例に責任を転嫁することもなく、権威的な読み方にも訴えず、その処理をめぐってテキストや作品--読みの行為においてどんなこともおこりうるのだが--を責めることもない。公正な裁判官が、法に忠実でありながらもそれを再創造するように、文化評論家は、その研究する文化をそっくり受け入れながらもそれを新たなものとして措定していかねばならないし、このように措定することがまた批評家を創りあげる。(77) - 差異の確認によって、作品の力は読解を通して、新たな形で今日の文化状況へと送りだすことが可能となる。この新たな形に対して、読者-批評家は責任を負わねばならない。たとえ批評家には作品を忠実に再現する義務がありそれをおこなっただけにしても、その責を作品に帰すことはできない。批評家は読解がもつ何かを始める力の一切を引き受けなければならない。これは読解が与える知識に対するというよりは、それが読み返されるときに読解がおこなうことに対する責任の引き受け方である。(192) - 図解 芸術と文化考 J.Hillis Miller "Illustration" 8/25 J. ヒリス・ミラー(森田孟 訳)『批評の地勢図』(法政大学出版局)を読む。 「アリアドネ・プロジェクト」四部作の第三弾。 今作は「6.トポグラフィー」について。 「地図」よりも、「ベクトル」に近い気がする。 小説を読んでいると、どうしても登場人物に目が行きがちだが、 本書は、その認識をひっくり返す。 「クラインの壺」の地と図をはじめて、反転した時のような爽快感がある。 小説だけでなく、哲学や詩にも言及されている。 - 文学は、拷問によって全てを話させられるかも知れない囚人とは違う。それは、鉱物の秘密がさらけ出される山のようなものではない。文学は、永遠にその秘密を保つのであり、その秘密が文学の本質を示す特徴なのである。もしも一方で、その秘密が文学について何か本質的を示すことを我々に語ってくれるなら、文学は他方で、我々にその秘密について本質を示す何かを語るであろう。それは我々に、本当に秘密は、もしそのようなものがそれがあるとしてだが、どこかに、それが原理上そこからもぎ取られ取り戻され覆いを剥がれるような或る場所に隠されているのではないことを告げる。本当の秘密は、全て表面に在る。こういう表在性は、何らかの、題材によるにせよ言語によるにせよ、解釈上の手続きに拠ることではその奥へと突き破られるわけにはいかない。文学の本文(テクスト)(そして文学だと受け取られそうな本文ならいかなるものでも)は、それが述べていることを述べているのだ。それは、それが述べる以上のことを述べさせられるわけには行かない。(409) - J.Hillis Miller "Topographies" 8/26 J.Hillis Millew『Reading Narratives』(University of Oklahoma Press)。 「アリアドネ・プロジェクト」四部作の掉尾を飾る評論。 今回は「2.語り・プロット」について、である。 物語には「始まり、中間、終わり」があると、アリストテレス『詩学』が規定しているが、 そうではないことを「オイディプス王」などを題材に立証していく。 始まる前から物語はすでに始まっているし、終わった後も物語は終わらないのである。 この評論の吸引力はすさまじい。 傑作である。 注の中に、「アリアドネ・プロジェクト」に言及されている部分があったので引用。 The nine modes of linear terminology (which correspond to nine ways of analyzing narratives) are: (1)the physical aspects of letters and books; (2) narrative sequence or diegesis (explored in this present book); (3)character; (4)interpersonal relations; (5)economics; (6)topography; (7)illustrations; (8)figurative language; (9)mimesis (250) - 驚いたのは、本文中にあった次の一節である。 This might even lead to the recognition of a tenth way to analyze narrative: a way that would ground the meaning of a given work on its relation to previous works, that is, on the various anxieties and sublimities of influence.(181) ミラーは、ブルームやハートマンにほとんど触れない。 でも、やはり意識はしていたんだな、とわかる部分である。 - 以下の文章で、アリアドネ・プロジェクトは閉じられる。 I began this book with the assertion that canonical literary works in the Western tradition are stranger than we have been led to expect. All my examples come from that tradition. How it may be with narratives in other traditions, this book does not pretend to judge. I claim, however, to have shown that both in theory and in practice the assumptions about narrative continuity and homogeneity that are important ideologemes in our culture from Aristotle's Poetics to the present do not hold up against a reading of a wide variety of examples. The examples I have read, from Sophocles's Oedipus the King down to Gaskell's Cranford and Peter's "Apollo in Picardy," are, so it seems, strangers within the homeland of that tradition. Or perhaps we should conclude that the patrimony of a homogeneous Western tradition, unambiguous support of the values of a unified culture, does not exist. It does not exist, that is, except perhaps as the inextinguishable nostalgia for a lost and forever unattainable homeland. (...) It would be best, however, to abandon the false lure of that nostalgia and to find ways to live within the ironic openness our tradition's stories engender. That task is on feature of the call to help create the democracy to come. Such democracy would do without the hierarchies affirmed by what I have called the phallogocentric way of thinking and storytelling. The call from tha always future democracy should have more force than the one coming from the vague and forlorn nostalgia Arnold names.(229) - ジョウセフ・ヒリス・ミラー『物語を読む』(未訳) 8/29 並木勝啓『妄想紳士 淑女のまわりで空まわりいわばメリーゴーランド』(新風舎)。 齋藤孝のワークショップで生まれた小説だけあって、リズムよく読める。 意識の流れとか、内的独白とか、言えなくもない。 かといって、この本を通して何かを感じたかというと、そうでもない。 ぐるぐる回る喜劇的な小説。 8/30 E.ハンチントン(間崎万里 訳)『気候と文明』(岩波文庫)を読む。 気候が文明に与える影響を考察する。 地図やデータが満載で、読んでいて楽しい。 ただ、得られる結論が当たり前すぎる。 (ちょうどいい温度だと、人々が活動的になる など) 論ずる順番を、「現代→古代」ではなく、「古代→現代」にすれば、 文明が生まれ人々が世界に広がっていく様子を、 もっとドラマティックに描き出せたのではないだろうか。 - Ellsworth Huntington "Civilization and climate" 8/31 赤坂真理『肉体と読書』(講談社)を読む。 方々に発表したものを集めたファースト・コラム集。 可もなく不可もなく、普通に読める。 ただ、あまりにも「階級」を意識しすぎており、 そのせいで弱者のルサンチマンが噴出してしまっているのは、見苦しかった。 天然でやっているのか、それとも確信犯的にやっているのか? 見抜けないところが、赤坂真理らしいのだが。 9/1 竹内薫『世界が変わる現代物理学』(ちくま新書)を読む。 簡単な数式しか使用せずに、現代物理学を説明することで、 読者の認識に変化を及ぼそうとしている。 だが、どうだろう。 広く浅く説明しているせいで、ほとんど心が動かないのである。 また、突然挿入されている意味不明な小説には、呆れるしかない。 小波(さざなみ)を幾ら重ねてもダメである。 大きな津波でなければ、人の世界観を変えることはできない。 9/2 ミュラー・リヤー(木下史郎 訳)『婚姻の諸形式』(岩波文庫)を読む。 婚姻形式をカタログのように並べたもの。 「単一婚・単婚・一夫一妻」「多妻婚・一夫多妻/多夫婚・一妻多夫」「集団婚」「乱婚(集団内での束縛のない性的交際)」など。 変わったものとして、「副夫婚(真正の夫のほかに、第二の者が副夫として婚姻に加わる)」「期間婚」「試験婚」「対婚・必要のための単一婚(多妻婚が容認されているが、止むなき必要のために一人の夫人で満足している状態)」などが紹介されている。 離婚(婚姻の持続)について語っているのも面白い。 結婚が相対的な視点で論じられており、評価できる。 - 「自然の婚姻形式」というがごとき表現は誤りである。こんな言い方をすれば、万世を通じて特に正当なあるいは正規な婚姻形式があり、その他の形式はすべて錯誤と見なすべきものででもあるかのようである。この解釈は正しくない。我々が研究を進めていくうちに次の事が明らかになるであろう。すなわち、婚姻形式は文化発展の推移していくと共に変わり、その時代の文化的、特に経済的状態に最も適応した婚姻形式が、その時々で「正規の、あるいは自然の」形式なのである。(74、一部仮名遣い変更) 9/5 ルネ・テヴナン『伝説の国』(文庫クセジュ558)を読む。 アトランティスなど、西洋の伝説に登場する国々を解説している。 しかし、どうだろう? 「ロマン」を「冷静」に語るという行為は、大きな矛盾を孕んでいる。 学研の「ムー」なみにブチきれた方が、「ロマン」としては楽しめる。 9/6 加藤尚武『形の哲学 見ることのテマトロジー』(中央公論社)を読む。 モリヌークス問題を中心に、「見る」とはどういうことなのかを論じていく。 (G.バークリーの論理に則って、話は進行する。) 何か嫌なことでもされたのだろうか、私憤さえ感じる現象学批判は妙に笑える。 「恋愛小説を読みながら」というのが売りの本なのだが、 「あやめ」と「かきつばた」の双子が登場するチープな物語は、本当に必要だったのだろうか? - かなり昔に読んだ『ジョーク哲学史』(河出書房新社)はかなり面白かったし、 ジョークと哲学がうまく解け合わさっていたのだが。 9/7 多木浩二『視線の政治学 欲望からの批評T GS file』(冬樹社)を読む。 分量が分量だけに、語られている中身もそれほど濃いとは言えない。 - ちょっと前にも読んだ『眼の隠喩 視線の現象学(新版)』(青土社)の方が 包括的な内容で、読みやすい文体になっている。 視線が権力と結びつくという、フーコー(ベンサム)の 「Panopticon(パノプティコン、一望監視施設、一望監視塔)」分析をはじめとし、 「まなざし」について魅力的に論じている。 「趣味のユートピア―カタログの両義性」は、ため息が出るほどすばらしかった。 - 飯島洋一は、多木から相当な影響を受けているのだろう。 文体がかなり似ていることに気づいた。 9/8 苧阪良二(おさかりょうじ)『地平の月はなぜ大きいか 心理学的空間論』(講談社ブルーバックス)を読む。 屈折説、瞳孔散大説、水晶体扁平説、比較説、対比説、視線説、地平視角説、周辺視線説、 介在説、遠景説、天空形状説など、多くの説を総覧的に紹介している。 月の錯視(Moon Illusion)についてのまとまった研究書は、(おそらく)本書のほかにない。 だから、カタログのような内容になってしまうのは、仕方のないことである。 古代から人々を悩ませてきた難問なのだから、もっと多くの研究者に取り組んでもらいたい。 9/9 けいはんな社会的知能発生学研究会『知能の謎--認知発達ロボティクスの挑戦』(講談社ブルーバックス)を読む。 最先端のロボット研究者たちが、著者として名を連ねていることもあり、 かなり突っ込んだ内容の議論を期待していた。 しかし実際には、「フレーム問題」や「記号接地問題」など、 これまでさんざん議論されてきたことばかりが書かれていた。 無理やり弁護するならば、本書で誰かが書いていたように、 「理論」ではなく「実践」で検証していることに意味があるのだろう。 - 瀬名秀明、浅田稔、銅谷賢治、谷淳、茂木健一郎、開一夫、中島秀之、 石黒浩、國吉康夫、柴田智広 9/12 Yoshi『もっと生きたい…』(スターツ出版)を読む。 天才プログラマの作った人工知能プログラムが暴走、 体の断片(パーツ)を集めて「優れた人間」になろうとする話。 「人類浄化」「イエス」「ノアの箱舟」「多重人格」。 プロットの稚拙さは問題にならない。 正確に言えば、稚拙さ「だけ」では問題にならない。 Yoshiには、語彙力と文法力が圧倒的に不足しているのだ。 手垢にまみれた表現で感動させることができるのは、 手垢にまみれた表現に触れたことのない人だけである。 - Yoshiは文章を映像化せずに書いている。 「目玉焼き」を食べている部下(失敗作)が食べているのは、 自分の「目玉」だったというシーンがある。 いやいや、待ってくれ。 彼らが生きているのは、現実の世界であって、言葉のそれではない。 「目玉焼き(卵)」と、「目玉」を間違えるというのは、映像化してみれば、 明らかにおかしい。 - テーマの面でも疑問を感じた。 「愛とは、自分のことよりも相手を思う気持ちよ!」(176) この定義も、あまりにもあんまりなのだが、まぁ、それは置いておこう。 連続殺人事件は、「愛」をインストールすることで解決する。 もし「愛」のことを少しでも「まじめに」考えたことがあるのなら、 「インストール」などというデジタルな領域に、「愛」を押し込むことなどできないはずである。 文学や映画などで描かれるロボットがどのように「愛」を学んでいるのか、 著者は知らないのだろうか。 - 15ページにある誤字。 「いえ、おさんが使っていた携帯の…」 思わず「おっさん」と読んでしまった自分に笑った。 もうここまできたら、それだけで、「よし」としよう。 9/13 Yoshi『恋バナ 青』『恋バナ 赤』(スターツ出版)を読む。 認めたくないが、告白しよう。 不覚にも私は、この2冊の感動してしまったのである。 文章力も構成力も、まぁ相変わらずなのだが、 短編であることで、いつもの陳腐さが薄まっているように思える。 これなら、ぎりぎり「本」として読める。 ただ、「ぎりぎり」であるという部分を強調しておきたい。 - 微妙な誤字。 「すると、母親のから話しかけてくれた。」(赤 131) 「から話(ばなし)仕掛けてくれた」ではない。「母親の方から」である。 - いつものことだが、この著者紹介は、どうなんだろう? 著者 Yoshi 「誰もが楽しめて共感できる物語」 ダブルミリオン達成! Yoshiがなぜ、ここまで支持されるのか。そのワケはYoshiの言葉で分かる。「分かりやすく表現したい」「読者の身近な物語を書きたい」「ダイレクトに心に伝えたい」---これからも分かるように、著者Yoshiは、誰もが楽しめて共感できる物語を作り続けていると言える。また、Yoshiの「伝えたいことを書く」という一貫した姿勢が読む人の心を捉えて離さないのだろう。 - なんとも贅肉の多い文章である。取っても意味が通じる。 - ダブルミリオン達成! Yoshiがなぜ、ここまで支持されるのか。「分かりやすく表現したい」「読者の身近な物語を書きたい」「ダイレクトに心に伝えたい」著者Yoshiは、誰もが楽しめて共感できる物語を作り続けている。Yoshiの「伝えたいことを書く」という一貫した姿勢が読む人の心を捉えて離さないのだろう。 9/14 篠田一士(はじめ)『二十世紀の十大小説』(新潮文庫)。 すぐれた評論は、やきもきさせる。 紹介されている本が読みたくなる。 いてもたってもいられなくなる。 本を読む楽しさというのは、こういうところにあるのだろう。 - それぞれの作品の偉大さだけでなく、 作品同士のつながりも解明しているところがこの本の肝である。 - 十大小説は以下の通り。(著者は確信犯的に、超長編を揃えている) プルースト『失われた時を求めて』、ボルヘス『伝奇集』、カフカ『城』、芽盾『子夜』、 ドス・パソス『USA』、フォークナー『アブロム、アブサロム!』、ガルシア・マルケス『百年の孤独』、 ジョイス『ユリシーズ』、ムジールの『特性のない男』、島崎藤村『夜明け前』。 9/15 エーリッヒ・アウエルバッハ(篠田一士・川村二郎 訳)『ミメーシス ヨーロッパ文学における現実描写(上)(下)』(ちくま学芸文庫)を読む。 文体美学の分析批評方法を駆使しながら現実模写・描写―、ミメーシス(Mimesis)を追求する。 かなり大雑把に言い換えると、 「この文章には、よく読んでみるとおかしいところがある。実はこんな理由が…」 というように論理を進めていくことである。 細部を突き詰めていくことでその時代全体を描き出してしまう、 アクロバティックな力技にただただ圧巻される。 取り上げられる作家(作品)の数が、とにかくすさまじい。 ホメーロス、ペトロニウス、アンミアヌス・マルケリヌス、トゥールのグレゴリウス、ロランの歌、クレティアン・ド・トロワ、12世紀のクリスマス劇、ダンテ、ボッカチオ、アントワーヌ・ラ・サール、ラブレー、モンテーニュ、シェイクスピア、セルバンテス、モリエール、アベ・プレヴォ、ヴォルテール、サン・シモン、シラー、スタンダール、ゴンクール兄弟、ゾラ、ヴァージニア・ウルフ、プルースト (ロシア文学がすっぽりと抜けているのは、アウエルバッハがロシア語を(批評できるほど十分に)読めないからである) - 一人の人間が、これだけ広範囲にわたる文学を批評できる。 知の巨人とは、こういう人のことを言うのだろう。 - Erich Auerbach "Dargestellte Wirklichkeit in der abendlandischen Literature" 9/16 M・エドマンドソン(浅野敏夫 訳)『反抗する文学:プラトンからデリダまでの哲学を敵として』(叢書ウニベルシタス682)を読む。 一ページ目の第一文は、強烈である。 「文学なんぞなくなってしまえ。そういう願いから、西欧の文学批評は始まった。」 文学は教えられるのか、というアポリアに触れてながら、 人間の深奥に潜む絶対化への欲求を、一つずつ丁寧に暴きだしていく。 「実存主義の体系化」が語義矛盾であるように、 こういう批判だけの本が体系性を持てないのは仕方のないことなのかもしれない。 - この本をわたしは、哲学者たちと詩人たちとの軋轢をひとわたり見てみることで書き始め、プラトンの考え方がいろいろな物的・概念的展開によって近ごろ前面に押し出されてきて、現在、英米系の文学研究においてかなり目立った存在になっているという議論を、この本の初めに述べた。いろいろな意味で今わたしたちが文学理論と呼んでいるものは、プラトンが詩人に対して仕掛けた論争に端を発している。本書は理論それ自体を排除するという議論はしなかった。そうではなく、わたしのこの本が主張しているのは、文学批評の機能は、理論をすぐれたテクストに応用して、それで終わりにするのではなく、当該のテクストのために返答を斟酌するというか、事実上返答を出すこと、つまりリーヴィスを念頭において、「そうですね、しかし」と言うことでもある、ということであった。人は、理論を排除しようとはしない。逆に、詩に挑むのに都合のいい理論が、しかるべき所にいくつもあってほしいと人は願っている。だからこの本では、理論が喚起できるうちの非常に印象的なものだとわたしが考えているいくつかの批評に逆らう場所に、重要な文学作品をわたしは置いてみた。(341) - Mark Edmundson "Literature Against Philosophy, Plato to Derrida : A Defence of Poetry" 9/20 ソルジェニーツィンの評論を読む。 ・ソルジェニーツィン(江川卓 訳)『ソルジェニーツィン・アルバム』(新潮社)、 ・A.ソルジェニーツィン(染谷茂 訳)『自由への警告』(新潮社)、 ・Aleksandr Solzhenitsyn『The Russian Question at the End of the Twentieth Century : Toward the End of the Twentieth Century 』(FSG)、 ・アレクサンドル・ソルジェニーツィン(井桁貞義・上野理恵・坂庭淳史 訳)『廃墟の中のロシア』(草思社) の4冊である。 以前に読んだ、 ・江川卓 訳『クレムリンへの手紙、嘘によらず生きよ』(新潮社) ・木村浩 訳『甦れ、わがロシアよ : 私なりの改革への提言』(日本放送出版協会) ・RFラジオ日本編 『日本よ何処へ行く : ソルジェニーツィン滞日全記録』(原書房)、 ・Aleksandr Isaevich Solzhenitsyn『The Mortal Danger : Misconceptions About Soviet Rusia and Its Threat to America』 にも言えることなのだが、小説家ではないソルジェニーツィンを批評するのは難しい。 批評するだけの素地が、ロシアにはまだないのである。 他ならぬソルジェニーツィンが、ロシアの歴史を「作った」。 文字通り命を賭けた働きかけがあったからこそ、ロシアは変わったのである。 個よりも国を愛した、本当の愛国主義者がここにいる。 - 愛国主義とは、祖国への一貫した揺るぎない愛情であり、それは、祖国の犠牲となり不幸を分かち合う覚悟を伴うものである。とはいえ、必要以上に迎合したり、祖国の不当な主張を支持したりしてはならず、祖国の持つ欠点や犯した罪を率直に認め、進んで悔い改めなければならない(『廃墟の中のロシア』196) - さまざまな「ショック療法」に揺さぶられているロシアにおいて特に顕著なことだが、「自由」が称揚されることで人間としての義務が完全に忘れ去られ、われわれはあらゆる責任からも自由になってしまっている。しかし本来人間とは、自己の責任を絶えず意識しているかぎりにおいて存在していられるはずなのだ。(『廃墟の中のロシア』197) - さて、『自由への警告』には、以下のようなリストがある。 イワン・デニーソヴィチの一日 マトリョーナの家 ガン病棟(全2冊) 煉獄のなかで(全2冊) 一九一八年八月(全2冊) クレムリンへの手紙 収容所群島(全6冊・既刊4冊) 仔牛が樫の木に角突いた チューリッヒのレーニン 自由への警告 ソルジェニーツィン・アルバム 東プロシャの夜 近刊 - 『東プロシャの夜』(詩集)は結局、刊行(日本語訳)されなかった。 幸い、英訳された『Prussian Nights』がある。 かなり昔なので、ほとんど忘れてしまったが、 随分テンションの高い詩だったと記憶している。 9/21 木嶋恭一『ドラマ理論への招待--多主体複雑系モデルの新展開』(オーム社)を読む。 ゲーム理論は、「プレイヤーが常に合理的な判断をする」と仮定する。 ドラマ理論は、非合理性、感情、再フレーム化、約束、脅し、立場(ポジション)など、 さらに踏み込んで人間臭い要素まで、考慮に入れる。 入門書としてはわかりやすい。(ドラマ理論を説明した本は、きわめて少ない) だが、読みものとしてはまったく面白くない。 かなり堅苦しい学術書だからそれでいいのだが、 ドラマ理論だけになぜかドラマティックな記述を期待してしまった。 - 非協力的ゲーム理論、メタゲーム、ハイパーゲーム分析、ソフトゲーム理論 9/22 中島河太郎 編『ルヴェル傑作集』(創土社)を読む。 大正から昭和初期にかけて「新青年」などに掲載された短編を集めたもので、 「幻想」「集金掛り」「蕩児ミロン」「家出」あたりが最高に面白い。 悪意(ユーモア・エスプリ)が全編に満ち溢れており、 その怪奇的な作風から、フランスのポーと呼ばれている。 - 最近、田中早苗 訳の『野鳥』(創元推理文庫)が出版された。 Maurice Level 9/26 乾くるみを読む。 - ●『林真紅郎と五つの謎』(光文社カッパ・ノベルス) この著者にしては珍しい、可もなく不可もない短編集。 事件が「シンクロする」というのは、特に新しい概念ではない。 「言い方」だけである。 - ●『イニシエーション・ラブ』(原書房) まったくミステリーらしくないミステリー。 ネタバレした状態で読んだのだが、それでも十分に楽しめる。 物語の前半部分は、あざといくらいに伏線が張ってある。 ラストで、純愛小説がミステリーに変貌する瞬間は爽快。 傑作。 - ●『リピート』(文藝春秋) 主人公が「考えすぎている」せいで、だらだらした印象を受ける。 設定は面白いのだが、結末が予想できてきまった。 ケン・グリムウッド『リプレイ』はかなりつまらなかったので、 それを下敷きにしたのなら、面白くはならないだろう。 (『ディープ・ブルー』も退屈だった) - 以前に読んだ『Jの神話』『匣の中』『塔の断章』(講談社ノベルス・講談社文庫)の 3つは、あまりピンと来なかったが、 『マリオネット症候群』(徳間デュアル文庫)は面白かった。 乾くるみは「最初から○○だった」みたいなオチ(叙述トリック)が多い気がする。 ちなみに、乾くるみは男である。 9/27 中島望『地獄変』(講談社ノベルス)、『宇宙捕鯨船バッカス』(ハルキノベルス)を読む。 - 劇画的な格闘を書きたかったのだろう、『地獄変』には、アクションしかない。 集中力がなくなるまでは、楽しむことができた。 - 『宇宙捕鯨船バッカス』は、ゆったりとしたペースで描かれている。 シリーズ化を狙っているのかもしれない。 「宇宙の鯨」なんか出さないで、「普通の鯨」でよかったのでは。 - プロットに対する気遣いが、今回の2作には、希薄である。 成長しつづける稀有な作家だと評価していただけに、とても残念。 9/28 秋月涼介『紅玉の火蜥蜴』(講談社ノベルス)を読む。 なぜだかわからないのだが、リーダビリティは妙に高い。 地に足の付いていない言葉が、空転しまくっているが、 読み進めていくうちに、いつの間にか気にならなくなった。 結末などどうでもいいけど、読んでいて心地いい本。 - ちなみに、第20回メフィスト賞受賞作『月長石の魔犬』 と 密室本『迷宮学事件』はどうしようもなくつまらなかった。 9/29 石黒耀『震災列島』(講談社)を読む。 発売直後に新潟中越地震が起き、一時期入手困難になっていたが、どうにか初版本をゲット。 最大の失敗は、「地震を利用して、娘の復讐をする」という意味不明な設定を付け加えたことにある。 (そんな「おまけ」を入れなくても、作者は「災害」だけで傑作を書く腕を持っている) 地震後に本書が書店から消えたのは、この「よくわからない」部分のせいだろう。 被災者に対してあまりにもデリカシーのない描写である。 以上の瑕疵があるにせよ、リーダビリティはかなり高い。 一気に読める。 9/30 ジョン・オファーレル(高橋愛 訳)『パパのさがしもの』(PHP研究所)を読む。 帯には、男性版「ブリジット・ジョーンズの日記」とある。 仕事場で遊びほうけるCMソング・ライターが、危機を乗り越えて家庭の大切さを知るまでを描く。 ニック・ホーンビィを髣髴させるような作風で、やさしさに満ちた眼差しが読んでいて心地よい。 イギリスでベストセラーになったらしいが、日本ではさっぱりのようである。 ちなみに、小沢真理によって漫画化されている。 - 本当に好きに生きられる時間はごくごく限られているのに、若い頃はそれが分からなかった。子供のときは親の言うことを聞かなくてはいけないし、大人になると、今度は子供の言うことを聞かなくてはいけないのだ。(52) - 「ウォークマンを買えば解決するわけじゃないのよ、マイケル。早押しクイズじゃないんだから、すぐに答えが出るってもんじゃないの。私は退屈しない方法を教えてほしいんじゃない。たまには私と一緒にいて、一緒に退屈してほしいって言ってるのよ! |