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1/5 丸山健二『争いの樹の下で(上)(下)』(新潮文庫)を再読。 今まで読んだあらゆる小説の中で最も優れた小説。 哲学的なものと文学的なものが、渾然一体となり読むものの胸を打つ。 初読時にはそれほど気がつかなかったのだが、 「おまえ」と「争いの樹」と「猿の詩集」それぞれの思想のずれが この小説を突き動かすダイナミズムとなっている。 1/6 斉藤とも子(ききて)『マイブック 青春の曲がり角で出会った忘れえぬ本』(講談社) 1978年4月から1980年1月までNHK教育テレビで放送された、 『若い広場』の一コーナーである「マイブック」を書籍化したもの。 田村隆一、畑正憲、野坂昭如、中上健次、井上ひさし、水上勉、寺山修二、丸山健二、 遠藤周作、石原慎太郎、長田弘、安部公房といった豪華作家人が、 それぞれお気に入りの本を4冊紹介するというインタビュー集。 どれも個性的なチョイスで面白いのだが、ムツゴロウがT・マンを読むような文学少年だった事実と、 当時はまだマイナーだったガルシア・マルケスを高く評価した安部公房の慧眼に驚く。 1/10 高倉健『旅の途中で』(新潮社、新潮文庫)を読む。 飾らない言葉で、高倉健の日常が語られている。 また、丸山健二が「主演 高倉健」の『鉛のバラ』を書くきっかけとなった 「それが高倉健という男ではないのか」という文章が納められている。 タイミングがいいのか悪いのか、今月新潮文庫に入った。 映画「単騎、千里を走る。」の公開に合わせてだろう。 - その日その日をちまちまと、こすっからく、目先の欲に振りまわされて、弱くてだらしのない男たちが、「普通でいいんだよ」「自然に生きたいのさ」「等身大の生きざまがしたいんだ」などという小賢しい言葉の上であぐらをかいている。そのなかにあって彼は男でありつづけたいと願い、役者をしながらもその姿勢をくずそうとしない。それが高倉健ではないのか。(「それが高倉健という男ではないのか」83) 1/11 丸山健二(言葉、写真、作庭)『荒野の庭』(求龍堂)を読む。 濡れた花びらが陶酔を誘う、珠玉の写真集。 一人の人間が栽培し、撮影し、言葉を添えるという世界初の試み(らしい)。 あまりの美しさに絶句する。 ため息が漏れる。 輝ける最高の一瞬だけが、ここにある。 - 人は花に咲けと言う。花も人に咲けと言う。(ページ数不明) - - 丸山健二(言葉、写真、作庭)『花々の指紋 Fingermarks of Flowers』(求龍堂)。 丸山健二作家デビュー40周年記念作品。『荒野の庭』の続編。 前作の選から外れた写真なのだろうか、 写真のインパクトは若干おとなしめである。 - さて、人間はどうか知らないが、花々は間違いなく自己完成を目指して今を生きている。 だからこそ、一時的で有限な命ではないのだ。(ページ数不明) 1/12 丸山健二『生きるなんて』(朝日新聞社)を読む。 丸山健二作家デビュー40周年記念作品。 「丸山流辛口人生論ノート」とあり、 若者向けのエッセイ形式で「真の自立」を説いている。 言っていることに何一つ間違いはない。 問題は形式にある。 「噛み砕きすぎ」なのだ。 丸山文学に親しんだ者なら、ここに書いてあることは 「あたりまえのこと」であり、わざわざエッセンスだけを読む必要などないはずである。 テーマをどのように文学で豊かに表現するか。 丸山健二の真骨頂は文学にある。 - 現実を相手に闘うときに一番大切なことは、難易度を問題にしないということです。それは敗北を考慮に入れないということでもあるのです。そうすれば、ゆくゆくは現実世界における悪戦苦闘を無上の喜びとするタフな人間になれるでしょう。(51) 1/13 丸山健二『貝の帆 SAIL OF SHELL』(新潮社)を読む。 「丸山健二作家デビュー40周年記念作品」にふさわしい傑作。 精子と卵子が受精し、「魂」の憑依する所から物語は始まる。 「1日をきっかり2ページで描く」という形式は『千日の瑠璃』の、 魂が主人公に「おまえ」と話しかけるのは『争いの樹の下で』の手法である。 登場人物たちの緊張が高まり続ける中、ラストの4ページで赤子が誕生する。 (この日だけは、2ページではなく、4ページになる) この枠を突き抜けた「最後の4ページ」に、生命の持つ爆発力が込められている。 胎児が生まれるこの瞬間は、丸山文学の結晶である。 - ひたすら事が荒立つ状況を恐れ、保身の術に長けることばかりに心を煩わせ、人前をつくろい、世間と肩を並べることに汲々とするその先に待っているのは、無様な老いと、老いの附録である汚い死にすぎないのだ。 気炎を吐くことも、会心の笑みを漏らすことも、昂然たる面持ちで不透明で危険な未来へ出立することもなく、また、悲劇の王座に就くことさえもなく終わってしまう生涯。それが本当に生きたことになるのか。(292) - 人間が他の動物と大きく異なる点は、生まれた後にふたたび生まれる能力を授かっていることだ。一度目は動物のそれと同様、牝の股から生まれる。しかし、二度目は当人自身の心から生まれるのだ。つまり、おまえが新しいおまえを出産することになる。それができない者は獣類の仲間に堕するだろう。 お前が本物の人間になれるかどうかは、この私にも多少の責任がある。 だが、九割方の責任はおまえ自身にあるのだ。 臆病風に取りつかれ、身体をわなわなさせるところから抜け出し、煩累を逃れて暮らす日々に憧れたりしなければ、おまえは正真正銘の人間になれる。 善人か悪人のいずれかになれる。(453) 1/16 ホーテンス・S・エンドウ『近代プログラマの夕(ゆうべ)』(アスキー出版局)。 『月刊アスキー』1987年10月号から1991年3月号に掲載された同タイトルをまとめたもの。 著者は、遠藤諭のペンネームである。 プログラム(コンピュータ)の話だけかと思いきや、本や映画などをテーマにしたエッセイもある。 「マーフィの法則」の起源を巡って辞書などを読み漁っていく話と、 TVドラマ「タイム・トラベラー」の映像を探し方々を巡り、 最後に「録音」したものにたどりつく顛末が面白い。 - "LORD OF WARS"は、20世紀に活躍した戦車や装甲車を再現した未来のサバイバルゲーム大会なのだという。つまり、このゲームは、戦争のシミュレーションではなく、戦争のシミュレーションのシミュレーションであるという、いわば劇中劇的構造を持ったメタ・シミュレーション行軍将棋だったのである。これは、パーソナルコンピュータによって培われてきた戦争ゲームが、戦争であって戦争でないという、この業界特有の倫理スタンスを述べているようで面白いと思う。(174) - Hortense S. Endoh "The Modern Programmer's Salon"(本書は日本語で書かれている。念のため) - - ホーテンス・S・エンドウ『近代プログラマの夕(ゆうべ)2』(アスキー出版局)。 『月刊アスキー』1992年5月号から1995年4月号に掲載された同タイトルをまとめたもの。 書き慣れたからだろうか、同じようなテーマであっても、 『1』よりもはるかにリーダビリティが高い。 疑問に思ったことがあったら、とことんまで追求する著者の姿は爽快である。 あと、poetic justice(詩的正義、因果応報、勧善懲悪)という言葉を、久しぶりに見た。 - Hortense S. Endoh "to Hack or Not to deBug"(原書は日本語) 1/17 遠藤諭『遠藤諭の電脳術』(アスキー出版局)を読む。 『朝日新聞』『本とコンピュータ』『東京人』などに連載・掲載されたもので、 ショートカットキーや検索エンジンの使い方など、啓蒙的な内容がほとんどである。 内容はかなり古びているが、そこそこ楽しく読める。 ちなみに、これはサイン本。 - - 村井純、坂本龍一、成毛真、佐伯達之『インターネット近未来講座』(アスキー出版局)を読む。 遠藤諭と西川和久が聞き役を務めるインタビュー集である。 1996年に発行された本であり、すでに外れている予想・予測もあるが、読み物としては楽しめる。 黒崎政男と書いてあるのを見て、ふと、前に読んだ 合原一幸・黒崎政男『哲学者クロサキと工学者アイハラの神はカオスに宿りたもう』を思い出した。 - 坂本(龍一)---ものを作ることの何がおもしろいかというと、そのプロセスがおもしろいんです。音楽を作るのでも、粘土細工みたいに、壊してこうしよう、これをつけてみよう、やっぱりやめてみようというプロセスがおもしろくてやっている。消費者はそういうプロセスが終わったあとの、CDやCD−ROMに焼き込まれた結果を聞いているわけでしょう。これは楽しみ方としては、実はいちばんおもしろくない。(96) - - 遠藤諭『新装版 計算機屋かく戦えり』を読む。 コンピュータ創生期・黎明期に活躍した26人の日本人にインタビューしたもの。 プロジェクトXを読んでいるような気分になった。 - (和田弘)大きい計算機ほど馬鹿なんですからね(中略)電気は一秒間に赤道の周りを七回半回る。つまり1ナノ秒では30センチメートルしか走らないんです。だから大きい計算機ほど、ある位置から別の位置に信号を走らせた場合、一緒に出発しても着くまでにずれが生じるし、遅い。(81) 1/19 琴音『愛をめぐる奇妙な告白のためのフーガ』(ライブドア パブリッシング)。 第17回ファンタジーノベル大賞で優秀賞辞退作。 帯にある「あなたの傷を、数えましょう。」は、 小柳ゆき「あなたのキスを数えましょう」のあまりうまくないパロディである。 描写が抑制されているのか、読者に頼っているのか、 詩のようなものを目指しているのか、 とにかく、絵のない少女漫画を読まされているような気になる。(悪い意味で) - 私は、夢を語る。思いつきで、即興で、話し続ける。ずっと、話していなければならない。未来を語る。ふたりの将来を。どこまで話せば、わかってもらえるのだろう。どんなに、離れたくないか、どうしたら、伝わるのだろう、私の思考、祈りの声、あなたに伝えたくて、言葉を連ねる。私の全人格を、心を込めて、乗せる。(203) 1/20 三崎亜記『バスジャック』(集英社、サイン本)を読む。 唯一「読める」のは、「二階扉をつけてください」ぐらいである。 この短編は、ちょっとシュールな設定で、最後までひっぱっていく力を持っている。 あまりに微温的すぎる「しあわせな光」「二人の記憶」「雨降る夜に」「送りの夏」、 結末がバレバレの「バスジャック」「動物園」などは、 最後の行まで読んで、ぐったりと脱力してしまう。 なんと言うのだろう、この著者にはきっと悪意が足りないのだ。 1/23 樋口直哉『さよならアメリカ』(講談社)を読む。 紙袋をかぶった男という、安部公房『箱男』に設定が酷似している小説。 後半、袋というメタファーを支えきれなくなったのか、 いつの間にか、不条理小説に転化してしまっている。 「面白いか、つまらないか」と聞かれれば、「面白い」と答えるものの、 深淵を見つめようとすればするほど、なぜか底の浅い小説に見えてしまう。 - 第48回群像新人文学賞受賞作 第133回芥川賞候補作 SAYONARA アメリカ 1/24 中村三春『フィクションの機構』(ひつじ書房 未発選書第1巻)を読む。 「メタフィクション」という言葉に引かれて手に取ったのだが、 「第1部 フィクションの理論--根本的虚構論への道」は、とにかく論じ方が甘い。 詳細に検討すべき点を、羅列するだけで著者は満足してしまっているのだ。 それでも、本にまとめたのは「未完成性そのものを、 むしろ開かれた可能性として残して置こう」(413)ということらしい。 言葉だけが空回りしており、心を動かされることはなかった。 しかし、である。 「第2部 フィクションの実践--“純粋文芸派”の研究」となると、俄然、面白くなる。 題材となっている横光利一、ジイド、太宰治、立原道造、原民喜 などの作品が無性に読みたくなってくるのだ。 メタフィクションとは言っても、入れ子構造(枠小説)だったり、 虚構と現実の単純な交錯であったり、 技巧的にはあまり凝っているとは言えないものばかりだが、 それでも、本を手に取りたくなるのは、 著者の思いが図らずも溢れ出しているからであろう。 1/25 岡田奈子『フォルティッシモ』(碧天舎・碧天NEXTジェネレーション)を読む。 「14歳が奏でる恋のメロディ♪ 透き通る感性、活き活きと弾む言葉、滑らかでクリアな文体---。 若々しい才能のきらめきが溢れる、中学3年生作恋愛小説」と帯にある。 「若ければいい」という出版社の最近の戦略には飽き飽きしているのだが、 本書は、例外的にかなりうまく書けている。 どこかにある表現ではなく、自分のそれを必死にひねり出そうとしているのだ。 書き続ければ、かなりの作家になるだろう。 - 頭の中のパズルが、なかなか完成しない。同じような色ばかり使われているピースは、どれがどの部分に埋まるかさえ、予想がつかない。在るべきではない場所に、無理やり押し込まれたピースは膨張し、周りのものを巻き込んで一気に破裂する。似たり寄ったりの兄弟たちはバラバラと散らばり、できかけていた原形の痕跡さえ分からなくなってしまう。 - fortissimo it appears in the superlative form of heart... renditon by 岡田奈子 フォルテッシモ 1/26 飯嶋和一『汝ふたたび故郷へ帰れず』(小学館文庫)を読む。 文藝賞を受賞した表題作に、「スピリチュアル・ペイン」と 小説現代新人賞のデビュー作「プロミス・ランド」を加えた「リバイバル版」である。 実力がありながら、カードに報われないボクシング選手が、 喪失の後、再び立ち上がるまでを描いた中篇。 ちょっと甘すぎる(=書き込みが足りない)部分もあるが、 全体としてはかなりうまく書けている。 ハードボイルドっぽさもあり、読むものの心を熱くさせる。 - 今まで、何故こんなことをやっているのか、考えたことなどなかった。いったい何だろうと思った。金や地位や名誉や、名前なんかでもない。なんかのためでもない。ボクシングから本当に離れ、結婚式場の地下の洗い場に立っていた頃。朝出かけ、夕方アパートに戻り、なにもせずにいた夜、テレビなんか意味もなくただつけっぱなしにして、突然バカみたいに何キロも走ってみたり、サウナで意味もなく減量してみたり、同じ映画を何度も見たり、いつか、こんな生活にも慣れるかもしれないなどと思いながら、ただ時間を見送っていただけの頃。島へ帰るための金を作ることだけで生きていたあの日々。生きているのか、死んでいるのか、わからないような毎日だった。ただ一つだけ、はっきりしているのは、もう、あんな何もしないでメシばかり食っているような日々だけはごめんだと思っていることだった。とにかく今、強いヤツとやりたいと思っていることだけは確かだった。逃げ出したいくらい、強いヤツと、グローブを交わし、その時おれは本当に生きているのかどうか自分自身でわかるような気がした。願っているのはそれだけだった。(207) - 飯島和一は誤記、いいじまかずいち 1/27 飯嶋和一『雷電本紀』(小学館文庫、河出文庫)を読む。 「雷電」という最強の力士によって、生活に苦しむ人々が希望を持つという話。 この小説が成功しているの理由の一つに「視点」がある。 市井の人々(=凡人)が雷電を描写することで、 彼が神秘的で手の届かない存在であることが、非常によく伝わってくるのだ。 何一つとして書き漏らさないような、微に入り細を穿つ描写で、 江戸時代の雰囲気を完璧に捉えてきっている。 第8回三島由紀夫賞候補作。 - 呑舟之魚遊枝流 こうこく不飛集汚池 雲州雷電為右衛門 『列子』の、「呑舟の魚は枝流に遊ばず。鴻鵠は高飛して汚池に集まらず」を明らかにもじったものだった。舟を呑みこむほどの大魚こそ、ささやかな流れに遊び、鴻(おおとり)や鵠(くぐい)のような雄大な鳥ほど汚れよどんだ池に集うものだ---と雷電は書き残して去った。 1/30 飯嶋和一『神無き月十番目の夜』(小学館文庫、河出文庫)を読む。 江戸時代に突然、死に絶えた村の真相をめぐる話。 「英雄、ヒーロー」の存在しない、著者唯一の小説である。 すぎるほどの微細的な描写で、地を這うような民衆の姿があぶりだされていく。 カタルシスのなさが、この小説の短所でもあり、長所でもある。 第11回三島由紀夫賞候補作 - 人の生も同じことだった。「幸い」などというものは、他者との比較においてのみ生ずるものであり、己のなすべきことをまず手を抜かずに果たせ。何の心配もいらない。己の生を信じ、己を拠り所にして生きよ。(181) 1/31 飯島和一『始祖鳥記』(小学館文庫)を読む。 江戸時代に凧を使って空を飛ぼうとした、世界最初の“鳥人”備前屋幸吉の話。 緻密な描写という「長い助走」の果てに、徐々に体が浮いてくる自分に気がつく。 読み終えた後の浮遊感がたまらなく心地よい。 2001年版『このミステリーがすごい!』第5位。 - 己がなぜただの表具師ではいられなかったのか。あるいは、なぜただの木綿商人としてとどまれなかったのか。時の節目に、幸吉が自ら不可解に苦しむのは何よりそのことだった。何でもその業に就いてやり始めた時は、そのための修業や様々な困難やらに気が行って夢中になれる。ところが一度それが軌道に乗り始めると、急に奇妙な思いに沈むことが多くなる。ひどく退屈で耐えがたい思いにため息ばかりつきはじめる。こうしては居られないという思いが、己の内で次第に強く突き上げてくるようになる。 (…)おそらくは、背後にいる海の龍神に何となく気づいていたせいだろう。いずれ永遠が目をさませば、この生は即座にかき消える。その時がいつやって来るのか、全くわからなかい。だが、必ずそれは訪れる。何かに納まってしまうことは、それからの生をただ無駄に費やすことのようにしか思われない。流れがせき止められた水のように、そこには停滞した腐臭しか感じられなかった。(…)飛ぶことは、すべてを支配している永遠の沈黙に抗う、唯一の形に他ならなかった。(467-469) 2/1 飯嶋和一『黄金旅風』(小学館)を読む。 江戸時代の海外貿易都市・長崎の話。 「金屋町の放蕩息子」「平戸町の悪童」の2人がヒーローなのだが、 他の小説群に比べ、いささか散漫な印象を受ける。 著者は、一人一人の登場人物を丁寧に書くあまり、 主人公たちを突出させることに失敗しているのかもしれない。 直木賞辞退作 2005年本屋大賞8位 - 時が何もかも解決するなどというのは嘘であり、時が経てば経つほど幻の面影は強くなり現との境が極めてつけにくいものとなっていく。どこかで何らかのきっかけがなくては悲しみに対処する術もないまま、自分を責め続け悪夢のなかをさまよわなくてはならない。(300) 2/2 ホセ・カルロス・ソモサ『イデアの洞窟』(文藝春秋)を読む。 イギリス推理作家協会最優秀長編賞(CWA)受賞作。 古代ギリシャ時代に書かれた作者不詳の『イデアの洞窟』を、現代人であるモンターロが翻訳する。 それを「わたし」が「直観隠喩法」というレトリックを読み解きながら、スペイン語に翻訳していく。 ・・・というホセ・カルロス・ソモサが書いた推理小説『イデアの洞窟』を、 ソニア・ソトが英訳し、それをさらに風間賢二が日本語に重訳したもの。 これだけで叙述トリックを駆使したメタミステリだということがわかる。 メタの割に全体の仕掛けはそれほど入り組んではおらず、頭を使わず一気に読むことができる。 リーダビリティはかなり高い。 ちょっとだけポール・ド・マンを思い出した。 - 率直に言おう、読者諸氏よ、小説--たとえば、いままさにあなたが読んでいる作品--が、"個人的に自分に語りかけている"といった狂気じみた感覚を抱いたことはぜったいにないと言えるだろうか? もしそう思ったとしても、すぐに、頭を振り、瞬きをして、こいつはバカげている、さっさと忘れたほうがいい、と考え直して、先を読み続けるのではないだろうか? だから、この本の一部はわたしに関係しているということを、ぜったいの確信を持って知ったわたしの恐怖を想像していただきたい! 冗談ではなく、"恐ろしい"のだ。わたしは、距離を持って小説を眺めることに慣れていた……ところがいまや、突然、私は自分自身を小説の内部に見出したのだ!(199) - Jose Carlos Somoza『La Caverna de las Ideas』 Sonia Soto『The Athenian Murders』 2/3 浦賀和宏『ファントムの夜明け DAWN OF THE PHANTOM』(幻冬舎、幻冬舎文庫)。 幼いころに亡くした双子の妹。恋人との別れ。そして死者からの声。 後半の強引な展開(よく言えば、プロットのうねり)が、 着地点の予測を不可能にし、読者の眩暈を誘発させる。 エッシャー的な主客の転倒が見事で、浦賀和宏らしい。 - 今まで自分はそれこそ亡霊のように生きてきた。生きがいや、人生の意味が、自分にあるとは到底思えなかった。ただ日々を浪費するだけの毎日。それが今までの自分だったのだ。でも、今は違う。やるべきことを見つけた。毎日の目覚めも、もう哀しくなんかない。亡霊だった自分の人生は、ここ数日間の様々な出来事をきっかけにして、夜明けを迎えたのだ。(337) - - 浦賀和宏『透明人間 UBIQUITY』(講談社ノベルス)を読む。 久しぶりの「笑わない名探偵・安藤直樹」のシリーズ。 閉ざされた心が少しずつ開かれていく過程を丁寧に描いている。 読後、タイトルに込められた意味に気がついた。 ユビキタス「ubiquitous(形容詞)、ubiquity(名詞)」とは、 「どこにもいる、いたるところに存在する、遍在する」ことを意味する。 あと、「おずおず」と「怖ず怖ず」の表記ゆれが気になった。 - どうして今まで気付かなかったのか、不思議でならなかった。生きる手掛かりは、私が死なないというシグナルは、いつでも、どこでも、私の周りにあふれていたのに。(414) 2/6 浦賀和宏『松浦純菜の静かな世界 matsuura junna no shizukana sekai』(講談社ノベルス)。 冒頭のエピグラフにあるように「憎しみの連鎖をどう食い止めるか」がテーマ。 これまでの「浦賀作品」に比べると、明らかに迫力が欠けている。 松浦純菜のトラウマが、八木剛士のそれを圧倒しているからだろう。 フォントが変わって読みやすくなったのは、ファウストを編集している太田克史の影響。 - 人間は完璧じゃない。欠けた部分を必死で埋めようとのたうち回って生きている。生まれつき欠けているのだ。だからそこからさらになにかが欠けた時、それを他のもので代用する《力》が生まれる。(208) - - 浦賀和宏『火事と密室と、雨男のものがたり In The Wake Of Poseidon』(講談社ノベルス)。 前作同様、いじめを題材に扱っている。 佐藤友哉なんかを読むと、浦賀和宏の描く「いじめ」は物足りなく感じてしまう。 もちろん、これは著者の意図したことである。 「何気ないことでも、いじめられる方は傷つく」ことを書きたかったのだろう。 - 火事だ。このままだと一家族が焼き出され、家を失う。もしかしたら隣の家に燃え移るかもしれない。もし--自分が家を出るだけで、そういう惨劇が回避できるとしたら--君だったら、どうする?(150) - - 浦賀和宏(Uraga Kazuhiro)単行本リスト(すべて既読) 『記憶の果て THE END OF MEMORY』(講談社ノベルス、講談社文庫) 『時の鳥籠 THE ENDLESS RETURNING』(講談社ノベルス) 『頭蓋骨の中の楽園 LOCKED PARADISE』(講談社ノベルス) 『とらわれびと ASYLUM』(講談社ノベルス) 『記号を喰う魔女 FOOD CHAIN』(講談社ノベルス) 『眠りの牢獄』(講談社ノベルス) 『彼女は存在しない』(幻冬舎、幻冬舎文庫) 『学園祭の悪魔 ALL IS FULL OF MURDER』(講談社ノベルス) 『こわれもの FRAGILE』(徳間ノベルス) 『浦賀和宏殺人事件』(講談社ノベルス) 『地球平面委員会 flat earth project』(幻冬舎文庫) 『ファントムの夜明け DAWN OF THE PHANTOM』(幻冬舎、幻冬舎文庫) 『透明人間 UBIQUITY』(講談社ノベルス) 『松浦純菜の静かな世界 matsuura junna no shizukana sekai』(講談社ノベルス) 『火事と密室と、雨男のものがたり In The Wake Of Poseidon』(講談社ノベルス) 2/7 マリー・ハムズン『小さい牛追い』『牛追いの冬』(岩波少年文庫)を読む。 ノルウェーの農場に生きる少年・少女たちの心温まるさわやかな物語。 まずは、『牛追いの冬』のまえがきを引用。 - 「牛追いの冬」は、まえに「岩波少年文庫」から出た「小さい牛追い」のつづきです。私の使った原本は、アメリカのリッピンコット社から出た"Norwegian Farm"(ノールウェイの農場)ですが、あまり長いために、残念ながら、二冊にしなければなりませんでした。(中略)さて、お話のなかのおかあさんは、この本の話の作者、マリー・ハムズン夫人。おとうさんは、ノールウェイのもつ、世界的小説家、クヌート・ハムズンと見て、さしつかえないようです。 - 「さしつかえないようです。」なんとも頼りない書きぶりである。 さて、『小さい牛追い』の著者紹介にはこう書いてある。 - マリー・ハムズン 1882−1969 ノールウェイの人。夫は、『大地の産物』という小説で1920年にノーベル賞を受けた、ノールウェイの有名な作家クヌート・ハムズン(1859−1952)。洗練された都会文化を否定し、自ら原始的な農民の生活をした。この『小さい牛追い』『牛追いの冬』は、ハムズン夫人が若い母親であったころの自分の子どもたちの生活をもとにして書いた物語。 - と、こちらは前者に比べ、ずいぶんと断定口調。齟齬の原因は、発行時期にある。 - 『小さい牛追い』 1950年12月25日 第 1刷発 行 1990年11月19日 第12刷改版発行 1991年 9月10日 第13刷発 行 - 『牛追いの冬』 昭和26年3月10日印刷 昭和26年3月15日発行 - そう考えると、確かに「金の単位」も違う。 『小さい牛追い』では「百円玉」「五千円札」、 『牛追いの冬』では、「5圓」「数十銭」となっている。 - さて、「ハムスン」ではなく、「ハムズン」なのだろうかと疑問に思いながら読んだのだが、 以下の一節を読んで思わず笑ってしまった。 - 先生は、ヤコブが「ズ」のかわりに「ス」と言っても、けっして前の先生のように笑いません。(『牛追いの冬』189) - マリー・ハムズン(Marie Hamsun)は12冊ぐらい本を出版している。 せっかくなので続編に当たる『A Norwegian Family』も読んだのだが、なんとも退屈であった。 どうやっても、ノーベル文学賞作家の夫には勝てそうもない。 2/8 ホーテンス・S・エンドウ「The Play of Words ことば遊び・コンピュータ」を読む。 「月刊アスキー」の1991年9月号から1993年2月号まで(断続的に)連載された、 コンピュータを使って「ことば遊び」を愉しむエッセイ。 「ことばの使用頻度」、「アナグラム」、「パングラム(アルファベットをすべて使った文)」、 「語ルフ(word golf)、ダブレット(doublet)、梯語(word ladders)」(=マジカルバナナ)、 「会話プログラム」など、実に盛りだくさんの内容である。 「河童の川流れ」から、「コッペリアのビジャヤナガル」、 「早起きは三文の徳」から「朝起きは洗面の時」を生み出すコンピュータのセンスに爆笑。 もう、とにかく、「すばらしい」の一言に尽きる。 - 遠藤諭/ホーテンス・S・エンドウのプロフィールで、 出版が予告されていたが、現時点ではまだのようである。 扱っているコンピュータが古いとは言え、この内容は時代を超えた面白さを持っている。 国会図書館などでコピーしやすいように、以下に細目を記す。 是非。 - 「1.あなたが読んでいるもの(1991.9)」「2.あなたの使っているもの(1991.10)」 「3.語ルフ(1991.11)」「4.アナグラム1(1992.1)」「5.アナグラム2(1992.2)」 「6.柳瀬尚紀氏に聞く(1992.3)」「7.アナグラム3(穴蔵マ)(1992.4)」 「8.パングラム1(1992.6)」「9.パングラム2(1992.7)」 「10.駄洒落エンジン(1992.10)」「11.プログラム「○子」(1992.11)」 「12.会話プログラム(1992,12)」「13.会話プログラム2(1993.2)」 - 「animal」(動物)に対しては「lamina」(薄板)だが、日本語の「薄板」(うすいた)のさかさことばは「対数」(たいすう)となるようだ。(第5回、322) 2/9 安田均『幻夢年代記 コンピュータゲームの世界』(ASCII ログイン・ブックス)。 パソコン情報誌『LOGIN』に「安田均のアメリカ・ゲーム事情」として 1984年3月から1988年7月まで連載されたもの。 以前に読んだ『神話製作機械論』(BNN)があまりに面白かったので手に取ったのだが、 それほど感銘は受けなかった。(もちろん、情報としての価値はある)。 「ウルティマ」、「D&D(AD&D)」、「ウィザードリィ」などが コンピュータゲームにおいて、いかに大きな役割を担ったかがよくわかる。 大塚英志の大喜びしそうな一節があったので、長いが引用する。 - ここで発想をちょっとひねって、この読む行為を書く行為のほうに移したらどうなるだろうか? ひとつの方式はすでにある。俗に<アドベンチャー・ゲーム・コンストラクション>と言われるタイプで"あなたもアドベンチャー・ゲームが作れます”というソフトだ。しかし、はっきり言ってこれらでは、ストーリーの組み立てから、謎、登場人物まで、全部自分で一から考えないといけない。要するに、小説を書く作業をそっくり、アドベンチャー・ゲームを作るのに当てはめただけのものだった。 これから紹介する<プレイ・ライター>シリーズは、そこが異なる。なんとここでは、ストーリーラインや登場人物などの類型パターンがすでにかなりの数入れられており、プレイヤーはちょっとした選択・文章の作成をするだけで、ひとつの作品ができてしまうのだ。 しかも、これにはそのでき上がった作品を、プリンタで打ち出す機能とその用紙、さらには、レイアウトのできるイラストレーションや本の表紙まで備わっているのだ。つまり、このソフトで、あなたの好む物語を作り上げ、それを製本して1冊の本にしなさいというわけ。コンセプトだけを見ても、なんとなく“デスクトップ・パブリッシング・コンストラクション”といったイメージがあって楽しい。 それに、このストーリーを決める作業というのが、楽しめてしまうのだ。たとえば、今回使用したソフトは『ミステリ!』というものだが、これは基本的に5章にわかれている。探偵役を決めることから、事件の発端、尋問、第2の殺人、解決といかにもある種のミステリがパターンにのっとって進んでいき、その細部をこちらが先に選択してしまう。この"先に選択する"という点がミソで、ストーリーがあとで自動的に組み上がるのを見て(もちろん、それを修正できる)思わず自分の選択に納得したり、プッと噴きだしてしまう。 類型を選んでいくわけだから、基本的には子供用の教育ソフト(作文)と言えるが、逆に考えると、類型を並べかえることでパロディーやナンセンスのランダム発生を楽しめる大人のソフトとも言えるのだ。(234-235) - - 安田均『GAME ゲーム げぃむ 幻夢年代記2』(ASCII ログイン・ブックス)を読む。 パソコン情報誌『LOGIN』に「安田均の新アメリカ・ゲーム事情」として 1988年7月から1990年6月まで連載されたもの。 月2回連載になったためか、リーダビリティはさらに低下している。 著者はコンピュータゲームを、アクション、アドベンチャー、シミュレーション、 RPGの4大分野に分けているが、(後に、パズルゲームが加わる) アクションについての言及は、なぜか少ない。 - Hitoshi Yasuda『GAME CHRONICLE』(Login Books) Hitoshi Yasuda『GAME3-GAME CHRONICLE』(Login Books) アスキー ログインブックス 2/10 安田均『SFファンタジィゲームの世界』(青心社)を読む。 ゲーム、コンピュータ、本、雑誌を自由に横断するSFファンタジィゲーム。 ジャンルの定義、歴史、楽しみ方から、個々のゲームのルール、特徴まで、 これ一冊で概略をつかむことができるようになっている。 やはり著者はこういうのを書かせたら一級である。 - - 安田均『FANTASY GAME FILE』(富士見書房) 1988年〜1993年にかけて雑誌『ドラゴンマガジン』に連載されたもので、 1980年代後半から90年代前半のテーブルトークRPGを紹介したもの。 同じような本が続いているで、目新しい感想はこれと言ってない。 特筆すべきは、「ブーム」というものの本質をよく捉えている以下の一節だろう。 もちろん、これはTRPGに限ったことではない。 - 急激に広がると、落ち込んだときのツメ跡がひどいのだ。ゲームだけをとっても、考えてほしい。数年前のウォーゲーム、ゲームブック、そして、最近のカードゲーム、ちょっと売れるとなれば、猫も杓子もそれに群れ集って、無責任な作品を乱発し、分野が飽きられる原因ともなっている。 これを防ぐには、はっきり言って、出版側(デザイナーを含む)がしっかりした責任を持つことと、ユーザー側がそうしたところを見極める、しっかりとした鑑定眼を持つこと、この二つに尽きるだろう。 見た目はいくら派手でも、どこかの模倣にすぎないのがまるわかりのものや、遊んでみておもしろくないものは、早めに見切りをつけることだ。それと、逆にベテランゲーマーの人は、自分の楽しんだこれまでの十分なサプリメントの出ているRPGを、新しいゲーマーの人たちに伝えていってほしい。そうしたゲームは、ある程度、時の試練に耐えているわけだから、新しい人にもおもしろくないはずがない。(355) 2/13 安田均「おもちゃの兵隊の宇宙創造 SFゲームへの招待」を読む。 「SFマガジン」の1983年8月号から1984年9月号まで連載されたもの。 写真を多用しているからなのかもしれないが、一気に読むことができた。 また「第6回」と「第7回」の間には、「特別編」があり、(著者が風邪で倒れたため) 水鏡子、大原まり子、森田繁、久美沙織なんかが登場するのも面白い。 - こうして、SF(ファンタジィ)の原作と結びついたロール・プレイング・ゲームを概説してきたが、ひとつ言えるのは、ロール・プレイの本質が従来よりコンフリクト(戦闘)指向ではなくなり、ストーリー(謎解き)指向、あるいは役割演技(世界構築)指向へと向かってきていることだろう。(…)いずれにせよ、ロール・プレイング・ゲームは、かつてのSFのようにいまだ"名づけられぬもの"であるだけに今後もさまざまな振幅をくり返していくのはまちがいないと思う。(第7回 119) - - 安田均とグループSNE『ファンタジーRPGガイドブック』(ホビージャパン)を読む。 「安田均とグループSNE」と言う割に、安田均は「はじめに」と「フォーナリー」の項しか書いていない。 ファンタジーRPGそれぞれの違いについて詳述しているが、 すればするほど小さな差異に見えてしまうのは気のせいだろうか。 - 「第一部 代表的なファンタジーRPG」「第二部 ファンタジーRPGの発展」 「第三部 国産ファンタジーRPG」「第四部 未訳のファンタジーRPG」 「付録:日本語で読めるファンタジーRPGリスト」 安田均、水野良、山本弘、清松みゆき、佐脇洋平、高山浩、北川直、栗永雅行 - システム重視→世界設定重視→システムと世界の一対一対応の崩壊 という歴史の流れが、今後どのように進んでいくか予測するのは困難です。おそらくシステムというものが着実に形骸化(個々のマスターの手に委ねる)する方向に進んでいくのだとは思いますが、システムの代りとなるものが(現在のような)データ集であるとは思えません。(272) 2/14 安田均『安田均のボードゲーム大好き ドイツゲームのニューウェーブ』(幻冬舎コミックス)。 日本では廃れたボードゲームが、ドイツにおいては隆盛を極めている。 この魅力的な発見から本書はスタートし、著者独自の語り口で読者を引き込んでいく。 大きく取り上げるのは、以下の6ゲーム。 「アフリカ」「6ニムト!」「カタンの開拓者たち」 「ミシシッピ・クィーン」「エルフェランド」「ニューエントデッカー」 とにかく読まされる。 『神話製作機械論』を読んだ時の衝撃が甦った。 傑作。 2/15 畑中佳樹『電子小説批評序説 On Electric Fiction』(BNN)を読む。 「コンピュータゲームの迷宮を読み解く/インタラクティブな小説をコンピュータが可能にした。読み手が主人公を演出する、新たなるペーパーバックの世界。テキストアドベンチャーに気鋭の映画評論家化が挑む。」と帯にある。 インフォコム(infocom)のテキスト・アドベンチャーを、実際に遊んだ上で論じたもの。 テキスト・アドベンチャーを、小説ではない新しい「何か」と定義し、 エクリチュールの可能性を探っている。 リーダビリティはきわめて高く、とにかく読まされた。 以下引用。(2.3つ目は簡単に反論できるけれども) - たかがコンピュータ・ゲームを、映画・小説・音楽・映画といった芸術作品と同列に論じるのがそもそも間違っているのだ、などという人は、要するに「芸術」という神話にだまされすぎている。芸術とはそれを生きることができる何かであって、小説とコンピュータ・ゲームが本質的に違っているわけはない。(53) - テキスト・アドベンチャーと小説との最も大きなちがいは、テキスト・アドヴェンチャーを再読することはできないということに尽きる。(…)テキスト・アドベンチャーはそういう、人をだまし、驚かせる装置の面白味を純粋抽出したようなゲームなので、これはもうすがすがしいほどに再読を許さない。(128) - 二十世紀の意味深い事件といえば一つしかなくて、それは小説が映画に負けたということである。人間をいやおうなく一人称的にしてしまう言葉の呪縛から、われわれは映画によって解き放たれた。一人称でも三人称でもない、いわば無人称ともいうべき直接さで世界の表面と触れ合うことを覚えた。あなたは誰でもない。どこにいるのでもない。だからこそ、美しい女優の表情のドラマに身をゆだね、その感情を共有しつつ、なおかつその顔の輝かしい表面をいつまでも見詰めつづけることができる。これは、小説には、つまりことばには、絶対になしえないことなのだ。(222) - ハードボイルド小説の特徴を思いつくままに挙げてみると-- 1、主人公は私立探偵である。 2、舞台はたいていロサンジェルス近辺である。 3、探偵は車に乗ってしじゅう移動しつづける。 4、移動して回る場所は、酒場、人気のない倉庫、富豪の邸宅などである。 5、その邸宅には必ず東洋人の執事がいる。 6、探偵は途中でかならず一度、ぶんなぐられて気絶する。 7、会話がシャレている。 8、探偵は謎解きをしない。謎がひとりでに解けるように行動するだけである。 9、探偵はいくつも名セリフを吐かなくてはならない。(86) - Bug News Network、ビー・エヌ・エヌ 2/16 エリザベス・レッドファーン、山本やよい訳『天球の調べ』(新潮社)を読む。 帯には「英国ミステリーの新女王による衒学的サスペンス」とある。 娼婦殺し、天文学、暗号解読。 確かにそれらしいガゼットは揃っているのが、問題はその使い方にある。 衒学的になるためには、とにかく「過剰」が必要である。 この小説で提示される情報は、謎解きに関係あるものばかりである。 無駄がないと言えば、言えなくもない。ただ有機的すぎるのだ。 18世紀の登場人物がことごとく「現代人」に見えてしまうのは もしかしたら、そのせいなのかもしれない。 まぁ、惑星間の数字があまりにも秩序だっているため、 火星と木星の間には惑星があるはずだ、と推論した話は面白いけど。 - 彼はまたしても、この子はなんて若いんだと思った。こんなにも早く忘れてしまえるとは、なんて若いんだろう。(240) - Elizabeth Redfern "The Music of the Spheres" 2/17 ジョン・ランチェスター『最後の晩餐の作り方』(新潮クレスト・ブックス)を読む。 ウィットブレッド処女長編小説賞受賞、ベティー・トラスク賞受賞、 ホーソーンデン賞受賞、ジュリア・チャイルド賞受賞の話題作。 料理・美食を語っているはずが、いつの間にか思わぬ方向へと話題が逸れていく 饒舌・脱線系の小説である。 『トリストラム・シャンディ』の主体は、語ろうとして語れないのに対し、 『最後の晩餐の作り方』の主体は、語ろうとする気さえないように思える。 何を目指しているかもわからないまま、物語は意外なところに終着点を見出す。 - あの灼けるような午後、あのときから私は真剣に考えるようになったのです、不在の美学、省略の美学というものを。モダニズムの影響で、責任ある立場におかれた作家はもはや、ある種の芸術的選択を不可能と受けとめざるをえないでいる。xのように書いたりyのように描いたりzのように創ったのでは、いまや真の芸術作品と認められない。作家として芸術の現在(いま)を真剣に生きる気がない証拠ととられても、しかたがない。 そこまで考えれば、あとは簡単だ。作家の姿勢、才能のほど、および功績は--作家が大塊であるとするならその高度を求めるのに必要な三角測量の基点は--実は不可能、実行不能、入手不能な、禁制、禁止、否定の領域にあるのではないかということに、瞬時にして思い至る。芸術家は成さないことによって評価されねばならない--画家なら破棄した、あるいは真っ白なキャンパスによって、作曲家なら沈黙の長さと深さによって、小説家や詩人ならば出版拒否もしくは断筆によって。芸術家の生涯の最高傑作とは、もはや試みることすら不可能と彼自身が悟った作品のことである。(83) - John Lanchester "The Debt to Pleasure" 小梨直 訳 - - ジョン・ランチェスター『フィリップス氏の普通の一日』(白水社)を読む。 リストラされた会計士が、ぶらぶらとロンドンを歩き回る話で、 『ユリシーズ』ばりの内的独白(=妄想)が繰り広げられる。 主人公のフィリップスはセックスのことばかりを考えているが、 ある出来事を起点にして、それが死にすりかわる。 エロスがタナトスに変貌する瞬間。 それこそが本書のテーマであろう。 - ある人間を非常によく知っている場合、たいていの物事に対する、その人間の反応ぶりを予測することができる、そのため、その人間の反応ぶりに耐えることが容易になる。しかし実際は、その反対のことが多い。(97) - なんで密林にはアスピリンがないのか? 鸚鵡がそれを全部食う(パロッツ・イート・エム・オール)、つまりパラセタモール(非アスピリン系解熱鎮痛薬)だから。洟がたらたら(ラニー)のうさちゃん(バニー)を見たことがあるかい、へらへら笑うな、笑いごと(ファニー)で「はなくそ」いつはおおごとだからさ。尼さんと林檎(アップル)をかけ合わせたら、なにが出来るか? どうしてもやらせてくれないコンピュータ。邪な失読症患者のことを聞いたことがあるかい? 彼は魂をサタンならぬサンタに売った。不可知論者で不眠症のことを聞いたことがあるかい? GODを逆さまに読み、犬は果たして存在するかどうか考えに考えて一晩中起きていた。なんで鶏は死んだのか? 世をはかなんで彼岸(むこう)に行こうと車の通る道路を渡ったから。(205) - 若いときにはセックスがアレなのだが、年をとると、死がアレである。(211) - John Lanchester "Mr. Phillips" 高儀進 訳 2/20 イーサン・ホーク『痛いほどきみが好きなのに』(ヴィレッジブックス)を読む。 『生きてこそ』『リアリティ・バイツ』『ビフォア・サンライズ 恋人までの距離(ディスタンス)』 『ガタカ』『大いなる遺産』『テープ』『ビフォア・サンセット』などに出演し、 異彩を放つハリウッド俳優イーサン・ホークの小説デビュー作である。 映画的なシーンの連続で、読む者を飽きさせない。 主人公の空回りっぷりが、痛ましくもあり、微笑ましくもある。 なんとなく、出演作の中では『ビフォア・サンライズ』『ビフォア・サンセット』に近い気がする。 『痛いほどきみが好きなのに』は、小説家が書いた小説である。 俳優が手遊びで書いたような小説ではない。 - 「聞いてくれ、何がなんだが自分でもわからないんだ」僕は息を切らしながら言った。「自分がいやでたまらないよ。どうしちゃったんだろう。君に『とっとと失せろ』なんて言いたくない。だけどわかってくれよ。僕の人生の何もかもが変わってしまったみたいだ。君が僕のことを好きなのかどうか、それだけが知りたいんだ。こんなに愚かな話は聞いたことないよな。もしほっといてくれと言うんなら、その通りにするよ。だけどいつか……いつの日か君が誰かに出会ってさ、それまでにやってきたいろいろなこと、人生で経験してきたさまざまなこと、それらがみんな正しかったんだなってわかる日が来る……とんでもない間違いはしでかさなかったし、大きく道を踏み外すこともなかったんだ、とね。なぜって、その人に出会えたんだからな。僕にとって、君がその人なんだ。僕は消えたほうがいいのか?」(75) - 「これからの人生、誰もが君に向かって、弱くたっていいと言うはずだ。実際、頼むから弱いままでいてくれというやつもいるだろう。だけど、口ではなんて言おうとも、みんな本当は君が強い男であることを期待しているんだ。そのことは憶えておけよ」(235) - Ethan Hawke "The Hottest State" 『ホッテスト・ステイト』(ソニー・マガジンズ)を改題し文庫化したもの。 - - イーサン・ホーク『いま、この瞬間も愛してる』(ヴィレッジブックス)。 これはさらに面白い。 語り手を二人にしたことで、小説に厚みが増しているのだ。 いかにも「アメリカ小説」らしい感じで、ラストまで一気に突き進む。 映画化できないほどの分量が、ぎっしりと詰め込まれている。 - つらいことは起こる。つらいことがあれば、心は深く傷つく。問題は、つらい目に遭った相手を泣かせておく勇気があるか否かだ。(87) - ここで思い切って父と目を合わせ、目をそらさないでいられれば、未来を変えられるはず。いつの日か科学者はDNAが不変の暗号でないことを知るだろう。らせんの底のほうに、ひとつ、人生が進むにつれてねじれたりほどけたりする鎖があることを、発見するだろう。もしわたしが自分の心をさらし、毅然と父の目を見ることができるなら、その瞬間、わたしと父の細胞膜を震動が突き抜け、顕微鏡で見なければわからないような小さな遺伝子のかけらに恒久的な変化が生じるはず。わたしの恐れは消え、恐れがあったところに勇気が生まれるだろう。この変化、目を合わせるというほんのちっぽけな行動の結果がわたしの遺伝子情報を変え、いずれは子供の遺伝子に影響を及ぼす。このわたしがわずかでも価値のあることを成し遂げられるとすれば、それは本能の働きを少しだけとぎ澄ませる、もしくは鈍らせること。たとえばわたしの婚約者、フィアンセ、運命の恋人に向かってしつこくわたしの負け犬ぶりを喧伝している父の目を、恐れずに見返すことができる?(219) - Ethan Hawke "Ash Wednesday" 灰の水曜日 2/21 ジュディス・バトラーの本を読む。 非常に読みにくいテキストであり、誤読を挑発しているようにも見える。 読者が導き出す結論(もしくは問い)は、各人各様である。 その不確定性こそが、ジュディス・バトラーの狙いなのだろう。 - 『ジェンダー・トラブル--フェミニズムとアイデンティティの攪乱』(青土社)。 同性愛を認めない以上、セックスとジェンダーは一緒。 「ジェンダー」という言葉を、絶えず撹乱させ続けることが肝要である。 Judith Butler "Gender Trouble : Feminism and the Subversion of Identity" - 『触発する言葉--言語・権力・行為体』(岩波書店)。 「憎悪発話」なのかどうかを判定するような裁判でさえ、 なんからの価値判定が持ち込まれてしまう。 メタレベルで、「憎悪発話」を語ることはできない。 新しい文脈におかれたら、「憎悪発話」の意味自体もゆらぐだろう。 そこに希望を見出そう。 Judith Butler "Excitable Speech : A Politics of the Performative" - 『アンティゴネーの主張--問い直される親族関係』(青土社)。 ヘーゲルやラカンの解釈を活用しながら、 親族関係を攪乱する存在としての新しいアンティゴネー像を描き出す。 Judith Butler "Antigone's Claim : Kinship between Life and Death" - サラ・サリー『ジュディス・バトラー シリーズ現代思想ガイドブック』(青土社)。 すぐれた入門書である。 前に読んだ、『ポール・ド・マン』(青土社ではなく、新曜社)もよかった。 「Routledge Critical Thinkers」シリーズは、集める価値がありそうである。 Sara Salih "Judith Butler: Essential Guides for Literary Studies" - 「Undoing Gender」@お茶の水女子大学講堂(徽音堂) 2006年1月14日(土)14:00〜17:30(開場12:00) 原稿を読み上げる形の公演。 後半のフロイト解釈(メランコリー)が面白かった。 「日本の印象は?」と聞かれて「一つの定まったイメージはない」 と答えたのは、いかにもジュディス・バトラーらしい。 - 訳者(竹村和子)について。 「すべからく」=「あらゆる」は誤用。 「すべからく〜べし」=「当然〜すべきだ」が正しい。 2/22 鈴木弘樹『よしわら』(新潮社)を読む。 風俗雑誌編集者が吉原に転勤してくる話。 まず世界がある。作者はそれを切り取り、物語に仕立て上げる。 原始の世界に差異はない。分節化などされてはいない。 『よしわら』には物語以前の世界が描かれている。 シーンの切れ目を示す「行換え」は少なく、会話を表す「鍵括弧」は全くない。 昆虫を愉しむのに、標本を眺めるのではなく、森の中に入っていく。そんなイメージ。 『よしわら』は、非物語的な物語である。 第33回新潮新人文学賞受賞作「グラウンド」→「よしわら」に改題 第126回芥川賞候補作 - 人生なんてつくづくごっこなんだと想う。(18) - - 鈴木弘樹「雨」(「新潮」2002年3月号)を読む。 性風俗店「院」の店長である高柳の物語。 とにかく雨の使い方がうまい。 前作よりも長文が多いのは、降り続く雨のメタファーなのかもしれない。 - 雨が降ってるからってやっていい事と悪い事があるんだからさ(116) - 一粒一粒の無数の雨粒が降り注ぎ、一粒の音として捉えることは出来ず夥しい雨音となって氾濫し、豪雨は波のように揺れ動き、打ち寄せ、街を消失させる。(119) 2/23 カルペンティエールの小説群を読了。 時系列順に紹介したのでは、カルペンティエールらしくないので、 ほぼ時間に逆行する形で並べていくことにする。 - A・カルペンティエール『ハープと影』(新潮社)。 著者「最後」の作品とされているが、本当は「最後から二番目」の作品である。 クリストファー・コロンブス(クリストバル・コロン)は、 クリスト=フォロス(キリストを担う者、聖人)ではなく、 単なる俗物(ペテン師)であったと告発する本。 読みやすいが、深みはない。 キューバ人として、どうしても書かなければならなかった作品なのだろう。 - われわれの国でこんなに多くの人間が嗅ぎタバコを嗅いだり、パイプをくゆらせたり、葉巻を吸ったりするようになったのは、ほとんど君のせいだからね。君がいなけりゃ、われわれはタバコなんぞ知るよしもなかっただろうからね。」--「いや、いずれにしてもアメリゴ・ヴスプッチによってもたらされたに違いないさ」(225) - Alejo Carpentier"El arpa y la sombra" "The Harp and the Shadow" 牛島信明 訳、新潮・現代世界の文学 2/24 アレホ・カルペンティエール『春の祭典』(国書刊行会)を読む。 題名は、イーゴリ・ストラヴィンスキーのバレエ楽曲「春の祭典」から。 「ロシア革命で革命のトラウマ(精神的外傷)を負ったベラは、色々あったが、 結局最後にキューバ革命万歳と叫んだ」というのが、訳者による大胆な要約。 革命について、考えうる限りの多様性(可能性)を提示して、 何が正しいかの判断は読者に委ねる、という著者の態度は興味深い。 とにかく登場人物の絡み合いが見事であり、大著にも関わらず一気に読むことができる。 読後の爽快感がたまらない。 本書はキューバ文学の一つの到達点である。 - このメキシコにあっても、僕は生まれて初めて、<逆行可能な時間>に生きているような印象を覚えたのだ。あるいは、いずれにしろ、多くの人にとって<今日>であったとしてもすべての人にとって<今日>であるわけではない<今日>に。ここでは古色蒼然たる石の<暦>の日々と郵便配達の運ぶ紙のカレンダーの日々とが共存している。(55) - 「実際、そういう存在になりたいと夢見ていた」「君も「夢見る」という単語を過去形で使ったろう。僕と同様に。君だって少なくとも動詞の現在形の活用はできるのに、だ」(397) - 柳原孝敦 訳、文学の冒険 第50回配本 Alejo Carpentier "La consagracion de la primavera" "The Consecration of Spring" "The Rite of Spring" 2/27 Alejo Carpentier『Reasons of State』(Writers and Readers)を読む。 カルペンティエール長編小説の中で、本書だけが日本語に訳されていない。 教養のある<大統領>が亡命して、あれこれ思い悩む話。 仲間の裏切りや、<学生>による襲撃などで、徐々に地位が揺らいでいく。 理性の空回りする<大統領>は、愛すべきキャラクターに仕上がっている。 著者は、マジックのないリアリズム(=魔術のない現実)で、西洋をコミカルに描きたかったのだろう。 章の頭につけられたデカルトの引用が的確で、いい味を出している。 なぜ、これだけが邦訳されていないのか、よくわからない。 - The mountain is a prison confining the animals. (…) The animals are inside it; the thing is that they can't get out until someone opens the door for them.(70) - After all,being a Latin did not mean having "pure blood" or "clean blood" -- as the out-of-date phraseology of the Inquistion used to put it. All races of the ancient world had been mixed together in the great Mediterranean basin, mother of our culture. (…) We are all mestizos, and should be honoured that it is so !(114) - Alejo Carpentier "El recurso del metodo" アレッホ・カルペンティエール『方法再説/方法論再説』(未訳) 2/28 アレホ・カルペンティエル『光の世紀』(書肆風の薔薇)を読む。 綺羅星のごとく散りばめられたバロック的ガジェットが、 「光の世紀」の背後に潜む「影の世紀」を炙り出すビルドゥングス・ロマン。 垂直的な上昇(=革命)に失敗しても、 めげずに高みを目指しつづける主人公たちが魅力的である。 登場人物やプロットは、大作『春の祭典』を予感させる。 - エステバンはナポリの無名の大家が書いた『大聖堂の爆発』の前で立ち止り、心底感銘を受けた。不思議な巡り合せによってこの家に落ち着いたその絵は、かれが経験した実に多くの出来事を予め表現しているように見えたので、予言的で、反具象的で、あらゆる絵画的な主題に背を向けた画面が提起する無数の解釈のゆえに、かれは呆然とするばかりであった。(241) - Alejo Carpentier "El siglo de las luces" "The Age of Enlightenment" "Explosion in a Cathedral" 杉浦勉 訳、叢書アンデスの風 3/1 アレホ・カルペンティエル『追跡』(水声社)を読む。 劇場でベートーヴェン「英雄交響曲」が鳴り響く中、巻き起こる逃亡劇。 急いで読み終えなくてはいけないような気持ちにさせる、 切迫感に満ち溢れた極上のサスペンス。 とにかく、スピード感に酔い痴れる一冊である。 丸山健二の『ときめきに死す』をちょっとだけ思い出した。 - Alejo Carpentier"El acoso" "The Chase" "Manhunt" "人間狩り" 杉村勉 訳、叢書アンデスの風 3/2 カルペンティエル『失われた足跡』(集英社文庫)を読む。 音楽家が未開種族のある楽器を手に入れるため、オリノコ河上流を溯っていく話。 奥地へ行けば行くほど「時間」が遡行・逆行していくという摩訶不思議な旅である。 著者のお家芸である時間操作が巧みに取り入れられており、 また、これも十八番(おはこ)の三角関係も絡み合い、とにかく読まされたという印象が残った。 カルペンティエルの代表作との呼び声が高い、驚嘆すべき傑作。 - 沈黙はわたしの語彙のなかで、重要な言葉である。音楽の仕事をしてきたので、わたしはその言語を他の職業の人々よりも多く使用してきた。人が沈黙を友として、いかに瞑想するか、あるいは人がいかにそれを勘案し、いかにあつかうかも知っている。しかしいまわたしは、この岩に腰をおろして、沈黙を生きていた--はるかかなたからやってきた、無数の沈黙の凝縮したひとつの沈黙、そこに言葉がひとつでも落とされれば、創造の大音響がとどろくであろうような沈黙である。もしわたしがなにか言ったら、よくするように、ひとりごとでも言っていたら、自分自身をぎくりとさせていたにちがいない。(151) - 彼らは自分たちの領域で、自分たちの環境において、独自の文化の完璧な所有者だったのだ。<野蛮人>というばかげた概念ほど、彼らの現実からかけ離れたものはなかった。わたしにとっては基本的であり、また必要であることを知らないからといって、彼らを原始的ときめるのは、まとはずれもいいところだった。(242) - わたしは、まだ鍛冶屋の炉もない、おそらくわたしがユバルの役をつとめていた、このエノクの町が、飛行機で直行すれば、首都からわずか三時間のところにあることを知って驚いた。すなわち、「創世記」の第四章と<あちら>で経過している時間の年号とのあいだにある五十八世紀を、一八〇分で渡りきることができるのである。きょうこの瞬間に、<中世>に、<征服時代>に、<植民時代>に、あるいは<ロマン主義時代>に属している、さまざまな市(まち)の上空をとおって、ある人々が現在とみなしている--まるで、このいまは<現在>ではないかのように--時代にもどることができるのである。(324) - Alejo Carpentier "Los pasos perdidos" "The Lost Steps" 牛島信明 訳、ラテンアメリカの文学 3/3 アレッホ・カルペンティエール『エクエ・ヤンバ・オー』(関西大学出版部)を読む。 マジックリアリズムで有名な著者の長編デビュー作。 表題は、ヨルバ語・ルクミー語で「神よ、御名のたたえられんことを」ほどの意味。 サトウキビ畑を営む黒人奴隷の息子として生まれたメネヒルドは、 ハイチ人である若い人妻ロンヒーナに恋する。 魔術のおかげで恋は成就するが、夫であるナポリオンを刺し、刑務所に入れられる。 出所後に関わった秘密結社でメネヒンドは命を落とす。 ロンヒーナは彼の子供を身ごもっていた。 - ところどころに白人(=西洋)に対する憎悪が吐き散らされる。 言葉でも「ヨーロッパ」を「オーロッパ」、「ナポレオン」を「ナポリオン」と表現し、 彼らの論理をずらそうとする。 ハイチ人ロンヒーナは、「メネヒルド」を「ネメヒッド」と呼ぶが、 最後の最後で、メネヒルドの母も「ネメヒッド」と発音するシーンが印象的である。 - この世で目に見えるものは、どうでもいいものばかりだった。被造物は、無数の見えすいた外見にまどわされていきているが、超越した存在は憐れみぶかい目をむけておられるのだ。(58) - Alejo Carpentier "Ecue-Yamba-O !" "Lord, praised Be God!" 平田渡 訳、関西大学東西学術研究所訳注シリーズ8 神に栄光あれ!、神よ称えられてあれ!、イエス・キリストよ、我らを救いたまえ 魔術的現実、魔術的リアリズム、キューバ、ラテンアメリカ 3/6 カルペンティエールの中篇を読む。 著者の中篇には「時間の操作」が頻繁に用いられている。 楽しみ方は2つ。 (1)完璧に理解してやろうと、頭を使ってじっくりと凝視する。 (2)意識レベルを少し下げて、目の前の光景をぼんやりと眺める。 - A・カルペンティエール『時との戦い 三つの物語とひとつの小説』(国書刊行会)を読む。 帯に「キューバのシュールリアリストにして時間の魔術師カルペンティエール」とある。 短編「聖ヤコブの道」「種への旅」「夜の如くに」も所収。 Alejo Carpentier "Guerra del tiempo. Tres relatos y una novela" "The War of Time" 鼓直 訳、中西夏之 ドエローイング、ラテンアメリカ文学叢書 - - アレッホ・カルペンティエール『バロック協奏曲』(サンリオSF文庫)を読む。 イメージの連鎖がとても美しい中篇。 短編「選ばれた人々」も所収。 「下らん! 甘ったるいマーマレードだ、あんなもの!」「いや、ジャム・セッションといった感じでしたよ、どちらかと言えば」(59) - Alejo Carpentier "Concierto barroco" "Baroque Concerto" 鼓直 訳、お告げを受けた人々 3/7 アレホ・カルペンティエル『この世の王国』(水声社)を読む。 ハイチ史上の弾圧、暴動、反乱、殺戮を描いた中篇。 魔術的リアリズムの定義として有名な「序」がある。 - 驚異的なものというのは予期しない形で現実が変質したり(奇蹟)、現実がその人だけに特別な啓示をもたらしたり、あるいは現実のうちに秘められていて、これまで見過ごされた富が思いがけない形で、もしくはきわめて望ましい形で輝きわたったり、現実のスケールと範疇が大きく拡大(これは一種の極限状態にある高揚した精神しか感じ取れないものだが)した時、初めてそうしたものとして立ち現われる。(12) - オグン・バグダリは刃物による攻撃を導きたまい、理性の女神を窮地に追いこんだ。のちのちまで語り草になるような戦いには、決まって太陽の動きを止めた男とか、ラッパを吹いて城壁をなぎ倒した男とかが現われるものだが、そのころも、裸の胸板で敵の大砲の筒先をふさいだ男や、身体で銃弾をはね返す力を備えた男が登場した。(90) - Alejo Carpentier "El reino de este mundo" "The Kingdom of This World" 木村榮一・平田渡 訳、叢書アンデスの風 - - アレホ・カルペンティエル(神代修 訳)「大使閣下」を読む。 『現代キューバ短編小説集』(時事通信社)の表題作に選ばれている。 クーデターに巻き込まれた高官をアイロニカルに描いており、 この辺りの設定が、『方法再説』に敷衍されていったのだろう。 - Alejo Carpentier "El derecho de asilo" 免罪特権、大使閣下、亡命者庇護権 アレッホ・カルペンティエール(木村榮一 訳)『この世の王国』(サンリオSF文庫)には、 「亡命者庇護権」として収められている。 3/8 アレホ・カルペンティエル他(神代修 訳)『現代キューバ短編小説集』(時事通信社)。 1973年に出版された日本のオリジナル短編集。 社会主義下にあるものの、「キューバでは作家や芸術家は革命に公然と反対しないかぎり、 どんな方法・形式を用い、いかなる内容の作品を表現し創造してもさしつかえない」(282) というとても寛大な処置が取られていた。 そのため、収録されている短編はバラエティに富んでいる。 解説にうまくまとめられているので、引用。 - ここに収録した個々の作品にふれると、革命戦争中のゲリラ闘争をテーマにしたもの(「平原の人々」)、革命前の退廃的で無気力なブルジョアジーや小ブルジョアジーのけだるい生活を描写した作品(「ラチュールの歌」)、キューバ農民の生態をリアルに描いた短編(「湿地帯で」)、典型的な心理小説(「死を悟るこの長い仕事」、「発見」)、社会主義リアリズムに則った小編(「プラヤ・ヒロンの三日」)、反革命的ではないが非革命的な知識人の生態をみごとにとらえた傑作(「おれはここに留まる」)、ラテン・アメリカの政治の特徴であるクーデターと政治亡命をすぐれた筆致で摘出したパロディー(「大使閣下」)、革命前の共和政時代を中心にしたキューバの歴史を軽妙に批判したすぐれた作品(「その共和国の名は?」)、そして無知で生まじめで少々ずるくて小心な庶民の生活を追及したユーモア小説(「決闘」)などがあって、テーマといい内容といい手法といい、きわめて多様で多彩である。社会主義文学が公式的だという批判が、キューバにかんして通用しないことは、これらの作品を一読されれば、明らかであろう。(286) - 典型的な心理小説を評せられている「死を悟るこの長い仕事」「発見」の2編が、 カフカ・ベケットっぽくて特によかった。 - アレホ・カルペンティエル「大使閣下」、フェリクス・ピーター・ロドリーゲス「死を悟るこの長い仕事」、 オネリオ・ホルヘ・カルドソ「湿地帯で」、セサル・レアンテ「その共和国の名は?」、 ルイス・マレ「プラヤ・ヒロンの三日」、エドムンド・デスノエス「おれはここに留まる」、 エンリーケ・オルトゥスキ「平原の人々」、アントン・アルファト「発見」、 ルイス・アグエロ「決闘」、ミゲール・バルネー「ラチェールの歌」 3/9 レニー・エアース『赤ちゃんはプロフェッショナル!』(ハヤカワ文庫NV)を読む。 大富豪の赤ちゃんを誘拐し、レンタルしてきた「プロの赤ちゃん」と交換。 しかし、大富豪はよく躾けられた「プロの赤ちゃん」を気に入ってしまって…という話。 コージー・ミステリーっぽい感じで、力まずに読める。 全体に流れるユーモア・優しさが気持ちいい。 - いったい人生とはなんなのか? 世間一般の観念や信仰、モラル、慣習、行為その他を徐々に放棄していく過程にすぎないじゃないか? われわれ人間は、ちょうど蛇のように、つぎつぎに脱皮をとげていく。成人して五十年後に、はじめて真の自分を理解するようになるのだとすると、死ぬのはまことにくやしい。この点、わたしはふつうの人より将来にたいしてやや悲観的かもしれない。これも、さっきいった冷たい希薄な空気のせいじゃないかと思うんですけどね。ともかく、この世に心から信じられるものはきわめてすくない、いかなるばあいにも感傷的になってはならない、といった一種の悟りが身についてしまっていた。(233) - Rennie Airth "Snatch!" スナッチ!、略取誘拐 宇野輝雄 訳 - - レニー・エアース『夜の闇を待ちながら』(講談社文庫)を読む。 1921年に起こった猟奇殺人の謎に迫るサイコ・スリラー。 帯に「ロバート・ゴダード絶賛!」とある。 じつに18年ぶりの著作。 とても丁寧な描写で、細部まで書き込まれているのだが、 どれもこれもサスペンスのガジェットを体よく使っているだけであり、 突き抜けたものを感じなかった。 秀作ではあるが、傑作ではない。 - あと、解説を読むかぎり、訳者は"Snatch!" "Once a Spy"を持っていない(=読んでいない)。 『夜の闇〜』を「30年ぶり」の作品と言ったり、 『赤ちゃんは〜』を「未成年」の誘拐がテーマだと言ったり…。 - Rennie Airth "River of Darkness" 田中靖 訳 2000年度フランス警察小説賞グランプリ 2000年度MWA賞、マカヴィティ賞、アンソニー賞の最優秀長編賞ノミネート作品 - - レニー・エアース著作リスト Snatch! (1969) Once a Spy (1981)*未読 River of Darkness (1999) The Blood-Dimmed Tide (2004)*未読 *"Snatch!"の前にアフリカの政治家を主人公にした『第五の季節』を書いているが、どうやら出版されなかったらしい。 3/10 スチュアート・ウッズ『警察署長(上・下)』(ハヤカワ文庫NV)を読む。 ジョージア州の田舎町デラノという架空の街を舞台として、 警察署長3代(40数年!)にもおよぶ殺人事件を描く大河警察小説。 猟奇殺人だけでなく、人種や政治も大きなテーマになっている。 (KKK(クー・クラック・クラン)が微妙に絡んでくる) 細部を見つめることで大きな全体を書き出している、非常によく書けた小説である。 - 「変化ってもんなんだろうな。このわたしが変化を恐れるようになるとは思ってもみなかった。--自分がコントロールできるような変化じゃないんで。わたしが頭を悩ましてるのはそこなんだ。この事態はわれわれをコントロールしはじめている。われわれがそれをでなくてな。遅れないようにするために走らにゃならんという気がしたのは、わたしの生涯ではじめてだよ」(下188) - Stuart Woods "Chiefs" 真野明裕 訳 アメリカ探偵作家クラブ(MWA)最優秀新人賞受賞作 ミステリマガジン「読者が選ぶ海外ミステリ・ベスト100」 (1991) 26位 文春傑作ミステリー・ベスト10 1984 海外部門3位 大河ミステリ、大河警察小説、大河小説、謎解き小説、地方史 - - スチュアート・ウッズ『風に乗って』(早川書房)を読む。 「海洋冒険ロマン」と帯で謳っているが、250ページを過ぎても、 一向に海に出る気配がないのはどうだろう。(本編は全334ページ) 今回はIRA(アイルランド共和国軍)が絡んでくる。 一つのジャンルにとらわれないスリップストリーム系だと思えば、 めまぐるしく移り変わる、ぐちゃぐちゃした展開を楽しめる。 希望溢れるラストは、大変よい。 - 彼の名前を聞いて感じた危惧があまりにも強かったので、ぼくは自分の名前についても愛郷心の問題についてもわざわざ相手の言葉を訂正することはしなかった。 「あのう……あなたとアニーは……?」兄妹だ、とぼくはじかに神に向かって言った。二人は兄妹であってくれますように。 「夫婦なんだよ、きみ」と彼はにやにやしながら言った。その声音には同情がこめられていた。「すまんね」(33) - Stuart Woods "Run Before the Wind" 真野明裕 訳 海洋冒険スリラー、海洋冒険ロマン、海洋小説、ヨット文学、ヨット小説、冒険小説、 青春小説、教養小説 3/13 スチュアート・ウッズ『潜行』(ハヤカワ文庫NV)を読む。 今回はKGB(国家保安委員会)、CIA(アメリカ中央情報局)など。 スウェーデンに対するソヴィエトの陰謀に気づいたキャサリン・ルールの冒険譚。 助っ人として、『風に乗って』の主人公ウィル・リーが登場する。 主人公と敵をほぼ同等の分量を使って描写することで、緊迫感が増しており、 一編の小説として、今までで一番よくまとまっている。 - できすぎた偶然だからこそ、まさに偶然なんだ(315) - Stuart Woods "Deep Lie" 真崎義博 訳 スパイ小説、スパイ・スリラー、国際陰謀小説、国際謀略小説、エスピオナージ - - スチュアート・ウッズ『湖底の家』(文春文庫) 帯には「こんやはこの湖の夢を見そうだ--スティーヴン・キング」とあるが、 裏でS・キングの本がちゃっかり紹介されている。 ファンタジーなのか、ミステリーなのか、 その間にある軸が都合のいいようにシフトしてしまっており、 何度も首を捻りながら、やっとのことで読み終えた。 ウッズならもっと面白いものを書けるはずである。 - 「そのブラウス、いいね」ややあって、スカリーが言った。微笑する。「どうやったら脱げるのかな?」 「それがめったなことでは脱げないようになってるの」(174) - 「ボウはきみの正体を知った。きみは彼が知ってたことを知っているが、彼が知ったことをきみは知っているとは、彼は知らないんだ」頭をはっきりさせようとして首を振る。「そう、そういうことだ。きみにチャンスがあるとすれば、ただひとつ、彼が知ったことをきみが知っているのを、彼がまだ知らないということだけだ」 「なんだかアボット=コステロ調のダジャレみたいね」(305) - Stuart Woods "Under the Lake" 矢野浩三郎訳 ゴシック・サスペンス、オカルト・ミステリ、ゴースト・ストーリー、ファンタジー 怪奇心理サスペンス 3/14 スチュアート・ウッズ『ホワイト・カーゴ』(文藝春秋)を読む。 帯の裏には「南米コロンビアには三つの色がある/緑の火=エメラルドの緑/茶色い黄金=コーヒーの茶/白い悪魔=コカインの白/ときに その白は「白い肉体」をさすこともある……」とある。 妻を殺された主人公が、生きているかも定かでない娘を探しにいく話。 無意味なフォーシャドウィング(foreshadowing)が少なく、 視点(語り手)も一つに固定されているため、とても読みやすい。 (技法については後日詳述予定) 主人公の心理面をじっくりと追うことができる、よく書けた冒険小説である。 毎度のことながら、「航空」も「海洋」も、少ししか出てこないけれど。 - 「では、逮捕される心配はない?」 「もちろん。たとえ組織のだれかが逮捕されたとしても、裁判にかけられることはない。かりにかけられたとしても有罪になることはないし、たとえ有罪になったとしても、刑に服することにはならないでしょう。買収できない人間など、ほとんどいませんし、例外には消えてもらうだけです」(314) - Stuart Woods "White Cargo" 矢野浩三郎 訳 海洋航空大冒険小説、本格海洋冒険小説、白い悪魔、白い肉体(人身売買に供される白人娘) - - スチュアート・ウッズ『草の根』(文春文庫)を読む。 文庫版で読んだのだが、ハードカバー版には「S・ウッズ会心のミステリ大作/舞台はふたたび『警察署長』のジョージア州デラノだ! ウィル・ヘンリー・リー 初代警察署長の孫が帰ってきた 上院議員選に立候補したウィル・リーを悪夢のようなレイプ殺人事件が揺さぶる。そして、背後には不気味な銃口が----!」とある。 読み応えのある政治小説。 ちょっとうまく行きすぎな(ご都合主義的な)気もするが、 なんとなく納得させられてしまうのは、著者の筆力ゆえだろう。 『警察署長』に次ぐウッズの代表作と言えそうである。 - 「あなたはお金持ち?」「貧乏人にかぎってそう思っていて、本当の金持ちはそうは思わないものでしょう」(186) - 「まさか、とんでもない、よかったさ。だが、はっきりいって、これは正しいことではない」「まあ、よかった。あたし、正しいことって嫌いだもの。あたしのどこにも、正しいとこなんかありゃしない」(362) - 「おもしろい話」ケイトが言った。「それをネタに小説が書けそうだわね」(598) - Stuart Woods "Grass Roots" 矢野浩三郎 訳 草の根選挙、政治小説 3/15 スチュアート・ウッズ『パリンドローム』(文春文庫)を読む。 暴力夫と離婚した主人公が、島で出会った双子の一人に恋する話。 「暴力夫による追跡」と「双子との恋」は、別々に進行する。 この2つがなかなか交錯しないのは、ウッズらしいと言えば、言えなくもない。 毎度のことながら、結末を急ぎすぎているような印象を受けた。 - 「双子って回文みたいですよね」と言った。 「それはいい得て妙だ」医師がうなずく。「回文とは、一卵性双生児の比喩にぴったりですな」 「なんです、それ?」ジミーが訊いた。「そのことばは?」 ジャーメインが説明した。「回文というのは、文学的技巧のひとつで、前から読んでもうしろから読んでもおなじに読めることばや文のこと、そういう詩もあるのよ。どっちから読んでもまったくおなじ」(69) - そういえば警察官になってから、個人的に知っている人間が事件の被害者になり、その遺体を目にしたのは、これが初めてだった。だいぶこたえた。(305) - Stuart Woods "Palindrome" 矢野浩三郎 訳 サスペンス小説 - - スチュアート・ウッズ『ニューヨーク・デッド』(文春文庫)を読む。 ビルから飛び降りた女性を目撃した主人公の話。 ウッズの作品は、年を追うごとに、どんどん劣化している。 それでも一定のリーダビリティだけはしっかりと維持しているのがすごい。 裏の帯に「ホワイト・カーゴ スチュアート・ウッズ 文庫化準備中」とあるが、 諸般の事情で中止を余儀なくされたのだろう。 - 「あなた、自分を過小評価してるわ」彼女はいった。「でも、自信過剰が生きていくためのひとつの方便である世界では、そういうひとは魅力的だわ」 「注文しよう」ストーンはメニューをとりあげた。 「ディナーには、あなたが食べたい」ケアリーはいった。 「シーザー・サラダからいこう。それからオッソブーゴだ」彼はいった。「それからデザートにおたがいを食べればいい」 「わたし、かならずデザートの入る余地は残してあるの」彼女はいった。(202) - Stuart Woods "New York Dead" 棚橋志行 訳 都会派、ホラー、都会ミステリー、ビッグ・アップル(NY)、地名三部作 3/16 スチュアート・ウッズ『サンタフェの裏切り』(文春文庫)を読む。 ある日、妻と親友と「自分」の死体が発見されるところから、物語が始まる。 いかにもミステリー的な「書き出し」と「オチ」ではあるけれども、結末が唐突すぎる。 大風呂敷を広げすぎて、慌てて閉じたような感じである。 でも、ウッズの小説は、「読める」から不思議だ。 - 帯の裏にある 「いますごく売れている ウィリアム・D・ピーズ 冬の棘 来月、売れる気がする ピーター・レフコート 二遊間の恋」 という惹句は笑えた。「気がする」って…。 - 「なぜ女性の年を知るのが重要なの?」 「その人物の年を知るのが重要なんじゃない。重要なのは、その人物が自分の年齢を口にするかどうかなんだ。きみはテストに合格だ」(190) - 「結婚は?」 「してない」 「なぜ?」 「幸運だったから、たぶん」 バーバラは吹き出した。「あなたの結婚への障害って何なのかしら?」 「たいしたことじゃない。ただ結婚というのは、ほかに選択の余地がないとき、結婚してないことに耐えられなくなったときにすべきものじゃないかと思っているだけさ。そんな状態に陥ったことはない。とにかく、相手の女の子と同じタイミングでは」 「完璧な女性を見つけてないんでしょう?」 「たしか、一度だけある」 「どうなったの?」 「向こうが完璧な男を探していた」 彼女はまた笑った。「手垢のついたジョークだわ」 「古臭い質問をするからだ」(195) - Stuart Woods "Santa Fe Rules" 土屋晃 訳 悪女ものミステリー、地名三部作、サンタフェの流儀 - - S・ウッズの小説には、以下の特徴(というか弱点)がある。 (1)foreshadow(ing)(flashbackの反対、予示、予表、予兆) 「この時○○は、○○であることを知らなかった」のように、 未来を予言する手法だが、時代遅れの感がある。 - (2)視点の切り替え 章や節が変わるたびに、めまぐるしく語り手が変わる。 「○○は、○○に向かっていた」など、たいていの場合、 第一文で誰が視点となるかは明示されている。 - (3)時間 あるシーンで、一定の時間が経過した場合、 一行開けるのが普通であるが、ウッズはしない(ことが多い)。 - (4)アクション・シーンの短さ 書きたくないのか、書けないのか、よくわからないが。 - (5)急ぎすぎる結末 答えはあっているけれども、美しい解法ではない。 アクションが少ないというのも、理由の一つだろう。 - 最近の小説になると、(1)foreshadowingは、少なくなり、 (3)時間が経つと、きちんと一行空けるようになっている。 また、(2)視点が固定された小説もある。 が、(4)(5)は相変わらずである。 3/17 スチュアート・ウッズ『LAタイムズ』(文春文庫)を読む。 帯に「非情だけが美徳である街で/映画だけを愛した/ヤング・マフィア」とある。 裏稼業で暮らしていた青年が、映画の世界で成功を収める話。 主人公の駆け引きが絶妙で、ぐいぐい引き込まれた。 (ちょっと、うまく行きすぎな感じもするけれども) シドニー・シェルダンの絶頂期を髣髴させる、スピード感のある展開。 傑作と言うほどではないが、かなりのレベル。 - 「あなたは王子さまのような人ですね」 「わたしは王だよ。王子はきみのほうだ」(292) - 「気前のよさというのは、いってみれば両面通行の道路なのよ。あなただってまったくの世間知らずじゃないんだから、見返りを求めない慈善精神をひとかけらでももっている人間が、この街のこの業界にいるなんて信じないでしょう? たしかに業界紙には、だれかさんがどこやらの慈善事業に多額の寄付をした話が載ってる。でも本音では、おおかた慈善事業に関係する人間と商売がしたい一心なのよ」(394) - Stuart Woods "L. A. Times" 白石朗 訳 地名三部作、ハリウッド、映画産業 - - スチュアート・ウッズ『デッド・アイズ』(角川文庫)を読む。 (一時的に)盲目になった女優が、ストーキングされる話。 肝は「相手が見えない」ことである。 だから、被害者「側」から書くだけでは不十分で、 被害者「だけ」からしか書いてはいけないのだ。 謎解きが中心になり、ストーカーの執拗ないやがらせが、 中盤以降盛り上がっていかないのは、本当に勿体ない。 - 運転席に座ったまま、しばらく涙をこらえる。ラーセンは泣くのが嫌いだった。(311) - 「君の瞳は贅沢すぎる。美しく輝くうえに、物を見ることができるなんて」(338) - Stuart Woods "Dead Eyes" 峯村利哉 訳、平山夢明 解説 現代犯罪小説、セレブレティー・ストーカー、ストーカー犯罪、 ストーキング、つきまとい犯罪、脅威査定(Threat Assessment) 3/20 スチュアート・ウッズ『囚人捜査官』(角川文庫)を読む。 死刑囚が警官(=heat)となり、カルト宗教に潜入していく話。 予想外の展開で、予想外に楽しめた。 難点は、主人公の性格がいまいち掴みきれなかったこと。 それにしてもなぜ、ウッズ作品の登場人物は 揃いも揃ってロースクールに通っているのだろうか? あと、ローファーもよく出てくる。 - なんたる図々しさ。なんたる愚かしさ。まさに倣岸不遜な妄想だ。この世界が完璧ではないことを、ジェシーは痛いほどよく知っていた。(91) - 「ねえ、全部ただってほんと?」 「ダーリン、金持ちになればなるほど、金を払う必要はなくなるんだ」(394) - Stuart Woods "Heat" 峯村利哉 訳、林家こぶ平 解説 全米屈指の職人作家が放つ、ド級のハードサスペンス - - スチュアート・ウッズ『不完全な他人』(角川文庫)を読む。 日常に不満を抱える二人が飛行機でたまたま隣り合わせ、 ヒッチコックの「見知らぬ乗客」にインスパイアされて交換殺人を思いつく話。 途中までのプロットは、いかにもミステリという感じで ワクワクしながら読めたのだが、後半だれすぎ。 むりやり主人公を「善人」にしてしまっているようで、居心地が悪かった。 - 「可能なかぎりいい子を演じるわ」 「いい子ぶるのは公共の場だけにしてくれ」(193) - Stuart Woods "Imperfect Strangers" 峯村利哉 訳 巨匠が放つ、初のサイコスリラー問題作 系譜小説(saga、サガ、サーガ) 3/22 ハーブ・チャップマン『カインの檻』(文春文庫)を読む。 著者の「すべては、わかっている」とでも言いたげな、 物知り顔の著述スタイルが鼻についた。 プロファイリングは、犯罪者を類型化することで成り立っているが、 本当に、人間はそんなに単純なのだろうか。 この結末(=どんでん返し)では、まったく答えになっていない。 - 帯には、こうある。 「圧倒的な恐怖と大いなる感動。すぐれたミステリだけが描ける深さと感動がここにあります。死刑目前の連続殺人鬼との熾烈な戦い。殺人者の心の闇を真正面から見つめ、『永遠の仔』『模倣犯』に並ぶサイコ・サスペンス。熱くヘヴィに心を撃つ1200枚。」 ・果たして、並んでいるのだろうか。 ・訳書で原稿用紙換算というのはどうなんだろう。 ・帯で「ミステリ」、裏表紙で「ミステリー」と表記ゆれ。 - 「なによりも重要な秘訣は、心をしっかりともつことですよ。そうすれば、すべてうまくいくものです」 ジョーは、ジェンキンズがなにか別の秘訣を、自分が責任をもたずにすむ秘訣を教えてくれたらよかったのにと考えた。(495) - 怪物という言葉がふさわしくないほど温和な人間に見えた。殺人者カインの徴など、どこにも見えなかった。どうすれば、このような歪んだ存在を理解できるだろう? どうすればひとりの人間の性格がこんなにひずみ、邪悪なかたちに変形することができるのだろう? 彼のような邪悪な存在はなにを感じるのだろう? 「寒い」 「なんですって?」考え込んでいたジョーは我にかえった。 ドラムは半ば閉じた眼で彼を見つめた。「寒いといったんだ」(620) - ドラムの憎悪がもたらしたものも、彼とともに埋葬されることになるのだろうか? いや、それは生者にのこされた仕事だ。(644) - Herb Chapman "The Book of Cain" 石田善彦 訳、吉野仁 解説 3/23 中村文則『土の中の子供』『悪意の手記』(ともに新潮社)を読む。 『銃』『遮光』に続く、著者の小説(集)である。 テーマは暴力。安易な解答は、もちろん用意されていない。 読者を逃げ場のない袋小路に追い込むダークな小説群。 ・「蜘蛛の声」 叙述トリックのような短編。 ・『悪意の手記』 傑作。胸をえぐるような苦悩をひたすら突き詰めている。 ・「土の中の子供」初めて「被害者」の視点から描かれている。まだ掘り下げが甘い。 最初は、ドストエフスキーに比べ、圧倒的に狭い世界が不満だった。 読み進めるうちに、もしかしたら、この「狭さ」は、行き場のない苦悩をリアルに描くため、 戦略的に選ばれているのかもしれない、という気がしてきた。 - 『悪意の手記』だが 帯には「芥川賞受賞後 最新刊」というよくわからないコピーが書いてある。 封入チラシには「芥川賞受賞、第一作」とあっさりと書いてしまっている。 いいのだろうか。 - 私は安全な場所から、世界を感じている。今の私は、世界に存在を知られていないのだ。もしミサイルでも持っていれば、私はそれをここから発射するかもしれない。世界は混乱するだろう。どこから飛んできたかわからないミサイルに、人は恐怖するだろう。私は隠れている。誰に対しても、見つかるつもりはない。(「蜘蛛の声」120) - このまま黙っていれば、私の目の前に、これ以上ない残酷な場面が展開される。そして自分は、それを隠れて見ているという、卑劣極まりない状況を、体験することになる。そこには、世界の醜悪の全てがあるように思えた。これを体験すれば、卑劣さに悶え、悪意の中に溺れ、この世界で最もくだらない存在、最も下劣な人間になる。その時、私は恐ろしいほどの感情に襲われるのではないか。快楽を、感じるのではないか。悪意の渦に呑まれ、今まで経験したことのない世界へ、堕ちていくのではないか。(『悪意の手記』148) - 私が勝ち取ったものは、これなのだろうか。暴力の下をくぐり抜け、土の中から這い出して山を降りた私の得たものは、このような日常に過ぎないのだろうか。彼らがなぜ笑っているのか、私にはわからなかった。何か、他になるのではないだろうか。無事でいられたことを全身で喜ぶような、私の全てが震えて止まらないような瞬間が、あのような暴力と釣り合うような、喜びが、この世界にはあるのではないのだろうか。(「土の中の子供」86) - 第3作「蜘蛛の声」 第4作『悪意の手記』第18回三島賞候補作 第5作「土の中の子供」第133回芥川賞受賞作 3/24 金子務『ガリレオたちの仕事場 西欧科学文化の航図』(ちくまライブラリー)。 近代的知が生まれた17世紀の科学を眺める一冊。 望遠鏡は高尚で、顕微鏡は低俗と思われていたこと、 暗号はわかりにくく、記号はわかりやすく、それぞれ作られていること、 以上の2点(対比)が特に興味深かった。 ただ、この手の話なら多木浩二なんかの方がよっぽどうまく書ける気がする。 - フランシス・ベーコン『新機関』が、『ノヴム・オルガヌム』(5)、『新オルガノン』(114)、 『大革新*』(215)と、激しく表記ゆれしているのは、どうなんだろう? (*正確には、「大革新」=第1部「学問の進歩」+第2部「新機関」、当初は6部構成の予定) - 「望遠鏡と新哲学」(目次では、なぜか「望遠境」となっている)「顕微鏡のレトリック」 「モデルとしての機械時計」「温度計目盛と標準化」「暗号術と先取権争い」 「象徴図形から記号体系へ」「観測遠征隊の思想」「複数世界とETへの夢」 - 摂氏目盛に慣れている日本人の目からすると、なぜ当初の温度計の目盛に一〇進法が基準にならなかったのか、不思議に思われる。しかし、10の因数は2と5しかないが、たとえば12なら2、3、4、6と四個もあって、理屈の上では一二進法のほうがすぐれているともいえる。一〇〇目盛についても同じ議論ができるだろう。列氏の八〇目盛や華氏の一八〇目盛に対して摂氏の一〇〇目盛のほうが切りのよいラウンド数だというのは、理屈ではなく、われわれの慣れのせいである。(126) - 十二宮は起点をおひつじ座の白羊宮とするが、それがもともと春分点の位置にあったからである。しかし、黄道歳差によって春分点は少しずつ移動し、今日ではうお座(双魚宮)にある。これから逆算すると、春分点がおひつじ座にあった時点は紀元九〇年頃といわれ、ちょうどあの二書(*)の出現する西洋占星術の出発点と一致する。(290) (*マニリウス『アストロノミカ』(天文学)、プトレマイオス『テトラビブロス』(四書)) 3/27 ハワード・ラインゴールド、ハワード・リヴァイン『ハイテク・トーキング』(新潮文庫)を読む。 「酸性雨」「電波スモッグ」「ホログラフィ」「炉心溶解(メルトダウン)」 「温血の恐竜」「エンドルフィン」「黒体輻射」「位相幾何学(トポロジー)」など、 知っているようで知らない科学の専門用語(ターミノロジー、ジャーゴン)を 「定義」「具体的意味」「話のタネ」の3つのパートで面白おかしく解説したもの。 「本書のオリジナル版では、全部で七〇項目が掲載されていますが、長さの関係で、比較的日本人になじみやすいものを、三五項目選びだしました」と「はじめに」にある。 「軽い読み物」という感じで、「エッセイ」程度には楽しめた。 - 核分裂(フィッション)と迷信(スーパースティション)(親と子どものための教訓詩。クリスマス・シーズンに最適) これはフレデリック・ウェルミスの物語/フレッドの両親は喧嘩中/そこでサンタに手紙を書いた/手紙は二通、複写式/一通はパパへ、一通はママへ/願い事は同じ、プルトニウム少々/相手と全然相談せずに/それぞれ大きな塊を買ってきた/驚かそうとパパとママ/やっぱりおたがい知らないままに/プルトニウムをフレッドの靴下にいれ--/一〇平方マイルが焦土地帯(115) - イギリスの偉大な生物学者、J・B・S・ホルデインいわく、宇宙は「われわれの想像以上に奇妙な場所というばかりではない--われわれに想像できる以上に奇妙な場所である」これは特殊相対性理論を念頭においての発言ではないが、限界を越えて想像力の羽根を伸ばすような科学的概念として、相対性理論以上に適切な例はない。(212) - Howard Rheingold & Howard Levine "Talking Tech" 酒井昭伸 訳 - - ハワード・レヴァイン、ハワード・ラインゴールド『コンピュータ言語進化論 思考増幅装置を求める知的冒険の旅』(ASCII 海外ブックス)を読む。 自然言語から、いかにプログラミング言語が生み出されたかを詳述した一冊。 ユークリッド、アリストテレス、フワーリズミー、ルール、デカルト、ベーコン、 ニュートン、ライプニッツ、シャノン、ブール代数、ロバチェフスキー、リーマン、 ラッセルのパラドックス、ホワイトヘッド、ゲーデルの不完全性定理などなど、 前半は、自然言語が、形式言語を経て、プログラミング言語に到達するまで。 後半は、7つのプログラミング言語の特長とその意義を解説している。 (FORTRAN,COBOL,BASIC,LISP,Logo,Pascal,FORTH) 本書は「いかに人は思考を抽象化するのか」を巡るスリリングな知の冒険である。 - もう一つの目玉として、170ページ3行目から18行目までの全文と171ページの全文が重複しているという、ありえない誤植(校正ミス)がある。 - レンガを積んで大聖堂を建てる。音符を連ねて交響曲を作曲する。あるいはマイクロコードを並べてワードプロセッサを構築する。いずれにしても、きわめて複雑なパターンを扱いやすい大きさに区切るための方策を考えなければならない。その方策は、建築でも作曲でも、コンピュータ・プログラミングでも共通しているようで、「抽象化の階層を積みあげる」ことにつきる。つまり、基本的要素を配列して記号構造を構築し、情報を扱いやすい大きさの「レンガ」に切りわけて、そのレンガを使って次なる抽象化のレベルを組みあげるのである。(123) - 言語の力が文字という記号そのものや、文字を伝達する媒体から直接わきだすのではないのと同じように、コンピュータの力も電子信号や回路そのものに潜んでいるわけではない。粘土板に刻まれた筋や紙上のしるし、電子スイッチ回路のパターンなどで構成されるコードに人間の解釈が加わってはじめて、コードは情報や知識を伝える力を持つのである。(141) - H.Levine & H.Rheingold "The Cognitive Connection" 椋田直子 訳 3/28 アストリアス『大統領閣下/グアテマラ伝説集』(集英社)を読む。 「大統領閣下」 グァテマラ唯一のノーベル文学賞作家の代表作。 書き出しから、一気にイメージの奔流に呑み込まれる。 凝りに凝った構成で、頭が若干混乱することもあるが、 なぜか、それさえも快楽だと感じてしまう。 マジックリアリズム全開のハイテンションな傑作。 メタレベルを抑え、オブジェクトレベルのみで描ききっているのも乙。 - 「グアテマラ伝説集」 アストリアスによって書き直れた伝説・神話。 西洋的な常識がまったく通用しない、摩訶不思議な世界である。 - <でく>はふたたび眼を閉じ、夜の中に身を沈めて痛みをこらえ、くじいた脚を楽な位置に保ち、裂けた唇を手でおさえた。しかし熱くなったまぶたをほどくように開いた時、血に染まった空が上をよぎった。稲妻が光る中を、毛虫たちの影が蝶に変身して逃げていった。(18) - カナレスはこぶしでテーブルをたたいた。 「腹黒いやぶ医者め!」 そしてもう一度げんこつでテーブルをたたき--皿や、ナイフにフォーク、それにコップなどガチャガチャと音をたてた---、その札つきの悪徳医者を締め殺すだけでは収まらず、破廉恥が破廉恥を生む社会システム全体を締めあげるかのように、指を開いたり閉じたりしていた。だからこそ--彼はそう考えた--これらすべての悪人どもに耐えられるよう、素直な人間たちには天国が約束されているのだ--まさに宗教のぺてん--。だが、そうであってはならない! らくだの天国などはもうたくさんだ! わしは下から上、上から下まで、全体を貫いた、完全なる革命を成し遂げてみせる。民衆はこのような寄生虫、公職を食いものにする連中、畑仕事をしていた方が似つかわしいようななまけものに対して立ち上がらなければならない。一人一人がなにかを破壊することだ。破壊し、ぶち壊すことだ……神が存在してはならないし、あやつり人形のような人間も存在してはならない……(175) - Miguel Angel Asturias "Leyendas de Guatemala / Leyendas / Legends of Guatemala" Miguel Angel Asturias "El Senor Presidente / The President" 内田吉彦、牛島信明 訳、ラテンアメリカの文学2 フランス語訳で、読書協会の国際部門賞受賞 ノーベル文学賞受賞、国際レーニン平和賞(諸国平和強化レーニン賞)受賞 ミゲル・アンヘル・アストリアス 3/29 アストゥリアス『緑の法王』(新日本出版社)を読む。 バナナ小説三部作の第二部である。 前半は、善/悪、敵/味方の区別がはっきりしすぎており図式的だが、 後半になると、うまい具合にそれらが混交されてくる。 ただ、『大統領閣下』に比べると小粒な印象はある。 - 例の赤燐のような赤毛の酔っぱらいは、睡魔よりも酔いでフラフラになって、パーティーの席を抜けだしていた。夜の歩みはとめられないと知って、男は自分の目をえぐりだし、それを口へほうりこみ、グッとのみくだして、盲になったという身ぶりをした。目をのみこんでしまったのだから、星のきらめくまるい夜空がまわりつづけてもかまいはしない。これで、夜をとめることができたではないか? 少なくとも自分にとっては、夜の歩みはとまったのだ。足と肘でさぐりながら、男はサラホバルダの家へ歩いていった。あの動かない空、目をのみこんだ瞬間にピタリと静止したあの空について、あいつはなんて言うだろうか。のみこんだ目はいやな味がして、しきりにゲップがでた。吐き気がして、男はもどした。目も、目でみたものも、夢に見たものも。ああ、目をひたしているこのソース。まるで蒸留水だ。涙の水。涙は蒸留水。点滴器で一滴一滴、現実の生活の上にしたたり落ちる…… しかし小屋にたどり着いて、サラホバルダのからだが床にころがっているのに感づくと、さすがの彼も目玉なしではすまされなくなった。喉の奥へ指をつっこみ、男は目玉を吐きだして、てのひらでうけた。半熟の白身とガラス球。それをつまんで、鼻の左右のもとの場所にもどすと、床の上のこのかたまりがスカートをはいているのに気がついた。目玉をはめて、よく見えるようになるまえは、こいつは飲み友だちのラスコンではないか、と思っていたが、それはまちがいだった。光の消えたあちらの星は、酔いつぶれて、奥でグウグウ眠っていた。(282-283) - Miguel Angel Asturias "El Papa Verde / The Green Pope" 鼓 直 訳、世界の革命文学 バナナ三部作『颶風(強風)』『緑の法王』『死んだ人たちの目(死者たちの眼、死者の眼)』 ミゲル・アンヘル・アストゥリアス - - M・A・アストゥリアス『マヤの三つの太陽』(新潮社)を読む。 著者の想像力の源泉を覗き込むことができる一冊。 本書は、「散文」としてではなく「詩」として読まなければならない。 解説にもあるが、マヤ神話を写実的に書こうとすると 自ずとシュルリアリスム的になってしまうという点が面白い。 - 人が入るように、ぼくは自分の存在に、自分の意識に立ち戻った……。人が出てゆくように、ぼくの非存在に、潜在意識に、立ち戻ったのだ……。ぼくは神に立ち戻った……だがどこから……どこからなのだ……。涙がこぼれる。単語(ことば)がみつからない。ぼくの滅びてしまった町の塵芥のなかで言葉(パロール)を失くしてしまったのだ。ぼくは口をきかなかった。(32) - Miguel Angel Asturias "Trois des Quatre Soleils / Tres de Cuatro Soles" 岸本静江 訳、創造の小径 四つの太陽のうちの三つ ミゲル・アンヘル・アストゥリアス 3/30 フアン・ルルフォ『燃える平原』(書肆風の薔薇)を読む。 生涯に2つの著作しか残さなかったメキシコの小説家、フアン・ルルフォの短編集。 ほぼ全ての作品で「暴力と死」のモチーフが出てくるが、 油断すると気がつかないくらい自然に、物語に溶かし込まれている。 ラテアメらしからぬ抑制された文体のせいかもしれないが、 描かれる世界の上に透明な箱がかぶせられているようなイメージを感じた。 「おれたちのもらった土地」「燃える平原」「北の渡し」 「犬の声は聞こえんか」「アナクレト・モローネス」の5編が特によい。 - 今こうしていると、なんだか目的地にまだたどり着いていないような気がしてくる。ここがただ通りすがりの場所で、しばらく休んでるだけなのだと思われてくる。じきにここを出て、また歩きつづけなければならないような感じだ。どこへ行くのだか見当もつかないが、とにかく先へ行かねばならないのだ。(74) - Juan Rulfo "El Llano en Llamas / The Burning Plain and Other Stories" 杉山 晃 訳、叢書アンデスの風 - - フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』(岩波文庫)を読む。 登場人物たちは、死者にしか心の内を語ることがない。 『ペドロ・パラモ』の世界には、死者しか存在しない。 語ることを可能にする「死」と、不可能にする「死」。 この対立項を、ルルフォは「記憶」によって乗り越える。 それにしても、「死」を介在させなければ、 何も語ることができないというのは、なんたる世界だろう。 - 「さあね、何年も顔をあげなかったもんだから、空のことなど忘れちまったよ。ま、空を仰いだって、どうにもなりゃしなかっただろうよ。天はうんと高いし、目もずいぶん弱ってたから、わしにゃただ地面だけ見えてりゃ言うことはなかったからね。それに、天国へはもう決して行けない、遠くからだって見られやしないってレンテリア神父が言うもんだから、もうどうでもよくなっちまった……。わしの罪のせいさ。でもな、神父様はそんなことなぞ言わなくてもよかったのさ。生きるってことだけで、もういいかんげん苦しいんだから、死んだら別の世界へ行けると思うからこそ、足を動かす力も湧いてくるってもんだろう。天国から門前払いを食わされちゃあ、あとは地獄の門をくぐるしかない。それじゃあう生まれてこなけりゃよかったってことになる……。なあ、フアン・プレシアド、わしにとっての天国はここさ。わしが今いるここだよ」(110) - 「今まで小鳥を何羽殺したの、フスティナ?」 「ずいぶんね、スサナ」 「悲しくはなかったの?」 「悲しかったさ」 「ならどうして早く死んでしまわないの? 何を待ってるの?」 「死を待ってるんだよ、スサナ」 「それだったら心配いらないわ。今にやってくるんだから」(182) - Juan Rulfo "Pedro Paramo: A Novel of Mexico" 杉山晃、増田義郎 訳 Mexico's National Prize for Literature the Cervantes Prize 3/31 Juan Rulfo『El Gallo De Oro』(ERA)を買う。 「読む」ではなく「買う」である。 英訳・邦訳されておらず、スペイン語版しか存在しないのだ。 写真が何枚も掲載されており、パラパラめくるだけでも、結構楽しめる。 - Juan Rulfoが担当した「El Gallo De Oro」「El Despojo」 「La Formula Secreta」の脚本を収録。 表題にもなっている「金鶏」は、原作・プロットをルルフォが担当し、 ガブリエル・ガルシア=マルケス、カルロス・フエンテスが 脚本化したという贅沢きわまりない映画である。 この作品はDVD化されており、英語の字幕もついている(日本語はない)。 - Juan Rulfo "Golden Rooster / The Golden Cockerel" Juan Rulfo "EL GALLO DE ORO y otros textos para cine" Gabriel Garcia Marquez , Carlos Fuentes フアン・ルルフォ『金鶏(黄金の鶏・金の軍鶏(しゃも))』(未訳) - - Fuentes ET AL.『Juan Rulfo's Mexico』(Smithsonian)を読む。 ルルフォが撮影した「写真」をまとめたものである。 「読む」というより「見る」と言った方が適切かもしれない。 モノクロということもあり、光と影のコントラストが強調されている写真が多い。 エッセイも収録されているが、執筆陣が豪華である。 - Juan Rulfo "Inframundo, El Mexico de Juan Rulfo / The Mexico of Juan Rulfo" Carlos Fuentes, Margo Glanz, Jorge Alberto Lozoya ,Eduardo Rivero, Victor Jimenez and Erika Billeter translated by Margaret Sayers Peden 4/3 新潮社 編『私の中の日本人』『私の中の日本人 続』(新潮社)を読む。 丸山健二のエッセイ「金原純男」が目当てである。 母方の祖父について書かれているのだが、 ひねもす、それこそ狂ったように農作業をする祖父の姿は、 一日中、庭仕事に精を出す丸山健二そのものであるように見える。 その他、錚々たる執筆陣で、多少は面白く読めるのだが、 約6ページという制約もあり、胸を撃つような名文には出会えなかった。 - 樫村さんはどうということをしたというような人間ではない。その方面からすれば樫村さん程度の人間は幾らでもいる筈であるが仕事を普通にやって極めて平凡に生きてそれで人を惹かずにいられないということは一般に考えられているのと別な種類の充実がそこにあることを示している。それは刻々の充実とでもいうことだろうか。もし消えて行く各瞬間を過不足なく生きているならば人間はそれ以上を求めることはなくてその瞬間毎に自分の世界、それは結局は人間というものの世界がそこに拡り、又それを端から見てもその人間と他の人間を区別する手掛りは何も得られない。それでその人間も普通ということになる。その普通ということの意味はただ一つでない。(吉田健一、正134) - 他人が決めた価値や意味への小気味いい無頓着。無頼なる自由の心地よさ。自らに率直なるものだけが持つことの出来る誠。それは要するに、認識における、想像力における、人間関係における、つまり、人生のすべてにおける自由というものの、意味とか価値ではなしに、何といおう、その肌ざわりそのものであった。(石原慎太郎、正180) - 祖父の腕力について、伯母たちが話をしてくれた。力持ちの家系だとかで、先祖には女房を便所の屋根へ片手でのせてしまった男や、二俵の米を肩でかついでおよそ二メートル幅の川をまたいだ男や、水を張ったままの風呂を抱えて歩いた男などが目白押しだった。そして伯母たちはおしまいにきまってこう言った。おまえにもその血が流れているのだから、そのうちきっとたいした力持ちになる、と。(丸山健二、正189) - 西脇順三郎と美空ひばり。両者の間にはいかなる点でも類似する要素は一つもないであろう。おそらく日本人という点をのぞいては。しかしながら私の内部ではこのあまりに異質な両者が共存しているのである。私自身ではべつに不思議でも奇異でもないと思っている。ドブロクを飲みながらパウンドを論じて悪いはずがない。ビートルズを聞きながら芭蕉を論じても同様である。何故なら人生はイロニーだからである。(池田満寿夫、続141) - 私の中の日本人は、固有の姓や名で呼ばれる具体的な存在ではなく、それは無数の個別の名で呼ばれる、私もその中のひとりである、人間の状態としてあります。それは、日本人という国家によって強制されたものではなく、無数の個別の生が相互に関係し合う中で、質的に変化しつづける動的な状態なのです。私の中の日本人は、私もその中のひとりであるところの日本人であり、それは個であり全体である運動体のようなものです。(武満徹、続180) - - (正)庄野潤三、野坂昭如、高坂正堯、辻邦生、清岡卓行、安岡章太郎、山口瞳、星新一、大岡信、中村光夫、栗津則雄、江藤淳、堀田善術、河野多恵子、倉橋由美子、向坂逸郎、宮原昭夫、大岡昇平、矢野健太郎、三浦哲郎、中野好夫、吉田健一、富岡多恵子、水上勉、丸谷才一、田村隆一、吉増剛造、小松左京、三木卓、石原慎太郎、金井美恵子、丸山健二、尾崎一雄、円地文子、永井龍男 - (続)森茉莉、小川国夫、梅原猛、福原麟太郎、上林暁、五木寛之、川上徹太郎、松本清張、大江健三郎、安東次男、阿川弘之、渡辺淳一、池波正太郎、吉村昭、加賀乙彦、阿部昭、中村真一郎、平野謙、奈良本辰也、河盛好蔵、遠藤周作、保田與重郎、池田満寿夫、大原富枝、開高健、藤枝静男、佐多稲子、井上靖、司馬遼太郎、武満徹、島尾敏雄、李恢成、井上光晴、中上健次、小田実 4/4 野呂邦暢『草のつるぎ』(文春文庫)を読む。 第70回芥川賞を受賞した第一部「草のつるぎ」と、第二部「砦の冬」を収録した作品集。 自衛隊員の日常が、乾いた精緻な描写によって浮かび上がる。 第一部はかなりの傑作なのだが、第二部は若干間延びしているように思えた。 丸山健二が、解説で絶賛している。 - 伊佐に帰った翌日、高校時代の同級生に会った。彼らはぼくがなぜ自衛隊に這入ったか知りたがった。うまく説明出来なかった。こういえばどうだろう。物質に科学変化を起させるには高い熱と圧力が必要だ。そういう条件で物は変質し前とは似ても似つかぬ物に変る。ぼくは自分の顔が体つきが、いやそれに限らず自分自身の全てがイヤだ。ぼくは別人に変りたい。ぼく以外の他人になりたい。ぼくがぼくでなくなればどんな人間でも構わない。無色透明な人間になりたい。そのためには自分を使いつくす必要があると思われた。かきまわし、熱を加え、叩きつぶさなければならなかった。このような事情をしかしぼくは語ることが出来なかった。何者でもなくなることにどうしてこだわるのか、と彼らはいいたかがっているようだ。それにはぼくは自分に対する憎しみを開陳しなければならない。そこまでは億劫だった。(62) - 誰かが冗談まじりにこんなことを言った。「この本は売れるぞ。自衛隊員が二人で一冊買ったとしても大変な数になるじゃないか」しかし、彼が期待したような反応は現われなかった。芥川賞受賞作品という強力なセールス・ポイントがあったにもかかわらず、近頃のファッション・ポルノ風受賞作品などに比べてみると、《草のつるぎ》の売れ行きは地味だった。まったく腹立たしいくらいだった。だが私は、しばらくして、それでもいいではないかと考えた。小説をまともに考え、人間を注意深く観察し、素直に感じたものをより性格に捉えようとした場合、自ずとその作品が派手さから遠のいてしまうのは致し方のないことだった。(丸山健二「解説」234) 4/5 A・バスケイス=フィゲロウア『自由への逃亡』(ハヤカワ文庫NV)を読む。 脱走した政治犯を、犬がひたすら追いかける、 という緊張感・スピード感に満ちたサスペンス小説。 最大の特徴は、犬が人間のように考えるところなのだが、 あまりにも賢すぎるせいで、途中から犬とは思えなくなってくる。 また、極端に単純化された世界観も気がかりである。 これらが意図されたものであり、政治的な意味合いを持っているのだとしたら、 作者の筆致は大したものである。 - 男は、時間を超えてうしろへ引き戻されているのを感じた。何千年。あるいは何万年。まだ人類が地上に現われはじめた頃。生きるがために、荒々しくなければならなかった。死なないために戦わなければならなかった。 テレビというもののある時代なのだ。何千キロと離れたところへも映像を送ることができる。フットボールの決勝戦を居ながらにして観戦するのも何でもないことだった。軍の専門家は何とか口実をつけて、どこかで新型の水爆の実験をしているかもしれない。都市には人口が集中し、ふくれ上がっている。そして汚染された空気や水が人々の健康をむしばんでいる。今。そういう時代だった。そして彼は? 男は今、おそらくクロマニヨン人の時代からほとんど何の進化もしていないはずの“犬”と、それこそ有史以前の時代にでも繰り広げられたであろうような戦いを交えようとしている。(117) - アルベアト・バスケイス=フィゲロウア、岡村孝一 訳、狂気の犬のごとく Alberto Vazquez-Figueroa "Como un perro rabioso / Le Chien" (おそらく)フランス語訳からの重訳、原書はスペイン語。 4/6 A・V・フィゲロア『アシャンティ』(ヘラルド出版)を読む。 新婚旅行中に誘拐された妻(黒人)を、 夫(白人)である写真家が探し出す冒険小説。 人種差別や奴隷制度の問題を突き詰めているようだが、登場人物が類型的である。 深いことを考えなければ、かなり上質なサスペンスとして楽しめる。 - 「それは拷問のようなもんだ。拷問は法律上は禁止されているが、世界中の警察がなんらかの形で行っているのは周知の事実だ。きみはブラジル人やチリ人が、その国内の拷問に責任があると思うのか。アメリカ人がCIAの所業に責任があると思うのか。また、ロシア人すべてがアレクサンダー・ソルジェニツィンが"収容所群島"でのべている問題に責任があるのだろうか」 「ドイツ人は強制収容所内で行ったことに責任がないというのか」デビッドは憤然としてたずねた。 「ドイツ人すべてがかね?」 アレック・コリングウッドがたずねた。 「そうだ、みんなだ」デビッドが興奮して叫んだ。 「同様にわれわれはみんな、拷問や奴隷売買や飢えに責任があるんだ。それらの悪はこの世に存在している、そしてわれわれはつねにそのことに注意を促されてはいるが、ややもすれば忘れがちだ。戦争が終ったとき、世界中の人々は、よくもドイツ人はこういった暴虐に反対してヒトラーに反抗しなかったものだと呆れた……われわれは毎日、似たような蛮行に平然としてまったく罪悪感をおぼえない有様だ」 「いちいち罪悪感をおぼえていた日には、われわれは頭がヘンになっちまうぞ。奴隷売買、拷問、皆殺し部隊、麻薬、飢餓、疫病と、かぞえあげればきりがない。われわれは自分自身を疲らすばかりだ。でなきゃその観念だけでもわれわれは破壊されちまう」(273) - アルベルト・バスケス・フィゲロア Alberto Vazquez-Figueroa "Ashanti" ヘラルド・エンタープライズ、ヘラルド映画文庫 4/7 吉村作治『日本人の知らない コーランの奇蹟』(タツの本)を読む。 BOOKOFFで見つけたサイン本で、 「●●●様 恵存 吉村作治」と書いてある。(●●●は人名) コーランを一度、ばらばらに分解し、わかりやすいように再構成している好著。 かつて翻訳さえ許されていなかったコーランを、 このような形で紹介していいのかは大いに疑問だれども。 - 興味深いことに、人間は同じ物を食べる者とは連帯感を抱きやすいが、反対に、食べ物が異なる場合は、それに違和感をもつのみでなく排斥する習性がある。(129) - (サブタイトル)四億人を支配するムハンマドの預言書 RYU BOOKS、リュウブックス、株式会社経済界 4/10 フワン=ラモン・サラゴサ『殺人協奏曲』(新潮社)を読む。 帯裏の要約が巧みなので、そのまま引用。 「発明に没頭するマルコスとそれを利用して政治権力を奪おうとするアドルフ……歴史上実在した人物を配し、舞台は紀元一世紀のローマ時代から、一転して二十一世紀のアメリカのワシントンへ、そして十八世紀フランス革命直前のパリへと移る……主人公のマルコスは、ローマ時代では蒸気自動車を発明し、二十一世紀では暗示脳波を電波に乗せてテレビ放映する研究を手がけ、十八世紀では発電機を発明する。アドルフはその技術を利用して政治権力を握ろうとたくらむが、常にマルコスに見破られ、マルコスを道づれに逃げまくる……」 これを読んで「語りなおし」がテーマの魅力的な小説だと期待した。 - 実際はどうだろう。 「序幕」「第一部 ローマ 紀元七八年」 「幕間」「第二部 ワシントン 二〇一六年」 「幕間」「第三部 パリ 一七七六年」「終章」 失敗の原因は、物語を「時間通り」に叙述してしまったことにある。 下の引用(218ページ)にもあるように、緊張感がなくなってしまうのだ。 また、「幕間」として挿入されている霊界審判は、装置として安易。 - 例えば、3つの物語が同時に進行し、それぞれが時代ごとに異なる結果を 生み出すような感じにすれば、傑作になったかもしれない。 - 科学の歴史の基本的問題は、その時その時になされた発明だけを取上げることではなく、なぜその時代に、その発明がなされなかったかを考えることなのだ。一つの発明、発見は、それを包む環境と見合っているものなのだ。子宮に眠る胎児のように、土の中の種子のように。孤立した発見者や、孤独を楽しむ発明家は、もし社会がその発明、発見を庇護せず、発展させず、信頼せず、育まなければ、彼らは社会にとってなんら役に立つ存在ではなくなる。科学というものは孤立した歴史を持つものではなく、社会性を持っているのだ。(74) - 「民主主義は民主的な方法で守らなければならない。独裁制を始めるのではないかと疑い、その意図を挫こうとするあまり、個人や団体の民主主義固有の権利を抹殺してしまったのでは民主主義の意図に反することになる。それこそ独裁制の始まりなのだ」(121) - ヴォルテールは黙った。ヘンデルの「合奏協奏曲(コンチェルト・グロッソ)のリズムを小さな手で追っていた。/みんなは静まり返って説明を待った。/「合奏協奏曲の構成は素晴らしいね。全体として一つの統一がとれている。それは当り前だが、その一つ一つは違ったパート--つまりラルゴ、アレグロ、ラルゲット--で構成され、それぞれ異ったメロディを奏でる。だが周期的にもとのテーマへもどり、ヴァリエーションを加えて繰り返される。全体としての統一もあるが、パートのなかにも統一がある。しかし全体を通しての、直線的テーマはなく、言ってみれば、繰り返しのテーマ……」そう言いながら、彼はセレナーデの拍子を手で追っていた。「このテクニックをどう小説に応用するかだ」 「うまく行くとは思えませんね」と文学者を自認するアカデミー会員が口をはさんだ。「小説はもちろん、戯曲でもそうですが、設定、筋、結末などの物語性がなくなってしまいますよ。同じ筋を何回となく繰り返して、一つの小説をどう作るんですか? ちょっとばかげた話ではありませんか?」 ヴォルテールは、この知的な遊戯を無性に楽しんでいた。「そう、ばかげているように見える。しかし……諸君、ギリシャ戯曲は筋にかけては、何の目新しさもないが、それほどばかげているとは見えないということにお気付きかな? エディプス、エレクトラ、イフイゲニアなどの古典的テーマが、それこそ何回となく繰り返される。大事なことはこれらのテーマを取扱う手法、つまりそこにある世界観なのだ。私の畏友プロイセンのフリードリッヒ二世なら言うだろうヴェルトアンシャウウング(ドイツ語で世界観)が問題なのだ--見物人は劇場を埋め尽し、前もって知り尽している筋書きの演し物を楽しんでいる」 「しかし、筋が重要でないとすれば、小説の価値はどこにあるのですか」 「お若い方、私は私一人の頭で勝手に断定しているわけではない。この問題は何世紀にもわたって論議され、それ一つの学会ができていると言っていいくらいだ」 聴き入っている人たちの顔に、つつましやかな微笑が浮かぶ。「私はただこうして優秀なお仲間といっしょに、俎上に登った問題をめぐって、知的なピルエットを踊っているにすぎないのだ。直線的な小説にかわって、交響曲的小説が、ひょっとしたら作られるかも知れない。つまりおそらく筋がヴァリエーションを持ちながら、たびたび繰り返されるといった交響曲小説が。奇妙でしょうな。テーマだけが統一されていて、ヴァリエーションを持ちながら展開してい行く。筋書きは同じでも、雰囲気は変えることができる。時代、場所、あるいはその二つを同時に変えることもできる」(218) - Juan Ramon Zaragoza "Concerto Grosso" Juan R. Zaragoza、1980年度ナダル賞受賞作 喜多延鷹 訳、新潮・現代世界の文学 4/11 長坂敏正『真夏の少年たち』(文芸社)を読む。 ちょっと昔の田舎を舞台に少年たちの夏がはじまる。 …という、よくある設定である。 文学的な技巧の稚拙さや、クリシェイの多用、 物語コードに柔順すぎること、など、 細かいことを考えなければ、童心に戻れる楽しい小説である。 そもそも、イノセントに、理論など必要だろうか。 - 以下の文章はレトリックとしてどうかと思う。 - 父さん、子犬を抱いたままワンワン泣いた。(264) 4/12 ルーパート・トムソン『終わりなき闇』(講談社文庫)を読む。 発砲事件で失明したはずなのに、夜になるとなぜか「見える」。 暗視力に導かれて、主人公がたどり着いた結末は・・・みたいな話。 一般的な小説作法からはかなり逸脱しているけれども、 それを許せて余りある文章力がこの作者にはある。 (例えば、突然はじまる回想(第2部)は、夏目漱石『こころ』と同様、不自然に長い) サイコ・スリラーやサスペンス・スリラーではなく、 純文学として売り出した方が正解だったのではないだろうか。 - 昔、わたしは結婚式に出席するのが好きだった。『幸せな二人』を見るのが好きだったわけではない。ダラダラしたスピーチや、酒やケーキ、愛に満ちた雰囲気などが好きだったわけでもない。列席者の中に必ず、一家の秘密をさらけ出しはじめる人間がいるからだ。愛に満ちた雰囲気の中で、少しずつ恥部をあらわにするヘディのような人間が必ずいる。それが、おもしろかった。(132) - 一瞬を確実につかみとる方法がある。この一瞬を永遠に自分のものにしておく方法が。だが、何をするにしても、ゆっくりと、そして完全なる沈黙のうちにやり遂げることだ。決して没頭してはならない。一瞬をつかまえてくれるのは、自分ではなく、他の誰かなのだから。(416) - エディスの人生は、忘れられない出来事の連続だ。だが、それは取り立てて珍しいことではない。問題は、その出来事を繰り返し口に出さずにはいられないことだ--まるで初めて話すかのように。たとえ、完全にそらんじてしまっても、エディスは何度も自分の人生を思い返した。(598) - 斉藤伯好 訳、1996年度英国ガーディアン・フィクション賞候補作 Rupert Thomson "The Insult" 4/13 ルパート・トムソン『ソフト』(角川書店 ブックプラス)を読む。 「飲みだしたら止まらない、謎の液体Kwenchって? これがUK発スタイリッシュ・ノヴェルの大本命!」とある。 帯バージョンと、シールバージョンがあり、 よく見るととカバーも2種類ある。(マットとコート) - ソフトドリンク「Kwench!」を軸として、 3つの話を収斂させようとしているのだが、どうも弱い。 「何が起こるかわからない」だけでは不十分で、 「何が起こるか知りたい」と思わせなければならない。 前作に比べ、今作はこの部分が弱かった。 - こちらはみなさんに眠っていただくために、お金を払うんです。 夢みたいな話だった。(95) - この人たち、まるで私が現われたときに息を吹き返し、去った瞬間に死ぬみたいだ、とグレイドは思った。相手は機械で、自分は電流---そんな感じがした。(105) - 雨海弘美 訳、ノワール・エンターテインメント、BOOK PLUS Rupert Thomson "Soft" 4/14 ティエリ・ジョンケ『蜘蛛の微笑』(ハヤカワ・ミステリ文庫)を読む。 叙述トリックで有名な一冊。 「男は愛人を監禁し、強盗は自慰をし、追跡者は獲物に刃を振りおろし、 愛人はピアノを弾いて性器をさらけだし、謎と謎と謎とが絡み合う。」 という扇情的なコピーが期待感を煽る。 期待が過剰になってしまったせいか、わかりやすすぎた伏線にげんなり。 確かに、スピード感はある。 初めから終わりまで一気に読んで、 次の日にはすべてを忘れてしまっているような一冊。 - Tierry Jonquet "Mygale" ミガール、平岡敦 訳 《IN☆POCKET》(講談社)2004年度文庫翻訳ミステリー・ベスト10 作家が選んだベスト10第4位 『このミステリーがすごい!2005年度版』(宝島社)海外編第13位 他の作品で「813賞」(3回)、「ミステリ批評家大賞」(2回)、 「マン市ポラール賞」(1回)などを受賞。 4/15 サイモン・ブレット『死のようにロマンティック』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)を読む。 これまた叙述トリックか鮮やかな一冊である。 「俊英の異色サスペンス---冴えるエンディング! 独身の美人教師をめぐる奇妙な三角関係。 絶妙のテクニックと語り口で描く問題作!」と帯にある。 とにかく語りがうまい。 ラストの捻り方はネタバレになるので詳しくは書けないが、 どうも、イノセンスを守ろうとしすぎているように思える。 エンターテインメントに徹している著者にとって、 そんなことは一顧だに値しない瑣末な問題なのかもしれないけれども。 - 「愛は死滅するものだ。いや、外側の環境によって消滅させられると言うべきかな」 「というより」感情のこもったマデレーンの声がした。「愛するものは死んでも、その愛だけは残るのではなくて」 「そしてけっして他の者には残らないと?」 「長い時間がかかるでしょうね。それに同じ愛ではないかもしれない」 「そう、そうかもしれない」だが暗い内容の話の割に、男の声は弾んでいた。 そのまま、ふたりの会話は途絶えてしまった。(66) - ブライトンでも様々な知人に恵まれてはいるものの、彼女と同じレベルの知性を備えた人間に会えることはめったにない。第一、文学を語り合おうなどという高尚な人々は少なかったし、たとえいても現代作家を持ち出したり、文学以外の媒体を引き合いに出そうとしたりする。それゆえ、バーナードのように彼女と同質の文学的傾向を持って、しかも彼女の意見に喜んで耳を傾けてくれる存在は、マデレーンにとっては貴重な価値があった。(115) - Simon Brett"Dead Romantic" 嵯峨静江 訳、A HAYAKAWA POCKET MYSTERY BOOK Hayakawa Publishing, inc, HPB 4/17 ベケットは1906年4月13日に生まれた。 2006年はベケット生誕100周年に当たるわけだが、 少なくとも日本においては、驚くほどの無関心ぶりである。 確かに、モーツァルトと「かぶって」しまったのは不運だけれども、 だとしても、これほどの劇作家/小説家をどうして放っておくのだろう。 饒舌よりも沈黙を選び取ったベケットには、ふさわしい事態なのかもしれない。 そう韜晦混じりに自分を納得させる。 - サミュエル・ベケット『エレウテリア(自由)』(白水社)を読む。 ベケットが生前、出版・上演を拒否したいわくつきの処女戯曲。 『エレウテリア』は、「自由」というより「不自由」についての演劇である。 登場人物たちが、自分自身の殻に何とかして閉じこもろうとする。 緊張感が絶頂に達したとき、「観客」が舞台に登場し文句をつける。 観客の登場により「観られる」という唯一の「開かれ」まで失われてしまうわけである。 - 会話は、成立しているようで、成立していない。 会話は、成立してないようで、成立している。 印象的なのは、「沈黙」の多様である。 「幸せ」について話していた親子が、 最後には二人とも黙りこくってしまうシーンがすばらしい。 - クラップ氏 だろう? 話に戻ろう。これは資材の問題だ。多すぎれば、どこから始めればいいかわからず、少なすぎれば、始めるには及ばない。ところがそれでも始めてしまう、なにもしないのが恐いからだ。時には終わりだと思うことさえある、そういうことがあるんだ。それから、そんなことはこけおどしにすぎないとわかる。それで、また、始める、多すぎても少なすぎても。どうして、これおどしにすぎない人生に甘んじていられないんだろう? それが神聖な起源というものに違いないのに。やつらは言うんだ、そうさ、人生というのは、始めること、そしてまた始めることだと。いや違う、なにもしないのが恐いだけさ。人生は不可能だ。うまく言えないけど。 スカンク嬢 少しもわからないわ。(63) - ヴィクトール 自分の財産は譲ります、できる時には。 ガラス屋 あんたの財産! どんな財産です? ヴィクトール 僕の自由です。 ガラス屋 あんたの自由! そいつはすばらしい、あんたの自由か! なにをするための自由です? ヴィクトール なにもしないための。(103) - ガラス屋 わかりませんか? われわれみな、意味のないものの周りをどうどう巡りしているんだ。意味を見つけなくちゃ、さもなければ幕を下ろすしかない。 ピュック博士 で? ナンセンスに幕を下ろすことには、なんの不都合もないでしょう。そもそも、それはよくあることだ。まあいい、あなたにとっては問題はそこにないというのはわかります。だから、これ以上は言いませんよ。ただ単にお答えしたいと思います。あなたは無理にでも、あの……なんと言うか……この見せかけの生活をなんとか正当化したいんですね、そうして、その生活を送っている者とそれを悲しんでいる者たちを、あなたのきわめて美しい表現によれば、ケースに納めてしまいたいんですね。ほぼそういうところでしょう? よろしい。私はそれをやろうとしているんですよ、この上なく清潔でこの上なく快適なやり方で、当事者をその拒絶の果てまで行く可能性の前に立たせることによって。というのも、私によく理解できているとすれば、問題は確かに拒絶ですからね。(130) - 観客 (落ち着いて)言うんでしょう、そんなのもうなんの役にも立たない、遅すぎる、勝負には負けたんだと。そうかもしれない。でもかまわない。今の時点では、もうそれしか残っていないんです。無理矢理言わされたことには証言価値などないと言うんでしょう。いやあります、あるんです、人間というのはなにを言っても自分を裏切ってしまうんだから。(156) - Samuel Beckett"Eleutheria"、ギリシャ語で「自由」の意味、『エウレテリア』は誤記 坂原眞理 訳、不条理演劇、メタシアター、劇中劇構造、メタ演劇 4/18 サミュエル・ベケット『ベケット戯曲全集1』(白水社)を再読。 何と言っても「ゴドーを待ちながら」である。 エストラゴン(ゴゴー)とヴラジーミル(ディディー)が、 ゴドーをただ待っているという革命的な戯曲。 ゴドー(=究極的な目的)の不在により、 すべては馬鹿馬鹿しい無意味なおしゃべり(道化)転化する。 しかし、それは観る者の退屈を意味しない。 「ゴドーを待つんだ」というセリフは、呪いのように繰り返される。 - ポッツォ ほれ、もう泣きやんだ。(エストラゴンに)いわばあんたが身代わりになったわけだな。(夢みるように)世界の涙は不変だ。誰か一人が泣き出すたびに、どこかで、誰かが泣きやんでいる。笑いについても同様だ。(笑う。)だから、世の中の悪口を言うのはやめよう。昔より特に今のほうが不幸だというわけじゃないんだから。(沈黙。)だが、ほめるにも当たらない。(沈黙。)何も言わぬがよろしい。(沈黙。さかしげに)。確かに、人口は増えた。(「ゴドーを待ちながら」60) - ヴラジーミル 何を言っているのかな、それは? エストラゴン 自分の一生を話している。 ヴラジーミル 生きたというだけじゃ満足できない。 エストラゴン 生きたことはしゃべらなければ。 ヴラジーミル 死んだだけじゃ足りない。 エストラゴン ああ足りない。(「ゴドーを待ちながら」120) - ヴラジーミル むだな議論で時間を費やすべきじゃない。(間。激烈に)なんとかすべきだ。機会をのがさず! 誰かがわたしたちを必要とするのは毎日ってわけじゃないんだ。実のところ、今だって、正確にいえば、わたしたちが必要なんじゃない。ほかの人間だって、この仕事はやってのけるに違いない。わたしたちよりうまいかどうか、そりゃ別としてもだ。われわれの聞いた呼び声は、むしろ、人類全体に向けられているわけだ。ただ、今日ただいま、この場では、人類はすなわちわれわれ二人だ、これは、われわれが好むと好まざるにかかわらない。この立場は、手おくれにならないうちに利用すべきだ。運悪く人類に生まれついたからには、せめて一度ぐらいはりっぱにこの生物を代表すべきだ。そうだね?(「ゴドーを待ちながら」156) - ルーニー氏 (…)わしは汽車から降りてジェリーに殿方用便所に連れてってもらった。the man's(殿方用)、いやこのごろではゲーリック語で fir(男性)というんだな、これはラテン語の vir,viris から来るんだと思う。v が f になるグリムの法則に従って。(「すべて倒れんとする者」251) - ゴドーとは誰かという質問に、あるインタビューでベケットは答えている。「わたしもそれは知らない。知っていたら作品の中に書いておいたはずだ」と。それでいて、ゴドーという名前そのものの由来については、エストラゴンの靴と関連してゴディヨ(どた靴)から来たとか、略伝で述べたように、競輪の選手の名と同じだとか言っている。そこでさまざまな説明が生まれてくる。誰でも気がつくのはゴッド(神)との相似で、この作品を宗教的道徳劇と解釈したがる人はこの説をとる。(作品解説(安堂)) - Samuel Beckett 安堂信也・高橋康也 共訳 「ゴドーを待ちながら」 "Waiting for Godot / En attengdant Godot" 「すべて倒れんとする者」"All That Fall/ Tous ceux qui tombent" 「クラップの最後のテープ」"Krappe's Last Tape / La derniere bande" 「残り火/灰」"Embers / Cendres" ロベール・パンジェ(Robert Pinget)、ピエール・レリス(Pierre Leyris)とベケット本人によってフランス語訳 4/19 サミュエル・ベケット『ベケット戯曲全集2』(白水社)を再読。 ベケットは演劇を徹底的に悪用する。 合理性という「芯」を失った登場人物たちの言葉は、 失語症さながらに零れ落ちる。 ベケットの戯曲を「文字」として読むことの不可能性。 それは「読む」ことそのものに対しての不信へと繋がっていく。 「勝負の終わり」のぶっ壊れ方が見事。 - ハム (…)ああ、全く人間ってやつは、なにもかも説明してやらないとわからんのだからな。(「勝負の終わり」56) - ウィニー (…)全能の神様をたたえるには、神様といっしょに笑ってあげるのがいちばんいいんじゃないかしら、神様の冗談、それもあまりうまくない冗談を。(間。)この考え、賛成してくれるでしょ、ウィリー?(…)(「しあわせな日々」151) - Samuel Beckett 安堂信也・高橋康也 共訳 「勝負の終わり」"Endgame / Fin de Partie" 「言葉なき行為」「言葉なき行為U」"Act without Words / Acte sans Paroles" 「しあわせな日々/ああ、うるわしき日々/ああ、美わしの日々」"Happy Days / Oh les Beaux Jours" 「言葉と音楽」"Words and Music / Paroles et Musique" 「芝居」"Play / Comedie" 「カスカンド」"Cascando" 「行ったり来たり ミニドラマ(ドラマティキュル)」"Come and Go / Va et Vient" 「ねえジョウ テレビジョンのための作品」"Eh Joe / Dis Joe" - - サミュエル・ベケット『ベケット戯曲全集3』(白水社)を読む。 ベケットの死者は、必ずと言っていいほど甦る。 分解された時間は、同時に流れる。 この自由な形式によって、はじめて現前させることが可能になった「死」。 言葉と沈黙の臨界点に立つことのできる空前絶後の戯曲集。 - D いやいや、もう大丈夫だ。(フォックスに。)もちろん、あんた同様、ぼくたちにもわかっちゃいない、いったい正確にいってぼくたちが何を求めているのか、どんなしるし、どんな一連の言葉を探しているのか。それがなんであれだ、いままでのところ、その何かはあんたの口から洩れていないわけだ。とすればだ、あんたがいままでと相変わらぬ主題をしゃべりつづけても、まずは成功おぼつかない。まあ、ぜったいだめだろう。(「ラジオ・ドラマ 下書きU」91) - C 雨の中に追い出されてまた例によって同じことのくりかえしいつものように行きあたりばったりにまた話をでっちあげかつて存在もしなかったのだとしたらどうだろう変りばえがするだろうかかつて存在したことがないってことにしたらうまくいくのだろうかと考えたりして例によって同じことのくりかえしなんとかうまく逃げこもうとしながら町じゅうをよたつき歩いてぶつぶつ呟きつづけてしまいに言葉が干上り頭も干上り脚も干上ってしまった誰の言葉誰の頭誰の脚だか知らないがあるいはそいつが処置なしとあきらめたそいつが誰だか知らないが(「あのとき」164) - 語るべきことはもうなにも残っていない。(「オハイオ即興劇」269) - Samuel Beckett 安堂信也 訳 「芝居 下書きT」「芝居 下書きU」"Rough for Theatre / Fragment de Theatre" 「ラジオ・ドラマ 下書きT」「ラジオ・ドラマ 下書きU」"Rough for Radio / Esquisse Radiophonique" 「フィルム」"Film" 「息」"Breath / Souffle" 「わたしじゃない」"Not I / Pas Moi" 「あのとき」"That Time / Cette Fois" 「あしおと」"Footfalls / Pas" 「幽霊トリオ」"Ghost Trio / Trio du Fantome" 「……雲のように……」"...but the clouds... / ...que nuages..." 「モノローグ一片」"A Piece of Monologue / Solo" 「ロッカバイ」"Rockaby / Berceuse" 「オハイオ即興劇」"Ohio Impromptu / Impromptu d'Ohio" 「クヮッド/クワッド」「クヮッドU」"Quad" 「カタストロフィ」"Catastrophe" 「夜と夢」"Nacht und Traume / Night and Dreams" 「なに どこ」"What Where / Quoi Ou" 4/20 サミュエル・ベケット『並には勝る女たちの夢』(白水社)を読む。 「爆発するベケットの恋物語(イストワール・ダムール)! ダブリン、パリ、ウィーンと若き芸術家ベラックワがドタバタと駆け抜けてゆく---。 「死後しばらくするまでは」出版が禁じられていた、 ベケットの幻の処女作、ついに邦訳刊行なる」と帯にある。 「ジョイスの奴隷的な模倣である」と評されたことからもわかるように 複数の言語と無数の文学作品がごちゃごちゃになって乱舞する、 目の眩むような饒舌と晦渋に満ちた怪作である。 - 前半と後半では、そのトーンが僅かに異なっている。 (後半は、何と言うか、壊れ方がとても幾何学的な気がする。) ジョイスという圧倒的な重量下から逃れ、未知の領域へと悠然と踏み出した、 ベケットの勇気ある一歩を垣間見ることができる貴重な作品である。 - 僕にとっては、唯一真実のものは関係のなかに見出される。鉄アレイの棒、僕の両眼の間の沈黙、君と僕の間の沈黙、君と僕の間のあらゆる沈黙のなかに。僕は真の均衡を、神と悪魔、マゾッホとサド(こんな古臭い二項対立は勘弁してくれてもよかったのに)、我と汝、マイナス1と1といった、非現実的措定に根ざした関係の頂点にしか認めない。情熱的な関係の頂点で僕は生きる。単一性と無縁で、非-実在で非-単独で、孤独の引力にかかわることもない。赤い孤独と緑の孤独、赤い単一性と紫の単一性というスペクトルの両極間を流れる、中央の、深く緑色した流れの上で休らう。アーチの頂点にあって、偽の完全性には縁のない、僕の両眼の間の、そして君と僕の間の沈黙、翼の間の身体。(37) - いずれにしても英語で厭味は書けない、いつもやり過ぎてしまうから。フランス語でならすばらしい厭味が書けるけれど、英語ではいつもやり過ぎてしまう。(78) - 「あなたは僕を誤解しています」ベラックワは言った、「僕が言ったことは、あなたの汚らわしい性愛の手管を僕が軽蔑していることと無関係です。僕はあなたが知らないし知ることができないものについて話したのです。それはたとえばランボーやベートーヴェンが表現したような矛盾をはらんだ連続です。彼らの名前が僕には思い浮かびます。彼らの表現(ステイトメント)の項は沈黙という狂気の領域の現実を画定するのに奉仕しているだけですし、彼らの可聴性はさまざまな沈黙の表現(ステイトメント)における句読点以上のものではありません。彼らはどうやってある点から別の点へ移動するのか。それが僕が意味する矛盾した現実でありその真正なる外面化なのです」(123) - あらゆるものがおとぎ話のように終わる、あるいは終わるように作ることができるというのは驚くべきことだ。最も不潔なエピソードですらそうなのだ。(133) - 「左足のほうが右足よりも大きいというのが商売上の経験ですので、測定用の靴を除くすべての場合で、左足を右足よりも大きく作るのが伝統なんです……」 「つまり(…)右足のほうが左足よりやや小さいことになるんだ!」 「そういうわけで(…)両足の大きさが等しいという珍らしい方、つまりお客様のような方には(…)主に普通の方のために作られている品物の不均衡を我慢していただかねばらならいのです」(157) - Samuel Beckett"Dream of Fair to middling Women" 田尻芳樹 訳、幻の処女長編小説 - - サミュエル・ベケット『蹴り損の棘もうけ《新装復刊》』(白水社)を読む。 「1934年の出版後、作者が長期にわたって再版を許さなかったベケット作品中第一級の稀覯本。」と帯にある。 引き続きベラックヮ・シュアの登場する連作短編集であるが、 『並には勝る女たちの夢』のような饒舌はほとんどない。 ジョイス『ダブリンの人びと』のような形式に見えて、内容は全く違う。 『蹴り損の棘もうけ』の登場人物たちは、主人公が近づくまで生命を与えられていない。 ベラックヮという色鉛筆をじっと待っている、塗り絵のようである。 ここに描き出される世界には、主人公しかいない。 - 「ダンテと海ざりがに」「フィンガル」「愛と忘却」「黄色」の完成度は 間違いなくジョイスの短編を超えている。 文句なしの傑作である。 『並には〜』との重複が多数あり、それが不満といえば不満。 - その行為の動機が、筆舌を絶するほどに識閾下のものである場合、もっとも単純なとるべき道は、その行為を《無ヨリ発シタ(エクス・ニヒロ)》ものとみなし、それを無視するのがいちばんである。(133) - 最初、彼女は「だめ」と言い、次に「いえ、だめ」と言い、次に「いけないわ」と言い、次に「だって」と言い、次にはよくとおる声で、「いいわ、あなた」と言った。(174) - ベラックヮは猿臂(えんぴ)を伸ばして明かりを消した。明かりの影が落ちた。目を閉じよう、こうして夜明けの裏をかいてやるのだ。それにしても目とはいったいなんだろう? 精神の裏門。なるほど閉じておくのが安全というわけだ。(245) - Samuel Beckett "More Pricks than Kicks / Bande et Sarabande" モア・プリックス・ザン・キックス、足蹴より針責めを多く、蹴るよりも刺す 川口喬一 訳 「ダンテと海ざりがに」"Dante and the Lobster" 「フィンガル」"Fingal" 「ディーン・ドーン」"Ding-Dong" 「濡れた夜」"A Wet Night" 「愛と忘却(レーテー)」"Love and Lethe" 「外出」"Walking Out" 「なんたる不幸」"What a Misfortune" 「スメラルディーナの恋文」"The Smeraldina's Billet Doux" 「黄色」"Yellow" 「残り滓」"Draff" 4/21 サミュエル・ベケット『マーフィー《新装復刊》』(白水社)を読む。 「ダブリンとロンドンを舞台に、自己の精神世界のなかに生きようとする人間を描いた、ベケット文学の原点というべき作品」と帯にある。 「デカルト、スピノザ、ライプニッツ等への哲学的関心事が凝縮されている作品。」と『初恋〜』の巻末紹介にある。 三輪秀彦 訳の『マーフィ』(早川書房)をハードカバーで 以前読んだのだが、今回改めて読み直す。 小説の面白さ、という観点からすると、本書は大して面白くない。 『蹴り損の〜』の世界から主人公を取り除いたイメージ。 すべてがモノクロで描かれ、あらゆるものがぎこちない。 もちろん、意図したことなのだろうが、いかんせん、読みづらかった。 - 今回、改めてハヤカワNV文庫版を購入し、白水社版と比較したが、 白水社は英語から、早川書房はフランス語から訳している。 - 「あなたってどうしてそれほどまでにばかで残酷で」と彼女は言いかけ、文を完成する労を払わなかった。(40) - 「いったんある程度の洞察力に到着すれば」とワイリーが言った、「人間はみな、口をきかねばならない事態になれば、同じ愚劣なことを言うものです。」(65) - 彼は彼女に感じてもらいたくなかった、少なくとも彼女がそれを感じるときにその場にいあわせたくなかった--彼女の愛情のこもった小言がどんなに見当はずれな結果に終わったかを、彼がそこに行かないように訓練していた位置、つまり彼女が彼を発見した位置に、前にもまして彼をしっかりと位置づけるのに彼女の小言が役立ったにすぎないことを、彼を男にしようという努力がマーフィーを前にもましてマーフィーたらしめたことを、さらに、彼を変えよういう努力をあくまで続けたために、彼が最初から彼女に警告していたように、結局彼を失ったことを。「きみか、ぼくの肉体か、ぼくの精神か……一つが去らねばならない。」(192) - 「こうした考え方の利点は、事態がよくなることを期待することができない一方では、少なくとも悪化することを心配する必要がないということだ。事態は過去に常にそうであったのと常に変わらないであろう。」(202) - 「われわれに聞こえなくなったということが誰にわかりましょう?」とワイリーが言った。「誰にわかりましょうか? どういう淫らな話が、さらにすぐれた淫らな話、われわれの聞いたことのない話でさえあるかもしれないものが、純粋の猥談のとほうもない音の高さで話されていて、それがこの瞬間にもむなしくわれわれの鼓膜を打っていることを。」(221) - Samuel Beckett "Murphy" 川口喬一 訳 滑稽小説、道化物語、悪漢小説、純粋恋愛小説、悲恋物語、叙事詩的英雄物語、探偵小説、奇想・ナンセンス小説、幻想小説、快奇小説、哲学小説、知的遊戯としての小説、教養小説、政治的・社会的小説、神話的パターンを持った小説、反・英雄(アンチ・ヒーロー)小説、ブラック・ユーモア、ユムール・ノワール、精神的げっぷ - - サミュエル・ベケット『初恋/メルシエとカミエ《新装復刊》』(白水社)を読む。 「『ゴドーを待ちながら』の原形である『メルシエとカミエ』、叙情性あふれる『初恋』の2作品を収録。」と帯にある。 「初恋」は、やわらかい感じのする不思議な短編。 書き出しから一気に引き込まれる。 「メルシエとカミエ」は傑作。 「ゴドー〜」の原型というよりも、独立した小説として完成されている。 ベケット文学のさまざまなエッセンスが散りばめられており、 インターテクスチュアリティー的な楽しみもある。 (例えば、ラスト付近で、いきない「マーフィー」と「ワット」が出てくる。) マグナス・ミルズを百倍文学的にしたような感じ。 - そしてなんと言おうと、自分自身でいることより、自分自身でなくなることのほうがつらい。なぜなら、自分自身でいるときには、そうでなくなるためになにをしたらいいかがわかっている。ところが、自分自身でなくなってしまうと、誰でもあるわけで、もう自分をぼかす手段がなくなる。(「初恋」21) - 簡単さ。虚無のことを考えてだ。かくすることによって、それぞれの状況のなかで、自然は、笑いとは言わないまでも、ほほえみへとわれわれを招いてくれるのである。(149) - 今みたいに、とメルシエが言った、こうしていっしょにいて、お互いに腕をくっつけ合い、手を握り合い、足並みを合わせていてさえ、一瞬ごとに、一冊の分厚い本でも、いや、おまえのとわたしのと、二冊の分厚い本でも、とても書ききれないほどのことが起こっているんだぜ。おそらく、この過多のおかげで、なんにもない、することも、言うこともなんにもないというありがたい感じを持てるのかも知れないんだ。(211) - これがわたしたちにとってどう意味を持つのかわかってるのかい? とメルシエが言った。 これでたいして変わるとも思えないがな、今のところは、とカミエが言った。 なんにも変わらないはずだ、とメルシエが言った、しかし、すべてが変わるだろう。 すべてが変わるはずだ、とカミエは言った、しかしなんにも変わらないだろう。(228) - 高く古い家並みの間で、色あせた空の帯は、通りよりさらに狭く見えた。逆に広く見えてもよかったはずだ。夜はこの種のいたずらをする。(283) - Samuel Beckett "First Love / Premier Amour" Samuel Beckett "Mercier and Camier / Mercier et Camier" 安堂信也訳 4/24 サミュエル・ベケット『ワット《新装復刊》』(白水社)を読む。 「語り得ないものを語ろうとする主人公ワットの精神の破綻を、複雑な語りの構造を用いて示した現代文学の奇作。」と帯にある。 ジョイスは言葉を豊かにする。言葉の豊穣さを突き詰める。 ベケットは言葉を貧しくする。言葉の非論理性を暴き立てる。 単調なリズムがいつしかビートになるような、 漸次的にずらされていく奇妙な語り口には、麻薬的な魅力がある。 なぜだろう、本書を読みながら何度も笑ってしまった。 - もっとも貧弱な、もっともありそうにない意味でもワットは満足したであろう、彼は十四歳から十五歳のとき以来、象徴というものを見たこともなく、解釈というものをやったこともない男だし、大人になってからというもの、たとえ惨めにせよ、表面的価値のあいだで、少なくとも彼にとっての表面的価値のあいだで、生きていた男だからである。世のなかには骨よりもまず肉を見るものもいるし、肉よりもまず骨を見るものもいるし、全然骨を見ないものもいるし、全然肉を見ないもの、全然まったく骨を見ないものもいる。しかし、ワットには、なにを見るにせよ、はじめに一目見たもので十分であった、昔も今も十分だった、十分以上だった。(88) - ワットは、話すときは、いつも低い声で、早口だった。もちろん、ワットよりも低い声、ワットよりも早口のしゃべりかたは、これまでもあったし、これからもあるだろう。しかし、彼ほど早くてしかも同時に低い声が人間の口からかつて発せられた、また今後発せられるだろうとは信じがたいことだ(譫妄状態およびミサの場合はもちろん別だ)。ワットはまた文法や、統語法や、発音や、発声法や、それにほんとうのところをいえば、おそらく綴字法に対しても、ほとんど敬意を表さなかった。少なくとも一般的通念としてのそういうものに対してはいっこうに重きを置かなかった。ただし固有名詞、場所および人間を含めて、ノットとか、キリストとか、ゴモラとか、コークとかの固有名詞は別で、彼はそれらを非常に慎重に、明晰に、発音した。だからそれらが彼の話のなかから、棕櫚の木木か、環状珊瑚礁のように、ぽつんぽつんと長い間をおいて(というのは正確な脈絡が示されることはめったになかったのだ)、きわだつさまは、まことに生き生きと効果的であった。構成するという苦しみ、どうやって先をつづけるのか、あるいはそもそも先をつづけるべきか否か、という不確かさは、わたしたちのもっともうまくいった場合の即興においてさえ、ぬぐい去れないものだし、いや、鳥たちの歌や、四足獣の叫びだってそれから免れてはいないものなのだが、ワットに関するかぎり、それは無縁の苦しみであり不安であったようだ。ワットの話しかたは、長い間の反復によって暗記するばかりに親しいものとなった文章を、他人の口写しでしゃべっている、または鸚鵡のように朗唱しているといった感じだった。こうしてせきこんだようにささやかれた言葉のうち、わたしの不完全な聴力と理解力が補えたものはわずかだったし、多くは吹きすさぶ風によって流され、永久に失われてしまった。(184) - Samuel Beckett "Watt" 高橋康也 訳 順列組合せ、目録づくり、分裂病、病的幾何学主義、病的合理主義、貧しい自閉症 意味論的解体、糞尿学的変質、スカトロジー、発狂した合理主義、網羅的列挙の喜劇 逆さ言葉、秘教的言語、自動記述、変則円環的、Watt(what)、Knott(knot,not) - - サミュエル・ベケット『モロイ《新装復刊》』(白水社)を読む。 「気がつくと母親の家にいたモロイハは、朦朧とした意識のもと回想を始める……。ヌーヴォー・ロマンの先駆となった小説3部作の第1部。」と帯にある。 以前に三輪秀彦 訳『モロイ(追放された者、終焉)』(集英社)を読んだのだが、 今回白水社版で改めて読み直す。 信頼 |