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丸山健二『争いの樹の下で(上)(下)』(新潮文庫)を再読。
今まで読んだあらゆる小説の中で最も優れた小説。
哲学的なものと文学的なものが、渾然一体となり読むものの胸を打つ。
初読時にはそれほど気がつかなかったのだが、
「おまえ」と「争いの樹」と「猿の詩集」それぞれの思想のずれが
この小説を突き動かすダイナミズムとなっている。

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斉藤とも子(ききて)『マイブック 青春の曲がり角で出会った忘れえぬ本』(講談社)
1978年4月から1980年1月までNHK教育テレビで放送された、
『若い広場』の一コーナーである「マイブック」を書籍化したもの。
田村隆一、畑正憲、野坂昭如、中上健次、井上ひさし、水上勉、寺山修二、丸山健二、
遠藤周作、石原慎太郎、長田弘、安部公房といった豪華作家人が、
それぞれお気に入りの本を4冊紹介するというインタビュー集。
どれも個性的なチョイスで面白いのだが、ムツゴロウがT・マンを読むような文学少年だった事実と、
当時はまだマイナーだったガルシア・マルケスを高く評価した安部公房の慧眼に驚く。

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高倉健『旅の途中で』(新潮社、新潮文庫)を読む。
飾らない言葉で、高倉健の日常が語られている。
また、丸山健二が「主演 高倉健」の『鉛のバラ』を書くきっかけとなった
「それが高倉健という男ではないのか」という文章が納められている。
タイミングがいいのか悪いのか、今月新潮文庫に入った。
映画「単騎、千里を走る。」の公開に合わせてだろう。
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その日その日をちまちまと、こすっからく、目先の欲に振りまわされて、弱くてだらしのない男たちが、「普通でいいんだよ」「自然に生きたいのさ」「等身大の生きざまがしたいんだ」などという小賢しい言葉の上であぐらをかいている。そのなかにあって彼は男でありつづけたいと願い、役者をしながらもその姿勢をくずそうとしない。それが高倉健ではないのか。(「それが高倉健という男ではないのか」83)

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丸山健二(言葉、写真、作庭)『荒野の庭』(求龍堂)を読む。
濡れた花びらが陶酔を誘う、珠玉の写真集。
一人の人間が栽培し、撮影し、言葉を添えるという世界初の試み(らしい)。
あまりの美しさに絶句する。
ため息が漏れる。
輝ける最高の一瞬だけが、ここにある。
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人は花に咲けと言う。花も人に咲けと言う。(ページ数不明)
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丸山健二(言葉、写真、作庭)『花々の指紋 Fingermarks of Flowers』(求龍堂)。
丸山健二作家デビュー40周年記念作品。『荒野の庭』の続編。
前作の選から外れた写真なのだろうか、
写真のインパクトは若干おとなしめである。
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さて、人間はどうか知らないが、花々は間違いなく自己完成を目指して今を生きている。
だからこそ、一時的で有限な命ではないのだ。(ページ数不明)

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丸山健二『生きるなんて』(朝日新聞社)を読む。
丸山健二作家デビュー40周年記念作品。
「丸山流辛口人生論ノート」とあり、
若者向けのエッセイ形式で「真の自立」を説いている。
言っていることに何一つ間違いはない。
問題は形式にある。
「噛み砕きすぎ」なのだ。
丸山文学に親しんだ者なら、ここに書いてあることは
「あたりまえのこと」であり、わざわざエッセンスだけを読む必要などないはずである。
テーマをどのように文学で豊かに表現するか。
丸山健二の真骨頂は文学にある。
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現実を相手に闘うときに一番大切なことは、難易度を問題にしないということです。それは敗北を考慮に入れないということでもあるのです。そうすれば、ゆくゆくは現実世界における悪戦苦闘を無上の喜びとするタフな人間になれるでしょう。(51)

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丸山健二『貝の帆 SAIL OF SHELL』(新潮社)を読む。
「丸山健二作家デビュー40周年記念作品」にふさわしい傑作。
精子と卵子が受精し、「魂」の憑依する所から物語は始まる。
「1日をきっかり2ページで描く」という形式は『千日の瑠璃』の、
魂が主人公に「おまえ」と話しかけるのは『争いの樹の下で』の手法である。
登場人物たちの緊張が高まり続ける中、ラストの4ページで赤子が誕生する。
(この日だけは、2ページではなく、4ページになる)
この枠を突き抜けた「最後の4ページ」に、生命の持つ爆発力が込められている。
胎児が生まれるこの瞬間は、丸山文学の結晶である。
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ひたすら事が荒立つ状況を恐れ、保身の術に長けることばかりに心を煩わせ、人前をつくろい、世間と肩を並べることに汲々とするその先に待っているのは、無様な老いと、老いの附録である汚い死にすぎないのだ。
気炎を吐くことも、会心の笑みを漏らすことも、昂然たる面持ちで不透明で危険な未来へ出立することもなく、また、悲劇の王座に就くことさえもなく終わってしまう生涯。それが本当に生きたことになるのか。(292)
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人間が他の動物と大きく異なる点は、生まれた後にふたたび生まれる能力を授かっていることだ。一度目は動物のそれと同様、牝の股から生まれる。しかし、二度目は当人自身の心から生まれるのだ。つまり、おまえが新しいおまえを出産することになる。それができない者は獣類の仲間に堕するだろう。 お前が本物の人間になれるかどうかは、この私にも多少の責任がある。
だが、九割方の責任はおまえ自身にあるのだ。
臆病風に取りつかれ、身体をわなわなさせるところから抜け出し、煩累を逃れて暮らす日々に憧れたりしなければ、おまえは正真正銘の人間になれる。
善人か悪人のいずれかになれる。(453)

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ホーテンス・S・エンドウ『近代プログラマの夕(ゆうべ)』(アスキー出版局)。
『月刊アスキー』1987年10月号から1991年3月号に掲載された同タイトルをまとめたもの。
著者は、遠藤諭のペンネームである。
プログラム(コンピュータ)の話だけかと思いきや、本や映画などをテーマにしたエッセイもある。
「マーフィの法則」の起源を巡って辞書などを読み漁っていく話と、
TVドラマ「タイム・トラベラー」の映像を探し方々を巡り、
最後に「録音」したものにたどりつく顛末が面白い。
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"LORD OF WARS"は、20世紀に活躍した戦車や装甲車を再現した未来のサバイバルゲーム大会なのだという。つまり、このゲームは、戦争のシミュレーションではなく、戦争のシミュレーションのシミュレーションであるという、いわば劇中劇的構造を持ったメタ・シミュレーション行軍将棋だったのである。これは、パーソナルコンピュータによって培われてきた戦争ゲームが、戦争であって戦争でないという、この業界特有の倫理スタンスを述べているようで面白いと思う。(174)
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Hortense S. Endoh "The Modern Programmer's Salon"(本書は日本語で書かれている。念のため)
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ホーテンス・S・エンドウ『近代プログラマの夕(ゆうべ)2』(アスキー出版局)。
『月刊アスキー』1992年5月号から1995年4月号に掲載された同タイトルをまとめたもの。
書き慣れたからだろうか、同じようなテーマであっても、
『1』よりもはるかにリーダビリティが高い。
疑問に思ったことがあったら、とことんまで追求する著者の姿は爽快である。
あと、poetic justice(詩的正義、因果応報、勧善懲悪)という言葉を、久しぶりに見た。
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Hortense S. Endoh "to Hack or Not to deBug"(原書は日本語)

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遠藤諭『遠藤諭の電脳術』(アスキー出版局)を読む。
『朝日新聞』『本とコンピュータ』『東京人』などに連載・掲載されたもので、
ショートカットキーや検索エンジンの使い方など、啓蒙的な内容がほとんどである。
内容はかなり古びているが、そこそこ楽しく読める。
ちなみに、これはサイン本。
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村井純、坂本龍一、成毛真、佐伯達之『インターネット近未来講座』(アスキー出版局)を読む。
遠藤諭と西川和久が聞き役を務めるインタビュー集である。
1996年に発行された本であり、すでに外れている予想・予測もあるが、読み物としては楽しめる。
黒崎政男と書いてあるのを見て、ふと、前に読んだ
合原一幸・黒崎政男『哲学者クロサキと工学者アイハラの神はカオスに宿りたもう』を思い出した。
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坂本(龍一)---ものを作ることの何がおもしろいかというと、そのプロセスがおもしろいんです。音楽を作るのでも、粘土細工みたいに、壊してこうしよう、これをつけてみよう、やっぱりやめてみようというプロセスがおもしろくてやっている。消費者はそういうプロセスが終わったあとの、CDやCD−ROMに焼き込まれた結果を聞いているわけでしょう。これは楽しみ方としては、実はいちばんおもしろくない。(96)
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遠藤諭『新装版 計算機屋かく戦えり』を読む。
コンピュータ創生期・黎明期に活躍した26人の日本人にインタビューしたもの。
プロジェクトXを読んでいるような気分になった。
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(和田弘)大きい計算機ほど馬鹿なんですからね(中略)電気は一秒間に赤道の周りを七回半回る。つまり1ナノ秒では30センチメートルしか走らないんです。だから大きい計算機ほど、ある位置から別の位置に信号を走らせた場合、一緒に出発しても着くまでにずれが生じるし、遅い。(81)

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琴音『愛をめぐる奇妙な告白のためのフーガ』(ライブドア パブリッシング)。
第17回ファンタジーノベル大賞で優秀賞辞退作。
帯にある「あなたの傷を、数えましょう。」は、
小柳ゆき「あなたのキスを数えましょう」のあまりうまくないパロディである。
描写が抑制されているのか、読者に頼っているのか、
詩のようなものを目指しているのか、
とにかく、絵のない少女漫画を読まされているような気になる。(悪い意味で)
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私は、夢を語る。思いつきで、即興で、話し続ける。ずっと、話していなければならない。未来を語る。ふたりの将来を。どこまで話せば、わかってもらえるのだろう。どんなに、離れたくないか、どうしたら、伝わるのだろう、私の思考、祈りの声、あなたに伝えたくて、言葉を連ねる。私の全人格を、心を込めて、乗せる。(203)

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三崎亜記『バスジャック』(集英社、サイン本)を読む。
唯一「読める」のは、「二階扉をつけてください」ぐらいである。
この短編は、ちょっとシュールな設定で、最後までひっぱっていく力を持っている。
あまりに微温的すぎる「しあわせな光」「二人の記憶」「雨降る夜に」「送りの夏」、
結末がバレバレの「バスジャック」「動物園」などは、
最後の行まで読んで、ぐったりと脱力してしまう。
なんと言うのだろう、この著者にはきっと悪意が足りないのだ。

1/23
樋口直哉『さよならアメリカ』(講談社)を読む。
紙袋をかぶった男という、安部公房『箱男』に設定が酷似している小説。
後半、袋というメタファーを支えきれなくなったのか、
いつの間にか、不条理小説に転化してしまっている。
「面白いか、つまらないか」と聞かれれば、「面白い」と答えるものの、
深淵を見つめようとすればするほど、なぜか底の浅い小説に見えてしまう。
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第48回群像新人文学賞受賞作
第133回芥川賞候補作
SAYONARA アメリカ

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中村三春『フィクションの機構』(ひつじ書房 未発選書第1巻)を読む。
「メタフィクション」という言葉に引かれて手に取ったのだが、
「第1部 フィクションの理論--根本的虚構論への道」は、とにかく論じ方が甘い。
詳細に検討すべき点を、羅列するだけで著者は満足してしまっているのだ。
それでも、本にまとめたのは「未完成性そのものを、
むしろ開かれた可能性として残して置こう」(413)ということらしい。
言葉だけが空回りしており、心を動かされることはなかった。
しかし、である。
「第2部 フィクションの実践--“純粋文芸派”の研究」となると、俄然、面白くなる。
題材となっている横光利一、ジイド、太宰治、立原道造、原民喜
などの作品が無性に読みたくなってくるのだ。
メタフィクションとは言っても、入れ子構造(枠小説)だったり、
虚構と現実の単純な交錯であったり、
技巧的にはあまり凝っているとは言えないものばかりだが、
それでも、本を手に取りたくなるのは、
著者の思いが図らずも溢れ出しているからであろう。

1/25
岡田奈子『フォルティッシモ』(碧天舎・碧天NEXTジェネレーション)を読む。
「14歳が奏でる恋のメロディ♪
 透き通る感性、活き活きと弾む言葉、滑らかでクリアな文体---。
 若々しい才能のきらめきが溢れる、中学3年生作恋愛小説」と帯にある。
「若ければいい」という出版社の最近の戦略には飽き飽きしているのだが、
本書は、例外的にかなりうまく書けている。
どこかにある表現ではなく、自分のそれを必死にひねり出そうとしているのだ。
書き続ければ、かなりの作家になるだろう。
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頭の中のパズルが、なかなか完成しない。同じような色ばかり使われているピースは、どれがどの部分に埋まるかさえ、予想がつかない。在るべきではない場所に、無理やり押し込まれたピースは膨張し、周りのものを巻き込んで一気に破裂する。似たり寄ったりの兄弟たちはバラバラと散らばり、できかけていた原形の痕跡さえ分からなくなってしまう。
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fortissimo
it appears in the superlative form of heart...
renditon by 岡田奈子
フォルテッシモ

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飯嶋和一『汝ふたたび故郷へ帰れず』(小学館文庫)を読む。
文藝賞を受賞した表題作に、「スピリチュアル・ペイン」と
小説現代新人賞のデビュー作「プロミス・ランド」を加えた「リバイバル版」である。
実力がありながら、カードに報われないボクシング選手が、
喪失の後、再び立ち上がるまでを描いた中篇。
ちょっと甘すぎる(=書き込みが足りない)部分もあるが、
全体としてはかなりうまく書けている。
ハードボイルドっぽさもあり、読むものの心を熱くさせる。
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今まで、何故こんなことをやっているのか、考えたことなどなかった。いったい何だろうと思った。金や地位や名誉や、名前なんかでもない。なんかのためでもない。ボクシングから本当に離れ、結婚式場の地下の洗い場に立っていた頃。朝出かけ、夕方アパートに戻り、なにもせずにいた夜、テレビなんか意味もなくただつけっぱなしにして、突然バカみたいに何キロも走ってみたり、サウナで意味もなく減量してみたり、同じ映画を何度も見たり、いつか、こんな生活にも慣れるかもしれないなどと思いながら、ただ時間を見送っていただけの頃。島へ帰るための金を作ることだけで生きていたあの日々。生きているのか、死んでいるのか、わからないような毎日だった。ただ一つだけ、はっきりしているのは、もう、あんな何もしないでメシばかり食っているような日々だけはごめんだと思っていることだった。とにかく今、強いヤツとやりたいと思っていることだけは確かだった。逃げ出したいくらい、強いヤツと、グローブを交わし、その時おれは本当に生きているのかどうか自分自身でわかるような気がした。願っているのはそれだけだった。(207)
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飯島和一は誤記、いいじまかずいち

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飯嶋和一『雷電本紀』(小学館文庫、河出文庫)を読む。
「雷電」という最強の力士によって、生活に苦しむ人々が希望を持つという話。
この小説が成功しているの理由の一つに「視点」がある。
市井の人々(=凡人)が雷電を描写することで、
彼が神秘的で手の届かない存在であることが、非常によく伝わってくるのだ。
何一つとして書き漏らさないような、微に入り細を穿つ描写で、
江戸時代の雰囲気を完璧に捉えてきっている。
第8回三島由紀夫賞候補作。
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   呑舟之魚遊枝流
   こうこく不飛集汚池
         雲州雷電為右衛門
『列子』の、「呑舟の魚は枝流に遊ばず。鴻鵠は高飛して汚池に集まらず」を明らかにもじったものだった。舟を呑みこむほどの大魚こそ、ささやかな流れに遊び、鴻(おおとり)や鵠(くぐい)のような雄大な鳥ほど汚れよどんだ池に集うものだ---と雷電は書き残して去った。

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飯嶋和一『神無き月十番目の夜』(小学館文庫、河出文庫)を読む。
江戸時代に突然、死に絶えた村の真相をめぐる話。
「英雄、ヒーロー」の存在しない、著者唯一の小説である。
すぎるほどの微細的な描写で、地を這うような民衆の姿があぶりだされていく。
カタルシスのなさが、この小説の短所でもあり、長所でもある。
第11回三島由紀夫賞候補作
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人の生も同じことだった。「幸い」などというものは、他者との比較においてのみ生ずるものであり、己のなすべきことをまず手を抜かずに果たせ。何の心配もいらない。己の生を信じ、己を拠り所にして生きよ。(181)

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飯島和一『始祖鳥記』(小学館文庫)を読む。
江戸時代に凧を使って空を飛ぼうとした、世界最初の“鳥人”備前屋幸吉の話。
緻密な描写という「長い助走」の果てに、徐々に体が浮いてくる自分に気がつく。
読み終えた後の浮遊感がたまらなく心地よい。
2001年版『このミステリーがすごい!』第5位。
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己がなぜただの表具師ではいられなかったのか。あるいは、なぜただの木綿商人としてとどまれなかったのか。時の節目に、幸吉が自ら不可解に苦しむのは何よりそのことだった。何でもその業に就いてやり始めた時は、そのための修業や様々な困難やらに気が行って夢中になれる。ところが一度それが軌道に乗り始めると、急に奇妙な思いに沈むことが多くなる。ひどく退屈で耐えがたい思いにため息ばかりつきはじめる。こうしては居られないという思いが、己の内で次第に強く突き上げてくるようになる。 (…)おそらくは、背後にいる海の龍神に何となく気づいていたせいだろう。いずれ永遠が目をさませば、この生は即座にかき消える。その時がいつやって来るのか、全くわからなかい。だが、必ずそれは訪れる。何かに納まってしまうことは、それからの生をただ無駄に費やすことのようにしか思われない。流れがせき止められた水のように、そこには停滞した腐臭しか感じられなかった。(…)飛ぶことは、すべてを支配している永遠の沈黙に抗う、唯一の形に他ならなかった。(467-469)

2/1
飯嶋和一『黄金旅風』(小学館)を読む。
江戸時代の海外貿易都市・長崎の話。
「金屋町の放蕩息子」「平戸町の悪童」の2人がヒーローなのだが、
他の小説群に比べ、いささか散漫な印象を受ける。
著者は、一人一人の登場人物を丁寧に書くあまり、
主人公たちを突出させることに失敗しているのかもしれない。
直木賞辞退作
2005年本屋大賞8位
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時が何もかも解決するなどというのは嘘であり、時が経てば経つほど幻の面影は強くなり現との境が極めてつけにくいものとなっていく。どこかで何らかのきっかけがなくては悲しみに対処する術もないまま、自分を責め続け悪夢のなかをさまよわなくてはならない。(300)

2/2
ホセ・カルロス・ソモサ『イデアの洞窟』(文藝春秋)を読む。
イギリス推理作家協会最優秀長編賞(CWA)受賞作。
古代ギリシャ時代に書かれた作者不詳の『イデアの洞窟』を、現代人であるモンターロが翻訳する。
それを「わたし」が「直観隠喩法」というレトリックを読み解きながら、スペイン語に翻訳していく。
・・・というホセ・カルロス・ソモサが書いた推理小説『イデアの洞窟』を、
ソニア・ソトが英訳し、それをさらに風間賢二が日本語に重訳したもの。
これだけで叙述トリックを駆使したメタミステリだということがわかる。
メタの割に全体の仕掛けはそれほど入り組んではおらず、頭を使わず一気に読むことができる。
リーダビリティはかなり高い。
ちょっとだけポール・ド・マンを思い出した。
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率直に言おう、読者諸氏よ、小説--たとえば、いままさにあなたが読んでいる作品--が、"個人的に自分に語りかけている"といった狂気じみた感覚を抱いたことはぜったいにないと言えるだろうか? もしそう思ったとしても、すぐに、頭を振り、瞬きをして、こいつはバカげている、さっさと忘れたほうがいい、と考え直して、先を読み続けるのではないだろうか? だから、この本の一部はわたしに関係しているということを、ぜったいの確信を持って知ったわたしの恐怖を想像していただきたい! 冗談ではなく、"恐ろしい"のだ。わたしは、距離を持って小説を眺めることに慣れていた……ところがいまや、突然、私は自分自身を小説の内部に見出したのだ!(199)
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Jose Carlos Somoza『La Caverna de las Ideas』
Sonia Soto『The Athenian Murders』

2/3
浦賀和宏『ファントムの夜明け DAWN OF THE PHANTOM』(幻冬舎、幻冬舎文庫)。
幼いころに亡くした双子の妹。恋人との別れ。そして死者からの声。
後半の強引な展開(よく言えば、プロットのうねり)が、
着地点の予測を不可能にし、読者の眩暈を誘発させる。
エッシャー的な主客の転倒が見事で、浦賀和宏らしい。
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今まで自分はそれこそ亡霊のように生きてきた。生きがいや、人生の意味が、自分にあるとは到底思えなかった。ただ日々を浪費するだけの毎日。それが今までの自分だったのだ。でも、今は違う。やるべきことを見つけた。毎日の目覚めも、もう哀しくなんかない。亡霊だった自分の人生は、ここ数日間の様々な出来事をきっかけにして、夜明けを迎えたのだ。(337)
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浦賀和宏『透明人間 UBIQUITY』(講談社ノベルス)を読む。
久しぶりの「笑わない名探偵・安藤直樹」のシリーズ。
閉ざされた心が少しずつ開かれていく過程を丁寧に描いている。
読後、タイトルに込められた意味に気がついた。
ユビキタス「ubiquitous(形容詞)、ubiquity(名詞)」とは、
「どこにもいる、いたるところに存在する、遍在する」ことを意味する。
あと、「おずおず」と「怖ず怖ず」の表記ゆれが気になった。
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どうして今まで気付かなかったのか、不思議でならなかった。生きる手掛かりは、私が死なないというシグナルは、いつでも、どこでも、私の周りにあふれていたのに。(414)

2/6
浦賀和宏『松浦純菜の静かな世界 matsuura junna no shizukana sekai』(講談社ノベルス)。
冒頭のエピグラフにあるように「憎しみの連鎖をどう食い止めるか」がテーマ。
これまでの「浦賀作品」に比べると、明らかに迫力が欠けている。
松浦純菜のトラウマが、八木剛士のそれを圧倒しているからだろう。
フォントが変わって読みやすくなったのは、ファウストを編集している太田克史の影響。
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人間は完璧じゃない。欠けた部分を必死で埋めようとのたうち回って生きている。生まれつき欠けているのだ。だからそこからさらになにかが欠けた時、それを他のもので代用する《力》が生まれる。(208)
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浦賀和宏『火事と密室と、雨男のものがたり In The Wake Of Poseidon』(講談社ノベルス)。
前作同様、いじめを題材に扱っている。
佐藤友哉なんかを読むと、浦賀和宏の描く「いじめ」は物足りなく感じてしまう。
もちろん、これは著者の意図したことである。
「何気ないことでも、いじめられる方は傷つく」ことを書きたかったのだろう。
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火事だ。このままだと一家族が焼き出され、家を失う。もしかしたら隣の家に燃え移るかもしれない。もし--自分が家を出るだけで、そういう惨劇が回避できるとしたら--君だったら、どうする?(150)
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浦賀和宏(Uraga Kazuhiro)単行本リスト(すべて既読)
『記憶の果て THE END OF MEMORY』(講談社ノベルス、講談社文庫)
『時の鳥籠 THE ENDLESS RETURNING』(講談社ノベルス)
『頭蓋骨の中の楽園 LOCKED PARADISE』(講談社ノベルス)
『とらわれびと ASYLUM』(講談社ノベルス)
『記号を喰う魔女 FOOD CHAIN』(講談社ノベルス)
『眠りの牢獄』(講談社ノベルス)
『彼女は存在しない』(幻冬舎、幻冬舎文庫)
『学園祭の悪魔 ALL IS FULL OF MURDER』(講談社ノベルス)
『こわれもの FRAGILE』(徳間ノベルス)
『浦賀和宏殺人事件』(講談社ノベルス)
『地球平面委員会 flat earth project』(幻冬舎文庫)
『ファントムの夜明け DAWN OF THE PHANTOM』(幻冬舎、幻冬舎文庫)
『透明人間 UBIQUITY』(講談社ノベルス)
『松浦純菜の静かな世界 matsuura junna no shizukana sekai』(講談社ノベルス)
『火事と密室と、雨男のものがたり In The Wake Of Poseidon』(講談社ノベルス)

2/7
マリー・ハムズン『小さい牛追い』『牛追いの冬』(岩波少年文庫)を読む。
ノルウェーの農場に生きる少年・少女たちの心温まるさわやかな物語。
まずは、『牛追いの冬』のまえがきを引用。
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「牛追いの冬」は、まえに「岩波少年文庫」から出た「小さい牛追い」のつづきです。私の使った原本は、アメリカのリッピンコット社から出た"Norwegian Farm"(ノールウェイの農場)ですが、あまり長いために、残念ながら、二冊にしなければなりませんでした。(中略)さて、お話のなかのおかあさんは、この本の話の作者、マリー・ハムズン夫人。おとうさんは、ノールウェイのもつ、世界的小説家、クヌート・ハムズンと見て、さしつかえないようです。
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「さしつかえないようです。」なんとも頼りない書きぶりである。
さて、『小さい牛追い』の著者紹介にはこう書いてある。
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マリー・ハムズン 1882−1969
ノールウェイの人。夫は、『大地の産物』という小説で1920年にノーベル賞を受けた、ノールウェイの有名な作家クヌート・ハムズン(1859−1952)。洗練された都会文化を否定し、自ら原始的な農民の生活をした。この『小さい牛追い』『牛追いの冬』は、ハムズン夫人が若い母親であったころの自分の子どもたちの生活をもとにして書いた物語。
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と、こちらは前者に比べ、ずいぶんと断定口調。齟齬の原因は、発行時期にある。
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『小さい牛追い』
1950年12月25日 第 1刷発  行
1990年11月19日 第12刷改版発行
1991年 9月10日 第13刷発  行
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『牛追いの冬』
昭和26年3月10日印刷
昭和26年3月15日発行
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そう考えると、確かに「金の単位」も違う。
『小さい牛追い』では「百円玉」「五千円札」、
『牛追いの冬』では、「5圓」「数十銭」となっている。
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さて、「ハムスン」ではなく、「ハムズン」なのだろうかと疑問に思いながら読んだのだが、
以下の一節を読んで思わず笑ってしまった。
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先生は、ヤコブが「ズ」のかわりに「ス」と言っても、けっして前の先生のように笑いません。(『牛追いの冬』189)
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マリー・ハムズン(Marie Hamsun)は12冊ぐらい本を出版している。
せっかくなので続編に当たる『A Norwegian Family』も読んだのだが、なんとも退屈であった。
どうやっても、ノーベル文学賞作家の夫には勝てそうもない。

2/8
ホーテンス・S・エンドウ「The Play of Words ことば遊び・コンピュータ」を読む。
「月刊アスキー」の1991年9月号から1993年2月号まで(断続的に)連載された、
コンピュータを使って「ことば遊び」を愉しむエッセイ。
「ことばの使用頻度」、「アナグラム」、「パングラム(アルファベットをすべて使った文)」、
「語ルフ(word golf)、ダブレット(doublet)、梯語(word ladders)」(=マジカルバナナ)、
「会話プログラム」など、実に盛りだくさんの内容である。
「河童の川流れ」から、「コッペリアのビジャヤナガル」、
「早起きは三文の徳」から「朝起きは洗面の時」を生み出すコンピュータのセンスに爆笑。
もう、とにかく、「すばらしい」の一言に尽きる。
-
遠藤諭/ホーテンス・S・エンドウのプロフィールで、
出版が予告されていたが、現時点ではまだのようである。
扱っているコンピュータが古いとは言え、この内容は時代を超えた面白さを持っている。
国会図書館などでコピーしやすいように、以下に細目を記す。
是非。
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「1.あなたが読んでいるもの(1991.9)」「2.あなたの使っているもの(1991.10)」
「3.語ルフ(1991.11)」「4.アナグラム1(1992.1)」「5.アナグラム2(1992.2)」
「6.柳瀬尚紀氏に聞く(1992.3)」「7.アナグラム3(穴蔵マ)(1992.4)」
「8.パングラム1(1992.6)」「9.パングラム2(1992.7)」
「10.駄洒落エンジン(1992.10)」「11.プログラム「○子」(1992.11)」
「12.会話プログラム(1992,12)」「13.会話プログラム2(1993.2)」
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「animal」(動物)に対しては「lamina」(薄板)だが、日本語の「薄板」(うすいた)のさかさことばは「対数」(たいすう)となるようだ。(第5回、322)

2/9
安田均『幻夢年代記 コンピュータゲームの世界』(ASCII ログイン・ブックス)。
パソコン情報誌『LOGIN』に「安田均のアメリカ・ゲーム事情」として
1984年3月から1988年7月まで連載されたもの。
以前に読んだ『神話製作機械論』(BNN)があまりに面白かったので手に取ったのだが、
それほど感銘は受けなかった。(もちろん、情報としての価値はある)。
「ウルティマ」、「D&D(AD&D)」、「ウィザードリィ」などが
コンピュータゲームにおいて、いかに大きな役割を担ったかがよくわかる。
大塚英志の大喜びしそうな一節があったので、長いが引用する。
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 ここで発想をちょっとひねって、この読む行為を書く行為のほうに移したらどうなるだろうか? ひとつの方式はすでにある。俗に<アドベンチャー・ゲーム・コンストラクション>と言われるタイプで"あなたもアドベンチャー・ゲームが作れます”というソフトだ。しかし、はっきり言ってこれらでは、ストーリーの組み立てから、謎、登場人物まで、全部自分で一から考えないといけない。要するに、小説を書く作業をそっくり、アドベンチャー・ゲームを作るのに当てはめただけのものだった。
 これから紹介する<プレイ・ライター>シリーズは、そこが異なる。なんとここでは、ストーリーラインや登場人物などの類型パターンがすでにかなりの数入れられており、プレイヤーはちょっとした選択・文章の作成をするだけで、ひとつの作品ができてしまうのだ。
 しかも、これにはそのでき上がった作品を、プリンタで打ち出す機能とその用紙、さらには、レイアウトのできるイラストレーションや本の表紙まで備わっているのだ。つまり、このソフトで、あなたの好む物語を作り上げ、それを製本して1冊の本にしなさいというわけ。コンセプトだけを見ても、なんとなく“デスクトップ・パブリッシング・コンストラクション”といったイメージがあって楽しい。
 それに、このストーリーを決める作業というのが、楽しめてしまうのだ。たとえば、今回使用したソフトは『ミステリ!』というものだが、これは基本的に5章にわかれている。探偵役を決めることから、事件の発端、尋問、第2の殺人、解決といかにもある種のミステリがパターンにのっとって進んでいき、その細部をこちらが先に選択してしまう。この"先に選択する"という点がミソで、ストーリーがあとで自動的に組み上がるのを見て(もちろん、それを修正できる)思わず自分の選択に納得したり、プッと噴きだしてしまう。
 類型を選んでいくわけだから、基本的には子供用の教育ソフト(作文)と言えるが、逆に考えると、類型を並べかえることでパロディーやナンセンスのランダム発生を楽しめる大人のソフトとも言えるのだ。(234-235)
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安田均『GAME ゲーム げぃむ 幻夢年代記2』(ASCII ログイン・ブックス)を読む。
パソコン情報誌『LOGIN』に「安田均の新アメリカ・ゲーム事情」として
1988年7月から1990年6月まで連載されたもの。
月2回連載になったためか、リーダビリティはさらに低下している。
著者はコンピュータゲームを、アクション、アドベンチャー、シミュレーション、
RPGの4大分野に分けているが、(後に、パズルゲームが加わる)
アクションについての言及は、なぜか少ない。
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Hitoshi Yasuda『GAME CHRONICLE』(Login Books)
Hitoshi Yasuda『GAME3-GAME CHRONICLE』(Login Books)
アスキー ログインブックス

2/10
安田均『SFファンタジィゲームの世界』(青心社)を読む。
ゲーム、コンピュータ、本、雑誌を自由に横断するSFファンタジィゲーム。
ジャンルの定義、歴史、楽しみ方から、個々のゲームのルール、特徴まで、
これ一冊で概略をつかむことができるようになっている。
やはり著者はこういうのを書かせたら一級である。
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安田均『FANTASY GAME FILE』(富士見書房)
1988年〜1993年にかけて雑誌『ドラゴンマガジン』に連載されたもので、
1980年代後半から90年代前半のテーブルトークRPGを紹介したもの。
同じような本が続いているで、目新しい感想はこれと言ってない。
特筆すべきは、「ブーム」というものの本質をよく捉えている以下の一節だろう。
もちろん、これはTRPGに限ったことではない。
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急激に広がると、落ち込んだときのツメ跡がひどいのだ。ゲームだけをとっても、考えてほしい。数年前のウォーゲーム、ゲームブック、そして、最近のカードゲーム、ちょっと売れるとなれば、猫も杓子もそれに群れ集って、無責任な作品を乱発し、分野が飽きられる原因ともなっている。
これを防ぐには、はっきり言って、出版側(デザイナーを含む)がしっかりした責任を持つことと、ユーザー側がそうしたところを見極める、しっかりとした鑑定眼を持つこと、この二つに尽きるだろう。
見た目はいくら派手でも、どこかの模倣にすぎないのがまるわかりのものや、遊んでみておもしろくないものは、早めに見切りをつけることだ。それと、逆にベテランゲーマーの人は、自分の楽しんだこれまでの十分なサプリメントの出ているRPGを、新しいゲーマーの人たちに伝えていってほしい。そうしたゲームは、ある程度、時の試練に耐えているわけだから、新しい人にもおもしろくないはずがない。(355)

2/13
安田均「おもちゃの兵隊の宇宙創造 SFゲームへの招待」を読む。
「SFマガジン」の1983年8月号から1984年9月号まで連載されたもの。
写真を多用しているからなのかもしれないが、一気に読むことができた。
また「第6回」と「第7回」の間には、「特別編」があり、(著者が風邪で倒れたため)
水鏡子、大原まり子、森田繁、久美沙織なんかが登場するのも面白い。
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こうして、SF(ファンタジィ)の原作と結びついたロール・プレイング・ゲームを概説してきたが、ひとつ言えるのは、ロール・プレイの本質が従来よりコンフリクト(戦闘)指向ではなくなり、ストーリー(謎解き)指向、あるいは役割演技(世界構築)指向へと向かってきていることだろう。(…)いずれにせよ、ロール・プレイング・ゲームは、かつてのSFのようにいまだ"名づけられぬもの"であるだけに今後もさまざまな振幅をくり返していくのはまちがいないと思う。(第7回 119)
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安田均とグループSNE『ファンタジーRPGガイドブック』(ホビージャパン)を読む。
「安田均とグループSNE」と言う割に、安田均は「はじめに」と「フォーナリー」の項しか書いていない。
ファンタジーRPGそれぞれの違いについて詳述しているが、
すればするほど小さな差異に見えてしまうのは気のせいだろうか。
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「第一部 代表的なファンタジーRPG」「第二部 ファンタジーRPGの発展」
「第三部 国産ファンタジーRPG」「第四部 未訳のファンタジーRPG」
「付録:日本語で読めるファンタジーRPGリスト」
安田均、水野良、山本弘、清松みゆき、佐脇洋平、高山浩、北川直、栗永雅行
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システム重視→世界設定重視→システムと世界の一対一対応の崩壊
という歴史の流れが、今後どのように進んでいくか予測するのは困難です。おそらくシステムというものが着実に形骸化(個々のマスターの手に委ねる)する方向に進んでいくのだとは思いますが、システムの代りとなるものが(現在のような)データ集であるとは思えません。(272)

2/14
安田均『安田均のボードゲーム大好き ドイツゲームのニューウェーブ』(幻冬舎コミックス)。
日本では廃れたボードゲームが、ドイツにおいては隆盛を極めている。
この魅力的な発見から本書はスタートし、著者独自の語り口で読者を引き込んでいく。
大きく取り上げるのは、以下の6ゲーム。
「アフリカ」「6ニムト!」「カタンの開拓者たち」
「ミシシッピ・クィーン」「エルフェランド」「ニューエントデッカー」
とにかく読まされる。
『神話製作機械論』を読んだ時の衝撃が甦った。
傑作。

2/15
畑中佳樹『電子小説批評序説 On Electric Fiction』(BNN)を読む。
「コンピュータゲームの迷宮を読み解く/インタラクティブな小説をコンピュータが可能にした。読み手が主人公を演出する、新たなるペーパーバックの世界。テキストアドベンチャーに気鋭の映画評論家化が挑む。」と帯にある。
インフォコム(infocom)のテキスト・アドベンチャーを、実際に遊んだ上で論じたもの。
テキスト・アドベンチャーを、小説ではない新しい「何か」と定義し、
エクリチュールの可能性を探っている。
リーダビリティはきわめて高く、とにかく読まされた。
以下引用。(2.3つ目は簡単に反論できるけれども)
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たかがコンピュータ・ゲームを、映画・小説・音楽・映画といった芸術作品と同列に論じるのがそもそも間違っているのだ、などという人は、要するに「芸術」という神話にだまされすぎている。芸術とはそれを生きることができる何かであって、小説とコンピュータ・ゲームが本質的に違っているわけはない。(53)
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テキスト・アドベンチャーと小説との最も大きなちがいは、テキスト・アドヴェンチャーを再読することはできないということに尽きる。(…)テキスト・アドベンチャーはそういう、人をだまし、驚かせる装置の面白味を純粋抽出したようなゲームなので、これはもうすがすがしいほどに再読を許さない。(128)
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二十世紀の意味深い事件といえば一つしかなくて、それは小説が映画に負けたということである。人間をいやおうなく一人称的にしてしまう言葉の呪縛から、われわれは映画によって解き放たれた。一人称でも三人称でもない、いわば無人称ともいうべき直接さで世界の表面と触れ合うことを覚えた。あなたは誰でもない。どこにいるのでもない。だからこそ、美しい女優の表情のドラマに身をゆだね、その感情を共有しつつ、なおかつその顔の輝かしい表面をいつまでも見詰めつづけることができる。これは、小説には、つまりことばには、絶対になしえないことなのだ。(222)
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ハードボイルド小説の特徴を思いつくままに挙げてみると--
1、主人公は私立探偵である。
2、舞台はたいていロサンジェルス近辺である。
3、探偵は車に乗ってしじゅう移動しつづける。
4、移動して回る場所は、酒場、人気のない倉庫、富豪の邸宅などである。
5、その邸宅には必ず東洋人の執事がいる。
6、探偵は途中でかならず一度、ぶんなぐられて気絶する。
7、会話がシャレている。
8、探偵は謎解きをしない。謎がひとりでに解けるように行動するだけである。
9、探偵はいくつも名セリフを吐かなくてはならない。(86)
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Bug News Network、ビー・エヌ・エヌ

2/16
エリザベス・レッドファーン、山本やよい訳『天球の調べ』(新潮社)を読む。
帯には「英国ミステリーの新女王による衒学的サスペンス」とある。
娼婦殺し、天文学、暗号解読。
確かにそれらしいガゼットは揃っているのが、問題はその使い方にある。
衒学的になるためには、とにかく「過剰」が必要である。
この小説で提示される情報は、謎解きに関係あるものばかりである。
無駄がないと言えば、言えなくもない。ただ有機的すぎるのだ。
18世紀の登場人物がことごとく「現代人」に見えてしまうのは
もしかしたら、そのせいなのかもしれない。
まぁ、惑星間の数字があまりにも秩序だっているため、
火星と木星の間には惑星があるはずだ、と推論した話は面白いけど。
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彼はまたしても、この子はなんて若いんだと思った。こんなにも早く忘れてしまえるとは、なんて若いんだろう。(240)
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Elizabeth Redfern "The Music of the Spheres"

2/17
ジョン・ランチェスター『最後の晩餐の作り方』(新潮クレスト・ブックス)を読む。
ウィットブレッド処女長編小説賞受賞、ベティー・トラスク賞受賞、
ホーソーンデン賞受賞、ジュリア・チャイルド賞受賞の話題作。
料理・美食を語っているはずが、いつの間にか思わぬ方向へと話題が逸れていく
饒舌・脱線系の小説である。
『トリストラム・シャンディ』の主体は、語ろうとして語れないのに対し、
『最後の晩餐の作り方』の主体は、語ろうとする気さえないように思える。
何を目指しているかもわからないまま、物語は意外なところに終着点を見出す。
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あの灼けるような午後、あのときから私は真剣に考えるようになったのです、不在の美学、省略の美学というものを。モダニズムの影響で、責任ある立場におかれた作家はもはや、ある種の芸術的選択を不可能と受けとめざるをえないでいる。xのように書いたりyのように描いたりzのように創ったのでは、いまや真の芸術作品と認められない。作家として芸術の現在(いま)を真剣に生きる気がない証拠ととられても、しかたがない。
そこまで考えれば、あとは簡単だ。作家の姿勢、才能のほど、および功績は--作家が大塊であるとするならその高度を求めるのに必要な三角測量の基点は--実は不可能、実行不能、入手不能な、禁制、禁止、否定の領域にあるのではないかということに、瞬時にして思い至る。芸術家は成さないことによって評価されねばならない--画家なら破棄した、あるいは真っ白なキャンパスによって、作曲家なら沈黙の長さと深さによって、小説家や詩人ならば出版拒否もしくは断筆によって。芸術家の生涯の最高傑作とは、もはや試みることすら不可能と彼自身が悟った作品のことである。(83)
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John Lanchester "The Debt to Pleasure"
小梨直 訳
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ジョン・ランチェスター『フィリップス氏の普通の一日』(白水社)を読む。
リストラされた会計士が、ぶらぶらとロンドンを歩き回る話で、
『ユリシーズ』ばりの内的独白(=妄想)が繰り広げられる。
主人公のフィリップスはセックスのことばかりを考えているが、
ある出来事を起点にして、それが死にすりかわる。
エロスがタナトスに変貌する瞬間。
それこそが本書のテーマであろう。
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ある人間を非常によく知っている場合、たいていの物事に対する、その人間の反応ぶりを予測することができる、そのため、その人間の反応ぶりに耐えることが容易になる。しかし実際は、その反対のことが多い。(97)
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なんで密林にはアスピリンがないのか? 鸚鵡がそれを全部食う(パロッツ・イート・エム・オール)、つまりパラセタモール(非アスピリン系解熱鎮痛薬)だから。洟がたらたら(ラニー)のうさちゃん(バニー)を見たことがあるかい、へらへら笑うな、笑いごと(ファニー)で「はなくそ」いつはおおごとだからさ。尼さんと林檎(アップル)をかけ合わせたら、なにが出来るか? どうしてもやらせてくれないコンピュータ。邪な失読症患者のことを聞いたことがあるかい? 彼は魂をサタンならぬサンタに売った。不可知論者で不眠症のことを聞いたことがあるかい? GODを逆さまに読み、犬は果たして存在するかどうか考えに考えて一晩中起きていた。なんで鶏は死んだのか? 世をはかなんで彼岸(むこう)に行こうと車の通る道路を渡ったから。(205)
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若いときにはセックスがアレなのだが、年をとると、死がアレである。(211)
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John Lanchester "Mr. Phillips"
高儀進 訳

2/20
イーサン・ホーク『痛いほどきみが好きなのに』(ヴィレッジブックス)を読む。
『生きてこそ』『リアリティ・バイツ』『ビフォア・サンライズ 恋人までの距離(ディスタンス)』
『ガタカ』『大いなる遺産』『テープ』『ビフォア・サンセット』などに出演し、
異彩を放つハリウッド俳優イーサン・ホークの小説デビュー作である。
映画的なシーンの連続で、読む者を飽きさせない。
主人公の空回りっぷりが、痛ましくもあり、微笑ましくもある。
なんとなく、出演作の中では『ビフォア・サンライズ』『ビフォア・サンセット』に近い気がする。
『痛いほどきみが好きなのに』は、小説家が書いた小説である。
俳優が手遊びで書いたような小説ではない。
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「聞いてくれ、何がなんだが自分でもわからないんだ」僕は息を切らしながら言った。「自分がいやでたまらないよ。どうしちゃったんだろう。君に『とっとと失せろ』なんて言いたくない。だけどわかってくれよ。僕の人生の何もかもが変わってしまったみたいだ。君が僕のことを好きなのかどうか、それだけが知りたいんだ。こんなに愚かな話は聞いたことないよな。もしほっといてくれと言うんなら、その通りにするよ。だけどいつか……いつの日か君が誰かに出会ってさ、それまでにやってきたいろいろなこと、人生で経験してきたさまざまなこと、それらがみんな正しかったんだなってわかる日が来る……とんでもない間違いはしでかさなかったし、大きく道を踏み外すこともなかったんだ、とね。なぜって、その人に出会えたんだからな。僕にとって、君がその人なんだ。僕は消えたほうがいいのか?」(75)
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「これからの人生、誰もが君に向かって、弱くたっていいと言うはずだ。実際、頼むから弱いままでいてくれというやつもいるだろう。だけど、口ではなんて言おうとも、みんな本当は君が強い男であることを期待しているんだ。そのことは憶えておけよ」(235)
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Ethan Hawke "The Hottest State"
『ホッテスト・ステイト』(ソニー・マガジンズ)を改題し文庫化したもの。
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イーサン・ホーク『いま、この瞬間も愛してる』(ヴィレッジブックス)。
これはさらに面白い。
語り手を二人にしたことで、小説に厚みが増しているのだ。
いかにも「アメリカ小説」らしい感じで、ラストまで一気に突き進む。
映画化できないほどの分量が、ぎっしりと詰め込まれている。
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つらいことは起こる。つらいことがあれば、心は深く傷つく。問題は、つらい目に遭った相手を泣かせておく勇気があるか否かだ。(87)
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ここで思い切って父と目を合わせ、目をそらさないでいられれば、未来を変えられるはず。いつの日か科学者はDNAが不変の暗号でないことを知るだろう。らせんの底のほうに、ひとつ、人生が進むにつれてねじれたりほどけたりする鎖があることを、発見するだろう。もしわたしが自分の心をさらし、毅然と父の目を見ることができるなら、その瞬間、わたしと父の細胞膜を震動が突き抜け、顕微鏡で見なければわからないような小さな遺伝子のかけらに恒久的な変化が生じるはず。わたしの恐れは消え、恐れがあったところに勇気が生まれるだろう。この変化、目を合わせるというほんのちっぽけな行動の結果がわたしの遺伝子情報を変え、いずれは子供の遺伝子に影響を及ぼす。このわたしがわずかでも価値のあることを成し遂げられるとすれば、それは本能の働きを少しだけとぎ澄ませる、もしくは鈍らせること。たとえばわたしの婚約者、フィアンセ、運命の恋人に向かってしつこくわたしの負け犬ぶりを喧伝している父の目を、恐れずに見返すことができる?(219)
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Ethan Hawke "Ash Wednesday" 灰の水曜日

2/21
ジュディス・バトラーの本を読む。
非常に読みにくいテキストであり、誤読を挑発しているようにも見える。
読者が導き出す結論(もしくは問い)は、各人各様である。
その不確定性こそが、ジュディス・バトラーの狙いなのだろう。
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『ジェンダー・トラブル--フェミニズムとアイデンティティの攪乱』(青土社)。
同性愛を認めない以上、セックスとジェンダーは一緒。
「ジェンダー」という言葉を、絶えず撹乱させ続けることが肝要である。
Judith Butler "Gender Trouble : Feminism and the Subversion of Identity"
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『触発する言葉--言語・権力・行為体』(岩波書店)。
「憎悪発話」なのかどうかを判定するような裁判でさえ、
なんからの価値判定が持ち込まれてしまう。
メタレベルで、「憎悪発話」を語ることはできない。
新しい文脈におかれたら、「憎悪発話」の意味自体もゆらぐだろう。
そこに希望を見出そう。
Judith Butler "Excitable Speech : A Politics of the Performative"
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『アンティゴネーの主張--問い直される親族関係』(青土社)。
ヘーゲルやラカンの解釈を活用しながら、
親族関係を攪乱する存在としての新しいアンティゴネー像を描き出す。
Judith Butler "Antigone's Claim : Kinship between Life and Death"
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サラ・サリー『ジュディス・バトラー シリーズ現代思想ガイドブック』(青土社)。
すぐれた入門書である。
前に読んだ、『ポール・ド・マン』(青土社ではなく、新曜社)もよかった。
「Routledge Critical Thinkers」シリーズは、集める価値がありそうである。
Sara Salih "Judith Butler: Essential Guides for Literary Studies"
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「Undoing Gender」@お茶の水女子大学講堂(徽音堂)
2006年1月14日(土)14:00〜17:30(開場12:00)
原稿を読み上げる形の公演。
後半のフロイト解釈(メランコリー)が面白かった。
「日本の印象は?」と聞かれて「一つの定まったイメージはない」
と答えたのは、いかにもジュディス・バトラーらしい。
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訳者(竹村和子)について。
「すべからく」=「あらゆる」は誤用。
「すべからく〜べし」=「当然〜すべきだ」が正しい。

2/22
鈴木弘樹『よしわら』(新潮社)を読む。
風俗雑誌編集者が吉原に転勤してくる話。
まず世界がある。作者はそれを切り取り、物語に仕立て上げる。
原始の世界に差異はない。分節化などされてはいない。
『よしわら』には物語以前の世界が描かれている。
シーンの切れ目を示す「行換え」は少なく、会話を表す「鍵括弧」は全くない。
昆虫を愉しむのに、標本を眺めるのではなく、森の中に入っていく。そんなイメージ。
『よしわら』は、非物語的な物語である。
第33回新潮新人文学賞受賞作「グラウンド」→「よしわら」に改題
第126回芥川賞候補作
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人生なんてつくづくごっこなんだと想う。(18)
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鈴木弘樹「雨」(「新潮」2002年3月号)を読む。
性風俗店「院」の店長である高柳の物語。
とにかく雨の使い方がうまい。
前作よりも長文が多いのは、降り続く雨のメタファーなのかもしれない。
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雨が降ってるからってやっていい事と悪い事があるんだからさ(116)
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一粒一粒の無数の雨粒が降り注ぎ、一粒の音として捉えることは出来ず夥しい雨音となって氾濫し、豪雨は波のように揺れ動き、打ち寄せ、街を消失させる。(119)

2/23
カルペンティエールの小説群を読了。
時系列順に紹介したのでは、カルペンティエールらしくないので、
ほぼ時間に逆行する形で並べていくことにする。
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A・カルペンティエール『ハープと影』(新潮社)。
著者「最後」の作品とされているが、本当は「最後から二番目」の作品である。
クリストファー・コロンブス(クリストバル・コロン)は、
クリスト=フォロス(キリストを担う者、聖人)ではなく、
単なる俗物(ペテン師)であったと告発する本。
読みやすいが、深みはない。
キューバ人として、どうしても書かなければならなかった作品なのだろう。
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われわれの国でこんなに多くの人間が嗅ぎタバコを嗅いだり、パイプをくゆらせたり、葉巻を吸ったりするようになったのは、ほとんど君のせいだからね。君がいなけりゃ、われわれはタバコなんぞ知るよしもなかっただろうからね。」--「いや、いずれにしてもアメリゴ・ヴスプッチによってもたらされたに違いないさ」(225)
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Alejo Carpentier"El arpa y la sombra" "The Harp and the Shadow"
牛島信明 訳、新潮・現代世界の文学

2/24
アレホ・カルペンティエール『春の祭典』(国書刊行会)を読む。
題名は、イーゴリ・ストラヴィンスキーのバレエ楽曲「春の祭典」から。
「ロシア革命で革命のトラウマ(精神的外傷)を負ったベラは、色々あったが、
 結局最後にキューバ革命万歳と叫んだ」というのが、訳者による大胆な要約。
革命について、考えうる限りの多様性(可能性)を提示して、
何が正しいかの判断は読者に委ねる、という著者の態度は興味深い。
とにかく登場人物の絡み合いが見事であり、大著にも関わらず一気に読むことができる。
読後の爽快感がたまらない。
本書はキューバ文学の一つの到達点である。
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このメキシコにあっても、僕は生まれて初めて、<逆行可能な時間>に生きているような印象を覚えたのだ。あるいは、いずれにしろ、多くの人にとって<今日>であったとしてもすべての人にとって<今日>であるわけではない<今日>に。ここでは古色蒼然たる石の<暦>の日々と郵便配達の運ぶ紙のカレンダーの日々とが共存している。(55)
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「実際、そういう存在になりたいと夢見ていた」「君も「夢見る」という単語を過去形で使ったろう。僕と同様に。君だって少なくとも動詞の現在形の活用はできるのに、だ」(397)
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柳原孝敦 訳、文学の冒険 第50回配本
Alejo Carpentier "La consagracion de la primavera" "The Consecration of Spring" "The Rite of Spring"

2/27
Alejo Carpentier『Reasons of State』(Writers and Readers)を読む。
カルペンティエール長編小説の中で、本書だけが日本語に訳されていない。
教養のある<大統領>が亡命して、あれこれ思い悩む話。
仲間の裏切りや、<学生>による襲撃などで、徐々に地位が揺らいでいく。
理性の空回りする<大統領>は、愛すべきキャラクターに仕上がっている。
著者は、マジックのないリアリズム(=魔術のない現実)で、西洋をコミカルに描きたかったのだろう。
章の頭につけられたデカルトの引用が的確で、いい味を出している。
なぜ、これだけが邦訳されていないのか、よくわからない。
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The mountain is a prison confining the animals. (…) The animals are inside it; the thing is that they can't get out until someone opens the door for them.(70)
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After all,being a Latin did not mean having "pure blood" or "clean blood" -- as the out-of-date phraseology of the Inquistion used to put it. All races of the ancient world had been mixed together in the great Mediterranean basin, mother of our culture. (…) We are all mestizos, and should be honoured that it is so !(114)
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Alejo Carpentier "El recurso del metodo"
アレッホ・カルペンティエール『方法再説/方法論再説』(未訳)

2/28
アレホ・カルペンティエル『光の世紀』(書肆風の薔薇)を読む。
綺羅星のごとく散りばめられたバロック的ガジェットが、
「光の世紀」の背後に潜む「影の世紀」を炙り出すビルドゥングス・ロマン。
垂直的な上昇(=革命)に失敗しても、
めげずに高みを目指しつづける主人公たちが魅力的である。
登場人物やプロットは、大作『春の祭典』を予感させる。
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エステバンはナポリの無名の大家が書いた『大聖堂の爆発』の前で立ち止り、心底感銘を受けた。不思議な巡り合せによってこの家に落ち着いたその絵は、かれが経験した実に多くの出来事を予め表現しているように見えたので、予言的で、反具象的で、あらゆる絵画的な主題に背を向けた画面が提起する無数の解釈のゆえに、かれは呆然とするばかりであった。(241)
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Alejo Carpentier "El siglo de las luces"
"The Age of Enlightenment" "Explosion in a Cathedral"
杉浦勉 訳、叢書アンデスの風

3/1
アレホ・カルペンティエル『追跡』(水声社)を読む。
劇場でベートーヴェン「英雄交響曲」が鳴り響く中、巻き起こる逃亡劇。
急いで読み終えなくてはいけないような気持ちにさせる、
切迫感に満ち溢れた極上のサスペンス。
とにかく、スピード感に酔い痴れる一冊である。
丸山健二の『ときめきに死す』をちょっとだけ思い出した。
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Alejo Carpentier"El acoso" "The Chase" "Manhunt" "人間狩り"
杉村勉 訳、叢書アンデスの風

3/2
カルペンティエル『失われた足跡』(集英社文庫)を読む。
音楽家が未開種族のある楽器を手に入れるため、オリノコ河上流を溯っていく話。
奥地へ行けば行くほど「時間」が遡行・逆行していくという摩訶不思議な旅である。
著者のお家芸である時間操作が巧みに取り入れられており、
また、これも十八番(おはこ)の三角関係も絡み合い、とにかく読まされたという印象が残った。
カルペンティエルの代表作との呼び声が高い、驚嘆すべき傑作。
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沈黙はわたしの語彙のなかで、重要な言葉である。音楽の仕事をしてきたので、わたしはその言語を他の職業の人々よりも多く使用してきた。人が沈黙を友として、いかに瞑想するか、あるいは人がいかにそれを勘案し、いかにあつかうかも知っている。しかしいまわたしは、この岩に腰をおろして、沈黙を生きていた--はるかかなたからやってきた、無数の沈黙の凝縮したひとつの沈黙、そこに言葉がひとつでも落とされれば、創造の大音響がとどろくであろうような沈黙である。もしわたしがなにか言ったら、よくするように、ひとりごとでも言っていたら、自分自身をぎくりとさせていたにちがいない。(151)
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彼らは自分たちの領域で、自分たちの環境において、独自の文化の完璧な所有者だったのだ。<野蛮人>というばかげた概念ほど、彼らの現実からかけ離れたものはなかった。わたしにとっては基本的であり、また必要であることを知らないからといって、彼らを原始的ときめるのは、まとはずれもいいところだった。(242)
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わたしは、まだ鍛冶屋の炉もない、おそらくわたしがユバルの役をつとめていた、このエノクの町が、飛行機で直行すれば、首都からわずか三時間のところにあることを知って驚いた。すなわち、「創世記」の第四章と<あちら>で経過している時間の年号とのあいだにある五十八世紀を、一八〇分で渡りきることができるのである。きょうこの瞬間に、<中世>に、<征服時代>に、<植民時代>に、あるいは<ロマン主義時代>に属している、さまざまな市(まち)の上空をとおって、ある人々が現在とみなしている--まるで、このいまは<現在>ではないかのように--時代にもどることができるのである。(324)
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Alejo Carpentier "Los pasos perdidos" "The Lost Steps"
牛島信明 訳、ラテンアメリカの文学

3/3
アレッホ・カルペンティエール『エクエ・ヤンバ・オー』(関西大学出版部)を読む。
マジックリアリズムで有名な著者の長編デビュー作。
表題は、ヨルバ語・ルクミー語で「神よ、御名のたたえられんことを」ほどの意味。
サトウキビ畑を営む黒人奴隷の息子として生まれたメネヒルドは、
ハイチ人である若い人妻ロンヒーナに恋する。
魔術のおかげで恋は成就するが、夫であるナポリオンを刺し、刑務所に入れられる。
出所後に関わった秘密結社でメネヒンドは命を落とす。
ロンヒーナは彼の子供を身ごもっていた。
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ところどころに白人(=西洋)に対する憎悪が吐き散らされる。
言葉でも「ヨーロッパ」を「オーロッパ」、「ナポレオン」を「ナポリオン」と表現し、
彼らの論理をずらそうとする。
ハイチ人ロンヒーナは、「メネヒルド」を「ネメヒッド」と呼ぶが、
最後の最後で、メネヒルドの母も「ネメヒッド」と発音するシーンが印象的である。
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この世で目に見えるものは、どうでもいいものばかりだった。被造物は、無数の見えすいた外見にまどわされていきているが、超越した存在は憐れみぶかい目をむけておられるのだ。(58)
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Alejo Carpentier "Ecue-Yamba-O !" "Lord, praised Be God!"
平田渡 訳、関西大学東西学術研究所訳注シリーズ8
神に栄光あれ!、神よ称えられてあれ!、イエス・キリストよ、我らを救いたまえ
魔術的現実、魔術的リアリズム、キューバ、ラテンアメリカ

3/6
カルペンティエールの中篇を読む。
著者の中篇には「時間の操作」が頻繁に用いられている。
楽しみ方は2つ。
(1)完璧に理解してやろうと、頭を使ってじっくりと凝視する。
(2)意識レベルを少し下げて、目の前の光景をぼんやりと眺める。
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A・カルペンティエール『時との戦い 三つの物語とひとつの小説』(国書刊行会)を読む。
帯に「キューバのシュールリアリストにして時間の魔術師カルペンティエール」とある。
短編「聖ヤコブの道」「種への旅」「夜の如くに」も所収。
Alejo Carpentier "Guerra del tiempo. Tres relatos y una novela" "The War of Time"
鼓直 訳、中西夏之 ドエローイング、ラテンアメリカ文学叢書
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アレッホ・カルペンティエール『バロック協奏曲』(サンリオSF文庫)を読む。
イメージの連鎖がとても美しい中篇。
短編「選ばれた人々」も所収。
「下らん! 甘ったるいマーマレードだ、あんなもの!」「いや、ジャム・セッションといった感じでしたよ、どちらかと言えば」(59)
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Alejo Carpentier "Concierto barroco" "Baroque Concerto"
鼓直 訳、お告げを受けた人々

3/7
アレホ・カルペンティエル『この世の王国』(水声社)を読む。
ハイチ史上の弾圧、暴動、反乱、殺戮を描いた中篇。
魔術的リアリズムの定義として有名な「序」がある。
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驚異的なものというのは予期しない形で現実が変質したり(奇蹟)、現実がその人だけに特別な啓示をもたらしたり、あるいは現実のうちに秘められていて、これまで見過ごされた富が思いがけない形で、もしくはきわめて望ましい形で輝きわたったり、現実のスケールと範疇が大きく拡大(これは一種の極限状態にある高揚した精神しか感じ取れないものだが)した時、初めてそうしたものとして立ち現われる。(12)
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オグン・バグダリは刃物による攻撃を導きたまい、理性の女神を窮地に追いこんだ。のちのちまで語り草になるような戦いには、決まって太陽の動きを止めた男とか、ラッパを吹いて城壁をなぎ倒した男とかが現われるものだが、そのころも、裸の胸板で敵の大砲の筒先をふさいだ男や、身体で銃弾をはね返す力を備えた男が登場した。(90)
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Alejo Carpentier "El reino de este mundo" "The Kingdom of This World"
木村榮一・平田渡 訳、叢書アンデスの風
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アレホ・カルペンティエル(神代修 訳)「大使閣下」を読む。
『現代キューバ短編小説集』(時事通信社)の表題作に選ばれている。
クーデターに巻き込まれた高官をアイロニカルに描いており、
この辺りの設定が、『方法再説』に敷衍されていったのだろう。
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Alejo Carpentier "El derecho de asilo"
免罪特権、大使閣下、亡命者庇護権
アレッホ・カルペンティエール(木村榮一 訳)『この世の王国』(サンリオSF文庫)には、
「亡命者庇護権」として収められている。

3/8
アレホ・カルペンティエル他(神代修 訳)『現代キューバ短編小説集』(時事通信社)。
1973年に出版された日本のオリジナル短編集。
社会主義下にあるものの、「キューバでは作家や芸術家は革命に公然と反対しないかぎり、
どんな方法・形式を用い、いかなる内容の作品を表現し創造してもさしつかえない」(282)
というとても寛大な処置が取られていた。
そのため、収録されている短編はバラエティに富んでいる。
解説にうまくまとめられているので、引用。
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ここに収録した個々の作品にふれると、革命戦争中のゲリラ闘争をテーマにしたもの(「平原の人々」)、革命前の退廃的で無気力なブルジョアジーや小ブルジョアジーのけだるい生活を描写した作品(「ラチュールの歌」)、キューバ農民の生態をリアルに描いた短編(「湿地帯で」)、典型的な心理小説(「死を悟るこの長い仕事」、「発見」)、社会主義リアリズムに則った小編(「プラヤ・ヒロンの三日」)、反革命的ではないが非革命的な知識人の生態をみごとにとらえた傑作(「おれはここに留まる」)、ラテン・アメリカの政治の特徴であるクーデターと政治亡命をすぐれた筆致で摘出したパロディー(「大使閣下」)、革命前の共和政時代を中心にしたキューバの歴史を軽妙に批判したすぐれた作品(「その共和国の名は?」)、そして無知で生まじめで少々ずるくて小心な庶民の生活を追及したユーモア小説(「決闘」)などがあって、テーマといい内容といい手法といい、きわめて多様で多彩である。社会主義文学が公式的だという批判が、キューバにかんして通用しないことは、これらの作品を一読されれば、明らかであろう。(286)
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典型的な心理小説を評せられている「死を悟るこの長い仕事」「発見」の2編が、
カフカ・ベケットっぽくて特によかった。
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アレホ・カルペンティエル「大使閣下」、フェリクス・ピーター・ロドリーゲス「死を悟るこの長い仕事」、
オネリオ・ホルヘ・カルドソ「湿地帯で」、セサル・レアンテ「その共和国の名は?」、
ルイス・マレ「プラヤ・ヒロンの三日」、エドムンド・デスノエス「おれはここに留まる」、
エンリーケ・オルトゥスキ「平原の人々」、アントン・アルファト「発見」、
ルイス・アグエロ「決闘」、ミゲール・バルネー「ラチェールの歌」

3/9
レニー・エアース『赤ちゃんはプロフェッショナル!』(ハヤカワ文庫NV)を読む。
大富豪の赤ちゃんを誘拐し、レンタルしてきた「プロの赤ちゃん」と交換。
しかし、大富豪はよく躾けられた「プロの赤ちゃん」を気に入ってしまって…という話。
コージー・ミステリーっぽい感じで、力まずに読める。
全体に流れるユーモア・優しさが気持ちいい。
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いったい人生とはなんなのか? 世間一般の観念や信仰、モラル、慣習、行為その他を徐々に放棄していく過程にすぎないじゃないか? われわれ人間は、ちょうど蛇のように、つぎつぎに脱皮をとげていく。成人して五十年後に、はじめて真の自分を理解するようになるのだとすると、死ぬのはまことにくやしい。この点、わたしはふつうの人より将来にたいしてやや悲観的かもしれない。これも、さっきいった冷たい希薄な空気のせいじゃないかと思うんですけどね。ともかく、この世に心から信じられるものはきわめてすくない、いかなるばあいにも感傷的になってはならない、といった一種の悟りが身についてしまっていた。(233)
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Rennie Airth "Snatch!" スナッチ!、略取誘拐
宇野輝雄 訳
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レニー・エアース『夜の闇を待ちながら』(講談社文庫)を読む。
1921年に起こった猟奇殺人の謎に迫るサイコ・スリラー。
帯に「ロバート・ゴダード絶賛!」とある。
じつに18年ぶりの著作。
とても丁寧な描写で、細部まで書き込まれているのだが、
どれもこれもサスペンスのガジェットを体よく使っているだけであり、
突き抜けたものを感じなかった。
秀作ではあるが、傑作ではない。
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あと、解説を読むかぎり、訳者は"Snatch!" "Once a Spy"を持っていない(=読んでいない)。
『夜の闇〜』を「30年ぶり」の作品と言ったり、
『赤ちゃんは〜』を「未成年」の誘拐がテーマだと言ったり…。
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Rennie Airth "River of Darkness"
田中靖 訳
2000年度フランス警察小説賞グランプリ
2000年度MWA賞、マカヴィティ賞、アンソニー賞の最優秀長編賞ノミネート作品
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レニー・エアース著作リスト
Snatch! (1969)
Once a Spy (1981)*未読
River of Darkness (1999)
The Blood-Dimmed Tide (2004)*未読
*"Snatch!"の前にアフリカの政治家を主人公にした『第五の季節』を書いているが、どうやら出版されなかったらしい。

3/10
スチュアート・ウッズ『警察署長(上・下)』(ハヤカワ文庫NV)を読む。
ジョージア州の田舎町デラノという架空の街を舞台として、
警察署長3代(40数年!)にもおよぶ殺人事件を描く大河警察小説。
猟奇殺人だけでなく、人種や政治も大きなテーマになっている。
(KKK(クー・クラック・クラン)が微妙に絡んでくる)
細部を見つめることで大きな全体を書き出している、非常によく書けた小説である。
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「変化ってもんなんだろうな。このわたしが変化を恐れるようになるとは思ってもみなかった。--自分がコントロールできるような変化じゃないんで。わたしが頭を悩ましてるのはそこなんだ。この事態はわれわれをコントロールしはじめている。われわれがそれをでなくてな。遅れないようにするために走らにゃならんという気がしたのは、わたしの生涯ではじめてだよ」(下188)
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Stuart Woods "Chiefs"
真野明裕 訳
アメリカ探偵作家クラブ(MWA)最優秀新人賞受賞作
ミステリマガジン「読者が選ぶ海外ミステリ・ベスト100」 (1991) 26位
文春傑作ミステリー・ベスト10 1984 海外部門3位
大河ミステリ、大河警察小説、大河小説、謎解き小説、地方史
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スチュアート・ウッズ『風に乗って』(早川書房)を読む。
「海洋冒険ロマン」と帯で謳っているが、250ページを過ぎても、
一向に海に出る気配がないのはどうだろう。(本編は全334ページ)
今回はIRA(アイルランド共和国軍)が絡んでくる。
一つのジャンルにとらわれないスリップストリーム系だと思えば、
めまぐるしく移り変わる、ぐちゃぐちゃした展開を楽しめる。
希望溢れるラストは、大変よい。
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彼の名前を聞いて感じた危惧があまりにも強かったので、ぼくは自分の名前についても愛郷心の問題についてもわざわざ相手の言葉を訂正することはしなかった。
「あのう……あなたとアニーは……?」兄妹だ、とぼくはじかに神に向かって言った。二人は兄妹であってくれますように。
「夫婦なんだよ、きみ」と彼はにやにやしながら言った。その声音には同情がこめられていた。「すまんね」(33)
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Stuart Woods "Run Before the Wind"
真野明裕 訳
海洋冒険スリラー、海洋冒険ロマン、海洋小説、ヨット文学、ヨット小説、冒険小説、
青春小説、教養小説

3/13
スチュアート・ウッズ『潜行』(ハヤカワ文庫NV)を読む。
今回はKGB(国家保安委員会)、CIA(アメリカ中央情報局)など。
スウェーデンに対するソヴィエトの陰謀に気づいたキャサリン・ルールの冒険譚。
助っ人として、『風に乗って』の主人公ウィル・リーが登場する。
主人公と敵をほぼ同等の分量を使って描写することで、緊迫感が増しており、
一編の小説として、今までで一番よくまとまっている。
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できすぎた偶然だからこそ、まさに偶然なんだ(315)
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Stuart Woods "Deep Lie"
真崎義博 訳
スパイ小説、スパイ・スリラー、国際陰謀小説、国際謀略小説、エスピオナージ
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スチュアート・ウッズ『湖底の家』(文春文庫)
帯には「こんやはこの湖の夢を見そうだ--スティーヴン・キング」とあるが、
裏でS・キングの本がちゃっかり紹介されている。
ファンタジーなのか、ミステリーなのか、
その間にある軸が都合のいいようにシフトしてしまっており、
何度も首を捻りながら、やっとのことで読み終えた。
ウッズならもっと面白いものを書けるはずである。
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「そのブラウス、いいね」ややあって、スカリーが言った。微笑する。「どうやったら脱げるのかな?」
「それがめったなことでは脱げないようになってるの」(174)
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「ボウはきみの正体を知った。きみは彼が知ってたことを知っているが、彼が知ったことをきみは知っているとは、彼は知らないんだ」頭をはっきりさせようとして首を振る。「そう、そういうことだ。きみにチャンスがあるとすれば、ただひとつ、彼が知ったことをきみが知っているのを、彼がまだ知らないということだけだ」
「なんだかアボット=コステロ調のダジャレみたいね」(305)
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Stuart Woods "Under the Lake"
矢野浩三郎訳
ゴシック・サスペンス、オカルト・ミステリ、ゴースト・ストーリー、ファンタジー
怪奇心理サスペンス

3/14
スチュアート・ウッズ『ホワイト・カーゴ』(文藝春秋)を読む。
帯の裏には「南米コロンビアには三つの色がある/緑の火=エメラルドの緑/茶色い黄金=コーヒーの茶/白い悪魔=コカインの白/ときに その白は「白い肉体」をさすこともある……」とある。
妻を殺された主人公が、生きているかも定かでない娘を探しにいく話。
無意味なフォーシャドウィング(foreshadowing)が少なく、
視点(語り手)も一つに固定されているため、とても読みやすい。
(技法については後日詳述予定)
主人公の心理面をじっくりと追うことができる、よく書けた冒険小説である。
毎度のことながら、「航空」も「海洋」も、少ししか出てこないけれど。
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「では、逮捕される心配はない?」
「もちろん。たとえ組織のだれかが逮捕されたとしても、裁判にかけられることはない。かりにかけられたとしても有罪になることはないし、たとえ有罪になったとしても、刑に服することにはならないでしょう。買収できない人間など、ほとんどいませんし、例外には消えてもらうだけです」(314)
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Stuart Woods "White Cargo"
矢野浩三郎 訳
海洋航空大冒険小説、本格海洋冒険小説、白い悪魔、白い肉体(人身売買に供される白人娘)
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スチュアート・ウッズ『草の根』(文春文庫)を読む。
文庫版で読んだのだが、ハードカバー版には「S・ウッズ会心のミステリ大作/舞台はふたたび『警察署長』のジョージア州デラノだ! ウィル・ヘンリー・リー 初代警察署長の孫が帰ってきた 上院議員選に立候補したウィル・リーを悪夢のようなレイプ殺人事件が揺さぶる。そして、背後には不気味な銃口が----!」とある。
読み応えのある政治小説。
ちょっとうまく行きすぎな(ご都合主義的な)気もするが、
なんとなく納得させられてしまうのは、著者の筆力ゆえだろう。
『警察署長』に次ぐウッズの代表作と言えそうである。
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「あなたはお金持ち?」「貧乏人にかぎってそう思っていて、本当の金持ちはそうは思わないものでしょう」(186)
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「まさか、とんでもない、よかったさ。だが、はっきりいって、これは正しいことではない」「まあ、よかった。あたし、正しいことって嫌いだもの。あたしのどこにも、正しいとこなんかありゃしない」(362)
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「おもしろい話」ケイトが言った。「それをネタに小説が書けそうだわね」(598)
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Stuart Woods "Grass Roots"
矢野浩三郎 訳
草の根選挙、政治小説

3/15
スチュアート・ウッズ『パリンドローム』(文春文庫)を読む。
暴力夫と離婚した主人公が、島で出会った双子の一人に恋する話。
「暴力夫による追跡」と「双子との恋」は、別々に進行する。
この2つがなかなか交錯しないのは、ウッズらしいと言えば、言えなくもない。
毎度のことながら、結末を急ぎすぎているような印象を受けた。
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「双子って回文みたいですよね」と言った。
「それはいい得て妙だ」医師がうなずく。「回文とは、一卵性双生児の比喩にぴったりですな」
「なんです、それ?」ジミーが訊いた。「そのことばは?」
ジャーメインが説明した。「回文というのは、文学的技巧のひとつで、前から読んでもうしろから読んでもおなじに読めることばや文のこと、そういう詩もあるのよ。どっちから読んでもまったくおなじ」(69)
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そういえば警察官になってから、個人的に知っている人間が事件の被害者になり、その遺体を目にしたのは、これが初めてだった。だいぶこたえた。(305)
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Stuart Woods "Palindrome"
矢野浩三郎 訳
サスペンス小説
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スチュアート・ウッズ『ニューヨーク・デッド』(文春文庫)を読む。
ビルから飛び降りた女性を目撃した主人公の話。
ウッズの作品は、年を追うごとに、どんどん劣化している。
それでも一定のリーダビリティだけはしっかりと維持しているのがすごい。
裏の帯に「ホワイト・カーゴ スチュアート・ウッズ 文庫化準備中」とあるが、
諸般の事情で中止を余儀なくされたのだろう。
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「あなた、自分を過小評価してるわ」彼女はいった。「でも、自信過剰が生きていくためのひとつの方便である世界では、そういうひとは魅力的だわ」
「注文しよう」ストーンはメニューをとりあげた。
「ディナーには、あなたが食べたい」ケアリーはいった。
「シーザー・サラダからいこう。それからオッソブーゴだ」彼はいった。「それからデザートにおたがいを食べればいい」
「わたし、かならずデザートの入る余地は残してあるの」彼女はいった。(202)
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Stuart Woods "New York Dead"
棚橋志行 訳
都会派、ホラー、都会ミステリー、ビッグ・アップル(NY)、地名三部作

3/16
スチュアート・ウッズ『サンタフェの裏切り』(文春文庫)を読む。
ある日、妻と親友と「自分」の死体が発見されるところから、物語が始まる。
いかにもミステリー的な「書き出し」と「オチ」ではあるけれども、結末が唐突すぎる。
大風呂敷を広げすぎて、慌てて閉じたような感じである。
でも、ウッズの小説は、「読める」から不思議だ。
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帯の裏にある
「いますごく売れている ウィリアム・D・ピーズ 冬の棘
 来月、売れる気がする ピーター・レフコート 二遊間の恋」
という惹句は笑えた。「気がする」って…。
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「なぜ女性の年を知るのが重要なの?」
「その人物の年を知るのが重要なんじゃない。重要なのは、その人物が自分の年齢を口にするかどうかなんだ。きみはテストに合格だ」(190)
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「結婚は?」
「してない」
「なぜ?」
「幸運だったから、たぶん」
 バーバラは吹き出した。「あなたの結婚への障害って何なのかしら?」
「たいしたことじゃない。ただ結婚というのは、ほかに選択の余地がないとき、結婚してないことに耐えられなくなったときにすべきものじゃないかと思っているだけさ。そんな状態に陥ったことはない。とにかく、相手の女の子と同じタイミングでは」
「完璧な女性を見つけてないんでしょう?」
「たしか、一度だけある」
「どうなったの?」
「向こうが完璧な男を探していた」
 彼女はまた笑った。「手垢のついたジョークだわ」
「古臭い質問をするからだ」(195)
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Stuart Woods "Santa Fe Rules"
土屋晃 訳
悪女ものミステリー、地名三部作、サンタフェの流儀
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-
S・ウッズの小説には、以下の特徴(というか弱点)がある。
(1)foreshadow(ing)(flashbackの反対、予示、予表、予兆)
「この時○○は、○○であることを知らなかった」のように、
未来を予言する手法だが、時代遅れの感がある。
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(2)視点の切り替え
章や節が変わるたびに、めまぐるしく語り手が変わる。
「○○は、○○に向かっていた」など、たいていの場合、
第一文で誰が視点となるかは明示されている。
-
(3)時間
あるシーンで、一定の時間が経過した場合、
一行開けるのが普通であるが、ウッズはしない(ことが多い)。
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(4)アクション・シーンの短さ
書きたくないのか、書けないのか、よくわからないが。
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(5)急ぎすぎる結末
答えはあっているけれども、美しい解法ではない。
アクションが少ないというのも、理由の一つだろう。
-
最近の小説になると、(1)foreshadowingは、少なくなり、
(3)時間が経つと、きちんと一行空けるようになっている。
また、(2)視点が固定された小説もある。
が、(4)(5)は相変わらずである。

3/17
スチュアート・ウッズ『LAタイムズ』(文春文庫)を読む。
帯に「非情だけが美徳である街で/映画だけを愛した/ヤング・マフィア」とある。
裏稼業で暮らしていた青年が、映画の世界で成功を収める話。
主人公の駆け引きが絶妙で、ぐいぐい引き込まれた。
(ちょっと、うまく行きすぎな感じもするけれども)
シドニー・シェルダンの絶頂期を髣髴させる、スピード感のある展開。
傑作と言うほどではないが、かなりのレベル。
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「あなたは王子さまのような人ですね」
「わたしは王だよ。王子はきみのほうだ」(292)
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「気前のよさというのは、いってみれば両面通行の道路なのよ。あなただってまったくの世間知らずじゃないんだから、見返りを求めない慈善精神をひとかけらでももっている人間が、この街のこの業界にいるなんて信じないでしょう? たしかに業界紙には、だれかさんがどこやらの慈善事業に多額の寄付をした話が載ってる。でも本音では、おおかた慈善事業に関係する人間と商売がしたい一心なのよ」(394)
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Stuart Woods "L. A. Times"
白石朗 訳
地名三部作、ハリウッド、映画産業
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-
スチュアート・ウッズ『デッド・アイズ』(角川文庫)を読む。
(一時的に)盲目になった女優が、ストーキングされる話。
肝は「相手が見えない」ことである。
だから、被害者「側」から書くだけでは不十分で、
被害者「だけ」からしか書いてはいけないのだ。
謎解きが中心になり、ストーカーの執拗ないやがらせが、
中盤以降盛り上がっていかないのは、本当に勿体ない。
-
運転席に座ったまま、しばらく涙をこらえる。ラーセンは泣くのが嫌いだった。(311)
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「君の瞳は贅沢すぎる。美しく輝くうえに、物を見ることができるなんて」(338)
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Stuart Woods "Dead Eyes"
峯村利哉 訳、平山夢明 解説
現代犯罪小説、セレブレティー・ストーカー、ストーカー犯罪、
ストーキング、つきまとい犯罪、脅威査定(Threat Assessment)

3/20
スチュアート・ウッズ『囚人捜査官』(角川文庫)を読む。
死刑囚が警官(=heat)となり、カルト宗教に潜入していく話。
予想外の展開で、予想外に楽しめた。
難点は、主人公の性格がいまいち掴みきれなかったこと。
それにしてもなぜ、ウッズ作品の登場人物は
揃いも揃ってロースクールに通っているのだろうか?
あと、ローファーもよく出てくる。
-
なんたる図々しさ。なんたる愚かしさ。まさに倣岸不遜な妄想だ。この世界が完璧ではないことを、ジェシーは痛いほどよく知っていた。(91)
-
「ねえ、全部ただってほんと?」
「ダーリン、金持ちになればなるほど、金を払う必要はなくなるんだ」(394)
-
Stuart Woods "Heat"
峯村利哉 訳、林家こぶ平 解説
全米屈指の職人作家が放つ、ド級のハードサスペンス
-
-
スチュアート・ウッズ『不完全な他人』(角川文庫)を読む。
日常に不満を抱える二人が飛行機でたまたま隣り合わせ、
ヒッチコックの「見知らぬ乗客」にインスパイアされて交換殺人を思いつく話。
途中までのプロットは、いかにもミステリという感じで
ワクワクしながら読めたのだが、後半だれすぎ。
むりやり主人公を「善人」にしてしまっているようで、居心地が悪かった。
-
「可能なかぎりいい子を演じるわ」
「いい子ぶるのは公共の場だけにしてくれ」(193)
-
Stuart Woods "Imperfect Strangers"
峯村利哉 訳
巨匠が放つ、初のサイコスリラー問題作
系譜小説(saga、サガ、サーガ)

3/22
ハーブ・チャップマン『カインの檻』(文春文庫)を読む。
著者の「すべては、わかっている」とでも言いたげな、
物知り顔の著述スタイルが鼻についた。
プロファイリングは、犯罪者を類型化することで成り立っているが、
本当に、人間はそんなに単純なのだろうか。
この結末(=どんでん返し)では、まったく答えになっていない。
-
帯には、こうある。
「圧倒的な恐怖と大いなる感動。すぐれたミステリだけが描ける深さと感動がここにあります。死刑目前の連続殺人鬼との熾烈な戦い。殺人者の心の闇を真正面から見つめ、『永遠の仔』『模倣犯』に並ぶサイコ・サスペンス。熱くヘヴィに心を撃つ1200枚。」
・果たして、並んでいるのだろうか。
・訳書で原稿用紙換算というのはどうなんだろう。
・帯で「ミステリ」、裏表紙で「ミステリー」と表記ゆれ。
-
「なによりも重要な秘訣は、心をしっかりともつことですよ。そうすれば、すべてうまくいくものです」
 ジョーは、ジェンキンズがなにか別の秘訣を、自分が責任をもたずにすむ秘訣を教えてくれたらよかったのにと考えた。(495)
-
怪物という言葉がふさわしくないほど温和な人間に見えた。殺人者カインの徴など、どこにも見えなかった。どうすれば、このような歪んだ存在を理解できるだろう? どうすればひとりの人間の性格がこんなにひずみ、邪悪なかたちに変形することができるのだろう? 彼のような邪悪な存在はなにを感じるのだろう?
「寒い」
「なんですって?」考え込んでいたジョーは我にかえった。
 ドラムは半ば閉じた眼で彼を見つめた。「寒いといったんだ」(620)
-
ドラムの憎悪がもたらしたものも、彼とともに埋葬されることになるのだろうか? いや、それは生者にのこされた仕事だ。(644)
-
Herb Chapman "The Book of Cain"
石田善彦 訳、吉野仁 解説

3/23
中村文則『土の中の子供』『悪意の手記』(ともに新潮社)を読む。
『銃』『遮光』に続く、著者の小説(集)である。
テーマは暴力。安易な解答は、もちろん用意されていない。
読者を逃げ場のない袋小路に追い込むダークな小説群。
・「蜘蛛の声」  叙述トリックのような短編。
・『悪意の手記』 傑作。胸をえぐるような苦悩をひたすら突き詰めている。
・「土の中の子供」初めて「被害者」の視点から描かれている。まだ掘り下げが甘い。
最初は、ドストエフスキーに比べ、圧倒的に狭い世界が不満だった。
読み進めるうちに、もしかしたら、この「狭さ」は、行き場のない苦悩をリアルに描くため、
戦略的に選ばれているのかもしれない、という気がしてきた。
-
『悪意の手記』だが
帯には「芥川賞受賞後 最新刊」というよくわからないコピーが書いてある。
封入チラシには「芥川賞受賞、第一作」とあっさりと書いてしまっている。
いいのだろうか。
-
私は安全な場所から、世界を感じている。今の私は、世界に存在を知られていないのだ。もしミサイルでも持っていれば、私はそれをここから発射するかもしれない。世界は混乱するだろう。どこから飛んできたかわからないミサイルに、人は恐怖するだろう。私は隠れている。誰に対しても、見つかるつもりはない。(「蜘蛛の声」120)
-
このまま黙っていれば、私の目の前に、これ以上ない残酷な場面が展開される。そして自分は、それを隠れて見ているという、卑劣極まりない状況を、体験することになる。そこには、世界の醜悪の全てがあるように思えた。これを体験すれば、卑劣さに悶え、悪意の中に溺れ、この世界で最もくだらない存在、最も下劣な人間になる。その時、私は恐ろしいほどの感情に襲われるのではないか。快楽を、感じるのではないか。悪意の渦に呑まれ、今まで経験したことのない世界へ、堕ちていくのではないか。(『悪意の手記』148)
-
私が勝ち取ったものは、これなのだろうか。暴力の下をくぐり抜け、土の中から這い出して山を降りた私の得たものは、このような日常に過ぎないのだろうか。彼らがなぜ笑っているのか、私にはわからなかった。何か、他になるのではないだろうか。無事でいられたことを全身で喜ぶような、私の全てが震えて止まらないような瞬間が、あのような暴力と釣り合うような、喜びが、この世界にはあるのではないのだろうか。(「土の中の子供」86)
-
第3作「蜘蛛の声」
第4作『悪意の手記』第18回三島賞候補作
第5作「土の中の子供」第133回芥川賞受賞作

3/24
金子務『ガリレオたちの仕事場 西欧科学文化の航図』(ちくまライブラリー)。
近代的知が生まれた17世紀の科学を眺める一冊。
望遠鏡は高尚で、顕微鏡は低俗と思われていたこと、
暗号はわかりにくく、記号はわかりやすく、それぞれ作られていること、
以上の2点(対比)が特に興味深かった。
ただ、この手の話なら多木浩二なんかの方がよっぽどうまく書ける気がする。
-
フランシス・ベーコン『新機関』が、『ノヴム・オルガヌム』(5)、『新オルガノン』(114)、
『大革新*』(215)と、激しく表記ゆれしているのは、どうなんだろう?
(*正確には、「大革新」=第1部「学問の進歩」+第2部「新機関」、当初は6部構成の予定)
-
「望遠鏡と新哲学」(目次では、なぜか「望遠境」となっている)「顕微鏡のレトリック」
「モデルとしての機械時計」「温度計目盛と標準化」「暗号術と先取権争い」
「象徴図形から記号体系へ」「観測遠征隊の思想」「複数世界とETへの夢」
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摂氏目盛に慣れている日本人の目からすると、なぜ当初の温度計の目盛に一〇進法が基準にならなかったのか、不思議に思われる。しかし、10の因数は2と5しかないが、たとえば12なら2、3、4、6と四個もあって、理屈の上では一二進法のほうがすぐれているともいえる。一〇〇目盛についても同じ議論ができるだろう。列氏の八〇目盛や華氏の一八〇目盛に対して摂氏の一〇〇目盛のほうが切りのよいラウンド数だというのは、理屈ではなく、われわれの慣れのせいである。(126)
-
十二宮は起点をおひつじ座の白羊宮とするが、それがもともと春分点の位置にあったからである。しかし、黄道歳差によって春分点は少しずつ移動し、今日ではうお座(双魚宮)にある。これから逆算すると、春分点がおひつじ座にあった時点は紀元九〇年頃といわれ、ちょうどあの二書(*)の出現する西洋占星術の出発点と一致する。(290)
(*マニリウス『アストロノミカ』(天文学)、プトレマイオス『テトラビブロス』(四書))

3/27
ハワード・ラインゴールド、ハワード・リヴァイン『ハイテク・トーキング』(新潮文庫)を読む。
「酸性雨」「電波スモッグ」「ホログラフィ」「炉心溶解(メルトダウン)」
「温血の恐竜」「エンドルフィン」「黒体輻射」「位相幾何学(トポロジー)」など、
知っているようで知らない科学の専門用語(ターミノロジー、ジャーゴン)を
「定義」「具体的意味」「話のタネ」の3つのパートで面白おかしく解説したもの。
「本書のオリジナル版では、全部で七〇項目が掲載されていますが、長さの関係で、比較的日本人になじみやすいものを、三五項目選びだしました」と「はじめに」にある。
「軽い読み物」という感じで、「エッセイ」程度には楽しめた。
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核分裂(フィッション)と迷信(スーパースティション)(親と子どものための教訓詩。クリスマス・シーズンに最適)
これはフレデリック・ウェルミスの物語/フレッドの両親は喧嘩中/そこでサンタに手紙を書いた/手紙は二通、複写式/一通はパパへ、一通はママへ/願い事は同じ、プルトニウム少々/相手と全然相談せずに/それぞれ大きな塊を買ってきた/驚かそうとパパとママ/やっぱりおたがい知らないままに/プルトニウムをフレッドの靴下にいれ--/一〇平方マイルが焦土地帯(115)
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イギリスの偉大な生物学者、J・B・S・ホルデインいわく、宇宙は「われわれの想像以上に奇妙な場所というばかりではない--われわれに想像できる以上に奇妙な場所である」これは特殊相対性理論を念頭においての発言ではないが、限界を越えて想像力の羽根を伸ばすような科学的概念として、相対性理論以上に適切な例はない。(212)
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Howard Rheingold & Howard Levine "Talking Tech"
酒井昭伸 訳
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ハワード・レヴァイン、ハワード・ラインゴールド『コンピュータ言語進化論 思考増幅装置を求める知的冒険の旅』(ASCII 海外ブックス)を読む。
自然言語から、いかにプログラミング言語が生み出されたかを詳述した一冊。
ユークリッド、アリストテレス、フワーリズミー、ルール、デカルト、ベーコン、
ニュートン、ライプニッツ、シャノン、ブール代数、ロバチェフスキー、リーマン、
ラッセルのパラドックス、ホワイトヘッド、ゲーデルの不完全性定理などなど、
前半は、自然言語が、形式言語を経て、プログラミング言語に到達するまで。
後半は、7つのプログラミング言語の特長とその意義を解説している。
(FORTRAN,COBOL,BASIC,LISP,Logo,Pascal,FORTH)
本書は「いかに人は思考を抽象化するのか」を巡るスリリングな知の冒険である。
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もう一つの目玉として、170ページ3行目から18行目までの全文と171ページの全文が重複しているという、ありえない誤植(校正ミス)がある。
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レンガを積んで大聖堂を建てる。音符を連ねて交響曲を作曲する。あるいはマイクロコードを並べてワードプロセッサを構築する。いずれにしても、きわめて複雑なパターンを扱いやすい大きさに区切るための方策を考えなければならない。その方策は、建築でも作曲でも、コンピュータ・プログラミングでも共通しているようで、「抽象化の階層を積みあげる」ことにつきる。つまり、基本的要素を配列して記号構造を構築し、情報を扱いやすい大きさの「レンガ」に切りわけて、そのレンガを使って次なる抽象化のレベルを組みあげるのである。(123)
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言語の力が文字という記号そのものや、文字を伝達する媒体から直接わきだすのではないのと同じように、コンピュータの力も電子信号や回路そのものに潜んでいるわけではない。粘土板に刻まれた筋や紙上のしるし、電子スイッチ回路のパターンなどで構成されるコードに人間の解釈が加わってはじめて、コードは情報や知識を伝える力を持つのである。(141)
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H.Levine & H.Rheingold "The Cognitive Connection"
椋田直子 訳

3/28
アストリアス『大統領閣下/グアテマラ伝説集』(集英社)を読む。
「大統領閣下」
グァテマラ唯一のノーベル文学賞作家の代表作。
書き出しから、一気にイメージの奔流に呑み込まれる。
凝りに凝った構成で、頭が若干混乱することもあるが、
なぜか、それさえも快楽だと感じてしまう。
マジックリアリズム全開のハイテンションな傑作。
メタレベルを抑え、オブジェクトレベルのみで描ききっているのも乙。
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「グアテマラ伝説集」
アストリアスによって書き直れた伝説・神話。
西洋的な常識がまったく通用しない、摩訶不思議な世界である。
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<でく>はふたたび眼を閉じ、夜の中に身を沈めて痛みをこらえ、くじいた脚を楽な位置に保ち、裂けた唇を手でおさえた。しかし熱くなったまぶたをほどくように開いた時、血に染まった空が上をよぎった。稲妻が光る中を、毛虫たちの影が蝶に変身して逃げていった。(18)
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カナレスはこぶしでテーブルをたたいた。
「腹黒いやぶ医者め!」
そしてもう一度げんこつでテーブルをたたき--皿や、ナイフにフォーク、それにコップなどガチャガチャと音をたてた---、その札つきの悪徳医者を締め殺すだけでは収まらず、破廉恥が破廉恥を生む社会システム全体を締めあげるかのように、指を開いたり閉じたりしていた。だからこそ--彼はそう考えた--これらすべての悪人どもに耐えられるよう、素直な人間たちには天国が約束されているのだ--まさに宗教のぺてん--。だが、そうであってはならない! らくだの天国などはもうたくさんだ! わしは下から上、上から下まで、全体を貫いた、完全なる革命を成し遂げてみせる。民衆はこのような寄生虫、公職を食いものにする連中、畑仕事をしていた方が似つかわしいようななまけものに対して立ち上がらなければならない。一人一人がなにかを破壊することだ。破壊し、ぶち壊すことだ……神が存在してはならないし、あやつり人形のような人間も存在してはならない……(175)
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Miguel Angel Asturias "Leyendas de Guatemala / Leyendas / Legends of Guatemala"
Miguel Angel Asturias "El Senor Presidente / The President"
内田吉彦、牛島信明 訳、ラテンアメリカの文学2
フランス語訳で、読書協会の国際部門賞受賞
ノーベル文学賞受賞、国際レーニン平和賞(諸国平和強化レーニン賞)受賞
ミゲル・アンヘル・アストリアス

3/29
アストゥリアス『緑の法王』(新日本出版社)を読む。
バナナ小説三部作の第二部である。
前半は、善/悪、敵/味方の区別がはっきりしすぎており図式的だが、
後半になると、うまい具合にそれらが混交されてくる。
ただ、『大統領閣下』に比べると小粒な印象はある。
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 例の赤燐のような赤毛の酔っぱらいは、睡魔よりも酔いでフラフラになって、パーティーの席を抜けだしていた。夜の歩みはとめられないと知って、男は自分の目をえぐりだし、それを口へほうりこみ、グッとのみくだして、盲になったという身ぶりをした。目をのみこんでしまったのだから、星のきらめくまるい夜空がまわりつづけてもかまいはしない。これで、夜をとめることができたではないか? 少なくとも自分にとっては、夜の歩みはとまったのだ。足と肘でさぐりながら、男はサラホバルダの家へ歩いていった。あの動かない空、目をのみこんだ瞬間にピタリと静止したあの空について、あいつはなんて言うだろうか。のみこんだ目はいやな味がして、しきりにゲップがでた。吐き気がして、男はもどした。目も、目でみたものも、夢に見たものも。ああ、目をひたしているこのソース。まるで蒸留水だ。涙の水。涙は蒸留水。点滴器で一滴一滴、現実の生活の上にしたたり落ちる……
 しかし小屋にたどり着いて、サラホバルダのからだが床にころがっているのに感づくと、さすがの彼も目玉なしではすまされなくなった。喉の奥へ指をつっこみ、男は目玉を吐きだして、てのひらでうけた。半熟の白身とガラス球。それをつまんで、鼻の左右のもとの場所にもどすと、床の上のこのかたまりがスカートをはいているのに気がついた。目玉をはめて、よく見えるようになるまえは、こいつは飲み友だちのラスコンではないか、と思っていたが、それはまちがいだった。光の消えたあちらの星は、酔いつぶれて、奥でグウグウ眠っていた。(282-283)
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Miguel Angel Asturias "El Papa Verde / The Green Pope"
鼓 直 訳、世界の革命文学
バナナ三部作『颶風(強風)』『緑の法王』『死んだ人たちの目(死者たちの眼、死者の眼)』
ミゲル・アンヘル・アストゥリアス
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M・A・アストゥリアス『マヤの三つの太陽』(新潮社)を読む。
著者の想像力の源泉を覗き込むことができる一冊。
本書は、「散文」としてではなく「詩」として読まなければならない。
解説にもあるが、マヤ神話を写実的に書こうとすると
自ずとシュルリアリスム的になってしまうという点が面白い。
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人が入るように、ぼくは自分の存在に、自分の意識に立ち戻った……。人が出てゆくように、ぼくの非存在に、潜在意識に、立ち戻ったのだ……。ぼくは神に立ち戻った……だがどこから……どこからなのだ……。涙がこぼれる。単語(ことば)がみつからない。ぼくの滅びてしまった町の塵芥のなかで言葉(パロール)を失くしてしまったのだ。ぼくは口をきかなかった。(32)
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Miguel Angel Asturias "Trois des Quatre Soleils / Tres de Cuatro Soles"
岸本静江 訳、創造の小径
四つの太陽のうちの三つ
ミゲル・アンヘル・アストゥリアス

3/30
フアン・ルルフォ『燃える平原』(書肆風の薔薇)を読む。
生涯に2つの著作しか残さなかったメキシコの小説家、フアン・ルルフォの短編集。
ほぼ全ての作品で「暴力と死」のモチーフが出てくるが、
油断すると気がつかないくらい自然に、物語に溶かし込まれている。
ラテアメらしからぬ抑制された文体のせいかもしれないが、
描かれる世界の上に透明な箱がかぶせられているようなイメージを感じた。
「おれたちのもらった土地」「燃える平原」「北の渡し」
「犬の声は聞こえんか」「アナクレト・モローネス」の5編が特によい。
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今こうしていると、なんだか目的地にまだたどり着いていないような気がしてくる。ここがただ通りすがりの場所で、しばらく休んでるだけなのだと思われてくる。じきにここを出て、また歩きつづけなければならないような感じだ。どこへ行くのだか見当もつかないが、とにかく先へ行かねばならないのだ。(74)
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Juan Rulfo "El Llano en Llamas / The Burning Plain and Other Stories"
杉山 晃 訳、叢書アンデスの風
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フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』(岩波文庫)を読む。
登場人物たちは、死者にしか心の内を語ることがない。
『ペドロ・パラモ』の世界には、死者しか存在しない。
語ることを可能にする「死」と、不可能にする「死」。
この対立項を、ルルフォは「記憶」によって乗り越える。
それにしても、「死」を介在させなければ、
何も語ることができないというのは、なんたる世界だろう。
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「さあね、何年も顔をあげなかったもんだから、空のことなど忘れちまったよ。ま、空を仰いだって、どうにもなりゃしなかっただろうよ。天はうんと高いし、目もずいぶん弱ってたから、わしにゃただ地面だけ見えてりゃ言うことはなかったからね。それに、天国へはもう決して行けない、遠くからだって見られやしないってレンテリア神父が言うもんだから、もうどうでもよくなっちまった……。わしの罪のせいさ。でもな、神父様はそんなことなぞ言わなくてもよかったのさ。生きるってことだけで、もういいかんげん苦しいんだから、死んだら別の世界へ行けると思うからこそ、足を動かす力も湧いてくるってもんだろう。天国から門前払いを食わされちゃあ、あとは地獄の門をくぐるしかない。それじゃあう生まれてこなけりゃよかったってことになる……。なあ、フアン・プレシアド、わしにとっての天国はここさ。わしが今いるここだよ」(110)
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「今まで小鳥を何羽殺したの、フスティナ?」
「ずいぶんね、スサナ」
「悲しくはなかったの?」
「悲しかったさ」
「ならどうして早く死んでしまわないの? 何を待ってるの?」
「死を待ってるんだよ、スサナ」
「それだったら心配いらないわ。今にやってくるんだから」(182)
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Juan Rulfo "Pedro Paramo: A Novel of Mexico"
杉山晃、増田義郎 訳
Mexico's National Prize for Literature
the Cervantes Prize

3/31
Juan Rulfo『El Gallo De Oro』(ERA)を買う。
「読む」ではなく「買う」である。
英訳・邦訳されておらず、スペイン語版しか存在しないのだ。
写真が何枚も掲載されており、パラパラめくるだけでも、結構楽しめる。
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Juan Rulfoが担当した「El Gallo De Oro」「El Despojo」
「La Formula Secreta」の脚本を収録。
表題にもなっている「金鶏」は、原作・プロットをルルフォが担当し、
ガブリエル・ガルシア=マルケス、カルロス・フエンテスが
脚本化したという贅沢きわまりない映画である。
この作品はDVD化されており、英語の字幕もついている(日本語はない)。
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Juan Rulfo "Golden Rooster / The Golden Cockerel"
Juan Rulfo "EL GALLO DE ORO y otros textos para cine"
Gabriel Garcia Marquez , Carlos Fuentes
フアン・ルルフォ『金鶏(黄金の鶏・金の軍鶏(しゃも))』(未訳)
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Fuentes ET AL.『Juan Rulfo's Mexico』(Smithsonian)を読む。
ルルフォが撮影した「写真」をまとめたものである。
「読む」というより「見る」と言った方が適切かもしれない。
モノクロということもあり、光と影のコントラストが強調されている写真が多い。
エッセイも収録されているが、執筆陣が豪華である。
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Juan Rulfo "Inframundo, El Mexico de Juan Rulfo / The Mexico of Juan Rulfo"
Carlos Fuentes, Margo Glanz, Jorge Alberto Lozoya ,Eduardo Rivero,
Victor Jimenez and Erika Billeter
translated by Margaret Sayers Peden

4/3
新潮社 編『私の中の日本人』『私の中の日本人 続』(新潮社)を読む。
丸山健二のエッセイ「金原純男」が目当てである。
母方の祖父について書かれているのだが、
ひねもす、それこそ狂ったように農作業をする祖父の姿は、
一日中、庭仕事に精を出す丸山健二そのものであるように見える。
その他、錚々たる執筆陣で、多少は面白く読めるのだが、
約6ページという制約もあり、胸を撃つような名文には出会えなかった。
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樫村さんはどうということをしたというような人間ではない。その方面からすれば樫村さん程度の人間は幾らでもいる筈であるが仕事を普通にやって極めて平凡に生きてそれで人を惹かずにいられないということは一般に考えられているのと別な種類の充実がそこにあることを示している。それは刻々の充実とでもいうことだろうか。もし消えて行く各瞬間を過不足なく生きているならば人間はそれ以上を求めることはなくてその瞬間毎に自分の世界、それは結局は人間というものの世界がそこに拡り、又それを端から見てもその人間と他の人間を区別する手掛りは何も得られない。それでその人間も普通ということになる。その普通ということの意味はただ一つでない。(吉田健一、正134)
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他人が決めた価値や意味への小気味いい無頓着。無頼なる自由の心地よさ。自らに率直なるものだけが持つことの出来る誠。それは要するに、認識における、想像力における、人間関係における、つまり、人生のすべてにおける自由というものの、意味とか価値ではなしに、何といおう、その肌ざわりそのものであった。(石原慎太郎、正180)
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祖父の腕力について、伯母たちが話をしてくれた。力持ちの家系だとかで、先祖には女房を便所の屋根へ片手でのせてしまった男や、二俵の米を肩でかついでおよそ二メートル幅の川をまたいだ男や、水を張ったままの風呂を抱えて歩いた男などが目白押しだった。そして伯母たちはおしまいにきまってこう言った。おまえにもその血が流れているのだから、そのうちきっとたいした力持ちになる、と。(丸山健二、正189)
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西脇順三郎と美空ひばり。両者の間にはいかなる点でも類似する要素は一つもないであろう。おそらく日本人という点をのぞいては。しかしながら私の内部ではこのあまりに異質な両者が共存しているのである。私自身ではべつに不思議でも奇異でもないと思っている。ドブロクを飲みながらパウンドを論じて悪いはずがない。ビートルズを聞きながら芭蕉を論じても同様である。何故なら人生はイロニーだからである。(池田満寿夫、続141)
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私の中の日本人は、固有の姓や名で呼ばれる具体的な存在ではなく、それは無数の個別の名で呼ばれる、私もその中のひとりである、人間の状態としてあります。それは、日本人という国家によって強制されたものではなく、無数の個別の生が相互に関係し合う中で、質的に変化しつづける動的な状態なのです。私の中の日本人は、私もその中のひとりであるところの日本人であり、それは個であり全体である運動体のようなものです。(武満徹、続180)
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(正)庄野潤三、野坂昭如、高坂正堯、辻邦生、清岡卓行、安岡章太郎、山口瞳、星新一、大岡信、中村光夫、栗津則雄、江藤淳、堀田善術、河野多恵子、倉橋由美子、向坂逸郎、宮原昭夫、大岡昇平、矢野健太郎、三浦哲郎、中野好夫、吉田健一、富岡多恵子、水上勉、丸谷才一、田村隆一、吉増剛造、小松左京、三木卓、石原慎太郎、金井美恵子、丸山健二、尾崎一雄、円地文子、永井龍男
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(続)森茉莉、小川国夫、梅原猛、福原麟太郎、上林暁、五木寛之、川上徹太郎、松本清張、大江健三郎、安東次男、阿川弘之、渡辺淳一、池波正太郎、吉村昭、加賀乙彦、阿部昭、中村真一郎、平野謙、奈良本辰也、河盛好蔵、遠藤周作、保田與重郎、池田満寿夫、大原富枝、開高健、藤枝静男、佐多稲子、井上靖、司馬遼太郎、武満徹、島尾敏雄、李恢成、井上光晴、中上健次、小田実

4/4
野呂邦暢『草のつるぎ』(文春文庫)を読む。
第70回芥川賞を受賞した第一部「草のつるぎ」と、第二部「砦の冬」を収録した作品集。
自衛隊員の日常が、乾いた精緻な描写によって浮かび上がる。
第一部はかなりの傑作なのだが、第二部は若干間延びしているように思えた。
丸山健二が、解説で絶賛している。
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伊佐に帰った翌日、高校時代の同級生に会った。彼らはぼくがなぜ自衛隊に這入ったか知りたがった。うまく説明出来なかった。こういえばどうだろう。物質に科学変化を起させるには高い熱と圧力が必要だ。そういう条件で物は変質し前とは似ても似つかぬ物に変る。ぼくは自分の顔が体つきが、いやそれに限らず自分自身の全てがイヤだ。ぼくは別人に変りたい。ぼく以外の他人になりたい。ぼくがぼくでなくなればどんな人間でも構わない。無色透明な人間になりたい。そのためには自分を使いつくす必要があると思われた。かきまわし、熱を加え、叩きつぶさなければならなかった。このような事情をしかしぼくは語ることが出来なかった。何者でもなくなることにどうしてこだわるのか、と彼らはいいたかがっているようだ。それにはぼくは自分に対する憎しみを開陳しなければならない。そこまでは億劫だった。(62)
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誰かが冗談まじりにこんなことを言った。「この本は売れるぞ。自衛隊員が二人で一冊買ったとしても大変な数になるじゃないか」しかし、彼が期待したような反応は現われなかった。芥川賞受賞作品という強力なセールス・ポイントがあったにもかかわらず、近頃のファッション・ポルノ風受賞作品などに比べてみると、《草のつるぎ》の売れ行きは地味だった。まったく腹立たしいくらいだった。だが私は、しばらくして、それでもいいではないかと考えた。小説をまともに考え、人間を注意深く観察し、素直に感じたものをより性格に捉えようとした場合、自ずとその作品が派手さから遠のいてしまうのは致し方のないことだった。(丸山健二「解説」234)

4/5
A・バスケイス=フィゲロウア『自由への逃亡』(ハヤカワ文庫NV)を読む。
脱走した政治犯を、犬がひたすら追いかける、
という緊張感・スピード感に満ちたサスペンス小説。
最大の特徴は、犬が人間のように考えるところなのだが、
あまりにも賢すぎるせいで、途中から犬とは思えなくなってくる。
また、極端に単純化された世界観も気がかりである。
これらが意図されたものであり、政治的な意味合いを持っているのだとしたら、
作者の筆致は大したものである。
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男は、時間を超えてうしろへ引き戻されているのを感じた。何千年。あるいは何万年。まだ人類が地上に現われはじめた頃。生きるがために、荒々しくなければならなかった。死なないために戦わなければならなかった。
テレビというもののある時代なのだ。何千キロと離れたところへも映像を送ることができる。フットボールの決勝戦を居ながらにして観戦するのも何でもないことだった。軍の専門家は何とか口実をつけて、どこかで新型の水爆の実験をしているかもしれない。都市には人口が集中し、ふくれ上がっている。そして汚染された空気や水が人々の健康をむしばんでいる。今。そういう時代だった。そして彼は? 男は今、おそらくクロマニヨン人の時代からほとんど何の進化もしていないはずの“犬”と、それこそ有史以前の時代にでも繰り広げられたであろうような戦いを交えようとしている。(117)
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アルベアト・バスケイス=フィゲロウア、岡村孝一 訳、狂気の犬のごとく
Alberto Vazquez-Figueroa "Como un perro rabioso / Le Chien"
(おそらく)フランス語訳からの重訳、原書はスペイン語。

4/6
A・V・フィゲロア『アシャンティ』(ヘラルド出版)を読む。
新婚旅行中に誘拐された妻(黒人)を、
夫(白人)である写真家が探し出す冒険小説。
人種差別や奴隷制度の問題を突き詰めているようだが、登場人物が類型的である。
深いことを考えなければ、かなり上質なサスペンスとして楽しめる。
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「それは拷問のようなもんだ。拷問は法律上は禁止されているが、世界中の警察がなんらかの形で行っているのは周知の事実だ。きみはブラジル人やチリ人が、その国内の拷問に責任があると思うのか。アメリカ人がCIAの所業に責任があると思うのか。また、ロシア人すべてがアレクサンダー・ソルジェニツィンが"収容所群島"でのべている問題に責任があるのだろうか」
「ドイツ人は強制収容所内で行ったことに責任がないというのか」デビッドは憤然としてたずねた。
「ドイツ人すべてがかね?」
 アレック・コリングウッドがたずねた。
「そうだ、みんなだ」デビッドが興奮して叫んだ。
「同様にわれわれはみんな、拷問や奴隷売買や飢えに責任があるんだ。それらの悪はこの世に存在している、そしてわれわれはつねにそのことに注意を促されてはいるが、ややもすれば忘れがちだ。戦争が終ったとき、世界中の人々は、よくもドイツ人はこういった暴虐に反対してヒトラーに反抗しなかったものだと呆れた……われわれは毎日、似たような蛮行に平然としてまったく罪悪感をおぼえない有様だ」
「いちいち罪悪感をおぼえていた日には、われわれは頭がヘンになっちまうぞ。奴隷売買、拷問、皆殺し部隊、麻薬、飢餓、疫病と、かぞえあげればきりがない。われわれは自分自身を疲らすばかりだ。でなきゃその観念だけでもわれわれは破壊されちまう」(273)
-
アルベルト・バスケス・フィゲロア
Alberto Vazquez-Figueroa "Ashanti"
ヘラルド・エンタープライズ、ヘラルド映画文庫

4/7
吉村作治『日本人の知らない コーランの奇蹟』(タツの本)を読む。
BOOKOFFで見つけたサイン本で、
「●●●様   恵存 吉村作治」と書いてある。(●●●は人名)
コーランを一度、ばらばらに分解し、わかりやすいように再構成している好著。
かつて翻訳さえ許されていなかったコーランを、
このような形で紹介していいのかは大いに疑問だれども。
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興味深いことに、人間は同じ物を食べる者とは連帯感を抱きやすいが、反対に、食べ物が異なる場合は、それに違和感をもつのみでなく排斥する習性がある。(129)
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(サブタイトル)四億人を支配するムハンマドの預言書
RYU BOOKS、リュウブックス、株式会社経済界

4/10
フワン=ラモン・サラゴサ『殺人協奏曲』(新潮社)を読む。
帯裏の要約が巧みなので、そのまま引用。
「発明に没頭するマルコスとそれを利用して政治権力を奪おうとするアドルフ……歴史上実在した人物を配し、舞台は紀元一世紀のローマ時代から、一転して二十一世紀のアメリカのワシントンへ、そして十八世紀フランス革命直前のパリへと移る……主人公のマルコスは、ローマ時代では蒸気自動車を発明し、二十一世紀では暗示脳波を電波に乗せてテレビ放映する研究を手がけ、十八世紀では発電機を発明する。アドルフはその技術を利用して政治権力を握ろうとたくらむが、常にマルコスに見破られ、マルコスを道づれに逃げまくる……」
これを読んで「語りなおし」がテーマの魅力的な小説だと期待した。
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実際はどうだろう。
「序幕」「第一部 ローマ 紀元七八年」
「幕間」「第二部 ワシントン 二〇一六年」
「幕間」「第三部 パリ 一七七六年」「終章」
失敗の原因は、物語を「時間通り」に叙述してしまったことにある。
下の引用(218ページ)にもあるように、緊張感がなくなってしまうのだ。
また、「幕間」として挿入されている霊界審判は、装置として安易。
-
例えば、3つの物語が同時に進行し、それぞれが時代ごとに異なる結果を
生み出すような感じにすれば、傑作になったかもしれない。
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科学の歴史の基本的問題は、その時その時になされた発明だけを取上げることではなく、なぜその時代に、その発明がなされなかったかを考えることなのだ。一つの発明、発見は、それを包む環境と見合っているものなのだ。子宮に眠る胎児のように、土の中の種子のように。孤立した発見者や、孤独を楽しむ発明家は、もし社会がその発明、発見を庇護せず、発展させず、信頼せず、育まなければ、彼らは社会にとってなんら役に立つ存在ではなくなる。科学というものは孤立した歴史を持つものではなく、社会性を持っているのだ。(74)
-
「民主主義は民主的な方法で守らなければならない。独裁制を始めるのではないかと疑い、その意図を挫こうとするあまり、個人や団体の民主主義固有の権利を抹殺してしまったのでは民主主義の意図に反することになる。それこそ独裁制の始まりなのだ」(121)
-
 ヴォルテールは黙った。ヘンデルの「合奏協奏曲(コンチェルト・グロッソ)のリズムを小さな手で追っていた。/みんなは静まり返って説明を待った。/「合奏協奏曲の構成は素晴らしいね。全体として一つの統一がとれている。それは当り前だが、その一つ一つは違ったパート--つまりラルゴ、アレグロ、ラルゲット--で構成され、それぞれ異ったメロディを奏でる。だが周期的にもとのテーマへもどり、ヴァリエーションを加えて繰り返される。全体としての統一もあるが、パートのなかにも統一がある。しかし全体を通しての、直線的テーマはなく、言ってみれば、繰り返しのテーマ……」そう言いながら、彼はセレナーデの拍子を手で追っていた。「このテクニックをどう小説に応用するかだ」
「うまく行くとは思えませんね」と文学者を自認するアカデミー会員が口をはさんだ。「小説はもちろん、戯曲でもそうですが、設定、筋、結末などの物語性がなくなってしまいますよ。同じ筋を何回となく繰り返して、一つの小説をどう作るんですか? ちょっとばかげた話ではありませんか?」
 ヴォルテールは、この知的な遊戯を無性に楽しんでいた。「そう、ばかげているように見える。しかし……諸君、ギリシャ戯曲は筋にかけては、何の目新しさもないが、それほどばかげているとは見えないということにお気付きかな? エディプス、エレクトラ、イフイゲニアなどの古典的テーマが、それこそ何回となく繰り返される。大事なことはこれらのテーマを取扱う手法、つまりそこにある世界観なのだ。私の畏友プロイセンのフリードリッヒ二世なら言うだろうヴェルトアンシャウウング(ドイツ語で世界観)が問題なのだ--見物人は劇場を埋め尽し、前もって知り尽している筋書きの演し物を楽しんでいる」
「しかし、筋が重要でないとすれば、小説の価値はどこにあるのですか」
「お若い方、私は私一人の頭で勝手に断定しているわけではない。この問題は何世紀にもわたって論議され、それ一つの学会ができていると言っていいくらいだ」
 聴き入っている人たちの顔に、つつましやかな微笑が浮かぶ。「私はただこうして優秀なお仲間といっしょに、俎上に登った問題をめぐって、知的なピルエットを踊っているにすぎないのだ。直線的な小説にかわって、交響曲的小説が、ひょっとしたら作られるかも知れない。つまりおそらく筋がヴァリエーションを持ちながら、たびたび繰り返されるといった交響曲小説が。奇妙でしょうな。テーマだけが統一されていて、ヴァリエーションを持ちながら展開してい行く。筋書きは同じでも、雰囲気は変えることができる。時代、場所、あるいはその二つを同時に変えることもできる」(218)
-
Juan Ramon Zaragoza "Concerto Grosso"
Juan R. Zaragoza、1980年度ナダル賞受賞作
喜多延鷹 訳、新潮・現代世界の文学

4/11
長坂敏正『真夏の少年たち』(文芸社)を読む。
ちょっと昔の田舎を舞台に少年たちの夏がはじまる。
…という、よくある設定である。
文学的な技巧の稚拙さや、クリシェイの多用、
物語コードに柔順すぎること、など、
細かいことを考えなければ、童心に戻れる楽しい小説である。
そもそも、イノセントに、理論など必要だろうか。
-
以下の文章はレトリックとしてどうかと思う。
-
父さん、子犬を抱いたままワンワン泣いた。(264)

4/12
ルーパート・トムソン『終わりなき闇』(講談社文庫)を読む。
発砲事件で失明したはずなのに、夜になるとなぜか「見える」。
暗視力に導かれて、主人公がたどり着いた結末は・・・みたいな話。
一般的な小説作法からはかなり逸脱しているけれども、
それを許せて余りある文章力がこの作者にはある。
(例えば、突然はじまる回想(第2部)は、夏目漱石『こころ』と同様、不自然に長い)
サイコ・スリラーやサスペンス・スリラーではなく、
純文学として売り出した方が正解だったのではないだろうか。
-
昔、わたしは結婚式に出席するのが好きだった。『幸せな二人』を見るのが好きだったわけではない。ダラダラしたスピーチや、酒やケーキ、愛に満ちた雰囲気などが好きだったわけでもない。列席者の中に必ず、一家の秘密をさらけ出しはじめる人間がいるからだ。愛に満ちた雰囲気の中で、少しずつ恥部をあらわにするヘディのような人間が必ずいる。それが、おもしろかった。(132)
-
一瞬を確実につかみとる方法がある。この一瞬を永遠に自分のものにしておく方法が。だが、何をするにしても、ゆっくりと、そして完全なる沈黙のうちにやり遂げることだ。決して没頭してはならない。一瞬をつかまえてくれるのは、自分ではなく、他の誰かなのだから。(416)
-
エディスの人生は、忘れられない出来事の連続だ。だが、それは取り立てて珍しいことではない。問題は、その出来事を繰り返し口に出さずにはいられないことだ--まるで初めて話すかのように。たとえ、完全にそらんじてしまっても、エディスは何度も自分の人生を思い返した。(598)
-
斉藤伯好 訳、1996年度英国ガーディアン・フィクション賞候補作
Rupert Thomson "The Insult"

4/13
ルパート・トムソン『ソフト』(角川書店 ブックプラス)を読む。
「飲みだしたら止まらない、謎の液体Kwenchって?
これがUK発スタイリッシュ・ノヴェルの大本命!」とある。
帯バージョンと、シールバージョンがあり、
よく見るととカバーも2種類ある。(マットとコート)
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ソフトドリンク「Kwench!」を軸として、
3つの話を収斂させようとしているのだが、どうも弱い。
「何が起こるかわからない」だけでは不十分で、
「何が起こるか知りたい」と思わせなければならない。
前作に比べ、今作はこの部分が弱かった。
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こちらはみなさんに眠っていただくために、お金を払うんです。
夢みたいな話だった。(95)
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この人たち、まるで私が現われたときに息を吹き返し、去った瞬間に死ぬみたいだ、とグレイドは思った。相手は機械で、自分は電流---そんな感じがした。(105)
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雨海弘美 訳、ノワール・エンターテインメント、BOOK PLUS
Rupert Thomson "Soft"

4/14
ティエリ・ジョンケ『蜘蛛の微笑』(ハヤカワ・ミステリ文庫)を読む。
叙述トリックで有名な一冊。
「男は愛人を監禁し、強盗は自慰をし、追跡者は獲物に刃を振りおろし、
愛人はピアノを弾いて性器をさらけだし、謎と謎と謎とが絡み合う。」
という扇情的なコピーが期待感を煽る。
期待が過剰になってしまったせいか、わかりやすすぎた伏線にげんなり。
確かに、スピード感はある。
初めから終わりまで一気に読んで、
次の日にはすべてを忘れてしまっているような一冊。
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Tierry Jonquet "Mygale" ミガール、平岡敦 訳
《IN☆POCKET》(講談社)2004年度文庫翻訳ミステリー・ベスト10
作家が選んだベスト10第4位
『このミステリーがすごい!2005年度版』(宝島社)海外編第13位
他の作品で「813賞」(3回)、「ミステリ批評家大賞」(2回)、
「マン市ポラール賞」(1回)などを受賞。

4/15
サイモン・ブレット『死のようにロマンティック』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)を読む。
これまた叙述トリックか鮮やかな一冊である。
「俊英の異色サスペンス---冴えるエンディング!
 独身の美人教師をめぐる奇妙な三角関係。
 絶妙のテクニックと語り口で描く問題作!」と帯にある。
とにかく語りがうまい。
ラストの捻り方はネタバレになるので詳しくは書けないが、
どうも、イノセンスを守ろうとしすぎているように思える。
エンターテインメントに徹している著者にとって、
そんなことは一顧だに値しない瑣末な問題なのかもしれないけれども。
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「愛は死滅するものだ。いや、外側の環境によって消滅させられると言うべきかな」
「というより」感情のこもったマデレーンの声がした。「愛するものは死んでも、その愛だけは残るのではなくて」
「そしてけっして他の者には残らないと?」
「長い時間がかかるでしょうね。それに同じ愛ではないかもしれない」
「そう、そうかもしれない」だが暗い内容の話の割に、男の声は弾んでいた。
 そのまま、ふたりの会話は途絶えてしまった。(66)
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ブライトンでも様々な知人に恵まれてはいるものの、彼女と同じレベルの知性を備えた人間に会えることはめったにない。第一、文学を語り合おうなどという高尚な人々は少なかったし、たとえいても現代作家を持ち出したり、文学以外の媒体を引き合いに出そうとしたりする。それゆえ、バーナードのように彼女と同質の文学的傾向を持って、しかも彼女の意見に喜んで耳を傾けてくれる存在は、マデレーンにとっては貴重な価値があった。(115)
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Simon Brett"Dead Romantic"
嵯峨静江 訳、A HAYAKAWA POCKET MYSTERY BOOK
Hayakawa Publishing, inc, HPB

4/17
ベケットは1906年4月13日に生まれた。
2006年はベケット生誕100周年に当たるわけだが、
少なくとも日本においては、驚くほどの無関心ぶりである。
確かに、モーツァルトと「かぶって」しまったのは不運だけれども、
だとしても、これほどの劇作家/小説家をどうして放っておくのだろう。
饒舌よりも沈黙を選び取ったベケットには、ふさわしい事態なのかもしれない。
そう韜晦混じりに自分を納得させる。
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サミュエル・ベケット『エレウテリア(自由)』(白水社)を読む。
ベケットが生前、出版・上演を拒否したいわくつきの処女戯曲。
『エレウテリア』は、「自由」というより「不自由」についての演劇である。
登場人物たちが、自分自身の殻に何とかして閉じこもろうとする。
緊張感が絶頂に達したとき、「観客」が舞台に登場し文句をつける。
観客の登場により「観られる」という唯一の「開かれ」まで失われてしまうわけである。
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会話は、成立しているようで、成立していない。
会話は、成立してないようで、成立している。
印象的なのは、「沈黙」の多様である。
「幸せ」について話していた親子が、
最後には二人とも黙りこくってしまうシーンがすばらしい。
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クラップ氏 だろう? 話に戻ろう。これは資材の問題だ。多すぎれば、どこから始めればいいかわからず、少なすぎれば、始めるには及ばない。ところがそれでも始めてしまう、なにもしないのが恐いからだ。時には終わりだと思うことさえある、そういうことがあるんだ。それから、そんなことはこけおどしにすぎないとわかる。それで、また、始める、多すぎても少なすぎても。どうして、これおどしにすぎない人生に甘んじていられないんだろう? それが神聖な起源というものに違いないのに。やつらは言うんだ、そうさ、人生というのは、始めること、そしてまた始めることだと。いや違う、なにもしないのが恐いだけさ。人生は不可能だ。うまく言えないけど。
スカンク嬢 少しもわからないわ。(63)
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ヴィクトール 自分の財産は譲ります、できる時には。
ガラス屋 あんたの財産! どんな財産です?
ヴィクトール 僕の自由です。
ガラス屋 あんたの自由! そいつはすばらしい、あんたの自由か! なにをするための自由です?
ヴィクトール なにもしないための。(103)
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ガラス屋 わかりませんか? われわれみな、意味のないものの周りをどうどう巡りしているんだ。意味を見つけなくちゃ、さもなければ幕を下ろすしかない。 ピュック博士 で? ナンセンスに幕を下ろすことには、なんの不都合もないでしょう。そもそも、それはよくあることだ。まあいい、あなたにとっては問題はそこにないというのはわかります。だから、これ以上は言いませんよ。ただ単にお答えしたいと思います。あなたは無理にでも、あの……なんと言うか……この見せかけの生活をなんとか正当化したいんですね、そうして、その生活を送っている者とそれを悲しんでいる者たちを、あなたのきわめて美しい表現によれば、ケースに納めてしまいたいんですね。ほぼそういうところでしょう? よろしい。私はそれをやろうとしているんですよ、この上なく清潔でこの上なく快適なやり方で、当事者をその拒絶の果てまで行く可能性の前に立たせることによって。というのも、私によく理解できているとすれば、問題は確かに拒絶ですからね。(130)
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観客 (落ち着いて)言うんでしょう、そんなのもうなんの役にも立たない、遅すぎる、勝負には負けたんだと。そうかもしれない。でもかまわない。今の時点では、もうそれしか残っていないんです。無理矢理言わされたことには証言価値などないと言うんでしょう。いやあります、あるんです、人間というのはなにを言っても自分を裏切ってしまうんだから。(156)
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Samuel Beckett"Eleutheria"、ギリシャ語で「自由」の意味、『エウレテリア』は誤記
坂原眞理 訳、不条理演劇、メタシアター、劇中劇構造、メタ演劇

4/18
サミュエル・ベケット『ベケット戯曲全集1』(白水社)を再読。
何と言っても「ゴドーを待ちながら」である。
エストラゴン(ゴゴー)とヴラジーミル(ディディー)が、
ゴドーをただ待っているという革命的な戯曲。
ゴドー(=究極的な目的)の不在により、
すべては馬鹿馬鹿しい無意味なおしゃべり(道化)転化する。
しかし、それは観る者の退屈を意味しない。
「ゴドーを待つんだ」というセリフは、呪いのように繰り返される。
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ポッツォ ほれ、もう泣きやんだ。(エストラゴンに)いわばあんたが身代わりになったわけだな。(夢みるように)世界の涙は不変だ。誰か一人が泣き出すたびに、どこかで、誰かが泣きやんでいる。笑いについても同様だ。(笑う。)だから、世の中の悪口を言うのはやめよう。昔より特に今のほうが不幸だというわけじゃないんだから。(沈黙。)だが、ほめるにも当たらない。(沈黙。)何も言わぬがよろしい。(沈黙。さかしげに)。確かに、人口は増えた。(「ゴドーを待ちながら」60)
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ヴラジーミル 何を言っているのかな、それは?
エストラゴン 自分の一生を話している。
ヴラジーミル 生きたというだけじゃ満足できない。
エストラゴン 生きたことはしゃべらなければ。
ヴラジーミル 死んだだけじゃ足りない。
エストラゴン ああ足りない。(「ゴドーを待ちながら」120)
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ヴラジーミル むだな議論で時間を費やすべきじゃない。(間。激烈に)なんとかすべきだ。機会をのがさず! 誰かがわたしたちを必要とするのは毎日ってわけじゃないんだ。実のところ、今だって、正確にいえば、わたしたちが必要なんじゃない。ほかの人間だって、この仕事はやってのけるに違いない。わたしたちよりうまいかどうか、そりゃ別としてもだ。われわれの聞いた呼び声は、むしろ、人類全体に向けられているわけだ。ただ、今日ただいま、この場では、人類はすなわちわれわれ二人だ、これは、われわれが好むと好まざるにかかわらない。この立場は、手おくれにならないうちに利用すべきだ。運悪く人類に生まれついたからには、せめて一度ぐらいはりっぱにこの生物を代表すべきだ。そうだね?(「ゴドーを待ちながら」156)
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ルーニー氏 (…)わしは汽車から降りてジェリーに殿方用便所に連れてってもらった。the man's(殿方用)、いやこのごろではゲーリック語で fir(男性)というんだな、これはラテン語の vir,viris から来るんだと思う。v が f になるグリムの法則に従って。(「すべて倒れんとする者」251)
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ゴドーとは誰かという質問に、あるインタビューでベケットは答えている。「わたしもそれは知らない。知っていたら作品の中に書いておいたはずだ」と。それでいて、ゴドーという名前そのものの由来については、エストラゴンの靴と関連してゴディヨ(どた靴)から来たとか、略伝で述べたように、競輪の選手の名と同じだとか言っている。そこでさまざまな説明が生まれてくる。誰でも気がつくのはゴッド(神)との相似で、この作品を宗教的道徳劇と解釈したがる人はこの説をとる。(作品解説(安堂))
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Samuel Beckett 安堂信也・高橋康也 共訳
「ゴドーを待ちながら」 "Waiting for Godot / En attengdant Godot"
「すべて倒れんとする者」"All That Fall/ Tous ceux qui tombent"
「クラップの最後のテープ」"Krappe's Last Tape / La derniere bande"
「残り火/灰」"Embers / Cendres"
ロベール・パンジェ(Robert Pinget)、ピエール・レリス(Pierre Leyris)とベケット本人によってフランス語訳

4/19
サミュエル・ベケット『ベケット戯曲全集2』(白水社)を再読。
ベケットは演劇を徹底的に悪用する。
合理性という「芯」を失った登場人物たちの言葉は、
失語症さながらに零れ落ちる。
ベケットの戯曲を「文字」として読むことの不可能性。
それは「読む」ことそのものに対しての不信へと繋がっていく。
「勝負の終わり」のぶっ壊れ方が見事。
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ハム (…)ああ、全く人間ってやつは、なにもかも説明してやらないとわからんのだからな。(「勝負の終わり」56)
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ウィニー (…)全能の神様をたたえるには、神様といっしょに笑ってあげるのがいちばんいいんじゃないかしら、神様の冗談、それもあまりうまくない冗談を。(間。)この考え、賛成してくれるでしょ、ウィリー?(…)(「しあわせな日々」151)
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Samuel Beckett 安堂信也・高橋康也 共訳
「勝負の終わり」"Endgame / Fin de Partie"
「言葉なき行為」「言葉なき行為U」"Act without Words / Acte sans Paroles"
「しあわせな日々/ああ、うるわしき日々/ああ、美わしの日々」"Happy Days / Oh les Beaux Jours"
「言葉と音楽」"Words and Music / Paroles et Musique"
「芝居」"Play / Comedie"
「カスカンド」"Cascando"
「行ったり来たり ミニドラマ(ドラマティキュル)」"Come and Go / Va et Vient"
「ねえジョウ テレビジョンのための作品」"Eh Joe / Dis Joe"
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サミュエル・ベケット『ベケット戯曲全集3』(白水社)を読む。
ベケットの死者は、必ずと言っていいほど甦る。
分解された時間は、同時に流れる。
この自由な形式によって、はじめて現前させることが可能になった「死」。
言葉と沈黙の臨界点に立つことのできる空前絶後の戯曲集。
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D いやいや、もう大丈夫だ。(フォックスに。)もちろん、あんた同様、ぼくたちにもわかっちゃいない、いったい正確にいってぼくたちが何を求めているのか、どんなしるし、どんな一連の言葉を探しているのか。それがなんであれだ、いままでのところ、その何かはあんたの口から洩れていないわけだ。とすればだ、あんたがいままでと相変わらぬ主題をしゃべりつづけても、まずは成功おぼつかない。まあ、ぜったいだめだろう。(「ラジオ・ドラマ 下書きU」91)
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C 雨の中に追い出されてまた例によって同じことのくりかえしいつものように行きあたりばったりにまた話をでっちあげかつて存在もしなかったのだとしたらどうだろう変りばえがするだろうかかつて存在したことがないってことにしたらうまくいくのだろうかと考えたりして例によって同じことのくりかえしなんとかうまく逃げこもうとしながら町じゅうをよたつき歩いてぶつぶつ呟きつづけてしまいに言葉が干上り頭も干上り脚も干上ってしまった誰の言葉誰の頭誰の脚だか知らないがあるいはそいつが処置なしとあきらめたそいつが誰だか知らないが(「あのとき」164)
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語るべきことはもうなにも残っていない。(「オハイオ即興劇」269)
-
Samuel Beckett 安堂信也 訳
「芝居 下書きT」「芝居 下書きU」"Rough for Theatre / Fragment de Theatre"
「ラジオ・ドラマ 下書きT」「ラジオ・ドラマ 下書きU」"Rough for Radio / Esquisse Radiophonique"
「フィルム」"Film"
「息」"Breath / Souffle"
「わたしじゃない」"Not I / Pas Moi"
「あのとき」"That Time / Cette Fois"
「あしおと」"Footfalls / Pas"
「幽霊トリオ」"Ghost Trio / Trio du Fantome"
「……雲のように……」"...but the clouds... / ...que nuages..."
「モノローグ一片」"A Piece of Monologue / Solo"
「ロッカバイ」"Rockaby / Berceuse"
「オハイオ即興劇」"Ohio Impromptu / Impromptu d'Ohio"
「クヮッド/クワッド」「クヮッドU」"Quad"
「カタストロフィ」"Catastrophe"
「夜と夢」"Nacht und Traume / Night and Dreams"
「なに どこ」"What Where / Quoi Ou"

4/20
サミュエル・ベケット『並には勝る女たちの夢』(白水社)を読む。
「爆発するベケットの恋物語(イストワール・ダムール)!
ダブリン、パリ、ウィーンと若き芸術家ベラックワがドタバタと駆け抜けてゆく---。
「死後しばらくするまでは」出版が禁じられていた、
ベケットの幻の処女作、ついに邦訳刊行なる」と帯にある。
「ジョイスの奴隷的な模倣である」と評されたことからもわかるように
複数の言語と無数の文学作品がごちゃごちゃになって乱舞する、
目の眩むような饒舌と晦渋に満ちた怪作である。
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前半と後半では、そのトーンが僅かに異なっている。
(後半は、何と言うか、壊れ方がとても幾何学的な気がする。)
ジョイスという圧倒的な重量下から逃れ、未知の領域へと悠然と踏み出した、
ベケットの勇気ある一歩を垣間見ることができる貴重な作品である。
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僕にとっては、唯一真実のものは関係のなかに見出される。鉄アレイの棒、僕の両眼の間の沈黙、君と僕の間の沈黙、君と僕の間のあらゆる沈黙のなかに。僕は真の均衡を、神と悪魔、マゾッホとサド(こんな古臭い二項対立は勘弁してくれてもよかったのに)、我と汝、マイナス1と1といった、非現実的措定に根ざした関係の頂点にしか認めない。情熱的な関係の頂点で僕は生きる。単一性と無縁で、非-実在で非-単独で、孤独の引力にかかわることもない。赤い孤独と緑の孤独、赤い単一性と紫の単一性というスペクトルの両極間を流れる、中央の、深く緑色した流れの上で休らう。アーチの頂点にあって、偽の完全性には縁のない、僕の両眼の間の、そして君と僕の間の沈黙、翼の間の身体。(37)
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いずれにしても英語で厭味は書けない、いつもやり過ぎてしまうから。フランス語でならすばらしい厭味が書けるけれど、英語ではいつもやり過ぎてしまう。(78)
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「あなたは僕を誤解しています」ベラックワは言った、「僕が言ったことは、あなたの汚らわしい性愛の手管を僕が軽蔑していることと無関係です。僕はあなたが知らないし知ることができないものについて話したのです。それはたとえばランボーやベートーヴェンが表現したような矛盾をはらんだ連続です。彼らの名前が僕には思い浮かびます。彼らの表現(ステイトメント)の項は沈黙という狂気の領域の現実を画定するのに奉仕しているだけですし、彼らの可聴性はさまざまな沈黙の表現(ステイトメント)における句読点以上のものではありません。彼らはどうやってある点から別の点へ移動するのか。それが僕が意味する矛盾した現実でありその真正なる外面化なのです」(123)
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あらゆるものがおとぎ話のように終わる、あるいは終わるように作ることができるというのは驚くべきことだ。最も不潔なエピソードですらそうなのだ。(133)
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「左足のほうが右足よりも大きいというのが商売上の経験ですので、測定用の靴を除くすべての場合で、左足を右足よりも大きく作るのが伝統なんです……」
「つまり(…)右足のほうが左足よりやや小さいことになるんだ!」
「そういうわけで(…)両足の大きさが等しいという珍らしい方、つまりお客様のような方には(…)主に普通の方のために作られている品物の不均衡を我慢していただかねばらならいのです」(157)
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Samuel Beckett"Dream of Fair to middling Women"
田尻芳樹 訳、幻の処女長編小説
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サミュエル・ベケット『蹴り損の棘もうけ《新装復刊》』(白水社)を読む。
「1934年の出版後、作者が長期にわたって再版を許さなかったベケット作品中第一級の稀覯本。」と帯にある。
引き続きベラックヮ・シュアの登場する連作短編集であるが、
『並には勝る女たちの夢』のような饒舌はほとんどない。
ジョイス『ダブリンの人びと』のような形式に見えて、内容は全く違う。
『蹴り損の棘もうけ』の登場人物たちは、主人公が近づくまで生命を与えられていない。
ベラックヮという色鉛筆をじっと待っている、塗り絵のようである。
ここに描き出される世界には、主人公しかいない。
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「ダンテと海ざりがに」「フィンガル」「愛と忘却」「黄色」の完成度は
間違いなくジョイスの短編を超えている。
文句なしの傑作である。
『並には〜』との重複が多数あり、それが不満といえば不満。
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その行為の動機が、筆舌を絶するほどに識閾下のものである場合、もっとも単純なとるべき道は、その行為を《無ヨリ発シタ(エクス・ニヒロ)》ものとみなし、それを無視するのがいちばんである。(133)
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最初、彼女は「だめ」と言い、次に「いえ、だめ」と言い、次に「いけないわ」と言い、次に「だって」と言い、次にはよくとおる声で、「いいわ、あなた」と言った。(174)
-
ベラックヮは猿臂(えんぴ)を伸ばして明かりを消した。明かりの影が落ちた。目を閉じよう、こうして夜明けの裏をかいてやるのだ。それにしても目とはいったいなんだろう? 精神の裏門。なるほど閉じておくのが安全というわけだ。(245)
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Samuel Beckett "More Pricks than Kicks / Bande et Sarabande"
モア・プリックス・ザン・キックス、足蹴より針責めを多く、蹴るよりも刺す
川口喬一 訳
「ダンテと海ざりがに」"Dante and the Lobster"
「フィンガル」"Fingal"
「ディーン・ドーン」"Ding-Dong"
「濡れた夜」"A Wet Night"
「愛と忘却(レーテー)」"Love and Lethe"
「外出」"Walking Out"
「なんたる不幸」"What a Misfortune"
「スメラルディーナの恋文」"The Smeraldina's Billet Doux"
「黄色」"Yellow"
「残り滓」"Draff"

4/21
サミュエル・ベケット『マーフィー《新装復刊》』(白水社)を読む。
「ダブリンとロンドンを舞台に、自己の精神世界のなかに生きようとする人間を描いた、ベケット文学の原点というべき作品」と帯にある。
「デカルト、スピノザ、ライプニッツ等への哲学的関心事が凝縮されている作品。」と『初恋〜』の巻末紹介にある。
三輪秀彦 訳の『マーフィ』(早川書房)をハードカバーで
以前読んだのだが、今回改めて読み直す。
小説の面白さ、という観点からすると、本書は大して面白くない。
『蹴り損の〜』の世界から主人公を取り除いたイメージ。
すべてがモノクロで描かれ、あらゆるものがぎこちない。
もちろん、意図したことなのだろうが、いかんせん、読みづらかった。
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今回、改めてハヤカワNV文庫版を購入し、白水社版と比較したが、
白水社は英語から、早川書房はフランス語から訳している。
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「あなたってどうしてそれほどまでにばかで残酷で」と彼女は言いかけ、文を完成する労を払わなかった。(40)
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「いったんある程度の洞察力に到着すれば」とワイリーが言った、「人間はみな、口をきかねばならない事態になれば、同じ愚劣なことを言うものです。」(65)
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彼は彼女に感じてもらいたくなかった、少なくとも彼女がそれを感じるときにその場にいあわせたくなかった--彼女の愛情のこもった小言がどんなに見当はずれな結果に終わったかを、彼がそこに行かないように訓練していた位置、つまり彼女が彼を発見した位置に、前にもまして彼をしっかりと位置づけるのに彼女の小言が役立ったにすぎないことを、彼を男にしようという努力がマーフィーを前にもましてマーフィーたらしめたことを、さらに、彼を変えよういう努力をあくまで続けたために、彼が最初から彼女に警告していたように、結局彼を失ったことを。「きみか、ぼくの肉体か、ぼくの精神か……一つが去らねばならない。」(192)
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「こうした考え方の利点は、事態がよくなることを期待することができない一方では、少なくとも悪化することを心配する必要がないということだ。事態は過去に常にそうであったのと常に変わらないであろう。」(202)
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「われわれに聞こえなくなったということが誰にわかりましょう?」とワイリーが言った。「誰にわかりましょうか? どういう淫らな話が、さらにすぐれた淫らな話、われわれの聞いたことのない話でさえあるかもしれないものが、純粋の猥談のとほうもない音の高さで話されていて、それがこの瞬間にもむなしくわれわれの鼓膜を打っていることを。」(221)
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Samuel Beckett "Murphy"
川口喬一 訳
滑稽小説、道化物語、悪漢小説、純粋恋愛小説、悲恋物語、叙事詩的英雄物語、探偵小説、奇想・ナンセンス小説、幻想小説、快奇小説、哲学小説、知的遊戯としての小説、教養小説、政治的・社会的小説、神話的パターンを持った小説、反・英雄(アンチ・ヒーロー)小説、ブラック・ユーモア、ユムール・ノワール、精神的げっぷ
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サミュエル・ベケット『初恋/メルシエとカミエ《新装復刊》』(白水社)を読む。
「『ゴドーを待ちながら』の原形である『メルシエとカミエ』、叙情性あふれる『初恋』の2作品を収録。」と帯にある。
「初恋」は、やわらかい感じのする不思議な短編。
書き出しから一気に引き込まれる。
「メルシエとカミエ」は傑作。
「ゴドー〜」の原型というよりも、独立した小説として完成されている。
ベケット文学のさまざまなエッセンスが散りばめられており、
インターテクスチュアリティー的な楽しみもある。
(例えば、ラスト付近で、いきない「マーフィー」と「ワット」が出てくる。)
マグナス・ミルズを百倍文学的にしたような感じ。
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そしてなんと言おうと、自分自身でいることより、自分自身でなくなることのほうがつらい。なぜなら、自分自身でいるときには、そうでなくなるためになにをしたらいいかがわかっている。ところが、自分自身でなくなってしまうと、誰でもあるわけで、もう自分をぼかす手段がなくなる。(「初恋」21)
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簡単さ。虚無のことを考えてだ。かくすることによって、それぞれの状況のなかで、自然は、笑いとは言わないまでも、ほほえみへとわれわれを招いてくれるのである。(149)
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今みたいに、とメルシエが言った、こうしていっしょにいて、お互いに腕をくっつけ合い、手を握り合い、足並みを合わせていてさえ、一瞬ごとに、一冊の分厚い本でも、いや、おまえのとわたしのと、二冊の分厚い本でも、とても書ききれないほどのことが起こっているんだぜ。おそらく、この過多のおかげで、なんにもない、することも、言うこともなんにもないというありがたい感じを持てるのかも知れないんだ。(211)
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これがわたしたちにとってどう意味を持つのかわかってるのかい? とメルシエが言った。
これでたいして変わるとも思えないがな、今のところは、とカミエが言った。
なんにも変わらないはずだ、とメルシエが言った、しかし、すべてが変わるだろう。
すべてが変わるはずだ、とカミエは言った、しかしなんにも変わらないだろう。(228)
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高く古い家並みの間で、色あせた空の帯は、通りよりさらに狭く見えた。逆に広く見えてもよかったはずだ。夜はこの種のいたずらをする。(283)
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Samuel Beckett "First Love / Premier Amour"
Samuel Beckett "Mercier and Camier / Mercier et Camier"
安堂信也訳

4/24
サミュエル・ベケット『ワット《新装復刊》』(白水社)を読む。
「語り得ないものを語ろうとする主人公ワットの精神の破綻を、複雑な語りの構造を用いて示した現代文学の奇作。」と帯にある。
ジョイスは言葉を豊かにする。言葉の豊穣さを突き詰める。
ベケットは言葉を貧しくする。言葉の非論理性を暴き立てる。
単調なリズムがいつしかビートになるような、
漸次的にずらされていく奇妙な語り口には、麻薬的な魅力がある。
なぜだろう、本書を読みながら何度も笑ってしまった。
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もっとも貧弱な、もっともありそうにない意味でもワットは満足したであろう、彼は十四歳から十五歳のとき以来、象徴というものを見たこともなく、解釈というものをやったこともない男だし、大人になってからというもの、たとえ惨めにせよ、表面的価値のあいだで、少なくとも彼にとっての表面的価値のあいだで、生きていた男だからである。世のなかには骨よりもまず肉を見るものもいるし、肉よりもまず骨を見るものもいるし、全然骨を見ないものもいるし、全然肉を見ないもの、全然まったく骨を見ないものもいる。しかし、ワットには、なにを見るにせよ、はじめに一目見たもので十分であった、昔も今も十分だった、十分以上だった。(88)
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ワットは、話すときは、いつも低い声で、早口だった。もちろん、ワットよりも低い声、ワットよりも早口のしゃべりかたは、これまでもあったし、これからもあるだろう。しかし、彼ほど早くてしかも同時に低い声が人間の口からかつて発せられた、また今後発せられるだろうとは信じがたいことだ(譫妄状態およびミサの場合はもちろん別だ)。ワットはまた文法や、統語法や、発音や、発声法や、それにほんとうのところをいえば、おそらく綴字法に対しても、ほとんど敬意を表さなかった。少なくとも一般的通念としてのそういうものに対してはいっこうに重きを置かなかった。ただし固有名詞、場所および人間を含めて、ノットとか、キリストとか、ゴモラとか、コークとかの固有名詞は別で、彼はそれらを非常に慎重に、明晰に、発音した。だからそれらが彼の話のなかから、棕櫚の木木か、環状珊瑚礁のように、ぽつんぽつんと長い間をおいて(というのは正確な脈絡が示されることはめったになかったのだ)、きわだつさまは、まことに生き生きと効果的であった。構成するという苦しみ、どうやって先をつづけるのか、あるいはそもそも先をつづけるべきか否か、という不確かさは、わたしたちのもっともうまくいった場合の即興においてさえ、ぬぐい去れないものだし、いや、鳥たちの歌や、四足獣の叫びだってそれから免れてはいないものなのだが、ワットに関するかぎり、それは無縁の苦しみであり不安であったようだ。ワットの話しかたは、長い間の反復によって暗記するばかりに親しいものとなった文章を、他人の口写しでしゃべっている、または鸚鵡のように朗唱しているといった感じだった。こうしてせきこんだようにささやかれた言葉のうち、わたしの不完全な聴力と理解力が補えたものはわずかだったし、多くは吹きすさぶ風によって流され、永久に失われてしまった。(184)
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Samuel Beckett "Watt"
高橋康也 訳
順列組合せ、目録づくり、分裂病、病的幾何学主義、病的合理主義、貧しい自閉症
意味論的解体、糞尿学的変質、スカトロジー、発狂した合理主義、網羅的列挙の喜劇
逆さ言葉、秘教的言語、自動記述、変則円環的、Watt(what)、Knott(knot,not)
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サミュエル・ベケット『モロイ《新装復刊》』(白水社)を読む。
「気がつくと母親の家にいたモロイハは、朦朧とした意識のもと回想を始める……。ヌーヴォー・ロマンの先駆となった小説3部作の第1部。」と帯にある。
以前に三輪秀彦 訳『モロイ(追放された者、終焉)』(集英社)を読んだのだが、
今回白水社版で改めて読み直す。
信頼できない語り手というのは、現代文学でよくあるが、
自信のない語り手というのは、なかなかない。
厳密であろうとするあまり、饒舌に陥ってしまい、
結局は何も言えていないというパラドックスが興味深い。
ベケットの語り口は、なぜか癖になる。
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私はいつも、言いすぎるか言い足りないかなのだ。それが私にはやりきれない、それほど真実をたいせつにしているのだ。この話はすぐにはやめられない、これほど暗雲が立ちこめてきては、二度と話す機会がないかもしれないから、次のような奇妙な考察をしておいてからでないとやめられない。それは、私がまだものを言っていたころによく起こったことで、言い足りないと思いながら実は言いすぎており、言いすぎだと思いながら実は言い足りないということだった。つまり、考えてみると、というより、長い目で見ると、私の言葉の過剰は、その貧困を証明し、その逆も真であったということだ。これは妙な裏返しではないか、ただ時が過ぎただけでこうなるとは。言葉を換えて言えば、私がなにを言おうと、それはけっして十分ではないか、多すぎるかだった。私は黙っていなかった、そう、なにを言おうと私は黙っていなかった。まさに神技ともいうべき分析だ、これがあなたがたみずからを知る助けになれば、さらには、あなたがたの同類を知る役にたてば、知っている同類があるとしてだが。それというのも、だれであろうと私には必要ないと言ったとき、私は言いすぎたわけではなく、むしろ言わなければならなかったこと、言えなかったはずのこと、黙っていればよかったことのほんのわずかな部分しか言わなかったということなのだ。(47)
-
なぜなら私は、平気だった、すべては終わるか、またはじまろうとしているかで、どっちでもよかったし、どんなぐあいで終わろうと、はじまろうと、どうでもよかったし、ただ待ってさえいればよいことがわかっていたからだ。(246)
-
そこで私は家へはいって、書いた、真夜中だ。雨がガラスを打っている。真夜中ではなかった。雨は降っていなかった。(268)
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Samuel Beckett "Molloy"
安堂信也 訳、記念碑的前衛作品、アヴァンギャルド

4/25
サミュエル・ベケット『マロウンは死ぬ《新装復刊》』(白水社)を読む。
「死ぬほど退屈なままベッドに横たわり、マロウンは死ぬまで物語をでっちあげ続ける…。グロテスクでコミカルな小説3部作の第2部。」と帯にある。
『モロイ』では二人の語り手(モロイとモロン)が出てきたが、
今作ではマロウン一人だけである。
死を目前に控えた老人が、書き進める物語という設定で、
言葉や沈黙の意味をラディカルに洗いなおす。
これも不思議と読める。本当に不思議だ。
-
はっきり断言するのは難しいことだ。頭蓋骨の内側は真空なのだろうか? どうだろう? 目を閉じると、ほんとうに閉じるのだ、ほかの連中にはできない、わたしにしかできないような閉じ方、というのはわたしの不能にも限度があるのだ、目を閉じるとわたしのベッドが空中にすくいあげられて、わたしごと、つむじ風のなかの藁しべのごとくきりきりまいをする、そんなことがある。さいわいなことに、それは瞼の開閉の問題ではない、言ってみれば、魂の問題である、目隠しをしてしまわなければならない魂、いくら否定してもしかたのない魂、その魂が寝もやらず、不安におびえ、提灯みたいなその檻のなかで身をもがいている、港も船もない、物質も悟性もない夜のなかで反転しているのだ。(99)
-
記録しておくべきこまごまとしたことがたくさんある、わたしのいまの立場を考えれば、非常に奇妙なことばかりなのである、わたしの判断が正しいとしてだが。しかしわたしの記録は、やっとわたしも気がついてきたのだが、記録するはずの対象をすべて消失せしめて無と化してしまうという妙な傾向を持っている。だから、わたしの有機的組織のある部分、どの部分かは明示しないでおくが、ある部分をいま襲っているこの異常な熱についても(ほかのことはいっさい触れずにおく)、早々にきちあげることにしよう。それにしても、どっちかと言えば、だんだん冷たくなるだとうと思い込んでいたのに!(185)
-
Samuel Beckett "Malone Dies / Malone Meurt"
高橋康也 訳、『マウロンは死ぬ』は誤記、『マーローヌの死』『マーロンの死』
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サミュエル・ベケット『名づけえぬもの《新装復刊》』(白水社)を読む。
「肉体の死のあと暗闇のなかでしゃべり続け、おれはワームに出会った……。終末の世界へと導かれてゆく小説3部作の第3部。」と帯にある。
これほど内容のない小説は珍しい。
読み終わったところで、何が起こったかはほとんどわからない。
というのか、この「物語」では、何も起こらないのだ。
『フィネガンズ・ウェイク』から、具体的要素をすべて取り除いたような作品。
(注がないのは、柳瀬尚紀を意識したからだろうか?)
それにしても、どうしてこのような形式で小説が成立してしまうのだろう。
ベケットの筆力はすさまじい。
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いまおれがしゃべらなければならないのはおれ自身についてだ、たとえ彼らの言葉を使ってでも、それがひとつのはじまりになり、沈黙のほうへ、気違い沙汰を終わらせるほうへと、一歩を踏み出すことになるだろう、気違い沙汰じゃないか、しゃべらなくちゃいけないのにしゃべれない、おれに関係のないことしか、くだらないことしか、自分でも信じていないことしかしゃべれない、つまり、おれがだれなのか、どこにいるのかを言わせないように、なすべきことをするのに万事けりがつくような方法をとらせないように、なすべきことをさせないようにと、彼らがおれにつめこんでよこしたものしかしゃべれないなんて。(73)
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だがいったい、死ぬことも生きることも生まれることもできないという、この物語はなんのことだろう、これでもなにかの役割をつとめるはずなんだろうな、いまこうして死にかけている、生きている、生まれかけているその場所にじっととどまって、進むことも退くこともできず、どこから来たのか、どこにいるのか、どこへ行くのかも知らないという、こんな物語さ、いっそほかの場所で違ったぐあいにしていられたらいいんだがな、なにも考えず、自分になにも尋ねないでさ、できっこない、そこにいるんだ、だれだかわからず、どこだかもわからず、ただそのままで、なにひとつ変わらないんだ、物語の内部でも、そのまわりでも、目につくかぎり、目に見えるかぎりは。(168)
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(…)教わったのは言葉ばかりでね、意味は見せてもらえないのさ、頭を働かせることを教わったといってもこんなぐあいなんだ、おれはどんな言葉でも使う、おれに示された言葉なら全部だ、一覧表になっていたぜ、ああ、急に変に暑くなってきたな、言葉が一覧表になって、対応するイメージがあげてあった、おれは忘れちまったに違いない、ごっちゃにしてしまったに違いない、おかげで名前のないイメージがあったり、イメージのない名前があったり、扉と呼んだほうがよさそうな窓があったり、とにかくほかの名前がいいね、(…)(248)
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Samuel Beckett "The Unnamable / L'Innommable"
安藤元雄 訳、『名づけられぬもの』

4/26
サミュエル・ベケット『事の次第』(白水社)を読む。
ベケットはどこまで行くのだろう。
平均して3行程度の塊が、淡々と並べられている。
文は、主人公の意識のように、文法を無視して途中で切断される。
以下にサンプルを示す。
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もう少し少なくなんでもどんなふうにでもいつでも存在と非存在の過去現在未来の時制と条件法をもう少し少なくさあさあ続きと結末を第一部ピム以前(68)
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考えることならたぶん是非ともと言われるならばできぬことはないその他に今わたしは何をしているおやまたしても始まるのではなかろうか号泣拳固沈黙休憩(126)
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少しばかりうれしくて存在することが少なければそれだけいっそううれしくてここにいると涙は減りここにいると言葉が欠けるほとんどすべて涙が減少言葉が欠如食物が欠如誕生さえも欠如するこんなことすべてがうれしがらせるきっとそうこんなことすべてがもう少しうれしい気持ちにしてくれる(190)
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この孤独そのなかで声がそれを物語るこれこそ孤独を生きる唯一の(238)
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そして思うだろう結局はもう少し違うやり方で話したほうが得ではないかたとえばあっさりこう宣言したらどうだろうわたしたちが孤独な旅人からすぐ前にいる仲間の加害者となりそして捨てられていた仲間は被害者となるこの多様性はわたしたちには与えられていないのだ(257)
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Samuel Beckett "How It Is / Comment C'est"
片山昇 訳、『いかにしてそれは(どうしてそれが)』
-
-
サミュエル・ベケット『ジョイス論/プルースト論--ベケット 詩・評論集--』(白水社)を読む。
「『フィネガンズ・ウェイク』を語りながらベケット自らを語る画期的ジョイス論「ダンテ・・・ブルーノ・ヴィーコ・・ジョイス」、『失われた時を求めて』の本質を鋭くえぐる「プルースト」。二大評論に最初期の試作ほかを収録。」と帯にある。
さすがにジョイスの弟子だけあって、ベケットは特徴を的確に掴んでいる。
このジョイス論は本当に傑作。
二大評論を読むと、ベケット文学の源泉は、
ジョイスの「形式と内容」とプルーストの「時間と死」にあることがわかる。
もちろん、ダンテの「俗語」もだが。
-
《形而上学》は普遍的なものにもっとも関係しているときにもっとも完全であるのに対して、《詩》は個別的なものにもっとも関係しているときにもっとも完全である。(102)
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さて『進行中の作品』に戻ると、われわれは鏡がそれほど凸面にはできていないことを知る。ここには直接表現があり、しかもそれが何ページも何ページも続く。そして紳士淑女の皆さまがたが、もしこれを理解することがおできにならないとすれば、それは皆さまがたがそれを受けいれられないほどに退廃しておいでだからなのである。皆さまは、形式が内容から厳密に分離していて、わざわざ内容のことまで心をわずらわさなくても、形式を把握できるようになっていなくてはご満足なさらない。(105)
-
ここまで言えば、言語の問題に関して、ダンテとジョイス氏との魅力的なこの類似性に対してなされるかもしれない最大の反論、すなわち、ダンテは少なくとも自分の町の街頭で話されている言葉を書いたのに対して、天上界と地上界とを問わず、かつて『進行中の作品』の言語を話した者は皆無であるという反論には、もはやなんの根拠もないことがわかる。ちょうど、地域性を超越した非凡人のみが一三〇〇年に『神曲』の言語を話すことができたであろうように、国家を超越した非凡人のみが『進行中の作品』の言語を話すことができるかもしれないということは十分にありえることだ。(113)
-
芸術家(アーティスト)が原本を手に入れた。職人(アーティザン)がそれを翻訳する。「作家(芸術家(アーティスト)ではなく作家(ライター))のなすべき義務と仕事は、翻訳家のそれである。」(183)
-
言語でもって人にできるのは自己を語ることぐらいのものだ。辞書編集者たちでさえ打ちあけ話をする。そして告解所のなかでさえ、人は自分を裏切る。(194)
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表現すべきなにものもない、表現すべきなんの道具もない、表現すべきなんの足場もない、表現する力がない、表現しようという欲求がない、あるのはただ表現しなければならなぬという強制だけ--お気に召すとすればこういった表現だ。(225)
-
「ホロスコープ/ウォロスコープ」"Whoroscope"
『こだまの骨、その他の沈殿物』"Echo's Bones and Other Precipitates"
 「禿鷹」"The Vulture"
 「愁嘆の歌I」「愁嘆の歌II」 "Enueg T""Enueg II"
 「アルバ」"Alba"
 「ドルトムント・ビール」"Dortmunder"
 「血膿I」「血膿II」"Sanies I""Sanies II"
 「夕べの歌I」「夕べの歌 II」「夕べの歌 III」"Serena I""Serena II""Serena III"
 「マラコーダ」"Malacoda"
 「ヤガテ夜明ケトナリヌ」"Da Tagte Es"
 「こだまの骨」"Echo's Bones"
「ホーム・オルガ」"Home Olga"
「二つの詩」"Two Poems"
 「カスカンド」"Cascando"
 「サン・ロー」"Saint-Lo"
「フランス語詩」"Poemes"
 「被昇天」"Ascension"
 「蠅」"La mouche"
 「ディエップ」"Dieppe"
 「ヴォージラール通り」"Rue de Vaugirard"
 「リュテシアアレーヌ闘技場」"Arenes de Lutece"
 「(袋小路)」
 「A・D・の死」"Mort de A. D."
  *(その他に無題の詩がいくつかある)
「ダンテ・・・ブルーノ・ヴィーコ・・ジョイス」"Dante...Bruno.Vico..Joyce" *1
「プルースト」"Proust"
「ヴァン・ヴェルデ兄弟の絵画--または世界とズボン--」"La Peinture des van Velde ou le monde et le pantalon"
「三つの対話--サミュエル・ベケットとジョルジュ・デュテュイ--」"Three Dialogues / Trois Dialogues"
「『勝負の終わり』についての手紙--サミュエル・ベケットからアラン・シュナイダーへ--」"Beckett's Letters on 'Endgame'"
「被昇天」"Assumption"
-
高橋康也、片山昇、川口喬一、楜沢雅子、岩崎力、安堂信也 訳
『詩 評論 小品』として刊行されたものを改題・新装復刊したもの。
『詩と評論/小品』
"Samuel Beckett, Gedichte""Poems in English"
*1「表題の各人名の間の点の数は、ベケット自身の説明によれば、各人物の間を隔てるおよその世紀数を表すという。」(「訳注」263)

4/27
サミュエル・ベケット『短編集』(白水社)を読む。
存在のうめき声が響きわたる不思議な短編集。
ため息の出る傑作ぞろいで、ハズレが一つもない。
ベケット長編へのエスキースだと考えることもできる。
-
言葉がある以上はどうやら人生は必要らしい、物語は要らない、物語は義務ではない、人生があればそれでよいのだ、この点でわたしはまちがった、これもまた一つのまちがいだった、自分のために物語を欲しがったのは人生だけで十分だったのに。(114)
-
消えた 開いた 出口 なく あれほど 遠くから あれほどの 偽もの を通って そこに向かう ほんとうの 隠れ場所。 かつて 沈黙 以外 想像 での 狂女 の あの 笑い あの 叫び のように。 静かな 目 を通っての 頭 まったくの 白 静かな 光 回想 皆無。 妄想を 霧散する 暁 という 妄想 と 夕暮れ と 呼ばれる もう一つ。(214)
-
片山昇、安堂信也、高橋康也 訳
「短編と反古草紙/短編と無の為の断章/無のための・むだな断章」"Stories and Texts for Nothing / Nouvelles et Textes pour rien"
「追い出された男」 "L'Expulse" / "The Expelled"
「鎮静剤」"The Calmative / Le Calmant"
「終わり/続き」"The End / La fin"
「反古草紙」"Texts for Nothing / Texts pour rien"
「死んだ頭/残滓/価値なき残り物/厄介もの」"Tetes Mortes / Caput Mortuum"
 「断章(未完の作品より)」"From an Abandoned Work / D'un ouvrage abandonne"
 「たくさん」"Enough / Assez"
 「死せる想像力よ想像せよ」"Imagination Dead Imagine / Imagination morte imaginez"
「びーん/ばん/びしゃん」"Ping / Bing"
「なく」"Lessness / Sans"
「人べらし役」"The Lost Ones / Le Depeupleur"
「フィルム」"Film"
「息」"Breath / Souffle"
-
-
さて。
白水社のベケット翻訳はこれですべて読了したことになる。
全体の感想は以下のとおり。
・わかりやすい訳文。
 ただ、一文の中に「は(助詞)」を何回も使うことが多く、読みにくかった。
・ポイントを押さえた解説。
 うますぎるがゆえに、他の解釈を許さなくするという欠点もある。
・稀覯本『事の次第』『短編集』。
 二冊とも、古本相場で5000円ぐらい。ベケット生誕100周年にあわせてぜひ復刊を。
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1969年度ノーベル文学賞受賞者S.ベケットの全作品を収録!
各巻四六判 総布装箱入 (毎月一冊ずつ刊行予定)
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Edition de Minuit ミニュイ版、深夜叢書
Grove Press グローヴ・プレス版
Evergreen エヴァーグリーン叢書
Black Cat ブラック・キャット版
Faber & Faber フェイバー・アンド・フェイバー版
Calder & Boyars 
John Calder ジョン・コールダー版
Penguin ペンギン文庫版
Chatto & Windus チャトー・アンド・ウィンダス社

4/28
サミュエル・ベケット最晩年の散文を読む。
『また終わるために』(高橋康也・宇野邦一訳)、『伴侶』(宇野邦一 訳)、
『見ちがい言いちがい』(宇野邦一 訳)、『いざ最悪のほうへ』(長島確 訳)
(すべて書肆山田 りぶるどるしおる les livres de luciole)
-
「きちがいじみた思い出の堆肥としての生を見つめる ベケット 終局まで「死の時」を重ねる生を描く」(『また終わるために』の帯)
「ことばの極北で沈黙と対話しつづけた作家 ベケット 吐息に似た遺品」(『伴侶』の帯)
「待つことの完了としての死を見つめつづけた ベケット ことばの極点を穿つ」(『見ちがい言いちがい』の帯)
「宙を切り身を細らせる隕石、そのかけらが放つ閃光にも似た ベケット 最後のつぶやき」(『いざ最悪のほうへ』の帯)
-
寡黙、怜悧、巧緻、洗練、彫琢、そして空虚。
研ぎ澄まされた英知の姿が、ここにある。
ジョイスとは違ったアプローチで、ベケットは文学の極北にたどり着いた。
-
『いざ最悪のほうへ』の解説(線とインク--ベケットの<翻訳>について)が
内容を巧みに要約しているので、そのまま引用。
「ベケットの<散文>という問題は強固な論理性と結びついており、またそれは彼の作品の翻訳可能性とも結びついている。『伴侶』における、人称をめぐるあの果てしない推論、『見ちがい言いちがい』のすみずみにまでおよぶ呆れるほどの整合性、『なおのうごめき』の人物をどこまでも導いていく可能な選択肢の組合せ、『なんと言うか』の言い換えの規則性などは、すべて抽象的な論理の線を示している。」
解説者は、ベケットが英語と仏語の両方を使いこなしたことを、
マラルメの「完全言語/諸国語の欠陥」「不死の言語」などと比較して論じている。
これは本当によく書けた評論である。
震えた。
-
「りぶるどるしおる」は装丁もよく、晩年のベケットのスタイルにとてもマッチしているのだが、
どうだろう、4冊をまとめて1冊にはできないのだろうか。
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閉ざされた場所。語るために知っている必要があることはすべて知らされている。語られること以外はなにもない。語られることのかなたにはなにもない。(『また終わるために』67)
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あらんかぎりの力をふりしぼってもかすかな声。それはゆるやかに聴覚の限界まで遠のく。そしてそのかすかな最大値までゆるやかにもどる。ゆるやかに減少するたびに、声が途絶えてしまうだろという希望が、ゆるやかに生まれる。彼は声がもどってくることを知っているはずだ。それでも、ゆるやかな減少のたび、それが途絶えてしまうだろうという希望がゆるやかに生まれる。(『伴侶』25)
-
それにしてもなぜ、または、なのか。どうして、別の闇、または同じ闇なのか。そして誰がそう尋ねるのか。また誰が、誰がそれを尋ねている、と尋ねるのか。そして、答えるのか、誰であれ、全体を想像するものであると。自分が生み出したものと同じ闇の中で、また別の闇の中で。自分自身の伴侶として。誰が尋ねている、と尋ねているのは結局誰なのか。そして結局先のように答えるのは誰か。長いことたってから、低い声がつぶやく、それがさらにまた別の誰かでない限りはと。どこにも見つからない。どこにもさがせない。最後の思考不可能。名づけられない。本当に最後の人称。私。そっとしておこう。(『伴侶』37)
-
あらゆる見ちがい言いちがいは棄てた。眼は変わった。その垂れ流しのたわ言も。不在がそれらを変えた。充分にではないが。また始めるかもしれない。そしてさらに変わること。あまりに早く引き返した。変化が充分でない。充分遠ざかっていないのだ。あらゆる見ちがい言いちがいから。そしてさらに引き返すこと。終わりにするために必要なことが欠けている。(『見ちがい言いちがい』68)
-
決断を下されるとたちまち、あるいはむしろしばらくして、何というか取り消される。最後の最後を閉じるために、どう言いまちがえるか? とにかく取消される。いやカーテンが閉じる時の最後の残光のように、少しほんの少し、ゆっくりと散ってしまう。そっと静かに、ひとりでに、幽霊の手に動かされ、一ミリずつ閉じていく。さらばさらば。それから完全な闇、低い弔鐘の前ぶれ、ピッという愛しい音。終わりの始まり。最後の秒の最初。すべてを貪ってしまうために、まだ十分残っているとしても。一秒も惜しんで貪るように。空と大地そしてあらゆるごたごた。もうどこにも皮肉の屑はない。舌舐めずりはもうたくさん。いや。もう一秒。一秒だけ。この空虚を吸い込む間だけ。幸福を知る。(『見ちがい言いちがい』79)
-
言葉が消え去ったときのための空白。もうどうにものとき。そのときすべてただそのときだけのように見られる。薄暗くされず。言葉が薄暗くするすべては薄暗くされず。すべてそうして見られる言葉は取り消され。そのとき滲みはない。柔らかいものの上に痕跡はないそのときそこからまた滲み出す。そのなかにまた滲み。滲みとともに見られたように見られるための滲みだけ。薄暗くされ、薄暗くされずに見られるための滲みはない。もうどうにものときのため。滲みが消え去ったときのための滲みはない。(『いざ最悪のほうへ』68)
-
『また終わるために』"For to End Yet Again and Other Fizzles / Pour Finir Encore et Autres Foirades"
 (また終わるため…)"Fizzle 8 : For to end yet again"
 (頭はむきだし…)"Fizzle 1: [He is barehead]"
 (おれは生まれるまえから…)"Fizzle 4: [I gave up before birth]"
 (ホーンはいつも)"Fizzle 2: [Horn came always]"
 (老いた大地よ…)"Fizzle 6: [Old earth]"
 「遠くに鳥が」"Fizzle 3: Afar a bird / Au loin un oiseau"
 「見ればわかる」"Fizzle 5: [Closed Place / Closed Space] / Se voir"
 「ある夜」  "One Evening"
 「みじろぎもせず」"Fizzle 7: Still / Immobile"
 「断崖」 "The Cliff"
『伴侶/仲間』"Company / Compagnie"
『見ちがい言いちがい/よく見えぬよく言えぬ』"Ill Seen Ill Said / Mal vu mal dit"
『いざ最悪のほうへ』"Worstward Ho / Cap Au Pire"
 「いざ最悪の方へ/さいあくじょうどへほい/ワーストワード・ホウ」"Worstward Ho / Cap Au Pire"
 「なおのうごめき/まだもぞもぞ」 "Stirrings Still / Soubresauts"
 「なんと言うか」"What is the Word / Comment dire"

5/1
Samuel Beckett『The Complete Short Prose 1929-1989』『Nohow On』(Grove Press)を読む。
未邦訳があったため購入したのが、せっかくなので通読する。
ベケットの散文は後期になればなるほど、面白い。
前者の100ページあたりから、抽象度が一気に高まっていく。
後者になると、形容に困るような、純粋で研ぎ澄まされた(?)散文になる。
とは言え、ベケットのテーマは最初から最後まで驚くほど一貫している。
最後にたどり着いた境地には、何もない虚空だけが広がっている。
-
当たり前だが、日本語と英語では受ける印象が違う。
英語のベケットは、音読するとリズムよく読める。
これもまた「声」のなせる業だろうか。
-
『The Complete Short Prose 1929-1989』(●邦訳のあるもの ○邦訳のないもの)
●Assumption (1929)
○Sedendo et Quiescendo (1932) Sedendo et Quiesciendo
○Text (1932)
○A Case in a Thousand (1934)
●First Love (1946)
●Stories (from Stories and Texts for Nothing,1955)
 ●The Expelled (1946)
 ●The Calmative (1946)
 ●The End (1946)
●Texts for Nothing (1-13) (1950-52)
●From an Abandoned Work (1954-55)
○The Image (1956) L'Image
○All Strange Away (1963-64)
●Imagination Dead Imagine (1965)
●Enough (1965)
●Ping (1966)
●Lessness (1969)
●The Lost Ones (1966, 1970)
●Fizzles (1973-75)
 ●[He is barehead]
 ●[Horn came always]
 ●Afar a bird
 ●[I gave up before birth]
 ●[Closed place]
 ●[Old earth]
 ●Still
 ●For to end yet again
○Heard in the Dark 1
○Heard in the Dark 2
●One Evening
○As the story was told (1973)
●The Cliff (1975)
○neither (1976)
●Stirrings Still (1988)
○Appendix I: Variations on a "Still" Point
 ○Sounds (1973)
 ○Still 3(1973)
○Appendix II: Faux Departs (1965) Fancy Dead, Fancy Dying
○Appendix III: Nonfiction
 ○The Capital of the Ruins (1946) in As No Other Dare Fail
-
『Nohow On』
 ●Company(1980)
 ●Ill Seen Ill Said(1982)
 ●Worstward Ho(1983)
-
その他、重複する長編、短編など。
"Four Novellas" "Trilogy" "No's Knife : Collected Shorter Prose 1945-1966"
"Collected Shorter Prose 1945-1980" "Uncollected and Late Prose"
"Trasition Workshop" "Six Residua"

5/2
Samuel Beckett『Disjecta: Miscellaneous Writings and a Dramatic Fragment』(Grove Press)を読む。
嬉しいのは、未完の戯曲「人間の願望 (Human Wishes (1937))」が収められていること。
悲しいのは、友人 Georges Pelorson と共作したパロディ「ル・キッド (Le Kid (Parodie)(1931)」が収められていないこと。(コルネイユ「ル・シッド(Le Cid)」が元ネタ)
さらに悲しいのは、フランス語のみ掲載の文章が約50ページもあること。
「Dante...Bruno.Vico..Joyce」は、英語で読んでも傑作である。
-
Your vocabulary of abuse (...) is arbitrary and literary, and at times comes to close to entertaining me. But it doesn't touch me. You cannot touch me. You simplify and dramatize the whole thing with your literary mathematics. I don't waste any words with the argument of experience, the inward decrystallization of experience. So I speak merely from a need that is as valid as yours, because it is valid. The need to live, to be authentically and seriously and totally involved in the life of my heart and (...) my blood. The reality of the individual, you had the cheek to inform me once, is an incoherent reality and must be expressed incoherently. And now you demand a stable architect of sentiment.(48)
-
(...)to be an artist is to fail, as no other dare fail(...)(145)
-
『Disjecta: Miscellaneous Writings and a Dramatic Fragment』
(●邦訳のあるもの ○邦訳のないもの(英語) △邦訳のないもの(フランス語・ドイツ語))
Part I: Essays at Esthetics
●1. Dante...Bruno.Vico..Joyce
△2. Le Concentrisme
○3. Excerpts from Dream of Fair to Middling Women (4*.Dream of Fair to Middling Women)
○4. German Letter of 1937(巻末のNoteに英訳あり)
△5. Les Deux Besoins
(* 3 ではなく 4 となっているのは誤植)
-
Part II: Words about Writers
A. Other Writers
○1. Moerike on Mozart / Schwabenstreich
○2. Feuillerat on Proust / Proust in Pieces
○3. Leishmann's Rilke translation / Poems. By Rainer Maria Rilke
○4. Thomas McGreevy / Humanistic Quietism
○5. Recent Irish Poetry
○6. Ezra Pound / Ex Cathezra
○7. Papini on Dante / Papini's Dante
○8. Sean O'Casey / The Essential and the Incidental
○9. Censorship in the Saorstat
○10. Jack B. Yeats / An Imaginative Work!
○11. Denis Devlin / Intercessions by Denis Devlin
○12. McGreevy on Jack B. Yeats / MacGreevy on Yeats
B. Self
○1. The Possessed
○2. On Murphy (to McGreevy)
○3. On Murphy (to Reavy)
△4. On Works to 1951
○5. On Endgame
○6. On Play
○7. On Murphy (to Sighle Kennedy)
●8. Program note for Endgame / On Endgame
-
Part III: Words about Painters
○1. Geer van Velde
●2. La Peinture des van Velde / La peinture des van Velde ou le Monde et le Pantalon
△3. Peintres de l'Empechement
●4. Three Dialogues
△5. Henri Hayden Homme-Peintre / Henri Hayden, homme-peintre
○6. Hommage a Jack B. Yeats / Homage to Jack B. Yeats
△7. Henri Hayden
△8. Bram van Velde
○9. Pour Avigdor Arikha / For Avigdor Arikha
-
○Part IV: Human Wishes (Dramatic fragment)
-
-
Samuel Beckett『Collected Shorter Plays』(Grove Press)所収の「The Old Tune An adaptation」を読む。
本書の中で、これだけが、白水社の『ベケット戯曲全集(全3冊)』に収録されていない。
ロベール・パンジェ(Robert Pinget)のラジオ劇(a play for radio)「La Manivelle」を、
ベケットが翻案(adaptation)したものであるため、「オリジナル」と見なされなかったのだろう。
久しぶりにあった老人二人がドライブしながら会話する。
数字などについての彼らの記憶は、かみ合わない。
-
CREAM : Progress, progress, progress is all very fine and grand, there's such a thing I grant you, but it's scientific, progress, scientific, the moon's not progress, lunacy, lunacy.
GORMAN : Ah there I'm with you progress is scientific and the moon, the moon, that's the way it is.(186)

5/6
オルガ・ベルナル『ベケットの小説--沈黙と語のあいだ--』(紀伊国屋書店)を読む。
形式の担い手としての言語が漸進的風化を起こす。
言葉を発しながら、沈黙できるのか。
空っぽになった言葉(=自己)を、言葉で表現できるのか。
ロゴスを喪失した言葉などあるのか。
実存哲学(サルトル)、現象学(ハイデッガー、メルロ=ポンティ)、
分析哲学(ヴィトゲンシュタイン、カルナップ)、そしてカッシーラーなどを援用しながら、
ベケット小説の確信に迫ろうとする一冊。
考察の対象になるのは『マーフィー』『ワット』『モロイ』『マロウンは死ぬ』
『いかにしてそれは(=事の次第)』の5冊である。
小説からの引用が非常に多いおかげで、ベケットの辿った思考経路を
実際に歩んでいるような気分になれるのが独特である。
-
戯曲はほぼ完璧に無視(=軽視)されており、2ページほどしか触れられていない。
また、「フッセル」「フロベール」など、訳者独特の(?)固有名詞に少しだけとまどった。
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あれほど名高いジョイスの言語の力は、彼の抑え切れない文化的豊饒に宿っている。ジョイスは文化的諸財産の満ち足りた所有者だった。そのジョイスの作品を深く讃え、彼こそ「全知全能に向う」と断言しているベケットがジョイスの作品の否定である作品を書いているというのは実に注目に値する。ベケットは言語を自分から奪い去ることを求め、ジョイスは逆に、意味と象徴を持つものなら、どんな言葉の断片をも捨てない。ジョイスは遺産に執着し、ベケットは、『名づけえぬもの』の主人公同様に、何ものをも持ちつづけられない。「ではつまりおれは。おれが隠れていたあいだおれのみじめな考えをささえて、おれの言葉の重みでたわんでいたものを、何ひとつ残してはいけないってわけか?」ジョイスの作品にこめられた莫大な知識、無限の博識は、教養のある読者が敢えて白状するより、多分、遥かに無駄なのであろう。『フィネガンス・ウェイク』の博識の名人芸は、全知よりもむしろ知識の空しさを思わせる。(41)
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沈黙こそが、事実、ベケットの小説の目ざすところである。しかし、作品につきまとう沈黙と、表象に到ることのない沈黙、たとえば、神秘主義の沈黙や作品の放棄そのものである沈黙とは混同すべきでない。ベケットの小説における沈黙の他と区別される性格は、それが、表象になろうと望んでいる点にある。だが、沈黙を語によってあらわすにはどうすればよいのか。作家のこのジレンマは、同じく、現代の画家が多くの場合、絵画から歴史と言語を除去しようという企てを行なった時に直面したジレンマより遥かに劇的である。画家にとっては、絵画の歴史に意義を申したてながら、しかもなお絵画のうちに留まることが可能である。たとえば完全に白であるとか黒であるとかというような一つの沈黙の画面によってである。それにひきかえ、作家は、言語の条件からぬけ出せない。意味の中にひきずり込まれることなしに、既にあらわされたものの中におちこむことなしには、一文も一語も書けない。作家は、白紙のページという手段には訴えられない、彼は話さねばならない、語を使うことを強制されている。白紙のページは作家にとっては真黒な絵画のような沈黙の伝達ではなく、不在に脅かされることである。作家は、他の芸術家が自分の使うマチエールにとらわれるのとは違った意味で、言語の捕虜なのである。(87)
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ベケットの登場人物のように、イメージを持たないこと、それは、自分をイメージ化する手だて、自分を考える手だてを持たないことである。「なにを手がかりに、わたしは考えられようか」と彼は絶え間なく訊ねる。事実、人間について既に述べられた思考すべての外では、いかにしたら人間を考えられようか。そして、全宇宙ではないにしても、せめて可能なイメージの空間の上にひろげることなしに、どうして人間を想像できようか。「だだっぴろい大海原には反射光線のほかにはなんの明かりもない。わたしの感覚はすべてわたしに対して……向けられている」とベケットの一登場人物は言う。自分自身の中に、刃のように薄い私の中にとじこめられ、彼を嘗てはその表象の世界に結びつけていた言語からひきはなされ、この登場人物は、いかにして、なにを手だてとして、自分のために一つの存在をでっち上げることができるだろうか。この極度の欠乏、人間がついに素朴な絵ときの助けなしに自分を見られる状況の中で、彼は自分を見る手だてを持たないことに気付く。彼は自分のために自分を表象することができないことを確認する。ベケットの作品を読んだ時に人が感じる悲しみは、頁ごとに生まれてくるこの疑惑、人間が表象出来ないのは、それは発見不可能だからではないか、それはどこにも見出すことができないのではないかという疑惑に由来している。(217)
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Olga Bernal "Language et Fiction dans le Roman de Beckett"
『ベケットの小説における言語と虚構』
安堂信也 訳、現代文芸評論叢書

5/8
中西夏之『大括弧 緩やかにみつめるためにいつまでも佇む、装置』(筑摩書房)を読む。
どういうわけか、優れた芸術家は、優れた文章家でもある。
もちろん、作者も例外ではない。
「瞬間」「正面/平行」「二次元」などのキーワードを通して、
ブルトン、バシュラール、ヴァレリーなどを踏み台にしながら、
「絵画とは何か」について断章形式で考えた一冊。
詩人によって造形された架空の芸術家なのではないかと何度も錯覚した。
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私の絵を観る人は、そこにあるものを読もうとするのではなく、私が平面を前にして繰り返していた動作を、今度は、観る人が絵の前で同じように繰り返してもらいたい、と意図していたかも知れぬ。何故なら絵画とは、いまだ名を持たぬ平面の前に永く佇ませる装置=祭壇なのだ。(19)
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ステンレスやアルミが金属における口語文体だとすると、真鍮はどこか擬古文体のようなところがある。(53)
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完成のない作品とはおかしなことだと人は思うだろう。完成には、自然の成り行きによるものと、当初から完成を企画するものとがある。画龍点睛とは終りを、完成を企画する作品である。龍に瞳を入れることによって完成させるのではなく、画家の目的は瞳を描くこと、龍の体はそれまでの下地なのだ。ならば瞳を拒否して龍を蜿蜒と描きつづける作品もあるのだ。(114)
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在るものを隠すのではない。無いものを隠すのだ、(HGKT)即ち真空。(136)
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水面に糸を垂れ、じっとしている釣りの人に「何が釣れますか」と訊ねると、不機嫌におし黙ってしまうのをよくみることがある。彼はその質問を「釣りの人とは何者ですか」と取り違えてギクッとしているようでもある。そんなことが画家に対してもよくあることだ。実はただボンヤリと水面を凝視めながら、取り返しのつかない流れの中に浸っているのである。そして水面を不動のように錯覚している。(150)
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人は、それぞれの人生を背負っているように、それぞれ一枚の絵を背負っている。彼等はそれを背から降して見ることが出来ない。彼等が見ることの出来るのは、池や湖面、茶碗の中の自然的水平面である。(180)

5/9
シェルダン・ボウルズ、リチャード・シルヴァーノ、スーザン・シルヴァーノ 共著『繁栄した王国の物語 最強の組織をつくる「王国メソッド」』(光文社)を読む。
「物語」ブームもここまで来たか、という一冊。
中世における12の役割(職業)を大きく4つに分け、それぞれの性格を分析。
各々がどのような仕事に向いているかを解説する。
一言で要約すれば、「適材適所」ということである。
「小説形式」で書かれているというのも「売り」だが、
お話としてはまったく面白くないのでご注意を。
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日本語の専用サイトで診断が出来るので、興味のある人はぜひ。
論理的なチャレンジャー(総理大臣、黒騎士、商人)
現実的なメインテイナー(建築技師、科学者、医者)
感情的なヘルパー(羊飼い、白騎士、夢見る吟遊詩人)
創造的なエクスプローラー(慈悲深き統治者、司教、発見者)
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「(…)どの白騎士もまったく同じというわけではありません。日時計は円の形をしています。中心があり、縁があります。中心から縁の六時まで引いた線の上にいるのはすべて白騎士です。でも縁にいる白騎士は、中心近くにいる白騎士よりも、際立って強い白騎士の個性を持っています。ここ王国メソッドの王国で陛下が会うのは、みな縁にいる人物です。この魔法の王国以外では、これほど極端な人人はまずいません」
「もしわが民が縁ではなく中心近くにいたら、役割を見分けるのはむずかしそうだな」
「おっしゃるとおりですが、中心に近かろうと縁に近かろうと、白騎士は白騎士で変わりはないのを忘れないでください。さほどその個性が目立たない人もいるというだけです」(74)
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「まちがいありませんな」魔術師は言った。
この魔術師の返事は書くほどのものではないが、少なくともこの時代、最後の台詞を言うのは魔術師と相場が決まっているので仕方がないだろう。(146)
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「よし、行くとしましょう!」魔術師は叫んだが、もう一度最後の台詞を言いたかった以上の深い理由があったわけではない。(196)
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Sheldon Bowles. Richard Silvano, Susan Silvano,"Kingdomality An Ingenious New Way to Triumph in Management"青木創 訳

5/10
Cardinal de Retz『Memoirs of Cardinal de Retz』(Turtle Point Press、An On-Demand Book)。
フランス語が読めないので、英訳で。
枢機卿レッスが、政変に巻き込まれたときの様子を回想したもの。
政治の世界だけが淡々と、そして延々と語られている。
「モラリスト文学」として読んでいたので、肩透かしを食らった気分。
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There is commonly a great deal of folly in conspiracies; but afterwards there is nothing tends so much to make men wise, at least for some time. For, as the danger in things of this nature continues even after the opportunities for doing them are over, men are from that instant more prudent and circumspect.(18)
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"There is no true history extant, nor can be ever expected unless written by honest men who are not afraid or ashamed to tell the truth of themselves."(36)
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I saw the full extent of the danger, and everything looked terrible. Yet the greatest perils have their charms if never so little glory is discovered in the prospect of ill-success, while the least dangers have nothing but horror when defeat is attended with loss of reputation.(94)
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I think it a greater virtue for a man to confess a fault than not to commit one.(171)
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We must never jest with proffered service; for if it be real, we can never embrace it too much; but if false, we can never keep at too great a distance.(247)
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モラリストの定義はさまざまである。
「人間の姿をあるがままに(回想・断章形式で)描いたもの」という至当なものから、
「フランス人によるものは、例外なくモラリスト文学である」という投げやりなものまである。
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ついでにモラリスト(人間観察者)の既読リストを挙げておく。
モンテーニュ『エセー(全6冊)』(岩波文庫)
デカルト『方法序説』(中公文庫)
パスカル『パンセ』(中公文庫)
ラ・ロシュフコー『ラ・ロシュフコー箴言集(人間考察もしくは処世訓と箴言)』(岩波文庫)
ラファイエット夫人『クレーヴの奥方』(岩波文庫)
ラ・ブリュイエール『カラクテール(人さまざまあるいは当代の習俗)(全3冊)』(岩波文庫)
枢機卿レッス/レー『メモワール(回想録)』(未訳)
ラ・フォンテーヌ『寓話(全2冊)』(岩波文庫)
セヴィニェ夫人『セヴィニェ夫人手紙抄』(岩波文庫)、『セヴィニェ夫人の手紙』(大学書林)
ヴォーヴナルグ『不遇なる一天才の手記/人間精神認識への手引/反省と格言』(岩波文庫)
セナンクール『オーベルマン(全2冊)』(岩波文庫)
サント・ブーヴ「覚書と随想」(『世界教養全集2』(平凡社)所収)
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エセー、エッセー、マクシム、メモワール、カラクテール(キャラクター)、
随筆、箴言集、人間の性格、本質、本性、回想録、思い出、書簡、手紙、手帳、
覚書、省察、思索、風俗史、風俗考、断想、随想、精神、本質、本性、説教集

5/11
Douglas Adams & John Lloyd『The Deeper Meaning of Liff』(Pan Books)を読む。
『銀河ヒッチハイク・ガイド』『宇宙の果てのレストラン』『宇宙クリケット大戦争』
などで有名なダグラス・アダムスの本(共著)。
架空の単語を集めた一冊である。
「あるあるネタ」の宝庫であり、ニヤリとする単語が多かった。
どの単語も、「いかにも」な発音になっており、
音韻論的(phonology)にも興味深い。
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Three Rivers Press 版の副題は、
"A Dictionary of Things There Aren't Any Words for Yet -- But There Ought to Be"
なのだが、
Pan MacMillan 版の副題は、
"A Dictionary of Things There Aren't Any Words for Yet"
となっており、後半の"-- But There Ought to Be"が省かれている。
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(ページ数は省略)
●Abilence(adj.) Descriptive of the pleasing coolness on the reverse side of the pillow.
●Ardentinny(n.) One who rubs his hands eagerly together when he sits down in a restaurant.
●Beppu(n.) The triumphant slamming shut of a book after reading the final page.
●Brithdir(n.) (Old Norse) The first day of the winter on which your breath condenses in the air.
●Dallow(vb.) Perfectly content to stare at something for no particular reason.
●Essendine(n.) Long slow sigh emitted by a fake leather armchair when sat on.
●Fring(n.) The noise made by a lightbulb that has just shone its last.
●Liff(n.) A common object or experience for which no word yet exists.
●Millinocket(n.) The thing that rattles around inside an aerosol can.
●Motspur(n.) The fourth wheel of a supermarket trolly which looks identical to the other three but renders the trolly completely uncontrollable.
●Naugatuck(n.) A plastic sachet containing shampoo, polyfilla, etc., which is impossible to open except by biting off the corners.
●Ocilla(n.) The cute little circle or heart over an 'i' used by teenage girls when writing their names.
●Ossining(ptcpl.vb.) Tring to see past the person sitting in fromt of you at the cinema.
●Quenby(n.) A stubborn spot on a window which you spend twenty minutes tring to clean off before discovering it's on the other side of the glass.
●Rhymney(n.) That part of a song lyric which you suddenly discover you've been mishearing for years.
●Spokane(vb.) To remove precious objects from a room before a party.
●Tuamgraney(n.) A hideous wooden ornament that people hang over the mantelpiece to prove they've been to Africa.
●Ugglebarnby(n.) The ponytail affected by a middle-aged balding man.
●Wedderlairs(pl.n) The large patches of sweat on the back of a hot man's T-shirt.
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(お詫びと訂正)
The Deeper Meaning of Liff』は『The Meaning of Liff』の"続編"と
以前のあいさつ(2004.09.02)で書きましたが、"増補版"の誤りでした。
謹んで訂正します。

5/12
ウンベルト・エーコ『開かれた作品(新装版)』(青土社)を読む。
「現代芸術の新地平。芸術作品とは、享受者の積極的介入によって意味内容が可逆的に発見される<開かれた>形態である。前衛作品にひそむ曖昧性を<開かれた>作品として擁護し、現代芸術の可能性を切り拓く、ウンベルト・エーコの記念碑的労作。」と帯にある。
言いたいことはわかる。
時代的な制約もあるのだろうが、この本には「予感」しかない。
その予感を楽しむことができるのなら、読む価値がある。
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開かれた作品は、我々に非連続性のイメージを与えるという課題に徹底的に取り組む。つまり、それは非連続性を物語るのではなく、非連続性であるのである。科学的方法論の抽象的カテゴリーと我々の感受性の生きた素材とを媒介しつつ、開かれた作品は、世界の新たな諸相を我々が把握できるようにする、まるで一種の超越論的図式のように思われる。(200)
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今日、現代の物語は、筋(大団円に欠くことのできない出来事の間の一義的な連関の定立という意味での)を解体する方向へとひたすら向かってきた。そうして<馬鹿げた>無駄な事実を表出することによって擬似出来事を構築しようとしたわけである。無駄で馬鹿げた事実といえば、ロブ=グリエの作品に出てくる人物や、レオパルド・ブルーム、ダロウェイ婦人の身に起こる事実がまさしくそうである。しかしこうした事実は、それを別の物語的選択観念に基づいて判断する場合、どれもきわめて本質的なのであり、そのすべてが収斂してなにか一つの行動、心理的・象徴的あるいは寓意的展開を提示し、いわば世界をめぐる暗黙の言述をもたらす。その言述の性質、言い換えれば、多様な方法で理解され、様々な相補的解答を促すその言述がもつ可能性こそ、物語作品の<開かれ>と定義しうるものなのである。筋を拒絶することによって、世界は可能性の結節点であり、この相貌を再生する役目を担わねばならぬのが芸術作品である、という事実が認識されるようになる。(250)
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Umberto Eco"Opera Aperta"
篠原資明・和田忠彦 共訳

5/15
ウンベルト・エーコ『ウンベルト・エーコの文体練習』(新潮文庫)を読む。
「古今の名作傑作が遊び心いっぱいのパロディーに変身。読む大遊園地 本日堂々の開園!」と帯にある。
さまざまな文学作品のパスティーシュ集。
エーコは、ほんとうによく笑いのツボをわかっている。
『聖書』、『神曲』『解放されたイェルサレム』『ドン・キホーテ』などが、
現代の編集者に送られたら・・・という設定で書かれた
「涙ながらの却下(ボツ)--編集者への読書レポート」が最高。
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ジェイムズ・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』
頼むから、ぼくに本を読ませようというのならもっと気を配るように編集のほうに言っておいてくれ。ぼくは英語の本の担当だけれど、君たちの送ってきたのは、何だか訳のわからない別の言語で書いてあるじゃないか。本は別便で返すからね。(178)
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和田忠彦 訳、ささやかな日記
「『ささやかな日誌』Diario minimo, Bompiani 1992 から撰んだ十二編に「帝国の地図(縮尺1/1)」(『ささやかな日誌』Diario minimo 2, Bompiani 1992 所載)をくわえた日本語オリジナル版」。

5/16
ウンベルト・エコ『記号論入門 記号概念の歴史と分析』(而立書房)を読む。
悪い意味でカタログ的な本である。
ただ羅列してあるだけで、ダイナミックな「うねり」がない。
頭の中を整理するにはちょうどいい一冊。
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谷口伊兵衛 訳、教養諸学シリーズ
"Il Segno" 記号
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U・エーコ『記号論T・U』(同時代ライブラリー)を読む。
これもカタログ的な本である。
エッセンスに凝縮されすぎていて、読んでいて疲れてしまう。
「過剰コード化」と「イデオロギー」のあたりが少しだけ面白かった。
本書執筆の動機となった『視覚的コミュニケーションの記号論論集』
『不在の構造』『内容の形式』のうち、特に後者二冊は読んでみたいが、
邦訳も英訳もない。残念である。
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記号論とは原則的に言えば、嘘を言うために利用しうるあらゆるものを研究する学問である。(上、8)
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「記号現象」についての記号論的研究は、それ自身の限界をよく心得たものでなくてはならない。真の意味で「科学的」であるということは、その場面で可能な以上に「科学的」ぶらないことであるということが多い。「人間」科学においては、多くの科学的研究に共通の「イデオロギー的誤謬」、つまり、「客観的」、「中立的」になりえたから自分の研究法はイデオロギー的ではないと信じ込むことがよく認められる。私自身の立場もすべての研究は「動機づけられている」という懐疑的な意見を抱くという点で同じである。理論的研究も社会的慣行の一つの形である。何かを知りたい人は、誰でも何かをしたいからそれを知りたいと思うのである。もし何かを知りたいという目的が単に「知る」ということであり、それを「する」ことでないなどと主張する人がいれば、その人は何もしないためにそれを知りたがっているのであり、実は人目につかないやり方で何かをするということ、つまり、世界を今のままに(あるいは、自分の研究法でそうあるべきだと思っているような姿に)残しておくということをしているのである。/他の事情が同じならば、自分の動機を隠さずに示し、読者が「科学的」な幻想を抱かないようにするのが、「科学的」な態度であると私は思う。もし記号論が一つの理論であるのなら、それは記号現象に絶えず批判的な立場からの介入を許すような理論でなくてはならない。人間は話すのであるから、なぜ、そしてまたどのように人びとが話すかを説明することによって、将来の話し方を規定するのに役立つはずである。とにかく、私自身の話し方もそれによって規定されるということはとうてい否定できるものではない。(上、49)
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極端な場合として、基本的な表示義までが発信者と受信者の間で違っており、それでいてメッセージは両者ともにある意味を伝えうるというようなこともある。/i vitelli dei romani sono belli/という文はそのような奇妙な場合の一例である。これはラテン語の文として《ウィテルリウスよ、行け、ローマの神の戦いの響きへ向かって》とも、またイタリア語の文として《ローマの仔牛は美しい》とも読める。(上、246)
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ごくありふれた芸術的な経験からさらに教えられることとして、芸術は感情を引き起こすばかりでなく、新しい知識を生み出すということがある。複雑に絡み合った解釈というゲームが進行し始めると、テクストは通常のコードとそれの有する可能性を再考することを余儀なくさせる。あらゆるテクストはコードを脅かす。しかし、同時に、それに力を与えるということもする。テクストはコードに潜んでいる予想もされなかったような可能性を明らかにし、そうすることによって、コードに対する使用者の態度を変えさせるのである。(下、230)
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/火星人ハ赤ン坊ヲ食ベル/というようなメッセージは《火星人》という意義素に《人食い》という共示義を持たせるというばかりでなく、全体にわたって《否定的価値》という価値論的な意味合いを添えることから生じる一連の共示義をも伝えることとなる。(下、257)
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池上嘉彦 訳、岩波書店同時代ライブラリー271
Umberto Eco"A Theory of Semiotics / Trattato di Semiotica Generale"
一般記号論

5/17
ウンベルト・エーコ『物語における読者(新装版)』(青土社)を読む。
「物語のテクストは、多様で自由な<読み>に開かれているのだろうか? 読者に無限の解釈を許すのだろうか? 記号・意味・テクストをめぐるさまざまな概念を精緻に定義し、物語のメカニズムを詳細に分析する、エーコの記号論の代表作。 テクストの快楽の秘密」と帯にある。
あいかわらずカタログ的な描写だが、前述の2冊ほどひどくはない。
ここまで読んで、やっとエーコのやろうとしていることが見えてきた。
どのように我々がテキストを解釈するのか、というテキストの記号論が魅力的に語られている。
アルフォンス・アレーの短編、『とてもパリ的なドラマ』と『聖堂騎士団員』を
分析する部分が、非常に面白い。(付録として二編は巻末に全訳されている)
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月についてなされたと同様に、アルデバラン星にも到達できると、今日、主張したら、それは本当らしくないだろうか。現行の科学的基準によれば、本当らしくは思われない。なぜなら、しかるべき時間で実現できるとは思えないからだ。しかし非科学的精神にとって、次のように考えてもでたらめということにはならないはずだ。「不可能と思われていた時期に月に到達したのだから、アルデバラン星への旅が可能と思って、どうしていけないのか」と。ご存知のとおり科学は、本当らしさについて自らの基準を公式化するに際して、とても慎重だが、これに対して世論や日常的想像力、詩的想像力はずっと慎重さを欠く。だからこそ文学的テクストは、アルデバラン星へ到達する可能世界を先取りできるのだ。しかしながら、われわれの物理学的認識が提示するあらゆる証拠に反して、そうするがゆえに、そのような企てを実現できる個物(ロケット、時空短縮装置、ゼータ波非物質化装置、超心理学的操作)を名指すにとどまり、構成するにはいたらないはずだ。さらに、こういった個物が存在する世界に生きる者が、どうして古代の詩人は、単に名指しているだけということに気づかないまま、それらの個物を記述できたのかと、驚いて自問するとしても、そのような光学効果が起こるのは自然なことだ。こうしてわれわれは、ロジャー・ベイコンを読むとき、どうして彼が飛行機械の可能性を決然と主張したのかと驚嘆し、彼をレオナルドと同様に輝かしい存在と見なす。しかしレオナルドが、それらの機械を粗削りながら記述したのに対し、ベイコンは、それらをただ天才的に要請し、名指すにとどめたのである。(235)
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つまり『ドラマ』(=とてもパリ的なドラマ)は異様な賭けなのだ。それは四章まで、いわばルーレットとして機能するように見える。そこではせいぜい赤に賭けて黒になるというぐらいで、それでもひとつのゲームはひとつのゲームである。読者はルーレットの規則に従うが、六章に来て、彼が赤に賭けたのに、クルピエ(胴元)がストレートフラッシュと告げるのを知る。読者が抗議すると、クルピエはこの上もなく無邪気に言う、「赤だって。どんなゲームをやってると思っていたんだ」と。二つのゲームは相互に接近できない。幻の章の世界と、ファーブラの世界がそうであるのと同様に。(321)
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Umberto Eco "Lector in Fabula"
篠原資明 訳、読者の役割

5/18
ウンベルト・エーコ『薔薇の名前(全二冊)』(東京創元社)を読む。
「迷宮構造をもつ文書館を備えた、中世北イタリアの僧院で「ヨハネの黙示録」に従った連続殺人が。パスカヴィルのウィリアム修道士が事件の陰には一冊の書物の存在があることを探り出したが…
精緻な推理小説の構図の中に碩学エーコがしかけた知のたくらみ
伊・ストレーガ賞、仏・メディシス賞」(上)、
「中世、異端、「ヨハネの黙示録」、暗号、アリストテレース、博物誌、記号論、ミステリ…そして何より、読書のあらゆる楽しみが、ここにはある。
全世界を熱狂させた、文学史上の事件ともいうべき問題の書
伊・ストレーガ賞、仏・メディシス賞」(下)とそれぞれの帯にある。
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泣く子も黙る世界的ベストセラーである。
甘美な中世の雰囲気に酔い痴れることができる稀有な一冊。
もちろん、面白い。
ただ、問題がないわけではない。
登場人物たちが「喋りすぎ」なのだ。
言葉が重要な意味を持つ小説であることや、
推理小説の形式で書かれていることを考え合わせたとしても、である。
修道士はもっと寡黙な世界で生きていたような気がする。
また、「燃える」というのは「ありきたり」すぎると思うのだが、どうだろう。
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「猿は笑いませぬ。笑いは人間に固有のものであって、人間の理性の徴(しるし)だ」ウィリアムが言った。
「人間の理性の徴ということであれば、言葉もまたそうであって、人間は言葉を使って神を呪うこともできる。人間に固有なものすべてが必ずしも善いとはかぎらぬ。笑いは愚かさの徴なのだ。笑いながら、人は笑う対象を信じてもいなければ憎んでもいない。つまり、悪を笑うのはそれと戦う意志がないからだ。(…)」(上、209)
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「パリの学者たちは、いつでも、真実の答えを持っているのですか?」
「いや」ウィリアムが言った、「自分たちの過ちを正しいと思っているだけのことさ」
「では、あなたは」子供みたいな厚かましさで私はたずねた、「決して過ちを犯さないのですか?」
「しばしば犯している」師は答えた、「ただし、唯一の過ちを考え出すのではなく、たくさんの過ちを想像するのだよ。どの過ちの奴隷にもならないために」(下、83)
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「書物というのは、信じるためにではなく、検討されるべき対象として、つねに書かれるのだ。一巻の書物を前にして、それが何を言っているのかではなく、何を言わんとしているのかを、わたしたちは問題にしなければならない。(…)ある書物のなかに、ダイヤモンドを切れるのは山羊の血だけだ、と書いてある。わたしの偉大な師ロジャー・ベーコンはそれが真実でないと言った。理由は簡単だ。それを試してみたが、成功しなかったからだ。しかし、もしもダイヤモンドと山羊の血の関係に、より高次の意味があれば、それは損なわれずに留まるはずである」(下、100)
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書物にとっての喜びは、読まれることにある。書物は他の記号について語る多数の記号から成り立つのだが、語られた記号のほうもまたそれぞれの書物について語るのだ。読んでくれる目がなければ、書物の抱えている記号は概念を生み出せずに、ただ沈黙してしまう。(下、226)
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河島英昭 訳
Umberto Eco "Il Nome della Rosa""The Name of the Rose"
バラの名前 ストレーガ賞、メディシス賞、マクルーハン賞
1991年度「このミステリーがすごい!」海外部門第1位

5/19
ウンベルト・エーコ『記号論と言語哲学』(国文社)。
「記号論の哲学的アプローチ」とだけ帯にはある。
記号論三部作(『記号論』、『読者の役割』、『記号論と言語哲学』)の最後を飾る一冊。
かなり面白い。
当たり前に見える言述がいかに不安定な土台に立っているかがよくわかる。
叙述ミステリが何冊も書けそうなくらい、たくさんのアイデアに満ちた好著。
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ある真理が直観的だということは、普通は、それには経済的理由からチャレンジしたくない(つまり、それを解明するのは別の学問に属するとこだから)ということを意味する。しかしながら、記号論的努力の(最重要ではないにせよ)ひとつは、あとで複雑な認識過程をいわゆる直観という名文句の下に発見するために、なぜなにかが直観的に見えるのかを説明することなのである。(28)
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特殊象徴的様態へのわれわれの探求は、ディコンストラクション的実践によって重大な危機にさらされる。テクストのうちには、その慣習的(で錯誤的)な意味を超えてすべてのことがよみとれうるとすれば、どのテクストも象徴のタンクである。だからまたしても、象徴的様態は記号論的様態と同一視されるのである。つまり、それぞれの人間の言述はつねに間接的に語っているのだ。魅力的だが、不満足な結論ではある。象徴はあまりに魅力的に見えたし、あまりにも優遇された知り方を約束したのだったが、さていまやわれわれは二つの同じようにじれったい二者択一を抱え込まされるのだ。つまり、片やそれぞれの言表はこの優遇された知識(とは言っても、すべてが優遇されている場合には、もはやいかなる特権も存在しないのだが)を供する、言い換えると、言語はつねに象徴的なのだが、少数の幸せ者だけがそれをそういうものとして扱うことができる。この場合、他人が実際になにを理解しているかは不明瞭だ。おそらく彼は誤解しているのであろうが、だからとて彼らを軽蔑することはできない。なにしろ、誤解こそ解釈の唯一の方法であるのだからだ。片や、<正しい>誤解と<間違った>誤解とのあいだには相違があるのだろうか。以上のいずれかの二者択一を抱え込まされるのである。(291)
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Umberto Eco "Semiotica e Filosofia del Linguaggio"
谷口勇 訳、ポリロゴス叢書

5/22
ウンベルト・エーコ『フーコーの振り子(上)(下)』(文春文庫)を読む。
「『薔薇の名前』から8年、エーコ最大の傑作長編 待望の文庫化」(上)、
「ミラノに始まりパリに至る「振り子」をめぐる知の饗宴」(下)と、それぞれの帯にある。
スタニスワフ・レム的な主題。
これは、とんでもない傑作である。
目眩くペダントリーと、ありえないリーダビリティー。
こういうものが読みたかった。
長年求めてきた小説の理想(の一つ)である。
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懐疑的であるというのは、何も信じないということではない。何もかもを信じてはいけないということで、まず一つのことを信じても、そのつぎのことは最初に信じたことに何らかの関連性がある場合にだけ信じ、近視眼的に順序だてて慎重に検討を加えながら決して一足飛びに結論に挑まないことである。ところが両者相容れないような場合に、その二つを結びつける第三のものがどこかに隠されているはずだと考えて両方とも信じてしまう。それが信じやすいということなのである。(上、88)
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「今のところ四学科ですが、これだけあればあらゆる人知学がカバーできるんじゃないでしょうか。<四割一毛学科>というのは教養課程のようなものでして、その狙いは関連性がないことの意味を習得することにあります。重要な意味を持つのは<無用学科>で、例えば<ジプシーの都市計画>とか<アステカの競馬>がそれでして……その非関連性の根底にある理由を把握することが訓練の主眼なのです。さらにこの学科では訓練そのものの不可能性をも追求します。ほかにも<モールス信号の形態素学>、<南極農業史>、<イースター島絵画史>、<シュメール現代文学>、<モンテッソーリ教育の学力試験精度>、<アッシリアとバビロニアの郵趣研究>、<新大陸発見前の帝国における車輪工学>、<ブライユ点字の図像学>、<無声映画の音声学>……」
「それだったら<サハラ砂漠における群集心理>というのはいかがですか」
(中略)
「そうかなあ、それじゃあ撞着語法学科にどんな授業科目を入れたか見てみようじゃないか。そう、これだ。革命体制、パルメニデス力学、ヘラクレイトス静力学、スパルタ式放蕩主義、民主寡頭制、革新伝統史、同語反復弁証法、プール式記号論理学的争論……」(上、134)
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あなたたちの計画にポエジーなんて感じられないわ。グロテスクよ。いくらホメロスを読んだからといって、もう一度トロイを焼き尽くしに行こうなんて人はいないわ。それはね、ホメロスの詩ではトロイの戦火は実際にはなかったようなものとして描写されているからで、これから先もありえないこととして描写されているからよ。それでも『イリアス』は不朽の名作としてあり続けるでしょう。それはね、あの詩にはまったく澱みがなく、しかも滔々と澄みきっているからで、だからこそ詩情に富んでいるのよ。(下、383)
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Umberto Eco "Il Pendolo di Foucault / Foucault's Pendulum"
藤村昌昭 訳、バンカレッラ賞

5/23
ウンベルト・エーコ『前日島(上)(下)』(文春文庫)を読む。
「エーコの迷宮世界へようこそ いざ「知」の航海へ帆をあげよう! 20世紀世界文学の金字塔待望の文庫化」(上)、「エーコの迷宮世界へようこそ 子午線の向こうへ、一日前の島をめざせ! 20世紀世界文学の金字塔待望の文庫化」(下)と、それぞれ帯にある。
これまた、すごい。
設定のインパクトが強烈なため、
ややもすればプロットが負けてしまいがちのなのだが、
本書にはそれがない。
(バランスがわからない人は、設定が活かされていないと評すだろう)
トリストラム・シャンディっぽさ全開で、
ぶっ壊れるにも程がある。
傑作。
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愛が精神的なものになるのは、自分の体が相手の体を欲しているのに、その欲望が抑圧されたときだけで、自分の体が相手の体を欲せないほど衰えている状態では、精神的なものは消滅する。(上、203)
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僕と現実のあいだには<他者>が余りにも多く介入しすぎている。それなら、いっそのこと、海の上で孤立したほうがよっぽどましだ。そうすれば、僕にだけ許された方法で、恋人を独り占めにできるはず。結局のところ、愛の極致は、愛されることではなく、たとえ片思いであろうとも、常に愛を捧げる者でありつづけることなのだ。(上、298)
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本初子午線上で太陽が動きだすのは、絶対に、星の光で開始されなければならない。午前零時は、まだ<無の時>だったはずだから、時の始まりは、午前零時の次の刹那。つまり<天地創造>の最初の日は、本初子午線上で--夜中に!--始まったのだ。(上、30)
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その<島>が過去に横たわっているのなら、万難を排して是が非でも到達しなければならない。その狂った時間のなかで、発見するのではなくて、もう一度最初から原人の状態を作り出さねばならないのだ。<島>には永遠の若さを保てる泉はない。<島>そのものが源泉なのだ。人として生を享けたすべての者が、萎えてしまった知識を捨て、密林で発見された捨て子のように、生まれて初めて<モノ>に接することによって、新しい表現法が見つけられる場所なのだ。その言語を使って自然を直接体験することから、いかなる哲学でも勝手に歪めることができない、新しい真の科学が誕生する。法や掟や規則や原則の言葉を息子に伝える父親ではなく、タドタドしくカイガイしく、最初の名前を口伝えで息子に教えている、母親のような<島>。(下、173)
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ぐずぐずしてはいられない。ロベルトはすぐに話を再開しなければならなかった。記念すべき出来事を語った<創作者>が、しばらく読者を宙吊りの状態にしておくために話題をそらすのは事実--それに、この才能の如何によって作品の出来映えが大きく左右されるのも事実--だが、それでも、読者が本筋と並行した他の動きに翻弄されて途方に暮れることがないよう、極端な逸脱は慎まなければならない。だからこそ、ロベルトはフェッランテに戻る必要があったのだ。(下、216)
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Umberto Eco "L'isola del Giorno Prima / The Island of the Day Before"
藤村昌昭 訳、オレンジ色の鳩、ぜんじつとう
前の日の島、前日の島、昨日之島、初日の島

5/24
ウンベルト・エコ編『エコのイタリア案内』(而立書房)
1967年に書かれたということもあり、
メインで楽しめるはずの写真が変に古びている。
昔の百科事典の図版を見ているような気分だった。
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Umberto Eco "Autoritratto dell'Italia"
谷口勇 訳
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ウンベルト・エコ『論文作法 調査・研究・執筆の技術と手順』(而立書房)を読む。
「『バラの名前』で著名なエコ教授が伝授してくれる論文作成の秘訣 "盗作"の手順から、6ヵ月で完成させる方法、テーマの絞り方、図書館の利用法、読書カードの実例……さらに指導教員の選び方まで、審査の厳しいイタリアを例に、卒論・学術論文の作成方法を懇切に指導する。それ以上に本書は、世界的ベストセラー作家であり、記号論学者であるエコの捜索と研究の秘密を垣間見せてくれる。」と帯にある。
この手のハウツー本は、テーマ(章)によって面白さにムラが出がちなのだが、
驚くべきことに、本書にはそれがない。
どの部分をとっても興味深く読め、
論文を書きたくてうずうずしてくる。
「第Z章 むすび」には学問をすることのすばらしさが凝縮されている。
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まじめに研究するのであれば、ほんとうに馬鹿げたテーマというものは皆無なのだ。まじめに研究するならば、たとえ一見したところ、かけ離れた、もしくは周辺的なテーマからでも、有用な結論を引き出すことができるものである。(10)
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学問上の謙遜とはこういうことなのだ。誰しもわれわれになにがしかのことを教えることができるものなのだ。われわれよりも賢明でなかった人から、何事かを教えてもらうのに成功するほどまでに賢明なのは、おそらく、われわれ自身なのであろう。そうでないにしても、われわれにはたいして勇敢とは見えないような人でさえ、隠れた勇敢さを持っているのだ。(171)
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Umberto Eco "Come si fa una Tesi di Laurea"
谷口勇 訳、教養諸学シリーズ

5/25
ウンベルト・エコ『テクストの概念 記号論・意味論・テクスト論への序説』(而立書房)を読む。
「ロングセラー『論文作法』に続く、U・エコの[教養諸学シリーズ]第2弾!! 小説『バラの名前』『フーコーの振り子』のミリオンセラーで著名なウンベルト・エコは、本職の記号論の世界でも、長年にわたり革新的・生産的な論理を展開し、常に国際学会をリードしてきた。本書では、サンパウロ大学の講義録がもとになっているだけに、記号論・意味論・テクスト論が新しい観点から一般読者に判り易く提示されている。」と帯にある。
書く(読む)ことではなく、話す(聴く)ことを前提としているため、とても読みやすい。
今までの著作のダイジェスト版という感じである。
その分、目新しさはほとんどなかったが、読んでいてとても楽しかった。
エーコの授業もきっと、面白いのだろう。
『物語における読者』同様、アルフォンス・アレーの短編、
『パリならではの通俗劇』『テンプル騎士団員たち』が収められている。
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いずれの学問でもお気に入りのスポーツの一つは、周知のように、それ自体をマゾヒズム的に否定することである。建築学科での講義で成功を収めたければ、「諸君、建築は存在しない」といって切りだすべきだ。彼らは大満足することだろう。だが、神学部でもそうのなのだ。「神は死んだ」で始めれば、成功の確率は大きかろう。/こうした学問上のマゾヒズムには、肯定的な局面もある。それは、ある学問が絶えず自らの前提を問い続けることを意味する。そうはいっても、誇張というものは、美徳においてばかりでなく、悪徳においてもあるのだから、それは避けなければならない。(10)
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カントが延長を分析的と判断し、重さを総合的と判断しているのは、ポリフュリオスの若干の樹木--延長が常に物体に不可欠の諸特性のうちに措定されながら、重さにはそういう措定がなされていないような樹木--を構築した文化的伝統を参照しているからに過ぎないのである。(90)
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彼(=ボルヘス)は曰く、マラルメの『骰子一擲(とうしいってき)』を読むだけで、未知の言語、フランス語を学ぼうと決心しているハンガリー人だっているのだぞ。しかも、それを学習するのだ。それから引き続き、これを基礎にして、彼はパスカル、スタンダール、シャトーブリアン、モリエールを読み始めて、呟く--「ほら、この連中はこんな貧弱な言語でよくまあ立派に書けるものだ」、と。(255)
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暴論を見越して言っておくと、メカニズムを発見するということは、読みや美的観賞の楽しみを少しも減じることにならないのだ。反対に、私は個人的にも言えるのだが、『パリならではの通俗劇』のメカニズムを分析すればするほど、まるで無邪気な一読者であるかのように、ますます楽しみは大きくなる。そのわけは、われわれの側に絶えず無邪気になりうる可能性が存するからでもある。/にもかかわらず、絶えず多くの人びとは反論し続けている--「あなたたちは文学をこういう類いの解剖切開にかけることによって、文学の楽しみを殺しているのです」、と。これに対する私の答えはこうだ--「産科医たちだって恋に陥るのですよ」。(288)
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Umberto Eco "Concetto di Testo"
谷口勇 訳、教養諸学シリーズ
ファブラ(ストーリー)、事件展開(シュジェート、プロット)
ファーブラ(筋)、シュジェート(語り)

5/26
ウンベルト・エコ『中世美術史 『バラの名前』の歴史的・思想的背景』(而立書房)を読む。
「ウンベルト・エコの学問・思想の原点を開示する名著」と帯にある。
ほとんど知識がないまま、エーコの著作というだけで手を出した一冊。
本文中に頻出するターム(調和、均整、充全性、象徴、寓意)を見てもわかるように、
中世においては、神が決定的な意味を持っており、(現代では木っ端微塵に砕け散った)
世界全体の統一性とでもいうべきものが頑ななまでに守られている。
この世界のすべてが、シルクのベールにすっぽりと覆われているようなイメージ。
現代人にとって、それはうらやましくもあり、うとましくもある気がする。
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はかない美に直面して、唯一の保証をわれわれに与えてくれるのは、死ぬことのない内的な美なのである。そして、この種の内的な美に訴えることにより、中世は死という現象にもかかわらず美的価値を結局のところ回復しているのだ。(20)
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いずれの哲学的概念も、それのもっとも一般的な意味で解すれば、何らかのことを説明することができるものである。もちろん、アリストテレスの“可能態(デュナミス)”なる概念は、自動車の機能もを説明する。しかし、そのことはアリストテレスの形而上学が現代物理学の諸概念へ翻訳できることを意味しないのである。(253)
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忘れてならないことは、都市計画ないし建築計画に集中した、造形芸術の仕事はつねに集団作業の仕事だったし、芸術家たちや職人たちが自ら遺すことのできた個人的証拠はすべて、要石の上に刻まれた顕彰だけに限られていたという点だ。とどのつまり、今日でさえ、映画のクレジットにたいして注意しない、ぼんやりした観客は、その映画を匿名の作品と見なすし、それの作者、監督、撮影班のことは忘却して、記憶には筋立てや主人公たちしか残らないといった傾向がある。(200)
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Umberto Eco "Art e bellezza nell'estetica medievale"
谷口伊兵衛 訳、教養諸学シリーズ
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ウンベルト・エコ他『エコの翻訳論 エコの翻訳論とエコ作品の翻訳論』(而立書房)を読む。
「《翻訳》のあり方を、U・エコを中心に編集。記号論学者であり、世界的大ベストセラー小説『バラの名前』の作者でもあるエコは、レーモン・クノーの『文体練習』を自らイタリア語訳することで、早くから翻訳方法論を実践してきた。本書は、エコの記号論的翻訳論のほか、『バラの名前』の各国の翻訳者たちの方法論や、翻訳の出来映えを論じた諸論文を収録し、エコとエコ作品の翻訳論を集大成したものである。」と帯にある。
エーコは、最初、翻訳の難しさを韻を踏むなどの「音」を通して語る。
だが、論理が展開されていく過程で、その重点はいつの間にか「意味」に移り変わってしまう。
もちろん、翻訳とは類似したような「音」を見つけ出すことではなく、
「論理の流れ(=意味)」を移し変えることにあるのだろうから、首肯できなくもないのだけれども。
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エーコ以外の論文は、概して単調で寄せ集め的な印象が強い。
そもそも、「翻訳論」を「翻訳」するとは、どういうことだろう。そんなことも考えた。
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この種の本(=レーモン・クノー『文体練習』)にとって、忠実であることは何を意味するのかを決める必要があった。明白だったのは、そのことが逐語訳であることを意味しないということだ。/あえて言えば、クノーは一つの遊び(ゲーム)を発見したのであり、1947年に素晴らしく演じられた試合を通して、その諸規則を明らかにしたのである。忠実であること、それは、ゲームの規則を把握し、尊重し、それから同数の手数でもって新しい試合をやることを意味していたのだ。(33)
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指摘されてきたように、原作はいつも同じである(し、せいぜい、曖昧な個所が注で解明されるだけである)のに対して、翻訳は“古くなる”し、時間が経つとやり直される。なにしろ、翻訳は或る時期や或る文化がそのテクストにどのように接近しうるかを考慮するものだからだ。(79)
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T.エコの翻訳論
ウンベルト・エコ/シリ・ネルガルド「翻訳研究への記号論的アプローチ」
ウンベルト・エコ「レーモン・クノー『文体練習』(イタリア語版)の序説」
ウンベルト・エコ「『シルヴィー』再読」
アンナ・ジャンバリ「レーモン・クノー,ウンベルト・エコと『文体練習』--創作と翻訳の詩的言語」
U.エコ作品の翻訳論
ウンベルト・エコ「会議への基調発言」
ブルクハルト・クレーバー「作家の演技に居合わすということ」
イムレ・バルナ「写字生の独り言」
ピエタ・デ・フォークト「三人による翻訳--ウンベルト・エコ作『バラの名前』をオランダ語に翻訳する技法--」
エヴァ・アレクサンデルソン「『バラの名前』をスウェーデン語に翻訳するうえでの諸問題」
モラナ・ツァーレ・クニェジェヴィチ「翻訳,伝統と裏切り--『バラの名前』クロアチア語版に付随して」
イェレーナ・コスチュコーヴィチ「『バラの名前』ロシア語訳の文体上の決定」
マルティエン・J・G・デ・ユング「バラっていったい何なのか?(エコとボルヘスにおける間テクスト的局面)」
クリストファー・テイラー「二つのバラ--翻訳者のための比較言語研究の手段としての『バラの名前』の原語版と英訳版」
スヴェン=オラフ・ポウルセン「読者に向いた翻訳,ラテン語の引用文[句],未知らぬ借用語,聖書からの語句の翻訳の諸問題について」
デイヴィッド・スネリング「『バラの名前』における活力と強度」
ヨーハン・ドルンブル「より困難な読解」
J・C・サントヨ「翻訳とえせ翻訳--『バラの名前』における技巧と諸レヴェル」
J・L・チャモサ/J・C・サントヨ「イタリア語から英語へ--『バラの名前』における100箇所の削除の動機づけのある選択と動機づけのない選択」
デイヴィッド・ケイタン「『バラの名前』の英訳と文化フィルター」
谷口伊兵衛「興味尽きない中国語版『バラの名前』」
谷口伊兵衛「エコの第二作,今回も白眉の中国語訳なる」
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Umberto Eco et al "Traduzioni da/su Umberto Eco"
谷口伊兵衛 編訳、教養諸学シリーズ

5/29
ウンベルト・エーコ『完全言語の探求』(平凡社)を読む。
「叢書ヨーロッパ ヨーロッパとは何か、ヨーロッパはどこから来て、どこへ行くのか……。歴史と文化の深層を理解するための、最高の執筆陣による画期的書下ろしシリーズ、発刊! ヨーロッパ主要出版社5社との国際共同企画 総監修=ジャック・ルゴフ 日本語版監修=二宮宏之」と帯にある。
「バベルの塔の崩壊」が駆り立てる「完全言語」への欲求。
アダム(や神)が話した言語とは何か?
それは、ヘブライ語でも、ラテン語でも、ギリシャ語でもない。
完全言語を復元しようとする試みは、いつしか、
世界共通語(国際的補助言語)を作り出そうとするそれに変化していく。
本文中には一回しか出てこないが、最後の結論は、
チョムスキーの打ち出した理論にとても似ている。
質、量、ともに文句なしの傑作である。
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シェヴォロシュキンは「ノストラ語族」論を最近ふたたび提起して、原インド=ヨーロッパ語族なるものの存在を主張している。しかも、この原インド=ヨーロッパ語自体は、ノストラ語にまでさかのぼるさらに広大なあるひとつの語族から分かれた七つの分枝のうちのひとつであって、これをさらにさかのぼると、すくなくとも二千年前までは話されていた原語があるという。この説の主唱者たちは、原語についての数百の語彙からなる辞書を編纂している。しかし、それだけではない。かれらによれば、その原語にもさきだって、それを派生させたひとつの祖語があり、その祖語はおそらく十五万年も前に話されていたもので、アフリカから地球全体に拡がったというのだ。/要するに、アフリカに原初の人間のカップルがいて(このカップルをアダムとエヴァと呼んでいけないわけはなく、実際にも「エヴァの仮説」という言いかたがされている)、ついで近東に移り住み、その子孫がユーラシア大陸全体、そしておそらくはオーストラリアとアメリカに拡がったという仮説が立てられているわけである。(173、一部注を省いた)
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差異のほうが同一性や類似性よりもしばしば重要であるとはいうものの、今日の認知科学の分野における最先端の研究者たちもときには自分たちの先祖を再訪してみても無益ではないのではないだろうか。哲学するのに哲学史を参考にするする必要はないとアメリカ合衆国の哲学のいくつかの部門で主張されているが、これは真実ではない。これは、ラファエッロの絵を一度も見たことがなくても画家似なれるとか、古典を一度も読んだことがなくても作家になれると主張するようなものである。もちろん、そうして画家や作家になることも理論的には可能である。しかし、過去のことを知らない「原始的な」芸術家は、いつでもそれとわかるのであり、まさしくナイーヴと呼ばれるのである。これとは反対に、なにもないところに新しいものを始めたと自負するあらゆる企図にひそむ限界や挫折を予見することができるのは、ほかでもない、ユートピア的な夢想にすぎず失敗作であることが明らかにされてきたもろもろの古い計画案を再訪してみるときなのである。わたしたちの先祖がおこなってきたことを読みなおしてみることは、たんなる考古学的な気晴らしではなく、免疫学的な予防装置なのだ。(446)
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Umberto Eco "La ricerca della lingua perfetta nella cultura europea"
"The Making of EUROPE" 叢書ヨーロッパ
ヨーロッパ文化における完全言語の探求、完全言語への探求
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『ウンベルト・エコ インタヴュー集―記号論、「バラの名前」そして「フーコーの振り子」』(而立書房)を読む。
「ウンベルト・エコ→世界的超ベストセラー『バラの名前』であり、記号論の世界的学者でもある怪人に、三人の気鋭が果敢に挑戦する。本書の白眉は、『バラの名前』の発表以前に、"小説家"エコの出現を予期させる言葉を引き出しているパンコルポのインタビューである。」と高さ23mmしかないおしゃれなピンクの帯にある。
「記号論の魔術」のインタビューアーは、かなり好戦的で面白い。
他の二つはそれなりの程度。
どの著作でも散見されるのだが、訳者の谷口勇は、『薔薇の名前』『フーコーの振り子』の翻訳が
よっぽど気に食わないらしい。

エコ ある時点で(ことばの)起源の研究を断念することは、科学的な学問にとって極めて重要だったのです。
パンコルボ それにおそらく、問題の奥底で神にぶるかるのが怖かったからでしょう。
エコ または神にぶつからないのが。(57)
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エコ ことばはすべてを言いうるわけではない、とはどういう意味でしょうか。私としてはむしろその反対を主張したいところです--ことばは常にあまりに多くを語り過ぎる、と。(80)
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パンコルボ エコさん、これを冗談と取らないで頂きたいのですが、あなたはこの名字からして、記号論学者になるように運命づけられていたようですね。
エコ ひょっとしたらね。名前に負う宿命みたいなものがあるかもしれません。ですが、一人の重要哲学者、いやむしろ、二人の重要哲学者が、同じくベーコンと呼ばれていたことを考えれば、こんな宿命はほとんど問題にもならぬことが分かります。(97)
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エコ ええ。なにしろ当然ながら、著者というものは第一ページに極めて興味深いことをいったと信じていながら、実際にはすでにいわれたことを、気づかずにただ繰り返しただけだったということが間々あるからです。また逆に、二ページにおいては、すでにいわれたことを繰り返したと思っていながら、その実、新しいことをいっていたりします。(107)
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"Interviews with Umberto Eco : Semiotics, The Name of the Rose, and Foucault's Pendulum"
Luis Pancorbo , Thomas Stauder , Cees Nooteboom、谷口勇 訳
ルイス・パンコルボ「記号論の魔術」
トマス・シュタウダー「『バラの名前』から『フーコーの振り子』へ」
セース・ノーテボーム「講壇から、ピッツァ専門店から」

5/30
ステファン・コリーニ編『エーコの読みと深読み』(岩波書店)を読む。
「ケンブリッジ大学の講堂で三日間、満場をわかせた連続講義と討論!」と帯にある。
エーコも言っているように、「解釈/過剰解釈」は、「解釈/利用」と考えるとわかりやすい。
(例えば、テクストを政治的に「利用(=過剰解釈)する」ことは許されない)
「普通に考えて無理のあるような解釈はやめましょう」(エーコ)、
「いやいや、テクストはもっと自由であっていい」(その他の論者)というのが乱暴な要約。
ヒリス・ミラー、ド・マンなどのイェール学派を、エコーは目の敵にしているが、
以前、何冊かイェール学派の著作を読んだ限り、
彼ら(=イェール学派)は、彼らなりに、読みの制限を設けていているように感じた。
-
ひとまず、これでエーコは打ち止めにしたい。
来年か再来年あたりに、また、残りをまとめて読む予定。
その頃には、第四の小説『バウドリーノ(ボードリーノ)"Baudolino"』(2004年(!)岩波書店近刊)や、
第五の小説『女王ロアーナの謎の炎"La Misteriosa Fiamma della Regina Loana / The Mysterious Flame Of Queen Loana"』も翻訳されていることだろう。
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(以下、特に指定のないものはエーコの発言)
手がかりの重要性を過大評価することは、しばしば、もっとも直接的に明白な要素こそ重要なものであると考える傾向から生じます。しかし一方で、我々は、それらが明白であるという事実自体から、それらの要素がもっとずっと経済的な観点から説明可能だと気づくべきなのです。(72)
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我々が尊敬しなければならないのはテクストであり、具体的人物としての作者ではありません。しかしながら、哀れな作者を、部外者も同然に、解釈の物語から締め出すのは、かなり乱暴なことに見えるかも知れません。(96)
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感受性の鋭い責任感ある読み手には、この詩を書いてきたときワーズワースの頭の中で何が起こったかについて推測する義務はないけれども、ワーズワースの時代の語彙体系がどうであったかを考慮に入れる義務はあるということになります。(101)
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これらの超理解はすべて過剰解釈と見なして構わないでしょう。もしも、解釈がテクストの意図を再建することであるとすれば、これらの問いは、我々をそちらの方向へと導くものではありません。これらの問いが尋ねているのは、テクストが何をいかに為すか、それが他のテクストや実践といかに関わるのか、それが何を隠したり抑圧しているのか、それが、何を後押ししたり、何と共謀しているのか、です。現代批評にあって、極めて興味深い形式をとる多くのものが問いかけるのは、作品が何を念頭に置いているのかではなく、何を忘れているのかであり、それが何を述べているのかではなく、何を前提としているのか、なのです。(177、カラー)
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Umberto Eco "Interpretation and Overinterpretation"
Stefan Collini, Jonathan Culler, Richard Rorty, Christine Brooke Rose
ウンベルト・エーコ、リチャード・ローティ、ジョナサン・カラー、C.ブルック=ローズ
柳谷啓子、具島靖 訳、解釈と過剰解釈、浅読み、よみとふかよみ
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序 有限解釈と無限解釈(ステファン・コリーニ)
第1章 解釈と歴史(ウンベルト・エーコ)
第2章 テクストの過剰解釈(ウンベルト・エーコ)
第3章 著者とテクストの間(ウンベルト・エーコ)
第4章 プラグマティストの歩み(リチャード・ローティ)
第5章 過剰解釈の弁護(ジョナサン・カラー)
第6章 パランプセスト的歴史(C.ブルック=ローズ)
第7章 返答(ウンベルト・エーコ)
訳者あとがき

5/31
せきしろ『去年ルノアールで』(マガジンハウス)を読む。
「無気力文学の金字塔」「妄想喫茶(ネバーランド)へようこそ」と帯にあり、
その他に、バッファロー吾郎 木村昭浩、ドラマー クハラカズユキ、
南海キャンディーズ 山里亮太、ミュージシャン・俳優 桜井はるこ、
スタイリスト 伊賀大介、プロレスリング・ノア 齋藤彰俊
というよくわからない面々が紹介文を書いている。
妄想が暴走するエッセイ。
ニヤッとするだけでは耐えられなく、いつの間にか爆笑してしまう。
一気に読むと飽きてしまうので、
2,3ページずつパラパラめくるのが正しい楽しみ方だろう。
-
続いて女性の携帯から流れてきたのはなんと「荒城の月」! もしかしたらこの女性の選曲センスは天才的かもしれない。ブリティッシュロックから滝廉太郎までという幅広さ、死んでから評価されるタイプかも、そう思った私は、彼女の着メロ選考曲をノートにメモすることにした。(36)
-
ロック好きが高じて転がる石のように生き続ける彼。これからもきっと、転がり続け、ただ転がるだけじゃなく、たまに人にぶつかりながら、あるいは子供に蹴られながら、意図しない方へとどんどん転がっていくことであろう。(44)
-
見たいけど見れない。そのジレンマがまだ見ぬ最新型革靴のイメージを膨らませる。雨にも雪にも強い。通気性が良く、夏の暑さにも強い……ハッ、もしかしてこれって宮沢賢治! “雨にも負けず風にも負けず雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な”靴! きっと最新型革靴は宮沢賢治イズムが注入された靴なのだ。赤い革ジャン男は見かけは怖いけど、きっとこの賢治イズムな靴を履いて、東に病気の子供がいたら行って看病してやり、西に疲れた母がいれば行ってその稲の束を背負ってあげるに違いない。意外と優しいじゃないか、赤い革ジャンさん!(47)
-
「とっても○○だった」の一言ですべてが片付けられている、まるで小学生の作文のような感想。まったく、あれだ、あれ。あれが足りない。あの、あれあれ、「ボキャブラリー」が足りないのだ。(122)
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「自民党じゃない他のチームが、わざと時間稼ぎしていた(…)ゆっくり歩いたりするの。全員蟹歩きで」(185)
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『relax』(2000年2月号〜2004年10月号)に連載されたもの「今月のルノアール」に加筆・修正をし、一部書き下ろしを足してまとめたもの。

6/1
福江純=著、長崎訓子=絵『となりのアインシュタイン』(PHP研究所)を読む。
「いま・ここに<わたし>がいる不思議 相対性理論のサイエンス・ワンダーランドへ--」と帯にある。
「猿でもわかるやさしい入門書」のようなものを目指しているのかもしれないが、
「わかっている人が、わかっている人のために書いたような本」になってしまっている。
森博嗣っぽいのが好きな人にはいいかもしれない。
「光の速さはだれから見ても一定である」という「光速度不変の原理」を
当たり前のものとして受け入れてしまっている部分には、疑問を感じた。
-
ニュートンが虹を分解したことに対して、ニュートンと同時代のロマン派詩人ジョン・キーツらは、虹を分解して虹のもっていた詩情を破壊してしまったとして、ニュートンを非難した。/だが、この非難は的外れだろう。なぜなら、スペクトルに分解された虹の向こうには、はるかに深い謎に満ちたセンス・オブ・ワンダーの世界が広がっていたからだ。そう、文字どおり、虹の彼方は別世界だったのである。(88)

6/2
ナカガワヒロユキ『舞-HiME Side-A 秘密の花園』『Side-B 愛と死の輪舞』(徳間デュアル文庫)を読む。
「少女たちの恋と運命を賭けた戦いが始まる!! The novel based on TV animation "MAI-HiME" 大人気アニメを、本気度120%で小説化! 萌え度☆☆☆ 燃え度☆☆☆ 泣き度☆☆(当社比)」(上)、
「明日、セカイが壊れても、この想いは止められない--! The novel based on TV animation "MAI-HiME" 好き。護りたい。だから少女は闘った…。切なさ300%(当社比)」(下)と、それぞれの帯にある。
ノヴェライズなのだが、その枠を必死になって越えようと
文学的ガゼットを散りばめている上巻が面白い。
(各章のタイトルも工夫してつけられている。)
ただ、原作に「乗っかりすぎ」な部分が多く、全体としてはまあまあのレベル。
-
ついでに、木村申陽(文) 、矢立肇(原作)、サンライズ(企画)、久行宏和・深野洋一 ほか(イラスト)、『舞-HiME 第1巻』『第2巻』(メガミ文庫)も読んだのだが、
こっちはただ単に物語を消費しているだけという感じだった。
-
冷たいが、少女の心は歪んでいない。歪んでないから、この歪みまくった世の中ではどうしたって生きづらい。(上、27)
-
人を憎むには未熟さが必要だ。子供のような未熟さ--それは純粋さによく似ている。/成熟してしまえばすべて相対化され、感情は風化する。(上、53)
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「人の感情のすべてが凝縮されている。現実が粗雑なコピーに思えるくらいにね。けど、ぼくが見たいのはそんな良くできた悲劇じゃないんだ。ちょっと目をこらせば、シェイクスピアを上回る悲劇がこの世の中にはいくらでも転がっている」
「たとえば?」
「演じられるほどでもなく、語り継がれるほどでもなく、ただ忘れられていく、くだらない平凡な人生こそが本当の悲劇」(上、162)
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「利口だと思ってる人間が一番踊らされてる……そんなことも分からないのか」(下、114)
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「人間はね、光の反射を見ているんだって(…)まず光があって、それがものに跳ね返って--その跳ね返ってきた波長?……をとらえて色とか、そういうのが見えるの(…)少しでも光がないと、人はものを見ることができないんだ(…)けど真っ暗で、何も見えない夜の道だって、だんだんと目が慣れていくじゃない。それって、どこかに少しでも光があるからなんだよね?(…)こんなに綺麗だもの。世界は、夜でも光に満ちてる」(下、296)
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この長い小説を読んでいただいた読者の皆様、誠にありがとうございます。読者のあなたが大人になっても、恥じることなく読み返せるようなものになっていれば幸いです。(下、378)
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海猫沢めろん・中川裕之「零式(前編・後編)」(名義)(SFマガジン 2005年7,9月号)を読む。
原始駆動機(レシプロマシン)<鋼舞>という旧式のバイクで、空を飛ぼうとする物語。
「外の世界にどうやって飛び出していくか」という作者らしいテーマである。
長さの制約があるためか、掘り下げ方は微妙だが、好感が持てる中篇。
インタビュウで、作者は、昔、丸山健二を読んでいたと言っていたが、
今作は、『見よ 月が後を追う』を少しだけ意識したのかもしれない。
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海の向こうの国の合理主義思想と技術はただ、生活とテクノロジーのレベルを上げただけ。人口は減り、都市はどんどん縮小していった。/外への扉を閉ざして、外に興味を持たず、この町は決まった人口で均衡のとれた生活を送ることを選んだ。(前編、227)
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「だから私は飛ばしたかったの。誰かに言いたかった。これは飛ぶためのものだ、って。私の汚れたお金を全部つぎこんで買った翼……でも、やっぱり誰もこの町からは出られない。あなたも、私も。誰も出られない--」(前編、244)
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「似合わないな…浮ついたあんたらには」
「浮ついているのにはもう飽きただけさぁ」
 その飽きっぽさこそが浮ついている証拠だろーが……そう言おうとしてやめた。たぶん言っても無駄だから。(後編、235)
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はじめて空を飛んだあのときと、よく似た感触。/堕ちるのが、飛ぶのと似ているなんて、皮肉だ…でも、最後に身体を包んだのが、この感覚で良かった--夏月はそう思った。(後編、242)
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熱を発生させるのは簡単だ。両手を擦り合わせればいい。難しいのは熱から動力を生み出すこと。あらゆる機関に必要なもの--それは作動流体といわれる媒体。例えばそれはガソリンとともに発動機に入り、燃焼され排気される空気。沸騰する液体が変化した蒸気。/あたしたちの中には熱があった。/だけどそれを力に変える方法を知らなかった。(後編、246)
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海猫沢めろん 小説リスト
『左巻キ式ラストリゾート』(イーグルパブリシング・パンプキンノベルズ)(海猫沢めろん名義)
『舞-HiME Side-A 秘密の花園』(徳間デュアル文庫)(ナカガワヒロユキ名義)
『舞-HiME Side-B 愛と死の輪舞』(徳間デュアル文庫)(ナカガワヒロユキ名義)
「零式 Zerφsiki(前編)」(SFマガジン 2005年7月号)(海猫沢めろん名義)
「零式 Zerφsiki(後編)」(SFマガジン 2005年9月号)(中川裕之名義)

6/5
プリーモ・レーヴィ『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』(朝日選書)を読む。
「考え、判断することが死に直結した強制収容所。この20世紀の地獄を生きのびた著者が、人間の尊厳・ファシズムの本質について静かに問いかける。『夜と霧』『アンネの日記』にならぶ現代の古典。」と帯にある。
感想を書くこと、いや、読んだことを記すことすら、禁じられているような気になった。
ドストエフスキー『死の家の記録』や、ソルジェニーツィン『収容所群島』、
そして、ヴィクトール・フランクル『夜と霧』を以前に読んだとき、
「人はどんな場所でも希望を持つことができる」
という解釈を引き出してしまっていた自分を心から恥じた。
本当にそうなのか。
人は希望を持ちえるのか。
物質的にも精神的にも、何一つ残されず、ただ生き延びたという事実だけが残された人。
そして、その背後に横たわる、何百万人もの殺害された命。
第二次世界大戦の加害者であった日本人の一読者が、
そんな楽観的な結論で落ち着いてしまっていいのか。
『もしこれが人間ならば』という原題が、心に深く突き刺さる。
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そして夜がやって来た。一目見たらそれ以上生きていけないような夜だった。みながこう感じていた。だからイタリア人もドイツ人も、看守はだれ一人として、死を目の前にした人々が何をするか、身に来る有機を持たなかった。(8)
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あの時、私たちはたくさんのことを話し、いろいろなことをした。だがそうしたことは記憶に残らないほうがいいのだ。(9)
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そこで私たちははじめて気がつく。この屈辱、この人間破壊を表現する言葉が、私たちの言葉にはないことを。一瞬のうちに、未来さえも見通せそうな直観の力で、現実があらわになった。私たちは地獄の底に落ちたのだ。これより下にはもう行けない。これよりみじめな状態は存在しない。考えられないのだ。自分のものはもう何一つない。服や靴は奪われ、髪は刈られてしまった。話しかけても聞いてくれないし、耳を傾けても、私たちの言葉が分からないだろう。名前も取り上げられてしまうはずだ。もし名前を残したいなら、そうする力を自分の中に見つけなければならない、名前のあとに、まだ自分である何かを、自分であった何かを、残すようにしなければならない。(23)
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ラーゲルとは人間を動物に変える巨大な機械だ。だからこそ、我々は動物になってはいけない。ここでも生きのびることはできる、だから生きのびる意志を持たねばならない。証拠を持ち帰り、語るためだ。そして生きのびるには、少なくとも文明の形式、枠組、残骸だけでも残すことが必要だ。我々は奴隷で、いかなる権利も奪われ、意のままに危害を受け、確実な死にさらされている。だがそれでも一つだけ能力が残っている。だから全力を尽くしてそれを守らねばならない。なぜなら最後のものだからだ。それはつまり同意を拒否する能力のことだ。そこで、我々はもちろん石けんがなく、水がよごれていても、顔を洗い、上着でぬぐわねばならない。また規則に従うためではなく、人間固有の特質と尊厳を守るために、靴に墨を塗らねばならない。そして木靴を引きずるのではなく、体をまっすぐ伸ばして歩かねばならない。プロシア流の規律に敬意を表するのではなく、生き続けるため、死の意志に屈しないためだ。(42)
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人間とはこうしたものだ。痛みや苦しみが同時に襲ってくる時、人はそれをすべて合わせて感じるわけではない。ある一定の遠近法の法則によって、小さな苦痛が大きな苦痛の陰に隠されてしまうからだ。これは神意によるもので、だからこそ収容所でも生きられるのだ。また、自由人の生活で、人間の欲望には際限がない、とよく言われるのも、これが理由だ。だが、これは、人間が絶対的な幸福にたどりつけないことを示すよりも、むしろ、不幸な状態がいかに複雑なものか、十分に理解されていないことを表している。不幸の原因は多様で、段階的に配置されているが、人は十分な知識がないため、その原因をただ一つに限定してしまうのだ。つまり最も大きな原因に帰してしまう。ところが、やがていつかこの原因は姿を消す。するとその背後にはもう一つ別の原因が見えてきて、苦しいほどの驚きを味わう。だが実際には、別の原因が一続きも控えているのだ。(86)
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わからない点が多かったラーゲルの生活とは、いままで語ってきたような生活だ。これからも述べられるような生活だ。同時代の多くの人間が、こうして地獄の底に落とされて、つらい生き方をした。だが一人一人の時間は比較的短かった。そこでこういう疑問が湧いてくることだろう。この異常な状態に何か記録を残す意味があるのだろうか、それは正しいことなのだろうか、という疑問が。/これには、その通りと答えておきたい。人間の体験はどんなものであっても、意味のない、分析に値しないものはない、そしていま語っているこの特殊な世界からも、前向きではないにしろ、根本的な意味を引き出せる、と私たちは信じている。ラーゲルが巨大な生物学的社会的体験でもあったことを、それも顕著な例であったことを、みなに考えてもらいたいのだ。(103)
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同じような仲間が何千といた中で、私が試練に耐えられた原因は、その究明に何か意味があるのだとしたら、それはロレンツォのおかげだと言っておこう。今日私が生きているのは、本当にロレンツォのおかげなのだ。物質的な援助だけではない。彼が存在することが、つまり気どらず淡々と好意を示してくれた彼の態度が、外にはまだ正しい世界があり、純粋で、完全で、堕落せず、野獣化せず、憎しみと恐怖に無縁な人や物があることを、いつも思い出させてくれたからだ。それは何か、はっきり定義するのは難しいのだが、いつか善を実現できるのではないか、そのためには生き抜かなければ、という遠い予感のようなものだった。/この章に登場する人物たちは人間ではない。彼らの人間性は、他人から受け、被った害の下に埋もれている。さもなくば彼ら自身が埋めてしまったのだ。意地悪く愚劣なSSから、カポー、政治犯、刑事犯、大名士、小名士をへて、普通の奴隷の囚人(ヘフトリング)に至るまで、ドイツ人がつくり出した狂気の位階に属するものはすべて、逆説的だが、同じ内面破壊を受けているという点で一致していた。/だがロレンツォは人間だった。彼の人間性には汚れがなく、純粋で、この否認の世界の外に留まっていた。ロレンツォのおかげで、私は自分が人間であるのを忘れなかったのだ。(148)
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Primo Levi "Se questo e un uomo / If This Is a Man / Survival in Auschwitz"
プリモ・レーヴィ、プリモ・レヴィ、竹山博英 訳
これが人間か、もしこれが人間ならば、これが人間であるのか
ファシズムの暴虐を告発する記録文学

6/6
プリーモ・レーヴィ『休戦』(朝日新聞社)を読む。
「アウシュヴィッツからの帰還 悲しくも愉快な冒険だった故郷トリーノへの旅の10ヵ月。広大で奇妙な国ロシアとその人々、無数の旅の仲間たち。混沌の中のヨーロッパ……。ユダヤ人レーヴィが、魂の回復の途上で出会ったのもの」と帯にある。
脇功 訳の早川書房(ハヤカワ・ノヴェルズ)版も所有しているのだが、
なんとなく読みやすそうな竹山博英 訳の朝日出版社版を選ぶ。
収容所から救われた後、故郷であるイタリアに帰るまでを描いた
『アウシュヴィッツは終わらない』の続編である。
著者はあらゆる場所でコミュニケーションを取ろうとするのだが、とにかく言葉が通じない。
ロシア人、ハンガリー人、ギリシャ人など、その言語の分裂具合は、
まるで、バベルの塔が崩壊した後の世界を見ているようである。
「アウシュビッツから出たら、外の世界は天国だった!」
というようなことがまったくないのだ。
それは、アウシュヴィッツ(やヒトラー、ナチ)だけに悪を押し付けたり、
善悪の二項対立だけで全てを理解した気になったりするような、
安易な「正義論」を厳しく律しているようでもある。
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フルビネクは三歳で、おそらくアウシュヴィッツで生まれ、木を見たことがなかった。彼は息を引き取るまで、人間の世界への入場を果たそうと、大人のように戦った。彼は野蛮な力によってそこから放逐されていたのだ。フルビネクには名前がなかったが、その細い腕にはやはりアウシュヴィッツの入れ墨が刻印されていた。フルビネクは一九四五年三月初旬に死んだ。彼は解放されたが、救済はされなかった。彼に関しては何も残っていない。彼の存在を証言するのは私のこの文章だけなのだ。(18)
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私たちは受け入れ準備のできている収容所への、短い、安全な旅を期待していた。それは家に代わる、満足すべき代替物であるはずだった。この希望はさらに大きな希望の一部をなしていた。つまり果てしない混乱と誤りと大虐殺が繰り返された後で、私たちが長い忍耐の時代を耐えた後で、公正な正しい世界が、本来あるべき土台の上に奇跡的に再構築される、という希望だった。これは善と悪、過去と現在というような、あまりにも明快な切り分け方に依拠する希望がすべてそうであるように、非常に無邪気なものであった。だが私たちはその希望の中で生きてきたのだ。この初めての亀裂と、その後の大小様々な、避け難い困難は、私たちの多くに苦しみを与えたが、それが予期できなかっただけ、苦痛もつのった。なぜなら人は何年も、何十年も、よりよい世界を、完璧なものと想像せずには夢見られないからだ。/だが現実はそうではなかった。わずかの賢者しか予見できなかったことが起きたのだ。自由が、あり得ない、不可能な自由が、アウシュヴィッツからはあまりにも遠くて、夢の中でだけであえて待ち望んだものが、ようやくやってきた。だがそれは私たちを約束の地には連れていかなかった。それは私たちのまわりにあったが、人気のない、無慈悲な平原という外貌をとっていた。私たちを別の試練が、別の労苦、別の飢え、別の寒さ、別の不安が待っていた。(36)
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理性ではなく、心の奥底の衝動に突き動かされている人物の行動を見るのは、非常に興味深いものだ。それは自然科学者が、複雑な本能を持つ動物の行動を観察する時に味わうのと同じ興味だ。(64)
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私がアウシュヴィッツで学んだことの中で最も重要だったのは、「誰でもいい人間」になるのを常に避けることだった。無用と見える人間にはすべての道が閉ざされ、何か役目を果たしているものには、それがどんなにつまらないことであっても、あらゆる道が開けていた。(67)
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Primo Levi "La tregua / The Truce / The Reawakening"
竹山博英 訳
朝日出版社版にのみ「学生版への序文」が付いている。
第一回カンピエッロ賞(The Premio Campiello)受賞作
フランチェスコ・ロージ監督『遥かなる帰郷』の原作
現代オデュッセイ譚、アウシュヴィッツ後日譚

6/7
Primo Levi『The Sixth Day and Other Tales』(Abacus)を読む。
SFチックな設定が印象的な短編集。
「何にでも使える複製器」や、「美の測定器」など、
NATCA社製の商品を売りに来るセールスマンの連作が面白い。
ドキュメンタリーのような今までの作風からは想像できない変貌ぶりである。
いや、だからこそ、レーヴィは書けたのだろう。
現実に近すぎない所に位置するSFや幻想的なものだからこそ、書けたのだろう。
そう考えると、どの短編も、現実から遊離したメタレベルから
世界を眺めているような気がする。
(ある短編で、セールスマンは「地球」を売っている。)
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when the hurricane blows it's the taller trees that fall.(50)
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He thought about one thing that he hadn't thought of for a long time, because he had suffered much : that pain cannnot be taken away, must not, because it is our guardian. Often it is a foolish guardian, because it is inflexible, it is faithful to its order with maniacal obstinacy, and never grows tired, whereas all other sensations grow tired, wear out, especially the pleasant ones. But one must not suppress it, silence it, because it is one with life, it is its custodian.(60)
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'Why would a living being want to die?'
'And why should it want to live?' Why should it always want to live?'
'Because ... well, I don't know, but we all want to live. We are alive because we want to live. It is characteristic property of living substance; I want to live, I have no doubt. Life is better than death: that seems an axiom to me.'(146)
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Life, you must understand, life is a single fabric, even though it has a right and a wrong side; it has bright days and dark days, it is an interweaving of defeats and victories, but it pays for itself, it is an inestimable good.(178)
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Damiano Malabaila "Storie naturali / Natural Stories"
ダミアーノ・マラバイラ『ひどく自然な物語』(未訳)バグッダ賞(the Premio Bagutta)受賞作。
Primo Levi "Vizio di forma / A Structural Defect"『形の欠陥』(未訳)

6/8
プリーモ・レーヴィ『周期律--元素追想』(工作舎)を読む。
「I・カルヴィーノ、U・エーコ絶賛! イタリア文学の至宝。『アウシュヴィッツは終わらない』の著者の至達点。」と帯にある。
イタロ・カルヴィーノ『マルコ・ポーロの見えない都市』や、
アラン・ライトマン『アインシュタインの夢』などと一緒くたに語られることが多いが、
構成以外は、まったくと言っていいほど似ていない。
上記の二冊は、章ごとに違った世界観を提示する幻想的な短編集だが、
本書は、それぞれの元素を起点にして著者の思い(出)を膨らませる自伝である。
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「ヴァナディウム」は、戦争が終わった後でも、加害者・被害者に関係なく、
今もなお記憶が人を傷つける様が描かれている。
イディッシュ語で書かれた冒頭の格言「過ぎ去った災難を語るのは楽しいことだ。」は、
レーヴィが自殺したことを考えた途端、大きな謎になる。
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私たちは物理学を一緒に勉強し始めた。私が当時もやもやと暖めていた考えを説明しようとすると、彼はびっくりした。人間が何万年もの間試行錯誤を繰り返して獲得した高貴さとは、物質を支配するところにあり、この高貴さに忠実でありたいからこそ、私は化学学部に入学した。物質に打ち勝つとはそれを理解することであり、物質を理解するには宇宙や我々自身を理解する必要がある。だから、この頃に、骨を折りながら解明しつつあったメンデレーエフの周期律こそが一編の詩であり、高校で飲みこんできたいかなる詩よりも荘重で高貴なのだった。それによく考えてみれば、韻すら踏んでいた。もし紙に書かれた世界と、実際の事物の世界との間に橋を、失われた輪を探すのなら、遠くで探す必要はなかった。アウテンリースの教科書に、煙でかすんだ実験室に、私たちの将来の仕事の中にあった。(67)
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蒸留はすてきな作業だ。何よりもまず、それは哲学的で静かな、ゆっくりとした仕事だからだ。それをしながらも、別のことを考えられる。自転車で走るのとよく似ていた。次に蒸留は物の姿を変える。液体から(目に見えない)蒸気に、そしてまた液体に戻る。だがこの往復運動で、つまり上にのぼり、下にさがることで、純粋な状態に達する。それは曖昧で魅惑的な状態で、化学から出発しながら、はるかなる彼方まで達するのだ。そして最後に、蒸留の作業を実際に始めると、もう何世紀もの間、宗教行為のようにして行なわれてきた儀式を繰り返しているという認識に達する。その作業の中で、不完全な物質から本質が、精髄が得られる。(92)
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助手は楽しんでいるような、かすかに皮肉をこめた目つきで私を見た。何かするよりもしないほうがいい、行動するよりも瞑想のほうがいい、悪臭と爆発と意味のない小さな秘密のこねあわせである私の化学よりも、不可知なものへの入り口である彼の宇宙物理学のほうがいい。私はより地に足を降ろした、より具体的な、別の種類の道徳について考えた。これは戦う化学者だったら誰でも確信していることだと思う。つまり、ほとんど同じ(ナトリウムはカリウムとほとんど同じである、だがナトリウムだったら何も起こらなかっただろう)、実質的には同一、おおよそ同じ、別の見方からは同じ、ということを信用しないこと、あらゆる代用品や応急処置を疑ってかかることだ。その差はわずかかもしれないが、鉄道のポイントのようにまったく別の結果をもたらすことがある。化学者の仕事の大部分は、この種の差に注意し、それをよく理解し、結果を予想することから成り立っている。だがそれは化学者だけの仕事ではないのだ。(97)
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私は虜囚状態から戻ってきて三ヶ月しかたってなく、苦しい人生を送っていた。この目で見て、耐え忍んだことがまだ心の中で生々しく燃えていた。生者よりも死者に近く、人間であることに罪があると感じていた。なぜならアウシュヴィッツを作ったのは人間で、アウシュヴィッツが何百万人という人たちを呑みこんでしまったからだ。(234)
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完璧とは、周知のように、物語られるべきことで、実生活で体験できるものではない。(327)
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すべての人が英雄として生まれるわけではなく、すべての人が彼のように正直で無気力である世界なら、彼の行動も認められるかもしれないが、そうした世界は現実にはありえない。現実には武装集団が存在し、アウシュヴィッツを作り、正直で無気力な人たちはその地ならしをしたのだった。だからこそアウシュヴィッツに対して、すべてのドイツ人が、そして人類全体が責任があり、アウシュヴィッツ以降は無気力であることは正当化できないのである。(340)
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竹山博英 訳、工作舎の文学、プラネタリー・クラシクス
プラート賞(The Premio Prato)受賞作
予定されていた続編『二重結合』は、
『星形スパナ』に素材の大半を使ってしまったため、書かれなかった。
Primo Levi "Il sistema periodico / The Periodic Table"
アルゴン、水素、亜鉛、鉄、カリウム、ニッケル、鉛、水銀、燐、金、セリウム、
クロム、硫黄、チタン、砒素、窒素、錫、ウラニウム、銀、ヴァナディウム、炭素

6/9
Primo Levi『The Monkey's Wrench』(A Penguin Book)を読む。
建築技師(construciton worker, rigger)の人生を、
語り手(writer-chemist)が聞くという形式で進行する読みきりタイプの連作短編集。
労働をめぐるドラマが、登場人物に没入しすぎることなく、淡々と描かれていく。
吊り橋を作った体験、猿真似をする猿、切ない初恋、化学物質が塵のように積もる機械、
などなど、とにかくモチーフがすばらしい。
読んでいて心が晴れ晴れする一冊。
今まで読んだレーヴィの中で、最高の出来映えである。
もしこれが邦訳されていたら、著者の評価は
かなり違ったものになっていただろう。
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one of the writer's great privileges is the possibility of remaining imprecise and vague, saying and not saying, inventing freely, beyond any rule of caution.(52)
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it often happens that a thing can be good in general and bad in particular(105)
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I don't remember the name now, but the place would be hard for me to forget, and the night we spent there. Not because we made love, but because of the rest of it.(131)
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Primo Levi "La chiave a stella / Wrench / The Monkey's Wrench"
『星型のスパナ/星形スパナ/モンキー・レンチ』(未訳)
ストレーガ賞(the Premio Strega)受賞作

6/12
Primo Levi『The Search for Roots: A Personal Anthology』(Ivan R. Dee)を読む。
カルヴィーノの Afterword によると、イタリアの出版社が、
「自分に影響を与えた作品ではなく、自分が必読だと判断した作品のアンソロジー」を
イタリアの作家数人に依頼したという。
それに応えたのはレーヴィだけで、結果、編み上がったのが本書である。
『ヨブ記(聖書)』『オデュッセイア(ホメロス)』『種の起源(ダーウィン)』
『ガリヴァー旅行記(スウィフト)』『ガルガンチュアとパンタグリュエル(ラブレー)』
『ヤコブ物語(T・マン)『白鯨(メルヴィル)』『物の本質について(ルクレティウス)』
『幸福論(ラッセル)』『詩集(ツェラン)』『サイエンティフィック・アメリカン(雑誌)』など、
小説(古典からSFまで)、詩、哲学書だけでなく、
教科書や科学雑誌など、幅広い分野から選ばれた30編を収録。
それぞれの引用の前に短いエッセイがあり、格好のイントロになっている。
カルヴィーノも評しているように、作品の並べ方が意外で、楽しめる。
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選ばれたものを見ると、レーヴィは、
平易な言葉で、淡々と書かれたものが好きなのだということがわかる。
バルザックやドストエフスキーは「読んでもほとんど益がなかった」のだという。
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There is a strange fate common to many cardinal books: they do not fall into oblivion but they come to expurgated to a greater or lesser degree, and are transmitted to posterity as books for children. Sometimes the process is acceptable, because a good book, being universal, is also a book for children; it is readable by all, even if different readers might discover in it different meanings. At other times the tampering is a falsification, or at best an exorcism: the devil is expunged from the book and nothing remains but a shell.(55)
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To what degree is it legitimate to exploit violence in literature? Thae there is a limit is certain; as soon as you cross it you fall into mortal sins, aetheticism, sadism, prostitution for the cannibalistic consumption of a certain public.(140)
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The idea of writing poetry 'for everyone' flirts with utopianism, but I feel distrust for whoever is a poet for the few, or for himself alone. To write is to transmit; what can you say if the message is coded and no one has the key? You can say that to trasmit this particular message, in this specific way, was necessary to the author, but with the rider that it is also useless to the rest of the world.(198)
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数あるレーヴィの著作で、最後に英訳されたもの。(2001年)
Primo Levi "La ricerca delle radici"『根源の探究』(未訳)

6/13
Primo Levi『Moments of Reprieve: A Memoir of Auschwitz』(Abacus)を読む。
「'One of the most important and gifted writers of our time' ITALO CALVINO」と表紙にある。
アウシュヴィッツで出会った人たちの一人一人に焦点を当て、
それぞれ10頁程度にまとめた短編集である。
どんな状況でも失われることのない人間の美徳を通して、
人間の中にある「光」を浮かび上がらせる。
これは、レーヴィによる人間賛歌である。
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表紙には、アウシュヴィッツへと通じる線路に、
雲間から差し込む幾条もの光が描かれており、本書の内容を的確に示している。
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At that time I worked as a "specialist" in a chemical laboratory inside the plant: there are things that I have written about elsewhere, but, stragely, with the passing of the years these memories do not fade, nor do they thin out. They become enriched with details I thought were forgotten, which sometimes aquire meaning in the light of other people's memories, from letters I receive or books I read.(88)
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It might be surprising that in the Camps one of the most frequent states of mind was curiosity. And yet, besides being frightened, humiliated, and desperate, we were curious: hungry for bread and also understand.(99)
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Primo Levi "Lilit e altri racconti"『リリス/リリト』(未訳)
"Lilit e altri raccorti" は誤記。

6/14
プリーモ・レーヴィ『今でなければいつ』(朝日新聞社)を読む。
「雪原を越え森に隠れ ウクライナからポーランドを転戦した伝説のユダヤ人パルチザンたち。アウシュヴィッツの作家レーヴィが描く大虐殺(ホロコースト)に抗した勇気ある男女の群像。」と帯にある。
非常に重い小説である。
多くの小説において、主要な登場人物は死なない。
それがお約束である。
だが、本書の登場人物たちは、いともあっけなく殺さる。
だぶん、これがレーヴィの考える戦争の現実なのだろう。
希望と絶望を同時に提示するラストには、言葉を失った。
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絶望には二つの防御手段しかない。働き、戦うことだ。だがいつもそれで十分であるわけではない。第三の手段がある。互いに嘘をつきあうことだ。みなこの罠にはまるのだ。(75)
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おれたちはみな何らか形でアベルを殺したカインなのだ。知らないうちに畑の真中で打ち殺してしまうのだ、彼に向かってすること、言うことで。彼に言うべきだが、言わずにおいたことで。(79)
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だがここでノヴォショールキの修道院の中庭で起きたことは語られない。この物語は虐殺を語るためのものでないのだ。(95)
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「おれはそうでなくて、ある人間が他の人間より優れているということに、意味があるとは思えない。ある人間がより強くて、頭が悪いこともある。より学問があっても、勇気がないこともある。あるいは気前がいいが、愚かものであったりする。つまりその人の価値は、その人に何を期待するかで決まる。ある人が仕事が良くできても、別の仕事をさせられたら、まったく役立たないことはありうる」(109)
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もしおれが自分のためにいないなら、おれは何ものなんだ?
もしこうでなければ、どうあればいい? もし今でなければ、いつ立つのか?(176)
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死体の山のところへ行き、燃えた木片を拾い上げ、家の白いしっくいの上に、ヘブライ語で「VNTNV」と、五つの大きな文字を書いたのだった。
「何て書いたんだ」とピョートルがたずねた。
「ヴナトゥヌ、そして彼らは返礼をする、という意味だ。いいか、左からも右からも同じように読めるんだ。つまり、だれもがすることができるし、やり返すこともできる、という意味なんだ」(245)
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「何人かのポーランド人が不当なしうちをしたからと言って、おまえたちまで正しい振る舞いを捨ててはいけない。我々全員が、おまえたちの敵ではなかったのだから」(264)
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「死ななかったことが恥ずかしいのよ」とフランシーヌは言った。「私もそうなの。ばかげているけど、恥ずかしいの。これを説明するのは難しい。他の人たちが自分の代わりに死んで行った、という印象だわ。自分には値しない特権のおかげで、死者に横暴に振る舞ったために、何の代価も支払わずに生き残った、と感じるのよ。生き残ったことは罪ではない。でも私たちはそう感じる」(326)
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しかし、メンデルやゲダーレを含めて、大部分は彼を信用し、部隊の武勲や個人的な出来事を語ったのだった。それは良く言われるように、「過ぎ去った災難を語るのは楽しい」からだった。この格言はすべての言葉で語られていたが、イディッシュ語で言うと特にぴったりすうのだった。(332)
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竹山博英 訳、今でなくていつ?
Primo Levi "Se non ora, quando? / If Not Now, When?"

6/15
Primo Levi『Other People's Trades』(ABACUS)を読む。
「'One of the most interesting books I have ever read --- by a great and good writer' OBSERVER」と表紙にある。
「自分の仕事(=アウシュヴィッツ、文学、化学)」ではない領域について書かれたエッセイ集。
「私の家」「月と私たち」「動物を作る」「見えない世界」「なぜ書くのか」
「預言者の失墜」「蜘蛛の恐怖」など、豊かな好奇心からあふれ出る多彩な視線と、
流れるような文章が魅力である。
「常識的」な人間であるレーヴィは、ひとつひとつのトピックを冷静に解き明かしていく。
数多くあるエッセイの中でも、本章は出色の作品である。
表紙にある書斎の写真もかっこいい。
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'Do you sometimes think that your problems might be solved by suicide?' Perhaps I do, perhaps I don't, at any rate I'm not going to come and tell you.(68)
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Our future is not written, it is not certain : we have awakened from a long sleep, and we have seen that the human condition is incompatible with certainty. No prophet dares any longer to reveal our tomorrow to us, and this, the eclipse of prophets, is a bitter but necessary medicine. We must build our own tomorrow, blindly, groupingly; build it from its roots without giving in to the temptation to recompose the shards of old shattered idols and without constructiong new ones.(95)
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To give a name to a thing is as gratifying as giving a name to an island, but it is also dangerous : the danger consists in one's becoming convinced that all is taken care of and that once named the phenomenon has also explained.(126)
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Primo Levi "L'Altrui mesiere"『他人の仕事 / 他人の職業』(未訳)

6/16
プリーモ・レーヴィ『溺れるものと救われるもの』(朝日新聞社)を読む。
「アウシュヴィッツの灰色の領域で/記憶を風化させる年月の流れ/犠牲者だけが過去に苦しみ/罪ある者は忘却に逃れる/●生存者レーヴィの40年後の自死--」と帯にある。
心をかき乱されることなく、アウシュヴィッツに触れることはできない。
本書も同様である。
二元論で語れるような白黒のはっきりした世界ではなく、
灰色の領域(=グレーゾーン)で、人々はどのように行動するのか。
そこでこそ、人の真価が試される。
道徳的であるということは、人を許す代わりに、自分を責め続けることなのか。
理解しようとしてはいけない。
動揺した感情だけが、道徳へとつながっているのだ。
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ここでは混乱、単純なフロイト主義、病的な固執、甘やかしといったものは必要ない。抑圧者は抑圧者であり、犠牲者はあくまでも犠牲者である。両者を交換することは不可能だし、抑圧者は罰されるべきで、憎まれるべきである。(だがもし可能なら、理解すべきでもある)。犠牲者は同情されるべきだし、援助されるべきでもある。しかし両者とも、取り返しのつかないような形で犯された犯罪の破廉恥さを目の当たりにしているので、両者とも隠れ家と防御手段を必要としている。そしてそれを本能的に探し求めている。全員ではないが、大部分のものがそうである。そしてしばしば一生そうするのである。(20)
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一般的に言って、ある特定の行為の実行を否定するのは難しい。あるいは、ある行為が実行されたことを否定するのは難しい。しかしある行為に導いた動機を偽ること、その行為をした時に感じた情熱を歪曲することはとてもやさしい。こうしたものは非常に変わりやすく、弱い圧力を受けただけでも簡単に姿を変えてしまう。「なぜそれをしたのか」、あるいは「それをしながら何を考えたのか」という質問には、信頼できる答えは存在しない。なぜなら精神状態というものは本来不安定なもので、その記憶はさらに不安定だからである。(26)
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私たち生き残りは自分の経験を理解し、他人に理解させることができたのだろうか。私たちが普通「理解する」という言葉で了解していることは、「単純化する」という言葉と一致している。根本的な単純化なしには、私たちの世界は際限のない、不明確なもつれあいと見えるだろう。それは私たちの方向感覚や、行動を決める能力に立ち向かってくるだろう。要するに私たちは認知可能なことを図式化するよう強制されている。私たちが進化の過程で作り上げた、人間に特有の素晴らしい道具、つまり言葉と概念的思考はこの目的を目指している。(33)
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私たち生き残りが自分の経験を話すと、しばしば相手がこう言うことがある。「私があなたの立場だったら、一日たりとももちこたえられなかっただろう」。こうした言い方は明確な意味を持たない。他人の立場に立つことなどできないからだ。個人とは非常に複雑なもので、その行動を予見するよう求めても無益だし、もし極限状態にあるなら、とりわけそうである。また自分自身の行動を予知することも不可能である。(62)
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人はある理由で不安を抱いていると信じたり、明言したりするが、それがまったく別の理由である場合がある。未来への不安で苦しんでいると信じていても、過去のことで苦しんでいる時もある。他人のために、慈悲心から、同情心から苦しんでいると信じていても、多少なりとも深層の、多少なりとも意識化可能な、そして意識化された自分自身の動機から苦しんでいる場合もある。(76)
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もっと一般的に言うなら、今日この場で支配的な尺度で、遠い時代や場所を判断することから生まれる誤りに注意する必要がある。これは時間的空間的に距離が開けば開くほど、避けるのが難しくなる誤りである。まさにこれが、私たち素人に、聖書やホメーロスの叙事詩、あるいはギリシア、ローマの古典の理解が困難になる理由である。(192)
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竹山博英 訳
Primo Levi "I sommersi e i salvati / The Drowned and the Saved"

6/19
Primo Levi『The Mirror Maker: Stories And Essays』(Schocken Books)を読む。
未発表の残滓を無理やり掻き集めたような印象があり、
全体のレベルはそれほど高くない。
どれも既視感のあるものばかりである。
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主人公が空を飛ぶ「The Great Muatation」や、
生きる希望を失い自殺する「The Two Flags」など、
自身の最期を暗示する短編に、虚を衝かれる。
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(…)but Memnone knew that the stone was lying, but he knew that this was the core of the art, give the lie to the lie.(53)
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Whether you are a believer or not, whether a "patriot" or not, if you are given a choice do not let youeself be seduced by material or intellectual interests, but choose from the field that which may render less painful and less dangerous the journey of your conteporaries, and of those who come after you. Don't hide behind the hypocrisy of neutral science : you are educated enough to be able to evaluate whether from the egg you are hatching will issue a dove or a cobra or a chimera or perhaps nothing at all. As for baic research, it can and must continue : if we were to abandon it, we would betray our nature and our nobility as "thinking reeds", and the human species would no longer have any reasons to exist.(175)
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Primo Levi "Racconti e saggi"『短編と評論』(未訳)

6/20
Primo Levi『Collected Poems』(faber and faber)を読む。
「Shema」「At an Uncertain Hour」に単行本未収録の詩を加えた決定版。
レーヴィは処女作に着手する前、詩を書きまくっていたらしい。
散文では見ることのできない、むき出しの感情があふれている。
拭い去ることのできない心の闇が、ここにはある。
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A day was just a day,
And seven make a week.
Killing seemed an evil thing to us;
Dying - something remote.(6)
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'Stand back, leave me alone, submerged people,
Go away, I haven't dispossessed anyone,
Haven't usurped anyone's bread
No one died in my place. No one.
Go back into your mist.
It's not my fault if I live and breathe,
Eat, drink, sleep and put on clothes.'(64)
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Continue the race, as best you can. We have
Combed the comets' mane,
Deciphered the secrets of origins,
Trampled the moon's sand,
Built Auschwitz and destroyed Hiroshima.
See : we have not remained inactive.
Take up the cause, perplexed one;
Don't call us teachers.(94)
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Primo Levi "L'Osteria di Brema / Shema"『ブレーメンの居酒屋』(未訳)The John Florio Prize
Primo Levi "Ad Ora Incerta / At an Uncertain Hour"『不定の時/いつとはなしに』(未訳)
Previously Uncollected Poems

6/21
マルコ・ベルポリーティ編『プリーモ・レーヴィは語る 言葉・記憶・希望』(青土社)を読む。
「真実は誰が語りうるのか/アウシュヴィッツからの奇跡の生還者プリーモ・レーヴィ。忘却の彼方から取り出された凄惨なホロコースト体験の記憶とは--。究極の惨劇の犠牲者のみが語りうる、絶望の中の希望、生きることの意味、人間の尊厳について、そしてユダヤ人国家など、最終発言」と帯にある。
どんなに不躾な質問であっても、率直にそして真摯に答えるレーヴィの姿が印象的なインタビュー集。
しかし、聞き手のせいなのか、編者のせいなのか、まとまりがなく散逸的な気がした。
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ラーゲルでの生活についての紋切り型のイメージが人びとの間には広まっています。よく学校に講演に呼ばれては受ける質問から分かりますね……。何と言うか、拷問やその類いの特殊なひどい事例ばかりを見ようとするのです。確かにそう言うこともありました。しかしそう言うことはあくまでも例外的なものだったのです。記憶に残されるべきなのに誰も憶えていないことは、もっと多くの人びとが、何十万と言う人びとがそこでたぶん拷問も受けずに生活していたと言う事実です。例えば私は一回も拷問を受けたことがありませんし、私の収容所仲間たちにも拷問された者はいませんでした。そしてそれにもかかわらず九五パーセントの者が死んだのです。拷問等受けずとも過労から、飢えから、あるいは赤痢で、寒さで、凍死して、そして過重労働のために死んで行ったのです。(44)
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理性を信じると言うのは、自分の理性を信じることであって、理性が世界を、まして人間を統御すると言うことではありません。(113)
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G.N. あなたの表現で言うところの一九四五年〜四六年に「纏めて」詩作をされた時期は、アウシュヴィッツについてのあなたの出世作『これが人間であるのか』の草稿に先立つ時期ですよね?
P.L. 詩の方が先に来るんです。あれはイタリアに帰って来てから間もない頃でした。どんどん詩が浮かんで来て、それはもう、キノコがどんどん生えて来るその直中に身を置いたようなものでした。キノコもいつどこに生えてくるかは絶対予想できませんからね。
G.N. でも、アドルノは「アウシュヴィッツ以後には詩は書けない」と言っていましたよね。
P.L. 私の経験したのはちょうどその反対でした。あの当時、自分の中に重くのしかかっていたものを表現するには散文よりも詩の方が適切であるように思えたのです。ここで詩と言う時に頭にあるのは一切叙情的なものではありません。あの頃、出来ることならアドルノの言葉をこう言い換えたでしょうね。「アウシュヴィッツ以後はアウシュヴィッツ以外に付いての詩は書けない」と。(135)
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<ホロコースト>とは文字通り訳すと「すっかり燃えて」という意味で、神に捧げる動物の生贄の儀式のことを指します。この語が使われるようになった時はすごく嫌な感じがしたものですが、後日これを考えたのは他でもないヴィーゼルで、彼自身その後後悔して撤回したがったことを知りました。(231)
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救済か死かということは、神ではなく偶然によって決定されていたのです。ここで偶然のことを「神」と呼ぶことも出来ますが、と言うことは盲の神、聾の神であって、考慮する価値もないということです。(…)神と言うものは全能であるか、そうでなければ神ではありません。もし神が存在して、つまり全能なら、どうして悪を許すのでしょうか? 悪は存在し、悪は痛みです。従ってもし神が自分の勝手で善を悪にひっくり返したり、あるいは悪が地上に広がるがままにしておくのであれば、それは悪い神だと言うことです。でも悪い神という仮定はとてもいやなので、より簡単と思える仮定に従って、神の存在を否定することにしているんです。(345)
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人間を裁くのは意味のないことです。人間はその中に何でも入っている恐ろしい混合物です。賢者もいますし、気狂いも、人でなしも聖者もいます。私は人類全体に対する判断を下すことはいつも控えて来ました。ナチの人びとについてもそうです。私から見て、唯一行なってもいいと言える裁きは、それも万全の注意を期してのことですが、個人個人に対するものです。(349)
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我々の会見のたった九ヵ月後にレーヴィが階段の吹き抜けに落ちた時、世界中は驚きを隠せなかった。警察は自殺と断定したが、彼を知っていた者の多くはこの見方を受け入れなかった。いやそれどころかはっきりと異を唱え続けている。私の記憶ではあの階段の手摺りはとても低かったし、レーヴィがとても生き生きと熱く語ってくれたのを覚えている。彼を知っていた者は皆、彼が派手な行為が嫌いで絶対にしなかったことを指摘し、最近小さな手術を受けたレーヴィのことだから、気分が悪くなり目眩いがして、直前に郵便を配達して来た管理人を呼ぼうとして身を乗り出してバランスを失い落ちたのではないかと考えている。私はこれが真相だと思う。(リーザ・ソーディ(文)290)
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多木陽介 訳
Primo Levi, Marco Belpoliti "Conversazioni e interviste : 1963-1987"

6/22
Primo Levi『The Voice of Memory: Interviews, 1961-1987』(The New Press)を読む。
『Conversazioni e interviste : 1963-1987』に4つのをインタビューを追加し、英訳したもの。
『プリーモ・レーヴィは語る』にはないインタビューが、なんと15編もある。
前日に受けた違和感は、この本を読むことで解消された。
レーヴィは自分自身をケンタウルスにたとえているように、
さまざまな表情を使い分ける作家である。
そのため、ある程度の量を読みこなさないと全体像が見えてこない。
インタビューも例外ではなかった。
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telling a story is not the privilege of the writer. Everybody can do it, orally, verbally. Everybody should do it. Of course if you tell a story in writing you have some hope of reaching one thousand or ten thousand people. Verbally, perhaps only ten or twenty, but in this case you see their faces, and this is an advantage the writer does not have.(26)
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The first wave can be explained with reference to Adorno's famous statement that after Auschwitz to write poetry is barbaric. I would change it to : after Auschwitz it is barbaric to write poetry except about Auschwitz.(28)
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one cannot not communicate (...) Even silence itself means something. If a husband speaks and his wife remains silent, her silence is positively loaded with all sorts of meaning. But silence is a poor way of communicating... I can't stand writers like Samuel Beckett: it is the duty of every human being to communicate. The same goes for the likes of Ezra Pound: writing in Chinese simply showed a disrespect fot the reader.(42)
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Many, many things have been written and said on the significance of mountains and mountain-climbing, but none has been more simple and true than Levi's words: the freedom to make mistakes, to be master of your own destiny.(63)
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Yes, maybe it is a question of that assertion by Adorno, that 'after' Auschwitz there can be no more poetry, at least for those who were there; whilst it was still possible to write poetry 'on' Auschwitz - a heavy, dense poetry, like monten metal, that runs away and leaves you gutted.(88)
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In all probability this is how it was, and if so, it could not be more significant nor more sad. It is Hannah Arendt's thesis on the 'banality of evil'. Her idea is very close to what I'm saying, that the environment was much more important than intrinsic human nature. There were not monsters. I didn't see a single monster in my time in the camp. Instead I saw people like you and I who were acting in that way because there was Fascism, Nazism in Germany. Were some form of Fascism or Nazism to return, there would be people, like us, who would act in the same way, everywhere. And the same goes for the victims, for the particular behaviour of the victims about which so much has been said, most typically by young Israelis who object 'but we would never act that way'. They're right. They would not act that way. But if they had been born forty years earlier, they would have. They would have behaved exacly as the deported Jews -- and, it's worth adding, the deported Russians and Italians and the rest.(270)
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edited by Marco Belpoliti and Robert Gordon
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アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。
To write poetry after Auschwitz is barbaric.
After Auschwitz writing poetry is barbaric.
Writing poetry after Auschwitz is barbaric.
(Nach Auschwitz noch ein Gedicht zu schreiben ist barbarisch.)
It is impossible to write poetry after Auschwitz.

6/23
Levi and Regge『Conversations』(I.B.Tauris)を読む。
イントロは、Leviへの想いがあふれていて素晴らしいのだが、
肝心の対談は、Reggeが喋りすぎているせいで、Leviの人格がほとんで見えてこない。
(延々と2ページ以上にわたり、一人で話し続ける箇所がいくつかある。)
その辺を考慮してか、タイトルも「インタビュー」ではなく
「対談/会話」となっているのだろう。
話題は、「ユダヤ人→量子力学などの科学→SF」と多岐にわたる。
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Certainly one must know how to set aside feelings of sympathy or antipathy. Above all, sympathy. Sympathy is often a means of getting away with impetence. Italy is full of attractive people who are very simpatico and don't know their trade. Being able to evaluate the person in front of you is a basic operation -- to weigh him -- I imagine that also among physicians there are those who play the part.(23)
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I write poetry, without much believing in it ; as for prose, it seems to me the time has come to go up a new path, both in terms of theme and language.(63)
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Primo Levi e Tullio Regge "Dialogo"

6/26
Ferdinando Camon『Conversations with Primo Levi』(Marboro Press)。
短いながらも、レーヴィの全貌を伝えきることに成功した一冊。
もちろん、アウシュヴィッツというのはとてもつもなく大きな出来事ではある。
だが、それだけで、偉大な作家を語り尽くした気になるのは傲慢である。
化学者やSF作家としての面もきちんと捉えなければ、
レーヴィ文学の本質に触れることはできない。
本書は、レーヴィ文学への、格好の入門書である。
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I wrote because I felt the need to write. If you ask me to go further and find out what produced this need, I can't answer. I've had the feeling that for me the act of writng was equivalent to lying down on Freud's couch. I felt such an overpowering need to talk about it that I talked out loud.(41)
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There is Auschwitz, and so there cannot be God. [On the typescript, he added in pencil: I don't find a solution to this dilemma. I keep looking, but I don't find it.](68)
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Translated by John Shepley
Ferdinando Camon "Autoritratto di Primo Levi"
フェルディナンド・カモン『レーヴィとの対話』(未訳)

6/27
徐京植(ソ・キョンシク)『プリーモ・レーヴィへの旅』(朝日新聞社)を読む。
「生き残ったことの「罪」、人間であることの「恥」、それでもきっと「希望」はある--/アウシュヴィッツから生還し故郷トリノで再生したユダヤ人作家レーヴィ。あなたはなぜ死を選んだのか?」と帯にある。
レーヴィの生涯、著者の兄弟が在日として戦う日々、レーヴィの墓・家を訪れる旅。
これら3つが交錯する不思議な旅行記である。
プリーモ・レーヴィを神聖化しすぎている部分があるものの、
全体としてはぐいぐい読ませる迫力をもっている。
レーヴィの「唯一の正しい読み方」ではないかもしれないが、
「一人の真摯な読み方」として好感の持てる一冊。
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特定の人間集団に対するこの特異で徹底的な絶滅政策は今日、「ホロコースト」(holocaust)と呼ばれることが多い。その語源は、旧約聖書に記述のある「焼いて神前に捧げられているいけにえ」を意味するヘブライ語であるという。また、近年では「大破壊、破滅」を意味するヘブライ語「ショアー」(Shoah)が用いられることも多い。ただし、ウィーン生まれで、ダッハウとブーヘンヴァルトの強制収容所に投獄された経験をもつ精神分析者ブルーノ・ベテルハイムは、「ホロコースト」という呼称に異論を唱えている。古代の宗教的儀式を連想させる呼称を用いることは、ナチの犠牲者たちを「殉教者」と見なし、彼らの死を美化することにつながるというのである。(86)
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「アウシュヴィッツ」は比較不可能な「唯一無比」の出来事だという人たちがいるが、私の考えはすこし違う。「アウシュヴィッツ」は「比較可能」な出来事である。比較した上で導かれる答えは、それが、かつて人間が、また人間社会の制度が発揮しえた冷血と残忍の極限的な実例であるということである。
比較するということが問題なのではない。問題は、誰が、どんな動機で比較するかであろう。私が「アウシュヴィッツ」と韓国の監獄とを想像の中でつなぐのは、「アウシュヴィッツはここにもある、あそこにもある」といった類の言辞を弄してナチズムの犯罪を相対化する企みに加担するためではない。だが、韓国の監獄はアウシュヴィッツよりましだなどというつもりも私にはない。それは、そこに監禁され拷問されている当の者にとっては「唯一無比」なのだから。(109)
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「人間にはこんなことまではできないだろう」という通念、「人間ならここまで堕ちないはずだ」(『生き残ること』)という期待、それらが苦もなく裏切られた場所がアウシュヴィッツだった。そこは、「人間」という尺度が完膚なきまでに打ち砕かれた逆ユートピアであった。
生き残ったごく少数の人々は「強制収容所の地獄でさえ、滅ぼすことができなかった人間性」の証人であり、それ故に、彼ら自身が「アウシュヴィッツ以後」の時代における「人間」の尺度でもあるのだ。彼らは地上に現存した逆ユートピアの生き証人であるだけでなく、「人間」や「文明」といった観念が瓦礫となった後に、再び「人間」という尺度を再建する役割を負わされた人々である。(124)
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プリーモ・レーヴィが自殺しなかったら、すべてが単純明快であっただろう。
人生は、私たち一人一人によってではなく、アウシュヴィッツの生き残りであるレーヴィによって肯定されているのだ。あのような経験をした人が、なお人生を肯定している。そうである以上、私たちがあらためて何を悩む必要があろうか・・・・・・。ところが、その彼が、私たちを置き去りにしてこの世から消えてしまったのである。(143)
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私の「ミュラー」もまた、私に、「なぜ、そんなに不安そうにしているのですか?」と、一見誠実そうな無頓着さで尋ねるのだ。あるいは、「なぜ、そんなに怒っているのですか?」とか、「なぜ、悲しんでいるのですか?」とか・・・・・・。不安や怒りや悲しみの原因に自分自身もかかわっているかもしれないなどと、彼らは想像もしてみないのである。
彼らはたいてい、自分のことをヒューマニストで平和愛好家だと堅く信じている。話していてくつろいでくると、韓国に旅行したことがあるとか、親しい友人に「在日の人」がいるとか言い始める。自分は自分を日本人だと思ったことはないとか、自分は「在日日本人」だとか、理屈に合わないことを言う場合もある。だが、しばらくすると、いったいいつまで謝ればいいんですかね、と日頃の疑問をちらりと口に出してみる。そして、こちらが何か言おうとする前に、いまや「国際化」の時代なんだからお互いに「未来志向」で「共生」していかなければいけないと、空疎なキーワードを並べ立てるのである。(168)
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平野新介「プリーモ・レーヴィが帰ってきた」(『SPAZIO』第57号、ジェトロニクス・オリベッティ)、
富山太佳夫「ポスト・モダンの文学★5 プリモ・レーヴィ」(『ユリイカ』1988年7月号、青土社)、
平山令二「ホロコーストの文学--プリーモ・レーヴィ、エリ・ヴィーゼル、ジョージ・タボーリ」(『世界文学』(92) [2000.12])、
筒井雪路「プリモ・レヴィ(1919-1987)メモ」(『世界文学』(通号 88) [1998.12])、
中野英世「プリーモ・レーヴィに始まる旅の途上にて〜NHK「わが心の旅 過ぎ去らない証人」〜」(『映画テレビ技術』(609) [2003.5])、
Winfried Georg Sebald(小川保博 訳)「ジャン・アメリーとプリーモ・レーヴィ」『平和文化研究』26 [2004])も国会図書館からコピーを取り寄せて読む。
平山令二とW.G.ゼーバルトの論文が、レーヴィの深い心理にまで入り込んでいて、面白い。
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ホロコーストをテーマとしたタボーリのドラマを3作見てきたが、両親がホロコーストにさらされたタボーリはもっと個人的に深刻に作品化することもできたであろうが、彼は意識的に「異化効果」を採用し、観客を(そして自らを)感情移入から遠ざけようとする。「笑い」さえも舞台にあげようとする。この背景には、自らも含めホロコーストを直接に体験していない者たちが、ホロコーストにどう対したらいいのか、という問題意識があったように見える。それは、ホロコーストの犠牲者に安易に感情移入することは危険でもある、という意識でもある。あるところで、タボーリは書いている。「死者たちの苦しみに同上をかきたてようとすることは、死者を侮辱することになるだろう。・・・ホロコーストは涙とまるでかかわりのない出来事なのだから。」(」(『世界文学』[2000.12]16)
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まるでレーヴィの気持ちが、ジャン・アメリーの死を目の当たりにして、まずなにより自分自身を確かめることに向かったかのようである。なぜなら彼は、可能な死に方にすでに長く心を奪われていたアメリーとはまったく違って、生きることにもう一度意味を認めて、その意味があれば、自分もひょっとして内に感じていたかもしれないかの最終的なことから自分が守られるであろう、と期待していたからである。(『平和文化研究』26,106)

6/28
パトリック・セリー『名人と蠍』(飛鳥新社)を読む。
「ナチスの迫害によって内面に破綻をきたしたチェスの名人が、郵便で行われる世界選手権者との通信チェスで、偶然奇跡的な妙手を発見し、茫然とする。これは罠ではないのか? あれほど狡猾で用心深い男がミスを犯すはずがない。早く勝ちたい、いや話がうますぎる。
私は、升田対大山の名勝負を見ているように感じた。升田はこのチェスの名人とあまりに似ている。大山が勝った理由、升田が勝てなかった理由、それは天才の内面にあると教えられた。日本将棋連盟棋士・六段 河口俊彦」と帯にある。
かなり多くの文献を読み込んだのだろう、
収容所という難しいテーマを丹念に描写している。
それならなぜ、ああいうふうな結末にしてしまったのだろう。
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この期に及んでいったい何を信じられるというのだろう。かつて若い頃、私は信じたほうがいいと勧められたものはすべて信じていた。愛、友情、自由、美しい人生。ドイツも信じていたし、ときには天国さえ信じていた。その頃なら、神さえ信じ、そうすることが何かの役に立つようにと祈り、念じることさえいとわなかった。だが世界は大口を開けているだけ、神々は耳を持たなかった。至高の存在がどうしてこんなことを黙ってさせておくのか。私が心の奥底に持っていたオプティミズムの瓶の栓は永久に飛んでいってしまったのだ。(46)
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長いこと彼は何をすべきかと案じだが、それに値するようなことは何も思い浮かばなかった。愛することだ、と彼の守護神がささやいた。愛、なるほど、万能の特効薬か! だがこの期に及んで何を愛すればよいのだ? 愛するということは物事の真ん中に立つということだ、しかるに自分は外にいる。人の世からすっかりはぐれてしまった彼には、社会生活の新しい方程式をあみ出すことなどできそうになかった。持ち前の明晰さでそれを懸命に分析してみたものの、明晰さなど結局は身の破滅を招く悪徳にすぎなかった。(62)
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せめて物事がもっと単純で、主人のキャンプと奴隷のキャンプの二つしかないのであれば、どれだけ楽だっただろう。不幸のなかでは、人ははっきりと白黒で区別できる世界を求めるものだ。さてそれがかなわぬとなれば、われわれのほんとうの仲間はどこにいるのか? 友と敵を分割する線はどこにあるのか? つまり、曖昧で見分けのつかない灰色の地帯の真っ只中で、一見するとわれわれの世界に含まれているように見えて、実はそれとは相対する世界の中で、別のゲームに興じている人びとがいたのだ。あるいは同じゲームであっても、我々には未知のまったく異なる規則に準じたゲームといってもいい。
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人間は白だろうか、黒だろうか? たいていは灰色なんだ。収容所、それは世界の夜であり、闇夜の猫はどれも灰色なんだ。(165)
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なぜ中世では蠍がユダヤ人のシンボルだったのか? 油断がならないから? 砂漠でも生き延びられるから? いや、ちがう、蠍はその死の武器を自分に対して向けることのできる唯一の動物だからだ。自殺することができるのはユダヤ人だけだ。彼らの理性はすばらしい、太古の黎明から過誤の重みを負わされてきたゆえに、それだけすみやかに深淵へと落ちてゆくのだ。(286)
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高橋啓 訳
Patrick Sery "Le Maitre et le Scorpion"

6/29
アンネ・フランク『アンネの日記 増補新訂版』(文春文庫)を読む。
「21世紀に読みつがれるべき<決定版>「だって、いつも夢想しているのは、ほかのおかあさんを持つことなんですから。」…/新たに見つかった日記には、思春期の少女の無垢な怒りが赤裸々につづられていた。/ルビを大幅に増やして、中学生からお読みいただけます」と帯にある。
<短縮版>でも、<完全版>でも、<研究版>でもなく、<新訂版(=決定版)>である。
アンネのような未来をもった子供たちが、戦争によってその可能性を奪われたというのは、
もちろん、痛ましいことであるし、伝えなければならないことだとは思うが、
このスタンスを取り続けている限り、善悪の二元論を超えることはできない。
母への憎悪や、性の目覚めなど、イノセントなアンネを崩したという点で、
<増補新訂版>の出版は大きな意義があったと言える。
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とにかく、これでひとつ勉強しました。ほんとうに他人の人柄がわかるのは、そのひとと大喧嘩したときだということです。そのときこそはじめて、そのひとの真の人格が判断できるんです!(86)
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いま、過去一年半の日記を読みかえしてみると、よくもまあこんなに無邪気な子供っぽいことが書けたものだと、あきれてしまいます。たとえどんなにそれを望んでも、二度とけっしてこういう自分にはもどれないだろう、そう思わずにはいられません。(110)
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だれかが外からはいってきて、その服に風のにおいがしたり、頬が寒風で紅潮していたりすると、わたしはつい、「いったいいつになったらわたしは、新鮮な空気のにおいを嗅ぐなんて贅沢が許されるんだろう」なんて思ってしまいます。そんなとき、それを忘れようと、毛布に顔をうずめたりしてはいけない。むしろその逆に、頭を高くもたげ、雄々しくふるまわなくてはいけないのですから、おのずとこういう考えが、それも一度ならず、何度となく浮かんでくることになるのです。(264)
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人間って、変わるときには、あとになってから、はじめて変わったことに気がつくんですね。わたしも変わりました。それも徹底的に、根本的に、全面的に。わたしの見解、理念、批判的な見かた--外見的にも、内面的にも、すべてががらりと変わりましたし、それも、いいほうへ変わったと、これは事実ですから、はっきり申しあげられます。(411)
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わたしたちがこういったもろもろの苦難に堪え抜き、やがて戦争が終わったときにも、もしまだユダヤ人が生き残っていたならば、そのときこそユダヤ人は、破滅を運命づけれられた民族としてではなく、世のお手本として称賛されるでしょう。(453)
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ごく正直に言うと、「自分は弱い性格だ」と言いながら、それで平然としていられるのって、わたしにはとても考えられません。それがわかってるんなら、なぜそれと闘おうとしないんでしょう? なぜその性格を鍛えなおそうとしないんでしょう? 答えはこうです。「このままでいるほうがずっと楽だから!」この答えには、少々失望せざるをえません。楽だから? ということは怠惰な、虚偽に満ちた生涯のほうが、楽な生きかただとでもいうんでしょうか。(559)
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深町眞理子 訳、アンネ・フランクの日記、ヘト・アハテルハイス、後ろの家、隠れ家
ザ・ダイアリー・オブ・ア・ヤング・ガール、ある少女の日記、一少女の日記
Anne Frank "Anne Frank Diary / The Diary of Anne Frank / The Diary of a Young Girl"
"De Dagboeken van Anne Frank / Het Achterhuis Dagboekbrieven 14 Juni 1942 - 1 Augustus 1944"
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アンネ・フランク『アンネの童話』(文春文庫)を読む。
日記には収録されなかった童話とエッセイを集めたもの。
文章はこなれていないし、内容もありきたりなのだが、
「狭いこの隠れ家から抜け出したい!」という想いだけは、はっきりと伝わってくる。
そう考えると、本書はロマンティシズムの変種なのかもしれない。
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うす暗い空の下、花の咲きこぼれる野原のまんなかでクリスタは満足しきっています。疲れは消え、市場も消え、人々も消え去ります。この小さい娘は、ひとりきりになって神様や自然といっしょにいられる、天国のようなひとときを毎日持てますようにと、ひたすら願って夢見るのです。(52)
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「関心のない人と争うのは馬鹿げているけど、気にかけている人と言い争うのは別よ。あなたはその人たちが好きなの。だからその人たちがあなたを怒らせると、それ以上にあなたを傷つけることになるんだわ」
「ほんとうにそう思う? でもきみは喧嘩なんかしないよな?」
「しないけど知ってるわ。喧嘩のいちばん悪い点はこの世でひとりぼっちになること」(184)
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中川李枝子 訳、アンネ・フランクの隠れ家からの物語集
Anne Frank "Verhaaltjes, en gebeurtenissen uit het Achterhuis"

6/30
ミープ・ヒース、アリスン・レスリー・ゴールド『思い出のアンネ・フランク』(文春文庫)を読む。
「丸2年と4週間 パンとミルク 花と本を 隠れ家に届けた勇気ある女性」と帯にある。
アンネをかくまった女性による回想記。
ひらすた事実を並べ立てるという叙事的な記述が、
殺伐とした時代の雰囲気を醸し出すことに成功している。
一貫して被害者目線で書かれているため、
「時代が、ドイツが、ナチが、悪かった」という類型的な結論に陥ってしまっているのが残念。
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目が細められ、その目がまじまじとわたしの顔を凝視した。まるで、わたしの顔のあらゆる特徴を見覚えておこうとするようだった。その恥知らずなナチの目に、思い切り侮蔑の表情を向けてやることで、わたしはひそかに快哉を叫んだ。見たければじっくりこの顔を見せてやろう。そして“アーリア人の”なかにも、ナチの潮流に巻き込まれまいとしているものがいること、それを彼女自身の目で見てとらせよう。(65)
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わたしたちから見れば、ふたつの立場しかなかった。“正しい”人たち、どんなことがあってもナチに抵抗する忠実なオランダ人たちと、“誤った”人たち、ナチに協力するか同調する人たち、このふたつだ。中間は存在しない。(88)
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強制収容所から帰ってきたユダヤ人たちは、全員が腕に青い番号を入れ墨されていた。子供たちのなかには、長らく家族とひきはなされていたため、誕生日や名前を覚えていないものもいて、そのため肉親を探せなかったり、再会できても、肉親が見わけられなかったりした。(335)
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深町真理子 訳
Miep Gies with Alison Leslie Gold "Anne Frank Remembered"
"Anne Frank Remembered : The Story of the Woman Who Hid the Frank Family"
"Anne Frank Remembered : The Story of the Woman Who Helped to Hide the Frank Family"
"Anne Frank Remembered : The Story of the Woman Who Hide the Anne Furank Family"は誤記
1998年クリストファー賞受賞作
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アリソン・レスリー・ゴールド『もうひとつの『アンネの日記』』(講談社)を読む。
「幼なじみが語った、アンネ・フランクの思い出。書かれなかったこと。書けなかったこと。いま、明かされる、『アンネの日記』のうしなわれた言葉。第46回産経児童出版文化賞大賞受賞」と帯にある。
前著(=『思い出のアンネ・フランク』)では陰に隠れていたアンネの幼馴染による回想記。
収容所に囚われたアンネを描いたという点で、貴重な一冊。
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だれもが、食べ物のことばかり話すようになりました。ほかのことは考えられなくなっていたのです。子どものためにパンを盗む者もいましたが、自分のために子どもからパンを盗む者もいました。(111)
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となりの村の農場では、収容所の生き残りの人々がふんだんにある食べ物に目がくらんでしまったそうです。そして、食べすぎて、下痢で死んだ者も出たのだそうです。(160)
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さくまゆみこ 訳
Alison Leslie Gold "Memories of Anne Frank : Reflections of a Childhood Friend"

7/3
メリッサ・ミュラー『アンネの伝記』(文春文庫)を読む。
「<伝説の少女>の全貌に迫る世界的話題作 新発見の日記 5頁分には何が書かれていたか 隠れ家を密告したのは誰か…… 関係者のその後も徹底追跡!」と帯にある。
「第九章 死地への最終列車」は、面白かったが、
それ以外の描写はおしなべて退屈である。
誰が密告したか、なんてことよりも、考えるべき問題が他にあると思うのだが。
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良い人間と悪い人間には共通点が一つある。まちがいを犯すことだ。でも良い人間は自分のまちがいを認めて、ほかの人たちとそれについて話しあい、そこから物事を学ぶ。(165)
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ナチ首脳たちがヨーロッパのユダヤ人に対して最終的に思いついた結論は、すべての人の予想を裏切るほどの、まさに想像を絶するものだった。だから「これ以上悪い事態が発生しない限り・・・・・・」という希望の言葉は、この時点ですでに、各人が生きる意味を保持するのに必要とした非現実的なエネルギー源であり、神か正義が、あるいはまた人間の理性がタイミングよく介入してくれるだろうとか、戦争が急転回するに決まっているといった、深い信頼の表現だった。(202)
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アンネがアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所でどんな様子だったのか、それについてはほとんど分かっていない。彼女に出会った女性たちの記憶では、静かに考えこみ、残酷な場面をどう理解したらいいか、それが分からなくて困惑していたという。また、ガス室に連行されてゆく子どもを見ると、泣いていたと。だがその一方で、勇敢で強かった、例の親切心で周囲を明るくし、母とマルゴーにパンを余分に調達してきた、と証言する人たちもいる。どちらか一方だけが正しいということはないだろう。(378)
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アンネはホロコーストで犠牲になった六百万ユダヤ人の象徴だ、とはよく耳にする言葉ですが、このようないい方はまちがいだと思うのです。アンネの生と死は、一人の人間の生と死でした。六百万人の人々のそれぞれに、それぞれの生と死がありました。アンネは、ナチによって生命を奪われた六百万の人々の代表となることはできません。また、そうすべきでもありません。どの犠牲者も、一人一人がそれぞれの世界観と理想をもった別個の存在でした。どの犠牲者も、家族や友人にとってかけがえのない価値をもった存在した。(「ミープ・ヒースのあとがき」448)
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畔上司 訳
Melissa Muller "Das Madchen Anne Frank"

7/4
ジャクリーヌ・“ヨーピー”・ファン・マールセン『アンネとヨーピー わが友アンネと思春期をともに生きて』(文藝春秋)を読む。
「思春期の秘密を共有した一番の親友/「アンネの日記」の謎を初めて明かす」と帯にある。
アンネの知られざる姿を伝えている前半は凡庸。
『アンネの日記』に醜く群がる人々(=アンネ・フランク・カルト)を
痛烈に批判している後半が、本書における白眉である。
アンネという存在は、もちろん感動的である。
ただ、そのあまりに商業的すぎる取り上げ方に食傷気味だったので、
ヨーピーの主張(=人柄)は新鮮に感じた。
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わたし自身は、この問題でつねに表面に出るのを嫌い、寡黙を通してきたけれど、それというのも、強制収容所で無残に殺された友達との関連で名が出るのなど、わたしのいさぎよしとするところではなかったからだ。わたしとしては、この“特別の友情”のおかげでちやほやされるのではなく、わたし自身として、わたしの個性によって、周囲の人たちから好かれたかったのである。(105)
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だれかがアンネについて語ることによって、自分も脚光を浴びようとする現象、この現象にわたしが遭遇したのは、じつにこのときが最初だった。そしてそれは時とともに目に余るようになっていった。アンネとは知り合いでもなんでもなかった人たち、彼女に会ったことさえ一度もなかった人たち、そういう人たちまでが、ありとあらゆる嘘八百をでっちあげはじめていた。(115)
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深町真理子 訳、ジャクリーヌ・ファン・マールセン
Jacqueline Van Maarsen "Anne en Jopie"

7/5
ティル・バスティアン『アウシュヴィッツと<アウシュヴィッツの嘘>』(白水社)を読む。
「大量虐殺と歴史の偽造の両面を解説 アウシュヴィッツの基本図書」と帯にある。
ホロコーストの概略である「第1部 アウシュヴィッツの絶滅収容所」、
否定論に効果的に反駁した「第2部 「アウシュヴィッツの嘘」―大量虐殺とその否定」
の2部構成からなる原書に、
マルコ・ポーロ事件の解説「第3部 「アウシュヴィッツの嘘」のその後」
を日本語版オリジナルとして追加したもの。
少ないページ数ながらも、大変よくまとまっている。
帯にあるとおり、まさに「基本図書」である。
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実際、頑迷なアウシュヴィッツ否定論者はどんな反論にも納得しない。しかし問題なのは、自分に知識が不足しているがために、寛容な態度や公平な見方をしているつもりで、彼らの言うことにも一理あるかもしれない、と動揺する人々のほうである。そうした者たちには、--ドイツの劇作家ベルトルト・ブレヒトの有名な文章を借りれば--、もう一回言っておけばよかったと後で後悔しないように、何千回も言われ尽くしたようなことでももう一度言わねばならない。つまり我々はナチズムの蛮行の実態を、それを隠蔽しようとするイデオロギーと繰り返し対決させねばならない。(89)
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こうして、アウシュヴィッツの「荷降場での選別」から半世紀がたった現在、邪悪な種子はエセ学問という肥料をえて芽を出している。だが、思索好きの観察者はそのことに驚きもしない。アウトバーン建設はもちろん、当時は女性が夜の暗やみでも外を歩けた、などと「ヒトラー時代」の良い面を--良心に反して--見い出そうとするようなドイツ人の精神生活が、あまりにも長く続きすぎた。(103)
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長年にわたってドイツの重荷となってきたのは、この国が過去の出来事に関して口を閉ざしてきたことである。復興のために奔走し、消耗し、経済の奇跡によって購買欲だけがかきたてられ、「ヒトラー時代」は封印されてきた。その果てに言われた台詞は「我々もまた一人前になれたんだなあ」であった。(107)
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ナチ支配による犠牲者のことを想起せよ、といわれればかならず、連合国によるドレースデンへの無差別爆撃や、とりわけ戦後の東方からのドイツ人「難民」の辛苦、犠牲はどうなんだ、と応酬し、ナチズムと「東」のスターリン主義を併置することによって、ドイツの「罪」を相殺しようとする、(西)ドイツ社会に根強い「相殺メンタリティー」が、<アウシュヴィッツの嘘>法に色濃く反映している。(芝野129)
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歴史学にとって史料の検証ほど大切なものはない。ナチズムやホロコーストに関する研究も、無数の史料の緻密な分析のうえに真摯な議論が重ねられ、いまや次第にその全貌が明らかになりつつある。「驚愕の新事実!」と銘打った西岡氏の論説記事に、こうした意味での新たな論議のきっかけになりうる史料や論点が含まれていただろうか。汗牛充棟の研究文献を隈なく検討し、文書館等での史料狩猟に努め、精緻な史料批判を行うという、歴史研究者が当然のこととしてきた作業を省略したまま、戦後の「歴史家」が語り続けてきた「歴史」は「余りにも事実とかけはなれたものだった」と強弁されても、説得力はなかろう。(石田152)
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Till Bastian "Auschwitz und die "Auschwitz-Luge""
石田勇治・星乃治彦・芝野由和 編著
ホロコースト(Holocaust)、ショアー(Shoah、die Shoah)、ジェノサイド(genocide)
ポグロム、絶滅・根絶(Vernichtung)、破局
Holocaust revisionist、ホロコースト・リビジョニスト、リヴィジョニスト、修正主義者
Holocaust revisionism、ホロコースト修正主義、ホロコースト見直し論
Holocaust negationist、ホロコースト否定論者、ホロコースト否認論者、ネガショニスト
Holocaust negationism、Holocaust denial、ホロコースト否定論、ネガショニズム
historical revisionism、歴史修正主義

7/6
西岡昌紀「戦後世界史最大のタブー。ナチ「ガス室」はなかった。」を読む。
本稿が掲載された『マルコポーロ 1995年2月号』(文藝春秋)は、
ユダヤ人団体の抗議を受けたことにより回収、その後、廃刊に追い込まれた。
国会図書館に資料請求しても、「落丁・乱丁のため」手に入れることができない
曰く付きの「論文」である。
以下の引用が、自己批判になっているので、多くは書かない。
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しかし、気が付いて欲しいことは、このように証拠能力のない「物証」も、マスメディアが伝えると、「物証」のように思われてしまうということである。
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証言は、証言でしかない。しかし、一つの事柄について対立する証言がある時、物証も検証せずに、一方の「証言」だけを取り上げ、他方を検討すらしないというやり方が、正当なものといえるであろうか?
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真実は明らかにされなければならないし、虚構を語ることは許されないのである。
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西岡昌紀『アウシュウィッツ「ガス室」の真実』(日新報道)を読む。
帯はないが、見返し部分に、
「●●●様
 恵存 著者 西岡昌紀
 平成十五年九月十日(水)」とあるサイン本。
噴飯モノというより、失笑モノの一冊。
「本当の悲劇は何だったのか?」とカバーにあるが、
本書は、むしろ喜劇である。
-
「証言」とは選ばれるものであり、選ぶ側が公正な存在でなければ、真実を語った百の証言よりも、虚偽を語った一つの「証言」の方が大きく扱われることもある、ということです。私は、皆さんに、このことに気づいて頂きたいのです。(179)

7/7
木村愛二『アウシュヴィッツの争点』(リベルタ出版)を読む。
「ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために」と帯にある。
西岡昌紀よりも文章はうまいが、自信に満ち溢れたスタイルが変に疲れる。
徒労感だけが残る一冊。
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本物の理解に達するためには、複雑さをふまえたうえでの冷静かつ綿密な長期的論争が不可欠なのである。(17)
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簡略にいえば、わたしは「南京大虐殺」は事実だし、日本人が犯した戦争犯罪をさらに検証すべきだと考えている。「おなじではないか」論がすぐにでるのは、脳の記憶方式が、たとえでいえば便宜的な「パターン」分類に引き出しにわかれていて、両者が「民族虐殺」の項目に整理されているからである。古今東西、この便宜的な「パターン」認識の隙間を突くのが、手品、忍術、カモフラージュの技術である。誤解、思いこみ、考えちがい、といった日常普段の錯覚の延長線上にこそ、情報操作の磨きぬかれた技術があるのだから、個別の事件全体の総点検によって、相違点をも明らかにする努力が必要なのである。(28)
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農業技術者だったロックは、フォーリソンの仕事に刺激をうけて研究をはじめ、この著作のもとになった論文でナント大学から博士号をうけた。ところがロックは、なんと[ダジャレをとばす場合ではないが]、「フランスの大学の約八世紀にわたる歴史のなかで、政府によって博士号を“とりあげられた”最初の男になった」のである。(141)

7/10
デボラ・E・リップシュタット『ホロコーストの真実 大量虐殺否定者たちの嘘ともくろみ(上・下)』(恒友出版)を読む。
「「ユダヤ陰謀論者」の正体を暴く!/ホロコースト、ガス室、『アンネの日記』をでっちあげとし、ヒトラーを擁護、ナチスドイツの戦争責任をあいまいにしようとする人たち。南京大虐殺の否定、「ヒロシマ・ナガサキ」、侵略戦争の正当化、破壊的カルトの歴史観などに共通する、信じがたい虚偽のルーツを斬る!否定説の悪意に免疫のない日本で、初めて出版される画期的な本。/雑誌「マルコポーロ」廃刊事件の核心を衝く」(上)、
「歴史的事実の歪曲は許されない。/反ユダヤ主義者、ネオナチなどの極右勢力、国家社会主義の画策を暴き、ホロコースト否定者たちが吹聴する嘘を全面的に論破する。アメリカの歴史学者が警告する「否定説の罠」。否定説の悪意に免疫のない日本で、初めて出版される画期的な本。/すべてを「ユダヤ陰謀説」に結びつける勢力」(下)とそれぞれ帯にある。
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本書で最も興味を引いたのは、2項対立の弱点を衝いた部分である。
理想的に考えれば、あらゆる物事について、自分と反対の意見を
尊重しなければならないはずであるが、著者はそれを否定する。
どんなに荒唐無稽な主張でも、同じ舞台に上げることで、
相手が論ずるに値する「まともな」意見を持っているという印象を与えてしまうのだ。
(このことに意識的である「否定論者」は、「某大教授」、「某賞を受賞」、「数多くが邦訳」など、
あらゆる手段を講じて論者の権威づけを行っている。)
著者は、アメリカの大学などで起きた事件を実例として、
人間がいかに真実を見抜く力を欠いているか、を証明している。
もちろん、どれが「まとも」で、どれが「まとも」でないかを判別するのは
困難を極める作業であり、細心の注意を払わなければならないのだけれども。
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本書が出版されてから、アメリカの全国ネットで放映されるテレビのトークショーに、あちこちから招かれた。番組に否定者が出演する場合、私ははっきりと参加を断った。追い追い説明するが、否定者は、論点が真っ二つに割れていて、自分たちがその“一方の立場”にあると認知されたいのである。同じ舞台に彼らと一緒に登場すると、その地位を認めてしまうことになる。私に再考を促した人々は、もし私が出演を拒否すると、反論も受けつけないまま否定者が自己の主張を開陳し、勝手におだをあげて終るのを恐れたのである。
実際のところは、私がこのような番組への出演を断ると、プロデューサーはホロコーストをテーマとする論争番組の構想を放棄した。つまり、否定者との論争拒否は、正当な見解の持ち主として対等の立場にたとうとする彼らの願望を、くじいてしまうのだ。(上18)
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誤解のないように、はっきり言っておこう。否定者には、町かどに立って中傷をひろめる権利はある。パンフや図書を出版し、集会を開く権利はある。しかし、言論の自由は、彼らが二つに割れた論争の“片方”として扱われる権利を、保障しない。それはまた、意見広告のスペースや、テレビやラジオ番組の時間を、保証しない。さらに、いちばん肝心な点だが、それは、チョムスキーのような人間が彼らの側に立ち、彼らの意見を大衆に向かって推薦することを、要求しないのである。(66)
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答えははっきりしている。彼の過去こそ、選挙に出ようとする願望とおおいにかかわりがある。過去が現在の彼を形成し、現在の彼は過去の延長上にある。歴史が現在にかかわることが、これほどはっきりと示された事件はない(これは例外的な出来事ではない。例えば、非構造主義の創設者のひとりである故ポール・デマンも、自分の過去をいつわり、己れの個人史を書き変えていた)。(上90)
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あちこちで馬脚をあらわすアップの証拠処理法は、目撃証人に関するラシニェの対処法を思わせる。それは、自分の結論と矛盾する証拠を一蹴する、否定者の常套手段である。最終解決の存在を認めたナチスの宣誓供述書は、ことごとく“まったくのデタラメ”と決めつけ、大量虐殺に関するユダヤ人の証言も、「一部ないしは全部が偽証であり、金めあてのものが多く、全然信用できない」としてすべて一蹴してしまう。(上224)
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フォーリソンから離反した後、プルサックは自分が彼に惹かれたのはその理論ではなく、信じ難いことをうまく言い抜ける能力にあったのだ、と悟った。これが否定者の切り札なのである。大々的な調査にもかかわらず、基本的には非合理的なまま疑問が残るのに対して、彼らは合理化した説明しかしない。つまり、あり得ないと言うのである。プルサックは、否定者の理論を文献分析に照らして考えたとき、それが科学的な欠陥を持つだけでないことを知った。その理論は、否定したいこととは逆の証明になる多量の証拠を、無視するのである。(下103)
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信頼性がまったくないのに、否定者がロイヒターの話を繰り返せるというのは、真実がフィクションよりもはるかに脆く、理性だけではそれを守れないことを示唆している。(下117)
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確かに、新たに明らかになった資料によって、研究者はアウシュビッツで殺害されたユダヤ人の数をより正確に計算できるようになったし、戦時中の噂と違って、ナチスはユダヤ人の死体を石鹸生産用に使ってなかった。前から研究者が認めていることだ。(下129)
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学生リーダーとオピニオン・メーカーの多くは、ホロコースト否定の本質を見抜けなかった。これがもっとも由々しい問題である。どんなにいやらしいものであっても、その広告には独特の考え方があり、討論の価値があると論じた者に、特にそれが言える。本質を見抜けなかったことは、将来に憂慮すべき問題を残す。巧妙にカモフラージュし、工夫をこらして、ホロコースト否定は、次の世代の間に、強力な強頭堡を築く可能性がある。(下167)
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これら歴史学者たちが唱える同列化、相対化は、ホロコーストにはあてはまらない。すべてが同じであり、規模が違うだけと主張するのは、歴史の歪曲である。アメリカの破壊的な対ベトナム政策やソ連の対アフガニスタン非合法占領はジェノサイドに同じ、と唱えるのは、一方通行の主張であり、比較にはならない。意味のない不毛の比較には、狙いがある。 つまり、ドイツの行為は他人がやった無数の行為と大同小異、と認識させることで、過去を清算しようとするのである--本書で見てきたものとたいへんよく似た、憂慮すべき行動である。(下177)
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エモリー大学教授(アメリカ)デボラ・E・リップシュタット 著
中東研究者 滝川義人 訳
大量虐殺否定者たちの嘘ともくろみ
Deborah E. Lipstadt "Denying the Holocaust: The Growing Assault on Truth and Memory"

7/11
ロジェ・ガロディ『偽イスラエル政治神話』(れんが書房新社)を読む。
「ナチス<ホロコースト>をめぐる真実とは? イスラエル建国・パレスチナ占拠の根拠は? タブーに挑戦し20世紀の神話を検証 現代史の真実を追究する問題の書」と帯にある。
ホロコースト否定論者の著作であるなのだが、
多すぎる引用と、ぶつ切りの文章で、リーダビリティーが著しく低い。
くだらない権威づけよりも先に、やるべきことがあるはずでは?
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反ユダヤ主義を育てているのは、イスラエルにおけるシオニズムの侵略、欺瞞、流血の政策に対する批判の方ではなくて、ユダヤ教の偉大な伝統を用語いじりの解釈で歪め、自らの政策の正当化に都合の良い部分だけを選択し、過去と現在の神話によって祭り上げ、国際法の上に置こうとする政策に対する無条件の支持の方なのである。(64)
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一九五九年には、のちのノーヴェル[平和]賞受賞作家、エリ・ヴィーゼルが自伝的長編小説『夜』を発表した。この小説には、“ガス室”の存在を仄めかす記述がまったくないのだが、ドイツのウルシュタイン社から出たドイツ語版では“火事場”という単語が、“ガス室”と訳されている。(223)
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Roger Garaudy "Les Mythes Fondateurs de la Politique Israelienne"(原書)
Roger Garaudy "The Founding Myths of Modern Israel"(英訳)
木村愛二 訳
イスラエルの政策の基礎をなす諸神話、イスラエルの政策の基礎を支える諸神話
ロイヒター・レポート、ロイヒター報告

7/12
ノーマン・G・フィンケルスタイン『ホロコースト産業』(三交社)を読む。
両親がワルシャワ・ゲットーとナチ強制収容所からの生還者である著者が、歴史の真実と記憶を汚し、いまや米国エリートのためのイデオロギー兵器、政治的・経済的資産と化した「ホロコースト産業」の知られざる実態と背景を暴く、国際的反響を呼んだ衝撃の書」と帯にある。
本書は、ホロコースト否定論ではない。
ホロコーストは確かに起きたことである。
それを「比較不可能な」出来事に仕立て上げ、
自らを特権的な地位へと押し上げたアメリカ・ユダヤ人を著者は批判している。
ホロコーストだけが「悪」ではない。
それに類する苦しみは、この世界に満ち溢れている。
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ナチ・ホロコーストを忘れていたことはもちろん悪いが、私は、アメリカ・ユダヤによるナチ・ホロコーストの「発見」はそれよりも悪いものではないかと思うことがある。確かに私の両親は、自分たちの受けた苦しみを胸の内にしまったままにしていた。それを公的に立証することをしなかった。しかしそれでも、今のようにユダヤ人の殉教を露骨に利用するよりはましだったのではないだろうか。(18)
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ユダヤ人以外の苦しみに心を開くべき時がとっくに来ている--それが、私が母から受け継いだ最大の教えである。母からは、比べるな、という言葉を一度も聞いたことがない。母はつねに比べていた。もちろん歴史的な区別は必要だ。しかし、「自分たち」の苦しみと「彼ら」の苦しみを道徳的に区別することは、それ自体が道徳のねじ曲げなのだ。「惨めな人々が二組いるときに両者を比較して、一方が他方よりも幸せだと言うことはできない」とプラトンが言ったのは、人道的な面からだった。アフリカ系アメリカ人やヴェトナム人やパレスティナ人の苦しみを前にしたとき、母の信条はつねに変わらなかった--私たち全員がホロコーストの犠牲者なのだ。(20)
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ホロコーストの唯一性の主張は知的には不毛であり、道徳的にも信用を失墜させるものだが、それでも執拗に繰り返される。なぜかと言えば、第一に、唯一無二の苦しみが唯一無二の資格をあたえるからだ。ジェイコブ・ネウスナーは、ホロコーストの唯一無二の悪は、ユダヤ人を他民族から区別するだけでなく、「他民族に対する請求権」をもユダヤ人にあたえると言っている。エドワード・アレグザンダーによれば、ザ・ホロコーストの唯一性は「道徳的資本」なのであり、ユダヤ人はこの「貴重な財産」の「所有権を主張」しなければならないのだという。(58)
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最後にパターンを考えてみよう。ヴィーゼルとグートマンはゴールドハーゲンを支持した。ヴィーゼルはコジンスキーを支持した。グートマンとゴールドハーゲンはヴィルコミルスキーを支持した。登場人物を結んでみればいい。それがホロコースト文学の実体なのである。(76)
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ガンジーはかつて、「自分の過ちは凸レンズで見て、他人の過ちはその逆にする。そうやって初めて、人は自己と他者とを相対化して正しく見ることができる」と言った。つまり、道徳の尺度として唯一意味があるのは、他者に対してではなく、自己に対してどれだけのものを求めるかなのである。(233)
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並木勝 訳
Norman G. Finkelstein "The Holocaust Industry : Reflections on the Exploitation of Jewish Suffering"
同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち

7/13
ゲールハルト・フィッシャー、ウルリッヒ・リントナー編著『ナチス第三帝国とサッカー ヒトラーの下でピッチに立った選手たちの運命』(現代書館)を読む。
「勝利が民族の義務であったナチ時代に、サッカー選手たちはどう生きたのか? ワールドカップの熱狂がヒトラーへの歓声にすり変わる恐怖と、ナチ・ユートピア思想が描いたスポーツ像を浮き彫りにする」と帯にある。
サッカーによって大衆がナショナリスティックに洗脳されていく様子を
分析したものだと想像していたのだが、そうではなかった。
政治とサッカーの共犯関係を暴き立てた一冊。
事実の羅列が続いており、読み物としては面白くない。
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サッカーは客観的に計測できる身体能力が勝敗を決めるのではなく、何回ボールがゴールラインを割るかということだけで決まる競技である。(37)
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何人ものその時代の目撃者が主張しているような、スポーツは政治的な影響を受けていなかったとする考えは幻想である。
明らかに抵抗は生じなかった。兆しすらもなかった。例えば、抵抗するとは次のようなことを意味するのだろう。ナチスによって手段化された、このシャルケというチームからの撤退である。こうしたことは、多く求められていたであろうに。誰もそれをしていなかった。彼らはともに行ったのだ。
つまり、ナチスにとって。シャルケのサッカー選手たちを取り込むことは容易であったのだ。そして、ナチスから勝利への意欲、友情、献身への心構えといった付随的な美徳に過剰な意味が与えられることによって、シャルケのサッカー選手たちは、サッカーに関心を有する大衆に対してファシズムのイデオロギーを注入するという大きな代理機能を担わされたのである。
シャルケという小宇宙は、ナチスによって一国の反映を表す例とみなされた。(100)
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クラブと政治的指導部との関係は、完全にギブアンドテイクによって特色づけられていた。つまり、クラブはナチスと突撃隊のイメージづくりのために進んで協力する代わりに、実際に存続の危機にあった救いようのない財政状況からの救出を望んだのである。(120)
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ドイツサッカー協会は、すでにヴァイマル共和国時代に労働者スポーツ運動とは一線を画していたが、その理由は、「協会とはスポーツ組織であり、超党派であり、政治からは独立するものである」という見解にあった。こうした立場は一九四五年以降も受け継がれた。しかし、実態はというと、協会はその設立以来、一貫として政治に奉仕してきたのである。しかも、もっぱら右翼陣営に向かって身をすり寄せてきた。協会が政治的に中立であった、などと言うことは断じてなかった。(…)ドイツサッカー協会(DFB)は、全国選抜チームのユニフォームに西ドイツ国旗の黒・赤・金を入れさせ、その選手たちに国家を全員で歌うように命じてきた。こうした意気込みでDFBは「プロジェクト・国家的自覚」に参加したが、この意気込みを支えているものは、(敗戦の)一九四五年五月八日によってなおも途切れることのなかった、協会の国家主義的、保守主義的な連続性である。(210)
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DFB幹部やDFBコーチ陣が国際トーナメントや国別対抗試合があると、ドイツを極端なまでに強調するレトリックに陥る。例えば、この章のはじめのほうでふれたDFBの傾向、すなわち、こうした試合には国家的(ナショナル)な情念を抱いて臨む傾向がそれである。DFBには、いつになっても国際試合とは純粋にスポーツのイヴェントではなく、あたかも国民の徳を図るバロメータ−であるかのように見なす考えが主流を占めている。ここでは、自国の国民のほうが優れているのだという<優秀性>が証明されなくてはならない。(224)
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田村光彰、岡本亮子、片岡律子、藤井雅人 訳
『ヒトラーのためのフォワード--サッカーとナチズムの共演』から約3分の2を選び、抄訳したもの。

7/14
アンディ・ドゥーガン『DYNAMO ディナモ ナチスに消されたフットボーラー』(晶文社)を読む。
「「わたしたちに武器はない。だが、ピッチの上では、戦い、勝利をえることもできる」ウクライナという祖国やチームのため? ナチスへの抵抗? 勝ったら命の保証はない、第二次世界大戦、占領下のゲーム。ディナモ・キエフVSナチスの伝説の試合の真実を、丹念に掘り起こした渾身のノンフィクション」と帯にある。
ドイツの占領下にあるなか、ディナモ・キエフは、ナチに5−1と大勝。
三日後の再戦でも、5−3の勝利。
この直後、チーム全員が射殺されたという「伝説」を解きほぐしていく。
書き出しの緊張感がすばらしく、小説のような巧みな描写で、
最後まで一気に読ませる。
現実を物語(神話)化してしまう人々の心の様子が、面白い。
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下記に引用したように著者の希望は、ドイツW杯準々決勝イタリアVSウクライナで、
ウクライナが勝利していれば、実現していたのだが、残念。
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多くの収容所では、ドイツの監視兵たちが、まるでアヒルにひからびたパンを投げ与えるように、捕虜たちに向かって食べ物を投げ入れてあざ笑っていた。人間としての尊厳など跡形もなくかなぐり捨てたソ連兵たちは、食べ物の小さなくずにまで群がって奪いあいをした。多くの収容所では食人の習慣さえ一般的だった。捕虜たちのなかには、自分が食べられることで、同志たちが少しでも長く生き延びられることを願いながら死んでいったものもいた。(87)
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「わたしたちには武器はない」トゥルセヴィッチが語りはじめた。「だが、ピッチの上では戦って勝利を得ることもできる。ミハイルとわたしはこのシャツを着るつもりだ。ひとときのあいだ、ディナモとロコモティフのメンバーは、わたしたちの旗とおなじ色を身につけて戦おうじゃないか。ファシストたちにこの色を屈服させることなどできないことを思い知らせるんだ」(138)
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本書を訳してすっかりウクライナに肩入れしている訳者としては、ドイツで開催される二〇〇六年のワールドカップには、ウクライナにもぜひヨーロッパ予選を勝ち抜いてもらいたいと思っている。そして、できるなら晴れの舞台でのウクライナとドイツの試合を見てみたいものだ。(訳者あとがき240)
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Andy Dougan "DYNAMO Defending The Honour of Kiev"
千葉茂樹 訳
歴史スポーツ・ノンフィクション
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宇都宮徹壱『ディナモ・フットボール 国家権力とロシア・東欧のサッカー』(みすず書房)
「果たして「ディナモ」とは何か? 憎悪、そして、憧憬--自由が抑圧された社会主義の時代を生きた人々にとって、“ディナモ”は二律背反の感情を抱かせる「栄えある称号」であった。ポスト冷戦時代を生きる、かつての名門クラブの物語」と帯にある。
本書には、前著のような悲壮感がほとんどない。
今は落ちぶれた「ディナモ」の試合を、ひっそりと見に行く旅行記。
著者は自身を「変人」「物好き」「天邪鬼」と自嘲げに呼ぶ。
暴走するマニアック感覚が、最高である。
そう言う意味では、安田均の文章と少しだけ似ている。
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果たして「ディナモ」とは何か。
すでに歴史の彼方へと葬り去られて久しい「共産主義」--そのシンボルともいえる「ディナモ」は、「ダイナモ(発電機)」に通じることから、これまで社会主義国家における「電気技師組合クラブ」として広く認識されてきた。しかし、実は「ディナモ」が内務省、さらにいえば秘密警察のクラブであり、「権力」と同義語であったことは、あまり知られていない。
ソヴィエト・ロシアの衛星国家では、モスクワの「ディナモ」に倣ったクラブが相次いで誕生している。ディナモ・キエフ、ディナモ・トビリシ、ディナモ・ベルリン、ディナモ・ブカレスト、そして、ディナモ・ザグレブ…。それらはいずれも、旧体制下においては内務省や秘密警察がサポートするクラブであり、さらにいえば「権力」の象徴であった。(21)
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フットボールは、国民性が如実に現れるスポーツである。イングランド人はロングパスやキック・アンド・ラッシュといった「母国」の伝統を誇りとし、フランス人は勝敗よりも華麗なパスワークによる美しいフットボールをひたすら追求し、イタリア人は鉄壁のディフェンスで相手の攻撃を封じて最小得点差で勝利するリアリズムを是としてきた。
ドイツ人の場合、面白みに欠けることこの上ない「勝つためのフットボール」に徹することで、つとに有名である。結果は、ワールドカップでの過去3回の優勝と、伝説的ともいえる、終了間際での奇跡の同点・逆転ゴールに端的に表れている。(33)
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ディナモの「DDRリーグ10連覇」という記録は、やはり、そのほとんどが「いかさま」だったのだろう。だが、記録は記憶へと移行するなかで、往々にして無意識的な捏造が施される。「いかさまマイスター」の記録は、その後、人々の記憶のなかに深く沈殿し、やがて鬱積した日常を忘れさせる「栄光の歴史」へと化学変化していったのではないだろうか--忌まわしき「ディナモ」の名が、人々の希求によって復活した事実について考察するとき、私はふと、そんな想像を巡らせてみる。(51)
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共産党政権は、自らのイデオロギーを補強する道具として、スポーツを重要視していた。平時においては共産主義の優位を世界に披露する道具となり、非常時においては勇敢な精神と強靭な肉体を有した若者を迅速に戦場に投入できるという意味において、確かにスポーツほど便利な道具は他にないだろう。ディナモやCSKAといった政府系のクラブが、ソ連建国直後に相次いで誕生したのは、決して偶然ではなかった。(106)
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歴代の内務省および秘密警察のトップのなかでも、フットボール狂としてつとに有名だったベリヤは、露骨にゲームに介入したことでも知られる。その最たるものは、38年のソ連カップで自らが支援するディナモ・トビリシが、準決勝でスパルタクに0−1で敗れたときのエピソードだ。結果に我慢ならなかった彼は、すでに優勝しているスパルタクに、何と「もう一度、ディナモ・トビリシと準決勝を闘うように」命じたのである。かくして「決勝のあとに準決勝が行われる」という奇怪な事態となったわけだが、スパルタクはこのゲームにも勝利してカップの名誉を守った。だが、それでもベリヤは納得できなかったらしく、スパルタクの創設者であり中心選手でもあったスタロチンとその兄弟は、その後シベリア送りになっている。(113)
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「毎日が驚きの連続」という現実のなかで、それでも必死に生きているロシア人。一方で「終わりなき日常」という幻想のなかで、漠とした不安を抱きながら粛々と暮らしている私たち日本人。果たして、未来への諦念を越えて生き抜く知恵と底力は、どちらに備わっているのだろう(146)
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祖国が窮地に立たされたとき、ロシアの人々は無意識的に、絶対的な指導者の登場を希求する傾向が見られる。(189)
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「実は『ディナモ』の名を発案したのは、ゴーリキーであったと伝えられています。『ディナモ』の語源は『ダイナミズム』、つまり『運動』のイメージです。転じて『革命』にも通じるといわれています。もっともこれは、半ば伝説のような話ですが…」(191)
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photo/text Tetsuichi "tete" UTSUNOMIYA

7/18
丸山健二「再生復活版」刊行記念トーク&サイン会 に参加。詳細は後日アップ予定。
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丸山健二『明日への楽園 他二編』(角川文庫)を読む。
病室に閉じ込められた青年が、想像の中で蝶、鳥、魚に変身する「狭き魂の部屋」、
崖の下に落ちた車をめぐる二人の男を描いた「谷底」がすばらしい。
この頃の丸山健二は、決定的な出来事をたった一行(数行)でさらりと書くことで、
大きな出来事と小さな出来事を、等しく扱っている。
「緊張感のある読解」を強要する短編集である。
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僕は短く飛んで、鏡から離れた。部屋の端から端までを舞ってみた。床の上にも壁にも天井にもどこにも僕の影は見当らなかった。影などいない方がいいのだと思った。そんなものにしょっちゅう附きまとわれていたんでは、時々それに気づいて、怯えたりしなければならない。そういうことで頭を痛めるような真似はしたくなかった。(30)
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考えごとが一度にたくさんできたように思えた。落着いてから頭の整理をすると、考えることなど一つもなかった。(52)
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「これからどうする気?」と僕はきいた。「目的でもあるのかい」
「それはなんだ」と仲間はきき返した。
「なにもしないのかってことさ」
「こうしているじゃないか」
「退屈じゃないのかい」
「退屈? 君はわからないことばかり言うんだね」(57)
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「あなたには勇気があるのよ」彼女は若者が言ってもらいたいと念じていることを言ってやる。「普通の人たちよりもずっとあるんでしょうね」
「人並みですよ」若者は型通りの謙遜をする。「ぼくにあるんならあなたにだって」
「あたしに? それはどうかわからないわ。だって、勇気が欲しくなるような事件にまだ一度も会ってないんですもの」
「だから本物ですよ」(100)
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「そんなに器用じゃありませんよ」真剣になるときの癖で、彼は眼の端を尖らせる。「ぼくたちの年代は、楽しんですべてを諦めてしまうか、それとも苦しんで何かをつかむかのどっちかしかないんですよ。当然ぼくは後の方をえらびましたが」(153)
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利沢行夫 解説
「狭き魂の部屋」「明日への楽園」「谷底」
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丸山健二『惑星の泉』(文藝春秋)を読む。
「たった今地表に出て大気に触れたばかりの清水は一層輝きを増し、腹這いになって金色の光といっしょにその水を飲むと五体に不思議な力が漲った(本文より)/竜を背負った無頼の男も、理想を掲げた男も永劫回帰を唱えた黒衣の男も、みんな滅んだ--そして、金色に輝く湧水を飲む少年だけが生き残った」と表の帯にあり、
「私は自転しながら公転しており、大地の回転が造る涼しい風が私を包みこみ、数時間後に現われる太陽を生々しく感知することができた。(本文より)/敗戦直後--すべてが原初に戻り、裸形の人間たちがうごめく卑小な現実生活を超え、大いなる宇宙を体感した少年を描く、充実の長編<詩小説>」と裏にある。
「素晴らしい」の一言に尽きる。
何か起こりそうな予感に満ちた、魂の震える長編である。
この頃、丸山健二は決定的な跳躍を果たしたのだろう。
以後の作品を照らし出す、エッセンスの詰まった傑作。
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そして泉はといえば、世に満つる光を一旦吸収してから放っている、そんな風に見え、つまり、水ではなくて光そのものを涌き立させているように見えた。水は実に素晴らしく、不思議なことに三日経っても味は変らず、暑い日でも生ぬるくならず、飲んでしばらくすると五体を駆け巡る血液をはっきりと自覚できた。腹這いになって泉に直接口をつけて飲むと、大地の深いところで繰り返されているというマグマの対流さえ感知できそうに思え、哀れな末路を辿るかもしれないという類いの不安はいっぺんに解消された。(48)
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その夜の私は実に気分がよく、蚊帳をくぐって自分の寝床に横たわると背中いっぱいに大地を直接感じることができ、眼を閉じて深い呼吸を繰り返すと地上を遍く照らす月の光と太陽のひかりをいっぺんに感知することができた。また、眠りに落ちる直前には森に生えているすべての木と草を生々しく捉えることができ、樹皮の手ざわりや葉っぱの芳香まで悉くわかり、ついで泉に棲息する虹色の小魚の群れと、戦争が始まる前までは海岸に沿って頻繁に通ったという鯨の群れまでもはっきりと感じた。(67)
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坊主は濁ったため息をつき、「どう頑張ってみたって人間以上のものにはなれないんだからな」と言い、大げさに眉根をよせ、「人間以下のものなら今すぐにだってなれるのにな」と言った。私が黙っていると彼は突然大声を張りあげて「ああ、玉子焼きが食いてえなあ」と叫び、そのあとまた声を落として「つまらん世の中だ」と言い、もっと低い声で「飢えてまで生きる価値なんて絶対にないもんなあ」と呟いた。(115)
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そしてセイさんは「おまえに足りないのは育ちのわるさだな」と言い、「さもなけりゃあ、もう四、五年早く生れていて兵隊にとられていればよかったんだ」と言い、ややあって「どっちつかずっていうのが一番危ないんだ」と言った。(190)

7/19
丸山健二『三角の山(短編集)再生復活版』(求龍堂)を読む。
「再生復活版「マルヤマ ケンジ」ヲ 読ンダコト ガ アリマスカ? 1972」と帯の表に、
「再生復活版:作家による再構成をした新生版/「マルヤマ ケンジ」ヲ 読ムコト ガ デキマスカ?/家族に見捨てられ村を追われた姉が9年後に再び姿を現す。都会で成り上がりの、豪邸を建てに舞い戻った姉の沈黙の裏に隠されたものとは…/表題作のほか「満月の詩」「夜は真夜中」「風の友」の3編を収録。」と帯の裏にある。
絵画の中に没入していく「満月の詩」は、やはり傑作である。
その他の短編も面白いのだが、現在の文体とはかなり違う。
どんな思いで、著者はこれらの原稿を書き直したのだろうか。
秋に出版される短編集が楽しみである。
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少年は震えてみる。興奮を更に強めるために、追いつめられた犯人の役を演じつづける。本当は何もかもわかっているのだ。坂道をのぼってやってきた連中が実は警官なんかでないことを。また、唸っていた犬が警察犬ではなくて、ただの野良犬だってことを。最初は確かに勘違いしたが、今では全部わかっている。(134)
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丸山健二『赤い眼 再生復活版』(求龍堂)を読む。
「再生復活版「マルヤマ ケンジ」ヲ 読ンダコト ガ アリマスカ? 1974」と帯の表に、
「再生復活版:作家による再構成をした新生版/「マルヤマ ケンジ」ヲ 読ムコト ガ デキマスカ?/身内の世話に疲れた娘は、山の貧乏暮らしを捨て、海辺の町で見知らぬ少年を弄ぶが…/神話的な娘の、衝動的で強靭な「生」を綴る。」と帯の裏にある。
丸山健二の作品はすべて読んでいるのだが、この長編だけはどうしても好きになれなかった。
著者にしては珍しい「女の主人公・語り手」が影響していたのかもしれない。
新たに書き直された本書も、最初のうちは同じような印象を持った。
これは唯一の駄作なのでは、と。
しかし、中盤以降、物語が加速していくあたりで考えが変わる。
駄作どころではない。
丸山節全開の傑作である。
設定の似て非なる「三角の山」と、読み比べてみると面白い。
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私が求めたのは…私は何も求めていなかった。本当は新しい生活を求めているかどうかも怪しかった。(163)
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丸山健二『水の家族 再生復活版』(求龍堂)を読む。
「再生復活版「マルヤマ ケンジ」ヲ 読ンダコト ガ アリマスカ? 1989」と帯の表に、
「再生復活版:作家による再構成をした新生版/「マルヤマ ケンジ」ヲ 読ムコト ガ デキマスカ?/死者の視線が、平凡な家族の、ある過去と現在を照らし出す。忘れじ川の水とともに浄化されていく魂の救済を描いた、
生と死の壮大な叙事詩。」と帯の裏にある。
『惑星の泉』同様に、「水」が重要なモチーフとなっている。
超越的な視点という部分は後の『貝の帆』を予感させる。
どこまでも澄み切った傑作。
これは、やばい。
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それにしても、私たち家族が八重子の将来を思って胸を痛めたことがただの一度でもあっただろうか。見ず知らずの他人の言葉をいちいち真に受け、盲信し、およそ疑念を抱くということを知らない八重子の先行きについて、彼女の最善の身の振り方について、私たちが冗談半分にでも話し合ったためしがただの一度でもあっただろうか。家族の誰も八重子の泣き顔を見たことがないというのは、一体どういうわけだろうか。なぜ八重子は家族の前では泣かないのだろうか。(94)
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人間という生き物は、光と闇とのあいだをくるくると回る星の表面に、何の意味もなく、乱雑に打ち棄てられ、よろずの神々の暇つぶしの玩具として作られた、さもなければ、蛆のように涌いてしまった、そんな忌わしい鬱々たる存在ではない。人間は皆、ひとり残らず、黄金虫や野鯉や月の輪熊と同様、刺草や海藻や真竹と同様、忍冬や桃や大山桜と同様、あるいは、浜の真砂や河原の石ころや巨大隕石がもたらしたイリジウムと同様、あるいはまた、草葉町を片時も休まずに通過してゆく水や時の流れと同様、誰もが初めから終りまで、生きているあいだはむろんのこと、死んでからも完璧に解き放たれており、たとえ何者であろうとそれを妨げることはできない。(301)
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丸山健二作家活動40周年記念
その魅力、濃く、新しい。
KING OF LITERATURE / KENJI MARUYAMA
TRIANGULAR MOUNTAIN / KENJI MARUYAMA
RED EYE / KENJI MARUYAMA
water family / KENJI MARUYAMA
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丸山健二著書目録
○と△を買えばコンプリート。
(△は重複する中篇・短編があるが、他では読めない中篇が収録されているもの)
●『夏の流れ』(文藝春秋)
●『正午(まひる)なり』(文藝春秋)
●『穴と海』(文藝春秋・角川文庫)
●『明日への楽園』(新潮社・角川文庫)
○『朝日のあたる家』(講談社)
△「315室」『黒暗淵の輝き』(新潮社)
●『三角の山』(文藝春秋)
○『黒い海への訪問者』(新潮社)
●『薔薇のざわめき』(河出書房新社・角川文庫)
○『雨のドラゴン』(河出書房新社・角川文庫)
●『アフリカの光』(角川書店・角川文庫)
○『赤い眼』(文藝春秋)
●『走者の独白』(角川書店)
○『火山の歌』(新潮社)
●『イヌワシ讃歌』(文藝春秋・文春文庫)
●『シェパードの九月』(文藝春秋・文春文庫)
●『サテンの夜』(角川書店)
●『水に映す 12の短篇小説』(文藝春秋)
●『砂のジープ』(角川書店)
●『私だけの安曇野』(朝日新聞社・朝日文庫)
●『風の、徒労の使者』(集英社)
△「祭り」『アラフラ海』(文藝春秋)
●『群居せず』(文藝春秋・文春文庫)
●『爆走オデッセイ 1980 サファリ・ラリー』(角川書店)
●『メッセージ 告白的青春論』(角川書店・角川文庫)
○『さらば、山のカモメよ』(集英社)
●『君の血は騒いでいるか 告白的肉体論』(集英社)
●『イヌワシのように』(集英社)
●『ミッドナイト・サン 新北欧紀行』(小学館)
●『火山流転』(角川書店)
△「ときめきに死す」『ときめきに死す』(文藝春秋・文春文庫)
●『台風見物』(講談社)
●『流れて、撃つ 大西部、魂の旅』(集英社)
●『夜、でっかい犬が笑う』(文藝春秋・文春文庫)
○『雷神、翔ぶ』(文藝春秋・文春文庫)
△「毘沙門天ふたたび」『踊る銀河の夜』(文藝春秋)
○『アルプス便り』(文藝春秋)
●『エッセイ 安曇野の強い風』(文藝春秋)
△「鳥篭を高く」『月に泣く』(文藝春秋)
○『惑星の泉』(文藝春秋)
○『さすらう雨のかかし』(文藝春秋)
○『水の家族』(文藝春秋)
○『野に降る星』(文藝春秋)
●『されど孤にあらず』(文藝春秋)
○『千日の瑠璃(上下)』(文藝春秋・文春文庫)
○『見よ 月が後を追う』(文藝春秋)
○『白と黒の十三話』(文藝春秋)
○『まだ見ぬ書き手へ』(朝日新聞社)
○『争いの樹の下で(上下)』(新潮社・新潮文庫)
○『ぶっぽうそうの夜』(新潮社・新潮文庫)
○『いつか海の底に』(文藝春秋)
○『虹よ、冒涜の虹よ(上下)』(新潮社)
○『安曇野の白い庭』(新潮社・新潮文庫)
○『生者へ』(新潮社)
○『逃げ歌(上下)』(講談社)
○『るりはこべ(上下)』(講談社)
○『夕庭』(朝日新聞社)
○『月は静かに』(新潮社)
○『ひもとく花』(新潮社)
○『鉛のバラ』(新潮社)
○『荒野の庭』(求龍堂)
○『生きるなんて』(朝日新聞社)
○『花々の指紋』(求龍堂)
○『貝の帆』(新潮社)
○『三角の山 再生復活版』(求龍堂)
○『赤い眼 再生復活版』(求龍堂)
○『水の家族 再生復活版』(求龍堂)
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●『夏の流れ 丸山健二初期作品集』(講談社文芸文庫)
●『夏の流れ・正午なり』(講談社文庫)
●『丸山健二自選短篇集』(文藝春秋)
○『丸山健二自選中篇集』(文藝春秋)
○『丸山健二エッセイ集成 第1巻 安曇野』(文藝春秋)
○『丸山健二エッセイ集成 第2巻 日々の愉楽』(文藝春秋)
○『丸山健二エッセイ集成 第3巻 世界爆走』(文藝春秋)
○『丸山健二エッセイ集成 第4巻 小説家の覚悟』(文藝春秋)
○『丸山健二全短篇集成 第1巻 その日は船で』(文藝春秋)
○『丸山健二全短篇集成 第2巻 血と水の匂い』(文藝春秋)
○『丸山健二全短篇集成 第3巻 青色の深い帽子』(文藝春秋)
○『丸山健二全短篇集成 第4巻 追憶の火山』(文藝春秋)
○『丸山健二全短篇集成 第5巻 月と花火』(文藝春秋)

7/20
丸山健二を含む、開高健、石原慎太郎、坂上弘、森内俊雄が
選考委員を務めた文學界新人賞の選評を読む。
受賞作1編、佳作5編という不毛な2年間であったということもあり、
皆が皆、非常に辛口である。
「妥当な受賞 丸山健二」(第41回文學界新人賞選評)
「どれもピンボケ 丸山健二」(第42回文學界新人賞選評)
「突っこみ不足 丸山健二」(第43回文學界新人賞選評)
「気迫の欠如 丸山健二」(第44回文學界新人賞選評)
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視覚的イメージを文字のフィルターにかける場合には、使用する言葉のひとつひとつの選択に充分な注意を払わなければならないというほかに、どうしもてセンスが必要になってくる。(41回)
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心からあふれるままに書いた文章なら、一から十まで他人が読んでくれたり、感動してくれたりすると思っていたとしたらそれは大きな間違いである。(42回)
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ひらめきの上にひらめきを積み重ね、そして無駄だと思われるひらめきを切り捨て、更にもう一度最初から組立て直し、細部のひとつひとつに駄目押しをする方法でしかいい小説は生れない(43回)
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二年の間、計四回の選者を勤めたあとで私が感じたことは、新しい小説を書くのはこの自分であるという気迫の著しい欠如であった。あまりにも既製的な、あまりにも文学的な粋がりのなかから一歩も出ようとしない姿勢が目立ったのは残念でならない。ちょっとした小説を書けるのだという自負に甘んじていてもらっては困るのだ。ひそかに私が待ち望んでいたのは、私小説でも反私小説でもない、クロスオーバー・ノベルであった。(44回)
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以下の雑誌掲載ものもついでに読む。
「巻頭随筆 一冊の本 自分がないにもほどがある」(一冊の本 [2005.10])
「主演・高倉健という小説 人間の一生に到達点はない」(婦人公論 [2004.9.22])
「POSTブック・ワンダーランド 著者に訊け! 丸山健二氏『鉛のバラ』」(週刊ポスト [2004.8.6])
「POSTブック・ワンダーランド 著者に訊け! 丸山健二氏『ひもとく花』」(週刊ポスト [2003.6.6])
「執筆と作庭」(図書 [2001.9])

7/24
マルセル・ドゥティエンヌ『ディオニュソス 大空の下を行く神』(法政大学出版局)を読む。
「酒と陶酔・解放の神として熱狂的信仰を集め、異様なるよそ者の神としてギリシア世界から排斥されたディオニュソス--その誕生、迫害、報復、遍歴を、地域の文化に固有の複雑多岐にわたる社会的コードの体系として読み解き、空間的・地理的差異において捉えなおす。」と帯にある。
なかなか濃厚な内容なのだが、いかんせん、短すぎる。
ディオニュソスさならがのテンションは、読む者を圧倒する。
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その姿から素性がわかる面(マスク)を通じて、ディオニュソスは、存在と不存在の間を絶えずゆれ動く神の公現性を明示している。彼はつねによそ者であり、身元確認が必要な形姿であり、発見せねばならぬ顔であり、その姿を露わすと同じほど隠しもする面(マスク)である。しかし<クセノス>(よそ者)としてやって来て、そのような形でいずれかの都市に属する領地に入り込むディオニュソスは、ギリシアのよそ者が必要とするようなかたちでの社会的関係を求める。すなわち、個人間の関係、野暮な身分であろうと、王家の主であろうと、迎えてくれる主人側の私的な歓待を求めるのである。(19)
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心をさらして、行動するディオニュソス。それは、噴出させ、跳躍させるその力のもっとも奥深いところまで読みとらせてくれる。沸き立つ血と血と鼓動するぶどう酒が一つの共通原理に合流するまさにその点にいたるまで。その共通原理とは、火山のような激しさで、一挙に、そのエネルギーを解き放つ能力を、それ自身の中から、しかもただそれのみから、引き出す生命の体液の「力」である。殺戮の狂気、跳躍するマイナス、泡立つ生ぶどう酒、血に酔った心臓---これらは一つの同じ行動様式なのである。(123)
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Marcel Detienne "Dionysos a ciel ouvert"
及川馥、吉岡正敞 訳
ディオニソス、バッカス、アポロン
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楠見千鶴子『酒の神 ディオニュソス 放浪・秘儀・陶酔』(講談社学術文庫)。
ハードカバー版の原題『ディオニュソスへの旅』が示すように、本書は紀行文である。
ギリシャ神話においては「死なない」ことが、神と人との違いであるが、
ディオニュソスは、あっさりと死んでしまう。
そのせいかはわからないが、伝説上の神ではなく、実在した人物として、
ディオニュソスを扱っている点が面白い。
異説を丹念に取り込みながら、「カオス・混沌」の一語では言い表せない
ディオニュソスの多面性を明らかにしていく好著。
ラスト付近で交わされる訳者とのおしゃれな会話が読ませる。
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人間というのは皆、自分の目の高さにある世界しか見えんでな、神々のように、広大な視野からものは見えない。(232)
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――虚構の中で、観客をうまく騙したなどと思い上がれるのも若いうちだ。いつのまにか、自分自身が虚構そのものになっている。
――観客の人生だって虚構じゃないのかしら。確かなものなどありはしないわ。虚構の中で生きながら、真実を観ようと、虚構でかためられた芝居の世界に浸りに行くのよ。(290)
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――仮面は面倒だよ。
――どういうこと?
――われわれ人間は、すでに自分の本性の上にもう一つ仮面をのっけて生きているんだぜ。その上にさらにもう一つ、仮面をのっけろっていうのか。
――古代のように、ただ単に別の役柄をするためなら面倒じゃないでしょ。
――馬鹿を言わないでくれよ、たとえば二役演じるだけで六枚の人間の面の皮について考えなくちゃならないんだぜ。(302)

7/25
Francoise Kerisel『Diogenes' Lantern』(The J. Paul Getty Museum)を読む。
逸話を集めた20ページちょっとの絵本ではあるが、
ディオゲネスらしさがよく出ている。
子供もはこれを読んで、どんなことを想うのだろう。
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Illustrated by Frederick Mansot
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Luis E. Navia『Diogenes the Cynic : The War against the World』(Humanity Books)を読む。
ディオゲネスが著作を残さなかった(or 書いたものが現存しない)ため、
実際にどのような行動を取ったかについては、複数の説がある。
それらを逐一並べて、まぁこんな感じだったでしょう、
という感じで本書は進行していく。
それにしても、反骨精神の塊・ディオゲネスはなんとも
魅力的なキャラクターである。
付録のディオゲネス・ラエルティオスの評伝がうれしい。
-
ちなみに、皮肉(ひにく)の語源は、Cynic(キニク)ではない。
正しくは、中国の故事である「皮肉骨髄(ひにくこつずい)」より。
-
Far more than a theoretical stance vis-a-vis the world, Cynicism was a response, a reaction, to those conditions of human existence that the Cynics found unacceptable from the point of view of reason.(9)
-
Somehow, then, the Cynosarges -- the park of the White or Swift Dog -- is the place where Antisthenes is said to have taught, just as Plato did in the Academy, Aristotle in the Lyceum, Epicurus in the Garden, and Zeno of Citium in the Stoa.(70)
-
Diogenes' joke, then, was segment of a carefully conceived and well-carried-out plan that can only be understood as part of his commitment to deface and invalidate the values by which people live.
-
If human life presents itself to us as something evil, as a mistake, as something that at bottom ought not to be, it is because it is lived in a way that is contrary to its nature. Our obligation is to correct tha mistake, regardless of how insignificant and transitory our endeavor may turn out to be. That is the duty of a genuine Cynic, even if the battle against the insanity of the world may only succeed within the confines and in the privacy of his tub.(197)
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Preface
Chapter 1 - A Biographical Portrait
Chapter 2 - The Rhetoric of Cynicism
Chapter 3 - Diogenes' Metamorphosis
Chapter 4 - The Philosophy of Cynicism
Chapter 5 - The Presence of Diogenes
Appendix - Diogenes Laertius : The Life of Diogenes of Sinope
Bibliography
Index of Names
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犬儒学派、犬儒派、キニク学派、キニク派、キニク主義、
シニシズム、シニスム、キニック派、キニック学派、キュニコス派、
cynic、cynical、シニカル、皮肉、狂ったソクラテス(Socrates gone mad)

7/26
セネカ『わが死生観 人間、どう生きるか』(知的生き方文庫)を読む。
アウシュヴィッツ以後という理性を信じられない世界に生きているにもかかわらず、
茂手木元蔵 訳『怒りについて』『幸福なる生活について』『人生の短さについて』(岩波文庫)だけでなく、
ソフトカバー版の同書を一度読んでいるにもかかわらず、
英語からの重訳で、あまり凝っていない文体なのにもかかわらず、
それでも、本書から強烈な力を感じることができた。
自分のどうにもできないことは放っておいて、
自分のどうにかできることをコントロールしていく。
セネカ(ストア派)の倫理は、汲めども尽きせぬ魅力がある。
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白髪をいただいてしわが寄っているという理由だけで、その人は長生きをしてきたと考えるのはいわれのないことである。それは長生きしてきたのではなく、長くこの世に存在してきたというのにすぎない。それは、ある男が港を出るとすぐに激しい嵐に出会い、いろいろな方角から吹きつける風に次々と襲われて漂流していたが、結局は同じところをぐるぐる回っていたというケースを考えてみればよくわかる。この男は、長い航海をしてきたとは言えない。彼はただ海上で寝返りをうち続けていたにすぎないのである。(43)
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現在は一度に一日を、しかも一分刻みでしか与えてくれない。しかし、過去の日々は必要とあれば全部が姿をあらわしてくれる。不安のない平静な心は、人生の過去、現在、未来のどの領域にも入って歩き回ることができる。しかし、人生の渦中に巻き込まれている者は、首に軛をかけられているかのように、後ろを振り返ってみることができない。彼らの人生は過去の暗闇の中に消え去っていく。底のない器にいくら水をつぎ込んでもなんの役にも立たないように、暗闇の過去に時を送り込んでもなんの変化も起こらない。送り込まれてくる時を宿すものが備わっていなければ、時は心の裂け目や穴から流れ出してしまうのだ。(50)
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もし私たちが偉大な哲学者の思想の力に頼って、人間の弱点である狭量な思考の枠を超えたいと願うならば、遠大な時の流れが眼前に開けて、私たちはそこを自由に歩き回ることができる。私たちはソクラテスと議論することができるし、カーニアデスと一緒に知識の確実性を疑ってみることもできる。エピクロスと平和を見つけ、ストア学派と人間の性格を克服し、キニク学派と人間性を超克することもできる。(58)
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私は、徳の中に何を求めるのかと問われれば、徳自身を求めるのだ、と答える。最高の幸福とは堅固で揺るぎない理性、自由で調和が取れていて美しい理性を持つことだ、と私は答える。なぜあなたは、これ以上の幸福を挙げよと私に要求するのか。なぜあなたは、快楽が抜けているのではないかと迫るのか? 私が探し求めているものは人間の幸福であって、腹を満たすことではない。(91)
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金を求めたという理由でプラトンをなじり、金を受け取ったという理由でアリストテレスを、金を顧みないからといってデモクリトスを、金を使ったからといってエピクロスをなじるがよい。なぜあなたがたはまず自分自身を見つめ直して、全身に巣くっているさまざまな病根を見つけようとしないのか。あるものは外部からあなたを攻撃し、またあるものは、あなたがたの心の奥に入り込んで思うがままに振舞っているではないか? あなたがたは自分のことはさっぱりわからないくせに、例えば、上役の悪口をまくしたてるなど、他人のアラ探しとなると枚挙にいとまがなくて時間が足りない有様である。(129)
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老人の中には、自分の年齢以外には長生きしたことを証明できる証拠を何ひとつ持っていない者もしばしば見かける。(154)
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私は幸福な者のためにも、泣いている者のためにも感動の涙を流さない。幸福な人は、その手で私の涙をぬぐい去ってしまうし、涙を流している人はその涙ゆえに私の涙に値しなくなっている。(192)
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あなたがたは、中傷も侮辱も物ともしない賢人になる必要はないが、自分にこう言えるような感覚の持ち主であってほしい。「それらのものが自分の身に降りかかってくるのは当然なのか、不当なのか? もし当然なら、それは侮辱ではなく、相手のほうに理がある。もし不当なら、正しくないことを言う相手のほうが恥じ入るべきである」と。(237)
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草柳大蔵 訳、ルキウス・アンナエウス・セネカ、小セネカ(大セネカは父)
Lucius Annaeus Seneca"Seneca moral essays"
第1章 人生の短さについて 生き方の質を高める
第2章 幸福な人生について 運命を切り拓く知恵
第3章 心の平静について 先人の人生智に学ぶ
第4章 賢者の不動心について 人生の難局を処する心
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ローマの賢帝 アウレリウス『不動心 ローマの賢帝に学ぶ自己鍛錬の書』(知的生き方文庫)を読む。
ソフトカバー版の帯には、「人生を真正面から論じてゆく著作にむかって、人はその精神を吸い寄せられてゆく。湧き水がそれなりの水脈をつくり、やがて大河に吸い寄せられてゆくように、「人生」を考えはじめた魂は、大きな精神にむかって動きはじめるのである。本書はそんな魅力をもった古典の書だ。」とある。文庫版の後ろにも同じことが書いてあり、さらに「時を超えて読みつがれた不朽の名著。あなたの座右の書となるべき人生論」とある。
ちょくちょくと書き留めた断章が並び、簡潔な言葉でその日の雑感が記されている。
これもまた、『自省録』(神谷美恵子訳、岩波文庫)と、
『自省録』(鈴木照雄訳、世界の名著14、中央公論社)を既読なのだが、やはり面白かった。
アウレリウス自身に訴えかけている「おまえ」という表現が、読むものに直接訴えかけてくる。
少なくとも本書を読むかぎり、アウレリウスは賢帝だという気がする。
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あなたは、自分自身に対して真の愛情を抱いていないのだ。もしも真実の愛があるなら、あなたの天性とその意志をも愛してしかるべきだ。仕事に惚れこんだ職人なら、顔は洗わず飯は食わずとも仕事にとことん打ちこむものだ。ところがあなたときたら、彫刻師がノミをふるい、踊り手が舞い、守銭奴が銀貨を貯え、見栄っ張りが束の間の名声を求めるほどにも自分の天性を大切にしようとは思ってないらしい。/彼らは、いったん心に決めたら、好きでえらんだ仕事に秀でようと寝食をなげうってがんばるものだ。あなたに与えられた社会への貢献という仕事は、彼らの仕事ほども価値がなく、打ち込むに値しないとでも思っているのだろうか。(83)
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人からされても、やり返さないのが最高の復讐だ。(105)
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取るに足らぬことには拘泥せずにいられる魂さえ持っていれば、善い生活を完全に手中に収められる。そのためにはまず、そういう些細なことを構成する要素を注意深く調べ、次にそのことがら全体を検討したまえ。その際、忘れてならないのは、そこからどんな印象を受けようと、その責任はそれ自体にはないということだ。それはただそこに事実として存在しているだけで、われわれに働きかけてきたわけではない。むしろ、それについて判断を下したり、心に何らかの印象を刻みつけたのはわれわれのほうなのだ。しかも、嫌なことなら記憶に残さないでおくこともできるし、知らないうちに刻まれた印象も、消そうと思えば消せたにもかかわらず、自らすすんで心にしるしてしまったのだ。/それはともかく、くだらぬことに関わり合っていられる時間などあまり残されてはいない。われわれの人生はじきに尽き果ててしまう、ということくらいは覚えておいたほうがいいだろう。ものごとがいつもあなたの気に入るわけではないとしても、そんなことにいちいち悩んでいてはいけない。それもまた自然にかなっているなら歓迎の意を表して、下手なもめごとを起こさぬことだ。自然にかなわぬことであればそれを無視し、自分の本性が命じるものを探しながら進めばいい。人間にとって自分自身の善を求めるのは常に正しいとされているのだから。(227)
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草柳大蔵 訳、マルクス・アウレリウス・アントニヌス、マールクス・アウレーリウス
マルクス・アウレーリアス、マアカス・アウレリアス、アウレリアス、マーカス・アントニヌス
哲人皇帝、五賢帝の一人、安敦(中国の史書『後漢書』)
Marcus Aurelius Antoninus "Meditations"

7/27
谷沢永一 編訳『新・プルターク英雄伝』(祥伝社ノン・ポシェット)を読む。
文庫版の表紙には「決断の時の「知」と「策」/『プルターク英雄伝』は古代ギリシアの著述家プルタークによる不滅の大伝記。ギリシア・ローマの偉人たちを活写し、古今、世界中で愛読される。」とある。
また、ハードカバー版の帯には、「史上最高の「偉人伝」が今、現代語訳で甦る! ギリシア・ローマの民主政治の中で大衆は英雄たちを、いかに利用し、棄てたか---」とある。
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ページをめくり始めて、強烈な違和感を覚える。
こんなに下手糞な文章が、傑作とされているのか。
少なくとも『饒舌について』『食卓歓談集』『似て非なる友について』『エジプト神イシスとオシリスの伝説について』(すべて岩波文庫)は、結構楽しく読めた。
この本は、ひどい。
「ウーン、やられたか(89)」「思わずウッと唸ってしまった。(113)」などという稚拙な表現。
クレオパトラを「絶世の美女」と形容してしまうような安易さ。(原文に、この表現はない)
解説でその謎が氷解する。
「本書の編訳は、この貴重な智恵の書へ、幼き日の私を導いてくれた“澤田謙の独創的な筆法”に基づ」いており、「原著に詳しく書いてあっても、日本人に不用な部分は省き、原著にはまるで書いていない情景でも、その主旨を伝えるのに必要と思えば、自由に筆を加えて描きあげ、簡約ではあるがこの一冊を読みさえすれば、プルターク英雄伝の精髄を、読み取れるように努めた」という澤田謙のやり方を踏襲しているというのだ。
著者が本気でそう信じているのならば、それはそれでいいのかもしれない。
しかし、解説の冒頭で次のように書いている。「この伝記文学だけは、後世による書替えをまぬがれた。誰が出てきても修正のしようがないのである。」
それなら著者は「誰」なのだろうか。
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Plutarchos "Bioi Paralleroi"
Plutarch "The Parallel Lives"
(1)英傑の士・シーザー
(2)大義の士・ブルータス
(3)知略の士・テミストクレス
(4)策謀の士・アルキビアデス
(5)高潔の士・ペロピダス
プリューターク英雄伝、プルターク英雄伝、プルタークの英雄伝、プリユーターク英勇伝、
プルータルコス英雄伝、対比列伝、プルタルコス、プルーターク、プルータルコス

7/28
スエトニウス『ローマ皇帝伝(上下)』(岩波文庫)を読む。
「カエサル(シーザー)からドミティアヌス帝まで、帝政ローマに君臨した元首12人の伝記集。著者スエトニウス(70頃-130頃)は皇帝付きの秘書官。公文書のみならず、同時代の世評・諷刺・落書の類まで細大もらさず狩猟し、ふんだんに散りばめられた逸話は皇帝の知られざる個人生活まで及ぶ。本邦初の完訳版。(全2冊)」と(上)の表紙に、
「我が妹を妻とし、帝国資産をまたたく間に蕩尽したあげく自らを神と崇めよと命ずるカリグラ。権力を争って母を殺し、さらに首都に火を放って遠望する焔の美しさに恍惚とするネロ。簡潔直截に次々と繰りだされてゆく豊富な逸話の中から、放恣残虐の限りを尽す歴代ローマ皇帝たちの姿がなまなましく立ち現れてくる。」と(下)の表紙に、それぞれある。
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スエトニウスには収集家の血が流れているのだろう、
「大枠の形式を決めて、得られたデータを雑然と詰め込んでいくだけ」という手法に
最初は戸惑ったが、そのぐちゃぐちゃ感に慣れてくると、
こういう書き方も「あり」だな、という気がしてくる。
「アウグストゥス」「カリグラ」「ネロ」あたりが特によかった。
後半、資料不足でページ数の減っていく過程が、笑える。
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会計係ディオメデスが、アウグストゥスと一緒に散歩していたとき、急に突進してきた野猪に向かって、動転のあまりアウグストゥスを突き飛ばしたが、彼を加害者よりもむしろ臆病者として責めることを願い、この危機一髪の事件を、しかし悪意はなかったので笑い話に変えてしまった。(上、165)
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アウグストゥスは典雅で清楚な文体を求め、技巧を凝らした粉飾の文体、彼の言葉によると「すたれた古語の芬々たる俗臭」を遠ざけた。彼が特に注意を払ったのは、自分の気持や考えをできるだけ明確に表現することであった。この目的をより容易に達成するため、彼はどこでもいつでも読者や聴衆の理解をさまたげ、じらすことを嫌い、ためらわずに都市名の前に前置詞を加え、しきりに接続詞を繰り返した。これらを省くと、たとい文体の優雅は増しても晦渋をいくらか伴うからである。(上、181)
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彼の像に雷が落ち、碑銘のうち彼の名前の最初の文字が熔け落ちた。占師はこう答えた。「今から百日限りの命であろう。Cの文字が百の数を意味しているから。そして神々の列に加えられよう。aesar つまり Caesar の名前からCを除いた部分は、エトルスキ語で神の呼称であるから」(上、197)
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八ヶ月間もたて続けに、たくさんの雷が落ちてその報告を受け、ついにドミティアヌスはこう叫んだものだ。「雷よ、いいかげんにもう、これと決めている人に落ちるがいい」(下、329)
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Caius Suetonius Tranquillus "De Vita Caesarum"
Gaius Suetonius Tranquillus "The Lives of the Twelve Caesars"
国原吉之助 訳
ガイウス・スエトニウス・トランクィルス『カエサルたちの伝記』
第一巻 カエサル
第二巻 アウグストゥス 附録 神君アウグストゥスの業績録
第三巻 ティベリウス
第四巻 カリグラ
第五巻 クラウディウス
第六巻 ネロ
第七巻 ガルバ、オト、ウィテリウス
第八巻 ウェスパシアヌス、ティトゥス、ドミティアヌス

7/31
ラルフ・ウォルドー・エマソン、Ralph Waldo Emerson(1803-1882)。
『エマソン論文集(上)(下)』(酒本雅之 訳)がそこそこ面白かったので、
選集をまとめて購入。
以下の3点を頭に置きながら一気読みする。
(1)スウェーデンボルグに始まる、ニューソート系の一人として。
(2)アメリカの思想の源流として。
(3)ニーチェに影響を与えた思索家として。
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酒本雅之 訳『エマソン論文集(上)(下)』(岩波文庫)
(上)「主の晩餐」「自然」「アメリカの学者」「神学部講演」「自己信頼」「償い」「霊の法則」
(下)「大霊」「円」「超越論者」「詩人」「自然」「運命」「逃亡奴隷法」「ソーロウ」
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『エマソン名著選 自然について』(日本教文社)を読む。
『エマソン選集1.自然について(斉藤光 訳)』の改装新版である。
「本書は主に初期の文章を集めた。処女出版である「自然」は彼の中心思想が散文詩のような調子の高い文章でその直感把握は彼の思想の根底である」と選集紹介の欄にある。
エマソンにとって、「原罪」は存在しない。
100の上昇と、0の下降。
ロマンティシズムで空高く舞い上がるのはいいのだが、
絶えず足をバタバタさせているような居心地の悪さがある。
良くも悪くも、そういうところが「アメリカ的」なのだろう。
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孤独のなかに入るためには、人間は、社会からしりぞくと同じように、自分の部屋からもしりぞかなくてはならない。私が読んだり、書いたりしている間は、たとい誰も私と一緒にいなくても、私は孤独ではない。しかし、もし一人になりたい人がいるならば、星を見つめればよい。天の星から来る光線は、彼を彼の周囲のものから分けるであろう。大気が透明につくられたのは、人間に、天体のうちには、崇高なものがたえず存在していることを、教えるためであった、と考えてよい。都会の街上から見ると、星は何と偉大であろう。もし星というものが、千年に一夜だけしか現われないものならば、人びとは星を信仰の対象とし、これを崇拝するであろう。そして、かつて示された神の都の思い出を、ながい時代にわたって、持ち続けるであろう。しかし、毎晩、この美の使節たちは現われ、その説きさとす微笑をもって、宇宙を照らす。(48)
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世界は、その見せかけを見抜くことのできる人のものです。諸君が見る頑迷、盲目的習慣、蔓延した誤りなどは、いずれもただ諸君が黙認しているために存在しているのです。これが虚構であるとわかれば、すでにこれに致命的な打撃を加えたことになります。(138)
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何かを与えられることは、低い恩恵である。自分で何かをする力を与えられることは、高い恩恵である。(163)
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自然界のものの落着いた超然とした様子を見ると、そういうものがわれわれには羨しくなる。赤い顔をして、いらいらとして落着かないわれわれは、もしわれわれが、野外に出て、キャンプ生活をして、木の根でも食べれば、草木や動物のように、すばらしいものになれるだろうなどと考える。しかし、山ねずみにならずに、人間になろう。そうすれば、たとい、われわれが、絹の敷物の上の象牙の椅子に座っていようと、樫の木と楡の木が、喜んでわれわれに仕えるだろう。(230)
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Selected Works of Ralph Waldo Emerson Vol.I
Astronomy「天文学」
The Naturalist「博物学者」
Nature「自然」
The American Scholar「アメリカの学者」
An Address delivered before the Senior Class in Divinity College「神学部講演」
The Method of Nature「自然の方法」
Nature in Essays : Second Series「自然」エッセーズ・第二集
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『エマソン名著選 精神について』(日本教文社)を読む。
『エマソン選集2.精神について(入江勇起男 訳)』の改装新版である。
「この論文は彼の歴史・科学・詩・宗教の根底をなし、神と人と自然を結び、東洋と西洋を結ぶ精神の理性と神秘を、いろいろな角度から克明に描く」と選集紹介の欄にある。
すべてのものには両面があるという「償い」を導入したことで、
「原罪の不在」で浮き足立つ思想に、若干、冷静さが付加されたような気がする。
「精神の法則」は非常によかったが、それでも、ストア派にはかなわない。
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この世では、世間の考えに従って生活することは容易であり、また孤独のとき自分自身の考えに従って生活することも容易である。しかし偉人とは群集のただ中に在ってもいかにもにこやかに孤独のときの独立を保持し得る人のことである。(48)
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物を言って理解してもらうことほど易しいことはないようである。それいでいて、それこそ--すなわち理解されていることこそ、最も強い防衛物であり、絆であることを人は悟るようになる。またある評価を受けた人は、それが人を拘束するものの中で最も御しがたいものであることを発見するようになる。(131)
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人は自分で自分の値踏みができる。みずから認めることは人にも認められる、ということは、完全に受け容れる価値のある金言である。自分に属する立場と態度を取れば万人はだまってそれに同意する。世界は公正であるにちがいない。それは深い無関心さで、すべての人がみずから自分の評価を決めるのに任せている。英雄であろうと阿呆であろうと、世界はこのことに関して干渉はしない。こそこそと忍び歩きをして廻り、自分の名を否認しようと、自分の作品を天体の運行と一体のものとして天の蒼穹に表したものと見ようとも、世界は確かにその人が自分自身の行動と生活に対して持つ見解を受け容れるものである。(136)
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友達を訪ねれば何故御無沙汰を謝り、友達の時間も空費し、自分の行為も穢す必要があるのであろうか。今訪ねよ。最高の愛があなたというその最下等の機関によって今会いに来ていることを友達に感じさせることだ。これまで友達の役にも立たず、また、贈物や挨拶で敬意も表せなかったからと言って、何故秘かに自責の念にかられ、自分自身も友達も苦しめなければならないのだろう。自分自身を贈物とし祝福することだ。贈物から反射して来る借りものの光によってではなく、本物の光によって輝け。普通の人間は、人間の間に合わせのものだ。頭を下げ、くだくだしく理由を並べて弁解し、実体が無いものだからうわべだけ積み重ねているのだ。(144)
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もし偉大な行為をしなければならないのなら、私ども自身の行為を偉大なものにしようではないか。(147)
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友達を自分のものとして感ずる唯一の歓びは、自分のものでないものが自分のものだからである。(192)
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Selected Works of Ralph Waldo Emerson Vol.II
History in Essays : Second Series「歴史」エッセーズ・第一集
Self-Reliance in Essays : Second Series「自己信頼」エッセーズ・第一集
Compensation in Essays : Second Series「償い」エッセーズ・第一集
Spiritual Laws in Essays : Second Series「精神の法則」エッセーズ・第一集
Love in Essays : Second Series「愛」エッセーズ・第一集
Friendship in Essays : Second Series「友情」エッセーズ・第一集
The Over-Soul in Essays : Second Series「神」エッセーズ・第一集
Circles in Essays : Second Series「円」エッセーズ・第一集
Intellect in Essays : Second Series「知性」エッセーズ・第一集

8/1
『エマソン選集3.生活について(小泉一郎 訳)』を読む。
「神秘主義から世俗の世界へ下ってきた彼が、現実の諸問題に対決して、英知あふれた生活指針を示した諸篇は、彼の思想とその本質を知る必須の書」と選集紹介の欄にある。
本書あたりで、俄かにペシミズムが強くなってきた。
「人は神と一体になれる」という、中間(=媒体)を欠いた思想は、
どろくさい「生活」に当てはめると、どうしても無理が出てくるのだろう。
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成功をおさめた人びとのすべてに共通に認められる点が一つある--それは彼らが因果律を信じていたということだ。彼らは、物事は運によって動くものではなく、法則によって動くものであって、物事の初めと終りをつなぐ鎖には、弱い鐶やひびのはいった鐶はただの一つもないということを信じていた。因果律というものにたいする信仰、瑣末なものの一つ一つと存在の原理とのあいだには厳密なつながりがあるものだという信仰、したがって、あらゆるものには償いがあるのだという信仰、何でも濡手で粟というわけにはゆかないという信仰--これこそ、すべての偉大な精神の特徴であって、勤勉な人間のなすあらゆる努力を支配すべき信仰なのである。もっとも英雄的な人間とは、法則の緊張関係をかたく信じて動かない人間なのである。「名将はすべて、戦術の法則に順応することによって、障害というものに自分の努力を適応させることによって、大きな戦功を立てたのだ」とナポレオンはいっている。(52)
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倹約とは、つねにより高い次元において消費することである。(117)
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私たちがここにいるという事実が、私たちがここにいるべきことを証明している。(128)
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北欧神話のなかで雷神ソールが、アスガードで角の酒杯を飲みほしたり、老婆と格闘したり、、ロックという男と競争したりさせられているあいだに率然として、自分が飲みほしているのは海であり、格闘している相手は「時間」であり、競争している相手は「思想」であることを知ったという話は、まさしく、一見些細なもののただなかで自然の巨大な力と闘っている私たちのことを物語っているのである。(168)
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多くの経験を重ねる必要のない人びとも世の中には存在する。何年か活動したあとで、自分はこんなことはみな前からわかっていたと言える人間、一目みただけで愛したり憎んだりする、つまり相性であるか虫が好かないかをすぐ見抜く人間、いつも一つの状態にあって、生きることを楽しんでいるので、他人のように、自分のおかれた状態のことを気にしない人間、他人に指導されるのではなく、他人を指導する人間、俺は成功するのに値いする人間だと意識しているので、ありきたりの成功獲得の道などいつも侮蔑している人間、自存と自助の力をもつ人間、社会のなかにあって本来の自分をもち続けることを許され、現在において偉大である人間、才能以前の存在あるいは才能以後の存在であって、才能など道具としか心得ていないので、才能はもたず、それをもとうともしない人間--これこそ一個の人格であって、哲学が到達した最高のものなのである。/重要なのは、ある英雄がこれをするとか、あれとするとかいうことではなくて、彼の人間そのものである。彼が何者であるかは、彼の一言一行にあらわれる。このようにして、瞬間と人格とは一つのものとなるのだ。(244)
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Selected Works of Ralph Waldo Emerson Vol.III
Fate in The Conduct of Life「運命」 いかに生くべきか
Power in The Conduct of Life「力」いかに生くべきか
Wealth in The Conduct of Life「富」いかに生くべきか
Consideratios ny the Way in The Conduct of Life「随想余録」いかに生くべきか
Illusions in The Conduct of Life「幻想」いかに生くべきか
Experience in Essays : Second Series「経験」エッセーズ・第二集
Works and Days in Society and Solitude「仕事と日々」社会と孤独
The Tragic「悲劇的なもの」
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『エマソン選集4.個人と社会』(原島善衛 訳)を読む。
「奴隷問題が表面化し、南北戦争が勃発し、アメリカの内乱は、彼にとって大きな試練となった。この巻は彼の社会批評家としての一面を描いている」と選集紹介の欄にある。
もともとエマソンは読みにくい。
論理は跳ぶし、話の筋もめちゃくちゃである。
それでもある程度読めるのは、彼の文章の美しさゆえである。
本書には、それもない。
この訳者の日本語は、大丈夫だろうか。
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ひとりの人間のうちに協調がなければ、ふたりの人間に強調があるはずはない。個人が「個人」でなくて二次元であるとき、彼の思想は一方に向いて行動は他方を向くとき、彼の信念が習慣のために妨げられるとき、理性によって啓蒙された彼の意志が感覚のためにゆがめられるとき、片手で船のろを漕いで片手で水を押し戻すとき、何の強調がありうるだろうか?(73)
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愚かな人は異常なものに驚異を感じ、賢い人は普通のものに驚異を感じる。(89)
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鈍感な人びとは、ひとりを富裕にし他を貧乏にするのは「運勢」であると考える。はたしてそうだろうか? しかし、運勢は彼らが考えるよりも早期に来た。いいかえれば、今日快適であるものに献身するか、明日価値があろうものを予測するか、その均衡ないし調整の問題である。(239)
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友人が近くにいればいるほど、われわれの領土は広く、われわれの住む球体の直径は長くなる。当然のこととして受け入れられる事物の数は、教養を測る尺度である。ある人が語ろうとすると、意地のわるい人は最初の言葉をとらえて論争するので、彼は話そうとする分野にはいることができなくなる。賢い人は、自己の見解において当惑を感ずる箇所に類似する議論に会うまで、万事を当然のこととして受け入れるのだ。(248)
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Selected Works of Ralph Waldo Emerson Vol.IV
The Young American「若いアメリカ人」
Man the Reformer「改革者としての人間」
New England Reformers「ニューイングランドにおける改革者たち」
Politics in Essays : Second Series「政治について」エッセーズ・第二集
Lecture on the Times「時代について」
Woman「女性について」
War「戦争について」
Social Aims in Letters and Social Aims「社会の目的」 文学と社会的目的
Aristocracy「貴族主義について」
The Fugitive Slave Law「逃亡奴隷法について」
Abraham Licoln「エイブラハム・リンカーン」
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『エマソン選集5.美について(斉藤光 訳)』を読む。
「彼の美学思想は彼の中心思想から派生したものであるといえるが、その中心思想は物質と精神の象徴関係を想像力により把握することから出発した」と選集紹介の欄にある。
これはかなりよかった。
文章に慣れてきたというのもあるし、テーマもよかったのだろう。
ロマンティシズムは、やはり美学がお得意である。
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詩人が事物に名前をつけるのは、彼がその事物を見るためであり、他人よりその事物に一歩近づくからである。この表現、つまり、ものに名前をつけることは、芸術ではなく、第二の自然であって、木から葉が出るように、第一の自然から生長したものである。われわれが自然と称するものは、自律的な運動、もしくは変化である。そして、自然は、すべてのことを、自分の手でおこない、他のものに自分を命名させず、自分で命名する。これもまた、変形によっておこなう。(40)
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詩では、一つ一つの言葉が自由なのだが、一つ一つの言葉が必要である。よい詩とは、その詩が書かれている以外には、書きようのない詩のことである。初めてその詩をきく時、詩人が勝手に作ったというよりも、「永遠の」精神のなかにある何か目に見えない牌から写されたものというふうに響く。すべての偉大な詩人の感情は、これと一致している。彼らは詩をつくったのではなく、見つけ出したのだ。詩神が、彼らのためにもってきてくれたのだ。(100)
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詩人は、低い法則は破っているが、それより高い法則をまもっている。「詩は、良識以上のものであるが、まず最初に、良識でなければならない。」(165)
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Selected Works of Ralph Waldo Emerson Vol.V
Art in Essays : First Series「芸術」エッセーズ・第一集
The Poet in Essays : Second Series「詩人」エッセーズ・第二集
Beauty in The Conduct of Life「美」いかに生くべきか
Art in Society and Solitude「芸術」社会と孤独
Eloquence in Society and Solitude「雄弁」社会と孤独
Poetry and Imagination in Letters and Social Aims「詩と想像力」文学と社会的目的
Inspiration in Letters and Social Aims「霊感」文学と社会的目的
Art and Criticism in Natural History of Intellect「芸術と批評」知力の博物誌、その他

8/2
『エマソン選集6.代表的人間像(酒本雅之 訳)』を読む。
「人間である限り可能性としては誰でもがすべて偉大なのだと説く本巻は、人間に宿る魂の現れ方をそれぞれに代表する六人の偉人により論じている」と選集紹介の欄にある。
エマソンにしては、珍しくテーマが一貫しており、かなり読める。
中でもモンテーニュを語らずして、モンテーニュの核心に迫る一編は、異様な雰囲気を放っている。
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プラトンの本当の価値が見えるのは、心からの尊敬をこめてながめるときだ、とわたしは思う。きわめればきわめるほど、彼の意味は深まり、彼の価値はたかまる。こいつはすばらしい寓話集だといってみたり、その文体や常識や算術をほめあげるとき、われわれは、まるで子どもじみた口のきき方をしているのであり、また、彼の弁証法にたいするわれわれの性急な批判も、おそらくその大部分は、これと大同小異なのではあるまいか。/このような批判は、急いでいるときに道のりにいらだつようなものである。だが一マイルという距離は、やはり一七六〇ヤードがいちばんいいのだ。慧眼なプラトンは、現代の精神に応じて、光と影とを配分しておいてくれたのである。(42)
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「ああ」と、オックスフォードにいる不精者の知人がいった、「あたらしいものも、真実なものも、なにひとつありはしない、--といって、べつにそれもたいしたことじゃないがね。」(115)
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人間というものは、ふしぎなほど、自分にそぐわぬ時代に生まれ、そぐわぬ仕事をあたえられるものだ。そして個々の人間は、燃えるような個性があればあるほどすぐれているのだが、そのために却ってますます孤独になるのだ。(141)
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Selected Works of Ralph Waldo Emerson Vol.VI
Plato ; or, The Philosopher「哲学に生きる人-プラトン」
Plato : New Readings「補説 あたらしいプラトン訳にせつして」
Swedenborg ; or, The Mystic「神秘に生きる人--スエーデンボルグ」
Montaigne ; or, The Skeptic「懐疑に生きる人--モンテーニュ」
Shakespeare ; or, The Poet「詩歌に生きる人--シェイクスピア」
Napoleon ; or, The Man of the World「世俗に生きる人--ナポレオン」
Goethe ; or, The Writer「文学に生きる人--ゲーテ」
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『エマソン選集7.たましいの記録(小泉一郎 訳)』を読む。
「兄弟の中で最も凡庸とみられたエマソンが、劣等感や病弱などの不幸を克服して、絶対的な自己信頼を強調する立場までいたった刻々の歩みを辿る」と選集紹介の欄にある。
初期の日記から抜粋したものである。
ニーチェと同じ頭の構造をしていたのだろう、
エマソンは断章形式の方が絶対に合っている。
思想のエッセンスがぎっしりと詰まっており、
これを最初に読むべきだったかもしれない。
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太陽は私たちを照らし暖め、光をあたえてくれるが、私たちはなぜそうなのか知りたいという好奇心はもたない。ところが私たちは、あらゆる悪や、苦痛や飢や蚊や馬鹿な連中に接すると、なぜだろうと考えるのである。(86)
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真実な人間ならだれでも、彼の野心は正確に彼の能力に比例する。頂点の高さは、基底の広さを決定する。(154)
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君が夢のなかでする行為から、君の生まれつきの性格を判断してみるといい。夢のなかで君が誘惑に負けるなら、おそらく君は、醒めているときも誘惑に負けるのだ。夢のなかで君が臆病者なら、私は、昼間の君の勇気に疑いをさしはさまざるを得ない。(175)
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蜜蜂の子は、巣箱を飛びたつまでは、光を見たことがない。それなのに、ひとたび空中へ飛びあがると、家から遠く離れたところまで飛んでゆき、多くの花のところへさまよっていって、まちがいなしに巣箱へ帰ってくる。何者が彼を導くのだろう?(209)
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「君が遠方を見ることができる限りは、君はけっして疲れてはいないのだ。」(212)
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「空はどこでも青いということを知るためには、世界中を旅することは要らない。」(237)
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巡礼者は森へはいってゆくが、実は彼は自分が訪れる場所の美しさをみずからたずさえてゆくのだ。というのは、人間の目こそ画家であり、耳こそ歌手だからである。人間がいないところには、色も音もない。人間は彼の世界の創造者なのだ。(250)
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Selected Works of Ralph Waldo Emerson Vol.VII
From The Journals of Ralph Waldo Emerson, ed. by Edward Waldo Emerson and Waldo Emerson Forbes, 1909-14
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『エマソン日記抄(富田彬 訳)』(新月社・英米名著叢書)を読む。
100ページぐらいまでは、『エマソン選集7』との重複がほとんどである。
分量の関係からか、一日の日記すべて全部ではなく、部分だけを訳出しているのが特長。
そのおかげで文章に無駄がなく、引き締まった印象を受ける。
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いろいろわれわれを刺激するものの中で、いちばんいいのはいい説教であるが、その次にいいものは、よくない説教である。よくない説教を聴いている間に(デュアリング)、あるいはそれを我慢(エンデュアリング)しているうちに、自分の得る思想は他の時よりももつと多いくらいである。(127)
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自分は自分が好きな本を読んだように、自分の本も読まれたいと思う。自分の本は、何か驚くべきものとして、狼煙として、爆発し人を驚かせるようなものでありたくない。花の香や新しい風景がいつの間にか旅人の心をとらえるように、親しみやすい愉快な影響でありたい。びっくりさせて嫌われたり反抗されたりするのはいやだし、そうかと言って若い人たちの思想を刺激して、接吻され抱きすくめられるのもいやだ。(173)
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保守主義は次のことを主張する、すなわち人間はどんなに興奮しても、自分の皮膚からとび出すことはできないが、それが却っていいのである、と。と言うのは、彼の皮膚が世界であり、天上の星辰は彼をその世界の中にいれておくからである。人間の愚かさの中に、神の智慧はきらめくのである。(197)
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その日を終ってから翌日にとりかかれ。そしてこの二つのものの間には睡眠という堅固な壁をおけ。それには節制をまもらないといけない。(204)
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以前には殆んど毎日つけていた日記をつけなくなってから、今ではもう一年以上になるにちがいない。頭のある人間にはめったに会うことがなく、たまに会っても何のかいもなく、時々はもう自分には全然新しい思想がわかず、自分の一生がすでに終ったのにちがいないと思うことがある。しかし自分の抽出しに数年間ほったらかしにしてある磁石だって、もう磁力はなくなったと信じているかもしれない。ところがそれに鋼鉄をくっつければ、昔の効力はちゃんと忘れないでいるのだ。自分は今朝知識と関心を同じくする人に会い、急に新しい思想がわいてきた。(259)
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年をとって記憶力が減退すると、そのつぐないに一般化の力と手段が増加してくる。(293)
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自分は、読まねばならぬ本で家中いっぱいにしているが、(死期をむかえて後に)魂を待っている新しい天国が、これらの本を参考にすることをゆるすかどうかを、疑っている。(294)
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SELECTIONS FROM EMERSON'S JOUNALS
ラルフ・ワルド・エマーソン、ラーフ・ウォルドー・エマソン
ラルフ・ウォルド・エマーソン、ラルフ・ウォルドー・エマーソン
ラルフ・ワルド・エマソン、エマアソン

8/3
黒川伊保子『怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか』(新潮新書)を読む。
「ゴジラ、ガメラ、キングギドラ……潜在脳に語りかける「音」の正体とは/脳科学、言語学、物理学を駆使した、まったく新しいことば理論」と帯にある。
著者は自慢げに「サブリミナル・インプレッション」が、
画期的な理論だと言っているが、はたして本当にそうだろうか。
共感覚の持ち主として有名なナボコフの傑作『ロリータ』の印象的な書き出しや、
ランボーの母音を色に喩えた詩(Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青。)など、
音のイメージを、記述しようとする試みは、そこらじゅうにあふれている。
著者はまず「自身の見識がいかに浅いか」を反省するべきであろう。
とはいえ、音が心(印象)に影響を与えているのは確かな事実である。
問題は、音声を「唯一の」または「一番の」原因だと考えてしまうことにある。
音声中心主義者のくせに、日本語がすばらしいなどと言っていたら
あの世でデリダに怒られそうである。
本書の一番の失敗は、知識が圧倒的に欠如した状態で、
学問としてこの説を提示しようとしたことにある。
少なくとも、これを理論書と呼ぶことはできない。
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黒川伊保子『イホコ先生の音韻姓名判断』(双葉社)を読む。
「「アイちゃん」はなぜ勝負強いのか/人は「名前の魔力」から逃れることはできない! ベストセラー『怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか』の著者で、「世界一受けたい授業」(日本テレビ系毎週土曜日19:57〜放送中)出演の感性アナリスト・黒川伊保子が、音韻理論を画期的な「新・姓名判断」として集大成させました!」と帯にある。
これくらいのノリ(=占い)で、なぜ著者は満足できなかったのだろう。
画期的だと言っているが、音を使った占いは珍しくない。
それどころか、結構ポピュラーである。
著者は前著の成功で天狗になっているのではないか。
「帯」にある著者近影がすべてを物語っている。
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『NHK 知るを楽しむ(木)日本語なるほど塾 教育テレビ2006年 2-3月』を読む。
●「2月 林望 リンボウ先生の手取り足取り書き方教室 説得力と品格のある文章を書くには? 文章上達への近道を伝授する」
日本エッセイスト・クラブ賞を受賞したデビュー作『イギリスはおいしい』を
10年ぐらい前に読んでいただけなのだが、この人はなかなか文章がうまい。
内容は当たり前のことばかりだが、一気に読めた。
●「3月 黒川伊保子 あなたの知らない語感の力 話題の人やヒット商品 その理由は名前の語感にある!?」
いよいよNHKに進出である。
ソクラテス(プラトン・クラテュロス)の話が出てきたのなら、
クラテュロス幻想(クラチュロス幻想)そのものについてもう少し語ったほうがいいと思うのだが。
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やはり、意味よりも音の効果のほうが、影響力が強いと考えられます。(85)
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こう書くと、小中学生の夏休みの自由研究テーマにさえなりそうなシンプルさでしょう? なーんだ、世界初の研究なんていったって、たいしたことないやと思われた方も多いのではないでしょうか。そうなんです。私たち日本人にとってはね。(112)

8/4
木通隆行『音相 ON-SOU』(プレジデント社)を読む。
「社名、商品名から人名まで--ヒット・ネーミングは"音"で決まる」と表紙にある。
伊保子先生の元ネタである。
教科書のような体裁で、じっくりと音相について解説している。
分析方法が詳述されていないため不満は残るが、
これぐらい真剣にやっていれば好感が持てる。
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音相は特殊な人の感覚でとらえたものであったり、裏付け説明のない結論の押し付けなどであってはならず、あくまでも客観的な資料の積み上げでなければなりません。(122)
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姓名の音相分析によってとらえられるものは、その人の性格のディテールではなく、性格の大まかな方向づけにすぎませんし、これによって「運勢」を占うなどということももちろんできません。(189)
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本書の中で私は多くの音相分析をしてきましたが、文章を作る時、こうした作業を1語1語について行なうことは不可能で、それは平素の訓練によって感覚的にとらえてゆく以外にありません。(212)
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木通隆行『ネーミングの極意--日本語の魅力は音がつくる』(ちくま新書)を読む。
「「ひかり」は「のぞみ」より速い?! 心に届くのは意味より音。商品名から流行語まで、語音の魅力を徹底分析、今すぐ役立つ音相理論入門。」
前著との繰り返しが多く、どちらかというと退屈である。
エッセイ感覚で軽く読み飛ばす。
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日本語の音相(http://www.onsosystem.co.jp/)
ネーミングはこれを知らずに作れない(http://www.onsonic.jp/)
「バベル」への周遊(参考までに)(http://www005.upp.so-net.ne.jp/kenji99/japanese.htm)

8/7
木通隆行(監修)/ 黒川伊保子(著)『音相で幸せになる赤ちゃんの名づけ』(青春出版社)を読む。
「「ちひろ」はキュートで「ももえ」はエレガント 音がもつ魅力をそのまま赤ちゃんへ。これまでになかった新しい名づけの決定版!」と表紙にある。
「花と樹」「宝石」「星座」「お菓子」「音楽」「ブランド」「物語の世界」
「神話」「アニメ」「有名人」「擬態語」「慣用句」「願い」、
それぞれのキーワードをイメージさせる名前が、24個ずつ並べられている。
信じる信じないはともかく、これは実用書として役立ちそうである。
でも、「名前は、親が子に与えることができるものの中で、最高の贈り物です(21)」
というのは、明らかに言い過ぎである。(最高のものは「愛情」のはずである)
後ろのページで「名前は、親から子へと最初に贈るプレゼント(234)」
と言い直してはいるけれど。
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「名前の音の、魔法の呪文のような効果について言及した本は、音相理論の書以外にはこれまでありませんでした。(22)」
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Using 'Onsou' to Give Your Child a Happy Name
Seishun Super Books
音相システム研究所
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木通隆行『日本語の音相』(小学館スクウェア)を読む。
「ことばのイメージを捉える技術、表現する技術」と表紙にある。
『音相』よりもさらに踏み込んだ解説がなされており、好感の持てる一冊。
それでも、音相至上主義なのは、やっぱり気になる。
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(音相的に美しいことばでない)「セーヤ」の出現に接して、美しい日本語を気安く捨てて省みない現代人を嘆くべきか、「現代」を見事に捉えたことば感覚に敬意を払うべきか…これは、優れた流行語に出会うたびに感じるジレンマである。(130)
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「他援効果」をコンピュータで取り出すことを試みたが、ほとんど不可能に近かった。「他援効果」か否かの判断は評価者の感性に待つしかないようである。(186)
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「オンソニック/Onsonic(R) version1.0」(有)音相システム研究所

8/8
岩永嘉弘『すべてはネーミング』(光文社新書)を読む。
「「名付けビジネス」の第一人者が明かす「買わせる」名前の極意。」と帯にある。
「からまん棒」「ASTEL」「saita」などの名づけ親として知られる著者が、
ネーミングの楽しさを心ゆくまで書き尽くした本。
読んでいて、わくわくしてくる。
若者の感性を積極的に取り入れていくという姿勢もよい。
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テーマを絞り込むからこそ、はっきりといくつか言葉のストリームが湧き出て、より豊かな表現が可能になる。その点においてやはり俳句とネーミングは近いものがあるといえるでしょう。(30)
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舞台はコンビニやスーパー、となれば店員と会話をかわすことなく商品を選ぶことになる。すると、棚から商品が話しかける必要があるのですね。「ごめんね」「なっちゃん」「あ! あれたべよ」…。実際に「『ごめんね』ください、とか、『あ! あれたべよ』ひとつ」と口に出していうのは恥ずかしい。店員とは口を利かない前提でネーミングされてるんですね。これはもう現在のディスコミュニケーションの反映、とまでいってしまいたい。(93)

8/9
スティーヴン・ミズン『歌うネアンデルタール 音楽と言語から見るヒトの進化』(早川書房)を読む。
「太古の地球は音楽に満ちていた。認知考古学の第一人者が、先史時代の歌声を再現する。」と帯にある。
個体発生は系統発生を繰り返す。
これを足がかりに、赤ん坊が絶対音感を持っていることを示し、
ホミニドは言語を獲得する前に、コミュニケーションの手段として、
歌を使っていたのではないかと主張。
文の勢いやテンションに負けて、納得させられてしまったような気がするが、
それでも読後、かなりの爽快感が味わえる。
言語のはじまりが、「構成的・指示的」ではなく、
「全体的・操作的」であるという主張も面白かった。
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Hmmmmの字面のせいで、Crash Test Dummies(クラッシュ・テスト・ダミーズ)の
「Mmm Mmm Mmm Mmm(ムムムム…)」という曲を思い出した。
「In The Days Of The Caveman」の方がイメージは近いけれども。
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訳す過程で原語に含まれていた細かなニュアンスの多くが失われると了解したうえで、日本語を英語だけでなく世界じゅうのどの言語にも訳すことはできるが、ある文化の音楽をべつの文化に翻訳しようとするのはまったく無意味だし、なによりそうする理由自体がない。つまり、ジョン・ブラッキングが一九七三年に指摘したように、言語行動の普遍的理論はありえても、音楽行動にはないということだろう。(27)
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これを進化に置き換えてみると興味深い。前言語段階のヒト科の霊長類(ホミニド)は生涯、絶対音感への性向を維持したかもしれず、したがって、言語を使うホミニドより高い音楽能力を発達させていたかもしれない。もちろん、この仮説を検証するのは不可能だ。しかし、サルに一般的な音楽の感受性があり、絶対音感がその基礎にあるかもしれないという知見は心強い。(116)
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感情は、個人の思考と行動に影響をおよぼす。幸福な気分の人は親切で協力的な傾向があり、自己についても他者についても肯定的に評価し、創造的に物事を考える。であれば、いつも幸福な人に囲まれていたらどんなにいいだろうとだれしも思わずにいられない。そして、周囲の人がみずから幸福な気分にならないなら、こちらからちょっとした幸福を他者に吹きこめたらどんなに素晴らしいだろう。幸福な歌を歌って聞かせるのもひとつの手だ。(144)
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私たちはおおむね、まったくなじみのない言語でも、ことばの音と動物の物理的な特徴とを無意識に結びつけて、ある種の動物に属する名前を直感的に認識できるらしい。/この知見は、物と名前の恣意的なつながりという、言語学の根本的な主張への反論となる。たとえば、英語で「ドッグ」という単語がこの恣意性を説明するのによく利用される。この単語は、イヌらしく見えもしないし聞こえもしないからだ。フランス語の「シアン」も、ドイツ語の「フント」も、マレー語の「アンジン」も同様だ。だが、(ジョージア大学の民族生物学者ブレント・)バーリンの研究は、動物の名前が完全に恣意的ではなく、その動物が出す音(擬音)や体の大きさや動き方などの固有の特性を反映していることを示した。(243)
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ホモ・エルガステルの場合と同様、ネアンデルタール集団のメンバーは、自分たちの社会や地域環境に(つ)いての知識と経験を共有し、共通の目的を持っていたと考えられる。高次の「Hmmmmm」があることで、構成的な言語でしか作りだせない新奇の発話の必要性は、あったとしてもごくわずかだっただろう。わかりやすく言うと、ネアンデルタールは、過去に何度も言ったことか、周知の「Hmmmmm」発話の韻律、リズム、ピッチ、メロディ、それにともなう身振りの変化で伝えられること以外は、とくに話すことがなかった。(324)
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(言語学者のアリソン・)レイは「分節化」という用語を用い、人類が全体的フレーズを分解してそれぞれ指示的な意味を持つばらばらのユニットにし、べつの発話からのユニットと組み合わせて無数の新しい発話を作りはじめた過程を説明している。これこそ、言語を他のコミュニケーション体系よりはるかに強力にする特徴、構成性の出現である。(360)
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熊谷淳子 訳
Steve Mithen "The Singing Neanderhals : The Origins of Music, Language, Mind and Body"
Hmmmm(全体的(Holistic)、多様式的(multi-modal)、操作的(manipulative)、音楽的(musical)、ミメシス的(mimetic))
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スティーヴン・ミズン『心の先史時代』(青土社)を読む。
「人間はなぜ文化をもったのか 芸術・宗教・科学の起源/人間は六〇〇万年前に進化の系統樹から猿と分かれ<心>を進化させた。文字や石器の登場以前の先史時代に、人類はその心で何を見て、何を考えていたのか? 心のシステムを解明する進化心理学と、認知考古学の最新データを駆使して、心の世界へ新たな扉を開ける。」と帯にある。
「心」というよりも、「認識・知覚」や「脳の働き」と表現した方が的確である。
アナロジーのうまさで成立している一冊。
「聖堂」に「技術的知能」「博物的知能」「社会的知能」「言語的知能」といった「礼拝堂」ができ、
それぞれに通じる「扉」の開かれていく様子が面白い。
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チンパンジーが何かの道具を作るために別の道具を作るということは知られていない。何かの道具を作るために別の道具を作るには、石と木のように二つの対照的な原材料の性質を心の中で把握し、一方がもう一方にどのような作用をもつかを理解している必要がある。(130)
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「志向性のレベル」は、哲学者ダニエル・デネットが、社会的知能がどのようにはたらいているかを考えやすくするために使った言葉である。もし私が、あなたがあることを知っているということを信じたら、私は一次の「志向性のレベル」を扱えたことになる。もし私が、私があることを知っているということをあなたが信じているということを信じたら、私は二次の「志向性のレベル」を扱えたことになる。もし私が、私があることを知っているということを私の妻が信じているということをあなたが信じているということを信じたら、私は三次の「志向性のレベル」を扱えたことになる。我々現代人は、あたりまえのように三次の志向性のレベルにぶつかる--少なくとも、第三の人物が信じていると他の人が信じていることをめぐって展開し、たいていはその考えが間違っていたということになるホーム・ドラマを信じているのならばそうなる。我々の志向性のレベルは五つが限界のようだ。(…)どんなにいい条件がそろっていても、チンパンジーが対処できる志向性のレベルはわずか二つということらしい。(144)
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ある現代の燧石(フリント)加工家にして考古学者は、最近、「今日でさえ、石器文化のテクノロジーを研究する学生で、上質のルヴァロワ石核や剥片を作ることにかけて、ネアンデルタール人の熟練のレベルに達する者はほとんどいない。また現代で、上質のルヴァロワ尖頭器を作る技法を習得した燧石加工家も二〇人といない」と述べている。(160)
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(擬人化の思考)は現代の狩猟民にあまねく見られ、そのことの重要性は、擬人化の思考が動物行為に対する予測を大きく改善できるという点にある。鹿や馬が、現代人類がするような形で食物収集や移動のパターンを考えるわけではないにしても、鹿や馬もそうしているのだと想像することは、動物たちはどこで餌を探しどこへ移動するのだろうと予測する上で見事なはたらきをする。(222)
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比喩(メタファー)や類推(アナロジー)は一つの領域の知識に依存して立てることも可能だが、いちばん強力なものは、生物を物理的対象と関連づけたり、概念を実体のあるものと関連づけたりというふうに領域境界をまたぐものだ。当然、これらは認知的流動性のある心にしか生まれえない。(281)
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松浦俊輔・牧野美佐緒 訳
Steve Mithen "The Prehistory of the Mind"
スイス・アーミー・ナイフ、モジュール、コンピューター、スポンジ

8/10
クリストファー・ストリンガー/ロビン・マッキー『出アフリカ記 人類の起源』(岩波書店)を読む。
「現生人類(ホモ・サピエンス)はどこから来て、どのように世界各地に進出していったのか。また、なぜネアンデルタール人は滅び、現代人は生き延びたのか。現生人類のアフリカ起源説を提唱した人類学の第一人者が、人骨などの化石、石器などの考古学的証拠、DNA分析などの最新の証拠をもとに、人類のたどった道を臨場感たっぷりに語る。」と折り返し部分にある。
「アウト・オブ・アフリカ説」がジャーナリストと手を組んだ一冊。
淀みのない、なめらかな筆致で、人類の「進化」の様子が描かれている。
人類学に対して悪影響を及ぼした人種差別的な偏見を
論破する箇所が、特に感動的である。
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ラスコーその他の洞窟で顕著なことは、芸術の才と想像力の真に驚くべきこれらの結晶が、前例なしにいきなり現われるように見えることである。こうした芸術作品の出現を予告する例は、ほとんど知られていない。不細工でお粗末な初歩的な兆しが、まったくないのだ。しかし(アフリカとオーストラリアの早期ホモ・サピエンスを取り上げるときにやがて見るように)そのときまでに、たぶん皮革とかその他の腐朽しやすい素材に、あるいはまた自分自身の肉体に、人々が何の形式の絵も描かなかったとはとうてい思えない。(67)
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言語の「突然変異」は、ゆっくりと蓄積し、その結果、大雑把に言えば二つの言語は、両者の祖先集団の分離が始まって一〇〇〇年たつごとに、両者の共通言語の二〇%を失っていくようだ。(184)
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世界の諸民族の間には根深い生物学的区別があるとかつて考えられていたように、科学界でも人種に関して型にはまった考え方が幅をきかせ、その根は深い。数十年もの間、今日のホモ・サピエンスに見られる世界的な分岐は、ヒトの系統樹に起こった一〇〇万年前の分裂の名残だと考えられていた。その考えでは、人種は深い生物学的な意味を持っているとみなされた。アウト・オブ・アフリカ説が受け入れられるようになると、その見方もようやく変わってきた。アウト・オブ・アフリカ説が、肌の下はみなアフリカ人なのだということを証明したからだ。エスキモー、サン、オーストラリア・アボリジニ、スカンジナビア人、その他の諸民族へといった分化も、人類進化という長い歌唱のコーダ(終結部)にすぎなかったのだ。(239)
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環境問題に関するこの延々と続くリストは、もちろん別に新しいものではない。そして絶えず語り直される過程で、この問題はいくぶん売り込まれすぎている。私たちはそのメッセージに慣れっこになってしまった。それは恥である。警告は緊急警報で、その緊急性もだんだん切迫性を増しつつあるからだ。(322)
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Christopher Stringer "African Exodus : The Origins of Modern Humanity"
河合信和 訳
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クリストファー・ストリンガー/クライヴ・ギャンブル『ネアンデルタール人とは誰か』(朝日選書)
「人類起源の謎を解き明かす--彼らは、われわれの祖先か、否か。それとも…。最新の人類学と考古学の研究成果が迫る。」と帯にある。
本書ではネアンデルタール人を擁護している。
野蛮で、粗野で、馬鹿な種族ではなく、
たまたま運が悪かったために滅びてしまった種族として、
ネアンデルタール人を記述している。
事実の羅列が多すぎて、文章が読みにくいのが難点。
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多地域進化説は、時間と空間の両方の連続性を重視する。このモデルによれば、遺伝子(遺伝を司る基本単位)が更新世すべての人類集団間で循環し、交換されていたので、隔離も異所的種化を可能とするほど十分ではなかったのだという。過去一〇〇万年間を通じ、現実にはただ一種、すなわちホモ・サピエンスしかいなかったので、種化などありえなかったともいう。(116)
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ヒトのミトコンドリアDNAが一九七〇年代に詳しく研究され始めると、すべてのヒト・ミトコンドリアDNAは基本的に酷似していることが明らかとなり、大きな地理的集団間、すなわち「人種」間でも、わずか二、三回の突然変異による違いしかないことが判明した。つまりそうした違いしか生まないほど、今日の「人種」の形成までには大した時間が経っていない、と示唆されたのだ。この事実は、全「人種」共通の祖先はそれほど太古にまでさかのぼれないことを意味する。したがって遺伝的に明らかになった限りでは、新人の起源はつい最近であるようだ。(208)
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ネアンデルタール人とクロマニヨン人はかなり密接な関係があったように思われるから、遺伝学的には両者が通婚するのに何の障害もなかっただろう。両集団を互いに隔てていたものは、むしろ圧倒的に行動面の違いが障害となっていただろう。両集団は形態的にかなり違っていたし、言語と身振り表現でも相当な違いがあったに違いない。混血児が成長でき、また繁殖能力を持っていたとしても、その混血児は両親のいずれかの集団からも差別されただろう。そのために、両方の親の属する集団間での遺伝子拡散は限定されたはずだ、と確言できる。(314)
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地理的に小さく、自足的だった彼ら(=ネアンデルタール人)の社会に、視覚的手段で社会的なコミュニケーションをいっそう深めていく必要は、そもそもなかった。(350)
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人類史の物語の中に勝者や敗者を探そうとするのは無意味だ、と私たちは考えている。それぞれの時代が、歴史に時代独自の光沢を付けているからである。むしろ違いが存在していることを、人類に関しての輪郭付けと考察を広げるために利用することを、受容すべきなのだ。(362)
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Christopher Stringer and Clive Gamble "In Search of Neanderthals : Solving the Puzzle of Human Origins"
河合信和 訳
集団的置換説(ノアの方舟、エデンの園、園丁、第二次アウト・オブ・アフリカ、中心と拡散、ミトコンドリアの「イヴ」)
地域的連続説(ネアンデルタール期、多地域進化、ノアの息子、枝付き燭台、中心と周縁、遺伝子拡散)

8/11
リチャード・G・クライン/ブレイク・エドガー『5万年前に人類に何が起きたか? 意識のビッグバン』(新書館)を読む。
「いま明らかになる現生人類誕生の秘密!」と帯にある。
本書に新たな発見はない。
学会の膨大な蓄積を、整理して並べているだけである。
最後の最後で、邦題のタイトルを問いかけるのには愕然とした。(299ページの引用を参照)
邦題が巧みだとも言えるし、読者を体よく騙しているだけとも言える。
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文化は、環境の変化に適応するためとくに役立つ手段を提供する。文化的革新が蓄積するスピードは、遺伝子突然変異よりもはるかに早い。すぐれたアイディアは世代間で垂直に伝わるだけでなく、別の個体群へと水平にも拡大する。(27)
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インディアナ大学の考古学者ニコラス・トスがおこなった実験をみると、オルドワンの石器がこれほど分類しにくい理由も納得できる。トスは剥片石器を実際に作ってみた。オルドワンの石核を複製しようと努力した結果、最終的にどんな形ができるかは、作り手があらかじめ考えたモデルによるのでなく、素材となる石、手を加える前の岩石の破片の形次第とわかった。実験でできた石器は、形がまちまちだった。本物のオルドワン石核も、まさにそれと同じだ。(76)
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(十八)六四年、アイルランド人解剖学者ウィリアム・キングはこのフェルトホーフェルの化石を新しい種とみなし、ドイツ語のネアンデルタール(ネアンデル渓谷)から「ホモ・ネアンデルターレンシス」という名前を考えた(現代ドイツ語では、Thal(渓谷)の綴りはTalとなるため、専門家のなかにはNeanderthalよりNeandertalという俗語的な綴りのほうを好むむきもある。どちらも使われるものの、私たちのようにキングの原記載に賛成する者にとっては、専門的な名称はneanderthalensisでなければならない)。(184)
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法システムにおける合法的疑いのような形で、読者が唯一留保するとしたら、それは約五万年前、現生人らしい行動があらわれるきっかけとなったものとは何だったのか--という点ではないだろうか。(299)
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鈴木淑美 訳
Richard G. Klein, Blake Edgar "The Dawn of Human Culture"

8/14
『プラトン全集2 クラテュロス テアイテトス』(岩波書店)を読む。
「七年の歳月をかけて完成した邦訳全集の決定版。本巻所収の「クラテュロス」はプラトンの言語論として注目される。「テアイテトス」は知識の成立基盤を批判的に問う、認識論における古典中の古典」と帯にある。
-
・「クラテュロス 名前の正しさについて」
第一部では「ヘルモネゲス(A)VS ソクラテス(B)」、
第二部では「ソクラテス(A) VS クラテュロス(B)」となっており、
立場のすばやい入れ替えがいかにもソクラテスらしい。
「原意説明部分は、近代の一般の読者には退屈に感じられるのが普通である」と解説にあるが、
そんなことは、まったくない。
無節操なほどに書き連ねられた民間語源説(folk ethymology)は、
言語の持つ豊かさを再認識させてくれる。
清涼院流水は、クラテュロスの直系に位置するのかもしれない。
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・「テアイテトス 知識について」
「認識論」である。
この種の論旨は、対話形式に向いていない。
内容はともかく、読み物としてはかなり退屈だった。
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ソクラテス だから、このような名前を無理やりにこじつけて[ギリシャ語として説明して]はいけないのだ。なぜなら[こじつけるならば]何とか説明をつけることはできるだろうからね。(85)
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ソクラテス 名前とは、模倣される対象の音声による模造品である。そして音声で模倣する人は、何であれ彼が模倣するもののところを、名づけているわけなのだ。(121)
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ソクラテス 名前が当の事物に似たものであるためには、必然的に、人がそれから最初の名前を構成しようとするところの字母が、本性的[自然的]に事物に似ていなければならないのではないか。ぼくが言おうとしているのは次のようなことだ。さっきのように絵のばあいで考えてみよう。画かれるもの[絵]は絵具で構成されているわけだが、絵画術が模倣する対象に本性的に似ている絵具が存在しなかったならば、いったい何らかの有るものに似ている絵をだれかが構成する[画く]なんてことがいつかあるだろうか。それとも、そういうことは不可能かね。
クラテュロス 不可能です。
ソクラテス それでは名前だって同様で名前を構成しているもの[要素]が、先ずもって、名前がそれの模倣品であるところの原物に対して、ある種の類似性をもっているのでないかぎりは、名前は決していかなる事物にも似たものとなることができないだろうか。そして、名前を構成すべきものとは字母のことではないかね。
クラテュロス そうです。(151)
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ソクラテス 先ず第一にr(ロー)の字は、あらゆる動き(kinesis)[を表現するため]のいわば道具であるかのように、僕には見えるのだ。(・・・)これは運動を模写するにはかっこうの道具であると、名前を定めた人には思えたのだね。(・・・)なぜなら彼は、ぼくの思うに、rの字の発音に際して舌が[他の場合に比して]静止することの最も少なく、震動することの最も多いのを看て取ったからなのだよ。それだからこそ彼は、これらのことを表すのに、この字母をしきりに用いているのだと、僕には思えるね。(・・・)次に今度はi(イオータ)だが、彼はこれをすべて細やかなものに対して用いている。細やかなものこそ、他の何にも勝って、すべてのものを通り抜けて行くことができるだろうからね。(・・・)同じように、ph(ペイ)とps(プセイ)とs(シグマ)とz(ゼータ)でもって--これらは強いいぶき[気息]を伴って発音されるものなのだから--すべてそのような[気息に関する]ものを、これらの文字を用いて名づけることによって、彼は模倣しているのだね。(・・・)他方d(デルタ)とt(タウ)は反対に、舌を圧縮し[歯の裏側へ]押しつける作用をもっているので、束縛(desmos)と静止(stasis)を模倣するのに役立つと、彼は信じたようだね。(・・・)また彼はl(ラブダ)の発音の際に舌が[他の字母の場合に比して]一番よくすべるということを看て取って、(・・・)写し取りながら名づけたのだ。(・・・)また舌がすべる際にg(ガンマ)がそれを引き止める力を持っているので、[gとlを用いて]彼は"粘り気のある"(glischron)ものや"甘い"(glyky)もの、"ねたねたする"(gloiodes)ものを写し取ったのだ。/さらに彼はn(ニュー)の音の内部性に気づいて、"内に"(endon)あるものと"の中に"(entos)あるものとに名づけたのだ。これらの文字でそれらの事象を写し取ろうというつもりでね。/さらに彼はa(アルバ)を"大きい"(mega)ものに、そしてe(エータ)を"長さ"(mekos)にあてがったのだが、それはこの両文字が大きいからだ。/また彼は"丸い"(gongylon)ものを表すしるしとしてo(オウ)の字を必要としたので、この文字をこの名前のなかにふんだんに混ぜ込んだのだ。/そしてその他のもの[事物、概念]についても同様で、立法者はそれら[事物、前例だと「大きい」]を文字[例、a]にも綴[例、mega]にも[似通ったものに]当てはめることによって、それぞれの有るものに対するしるし、つまり名前を作ったのであるらしいね。そしてそのあとで、今度は残りもの[派生的な名前]を、今作ったこれら[最初の名前]そのものを用いて合成したのだろうね。[やはり事象を]模写しながらね。/以上がね、ぼくには、おおヘルモゲネスよ、名前の正しさがそれであろうと目ざしているところのものなのだと見えるのだよ、もしもこちらのクラテュロスが何か違ったことを言うのでないかぎりね。(130)
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ソクラテス うん、そうそう、それだよ、君、君の思っている通りでいいんだ。さあ、それでは今から再びはじめにかえって、今までのはすっかり消した上で、ここまで来たからには、前よりも何かもっと展望をきいてよく見えるかどうか、見てくれたまえ。そしてもう一度言ってくれたまえ、何がいったい知識なのか。(320)
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Plato "Cratylus" 水地宗明 訳
Plato "Theaetetus" 田中美知太郎 訳
ヘルモネゲス、テセイ説、ノモイ説、慣習論者(conventionalist)
クラテュロス、ピュセイ説、ピュシス説、自然生成論者(naturalist)

8/15
ヘルダー『言語起源論』(大修館書店)を読む。
「言語起源の問題は言語の本質への問いと同じく、最も古くから論ぜられてきたテーマである。疾風怒濤期のドイツを代表する思想家ヘルダーの言語起源論(一七七二年)は、豊かな天才の直観によって優れた一個の作品に結晶している。その影響はフンボルトを経由してチョムスキーらの生成文法家に及ぶ。」と新刊案内にある。
当時、隆盛であった「言語は神から与えられたもの」という考えを否定し、
「人は自らの力で言語を創造した」と説く。
シュトルム・ウント・ドランクを牽引しただけあって、
ハイテンションな格調高い文章で、人間の尊厳を謳いあげている。
ただ、感情が高ぶりすぎているのだろう、
論理の流れが一定でないため、かなり読みにくかった。
(ジャン=ジャック・ルソー『言語起源論』(現代思潮社)は、数年前に読了済。)
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世界の大部分はヘブライ語から文字を相続したのであるが、それは初期においてはきわめて生き生きとした音声をもち、表記不可能であったので、非常に不完全にしか表記されなかった。これを明らかに示しているのは、ヘブライ語文法の全構造と、類似した文字がしばしば混同される事例と、とりわけ母音がまったく欠如していることである。ヘブライ語の文字が子音だけであって、言葉の肝心かなめの要素である母音がもともとまったく表記されなかったという奇妙な事実は、いったい何によるのであろうか。非本質的なことを書き表わし、本質的なことを省略するというこの表記法は、健全な理性の流れに逆らうので、文法学者たちがもし理解することに慣れているならば、かれらには不可解であるにちがいない。われわれのもとでは、母音は言語の最初のもの、最も生き生きとしたもの、いわば言語の蝶つがいである。ところが、かれらのもとでは母音は書き表わされない。なぜだろうか。それらが表記されなかったからである。かれらの発音はきわめて生き生きとし、精緻に組織され、かれらの気音はきわめて精神的かつ霊妙であったので、それは雲散霧消して文字に書き留められることはなかったのである。これらの気音を加えた生き生きした発音は、ギリシャ人のもとで初めてときほぐされ正式の母音になったのであるが、それでもなおかつ呼吸音符その他が援用されなければならなかった。(13)
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さあ、ここで、かれに「われ発明せり」(ευρηχα)と叫ばせよう。この内省の最初の標識は魂の言葉であった。そして、これとともに、人間の言語が発明されたのである。(42)
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一度、正確な発生点を誤ると、誤謬の場は両側に無限に大きくなる。そこで言語は、神が発明しなければならないほど超人的なものになったり、どんな動物でも骨折りをしさえすれ発明できるほど非人間的なものになったりする。真理の目標はただ一点であり、ここに立ってわれわれが四方を見渡すと、なぜ動物が言語を発明できないのか、なぜ神が言語を発明する必要がないのか、なぜ人間が人間として言語を発明することができ、また発明しなければならないかがわかるのである。(56)
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われわれはいかに年をとっていても、常に幼年期から成長するのであり、いつも進行中で、落着かず、満たされない。われわれの生活の本質的なものは享楽ではなく、常に漸進である。われわれは終りまで 生きたのでなければ決して人間でなかったのである。(122)
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Johann Gottfried Herder "Abhandlung uber den Ursprung der Sprache"
J.G.Herder、木村直司 訳、言葉の諸起源について
疾風怒濤、疾風怒濤期、疾風怒濤時代、嵐と衝動
シュトルム・ウント・ドランク、シュトルム・ウント・ ドランク(Sturm und Drang、storm and stress)

8/16
コリン・レンフルー『ことばの考古学』(青土社)を読む。
「ヨーロッパの起源の謎/ヨーロッパはどのように成立したのか--。インド・ヨーロッパ語族が、通説よりはるかに古い起源をもつことを立証し、ヨーロッパ人の起源を4000年以上さかのぼらせ、言語の系譜論に新しい視座を導入して、文明論の展開に画期的な地平を拓いた、問題の書」と帯にある。
考古学者である著者が自分の専門分野を通して、
言語の影響要因は、異民族の「侵入」などによる攻撃的なものではなく、
物資の「交易、交流」などによる友好的なものによる(ものが多い)と主張する。
言語学者でないため、言語そのものに関する記述はかなり少ない。
-
同時に著者は、それぞれの専門分野の成果を学際的に利用しあうことの重要性も訴えている。
原題は『考古学と言語』である。
それを、『ことば「の」考古学』と訳してしまっては、
タイトルに込めた意味合いがまったく伝わらなくなってしまうのだが。
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文化や言語に必ず名称を与えるという考古学の慣例があるが、不幸なことに重要な新発見に対して最初に付けられた名前が、まったくふさわしくないことがある。とりわけ、言語が充分に解明される以前に名前が付けられてしまうのは、不都合である。というのは、解読してみるとその名前の選び方が間違っていたことがわかるという、困った結果になることがあり得るからである。(84)
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比較言語学は優れた言語学者たちが特定の言語の歴史を調べ、言語間の関係を研究している有効な学問である。提出される学説は博識に裏付けられていることを十分に承知しているつもりである。私が批判しているのは、これらのデータを利用して性急に歴史的結論を下そうという姿勢である。(114)
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私が訴えたいことは言語学、とくに歴史言語学の成果と考古学の物的証拠を適合させる方法論が欠如しているということである。つまり両者の成果を利用する試みをしている研究に具体的リアリティが見られないということである。私は考古学を優先させて、その成果を言語学に押し付けているわけではない。むしろ逆に、先史時代(無文字時代)の考古学が使用された言語について、なんら寄与することができないという点に問題がある。少なくとも考古学的遺物は年代の枠にぴったりと収めることはできる。これらのものがいつ作られたか、いつ埋葬されたかは判明する。歴史言語学は反対に初期言語の再構築を試みることはできるのだが、それを年代的にきっちりと決定することができない。言語年代学がそれを可能にしたという説は認められない(語彙統計学やその他の計量的研究法を否定しているわけではない。それらは言語関係に光をあてることはできるが、その年代を決定できない)。(366)
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Colin Renfrew "Archaeology and Language : The Puzzle of Indo-European Origins"
橋本槙矩 訳
インド・ヨーロッパ語族、印欧語族、インド・ゲルマン語族、
原言語(Ursprache)、原インド・ヨーロッパ語(Proto-Indo-European)、
インド・ヨーロッパ祖語、印欧祖語、PIE、インド・ゲルマン祖語

8/17
最相葉月『絶対音感』(新潮文庫)を読む。
「五嶋みどり、五嶋龍、千住真理子、矢野顕子……/一流音楽家、科学者ら200人以上に証言を求め、「絶対音感」の謎を探り音楽の魅力の本質に迫るノンフィクション/文庫決定版」と帯にある。
パステルナークの逸話から始まり、前半は一気に読者を引き込む。
絶対音感がいかに誤解されてきたかを明らかにし、
人はどのように音楽と接していくかを探っていく。
後半のエピソードは、あってもなくてもよいレベル。
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だんだん頭の中で鳴る曲が苦痛になりました。なぜかというと、記憶力がよかったせいか、どんなに自分で曲を書いても、昔どこかで聴いた曲に似ているとすぐわかってしまうのです。(27)
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「言語との共通性は感じられますね。生まれたばかりの乳児は、フランス人であろうと日本人であろうと人種にかかわりなく、すべての音を弁別する能力があるということがわかっています。音だけでなく言語についても、たとえば『さ』と『た』の違いはs、tという子音、つまり高い周波数で聴き分けていて、こうしたわずかな違いにもすでに反応することができます。/ところが、成長するに伴い、母国語を聴かされているうちに次第に、母国語にしか存在しない子音しかわからなくなってくる。逆にそこで使われない音については、弁別が非常に鈍くなってくるのです。フランス語のFやR、英語のLやRは日本人には発音や聴き分けがむずかしい。それは、たとえばラジオのラを<ra>と発音しても<la>と発音しても区別がつかないように、日本語ではそれらの単語の発音の違いによって、意味の違いが起こらないからだと思われます。/音についても同様で、初めはあらゆる音を聴いているけれども、繰り返し聴かされる音だけが残ってそれ以外の要素が落ちていく。それによって、音のカテゴリー(分類)ができてくると考えられます」(115)
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「絶対音感には、それが必要かどうかという議論に進展してしまうほど不自由な側面があるといわれています。でも、私は、絶対音感がつけばそれだけでなんでもできてしまうので安心してしまい、みなさんがその後相対音感を身につける努力を怠ることが原因ではないかと考えているのです。絶対音感さえあれば安心という過大評価も、不必要だ、役に立たないという過小評価も、絶対音感にとっては迷惑なのです」(164)
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三、四歳でレッスンを開始している必要があると年齢を限定するのは聴覚上の理由だけではない。絶対音感とは音を絶対的に判断すること。他の音と比較してはいけないというのである。人や物との関係を通じて相対的な判断ができるようになることが人間の自然な成長であるにもかかわらず、そうなる前の脳が柔らかいうちに強制的に型枠をはめてしまうわけだ。(166)
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人の子どもがどんなふうに教育されようとかまわないではないか。他人にあれこれいわれる筋合いのものではない。私の子どもなのだから私が教育する。その代わり、親は親としての責任を最後まで持ち、その子が自分で生活していける人間になれるよう徹底的に教育しなくてはならない。そうでなくては子どもに失礼だ--。(357)
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absolute pitch、perfect pitch
小学館ノンフィクション大賞受賞作
絶体音感は誤記
さいしょうはづき

8/18
マイラ・ゴールドバーグ『綴り字のシーズン』(創元コンテンポラリ)を読む。
「創元コンテンポラリ創刊/"エイリール"*はe-y-r-i-r 見知らぬ単語の綴りを答え驚異の少女、全米大会へ/綴り字コンテストが家庭崩壊の危機を招く? アメリカの大型新人が放つ、パワフルな物語! *エイリール=アイスランドの通貨単位」と帯にある。
中盤くらいで結末の予想がついてしまい、予定調和的なオチにゲンナリする。
著者は多くのことを書こうとしすぎている。
冗長な部分をカットすれば、良質の小説に生まれ変わるのでは。
(主人公の兄エアロンが新興宗教にのめり込んでいく部分は、面白かった。)
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飛行機での体験の結果、エアロンは熱心な空の観察者となる。ソールは息子のそんな様子に、早くも天文学に興味を示していると考えたが、エアロンが好んだのは星の少ない晩だった。雲が多ければ多いほど、神の存在する場所が増える。エアロンは空を見あげると、脈打つ柔らかな光を探す。劇的な輝きなんかじゃない。でないと、誰もが見つけてしまう。エアロンは期待しすぎてはいけないと知っていた。モーセだって、ごくたまにしか神を見ることはできなかったのだ。(67)
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 辞書のページを繰っていくのは顕微鏡をのぞくようなものだ。それぞれの単語が独特の特性を有する部分--接頭辞、接頭辞、語根--に分解される。イライザは文字の間の自然法則だけでなく、各々の文字の性質をも、こつこつと見つけだした。R、M、Dは強く、揺るぎなく、忠実。時として黙音となるBとGとつるりと抜けそうなKは執拗な行動範囲に従う。Pの音をFのような音に変え、ROOM(部屋)をRHEUM(カタル性分泌物)に変えてしまう、実に手におえないHでさえ語根には従う。子音は言語の積み荷を堂々と運ぶ言葉のラクダだ。
 が、母音は子音とは異なる種、水の深みできらりと光る魚だ。母音は弾力に富み、変わりやすくきまぐれで、不実だ。EがIやUのような音になることもある。-IBLEと-ABLEは音で区別することができない。母音はあらゆる組み合せを試みてきた。その結合はすべてを網羅し、近親相姦的でさえある。EはすぐにA、I、Oとペアを組み、ダンスをリードしたり、されたりする。イライザは予測のつかない母音が好きで、そのなかでも特にYが好きだった。Yは分類されることを拒み、同時にふたつの分類にまだがることができる唯一の文字だ。綴り字コンテスト以前のイライザは、鈍くて意外性のない子音だった。コンテストで成功してからは母音質になった。イライザは人生をアルファベットで見るようになった。学校はスケジュールが変わらないという点で子音的。可能性に満ちた神は母音。死は究極の子音。(84)
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百二十七番がLOQUAT(ワビ)という単語を与えられたとき、目を閉じたイライザは心のなかが空になるのを感じた。Lが頭のなかいっぱいに広がる。鋳造した金属のような鮮やかな黄色をしている。"これがお父さんの言ってたことなんだ"あまりのたやすさにイライザは驚いた。イライザの頭のなかで、Lはだんだん長くなり、端が丸まって、Oになった。イライザの体の緊張がとける。Oの端に尻尾ができてQになったとき、指先に変化が起きているのを感じた。Qのてっぺんが気化し、尻尾が消えると、Uの文字が腹に収まり、温かさが広がる。Uが宙返りをして、真ん中に横の線が伸び、Aになる。くすぐったい。Aの脚が閉じて一本になり、横に伸びていた腕がてっぺんに浮いていくと、Tがイライザの身体を満たし、イライザの背筋をぴんと伸ばした。イライザは目を開く。たった今深い眠りから目覚めたような感覚だ。百二十七番が熱烈な拍手を浴びせながら、舞台を降りていくところだった。(211)
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ソールは文字の組み合わせを変えることを並び替えと呼び、並び替えによって文字の真髄に到達することができるのだと言った。単語は柵、もっと広大な文字の世界に至るための門だった。たいていの人間は単語が示す文字列より先へは進まない。EARTH(地球)はearthであり、earthにすぎない。が、EARTHのなかにはRATHE(早咲きの)やTHRAE(実在しない語)がある。EARTHのなかには、HEART(心)がある。単語の文字列から離れて可能な組み合わせを探ることにより、文字の真髄に到達することができるのだった。Eの真の本質は、EがAやRの隣におかれた状態、AとRの間におかれた状態を知るまではわからない。あらゆる状態のEを知らなくては、AERATE(通気する)におけるEの存在をCABOOSE(車掌車)におけるEの存在と同じくらい容易に感じることはできないのだ。(275)
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斎藤倫子 訳
Myla Goldberg "Bee Season"
綴り字コンテスト(Spelling Bee)、綴字法(ていじほう)
パーフェクティムンド(絶対的な完全、完全なる完全、perfectimundo)
リチャード・ギア、ジュリエット・ビノシュ共演で2005年に映画化されている。

8/21
A・J・ジェイコブズ『驚異の百科事典男 世界一頭のいい人間になる!』(文春文庫)を読む。
「Britannica Encyclopaedia/「エスクァイア」編集者の抱腹絶倒の読書日記 『ブリタニカ百科事典』全3万3000ページを読破する! 映画化決定!」と帯にある。
頭脳・知能の衰えに不安を感じた著者が、AからZまですべての項目を
アルファベット順に読み進めていくノンフィクション。
ブリタニカの単語を表題にして、現実にあった出来事を綴っていくという形式で話は進む。
ちょっと自虐的で、なんとなくポジティブな視点が面白く、
700ページを一気に読みきってしまった。
とんでもない傑作である。
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652ページに「アンブローズ・ピアス」とあるが、これは「アンブローズ・ビアス」の間違いであろう。
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国連は、"本"とは最低四十九ページあるものと定義している。この定義だと『ブリタニカ』は最高で六百七十三冊の本に相当する。本当に読みきれるのか?(59)
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ぼくの名前は、正式にはアーノルド・スティーヴン・ジェイコブズ・ジュニアだが、なんのことはない、父がアーノルド・スティーヴン・ジェイコブズ・シニアなのだ。冗談好きの父は、二世と三世をとばして、ぼくをアーノルド・スティーヴン・ジェイコブズ四世と名づけようとしたけれど、母に却下されて、ジュニアで手を打ったのだそうだ。(81)
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名声というやつは足が速く、すぐに消えてしまう。それはぼくが『ブリタニカ』から学んだ一番ショッキングな教訓ではないけれど、けっこう悲哀が心に迫ってくる。かつては多くの人々に愛されたのに、今は百科事典を読む変人以外から忘れられている人たちのなんと多いことか。かりに名前は憶えられていても、綴りや発音が不正確かもしれないのだ。(97)
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よく訊かれるのは、流し読みをするのかということだが、それは"流し読み"をどう定義するかによる。一つはっきり言えるのは、今までのところ、ぼくはすべての単語に視線を当てているということだ。すべての単語を理解したわけではないが、見たことは確かだ。ときには、意識が道草を食って、視線だけが行を左から右へすばやくたどる中、トロピカナのオレンジ・ジュースを補充したほうがいいかとか、姉に電話するのを忘れてたかなとか考え、何分後かにはっとわれに返ることはある。(126)
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『8 1/2』という映画のタイトルは、フェリーニがこの作品を含めてそれまでに監督した作品の数--長篇七本と短篇ないし共同監督作品三本(短編と共同監督作品は一つを1/2と数える)--を表わしている。ぼくが今まで一度も抱いたことのない疑問に答えが出た。(180)
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【Glyndwr(グリンドゥール)】
ウェールズの人名。母音は別売り。(223)
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ぼくは四年間、哲学を勉強してきた。でも大学で学んだことすべてを、『ブリタニカ』に引用されている次の一節と取り替えてもいい。書いたのはロバート・アードリーという作家だ。
われわれは堕ちた天使ではなく進化した猿である。猿は武器を使って殺しをする。してみれば何を驚くことがあろう? 殺人や、虐殺や、ミサイルや、和解を知らない敵軍同士のことで。一方、効果のほどはともかく、われわれは条約を結ぶ。まれであるにしても調和の賛歌を歌う。しばしば戦場に変わるとしても穏やかな田畑を持つ。めったに実現しないけれども夢を抱く。人間が奇跡であるのは深く堕ちたからではなく、高くのぼってきたからだ。われわれが星々のあいだで知られるのは屍によってではなく、詩によってである。(487)
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英語のセミコロン(;)は、もとはギリシャ語の疑問符だったそうだ。変な話だと思いませんか;(512)
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黒原敏行 訳
The Know-It-All: One Man's Humble Quest to Become the Smartest Person in the World
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A・J・ジェイコブス『劇的瞬間の気もち』(筑摩書房)を読む。
「アメリカ『エスクァイア』誌の好奇心旺盛なエディターが集めた奇跡の実話集。耳を疑う極限状態に遭遇した人は、その瞬間に、何を思うか。どう切り抜けたのか…。」と新刊案内にある。
ところどころで「痛く」なる一冊である。
それでも、全編にわたって奇妙な明るさが漂っているのは、
彼ら全員が極限状態を生き延びていたからだろう。
(「死ぬ」という項目(!)でさえ、生きた人間が語っている)
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救出されたのは、それからさらに十四時間後だった。この体験のおかげで、私は人間としてひと回り大きくなれたと思う。下らないことがまったく気にならなかった。指をひどくぶつけたりしたときでも、「これもまた楽しいか」と思える。今の私は、人が見過ごしてしまうような、ごく小さなことでも感じられるようになっている。(23)
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そしてある瞬間、僕は死ぬことを思いとどまった。ベッドに寝てから二十分後か、三十分後かはわからない。別に「生きたい」と強く思ったわけじゃない。ただ、死にたくないと感じただけだ。これは大きな違いだと思う。(165)
-
A.J.Jacobs "What it feels like"
宇佐和道 訳
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(邦訳の表紙)
Esquire Presents: What it Feels Like
to Be Gored by a Bull,
to Survive and Avalanche,(これは、To Survive an Avalancheの間違いであろう)
to Swallow Swords,
to Go over Niagara Falls in a Barrel
to Be Shot in the Head
-
(原書の表紙)
Esquire Presents: What It Feels Like:
To Walk on the Moon
To Be Gored by a Bull
To Survive an Avalanche
To Swallow Swords
To Go Over Niagara Falls in a Barrel
To Be Shot in the Head
To Win the Lottery
...and other heights and depths of the human experience

8/22
早瀬耕『グリフォンズ・ガーデン』(早川書房)を読む。
「わたしにとって、無限はあなたよ/ハイパーワールドで恋人たちがのびやかに愛を語りあう。/仮想現実感小説」と帯にある。
著者が一橋大学在学中に、ゼミの卒業論文の一部として書いたもの。
数学の知識を綺羅星のごとくちりばめたおしゃれな小説である。
PRIMARY WORLD と DUAL WORLD が交錯していく構造は予想内のものだったが、
それも含めて予定調和的な世界観が心地よい。
本書を執筆するきっかけが、松岡正剛の「物語っていうのは、本の表紙を開く前には、
どこにあるんだろう」という問いかけだったというのは興味深い。
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世界を創造した絶対的な神へ、もっとも熱烈に、そしてもっとも執拗にコンタクトをもとめているのは、預言者でも、宗教家でもなく、医学者でも、哲学者でもない。/それはほかでもない、ぼくたち科学者だ。(26)
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「あわせ鏡の鏡像は無限か? っていう命題に、無限って答えるひとは、理工学部系統で、有限ってこたえるひとは工学部系統なんだって。そのわけを知っている?」
「って、無限なんだろ」
「ちがうわ。あわせ鏡の鏡像は有限よ。なぜなら、鏡像はいつかかならず光子の大きさよりも小さくなってしまうから。そのときに像はなくなってしまうの。ね?」
 ぼくはずっとあわせ鏡の鏡像は無限だと信じていたから、佳奈の説明にすくなからず驚かされた。
「第一、あわせ鏡の鏡像が無限なら、光に速度があるかぎり時間だって無限よ」
「じゃあ、理学部系統と佳奈に診断されたぼくの答えは間違っているんだ」
「どうかしら。光子よりもちいさい像が存在しないと証明できるわけじゃないんだから。コンセプトとして、像が存在してもいいわけだし。わたしは、どちらかっていうと、あわせ鏡の鏡像が無限って信じているひとのほうが好きよ」(66)
-
「世界は脱出可能なトートロジーだったんです」
「思考実験のなかでのみね」
「たとえ、その脱出が想像力のたまものだったとしても、トートロジーを崩壊させるには十分だ。だって、そのトートロジーでさえ、想像力のたまものだったんですから」
 みじかい沈黙があった。脳波を記録しているドットプリンタだけが、奇妙にうるさい。
「わたしの大学の教養課程のころの数学の教官がね、はじめての講義のいちばん最初に、君たちはゲーデルを知っている子供たちだ、って言ったの。まだ、高校を出たばかりで、純粋数学も論理学も知らないようなわたしたちをつかまえてよ。みんな、ぽかんとしちゃって、でも、教官のほうはぜんぜん慌てた様子もなくて、たとえゲーデルの名前や功績を知らなくても、それでも君たちはゲーデルを知っている世代なんだ、って」(124)
-
それは、とおい未来の出来事でもあるような気がするし、明後日のぼくと由美子であるような気もする。いつか、ぼくたちが手にする物語なのだろう。街の画廊に気にいった絵をみつけたんだけれども、ぼくたちふたりの貯金をあわせても、その絵を買うほどのお金をもちあわせていなくて、画廊のオーナーは、ローンを組むほどの信頼もないぼくたちのために、その絵のよこに売約済のリボンをつけてくれる。ぼくたちは、ときどき気がむくと、仲よく手をつないで、その画廊にいっては、そのちいさな赤いリボンをみて、その絵がぼくたちのベッドサイドにかざられる午後を想像している、そんな感じだ。(135)
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「あんなこと言って、だいじょうぶなの?」
「あんなことって?」
「だから……」
「べつに、その場しのぎで言ったわけじゃなくて、ただ、初めて言葉にする機械があたえられただけだよ」(256)
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(解説にかえて--本書を語る。)より
金子郁容 ただ、小説にしろ何にしろ、表現をするとなるとやっぱり形式に依存するところがありますね。
萩野アンナ システムに入れようとしたり、あるいはそのシステムを一生懸命壊そうとしたり、既成の形にとらわれちゃうんですよね。
金子 これは本だけど、ポンとポップアップで出てきたり、マッキントッシュのウィンドーのようにあるページを開けたまま、別のページを開けられたりできるとおもしろいのにね。
萩野 買って一週間くらいすると内容が組み替わっちゃってたり、ページが乱数作っていったりとか(笑)。何か、そういう可能性を感じさせますよ。
金子 じゃなければあっちのページを切ってこっちにポスト・イットのように「仮止め」できたり……。
萩野 ポストモダン小説ではなくポスト・イット小説ということですね。(285)
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Hayase Ko "Griffons' Garden"
はやせこう、卒論、卒業論文

8/23
坂本龍一『週刊本6 地平線の書物 本本堂未刊行図書目録』(朝日出版社)を読む。
「神経細胞に直結。言語的に構造化される直前のゆらぎをコミュニケートする欲望
 坂本龍一×浅田彰
 ●10人のデザイナーによる50点の未刊行図書装幀
 ●坂本龍一+浅田彰 テスティモニー 1
 ●坂本龍一+菊地信義+井上嗣也 テスティモニー 2」と貴重な帯にはある。
井上嗣也、赤瀬川原平、安西水丸、細野晴臣、浅葉克己、沼田元気(沼田元氣)、
高松次郎、奥村靫正、日比野克彦、菊地信義という錚々たるメンバーが
発想の赴くままに装丁した「未刊行」の50冊を紹介。
実在しない本(=これから書かれるかもしれない本)もあるのだが、
どれもこれも、いかにもありそうな雰囲気を醸し出している。
対談・鼎談も装丁に対する情熱が満ち満ちており、読み応え十分。
菊地信義による中上健二『神曲』の装丁アイデアは、
福永信『アクロバット前夜』で部分的に実現した。
楽しい本である。
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彰 言ってみれば、テープが巻物なら、レコードなんていうのは少し途中の見える巻物のレベルにあるわけでしょ。ピラピラピラって全部めくれるような本のレベルにまだ達していないわけですよね。
龍 つまり、本っていうのはいくら分厚い本でも、5分で読めちゃうってこともあるしね、でも音楽っていうのは必ず0秒から始まって5分とか、長ければ3日とかかかるわけね。で、それを全部聴かないと聴いたことにならないっていうのは、現在ではちょっと困るっていうか(笑)…。(121)
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龍 装幀は、ある種の記号性というのかな、あるいは装幀と名前、タイトルも含めてのコピーね。やっぱり記号性ということでしょうね。
彰 それは別に、最近になって知が表層化したとか、深い意味を失って浮遊しているとか、そういうふうにだけは言いきれないところがあるんですよね。昔のビブリオマニアとかビブリオフィルとかいう人たちだって、ある本を見てそれを手に入れてときどき眺めている、ということで、その本とコミュニケートしちゃってたわけでしょう。必ずしもはしから読む必要はないというか、第一そんなの不可能だしね。手に入れてしまえば、半ば読んだことになってたんだよね。(134)
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彰 つまり、何にしても、あいだの媒介が多すぎるんだよね。本にしてもレコードにしても脳に直結してるわけじゃないんで、膨大な迂回路を経ている。(153)
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龍 百科事典は自然状態をABC順に解体してならべていくわけだから、非常に変なものなんですよね。
彰 ノーバート・ウィナーはブリタニカを三回ぐらい通読したという伝説があるけどね。(168)
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井上 本には、自分が知りたいこととか、確認をしたことに到達するという機能と、自分が興味をもっていたことを違う本で見たらますますわかんなくなっちゃった、というような機能、つまり何ごとかを諦めさせるという機能もあって、こっちもとても素敵なことじゃないかと思う。その本によってこだわり、自分の意味へのこだわりから解放されるというのがあるんじゃないかと思うのね。(189)
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菊地 中上健二の『神曲』、これはさっきお話しました。これにはもう一つ考えがあって、一応僕なりに中上さんが三部作を三百枚ずつ書く前提でこれを設定したのね。地獄篇三百枚というふうに。で、一巻ごとに色が違うのね、紙の。全部縦組にして三百枚計算したら十三行で終わる。つまりこれを延ばして縦に組んでいくわけ。そうすると三百枚の小説が十三行で三百頁位。だから延々と読んでいくわけ一行を、次の行というのは遥かに遠い。(199)
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週刊本
THE WEEKLY FLUCTANT BOOK

8/24
野々村文宏・中森明夫・田口賢司『週刊本28 卒業 KYON2に向って』(朝日出版社)を読む。
当時「新人類3人組」と呼ばれた著者たちが、80年代のアイドルを語り合った本。
アイドルと哲学を無理やり結び付けようとする熱意のようなものを感じる。
時代的制約と言うか、ぎこちなさと言うか、そういう部分が、本書の魅力である。
今ならもっと自然体で、アイドルと哲学を同じ地平に置いて語れるし、語るべきだろう。
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野々村 浅田さんの話でも、ピアノを弾くためのロボットを作るとしたら、なんで五本の指でピアノを弾くんだ、という言い方があるでしょう。指がピアノの鍵盤の数だけあって弾いた方がいいじゃないか。そういうのが、ファンクショナリズムのいちばん基本的な考え方だと思うんだね。(41)
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田口 受験参考書の話からはじめるね。ぼくって受験参考書フリークだったから。あのさ、『思考訓練の場としての英文解釈』っていう参考書があんの。オリオン社っていう通信添削の会社から出てんだけど、市販はされていないのよね。直接オリオン社に申し込まないと手にできないわけ。でもってその内容がモロに受験参考書のニューアカっていうノリがあってさ、全体が三章に分かれてて、「因数分解型 STRUCTURE」「名詞化表現の解析」「対称(CONTRAST)と照応(SEQUENCE)」ってなってんの。で、続編の予告があってね、第四章から第十三章までちゃんとキープしてあるわけね。一気にいくぜ。/第四章「比較(COMPARISON)の捕捉」/第五章「紋切り型公式主義の敗北」/第六章「多義語の語義決定」/第七章「癒着と遊離」/第八章「省略の発見と復元」/第九章「SET PHRASEの種々相」/第十章「比喩と縁語」/第十一章「象徴的表現と包括語句」/第十二章「VOICEの捕捉」/第十三章「否定と肯定」。ね、このまま朝日出版社から出版されても許されちゃうような勢いがあるね。特に第十二章の「VOICEの捕捉」なんてのは実にキワドイ線をいってて、デリダの『声と現象』あたりにありそうな気さえしてきちゃう。まあ全体的にみれば、チョムスキーの変型生成文法のノリが貫徹されてんだけどさ。(53)
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中森 レトリックというのは、文章技術じゃなくて、ものの見方だと思うんです。ものの見方の屈折のさせ方というのかな。(110)
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田口 本当の伊代ちゃんはどこにあるの? という問いすらぼくの中で解体されてしまうような、そんな伊代ちゃんなんだよ。そこがぼく伊代ちゃんにクレージーだって理由だし、それに、ぼく伊代ちゃんにヘーゲル『精神の現象学』にね、サインしてもらった、というのがある。ぼくの『精神の現象学』に、「ヘーゲル大好き 松本伊代」、って書いてある。パッと出して、伊代ちゃんにサインして、って言ったの。そしたらヘーゲル大好き、って書くんだよね、伊代ちゃんが。伊代も大好きなんだよ、ヘーゲルが。(143)
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川崎徹・中野収『週刊本32 大学学 AD ARTES LIBELARES』(朝日出版社)を読む。
大学についての本。
「昔はよかった」というような言説が数多く見られる。
ニューアカによって民主化された「知」を守ろうと、
精一杯、抵抗しているように見える。
序文代わりに「田口賢司 Material Girl」がついている。
著者紹介の欄にある田口賢司の紹介は以下の通り。
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エグゼクティヴ・アシスタント・ディレクター。八四年FM東京「田中康夫の今夜もアーベイン」をおしゃれにプロデュース。また、上品ないかがわしさを追求したノンスタンダードテクスト「元気な二十代」を「GS」(二号)に、ハイパーアクティヴにノリまくる断片メタノベル「パパママゼンキョートー」を各誌にパート4まで発表。現在アルカイックノベル「MACHINE ASIA」をメジャーな雑誌に発表したがっている。一九六一年生。同志社大学哲学科卒業。現在テレビマンユニオン第八期メンバー。著書に週刊本28『卒業』(朝日出版社)がある。
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川崎 学生の広告を遊びとみてもいいんですけど、広告というのは金銭と結びついて初めて成り立つものなので、それ以外の場所では広告というのは成り立たないものだと思います。ですから例えば、将棋とか野球とか、ああいうものはアマチュアでも成り立つんですけど、広告だけは、アマチュアっていうのはあり得ないんですよね。ですから、学生の広告っていうのは、どんなおもしろいものでも、つまらないんです。(60)
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川崎 構図がひとつ複雑になってて、昔だったら、テレビの中でおもしろいことをやっていたのを見て笑っていたのが、今度は、テレビの中でやってるものを見てる自分っていうのが構図に入っているんです。見てる自分のうしろに、もう一人の自分がいるわけですから。テレビの中だけではなくて、つまらないものを見て笑っている自分を楽しむっていうことがあるわけですよね。「スチュワーデス物語」っていうのは、ドラマとして見ても、ぼくは、おもしろいって思いますけどね。たとえば、テレビの天気予報がおもしろいっていう学生がいるわけですね。(74)

8/25
安田均『ゲームを斬る』(新紀元社ロール&ロール ブックス)を読む。
「21世紀に入ってアナログゲームはどう変わったのか? 時代の潮流の中で次々と送り出される傑作ゲームの数々を、愛情を込めて斬る、最新評論・エッセイ集」と帯にある。
相変わらず著者の本は楽しい。
誰よりも自分が楽しみ、それをうまく読者に伝える。
当たり前のことができる、数少ない書き手の一人である。
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実際に、この紙を破って釣るという、馬鹿馬鹿しさにも近い発想を目にした瞬間、"こいつは、おもしろいにちがいない"という直感があった。これこそアナログゲームだ。(65)
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『ドクター・ラッキーを殺せ』は、これまでの探偵ゲームを見事にひっくり返したもの。プレイヤーは誰がドクター・ラッキーを殺したかを推理するのではない。ボードとなる屋敷見取図上で、いかにラッキー氏と二人きりになり、犯行に及ぶか、というもの。まさしく本格推理から倒叙ものへの転倒だ。(104)
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(『ハックマスター』は)パロディの中に登場するパロディ的作品を念入りに再現し、それが結果として、もともとのオリジナルと相似のものになったという綱渡り的な産物だ。(159)
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ここ1年あまり、ドイツゲームはちょっぴりバブル気味になってきたのではないか?/バブルといっても、売れ行きのことではない。内容についてだ。/これは説明しにくいが、ある分野が認知されて大きくなったとき、必然的に起こる現象でもある。/俗っぽく、"ビッグマネーがからんでだめになりだす"と言われるが、実はもっと微妙で、むしろ"とがった角がとれて丸くなり、パワーを減じていく"現象だ。/内容は高度になっている、見栄えもよくなっている、あるいは、より一般的で遊びやすくなっている--なのに、どこかあまりおもしろくない。なんといったらいいか、あっと驚くものがない。(184)

8/28
唯川恵『恋人までの距離(ディスタンス)』(ヴィレッジブックス)を読む。
「列車で隣り合わせたふたりはウィーンで14時間一緒に過ごすことになるが……。たった一晩の出逢いが、人生を変えることもある--」と帯にある。
ハードカバー版には、「恋が生まれる瞬間を、読んだことがありますか。映画「恋人までの距離(ディスタンス)」BEFORE SUNRISE 監督・脚本=リチャード・リンクレイター 主演=イーサン・ホーク/ジュリー・デルピー 95年9月、東宝洋画系全国ロードショー」とある。
また、ハードカバー版の「あとがき」の方が、少しだけ長い。
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126回直木賞を受賞した著者が、無名時代にノベライズしたもの。
描写はそれほど巧くないが、セリフは映画を忠実になぞっており、
映画の感動が沸々と甦ってくる。
セリフが力を持つ原作は、きっと、ノベライズもやりやすいのだろう。
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「あなたには悪いけど、きっと誰もそんなもの見ないと思うわ。平凡な男の日常なんて、どう考えても詩的だなんて思えないもの。むしろ、滑稽だわ」
「でも、太陽を浴びて眠る犬の姿はとても美しいと思うだろう。自然の行動って、たとえ滑稽であっても、それなりの意味があると思うんだけど」(21)
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「家族も友達も、私の死を知らないのは、死んでいないのと同じでしょう。誰も知らなければ、私の存在はどんな受けとめ方もできる。私、時々、そんなふうに消えてしまいたくなるの」(61)
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「クエーカー教の結婚式は素晴らしいんだ。結婚するふたりが信者たちの前にひざまずき、お互い見つめあう。誰も何も言わず、ただ静かに神の存在を感じるだけ。そして一時間ぐらい、ただ見つめ合ったままで、式が終わる」(90)
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原案・脚本 リチャード・リンクレイター/キム・クリザン
"Before Sunrise"
A novel by Kei Yuikawa Based on a screenplay by Richard Linklater and Kim Krizan
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ガス・ヴァン・サント『ピンク』(アップリンク)を読む。
「異次元“ピンク”よりメッセンジャー来たる。リバー・フェニックスが、カート・コバーンが生まれ変わって登場。『グッド・ウィル・ハンティング』の監督ガス・ヴァン・サント初小説作品。」と帯にある。
『ドラッグストア・カウボーイ』『カウガール・ブルース』『誘う女』
『グッド・ウィル・ハンティング--旅立ち--』などで知られる監督の小説デビュー作。
異なる書体、脚注、パラパラまんがなどを使い、
小説と言うメディアを最大限に遊んでいる。
頭の中にある妄想を、無秩序に吐き出したような小説。
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「そんなことないさ、相手が自分のことをよく知っているとき、相手に向かっていったい何を言っていいやら、見当がつかないんだ」(54)
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人生というものはうまくいきはじめたところで唐突に、シャーッという大きな雑音とともに途切れてしまうものなのだ。(97)
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お仕置きが必要な患者には箒が手渡されて、床に落ちている陽射しを掃くように申し渡された、太陽が沈んで部屋からそれが消えてなくなるまで。その懲罰は「太陽掃除」と呼ばれ、やるのに数時間もかかることがあった。(106)
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「ロマンティック・ストーリーもやはりその一例になります。ロマンスというのは人間関係(セックス)の回りをぐるぐる巡っているダンスなのです。しかしセックスそのものは物語から欠落しています。われわれが目にするのは、セックスする前と後の登場人物なのです。われわれは彼らがセックスを追い求める姿、そして彼らがセックスしたあとの滑稽な余韻は目にしますが、セックス・シーンそのものはなくてもよいものなのです。『ぼくなら若い女子学生にあんなことしないんだけどな、もしぼくが彼女とベッドに入ってたら』」。(133)
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表紙がぼろぼろになるまで何度も読んで聞かせ、読み手が母親からおばあちゃんに変わってからも、子供はやっぱり同じ本を読んでくれとせがむものだろ? もしもそこで新しい本を持ってきたら、子供は機嫌を損ねてひきつけを起こさんばかりに駄々をこねる。その子には同じ話でなければ駄目なんだ! 大人も似たようなものだけど、大人の場合、前に聞いた話とはどこかが違っていてほしいと思っている、でも結局のところみんな同じ話を聞きたがっているんだよ。いい話の『いい』とは、すなわち『お馴染みの』ということさ(169)
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Gus Van Sant "Pink"
浅尾敦則 訳、UPLINK

8/29
デカルト『精神指導の規則』(岩波文庫)を読む。
「この本で、デカルトの有名な" 方法序説"の詳しい規定が明かにされ、彼の数学、自然科学、形而上学の思想が生き生きと示される。」と青帯にある。
今までの知識・経験を一度すべて取り払い、
自分なりの規則で徹底的に考え直そうと著者が孤軍奮闘する一冊。
現代から見れば当たり前に見えることだが、
それを当たり前にしたのは、デカルトである。
でも、リーダビリティは低い。
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すべての学問が相互に結合していて、一を他から分離するよりも、すべてを一度に学ぶ方が、遥かに容易であることを、よく心得ねばならぬ。従って、何人でも真面目に事物の真理を探究しようと欲するなら、どれか唯一つの学問を選んではならない、すべての学問は相互に結合し、互に依存しているからである。却ってただ、理性の自然的光明を増すことをのみ心掛くべきである。しかもこれは、学院のあれやこれやの難問を解くためでなく、生活の一々の状況に於て悟性が意志に何を選ぶべきかを示すようにするためなのである。さすれば間もなく、自分が、特殊な研究に努める人よりも遥かに大なる進歩を成し遂げたこと、また他の人々の欲するすべてのことのみならず、彼等の期待し得ぬすぐれた結果にも到り得たことに、自ら驚くであろう。(11)
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精神が何を為し得るか、について常に迷っているということのないように、且つまた誤った軽率な努力をすることのないように、我々は個々の事物の認識にとりかかるに先立ち、一生に一度は細心に探ねて見るべきである、人間理性はいったい如何なる事物の認識に達し得るかと。そしてこれをうまく成しとげるには、同じく容易な事物の中、より有益なるものを、いつでも先に探ねねばならない。(51)
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困難が言葉の不明瞭さに存するすべての場合、言葉から物を求める、という。これに属するのはただにすべての謎のみではない。謎の例を挙げれば、初めは四足、次に二足、最後に三足となる動物についてのスフィンクスの謎、またかの漁夫の謎--漁夫が岸に立ち、魚を捕るために釣針と釣竿とを用意していった、私は捕ったものをもう持っていないで却って未だ捕ることの出来なかったものを持っている、と--等。かかる謎のみならずまた、学者たちが論議する事柄の大部分は、殆ど常に名目の問題なのである。(…)与えられた以上に多くの且つそれ以上に限定されたる仮定をせぬように、注意すべきである。特に、謎とかそのほか人を罠にかけるために巧みに考案された問題に於て、そうである。しかしまた時として他の問題に於ても、それの解決のため、確実な理由にはよらず昔からの意見によって我等の承認せる事柄を、確実なものと仮定するように見える場合、上の注意が必要である。例えば、スフィンクスの謎に於ては、足という名称が動物の真の足のみを意味すると考えるべきでなく、何か他のものにも転用され得ないかどうか考えてみるべきである--事実この場合はその名は幼児の手や老人の杖にも転用され得る、いづれも歩行のために足として用いられるからである。同じく漁夫の謎に於ても、魚という考えが我々の精神を占めてしまい、そのために、貧しい人々が屡々心ならずも身につけてもちまわり且つ捕えると直ぐさま捨ててしまう動物のことを、考えるのを妨げられないよう、注意すべきである。(92-94)
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野田又夫 訳、"Regulae ad directionem ingenii"
ルネ・デカルト、Rene Descartes、Renatus Cartesius、Cartesian

8/30
デカルト『方法序説 ほか』(中公クラシックスW9)を読む。
「先人の強靭な心をつたえる中公クラシックス今月の新刊 デカルトを読まずして「西欧近代」を批判することはできない」と帯にある。
デカルトは厳密に考える。
そのためほとんどすべての記述について、
(当時の常識を勘案しながらではあるものの)
ほぼ納得できるものばかりである。
しかし、「神」という概念が出てきた途端、
デカルトは思考停止に陥ってしまう。
現代人にとって、神は完全だから存在できる、
なんていう神の証明はとっくに論駁されていることである。
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たとえわれわれが、どちらかの意見が蓋然性をより多くもつかを認めえないような場合でも、われわれはやはりそのどちらかをとることを決心せねばならず、しかもいったん決心したあとは、実行に関するかぎりその意見をもはや疑わしいものとは見ず、きわめて真で確実なものとみなすべきである。なぜならば、われわれをして、それをとることを決心せしめた理由そのものは、真実で確実なのであるからである。そしてこういう態度によって私はこのとき以来、かの心弱く動かされやすい人々、すなわちあるときあることをよいと認めてあやふやな態度で実行し、あとになってまたそれを悪かったと思うような人々の、良心をつねに悩ます、後悔や悔悟のすべてから、脱却することができたのであった。(32)
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私がこのように、すべては偽である、と考えている間も、そう考えている私は、必然的に何ものかでなければならぬ、と。そして「私は考える、ゆえに私はある」Je pense, donc je suis. というこの真理は、懐疑主義者のどのような法外な想定によってもゆり動かしえぬほど、堅固な確実なものであることを、私は認めたから、私はこの真理を、私の求めていた哲学の第一原理として、もはや安心して受け入れることができる、と判断した。(41)
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私は自分の意見のいくつかを、非常にすぐれた精神の人々にたびたび説明したことがあり、私が話している間は彼らはきわめて判明に私の意見を理解しているように思われたにもかかわらず、それを彼ら自身の口からもう一度いう段になると、彼らはほとんどつねに、それを変えてしまい、私としてはもうそれを自分の意見だとは認められないようにしてしまうのであった。なおこの機会にここで後世の人々に、私の意見だと人から聞いても、私が自身で公にしたことでなければ、けっして信じないようにと、お願いしておきたい。それゆえ私は、その著書の伝わらない古代の哲学者のすべてに人々が帰している奇矯な考えに驚かないし、また、だからといって彼らの思想が実際きわめて不合理であった、とは判断しない。(85)
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ここで考察されなければならない、神の第一の属性は、神がこのうえなく誠実であり、あらゆる光を授ける者だということである。したがって、神がわれわれを欺くということ、すなわち、神が本来的かつ積極的に、現にわれわれが陥りがちであるのを経験している誤謬の、原因であるということは、まったく矛盾したことなのである。なぜなら、欺きうるということは、われわれ人間の場合には何ほどか才知を立証するものと見えるかもしれないとはいえ、欺こうとする意志は明らかに、悪意または、恐れと弱さ、からしかでてこないものであり、したがって神に帰せられることはできぬからである。(150)
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ことばの意味に注意を払わずその音だけを聞いている場合でも、この音の観念、つまり、われわれが考えるときにこの音について形づくる観念は、この観念の原因であるところの対象と何がしか似ていること、あなたがたはお考えであろうか。人が口を開き、下を動かし、息を吐くという活動のうちには、これらの活動が原因となってわれわれに想像させる音についての観念とまったく異なるものしか私は見いださないのである。そしてまた、おおかたの哲学者の主張するところでは、音というのはわれわれの耳を打ちにくる空気の、ある震動にほかならないのである。だからして、もし聴覚が、その対象の実際の姿をわれわれの考えにもちこんでいたのだとすると、聴覚はわれわれに音を思い浮かべさせるのではなくて、その際、耳へと震動してくる空気の諸粒子の運動を、思い浮かべさせるのでなくてはならぬであろう。(257)
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CHUKO CLASSICS、中公バックス
野田又男・井上庄七・水野和久・神野慧一郎 訳
我思ふ故に我在り、我思う故に我あり、コギト・エルゴ・スム
"(Ego) cogito, ergo sum." "I think, therefore I am."
方法的懐疑、普遍的懐疑、誇張的懐疑、明証性の規則、分割の規則、順序の規則、枚挙の規則
高邁、心身二元論、運動量保存の法則、物質粒子論、宇宙渦動論
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方法序説(理性をよく導き、もろもろの学問において真理を求めるための方法についての序説)、方法叙説、"Discours de la Methode & Essais"
哲学の原理、"Principia Philosophiae"
世界論 または光論、"Le Monde"

8/31
デカルト『省察 情念論』(中公クラシックスW21)を読む。
「先人の強靭な心をつたえる中公クラシックス今月の新刊 形而上学から出発して道徳問題の解明に向かう哲学的探求 解説・神野慧一郎」と帯にある。
変化がないというか、一貫しているというか、デカルトの著作には繰り返しが多い。
何度も語りなおすことで、自身の正当性を検証しているのだろうか。
「情念論」は、それ自体が一つの壮大な思考実験である。
一つ一つ論理を組み上げていく過程が読ませる。
でも、神の概念と同様、松果腺(コナリウム)が出てくると、途端に胡散臭くなる。
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真実にけだかい高邁な精神をもっているならば、その人がどんなに不完全な人間であっても、われわれはその人に対してきわめて完全な友情をもちうるのである。(205)
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笑いの主要な原因は何々か
そして私は、そのような突然に肺を膨張させる原因を、次の二つしか認めえないのである。
第一は、「驚き」の不意打ちであって、これが「喜び」に加わることによって、心臓の出入口を急に開くことができるので、多量の血液が大静脈から心臓の右心室へ、たちまちにはいり、そこで希薄になり、そこから動脈性静脈(肺動脈)を通って流れでて、肺臓を膨張させるのである。
第二の原因は、血液の希薄化を促進するある液が混じることである。そういう液としては、脾臓からくる血液の流動的な部分以外に、適切なものを私は見いださない。血液のこの部分は、「驚き」の不意打ちによって加勢された憎しみの軽い感動により、心臓のほうへおしやられ、一方で「喜び」が多量に心臓に送りこんでいるところの、身体の他の部分からきた血液のうちに混入して、この血液を普通よりもはるかに大きく膨張させるのである。それはあたかも、いろいろな液体が多量に火にかけてあるとき、それらのはいっている容器の中へ少量の酢を投げ入れると、それらの液体が急に膨張するのと同様である。なぜなら、脾臓からくる血液の流動的な部分は、酢に似た性質のものだからである。(236)
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われわれが、書物の中に異常なできごとのことを読んだり、それが舞台に上演されるのを見たりするとき、それは、われわれの想像に与えられる対象の多様性に従って、ときには「悲しみ」を、ときには「喜び」を、あるいは「愛」を、あるいは「憎しみ」を、一般にあらゆる情念を、われわれのうちにひき起こす。けれども同時にわれわれは、それらの情念がわれわれのうちでひき起こされることそのことを感じて、快感をもつ。この快感は「知的な喜び」であって、喜びではあるが、他のすべての情念からと同様、悲しみからも、生まれることができるのである。(260)
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ある事の実行を決心しなければならなかったそのときに、最善と判断したところを、実際に行ったのならば、たとえのちになってもっと時間をかけて考えなおしてみて、失敗だったと判断するようなことになっても、やはり後悔することはない、と私には思われます。これに反して、良心に反してあることをなしたのならば、のちになってから、思ったよりもうまくいったと認めても、むしろ後悔すべきでありましょう。なぜなら、われわれが責任をもつべきはただわれわれの思考に対してのみであり、人間の本性は、すべてを知るようにはできておらず、また多くの時間をかけて考慮したあげくの判断と同じくらい正しい判断を、即座にくだせるようになってもいないからであります。(333)
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精神の最初の情念が「喜び」であったと私が判断する理由は、精神が身体のうちに宿されたとき、身体は善い状態にあったとしか考えられないからであり、そして、身体がそのように善い状態にあるときには、身体はわれわれに当然「喜び」を与えるからであります。「愛」が次いで生じたと私がいいますのは、われわれの身体をつくる物質は河の水のようにたえず流れていて、一つの物質のあとには他の物質がまたつづいて現われざるをえないゆえに、身体が善い状態にあるときは、たぶん同時に身体の間近に、身体の養分となるにはなはだ適したなんらかの物質があったはずであり、そこで精神は、この新たな物質にみずからの意志によって結びつくことにより、その物質に対して「愛」を感じたであろうからであります。同様にして、またのちに、この養分が欠けるようなことが起こったとき、精神は「悲しみ」を感じたのであり、また身体の栄養には適しないようなほかの養分が、かわりに現れたときには、その養分に対しては「憎しみ」を感じたのであります。(350)
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CHUKO CLASSICS、中公バックス
井上庄七・森啓・野田又夫 訳
松果腺(コナリウム、conarium)
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省察(○せいさつ、×しょうさつ)、第一哲学についての省察、形而上学的省察、第一哲学についての省察、"Meditationes de Prima Philosophia"
情念論、心の諸情念、"Les Passions de l'Ame"
書簡集、"Lettres de Descartes"

9/1
『デカルト選集(全3巻)』(創元社)に収録されている「哲学の原理 第四部(188-207)、省略部分の標題(第三部、第四部前半(1-187)」「真理の探究」「省察 幾何学的な仕方で配列された、神の存在及び霊魂と肉体との区別を証明する諸根拠」「書簡集T〜V」を読む。
「真理の探究」は、やっぱりデカルトである。
戯曲を書いても、結局は、方法序説のようなものになってしまう。
不思議な哲学者である。
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「書簡集」は、バルザック、メルセンヌ、ホイヘンス、エリザベト(エリザベート)、
ニューキャスル侯、シャニュ、瑞典女王クリスティーヌ、ブレジーなど、
多彩な面々に宛てて書かれており、なかなか興味深い。
ただ、デカルトの書いた手紙しかないため、一方的な印象を受けてしまう。
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しかし、私は私を過度に信じたくはないから、私はここで何事も確言はしない。私の意見はすべて世の賢い人人の判断及び教会の権威には違背しまいと考えるものである。また、読者も私の記述に信をおかれるようなことはなく、ただそれを検討し、且つ理性の力と確信とが信ぜしめるものだけを受け取られることを希う。(哲学の原理、103)
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丁度あなたの画家にとっては、線を直すために時間を浪費するよりは、まず最初に、海綿ですっかり拭って、そこにある凡ての線を消し去り、その画を新たに遣り直す方が遥かに優っている様に、各人も、知識の年齢と呼ばれる一定の時期に達したならば、一度決心して、かれの想像から、それまでにそこに誌された凡ゆる不完全な思想を払い除け、改めて真剣に新しい思想の形成を開始しなければなりません。そして、かれの悟性の凡ての工夫をそこに傾け、例えかれがその新しい思想を完成の域にまで達せしめ得なかったとしても、少くともその責任を感覚の弱さや、自然の乱脈に帰し得ない様にしなければなりません。(真理の探究、136)
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あなたは、わたくしがお尋ねしたことに対して、注意を払っておられません。あなたがわたくしに呈示なさったお答えは、あなたには単純に思われるかもしれませんが、もしわたくしが少しでも突っつこうと思うと、あなたを非常に困難な、又、極めて紛糾した問題の渦中に引き擦り込んで終うでしょう。(真理の探究、143)
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何人かを裏切る目的で愛しているように装うことのできる人は、後になってその人を真に愛しようと望んでも、その人々に信用されず、その人々の憎しみを受けるのは当然であります。(書簡集V、240)
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真理の探究、"La Recherche de la Verite par la Lumiere naturelle"
"La Recherehe de la Verite par la Lumiere naturelle"は誤記
『デカルト選集 第一巻 方法序説、情念論、書簡集(一)』(創元社)
『デカルト選集 第二巻 哲学の原理、真理の探究、書簡集(二)』(創元社)
『デカルト選集 第三巻 省察、精神指導の規則、書簡集(三)』(創元社)
落合太郎、伊吹武彦、佐藤信衛、森有正、三木清、野田又男
佐藤正彰、川口篤、渡邊一夫、河盛好蔵、市原豊太 訳

9/4
『デカルト=エリザベト往復書簡』(講談社学術文庫)を読む。
「近代哲学の祖デカルトと、王家没落の悲運を背負ったボヘミア王女エリザベトとの間に交わされた書簡六十通。心身問題、健康管理、道徳や世界観、王家社会観、情念等、悩める若き王女の真摯な問いに、デカルトが自らの信条を率直に吐露する。そこには、公刊された著作にはない数々の主題をめぐる具体的・現代的な諸問題の展開が見られる。人間デカルトの生の声を伝える貴重な資料。」と裏のカバーにある。
噛み合っているようで、よく見るとそうでもない対話。
適度に譲歩しながらも、最終的にはそれぞれの主張を曲げようとしない、
王女と哲学者の奇妙な書簡集である。
互いの手紙を収録しなければ、このダイナミズムは生まれなかっただろう。
王女が相手ということもあり、デカルトがあざといぐらい
謙虚になっている(=下手に出ている)のが微妙に笑える。
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どんなに痛ましくどんなに絶対に悪いと人が判断する出来事でも、具眼の士はそれを自分に好都合に見える角度からみることができる(91)
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小さな器は容量が少なくても、大きな器と同じほどいっぱいに満たされることが出来るように、各人の満足ということを、理性によって規制された欲求の充足および達成の意味にとるならば、いかに貧しく、いかに運命や自然から愛されない人でも、よしんば多くの幸福を享受するのではないにせよ、他の人と同じく完全に満足し充足し得ることを、私は疑いません。(97)
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詩を作りたい気になるのは、動物精気の激しい動きから来ていると私は思います。それは、冷静な頭脳をもたない人の想像力を完全に混乱させるかも知れませんが、しっかりした人の場合は、少し興奮させ、詩を作りたくなるようにさせるだけなのです。(282)
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山田弘明 訳
"Lettres de Descartes"

9/5
大熊榮『サルマン・ルシュディの文学 「複合自我」表象をめぐって』(人文書院)を読む。
「「複合自我」=「インド」=「複合国家」 処刑宣告から十五年、今なお潜伏生活を送る二十世紀最大の作家の一人ルシュディの真の価値を明らかにする。1989年2月14日ヴァレンタイン・デー、世界を駆け巡ったホメイニによる「ファトワ」が、この作家への興味を掻きたてた事実は否めないが、事件が作家の周辺的出来事に後退しつつある今、ようやく彼を、作家として評価し研究する気運が盛りあがりつつある。本書は、ひとつひとつの作品の分析からルシュディの「複合自我」へのこだわりを読みとり、多元主義的セキュラリズムという彼の立場を明らかにするとともに、「危険な冒涜者」ルシュディに冠せられた数々の誤解を解く、本邦初の本格的研究の集大成である。」
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「統合自我」ではなく、「複合自我」。
大雑把に言うと、あらゆる矛盾を整理しないままに、
個の中にぶちまけておく状態のことである。
「序章」「第一章」は本当に素晴らしいのだが、残りは退屈。
ルシュディーの著作の中で「小説」としての面白さを伝えられているのは、
残念なことに『グリマス』だけである。
おそらく著者は、最初の2つの章で言いたいことを書ききってしまったのだろう。
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「複合自我」とは結局のところ「われわれの一人一人がたくさんの異なる人間である」という、一九九七年のエッセイ「豊富の国」におけるルシュディ自身の定義に尽きる。(14)
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(『グリマス』は)これまで失敗作と見られてきた。ティモシー・ブレナンは「初期の失敗した小説」であるばかりか「解釈不能な長編寓話」とまで言う。そのうえ、主人公のフラッピング・イーグルを「アメリカのインディアン」、「カーフ島」を「地中海の島」、グリマスを「ヨーロッパからの亡命魔術師」と言い切り、作品を読まない読者に途轍もない誤解を与えている。言語表象を「現実」と結びつけなければ「解釈不能」と感じる因襲的読者の典型的反応である。同様の反応はニコ・イズラエルの『アウトランディッシュ(奇々怪々)』にも見られる。そこではフラッピング・イーグルは「アメリカ・インディアンの少年」で、「一九七〇年代のある時点に合衆国南西部の町をうろつく」とされている。(19)
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「歴史」や「国」は「個人」の外にあるのでなく、内側にある。集団の「運命」に関心を抱き、それをいささかなりとも関与しようとするとか、どの「国」の「歴史」にもある影や負の部分をも自分のこととして引き受けるということでなく、すでにそれらが自分の内部にあると思い定める時、われわれは否応なく「複合自我」的にある。(89)
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人が世界をどう見ようと、それは見る人の勝手だし、そもそも精神の内奥というようなところでは人はまったく自由なはずである。文学研究レベルの話としては、そのように思想と表現の自由を擁護することでこと足りる。しかしそれが読む人によっては神聖冒涜と映り、宗教の掟が幅をきかす。(171)
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一九九〇年七月に『インターナショナル・ゲリラ』というパキスタン映画がイギリスでの上映を禁止された。フィリピンの島に本拠地を置く犯罪組織があり、それを率いる「サルマン・ルシュディ」の指図で『悪魔の詩』という冒涜的な本を出版し、イスラム世界の破壊を画策しているという三時間半の映画である。イギリス映画審査委員会は「犯罪的誹毀行為」としてこれを禁止したが、ルシュディは審査委員会へ声明を送り、「表現の自由」を守る立場から上映禁止に反対した。その結果八月一七日に禁止の決定は撤回された。(311)
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Ohkuma Sakae "Literature of Salman Rushdie - On his Representation of Composite Self"
サルマン・ルシュディ、サルマン・ラシュディ、サルマーン・ルシュディー、サルマン・ラシディ
Salman Rushdie, Ahmed Salman Rushdie
fatwa、ファトワ、ファトワー、ファトゥワ、死刑宣告、法的意見、処刑命令、勅諭、宗教的見解
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序 章 サルマン・ルシュディの「複合自我」表象
第一章 「複合自我」の象徴としての島--『グリマス』について
第二章 「複合自我」の「歴史」的位相--『真夜中の子供たち』について
第三章 「複合自我」の「政治」的位相--『恥辱』について
第四章 「複合自我」の「移民」的位相--『悪魔の詩』について
第五章 「複合自我」の「愛」の位相--一九七七年以降の作品について
結 章 「複合自我」表象の文学
補 章 ルシュディの「複合自我」的半生と意見

9/6
Salman Rushdie『Grimus』(Vintage)を読む。
デビュー作であり、華麗なる失敗作である。
アナグラムやパリンドロームなど、言葉(や観念)が支配する世界の物語。
不条理SFだと安易に言われているが、
それは従来の小説では捉えきれない想像力の爆発ゆえである。
粉飾気味の文体が続くかと思うと、突然、
真理を突くようなフレーズが飛び出してくる。
決して読みやすいわけではない。
しかし、「to be an artist is to fail, as no other dare fail」
というベケットのセンテンスがこれほど当てはまる小説は数少ない。
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When Flapping Eagle arrived at Calf Island his body was thirty-four years, three months and four days old. He had lived for a total of seven hundred and seventy-seven years, seven months and seven days. By a swift calculation, we see that he had stopped ageing seven hundred and forty-three years, forur months and three days ago.
He was a tired man.(37)
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To live through the fever of the Dimensions is to abandon the question Why? And yet, before the end, I had an answer to all the unanswered whys, and a few unasked ones as well.(70)
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Last chances, like first chances, come only once.(74)
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The crucial distinction to draw, he said, is between obsession and possession. The possessed man is out of control of himself; it is a form of insanity. Possession leads to tyrannies and vile crimes. Obsession leads to the reverse. It composes symphonies and creates paintings. It writes novels and moves mountains. It is the supreme gift of the human race.(161)
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Now, awaiting the Final Ordering, he returned constantly to the comtemplation of the basic anagram which had given rise to so much of the essence of Calf Island - the Re-Ordering which could be made of the name Grimus.
This anagram was Simurg.(197)
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サルマン・ラシュディ『グリマス』(未訳)、グライマス
ゴランツ・サイエンス・フィクション賞応募作
Gollancz Science Fiction

9/7
サルマン・ラシュディ『真夜中の子供たち(上)(下)』(早川書房)を読む。
「サルマン・ラシュディ 英国ブッカー賞受賞作 これはいまだかつて語られたことのない、想像力に富んだとてつもない物語」と(上)の帯に、
「サルマン・ラシュディ 魔術的リアリズムの極致 ガルシア=マルケス『百年の孤独』以上と評価された、80年代最高の話題作」と(下)の帯に、それぞれある。
なんなのだ、この傑作は。
真夜中に生まれた子供たちが宿す不思議な力を巡る壮大な物語。
どれもこれも突拍子のない設定なのだが、
巧妙な語り口を前にするとすべてが許されてしまう。
圧倒的なストーリーテリングで、読者を放さないマジック・リアリズム。
ブッカー賞の中のブッカー賞(Booker of Bookers)に選ばれて当然の傑作である。
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引用は後日
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寺門泰彦 訳、Hayakawa novels
Salman Rushdie "Midnight's Children" (Children of Midnight)
真夜中の子供達、真夜中の子ども達、真夜中の子どもたち
Booker Prize for Fiction
Booker of Bookers (special award made to celebrate 25 years of the Booker Prize for Fiction)
ブッカー・オブ・ブッカーズ(ブッカー賞創設25周年記念特別賞)
English-Speaking Union Award、イングリッシュ・スピーキング・ユニオン文学賞
James Tait Black Memorial Prize (joint winner)、ジェイムズ・テイト賞
ガンジー首相のひんしゅくをかって、インドで発禁に

9/8
サルマン・ラシュディ『恥 SHAME』(早川書房)を読む。
「『悪魔の詩篇』の著者の話題作 すさまじい愛と確執の物語 血なまぐさいパキスタン現代史に材をとり、現代を予見してしまった問題の書 翻訳権独占/早川書房」と帯にある。
3人の女が、1人の子供を共有する1章「故郷を逃れて」は
『真夜中の子供たち』と同様、ため息が出るほど美しい。
2章以降は、政治色が強くなり、
たどたどしいと言うか、まどろっこしいと言うか、
読み進めながら、どこかに妙な違和感が残る。
そして、それは決して気持ちのよいものではない。
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この物語の背景となっている国はパキスタンではない、というよりパキスタンそのものではないと言ったらいいだろうか。本物と虚構の二つの国があって、同一の空間を、というよりほぼ同じ空間を、占めているのだ。わたしの物語、わたしの虚構の国は、わたし自身と同じように、現実と全く平行なのではなく、ほんの少し角度をもって存在している。こうしたずれは当然、必要なものだとわたしは思っているが、その価値については、もちろん議論の余地もあるだろう。とにかくパキスタンについてのみ書いているわけではないというのが、わたしの見解なのである。(30)
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sharam(シャラム)--これがその原語である。その訳語として、この貧弱な<恥(シェイム)>なる言葉をあてるのは、全くおそまつな翻訳と言わねばならない。シーン、レー、ミームの三文字(当然のことながら正しくは右から左へ置く)、それに短母音であることを示す、文字の上のザバル記号。短い言葉でありながら、百科事典に盛るほどのニュアンスを含む言葉。母親たちが、オマル・カイヤームに感じるのを禁じたのは、恥(シェイム)ばかりではなく、狼狽、挫折感、つつましい気持ち、遠慮、きまりわるさ、分をわきまえばならぬという気持ちやその他、英語には相当するものが見当たらない方言的感情である。人はどれほど固い決意のもとに故国を逃れようと、なんらかの手荷物はたずさえていかねばならない。したがってオマル・カイヤームが(彼の問題に話をしぼれば)、幼い次期に恥(シェイム)(動詞と間投詞はsharmana)を感じることを禁じられたがために、後年も、--そう、彼が母親たちの影響圏から脱けだしてかなりたったあとまでも、かの驚くべき禁令に終始、影響を受けつづけたというのも、当然のことではないだろうか?
[読者]そう、たしかにそのとおりだ。
恥(シェイム)の反対は何か。sharamを引いたら後に何が残るか。答えはあきらかである。恥知らず(シェイムレス)だ。(41)
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ゴシップは水に似ている。それは弱い箇所を求めて地表をまさぐりつづけ、ついに突破口を見出す。(51)
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もしわたしがリアリスティックな本を書いてきたのであれば、今ごろになって、わたしはたんにパキスタン一国についてではなく、世界的な問題について論じているのだ、などと抗議したところで、何の役にも立たなかったろう。本は発禁になり、くずかごに投げ捨てられ、燃されてしまったろう。努力がすべて水の泡となるのだ! こうしてリアリズムなるものは作家の心をずたずたに引きさきかねないのである。/しかし、さいわいなことに、わたしはただ現代のおとぎ話を語っているにすぎないのだから、その点はまったく問題がない。誰も動転させられる必要はないし、わたしの書いていることを、たとえどんなことにしろ、あまり深刻に受けとめる必要はない。それにもちろん、激越な行動もとる必要はないのだ。/なんという安心感!(78)
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かつて、あるところに二つの家族があって、両家は死によってさえ離れられぬ宿命を負っていた。物語をはじめるまえには、わたしの手の中にあるのは極端なまでに男性的な物語、つまり性的なライバル関係や、野心、権力、庇護、裏切り、死、復讐といったもののサーガなのだと、わたしは考えていた。しかし物語はどうやら女性たちに乗っとられてしまったようである。彼女たちは物語の辺境から進軍してきて、女性たちの悲劇や歴史や喜劇も容れろと要求する。そこでわたしは曲がりくねった複雑な表現を用いて物語を語らねばならなくなり、わたしの<男性的な>筋立てを、いわばその裏返しの、女性の側のプリズムを通して、屈折させて見ざるをえなくなった。女性たちは、自分たちのしようとしていることの意味を正確に知っているのだという気がする--つまり彼女たちの物語は、男性の物語に照明を与え、ときには男性の物語を包含さえしてしまうのではないかという気がするのだ。抑圧というのは、継ぎめのない覆いのようなものである。世間の掟や性の規範が絶対的な力を持つ社会、そういったものが女性たちを名誉や儀礼の耐えがたい重荷の下に押しつぶしてしまう社会は、また他の種類の抑圧をも生みださずにはおかないのだ。一方、圧制者(おとこ)たちの方も、つねに(すくなくとも公衆の面前では、他の人たちのてまえ)、極端なまでに自己に対して抑圧的にならざるをえない。このようなわけで、わたしの<男性的な>プロットと<女性的な>プロットは、けっきょく同じ物語なのである。
わたしは、たとえどれほど圧制的であろうと、当然のことながら、女性という女性のすべてが体制に押しつぶされてしまうわけではないと思いたい。一般にパキスタンの女性は男性よりもはるかに印象的であるとは、よく言われていることであり、わたしもまさにそのとおりだと思う……しかし女性たちを縛っている鎖はフィクションではない。それは厳として存在するのだ。しかも、ますます重くなりつつあるのである。
<あなたが一つのものを抑えつければ、それに隣接するものをも抑えつけることになるのだ>
しかし、しまいにはそれはすべて、あなたの目の前で爆発するのである。(194)
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くりかえしになるけれども、文明化された社会には、怪物たちが存在する余地はない。たとえそういった生きものがうろつきまわるとしても、その存在を信じない社会の慣習によって、辺境に追いやられ、地上のさいはてを徘徊しつづけるにすぎない……ところが、ごくまれには手違いが起きることもある。礼節と穏健の砦の中に、できそこないの奇跡が起り、<野獣>が生まれるのだ。(225)
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栗原行雄 訳、Hayakawa novels
Salman Rushdie "Shame"
恥辱、身内の恥、シェイム、シェイムレス
Booker Prize for Fiction (shortlist)
Prix du Meilleur Livre Etranger (France)
ハック大統領の逆鱗にふれて、パキスタン国内で発禁処分をうける

9/11
サルマン・ラシュディ『ジャガーの微笑--ニカラグアの旅』(現代企画室)を読む。
「インドに生まれ、パキスタンにも暮らし、今はイギリスに帰化して作家生活をおくるラシュディ。南と北の現実を身をもって見据えてきた彼は、大国(米国)の包囲下で革命の道を歩むニカラグアの現実(1986年)を独特の視点から見つめる。『悪魔の詩』に先立って書かれた興味あふれる旅行記。」と帯にある。
これはどうだろう。
驚くほど面白くない。
魔術的な文章を書くラシュディにとって、
この旅行記は普通すぎるのだ。
小気味のよいユーモアがあるが、それも十人並みのものである。
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おそらく我々、全能なる西洋もしくは北の国々に出自を持たない人間たちは、共通の何かを持っているのではなかろうか--むろんそれは十把一からげ的な「第三世界」の外観ほど単純なものではなく、しかし少なくとも弱さとはどんなものかをいくぶん心得ているとか、下からの視線というものに少しは気づいているとか、自分を踏みつけにしている踵をどん底から見上げるのはどんな心境か知っているという類の共通項だ。(10)
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象徴的言語を使わずにこんな街を眺めるのは不可能というものだ、これは私の発見であった。(15)
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血液を輸入する必要があるかどうか尋ねてみた。いえ、と彼は答えた。全国献血計画で充分賄えます。この答えに私は目を見張った。こんな小さな国で、しかもすでに大量の血が流されたというのに。(87)
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ジョコンダのスナップ写真。ソモサ政権下、戦線(フレンテ)に身を投じてからも彼女はマナグアの広告代理店で仕事を続け、宣伝コピーを書いていた。私も昔、同じ商売をしたことがあったので、「おや、良かった。ほかにも恥ずべき過去の持ち主がいたなんて」と口走ってしまった。(163)
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「歴史とは、」ベロニカ・ウェッジウッドの言を借りよう。「これを生きる時には前を向くが、叙述する時には振り返るものである。」現実世界に生きるとは、結末を知らぬまま行動することである。よく考えてみると、現実の人生を生きることは架空の人生を創作することともちがっている。何故なら、人は自分の犯した誤りに足をとられるからである。改訂はできないし、二度目の草稿を作ることも適わない。ニカラグアへ行ってみてわかるのは、世界はテレビでも歴史でも小説でもないということだ。世界は現実なのである。そしてニカラグアは世界の現在の、じかの現実なのである。(171)
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飯島みどり 訳、シリ−ズ越境の文学/文学の越境
Salman Rushdie "The Jaguar Smile"

9/12
サルマン・ラシュディ『悪魔の詩(上)(下)』(プロモ−ションズ・ジャンニ、新泉社)を読む。
(上)に帯はなく、(下)の帯には「万難を排して、ついに完結!! 上巻刊行直前の2月上旬から、本書刊行にたいする抗議、妨害の行動が続発しました。なかんずく一部大手書店などが店頭販売を自粛したことは、言論・出版の自由に大きな汚点を残したものと受けとめています。特に大手書店の場合は、読者の多様なニーズに応えるという社会的使命を放棄したものといわねばなりません。すみやかに店頭販売を開始されるよう要望します。(株)プロモーションズ・ジャンニ 代表 ジャンニ・パルマ」とある。
いわゆる「ラシュディ事件」を引き起こした問題の書。
1991年7月12日に訳者である五十嵐一が何者かに殺害されたが、
15年後の2006年7月11日に時効が成立。
その他にも、各国で襲撃や殺人が起こった。
ラシュディは今もなお、潜伏生活を続けている。
ちなみに、もともとは早川書房が訳す予定だったらしい。
(『真夜中の子供たち』『恥』の流れから考えれば、確かにそうだろう)
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本書もマジックリアリズムの手法で描かれている。
夢と現実がわからなくなっていくあたりのパートが、
著者の面目躍如といったところである。
訳文の悪さ、宗教性・政治性など、さまざまな問題を含んでいるが、
それでも本書のリーダビリティーは、きわめて高い。
『真夜中の子供たち』は子供の文学、
『悪魔の詩』は大人の文学、という感じがする。
もちろん、どちらも傑作だけど。
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ある見方によれば、自分自身を飾り立てようと凝り出した人間は、創造主の役割を帯びつつあると言える。彼は異常で、冒涜者で、忌まわしい中で最も忌まわしい人間に他ならない。別の角度から見れば、彼の裡に哀感を見出すこともできよう。彼の努力や危険を冒そうという態度にはヒロイズムを。変わった奴が皆生きのびれるわけではないから。あるいはまた彼のことを社会政治的に見るのならば、ほとんどの放浪者が喜びくるようになることは、変態の街である。われわれの身の周りに編み出された虚偽に匹敵する虚偽の記述こそ、安全第一のために、われわれの秘密の自己を覆い隠してくれるのである。/自分を創出していく人間には、その人間の存在を信じて彼がそれをこなし切ったと証してくれる誰かが必要である。再び神を演じることだと人は言うかも知れない。あるいは少々段階を下げて、子供達が手をたたかなければ現われてこない妖精のティンカーベルでもよい。あるいは単純にこう言うだけかも知れない。ただ人間であるだけなのさ、と。/その存在が信じられるだけでなく、他の存在が信じられるという。それを得た時が、愛情なのだ。(上、57)
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皆さんは、それがどんな気分かご存知ですか(…)すべての人生を一瞬の間に、せいぜい二〜三時間に凝縮することが? 皆さんは、たった一つの方向が踏破された時とはどんなものかご存知ですか?(上、214)
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情報なんてものは、二十世紀のうちにいつか廃止されてしまうのよ、いつとは言えないにしても。論議の必要があるというなら、すでにその廃止されているのが間違いなく一部の情報なのよ。その時以来われわれは、いわばおとぎ噺の中で生きているのよ。私の話がわかって? すべてが魔法によって生じるのよ。あっちら妖精ともなると、何が起こっているかなどとはクソほども考えないものよ。だからどうやって善だとか悪だとか知るというのよ? それが何であるかも知らないのよ。だから私が考えたことは、そういった問題に心を砕いて考え抜こうが、山頂に座っていたってかまわない、何故ならばそこにこそあらゆる真理が向かった場所なのだから。信じようと信じまいと、真理はここいらの街角の、虚偽に満ちた足許の成分から逃れて上昇し、薄い薄い空気の中、もはや嘘つきたちがそこまでいったら自分たちの脳が破裂すると恐れて追いかけてもこれない所に隠れてしまった。それはその高みに至って安心している。私もそこへ行ってきたのよ。私に尋ねてみてよ。(下、84)
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「マハウンド、あんたには娼婦も作家も同じなんだ。どちらも許せない存在なんだ。」
マハウンドは答えた。
「作家と娼婦と、どこが違うというのかね。」(下、171)
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すべての可能性がわれわれに開かれているわけではない。世界は有限であるが、われわれの希望はその縁を越えてハミ出していくのだ。(下、198)
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ああなんと、人間の心には分裂状態が可能なことか、とサラディンは暗澹たる気分で驚いた。ああ、この皮膚の袋の中で押し合い、揺れ動き衝突し続ける自我。われわれが何であれ非常に長い間焦点を合わせ続けていることが不可能なのは明白である。(下、305)
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五十嵐一 訳、Hitoshi Igarashi、いがらしひとし
Salman Rushdie "The Satanic Verses"
T『悪魔の詩』の全貌--英語文学としての解説(=毒)
U小説『悪魔の詩』事件--イスラームを"国際化"する
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Booker Prize for Fiction(shortlist)
Whitbread Novel Award
German Author of the Year
"The Rushdie Affair"、ラシュディ事件
"Salman Rushdie Case"、ラシュディ事件

9/13
サルマン・ラシュディ『ハルーンとお話の海』(国書刊行会)を読む。
「愛情あふれる、やさしさがいっぱいの、コミカルで愉快な本! すごく元気なエネルギーに安らぎと喜びの笑いがこぼれる。ワシントン・ポスト/『ハルーンとお話の海』はワンダフルで、時空を超えた、すばらしい小説。すてきなお話の好きなひとにはうってつけ。文学の天才の名作! スティーヴン・キング」と帯にある。
ラシュディが事件後、初めて公にしたフィクション。
メタファーというフィルターを通すことなく、
かなり率直に文学への想いを吐露している。
全体としては、『グリマス』の世界観とどことなく似ている。
妄想が連鎖する不思議な児童文学。
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人間、たまには変なこともしなきゃ、正直になれないよ。みんな、そう思っているくせになかなか認めたがらない。(35)
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目の前にいなくてもいい、あてずっぽうでもいい。鳥の名前を言えばいいんだ。カラス、ウズラ、ハチドリ、ブルブル、マイナ、オウム、トビ。空飛ぶ生き物をじぶんで考えて言ってもいいよ。たとえば、翼のある馬、飛ぶ亀、飛行する鯨、空中蛇、飛行ネズミ。ものに名前をあたえる、ラベルをはる、通称を決める。ものを無名から救いだす、無名の世界からひっぱりだす、要するに、名付ける--そうすると、言われたものは存在しはじめるんだよ。なんでもかまわないから鳥の名前を決めなさい。(65)
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「だいじょうぶ!(…)しっかりしたお話は、少々かきまわされたって平気なの! ブルルルン!」(83)
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なにもないところからはなにも生まれない。お話も、なにもないところからは生まれない。新しいお話は古いお話から生まれるんだよ--新しい組み合わせが新しさを作る。(91)
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たくさんのいろんなお話を宙に投げて、それをぐるぐる回す。うまければ、ひとつも落とさない。玉投げの曲芸は、きっと、お話の芸のひとつなんだと思うよ(118)
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ハッピーエンドは、みんなが考えているほどには、お話のなかにも、ほんとうの人生にもないものだ。きわめて例外的なものであって、かならずあるものではない、と言っていいのかもしれない(226)
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ひとはうれしいことがあって喜ぶのでなくてはだめだよ。瓶づめの喜びが空から落ちてきたからうれしくなるなんて、だめだ(235)
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青山南 訳、ハルーンと物語の海、ハロンの話
Salman Rushdie "Haroun and the Sea of Stories"
Writers' Guild Award (Best Children's Book)

9/14
Salman Rushdie『Imaginary Homelands: Essays and Criticism, 1981-1991』を(Granta Books)読む。
小説のようなマジックリアリズムでもなく、
『ジャガーの微笑』のようなジャーナリズムでもなく、
いわゆる「普通の」論理的な文章なのだが、
これが、とにかくうまい。
うますぎる。
ラシュディは、明晰な文章という土台があるからこそ、
マジックリアリズムであれだけ高く飛び上がることができるのだろう。
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故郷の喪失など、ネガティブな話であっても、
最後には「希望(hope)」という言葉で締めくくるエッセイ(評論)が多い。
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引用は後日。
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サルマン・ラシュディ『想像の故郷--エッセイと批評 1981-1991』(未訳)
想像のホームランド、想像の母国、想像の故国、想像の中の故郷
単著(パンフレット?)として出版された『Is Nothing Sacred?』『In Good Faith』は、
本書に収録されている。

9/15
Salman Rushdie『The Wizard of Oz』(BFI Film Classics)を読む。
ラシュディが始めての「文学的」体験と呼ぶ、
映画版「オズの魔法使い」の評論。
よほど影響を受けた映画なのだろう、
ラシュディ作品の批評を読んでいるような感覚だった。
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The first colour shot, in which Dorothy walks away from the camera towards the front door of the house, is deliberately dull, an attempt to match the preceding monochrome. But once the door is open, colours floods the screen. In these colour-glutted days it's hard to imagine ourselves back in a time when colour was still relatively new in the movies. Thinking back once again to my Bombay childhood in the 1950s, a time when Hindi movies were all in black-and-white, I can recall the excitement of the advent if colour.(30)
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'Home' has become a scattered, damaged, hydra-various concept in our present travails. There is so much to yearn for. There are so few rainbows any more.(60)
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サルマン・ラシュディ『オズの魔法使い』(未訳)
BFI(British Film Institute)(essay and short story)
第一部:A Short Text About Magic(エッセイ)
第二部:At the Auction of the Ruby Slippers(短編)
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スウェーデンのトゥチョルスキー賞受賞
Kurt Tucholsky Prize (Sweden)

9/19
『The Rushdie Letters : Freedom to Speak, Freedom to Write』(Nebraska)を読む。
ギュンター・グラス、ジョセー・サラマーゴ、ノーマン・メイラー、
トム・ストッパード、カズオ・イシグロ(石黒一雄)などなど、
さまざまな、そして偉大な作家たちがラシュディへと向けた公開書簡。
豪華な面子の割には、内容に変化がない。
まぁ、これは出版することに意味があったのだろうけど。
ラシュディ本人が書いているのは「One Thousand days in a Baloon」と
皆の手紙に答えた「Reply」の二編のみ。
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Visiting my neighbouring island, it is not your absence I keep encountering but your invisible presence. (Dermot Bolger,69)
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We should not allow a complicitory silence to fall over the persecution of which you are victim nor that the public become accustomed to what is happening to you. It is our obligation as writers, for moral and practical reasons - for in a world where blackmail silences writers, literature could not exist - to maintain our indignation and protest alive. Remembering that this is an intolerable injustice and demanding that governments and public opinion mobilize until it ends. In very few cases, such as the one you are living, can we distinguish so clearly the line - often shady and wiggly - that divides the rational from the irrational, the just from the unjust, the barbarous from the civilized.(Maria Vargas Llosa,96)
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Edited by Steve MacDonogh in association with Article 19
Gunter Grass、Paul Theroux、Arnold Wesker、Margaret Atwood、Nadine Gordimer、
Jatinder Verma、Peter Carey、Fahimeh Farsaie、Jose Saramago、Graham Swift、
William Styron、Dermot Bolger、Norman Mailer、Elfriede Jelinek、Kazuo Ishiguro、
Johannes Mario Simmel、Ralph Giordano、Pierre Guyotat、Avraham B. Yehoshua、
Mario Vargas Llosa、Andrzej Szczypiorski、Gertrud Seehaus、Dragan Velikic、
Joachim Walther、Lev Kopalev、Tom Stoppard、
'Fiction, Fact and the Fatwa' Carmel Bedford

9/20
サルマン・ラシュディ『東と西』(平凡社)を読む。
「NEW! 東と西の文化が産むさまざまな悲喜劇--。世界で最も注目すべき作家の珠玉の連作小説。」と帯にある。
はじめての短編集なのだが、何か物足りない。
壮大な世界を作り上げることに長けた著者にとって、
結晶化された短編という形式はあまり向いていないのかもしれない。
(その証拠として、収められている短編は、長いものほど優れいてる)
『トリストラム・シャンディ』と『ハムレット』を混ぜあわせた
「ヨリック」のぶっ壊れ方は、すばらしい。
-
すべて収集家というものは、自分の宝物を他のもうひとりの人間と共有しないことには気がすまぬものである。(48)
-
もちろんヨリック伝説(サガ)だ。およそ二三五年前に、ある--いや、ないかもしれない--トリストラムという男の手に渡ったのと同じ昔の物語なのだ。このトリストラムは(イズーがいなかったのに)トリスト(悲しい)でもラム(雄羊)でもなく、いたって泡の多い、酔いやすいシャンディみたいな御仁だった。(66)
-
しかしエリオットの巨大な精神的倉庫から気前よく分け与えられるさまざまな「禁断の知」のなかに、此岸と彼岸の間、わたしのふたつの他性の間、わたしたちの二重の帰属性の間に橋を架けるためのもうひとつの方法を発見したとわたしは思った。あの魔術と力の世界のなかに、わたしがひたすら信じたいと願っていた、西欧的、アメリカ・インディアン的、東洋的、レヴァント的世界観のいわば融合が存在しているように見えた。(138)
-
「悲劇はいかに死ぬかではなく、いかに生きたかだ」(169)
-
わたしは跳ね、鼻を鳴らし、いななき、後脚で立ち、蹴る。ロープたちよ、わたしはきみたちを運ばない。投げ縄たちよ、輪縄たちよ、わたしはきみたちのどちらも採らない、そして両方とも採る。聞こえるか。選ぶのはいやだ。(210)
-
寺門泰彦 訳、『東、西』
Salman Rushdie "East, West : Stories"
-
●東(East)
よい忠告は宝石よりも稀(Good Advice Is Rarer Than Rubies)
無料のラジオ(The Free Radio)
預言者の髪の毛(The Prophet's Hair)
-
●西(West)
ヨリック(Yorick)
ルビーのスリッパの競売にて(At the Auction of the Ruby Slippers)
クリストファー・コロンブスとスペイン女王イサベル、画竜点晴を施す(Christopher Columbus and Queen Isabella of Spain Consummate Their Relationship (Santa Fe, AD 1492))
-
●東と西(East, West)
天球の調和(The Harmony of the Spheres)
チェーホフとズールー(Chekov and Zulu)
コーター(The Courter)

9/21
Salman Rushdie『The Moor's Last Sigh』(Vintage)を読む。
「The Moor's Last Sigh」という絵画を巡る愛の物語である。
愛の暴力。暴力の愛。
愛の根源は暴力的なのか。暴力の果てに愛が生まれるのか。
どろどろの油絵の具で何度も何度も塗りつぶしたような、
破天荒で混沌とした物語世界を描き出すことに成功している。
入り組みまくっているプロットというラビリンスを、
すさまじいパワーで強引に突き進んでいくような感覚だった。
つまり、傑作。
-
引用は後日。
-
サルマン・ラシュディ『ムーア人の最後のため息』(未訳)
ムーア人の最後の溜息、ムーア人最後のため息
ムーアの最後のため息、ムアーの最後のため息
Booker Prize for Fiction (shortlist,nominee)
British Book Awards Author of the Year
Whitbread Novel Award
Palimpsest、羊皮紙、再録羊皮紙、重ね描き、重ね書き、
パリンプセスト、パランプセスト、パリンプセーストス

9/22
Salman Rushdie『The Ground Beneath her Feet』(Vintage)を読む。
「音楽」を題材にした愛の物語。
『ムーア人の最後のため息』が油彩画なら、
『彼女の足下の地面』は水彩画である。
ラシュディ特有の「濃厚なごった煮」感はあまりなく、
力まずにさらりと愛の世界を描き出している。
もしかしたら、ファトゥワを意識しすぎて、
自然と文章に抑制が利いたのかもしれない。
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We find ground on which to make our stand. In India, that place obsessed by place, belonging-to-your-place, knowing-your-place, we are mostly given that territory, and that's that, no arguments, get on with it. But Ormus and Vina and I, we couldn't accept that, we came loose. Among the great struggles of man -- good/evil, reason/unreacon, etc. -- there is also this mighty conflict between the fantasy of Home and the fantasy of Away, the dream of roots and the mirage of the journey. And if you are Ormus Cama, if you are Vina Apsara, whose songs could cross all frontiers, even the frontiers of people's hearts, then perhaps you believed all ground could be skipped over, all frontiers would crumble before the sorcery of the tune. Off you'd go, off your turf, beyond family and clan and nation and race, flying untouchably over the minefields of taboo, until you stood at last at the last gateway, the most forbidden of all doors. Where your blood sings in your ears, Don't even think about it. And you think about it, you cross that final frontier, and perhaps, perhaps -- we'll see how the tale works out -- you have finally gone too far, and are destroyed.(54)
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When you grow up, as I did, in a great city, during what just happens to be its golden age, you think of it as eternal. Always was there, always will be. The grandeur of the metropolis creates the illusion of permanence. (78)
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Suffice to say that the deed -- the deeds -- were done; that the lovers did not return to their own beds that night; so that on this occasion joy came at night, and it was the morning that was dark and full of sorrow.(161)
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A man's worth reveals itself in the hour of his greatest adversity. What is our value when the chips are down? Do we merely flatter to deceive, or are we the real thing, the stuff of alchemists' dreams? These, too, are questions to which most of us, mercifully, are never required to supply answers.(310)
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Life is a broken radio and there are no good songs.(335)
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Professor Vina and Crystal Vina, Holy Vina and Profane Vina, Junkie Vina and Veggie Vina, Women's Vina and Vina the Sex Machine, Barren-Childless-Tragic Vina and Traumatized-Childhood-Tragedy Vina, Leader Vina who blazed Vina a trail for a generation of women and Disiple Vina who came to think of Ormus as the One she had always sought. She was all of these and more, and everything she was, she pitched uncompromisingly high. There was no Self-Effacing Vina to set against Vina of the Screamingly Stretched Extremes.(338)
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He isn't listening. High purpose has descended upon him. If you won't marry me now, then I want to know when you will, he demands, with stubbornness so deep that it has metamorphosed into someting else, into, perhaps, destiny. And the force of his wanting it is to palpable that Vina -- who loves him with her life, who knows his love is the equal of hers, who can't trust either his love or her own for five minutes at a time -- takes the demand seriously. Name the day, he blazes. As far in the future you want. Your one hundred and first birthday if you want. But name it and hold to it and I'll never ask you again until that day comes. Give me your unsinkable word and it will keep me afloat all my life. Just name the fucking day.(369)
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サルマン・ラシュディ『彼女の足元の地面』(未訳)
彼女の足下の土地、彼女の足元の地面、彼女の足許の地面
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ラシュディの書評は、ほとんどネット上にないので、
例外的に、小説を面白かった順に並べてみる。
(1)『真夜中の子供たち』
(2)『悪魔の詩』
(3)『ムーア人の最後のため息』
(4)『彼女の足下の大地』
(5)『恥』
(6)『東と西』
(7)『ハルーンとお話の海』
(8)『グリマス』
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さて、本書の後に、ラシュディは以下の作品を発表している。
これらは、次の機会に読む予定。
『Conversations with Salman Rushdie』
『Fury』
『Step Across This Line: Collected Nonfiction 1992-2002』
『Shalimar the Clown(The Enchantress Of Florenceを改題)』
『Parallelville』
『Careless Masters』

9/25
『ユリイカ 1989年11月号 特集『悪魔の詩』の波紋 ラシュディは有罪か?』(青土社)と
『文藝 1994年秋季号 小特集 回帰するサルマン事件』(河出書房新社)を読む。
「俺たちには「表現の自由」がある。何だって書いていいのだ」という
「西洋的な」視座から発せられた言い訳は、イスラームの人々に対して、まったく通用しない。
にもかかわらず、「西洋的な」論理に固執する論者がいかに多いことか。
根底にあるものがまったく異質な他者といかに対話していくか、その難しさを痛感する。
越境のアポリアを描き続けるサルマン・ラシュディ(サルマーン・ルシュディー)にとって、
ラシュディ事件は、「ラシュディの起こした事件」というだけでなく、
極めて「ラシュディらしい事件」でもあった(ある)。
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「書くことが神の手にあるか、人の手にあるか」という相違が、
西洋と東洋の間に横たわっているということを暴いた
フェティ・ベンスラマ「物騒なフィクション」が、断トツの出来である。
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いささか喧嘩両成敗的判定を下すのならば、書き手のラシュディーの側にも突っ込みの足らない不満が残るし、死刑宣告を出したホメイニー氏を頂点とするイスラームの批判者たちの側にも、この程度の悪口雑言に一々目くじらを立てていたのでは、本当に深い教義的批判や対抗案にはどう対処するのか、いささか不安にもなるのである。(『ユリイカ 1989年11月号 』五十嵐一、103)
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私だってこういう静観主義をできれば取りたいところだ(静観主義のことはあとでもう一度触れることにする)。ただ私としては、やはりくだらないものはくだらないと発言することが大事なことで、それはどのような場合でも大事なことだと考える。黙って見過ごすことはそれを正しいものと認めたことになる。(『ユリイカ 1989年11月号 』サルマン・ラシュディ、119)
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芸術は脆弱ではない。傷つけられるおそれがあるのは芸術家の方である。(『文藝 1994年秋季号』サルマン・ラシュディ、300)
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古くからのあらゆる伝統的なシステムは、起源の隠蔽とか、その歴史的条件の不透明さ、その怠りない隠蔽保持とかを特徴としており、それが近代性と衝突することとなるのだ。(『文藝 1994年秋季号』フェティ・ベンスラマ、306)
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五十嵐氏は単にアラビア語の日本語翻訳者ではなかった。しかも氏は普通よくあるように象牙の塔のアカデミズムに閉じ籠っている学者馬鹿でもなかった。氏は中東の文化、歴史、宗教や社会を研究する過程で、自分なりの物の見方や世界観を作り出し、その上に立って積極的に発言していた実践的で慧眼な学者であり思想家だった。
その意味で、私は五十嵐氏殺害は、じつは『悪魔の詩』の「表現の自由」の問題である以上に、日本における言語表現の自由を封殺する、極めて重大な事件ではないかと思いはじめた。
犯人はイスラーム教徒めかした犯行に見せ掛けているが、じつは五十嵐氏の言語抹殺が狙いだったのではないか?(『文藝 1994年秋季号』森詠、321)
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宗教という聖域から、文学というもう一つの聖域に対して死刑という判決が下されたことは、国際的なメディアを国家が利用したという意味では湾岸戦争に似ていますが、宗教=国家=文学(小説)というイコールで結ばれかねない構図が、文学をかえって特権化してしまったように思えます。(『文藝 1994年秋季号』金井美恵子、331)
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『ユリイカ』1989年11月号 特集『悪魔の詩』の波紋 ラシュディは有罪か?
大熊栄「『悪魔の詩』と身近な波紋 ロンドンからの手紙」
五十嵐一「『悪魔の詩』の全貌 英語文学としての解読(=毒)」
サルマン・ラシュディ 訳・川口喬一「ギュンター・グラス論」
ギュンター・グラス 訳・飯吉光夫「ラシュディについて」
サルマン・ラシュディ 訳・川口喬一「鯨の外で 政治と文学について」
杉田英明「ルシュディーは祖国の裏切り者か? ルシュディーとサイード」
山崎カヲル「サルマン・ラシュディのニカラグア」
五十嵐一「小説『悪魔の詩』事件 イスラームを"国際化"する」
高橋明「幻想としての異文化理解 ラシュディ論」
星倉憂愁「ラシュディの処女作 『グライマス』ダイジェスト」
稲賀繁美「『悪魔の詩篇』をめぐる反響瞥見」
高橋和久「同時代のイギリス小説とラシュディ」
寺門泰彦「短編「預言者の髪の毛」梗概」
栗原行雄「終末のイメージと円環構造 『恥(シェイム)』の世界」
寺門泰彦「評伝サルマン・ラシュディ」
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『文藝』1994年秋号 [特集]回帰するラシュディ事件 国境なき時代と文学の再審
鵜飼哲「蜂起するエクリチュール 湾岸戦争から「国際作家会議」の設立まで」
港千尋 聞き手・鵜飼哲「"終わり"を待ちながら」
サルマン・ラシュディ 訳・鵜飼哲「国境なきものたちのための独立宣言」
エドワード・サイード 訳・鵜飼哲「正統派に抗して」
フェティ・ベンスラマ 訳・西谷修「物騒なフィクション」
西谷修「罪あるものとしての文学」
文藝編集部「文学の再審と「表現の自由」」
橋本治「なにがこわかろう」
三田誠広「政治、宗教、文学について」
藤井貞和「恥」
佐藤洋二郎「区別される「言葉」」
島田雅彦「「表現の自由」の脅威」
森詠「言論抹殺を狙う」
水村美苗「形式性であることの倫理性」
沼野充義「人が言葉ゆえに殺されるとき」
久野十義「親方には相談できない」
宇野邦一「<自由>という倒錯的なもの」
金井美恵子「聖域と特権」
川西蘭「小さな声はどこまで響くのか?」
松葉祥一「「光の暴力」に抗して 藤井貞和『湾岸戦争論』を手がかりに」
福田育弘「複数的なアルジェリアのために」

9/26
五十嵐一『神秘主義のエクリチュール』(法蔵館)。
「良寛、スフラワルディーから老荘、マラルメまで/オカルト趣味や超高級形而上学を排し、少数の手から万人のために鮮やかに拓かれた叡智の世界。」と帯にある。
「イガラーシ・ラディカリズムの結晶」ということで購入・読了。
裏表紙にある紹介が、内容を巧みに要約しているので、引用する。
「神秘主義といえば超自然的な力や出来事を思い浮かべる人が多いだろう。けれども肉体を切り裂かれて復活することを奇蹟というなら、アメーバは刻々とそれをくり返している。崖淵から身を翻してなお傷つかないことや肩に手を当てるだけで肩こりが治るのを神秘だというなら、風に乗る鳥やはじめから肩のない烏賊は笑うだろう。鬼面人を威す超能力や奇蹟の類は神秘主義の本道ではない。一方、難解な言語と概念を駆使し、世界や宇宙の秘密の鍵を解かんと超高級形而上学に耽ったところで、神秘主義の何たるかがわかるわけではない。」
「presence 感覚/absence 感覚」「されど/たかが」などのタームを使って、
著者独自(?)の神秘主義を説いている。
超越的なものを説明するのは、なかなかどうして厄介である。
簡単すぎると凄さが伝わらないし、難解すぎると理解してもらえない。
本書は、超越に寄り過ぎており、平たく言えば、自己陶酔に近いものになっている。
わかるようで、よくわからないが、妙に爽やかな読後感だった。
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他人の書いた物を辿るなりなぞるなりして手っ取り早く了解したつもりになっても、それこそ神秘主義の真義たる自己省察や、心に染みる知恵の獲得とその味読なしには何事も始まらないからである。(19)
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かくして、神秘主義の修業道とは本来、特別のエリートだけに許される荒行を要求するものではない。かといって「自らが養われてある世界」、という知識を他人から教わって身に着けるのと、ほんとうに魂の奥底からつき上げられ湧き出してくる知識として心に染みて分かるのとでは大いに異なる。一般に、アルファベットを順番に覚えていくに際して、十個の文字を覚えれば一個の時よりも十倍賢くなったと錯覚するような知識は、身に着ける類のもので、いつかは脱ぎ捨てられる運命にある。それに対して心に染みて納得した真知識は、捨てようとしてもぬぐい去ろうとしても心を離れるものではない。いわば、「赤い鳥小鳥、なぜなぜ赤い、赤い実を食べた」の童謡は神秘主義の秘密にふれていて、赤い知恵の実を食べて赤く染まった心から吐き出される言葉や歌は必ず赤いのである。(99)
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自己犠牲のイマージュは、何かしら重量の大きい物体がドサッとばかりに落下して破壊的現象が生じるに近い。しかしながら放下の感覚とは本来、薄物がふわりふわりと風に舞うイマージュなのである。(125)
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「死にたうない」と呟いた良寛にせよ、「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ!」と叫んだイエズスにせよ、「水が飲みたい」と求めた釈尊にせよ、その死出の旅路は自然であったのである。われわれはこれら悟った人々の知恵に接し得るだけで十分なのであり、何故さらに天変地異や摩訶不思議を求める必要があろうか。神秘主義のエクリチュールの温かい光に包まれたテクストを味読することから、また「十とおさめて始まる」のが宜しい。(217)

9/27
五十嵐一『イスラーム・ラディカリズム 私はなぜ「悪魔の詩」を訳したか』(法蔵館)を読む。
「真のラディカリズムとはあえて火中の栗を拾うこと/狂気か正気か。「死刑宣告」に秘められたイスラームの深層の知恵をラディカルに探求し、「日本とは何か」を鮮やかに浮かび上がらせる<知のドキュメント>。」と帯にある。
ラディカルとは、物事を根底から考え直す作業をいう。
どう贔屓目見に見ても、本書はラディカルから程遠い所にある。
根底から問い直すのであれば、そこに嘲笑など含まれはしない。
挑発と嘲笑は、別物である。似てもいない。
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どうしても死刑執行とおっしゃるのならば、とりあえず小生の最終弁論までは執行猶予を願いたい。あるいは仮執行ということで、夢物語で犯した罪だから、ラシュディ氏の夢のなかにお出かけになって、首をチョン切っていただきたい。(59)
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「日本は防衛努力を怠るどころか、あの中東地区に巨人軍を派遣しております。中東の平和維持のために軍隊を送り込むことに何の異存もありません」。
そういえば十二球団でただ一つ、巨人軍は軍隊なのであった!(110)
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嘘の効用の真義は、事実を洗い出すことでも、真実を暴露することでもない。それは、未来に向けて希望を託すことにある。過去の事実や現実の真実を赤裸々に暴いて、初期条件を突きつけることが主眼なのではなくて、そのような与件を境界条件としつつも、未来へ希望をつなぐ架け橋をつけてやることに他ならない。(125)

9/28
アダム・ザミーンザド『サイラス・サイラス(上)(下)』(トレヴィル・リブロポート)を読む。
「インド・パキスタン文化の豊饒なる光と闇が産み落としたマジックリアリズムの怪人が圧倒する想像力で刻み出す現代の黙示録。'90年代世界文学(ワールドフィクション)の金字塔。今世紀の産んだ希代の悪党にして聖者サイラス・サイラスがその黒い穴のごとき精神の、底知れぬ、深淵の中に覗き見たもの セックスと生存、死と死後の世界、狂気と天才の、絢爛たるイメージ。」と上巻の帯に、
「'90年代世界文学(ワールドフィクション)シーンに衝撃を与える、圧倒的な想像力と漲る憤激。百科全書的マジックリアリズムによる警告の書。サイラス・サイラス、彼は悪魔なのか、聖者なのか? 虐げられた民を救う者として神に選ばれた主人公がその神に呪いの声をあげる、神が造ったはずの現実に瀰漫する不条理。そして到来する神秘の救済。」と下巻の帯に、それぞれある。
-
上巻の中盤までは、サルマン・ラシュディの縮小再生産。
描写の突っ込みが甘く、迫力不足である。
上巻の終盤に差し掛かったあたりから、だんだん妄想が膨れ上がり、
加速したままのテンションで、ラストまで一気に駆け抜ける。
「ランナーズ・ハイ」に似た感覚を味わえるドラッグ的な小説。
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「サイラス・サイラス著『回転覗き絵 思索と回想』」という本を、
刊行者が紹介するという枠小説なのだが、この設定はほとんど活かされていない。
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私は、どうして信仰なんかがもてるのかと、曾祖母に訊ねたことがある。そのときの曾祖母の答えは、最初は少し面食らったけど、奇妙に説得力のあるものだった。わしは奇跡が起こって、わしの人生を変えてくれると信じ込んできたから--そのことを、これっぽっちも疑うことなく、頭から信じ込んできたから、奇跡が起こらなかったとき、逆にそのことが奇跡となってしまったんじゃよ。奇跡というのは、つまりは、起こるはずがないとしか思えないことが現実に起こってしまうことだろう。わしは自分の人生がこのままのわけがないと確信があったから、人生はこのままなのだということがはっきりしたとき、そのことが逆に奇跡となった。(上、40)
-
この頃である、私が世界でもっとも危険なゲームを楽しむようになり、世界で最も破壊的な武器の悦びを発見し、世界でもっとも強力な爆発物を愛するようになったのは。もちろん、読書のことだ。活字の世界、書物の世界。(上、57)
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その夜は男のところに泊めてもらった。翌朝、外出禁止の時間が終わると、男は私の家までの道を説明してくれた。その前にまず、帰るべき家がそもそもあるのかどうか確かめた上で。(上、177)
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犯罪は成功をもたらす。そして、間違いなく、成功の尺度であるお金をもたらしてくれる。だからこそ、成功に価値を置いた競争社会であるほど、犯罪率が高いんだ。(下、25)
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神が私にチャンスをくれなかったとは言えない。逆である。神はありとあらゆるチャンスを私にくれた。神を責めることはできない。(下、50)
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地面を転がる球状のタンブルウィードのように私は吹き飛ばされると、確実性と偶発性の地平線の上を、偶然性と合理性の限界のかなたを、論理と理性の障害を越え、超現実の経験論の荒野へと飛ばされていった。(下、56)
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Adam Zameenzad "Cyrus Cyrus"、筒井正明 訳
百科全書的ファンタスマゴリック・フェーブル
幻灯劇風(phantasmagoric、ファンタスマゴリック)
フレーム・ストーリー(額縁構造・枠構造・枠物語・枠小説・入れ子構造)

9/29
ロドリゴ・レイローサを読む。
まずは、それぞれの帯を紹介。
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ロドリゴ・レイローサ『船の救世主』(現代企画室)。
「ラテンアメリカ文学の新しい風! 日本初紹介作品『その時は殺され……』(小社刊)がBSブックレビュー(2000/8/26)で好評。」
-
ロドリゴ・レイローサ『その時は殺され…』(現代企画室)。
「ぎりぎりまで彫琢された、密度の高い簡潔な表現の極致! ポール・ボウルズが自ら英訳を買って出たグアテマラの新進作家、初紹介。」
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ロドリゴ・レイローサ『アフリカの海岸』(現代企画室)。
「ひそやかに、読者のこころを捉えはじめたレイローサの世界 捕らわれたフクロウと自由を失ったコロンビア人、羊飼いの少年とパリジェンヌ、モロッコはタンジェの街で一瞬だけ出会い、そのまま永遠に離散してゆくものたちの物語」
-
透明な狂気。
簡潔でもシンプルでもない。
書くべきところをあえて書かないで、
読者の曖昧模糊とした想像に任せてしまう。
その潔さが、すばらしい。
書き慣れるにしたがって、文体の透明さは失われていくが、
その喪失を埋め合わせて余りあるほどの、
世界に対する精緻なまなざしを、著者は獲得している。
それにしても『アフリカの海岸』は、
初期の丸山健二作品に酷似している。
-
続巻予定の『静かな湖面』『樹林の牢獄』は、
まだ邦訳されていない。
ポール・ボウルズの英訳で読むのが
賢い選択かもしれない。
-
「それでおまえはそんなふうに思ってるの?」と母親はエルネストにいった。「すべてが意味もなくそうなったって? ほんとうはそうなるべきじゃなかったって? まあ、おまえは考え違いをしてるのね。おまえがそんなふうに思ってるのは、たんにおまえがそう思ってるからで、ほんとうにそうであるとは限らないわ。ひとりひとりの頭の中はひとつの世界で、この世には無数の世界があるのよ」(『その時は殺され……』15)
-
人は本の中の世界を生きているように感じていることがある(と哲学者たちはいう)。飛行機から降りるとき、エミリアもそんな錯覚におそわれた。すべてはファンチャーチの牧師館ではじまったことだった。だが今ではすべてが単なる記憶に過ぎなかった。エミリアの頭の中にあるそれは、(哲学者たちがいうように)現実を体験するにはかならずしも肉体が不可欠でないことを裏付けているのだった。(『その時は殺され……』43)
-
「信じてください、大将殿。あの名高いビッグバンは、過去のことじゃありません。大爆発はすでに起きたことではなく、これから起きることなんです。みなさんはどういう視覚的なズレのせいかわかりませんが、過去としてあれを見てしまったんです。だけど実際のところ、この世の時計は、まさに時限爆弾なんです」(『船の救世主』57)
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Rodrigo Rey Rosa、杉山 晃 訳
Rodrigo Rey Rosa "El Salvador De Buques"
Rodrigo Rey Rosa "Que Me Maten Si..."
Rodrigo Rey Rosa "La Orilla Africana"
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ロドリゴ・レイローサ 主な著作
1985 乞食のナイフ
1989 静かな湖面・湖水
1991 船の救世主
1992 樹林の牢獄(ペルカリの計画)
1994 セバスティアンの夢
1996 片足の善人
1997 その時は殺され……
1998 聖域なし
1999 アフリカの海岸

10/2
E・サバト『トンネル』(国書刊行会)を読む。
「エルネスト・サバトによる現代の愛の神話」と表の帯に、
「孤独な画家と若い魔的な女性との運命的な出会い、そして激しい愛と憎悪と苦悩……。そしてなぜ彼は愛するマリアを殺さねばならなかったのか? 今日、おびただしく氾濫する微温的な愛の物語のうちにあって、現代の愛の神話、とも呼ぶべき推理小説的手法による衝撃的な物語。ボルヘスと並ぶアルゼンチン文壇の巨星サバトによる、『異邦人』の著者の絶賛を浴びた、ラテンアメリカ実存主義小説の最高作。(本邦初訳) 見返作品/中西夏之 ラテンアメリカ文学叢書6/第六回配本」と裏の帯にある。
ドストエフスキー『地下室の手記』を髣髴とさせる神経症的な文体で、
女性を殺すまでにいたった精神の遍歴が描かれる。
実存主義文学と探偵小説はプロットの作り方が似ているが、
本書も例外ではない。
ラテンアメリカらしくない、ヨーロッパ的な文学である。
ページ数の割には読み応えのある、重苦しい一冊。
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「昔は何もかも良かった」という表現は、以前には悪いことが今ほどなかったということではなく、人間が--幸いにも--過去のことをきれいさっぱり忘れてしまうものだということを指しているのだ。(9)
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「論理づけることができないわけではないのです! それどころか、わたしはいつも論理づけを行っています。しかし、絶えず自分の位置を数学的に測定し、冷酷なほど厳然として目的地に向かって航路を保ち続ける船長の姿を想像してください。でも、なぜその目的地に向かうのか分かっていないのです、ご理解いただけますか」(41)
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どうして現実は単純でなければいけないのかとわたしは自問してみる。反対に、決してそんなことはない。そして、ひどく明瞭に見えるもの、一見、簡単な理由に従っていると思われる行動がある時には、ほとんど常にその裏にはもっと複雑な原因が存在するものだということを、わたしは経験によって教えられてきた。(61)
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探偵小説はセルバンテスの時代に騎士道精神が演じたことを二十世紀にやっているんだ。しかし、さらにだね、『ドン・キホーテ』と同じような存在となり得るのではなかろうかとぼくは思っているんだ。つまり、探偵小説の風刺だよ。探偵小説を読んで人生を過ごし、世の中がニコラス・ブレークがエラリー・クイーンの小説のように動いていると思い込んでしまうという狂気にまで達してしまっている人間を想像してごらん。その気の毒な奴が、こうした小説の中で探偵がやるように、ついに犯罪を発見し行動し始める姿を想像してごらんなさい。面白くて、悲劇的で、象徴的で、風刺的で、見事な作品ができるとぼくは思うね」(109)
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Ernest Sabato "El Tunel"、高見英一 訳
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サバト『英雄たちと墓』(集英社)を読む。
「なぜ少女は父を殺し、焼身自殺をしたか? そして発見された驚くべき手記!! 旧家の呪われた過去を暴く、本邦初訳作品!/よりパワフルでおもしろい文学のノボ・ムンド(新世界)ラテンアメリカの文学」と帯にある。
「第V部 闇に関する報告書」が圧巻。
妄想だけで作られた世界が、延々と記述されていく。
その他の部分は、それなりの出来である。
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「ブルーノはいつも言ってるわ、わたしたちは、不幸なことに、下書きの人生を生きているって。作家なら不完全なところを書き換えたり、屑箱に放り込むことができる。でも人生は違う、いままで生きてきた分はやり直す手立てがない、浄化することも、放り出すこともできはしない。恐ろしいことだと思うでしょ?」(107)
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わたしたちの文化はヨーロッパから来ている、このことを避けられるものだろうか? それに、なぜ避けようとするのか? 誰だったか、独創性を失わないために本を読まないと言った人がいた。いいかね? 独創的なことをしたり、話したりするために生まれた者は本を読むことで何も失いはしない。(171)
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人間は絶望だけで作られているわけじゃない、信念や希望からも作られているのだ、死ばかりか生に対する熱望から、孤独ばかりか共感や愛情からも。もし絶望が勝るのなら、わたしたちは死ぬか自殺するかせねばならない。ところがそうはしない。結局、理性はあまり重要視すべきものではないのだ、なぜなら、わたしたちが生きているこの世界で希望を抱きつづけることは合理的ではないからだ。わたしたちの理性は、知性は絶えずわたしたちに、この世界が残酷なものであることを証明する、それゆえ理性は破壊的なものといえる、そして、懐疑論へ犬儒主義へ、最後には終末論へと導くことになる。しかし、幸いなことに人間は合理的な存在ではありえない、だからこそ、不幸の中でも希望が次々に生まれることになる、そして、ひどく滅茶苦茶なことが、ひどく微妙で支離滅裂なことが、基盤をまったく欠いた何かが甦るということこそ、人間が合理的でないことの証明ともなるのだ。(189)
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「天才というのはね」わたしは教え諭すように静かに説明した。「相反する事象間に同一性を発見する人のことです。外見上は関係のないような事象のあいだに関係を見つける人。相違点の中に一致点を、外観の下の実在を見つける人。石が落ちるのも、月が落ちないのも同じ現象によることを発見する人を指すのです」(264)
-
極めて論理的なことをしているつもりでも、実際はどれほど多くの愚行を犯していることか! もちろん、わたしたちはうまく論理づける、A、B、Cという前提に対しては立派に論じる。ただ、次のDという前提を考えていないだけなのだ。そして、E、Fという前提も。さらには残りのラテン文字、またキリール文字で表される前提も。(332)
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Ernest Sabato "Sobre heroes y tumbas / On Heroes and Tombs"
安藤哲行 訳、英雄たちと墓について
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エルネスト・サバト小説リスト
沈黙の泉(La fuente Muda)未完
トンネル(El tunel)
英雄たちと墓について(Sobre heroes y tumbas)
殺戮者アバドン・破壊者アバドン(Abbadon el exterminador)

10/3
ロア=バストス『汝、人の子よ』(集英社)を読む。
「友よ! 涙は勝利の日に流せ 過酷な運命に堪える人々の悲しみ、美しさを綴るロア=バストスのヒューマンノベル/よりパワフルでおもしろい文学のノボ・ムンド(新世界)ラテンアメリカの文学」と帯にある。
日本ではなかなか読むことのできないパラグアイの作家。
リアリズムの技法で、圧制や戦争に苦しむ平凡な人々の姿を淡々と描く。
外国から来た医者が、患者を次々に治していくシーンは、
ほんのちょっとだけマジック・リアリズムである。
-
これはあのときの本だ。私の引いたアンダーラインがそのまま残っている。悪い習慣だ。誰かの考えが述べられている個所が見つかると赤鉛筆で囲む。こうしてそれを自分の思想の一部にするのだ。(165)
-
もう生存者も死者も大して変りはない。死者の方が動かないという点で少し勝っているだけだ。はじめのうちは遺体を埋葬していたが、いまではそれも無益な贅沢というものだ。もはや死臭さえ感じなくなっている。いずれにせよ、それはわれわれの臭いなのだ。(189)
-
人間によって人間が十字架にかけられるという、このひどい矛盾がいつまで続いていいわけがない。なぜなら仮にそうだとすれば、人間は永遠に呪われていると考えざるを得ないからだ。この世は地獄であり、救いを期待することは不可能だということになるからだ。/いつかは終わるはずだ、さもなくば……(267)
-
Augusto Antonio Roa-Bastos "Hijo de hombre"、吉田秀太郎 訳
アウグスト・ロア・バストス、A・ロア・バストス
心臓疾患のため、2005年4月26日に亡くなっている。
独裁者の生涯を描いた『至高の存在たる余は(Yo el supremo)』が代表作。(未訳)

10/4
リスペクトール『G.H.の受難 家族の絆』(集英社)を読む。
「いつもと同じ朝、彼女の長い瞑想の旅が始まった。コスモポリタンとして過ごした女流作家、リスペクトールの魂のドラマ。/よりパワフルでおもしろい文学のノボ・ムンド(新世界)ラテンアメリカの文学」と帯にある。
「G.H.の受難」
ゴキブリを見て真理のようなものを悟るという"ゴキブリ哲学小説"。
非常に読みにくい観念的な文体で書かれているが、
このような矛盾する内容を表現するのは、評論ではなく文学の役割だろう。
要約のできない、のた打ち回る形而上学的な妄想の作品。
前章の最後の一行を、次の章で繰り返す、という文体は、なかなか面白い。
読めば読むほど好きになる作家である。
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「家族の絆」
これも、すごい。
寸分の油断も許されない精密な短編集。
この作品は、日本語に訳す際に、多くのものが失われた気がする。
言語(翻訳)の限界を感じざるをえない小説だった。
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自分のなかの還元不能なものに徐々に縮小していったわたしも、わたしにも何千ものまばたきする繊毛があり、純粋の蛋白質、原生動物のわたしは繊毛で前進する。わたしの手を握っておくれ、わたしは複写の宿命を持つ還元不能なものに達した--わたしはそれらすべてが昔のもので広々としていることを感じ、傲慢なゴキブリの象形文字に極東の書記法を感じる。そしてこの、大きな誘惑に満ちた砂漠に生き物、わたしと生きたゴキブリ。お前よ、生は、存在するものすべてが誘惑される大きな誘惑なのだ。住む者もない、そのために原始的に生きていたあの部屋。わたしは無に到達し、無は生きいきとした湿ったものだった。(50)
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ゴキブリを見るまではわたしはいつも、自分が生きていると思っていたことに何かの名前をつけていた。さもなければわたしは救われなかっただろう。中性的なものから逃れるためにわたしは大分前に容姿と引き替えに、人間的な仮面と引き替えに存在を捨てたのだった。自分を人間化して砂漠から解放したのだった。(75)
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我慢してわたしの言うことを聞いておくれ、神は美しくない。そしてこう言えるのは、神は結果でも結論でもないからで、わたしたちが美しいと思うものはすべて、ただそれがもう完了しているという理由だけの場合がある。しかし今日は醜いものは今から何世紀かすれば、美しいと見られるだろう。その頃にはその運動のひとつが完了しているはずだから。(133)
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ああ、お前は欠乏を恐れないでおくれ。欠乏はわたしたちの最大の運命なのだ。愛はわたしが思っていたよりも運命的で、愛は欠乏そのものと同じくらい固有のもので、わたしたちは絶えず新しくなる必要性によって守られている。愛は今ある、常にある。受難と呼ばれる止めの一撃だけが、欠けているのだ。(144)
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わたしは命名するにつれて手に入れる--そしてこれはひとつの言語を持つことの素晴らしさなのだ。しかしわたしは命名できないにつれてさらに多くのものを手に入れる。現実は原料で、言葉はわたしがそれを捜し求めにいく方法だ--そして見つけない方法なのだ。しかし捜し求めて見つからなかったことにより、自分の知らなかったものが生まれ、それを一瞬のうちにわたしは認識する。言葉はわたしの人間的努力だ。運命によりわたしは捜し求めに行かなければならず、運命により手ぶらで戻る。しかし--言い表すことのできないものを持って戻る。その言い表すことのでいないものは、私の言葉の失敗を通じてしかわたしには与えられないだろう。打ち建てることに失敗した時しかわたしはそれが成し遂げられなかったものを手に入れられない。(149)
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美しいものには、与えるというポーズが伴う必要があるわ。美しいものは取っておくべきものではなく、心の完全な沈黙の中にしまい込んでおくべきものでもないわ。(191)
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Clarice Lispector "A paixao sequndo G.H."
Clarice Lispector ""Os Lacos de Familia"
クラリッセ・リスペクトール
高橋都彦、ナヲエ・タケイ・ダ・シルバ 他 訳

10/5
品川祐『POINT 点--品川庄司長編コント&小説』(Take Shobo)を読む。
「『トモハル! 今、兄ちゃんが助けてやるからな!!』幼なじみの二人は、悪の組織の下っ端戦闘員だった・・・ どこかノスタルジックな変身ヒーロードラマの世界を舞台に、せつない友情物語を笑いと涙で描いた感動青春メルヘン! 長編コントライブを、小説+コント戯曲で再現!」と帯にある。
品川本人も認めていることでもあるけれど、
とにかくせりふが冗長でしつこい。
実際に演じれば笑いを生み出せるのかもしれないが、
普通に読んだ限り、爆笑はなかった。
ヒーロー者の悪役を描くという初期設定は面白い。
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マスター その自分が知っていることは相手も知っていると思ってしゃべるのは、やめてくんないかなあ?(49)
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バーテン 日記じゃないよね!? 完全に小説だよね?
兄ちゃん 傷つき疲れきった身体で部屋に戻ると、朝顔が一センチ伸びていたんだ。
バーテン 本出した方がいいと思うよ。(128)
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品川ヒロシ『ドロップ』(リトルモア)を読む。
「お笑いコンビ・品川庄司の品川による青春小説 80年代東京・根性焼き・木刀・バット・鉄パイプ・・・・・・ 不良になると決めたから、不良でいよう。この作品はだいぶフィクションです。実在の人物・団体等とは、あまり関係ありません。」と帯にある。
表紙の挿画を『クローズ』『QP』『WORST』の高橋ヒロシが担当していることもあり、
喧嘩が滅法強い主人公を期待したのだが、
実際は『カメレオン』のようなずる賢い主人公の話だった。
やっぱり、文章が冗長である。
重文・複文を使わずに、単文で畳み掛けるようにすればもっとよくなるはずである。
デジャヴ(既視感)のある、ありきたりな描写も多かった。
全体としては、そこそこの出来。
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前作では「シュミレーション」となっていたが、
今作では「シミュレーション」と正しく表記されている。
誰かに指摘されたのだろうか。
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「うるせえ」
「馬鹿な奴は、だいたいうるせえで締めくくろうとするな」(36)
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具体的な解決策がない時は、問題を先送りにして、とりあえず楽しくやる。これこそ不良中学生の正しい姿なのだ(107)
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山野愛子の孫、山野凱章(父)、マダム路子(母)
品川祐、品川ヒロシ、信濃川ヒロシ
高橋ヒロシ、クローズ、CROWS、QP、キューピー、WORST、ワースト

10/6
マダム路子『愛があれば大丈夫!! 品川家のしあわせ 強欲な母とけなげな子供たち』(KKロングセラーズ)を読む。
「ボクは母に「人に笑われないようにしなさい」と厳しく言われて育ちました 末っ子 お笑いコンビ『品川庄司』品川祐」と帯にある。
「美しさ」を売り物にする著者が、
一番大切なのは「体力」だと言い続けている点が意外だった。
苦労話(もしくは自慢話)として楽しめる程度。
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マダム路子『小説 やせずにはいられない』(角川文庫)を読む。
「やせたい部分だけが細くなる! テレビ朝日(日曜日 午前11時「発汗! シェイプUP」)でも評判のマダム路子が、あなたを変身させてしまう本。7つの短編とノウハウ オリジナル文庫」と帯にある。
「小説」という形式につられて購入・読了。
当時の女性からは支持を集めることができたのだろう、
7つの短編を通して、やせるための秘訣が学べるようになっている。
著者の分身であるミセス桜子の描写が寒い。
いわゆる手前味噌。
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Madam Michiko、山野路子、品川路子、
国際魅力学会会長、チャーモロジー、魅力学研究家、チャモ博士

10/10
劇団ひとり『陰日向に咲く』(幻冬舎)を読む。
「衝撃のデビュー作! 落ちこぼれたちの哀しいまでの純真を愛と笑いで包み込んだ珠玉の連作小説/ビギナーズ・ラックにしては上手すぎる。あと二冊は書いてもらわなきゃ。--恩田陸(作家)」と帯にある。初版なので、「54万部突破」というような文字はない。
かなり話題になったが、果たして本当に「うまい」のだろうか。
登場人物が絡むという構造は、それなりに工夫されているが、
突出しているというほどではない。
お笑い芸人・劇団ひとりの面白さは、手垢のついたフレーズを
確信犯的に使うところにあるが、小説で同じ技法を使うことは難しい。
この陥穽に、著者ははまってしまったのではないか。
「お笑い芸人」というだけで売れたとは思わないけれど、
「お笑い芸人」でなければ、現状のようには売れなかっただろう。
ともあれ「Overrun」は、面白かった。
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小学五年生の時、落とした消しゴムをYさんが拾ってくれたのに、「ありがとう」の一言が言えなくて後悔した。
数分後、「さっきは、ありがとう」が言えなくて後悔した。
次の日、「昨日はありがとう」が言えなくて後悔した。(67)
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そんな私が思いを伝えられる方法はただ一つ。
好きなことを気づかれないようにしてることを、相手が気づくのを待つ。(89)
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川島省吾、スープレックス

10/11
アニメ「ケロロ軍曹」のノベライズを読む。
●あすか正太(著)、吉崎観音(原作)『小説侵略! ケロロ軍曹 愛爆発! 地球消滅5秒前!!』(角川書店)
「ケロロ軍曹、小説も侵略!? ケロロ小隊が贈る、笑いと涙の完全オリジナル・ストーリー! 「超劇場版 ケロロ軍曹」3月11日(土)全国公開決定!」(帯のコピー)
●伊豆平成(著)、吉崎観音(原作)『小説侵略! ケロロ軍曹 姿なき挑戦者!?』(角川書店)
「ケロロ軍曹、小説版第2弾! 怪盗800面相の謎をあばけ! ケロロ少年少女探偵団結成!! かいけつゾロリ&ケロロ軍曹 いっしょに映画フェア」(帯のコピー)
●伊豆平成(著)、吉崎観音(原作)『小説侵略! ケロロ軍曹 たぶん伝説へ』(角川書店)
「ケロロ軍曹、剣と魔法の世界へ! 勇者ケロロよ、魔女を倒して世界を救え! 小説版ケロロ軍曹・第3弾!! かいけつゾロリ&ケロロ軍曹 いっしょに映画フェア」(帯のコピー)
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ケロロ軍曹において「パクる」という行為は、重要な位置を占めている。
先人があらゆることを言い尽くした(やり尽くした)ことによる劣等感、
ハロルド・ブルームが主張するような「影響の不安」は、微塵もない。
影響に尊敬の念を置くオマージュでも、リスペクトでもなく、
ただ単に、好きだという理由だけで、ケロロ軍曹は先行作品をパクっていく。
「影響の不安」ではなく、「影響の安心」とでも言べき創作態度を、
このマンガ・アニメ・小説からは、感じ取ることができる。
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ケロロ軍曹、ギロロ伍長、タママ二等兵、クルル曹長、ドロロ兵長(ゼロロ)
日向冬樹、日向夏美、西澤桃華、アンゴル・モア、東谷小雪
ケロン星、ケロロ小隊、地球侵略、ペコポン、ポコペン、ガンプラ
ガマ星雲第58番惑星・宇宙侵攻軍特殊先行工作部隊隊長

10/12
ブルーノー・ベテルハイム『鍛えられた心 強制収容所における心理と行動』(法政大学出版局)を読む。
状況を否定して過去に戻ろうとするか、状況を統合して未来に進もうとするか。
「社会」と「個人」、どちらにも責任があるとした上で、
極限状況に遭遇したとき、人間はどのように行動するかを考察する。
四章以降で展開される収容所についての分析がとにかく秀逸。
最後まで、個人の責任を放棄せずに、行動・行為の意味を探る姿勢がすばらしい。
印象的なのは、収容所内で誰もが「理性的に」考えていることである。
チェスタトンの「狂人」の定義を持ち出すまでもなく、
理性は、理性だけでは「正しく」機能することがない。
「他者へのまなざし」や「豊かな心」と相まって、始めて真の「理性」が生まれるのだ。
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ある人がいかに行動するかは、やがてその人の人となりを変えることを、最初はぼんやりと、しかし後になるほどはっきりと私は悟るようになった。収容所でしっかりしている人は、いっそうよい人間になり、悪い行動をとる人は悪い人間になった。しかもそのことは、その人の過去の生活史や人格形成とは無関係に、少なくとも人格のなかの、精神分析が重要視する面とは無関係に、そうなるように思われた。(16)
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非ユダヤ系囚人のほとんどは、ドイツ民族の優越性を信じていた。彼らの大部分は国家社会主義国のいわゆる功績、特に併合による領土拡張政策を誇りに思っていた。たいていの古参囚人はナチのイデオロギーを受け入れると同時にまた、いわゆる不適格の囚人に対しては、ゲシュタポと同じ態度をとった。絶滅政策が実施される前から、ゲシュタポは不適格な人々を始末していたのだが、囚人もまた、理由は違ったが、ゲシュタポの例にならった。彼らはそうしても言訳は立つと思っており、なかには正しいとさえ思っている者もいた。(180)
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この物語りの最後に、アンネがすべての人々の善意を信じるといったのには、十分な理由がある。この物語りが否認していることは、ガス室が将来二度と出現しないように、今あるガス室を事実と認めるのがいかに大切なことであるかという点である。もし万人が基本的に善であり、仲よく家庭生活をつづけることが、他の何よりも賞賛さるべきことであるならば、たしかに誰もが平常通りの生活をつづけ、アウシュヴィッツを忘れることもできよう。だがアンネ・フランクは死んだ。両親がアウシュヴィッツを信じられなかったためである。彼女の物語りは、暗にアウシュヴィッツの存在を読者にも否認してくれるからこそ、非常な好評を博したのである。だがもし万人が善なら、アウシュヴィッツなど存在しなかったのだ。(268)
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深刻な危機においては、すなわち生活のあらゆる面における内的、外的革命の時期においては、このように生をあきらめるか、あるいはより高度な人格の統合を達成するか、二者択一を迫る状況が生れるかもしれない。その場合、われわれがまだ後者を達成していないからといって、前者を選ぶことにはならない。現代の諸徴候についての私の読みがもし正しいとするなら、われわれは原子力時代における新しい諸条件をマスターする方向へ第一歩をふみだしたといえよう。だが自らを欺くのはやめよう。もしわれわれが「すばらしい新世界」などというものではなく、理性と人間性の時代を望むならば、われわれのあらゆる知恵と意志をふりしぼっての、長い苦しい努力が必要だろう。(317)
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ブルーノ・ベテルハイム、B・ベテルハイム、B・ベッテルハイム
丸山修吉 訳、叢書ウニベルシタス
Bruno Bettelheim "The Informed Heart : Autonomy in a Mass Age"
大衆時代における自律
博識の心情、学識のある心、見聞の広い心、きたえられた心、博識なる心
吹き込まれた心 大衆時代における自律性
"Le coeur conscient"(意識せる心)
ダッハウ収容所、ブッヒェンワルト収容所の経験者

10/13
ブルーノ・ベテルハイム『生き残ること』(法政大学出版局)を読む。
「ナチ強制収容所の体験をもとに、大量虐殺から「生き残った」人々の精神的葛藤を精細に分析しつつ、人間の連帯とは何か、他者への道徳的責任とは何かを鋭く問いかけるとともに、暴力、女性差別、教育問題等の幅広い領域にわたって20世紀の人間と社会を省察する。」と帯にある。
収容所と児童教育の2つのテーマが交互に論じられている。
若者や児童についての部分は、時代遅れなところが多く、
読んでいてそれほど面白いとは思わなかった。
強制収容所の論文は、前著との繰り返しがなければ、
もっと刺激的に読めたのかもしれない。
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ひとつの声、つまり理性の声は、「なぜ自分は救われたのか」というこの問いに答えようとしていう。「それは純粋な幸運、単なる偶然だったのだ。その問いには他の答えはない」と。しかし良心の声は答える。「そうだろう、しかし君が生き残る機会を得た理由は、誰か他の人が君の代りに死んだということだ」と。そしてこの背後から、さらになおきびしい、批判的な非難のささやきが聞こえてくるかもしれない。「彼らのうちの或る者が死んだのは、君が彼らを、より楽な仕事の場から締め出したからだ。また他の者が死んだのは、君が彼らに何か助けになることをしなかったからだ。例えば、君が、おそらくはなくても済ませたであろう食物を彼らに与えなかったからだ」と。そして、「君は、君ではなく他の者が死んだということを喜んだのだ」という究極的な非難というものが常にあるのだ。そしてこれには、われわれが受けいれることができるような答えはないのである。(33)
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死の収容所に直面すると、われわれの古いカテゴリーは役立たない。しかし、通常用いられている心理学的概念が、あそこで起こったことを理解するのに十分なものではないというだけでは、ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅の効力を間違った心理的防衛を用いて否定する十分な理由にはならない。しばしば私は、エリー・ウィーゼルと同様に感じてきた。つまり、引き下がり沈黙することだけが有益なのだと。テオドール・アドルノが、アウシュヴィッツの後には詩はありえないと書いたとき、こういうふうに感じていたのだと思う。しかし、もしわれわれが沈黙してしまうのならば、まさしくナチが欲していたように振舞うことになる。つまり、あたかもそれが決して起こらなかったかのように振舞うことになる。もしわれわれが沈黙してしまうのならば、起こったことを歪めてしまった者たちが、世界に対して、近代史の最も悲劇的な一章に関する誤った理解を提示するのを許すことになる。このようにして、それが再び起こるのを防ぐためにどんな態度が発展させられなければならないかに対する有効な洞察から、思慮ある人々が締め出されているのである。(123)
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こう言ったからとて、フランク家の人々が、同じような仕方で計画したり、行動しなかったことを非難しているのではない。どの家庭も、彼らが一番良いと思ったり願ったりした仕方で事を行ない、危険を受けいれる権利がある。私は、フランク家がしたことを批判しているのではなく、彼らが取り組んだ仕方、いやむしろ取り組まなかったことを誰もがおしなべて賞賛していることを批判しているのである。それに比べて、生き残った小さなマルガの話--それは他のすべてと同様に感動的なのだが--全く無視されているのである。(345)
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今日もしアフリカの黒人たちが、アパルトヘイトを守ろうとする警察の銃の前で行進するならば--たとえ何百という活動家が撃ち殺され、何千という人々が囚われても--彼らの戦いは、おそかれはやかれ、自由と平等への機会を確かなものにするであろう。未だ間に合ううちに逃げなかったり、地下に潜らなかったり、そうできなかった何百万というヨーロッパのユダヤ人たちは、自分たち自身の絶滅のために捕らえられるのをただ受身で待っていた代わりに、ワルシャワのゲットーで戦った人々のように、少なくとも戦いながら死ぬことができたはずである。(356)
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チャップリンは、われわれが全く真剣に受け取るべきであったものを、嘲笑させるようにした。ヒトラーを嘲笑することは、彼と取り組むひとつの方法ではある。しかしそれは、最も危険で、最も破壊的な方法である。なぜなら、あまりにも多くの人々が、ヒトラーが尊大な演説のなかで、世界を流血の場にできると絶叫したことを真剣に受け取らなくてもいいと思っていたからである。彼らは、この変な髭を生やした馬鹿げた小男をあざわらっていたので、自らの運命に全く無防備のまま捕えられてしまったのである。もし彼らが、ヒトラーのことを真剣に受け取っていたならば、自らを救っていたかもしれないのである。笑いは人を解放することができる。だがそれはまた、最大の危険のなかにいながら、偽りの安心感をも生み出すことができる。(394)
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芸術作品を創り出す唯一のものは、無意識を噴出させることではなく、むしろ無意識的傾向を統御し、創造的能力を最大の美学的訓練に服させることである。(586)
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高尾利数 訳、叢書ウニベルシタス
Bruno Bettelheim "Surviving - and other Essays"
Frame of Reference、FOR、関係枠内、準拠体系、準拠枠、座標系、判断枠組み
フレイム・オブ・レファランス、フレイム・オブ・リファレンス

10/16
ジャン・アメリー『罪と罰の彼岸』(法政大学出版局・叢書ウニベルシタス 143)。
「七〇年代ヨーロッパの新-反ユダヤ主義の危機意識の中で、ナチズムの暴挙の犠牲者として、アウシュヴィッツ体験、ルサンチマン、ユダヤ人問題を真摯に告白し省察」と『自らに手をくだし』の著作紹介欄にある。
けだるい無力感に包まれた評論集。
著者は考えながら書いており、
途中で主張が変わっていくことに全く頓着していない。
いや、むしろ喜んでいるようでさえある。
著者と共に考える、というよりも、著者に振り回される、という感覚。
痛ましい経験を笑いに変えようとする努力は、
ほとんど失敗に終わっているが、
それだからこそ、本書は読者の心を揺さぶる力を持っている。
あらゆる価値観が吹き飛ばされる瞬間を描いた「拷問」が圧巻。
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どこであれ、現実が圧倒的にのさばり返るとき、言葉は眠りにつく。わたしたちにとってそれはとっくに眠り込んでいる。喪失を悲しむ感情すら残っていないのである。(42)
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警察で殴られると人間の尊厳を失うものか私は知らない。だが、次のことは自信を持って言える。最初の一撃ですでに何かを失うのだ。何かとは何であるか。さしあたり世界への信頼とよぶことにしよう。まさにそれを失う。世界への信頼である。(55)
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拷問された者は二度とふたたびこの世にはなじめない。屈辱の消えることはない。最初の一撃ですでに傷つき、拷問されるなかで崩れ去った世界への信頼というものを、もう二度と取りもどせない。「反人間」としての人間の体験が恐るべき驚きとしてしみついた。それなしに希望の原理の支配している世界をみるなどのことはできない。拷問された者は裸で不安にさらされている。不安こそ以後の彼の人生に猛威を振るうはずのものだ。不安、さらにはルサンチマンとよばれるものが残る。ただ残るだけだ。--密度をまして報復に燃え、報復のはての浄化の機会をもつこともなく。(76)
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人は故里をもたなくてはならない。それを捨てるためにだ。ちょうど思考において形式上の論理を必要とするのと同じである。まさしくそれを超えて、ゆたかな精神の沃野に入るために。(86)
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隣家の主婦が「ボンジュール、ムシュー」としたしく挨拶してくれる。私は帽子をとって答える。/「ボンジュール、マダム」/だが、このマダムとムシューとは遠いへだたりをとっているのではなかろうか。というのは昨日、ある男が連行されていくとき、マダムは目をそらした。ある女が窓に格子のついた車で運び去られるのをムシューは石化した天使のように眺めていた。空は青く、澄みきっている。しかし、ユダヤ人はその空から永遠に締め出されている。(170)
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論理的な帰結や体験上の事柄を超えて、現象を追いつめ考え抜くこと、ひいては理性の限界にまで至りつくこと、それが啓蒙にほかならない(195)
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池内紀 訳、『罪罰の彼岸 ある征服された者の克服する試み』
Jean Amery "Jenseits von Schuld und Suhne"
Jean Amery "At the Mind's Limits: Contemplations by a Survivor of Auschwitz and Its Realities / Beyond Guilt and Atonement"
Hans Maier、Hans Mayer、ハンス・マイヤー、ハンス・マイアー
アウシュヴィッツ、ブーヘンヴァルト、ベルゲン=ベルゼン強制収容所
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ジャン・アメリイ『老化論 反抗と諦念』(法政大学出版局・りぶらりあ選書)。
「人間の「老化」に伴い何が起こりまた何が在るか。この現象を時間、身体、社会、文明、死の五つの観点から考察、老年を反抗と諦念との弁証法的過程として捉えた試論。ドイツ批評家賞受賞になる特異な文学的哲学的エッセー」と帯にある。
老化をどこまでも否定的に描いた一冊。
社会との関係、心身の統一性など、
生きる上で必須なものが一つずつ削ぎ落とされていく。
それにしても、本書は、異常なまでに疲れる。
この疲労感こそが、きっとジャン・アメリーを読み解く鍵となるのだろう。
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私たちがとにかく健康または病気について熟考してみるために選んだ、漠然とした、科学的研究精神にたいしては持ちこたえられない比喩言語を用いると、こう言えるのだ、私は老化においては私の身体を通してかつそれに反して私であるし、私は若かったとき、私の肉体なしにかつそれとともに私であった、と。(62)
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私たちは老化においてわが身に疎くなるのだ、二重にかつ測りがたく。なぜならば、Aが鏡の前で首を振りつつ「これはもう私ではない」というとき、彼女には主語が述語と同じく知られていないからである。(73)
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彼らすべてが老化にあって死と妥協する。和睦をでなく、ただ妥協を、汚らわしく聞こえようとも、怠惰な妥協をするのだ。そのさい、彼らが死ぬことを習得したというのではない。親密においては死ぬことを習得しないのだ。この親密はまさしく、習得できないことの認識、不安への「予感」の還元、狭窄のいやな気持ち、息を引きとることへの絶対的戦慄にこそ存するのだ。(161)
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竹内豊治 訳、『老いについて』
Jean Amery "Uber das Altern : Revolte und Resignation"
Jean Amery "On Aging : Revolt and Resignation"
奥付に「謹呈」印が押してある。

10/17
ジャン・アメリー『遍歴時代 精神の自伝』(法政大学出版局・叢書ウニベルシタス 685)。
「ナチズムの暴挙にはじまるヨーロッパ激動の時代にユダヤ人として生きた40年間をふり返り、諸文化・諸言語・諸思想的遍歴のなかで<私>は何を見、何を見なかったか。<真実への意志>を表現した思索的自伝。」と帯にある。
これまでの3冊では、一番読みやすい。
よほど影響を受けたのだろう、サルトルについて多くの紙面を費やしている。
「マイスターらしくない」というタイトルからもわかるように、
本書は何かを積みあげていくような教養小説ではない。
高く突き上げられることのない思想は、さまざまな地平をただ遍歴していく。
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寛大にふるまってよいのは、自分自身には非寛大に、有罪の判決を下す用意のある者だけだ。数えた、量った。軽すぎると認定。(71)
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疎外ということばさえ、おまえの耳にはしわがれて響く。現実というものは、汲みつくすことができない。漸近的に、つまり文字どおり、一歩一歩それに肉迫していきつつ、見つめ、見とめ、見抜こうとするなら、現実の映像があらゆる意識において、不幸な認識においても、新たに映し返される必要があるからだ。(87)
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思想は人格からひきはがすと、ほとんどどれひとつとして、どうしても根拠があるように見えなかった。だがどの理念も、サルトルという個人によって提示されると、追って考え、いっしょに考える価値があるのだった。(122)
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他者が地獄であることは、真実であり続けるが、私が他者の視線にさらされているという、非常に特殊な意味においてである。しかし同様に、地獄は他者のいない世界であって、<私>が他の<私>を吸収することができず、いなくなっても他の<私>から悲しまれないところである。(190)
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富重純子 訳、『非マイスター的遍歴時代』『マイスター(親方・巨匠)らしくない遍歴時代』
Jean Amery "Unmeisterliche wandenjahre"
Jean Amery "Lean journeyman years"
ゲーテ『ヴィヘルム・マイスターの遍歴時代』が元ネタ
表紙裏の折り返し部分に、「戦後ドイツ文学のアウトサイダー、人間存在を根源的に問う思索者ジャン・アメリーの著作」とあり、法政大学出版局から出版されたものが並んでいる。
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ジャン・アメリー『ルフー、あるいは取り壊し ロマン・エッセー』(法政大学出版局・叢書ウニベルシタス 163)。
「パリ在住のユダヤ系ドイツ人画家が戦後の頽廃文化に抗しつつ空想裡の焼身自殺を遂げる--想像と現実、物語と批評とを交錯させ、自らを暴力と死の体現者として時代の混沌の中に投入して<アウシュヴィッツ以後>の精神の崩壊を描き、著者の思想的決算書をなす。」と帯にある。
ロマン・エッセーと題されているが、これは小説として読むべきである。
ジョイスばりの意識の連鎖やことば遊びが繰り広げられており、
統一された思想を汲み取ることは難しい。
それでも何かを読み取ろうとするのなら、
「取り壊し」の只中にある心の状態、というようなことになるのだろうか。
ベケットのうめき声を、ジョイスが代弁しているような文体。
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言葉のもっとも大事な問題の一つは、止揚されずに、直接的に働く連想の力であり、このことはいつでも変わらない。ここでは、言葉がいわば独立的な力として物の領域に割って入る。もちろん全然魔術的にではなく、あくまでも合理的に、そしてとりわけ心理学的に解明できるようにだ。そしてこの物の領域を変え、新たにその地誌を書き直す。(119)
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現実は、それがそもそも把握され理解されるべきだとしたら、言葉を拠り所とする。しかし同時に、言葉は、修飾のない言葉も隠喩で強調された言葉も、ほかならぬ言葉で現実化され、言葉以外の何物でも現実化されない現実を破壊する。現実化と現実破壊は、自己自身に有罪判決を下す、希望のない過程の結果だ。(134)
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崩壊は徐々に進む。緩慢に動きながら間違いなく崩壊は、自己を破壊し死に向かう生であり、しかもまさに破壊しながら自己を発見し実現する生なのである。(149)
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俺が持ち堪えられなかったのは、俺が持ち堪えられたことだった(161)
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神崎巌 訳、『ルフュー、あるいは取り壊し』、ロマン・エッセイ、エッセイ・ロマン
Jean Amery "Lefeu oder der Abbruch"
Jean Amery "Lefeu or the demolition"

10/18
ジャン・アメリー『自らに手をくだし 自死について』(法政大学出版局・叢書ウニベルシタス 207)。
「自殺者の閉ざされた世界にふみ入り、心理学あるいは社会学等の領域をはるかに越えて、自死をその《想念を抱く人》または《遂行する人》の内面から描き出す。ナチズムの悪夢を経めぐり、人間そして生きることについての限りない洞察者/強靭な魂による自死論。」と帯にある。
『老化論』の続編。
自殺(自死)の独自性を探りながら、
自らを殺めた人に対して、やさしい眼差しを投げかけている。
考えながら書くというスタイルによって、
著者と読者の想いが重なっていく。
本人の最期(=自殺)も考えれば、
本作はジャン・アメリーの代表作と言えるだろう。
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嘔吐、これは人間の基本的姿勢の一つだ。エロスと同じく、手品で消してしまえるものではない。違いはただ、エロスの方は、生の論理に合致している故に社会的に承認されているのに対して、嘔吐は、種族保存をがなりたてる文明の暴徒によって否認されるという点だけだ。(69)
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「何てったって生きてなくちゃ」と世間智は言う。生きていなくてはならないわけではないのだ。いずれにしろ最後にはすべてが、生きていなければならないわけではないどころか、生きていることを許されない日がいつか必ずやってくるというところに収斂せざるを得ないだけに、余計にそうなのだ。(85)
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人からも問われるだろうし私自身も自分に問おう、自死、それは自由なものだ、どんなに堪え難い強制の下で行われようとも自由なものだと私は繰り返し言うが、その自由な自死への覚悟を理解するのに、生存に対する嘔吐以上にもっと普遍的な仮説があり得るだろうか、と。(99)
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自死はなるほどあるものからの自由を約束しても、論理の命じる通り、あるものへの自由は約束しない、しかし自死は単なる人間性の尊厳への肯定にとどまるものではなくてそれ以上のもの、何が何でも生きようとする盲目的な自然の支配に対する断乎たる抵抗だ(…)自死は私たちが到達し得る自由の最終の究極的な形態だ。(170)
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自死は不条理ではある、しかしたわけたことではない、というのも自死の不条理性は生の不条理を増大させるものではなく、減少させるものなのだから(196)
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大河内了義 訳、『己れに危害を加える 自殺論』
Jean Amery "Hand an sich Legen; Diskurs ueber den Freitod"
Jean Amery "On Suicide: A Discourse on Voluntary Death"

10/19
ジャン・アメリー『さまざまな場所 死の影の都市をめぐる』(法政大学出版局・叢書ウニベルシタス 123)。
「ナチズムの狂気を逃れヨーロッパ各地を彷徨し遍歴した過去へと旅し、ウィーン、チューリヒ、ロンドン、パリなど深い死の影の都市の風景のなかに逃亡者としての己れの肖像を鮮明に描き出す。1930-40年代ヨーロッパの悪夢の時代を強靭に生きたある精神の軌跡」と帯にある。
結構普通の旅行記。
のんびりと列車に揺られながら、
窓の景色が後ろへ流れていくのを眺めているイメージ。
「私」らしさを、極力消し去ろうとする試みが面白い。
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若者たちよ、君たちの怒りはよくわかる。だが、怒る君たちも、この世界を受け入れた者たちも、すでにお払い箱の役廻りを演じているのだ。怒りはもはや現実の対象をもたない。(118)
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まてまて、「私は」だと? どうして急に「私」が出てくるのだ? これまでさし控えてきた一人称がなぜ顔を出す? 文体上のことではないのだ。あからさまに自分を出したくないばかりに避けてきた、どうして今になってしゃしゃり出る? とっくに見破られている無名性の仮面を、これ以上かぶりつづけるのが大儀になったせいもある。また、はるか以前の自分の顔は、当人にとっては見ず知らずの人のようであるのに対して、今ここで語ろうとしている最近のことは、「私」の実感をもつから、と言えなくもない。(159)
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池内紀 訳
Jean Amery "Ortlichkeiten"
Jean Amery "Places and stations"

10/20
Jean Amery『Preface to the Future: Culture in a Consumer Society』(Constable)を読む。
『罪と罰の彼岸』に先立って書かれたもの。
実存主義(サルトル)のフランス、プラグマティズムのアメリカ、
第三帝国の影を背負ったドイツ、怒れる若者のイギリスの順に、
世界大戦前後の文化(文学)的・政治的状況を描き出す。
分析とそのまとめ方が見事で、一気に読ませる力がある。
奇妙なのは、まとめの章である。
総論として書かれているはずが、ポストコロニアル時代の予兆、
翻訳とベストセラーの関係、キッチュ(kitsch)の定義、
ハイカルチャー/サブカルチャーの区別の崩壊などなど、
いつの間にか、どんどん違う話題へと論理的に脱線していく。
きっと、この瞬間に作家・評論家ジャン・アメリーは生まれたのだろう。
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それほど有名でない時期に英訳・出版されたこともあり、
カバーの折り返し部分には「ベルギーのジャーナリスト」と紹介されている。
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No people can live without some myth, or without self-stylization.(15)
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James Dean and Marlon Brando attempted to smash the cliches of young manhood; the only result was that they themselves became stiff cliches, just as their predecessors had been.(109)
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The philosophers of the United States, if we disregard the sectarian thinkers, said nothing concerning the basic problems facing men. It is oprecisely as if the eternal American desire "to know how" had no corresponding craving "to know why."(116)
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We can only repeat what we have said elsewhere : that the intellectual image of France was and is still reflected in personalities, so that a collection of individual literary portraits can serve as a history of Frence culture. In America, however, the land where the "human touch" and "human interest" are so central, authors, particularly the sociologists we are now concerned with, somehow remain fully concealed behind their works.(119)
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Values do not exist; they are set as the result of certain predetermining economic and political factors.(299)
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The future has not yet begun. It is open and it is obscure; no rays of light reveal its features. Every forecast is merely an excercise in speculation. Only he who is determined to strive with resolution toward a definite goal can turn this excercise into a serious endeavor.(301)
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ジャン・アメリー『現代の誕生/未来への序文』(未訳)
Translated by Palmer Hilty
Jean Amery "Die Geburt der Gegenwart"
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ジャーナリスト時代の著作は以下の5冊(らしい)
(1)"Karrieren und Kopfe / Careers and Heads : Portraits of Famous Contemporaries"
(2)"Teenager-Stars / Teenager Stars : The Idols of Our Time"
(3)"Im Banne des Jazz / Under the Spell of Jazz"
(4)"Geburt der Gegenwart / Preface to the Future : Culture in a Consumer Society"
(5)a study of Gerhart Hauptmann "the eternal German"『ゲルハウト・ハウプトマン、永遠のドイツ人』

10/23
Jean Amery『Radical Humanism: Selected Essays』(Indiana)を読む。
19671年から1978年までの間に発表されたエッセイから12編を選んだもの。
自伝的素描、ワルシャワ・ゲットー、反ユダヤ主義、イスラエル建国、
ニーチェ、ウィトゲンシュタイン、ヴェイユ、サルトルなどについて書かれている。
『Preface to the Future』に比べると、レベルは格段に下がる。
著者が悪いのか、テーマが悪いのか、訳者が悪いのか、編者が悪いのか、
よくわからないが、とにかく文章に力がない。
著者のせいだとしたら、
「私」で「ジャーナリズム」をやろうとしたことが原因だろう。
(1)「私」を前面に押し出して、「文学的」に書く。
(2)「私」を後ろに引っ込めて、「ジャーナリスティック」に書く。
いずれかの方法でしか、ジャン・アメリーの才能は活かされない気がする。
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Namely, there exists a dialectical relation between judgement based on experience and prejudice, between "judgement" and "prejuge." A prejudice that is not based on at least some sort of genuine insight can hardly ever be proven. In order for the host people to have prejudices against emigrants it must know emigrants, if only slightly or even through hearsay. In reality, the judgement based on experience (once again, a vague experience) and prejudice cannot be kept apart so easily as in theoretical reflection. They originate together in an interaction that in certain cirsumstances assumes the character of a circulus vitiosus. The emigrant comes penniless to the host country, unable to speak its language, unfamiliar with the working conditions there, and appears on the streets, in the restaurants and railways stations, etc. not only as an alien but also as an idle and neglected element. An unclear "judgement based on experience" is passed on him, and it says that emigrants are dirty, reluctant to work, and not ready to assimilate. This vague and uncertain experimental judgment hardens into orejudice and the latter now retroacts upon every new experimential judgement. In the end such dynamics place the emigrants in situations in which they actually do resemble the prejudicial caricature that has already penetrated the collective consciousness.(61)
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ジャン・アメリー『不可欠の人間主義、ラディカル・ヒューマニズム』(未訳)
Edited and Translated by Sidney Rosenfeld and Stella P. Rosenfeld
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すべて未邦訳・未英訳
「難破した人々」(処女小説)
Widerspruche『さまざまな異論』カール・クラウスが元ネタ
"Charles Bovary, Landarzt / Charles Bovary, country doctor"『田舎教師のシャルル・ボヴァリー/田舎医師シャルル・ボヴァリー』
"Bucher aus der Jugend unseres Jahrhunderts / Books from the young days of our century"『われらが世紀の青春書物/青春の書物』
"Weiterleben - aber wie? Carry on - but how?"『生き続ける だが、どのように?/しかし、いかに?』

10/24
George Tabori『The Cannibals』(Davis-Poynter Limited)を読む。
収容所で飢餓に瀕する囚人たちが、仲間を食べようとする戯曲。
誰かに責任を押し付けず、皆で罪を背負っていこうとする決意が、
複数形の"s"には込められている。
たった84ページの小著だが、妙に疲れてしまった。
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GHOULOS : It's winter.
THE GIPSY : The sparrows are dying.
GHOULOS : Then eat sparrows.(27)
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UNCLE : If God is dead, everything is permissible.(33)
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WEISS : (Banging on the pot.) Dinner's ready.
(A Silence)
KLAUB : I'm not hungry.
(A Silence.)(72)
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HIRSCHLER : Not unhappy, you idiot, happy, I was happy, because I realized that everybody is murderer, not only me, everybody, d'you hear?
HELTAI : Not everynoby.
(A silence.)
HIRSCHLER : I hit him. It was a real breakthrough.(83)
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ジョージ・タボーリ『人食い/カニバルズ』(未訳)
Cannibalism、カニバリズム
concentration camp、Holocaust play

10/25
ビンヤミン・ヴィルコミルスキー『断片 幼少期の記憶から1939-1948』(大月書店)を読む。
「ここはこの世がこの世であることをやめる場所なのだ 世界11か国で翻訳 1996年度全米最優秀自叙伝賞受賞 1997年度ブック・オブ・ザ・イヤー(ワシントン・ホロコースト博物館)受賞」と帯にある。
収容所から奇跡的に帰還した人による貴重な証言。
・・・というはずだったが、ここに書かれていることすべてが創作であり、
著者はユダヤ人でさえなかった、というショッキングな事実が明らかになった。
アウシュヴィッツやユダヤ性を利用することの是非は、
ひとまずのところ問わないでおく。
さて、一編の小説(=フィクション)として見たとき、本書はどうだろう?
結論から言えば、イノセンスに閉じこもりすぎた駄作である。
主人公は子供であるが、書き手は大人である。
(子供ではない以上)「分からない」などという免罪符は通用しない。
誰だって、人類の犯した悪行など、見たくないし、わかりたくない。
目を背けてそれで済むなら、誰だってそうしている。
現実は違う。
犯した罪は、厳然として存在する。
周りの子供と、「常識」が違いすぎて困りました、というだけでは、
何も伝えたことにはならない。
主人公は「分からない」と言い募ることで、人類としての責任を放棄している。
「ホロコースト」という土台がなければ、
あっさりと瓦解してしまう陳腐な文学である。
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一度だけぼくはぼんやりした状態からびくっと醒めた。どこかで火事があったのだ。どこかでバラックが焼け落ちた。しかし、気になったのは長い間ではなかった。平気でぼくは居眠りをつづけた。ぼくは疲れていた。(125)
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「すわりなさい、そんな作り話はやめなさい!」先生は息を切らせている。作り話? またまた分からない言葉だ、どうやらよくない言葉らしい。(151)
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小西悟 訳
Binjamin Wilkomirski "Bruchstucke / Fragments"
12か国で翻訳、全米ユダヤ人著作賞、ユダヤ人季刊誌賞、ショア記念賞を受賞
本名・ブルーノ・グロスイェアン(Bruno Grosjean)

10/26
柿本昭人『アウシュヴィッツの<回教徒> 現代社会とナチズムの反復』(春秋社)を読む。
「真に勝利したのは、ナチズムではなかったか?/ナチ強制収容所において、生きるべき価値を持たない者として「焼却処分」にふされた人々がいる。それら「死すべき抑留者」に与えられた名前「回教徒」(Muselmann)。なぜ「回教徒」なのか? その生と死を、我々はどう語ってきたのか? 戦後60年を迎えた現代社会を規定し続ける「思考としてのナチズム」、その核心への問い!」と帯にある。
力作、そして労作である。
収容所で生きる希望を失い、死人同然となった者は、
信じる宗教に関係なく看守・囚人から「回教徒」と呼ばれた。
問題は「生きる価値」という人間を評価する基準を設けたところと、
「弱者」を「回教徒」と呼んだところにある。
著者は、多くの生還者が、それぞれの著作の中で、
この蔑称が生み出す「回教徒」差別のメカニズムに加担してしまっていると説く。
確かにその通りだと思う。
(基準を設けて、適合しないものを排除するのは「ナチ」のやり方である。)
ただ、極限中の極限とも言える状態で、何かを特権化することは、
どうしても必要なことだったのだと私は思いたい。
そうでもしなければ、発狂してしまうほどの極限状態。
あらゆる価値観が吹き飛び、生命が脅かされる極限状態。
罪深きは、生還者ではなく、彼らを迎え解釈する側、つまり私たちなのだ。
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強制収容所を生き延びた人たちが、「自分たちは生きるに値する命の所有者だった」と語る時、その人たちは一体、何を言っているのでしょうか? あるいは、何を言ってしまっているのでしょうか?/私たちは現在、数多くのナチズム研究によって、「生きるに値する命」と「生きるに値しない命」という「人類の分類」こそが、ナチズムを支えた恐るべき優生思想の根幹にあったことを知っています。強制収容所とは、そうした思想の産物だったのです。ナチの被害者に他ならない人々が、その悲惨な経験を証言するに際して、「自分たちは生きるに値する命を持っていたが、そうではない者たちがいた」と言う時、そう証言する人たちは、彼ら自身を苦しめたのと同じナチズムの思考の罠に落ち込んでしまっているのです。(iv)
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ナチは武力によって打倒されました。しかし「議論=論理」、つまり「言葉」によって打倒されたわけではありません。すなわち、ナチズムの思考、ナチズム的思考が解明され、それが根こそぎの批判によって打倒されたわけではないのです。(viii)
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「私は回教徒だった」という証言は、「私は回教徒ではなかった」という証言となる。だが、「お前は回教徒だった」という陳述には、「お前は回教徒ではない」という反転は決して起こらない。罵倒語としての回教徒によって指し示された他者は、対話のための文脈を回復できないので、宙に浮いたまま、物の次元に引き留められたままとなってしまう。だからこそ、回教徒という用語は罵倒語なのである。(165)
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普遍を力ずくで占領し、局所を「延長」によって消し去ることを生業とする、もっともらしい「歴史」の道行きから遠く離れたところで、複数の局所間での抑制と緊張、そして友誼に満ちた新しい交感の関係をその都度見いだし、創り上げることができるようになるなら、その時に初めて我々は、「ホロコーストの唯一性」を言う者たちに抗い、歴史の渦の普遍化を思考する第一歩を踏み出せるのではないだろうか。(477)
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柿本昭人『アウシュヴィッツの回教徒』(春秋社)
序章 皮膚--歴史の器官
第0章 回教徒(Muselmann) / ムスリム(Muslim) / イスラム教徒(Moslem)
第1章 残忍な自己嘲弄?--アウシュヴィッツの「回教徒」をめぐる侮蔑と享楽
第2章 意志を喪失した者たち--アウシュヴィッツ強制収容所の抑留者が描く「回教徒」
第3章 人間の影--他の強制収容所の抑留者が描く「回教徒」
第4章 生ける屍=戦闘機械--親衛隊員による「回教徒」という用語の使用
第5章 無意志の帰依 / 野蛮なる受動--「回教徒」という用語が研究者その他によって公的に登録される時
結び 人間と人類の名において

10/27
柿本昭人・嶋守さやか『社会の実存と存在--汝を傷つけた槍だけが汝の傷を癒す』(世界思想社)。
「社会学は社会の実存不可能性を隠蔽する/社会学が自明の前提とする「社会」は根拠を持って<実存>せず、いかなる根拠も持たない空虚な縁取りとしてのみ<存在>する--学としての社会学の存立を問う意欲的試み。」と帯にある。
もちろん内容にも影響されているのだが、
柿本は「厳密」で、嶋守は「簡潔」というイメージだった。
結局は、「社会」の外部に立って「社会」を分析することはできないということで、
後期クイーン問題でも念頭に置きながら読めば、もっと楽しめたかもしれない。
表題は、リヒャルト・ワーグナー『パルジファル』より。
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傷が癒えるのは、社会がそのあらゆる属性を奪われた存在にして無である、先験的理念としての社会に復帰する時だけである。つまり「社会は社会である」という無限判断である。同時にそれは「社会は社会ではない」という無限判断でもある。ヘーゲルはこうして、Xという縁取りにすぎない場所を、もう一度その空虚なものでもって縁取るのである。それが、すぐさま消え去ってしまう運動としての生成であった。「社会は〜である」と言表する者が「社会は」と言う瞬間が訪れるたびに、社会が得た部分的な規定(a・b・c・……)はすべて消し去られ、Xにつれ戻される。だが、それが次の言表を引き寄せ、言表が行われ続ける限りで、社会を生み出すのである。しかも、この社会は何かを共有するから生じるのではない。(55)
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経験している世界の本当の姿を見るためには、経験している世界を見ることをいったん中止しなければならない。(166)
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世界思想ゼミナール、SEKAISHISO SEMINAR
第1章 汝を傷つけた槍だけが汝の傷を癒す
第2章 デュルケム--社会教の誕生
第3章 ウェーバー--プロテスタントは消えても《プロテスタント》は消えない
第4章 パーソンズ--神とは私のことである
第5章 コント--社会を存立させるマゾヒズム
文献一覧

10/30
見市雅俊・柿本昭人・川越修・高木勇夫・南直人『青い恐怖 白い街--コレラ流行と近代ヨーロッパ』(平凡社)。
「伝染病の政治社会史/近代社会形成のメカニズムを<青い恐怖>=コレラ流行にさぐる。」と帯にある。
話がやっと盛り上ってきたところで、
論考が終わってしまっている。
共著のよさではなく、悪さが出てしまった一冊。
なんとなく漠然と、広い視野が得られたような気にはなれるのだが。
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コレラ菌はアジアとヨーロッパを直接に結びつけた政治と社会経済の仕組みのなかに、新規の活躍の場を見出すことになった。皮肉なことに、コレラ菌の活躍の場として、以前にはさほど明瞭であったとは言えない欧米とその他地域の生活と意識の差は、決定的に広がってしまった。豊かな社会を支える医療化の進展は、一方で後戻りのきかない「清潔のテルール」の支配であった。疫病としてのコレラの追放とともに、西欧と北米における負の要因は消し去られた。しかし、東欧ではコレラ菌発見ののち、つまりは根源が突きとめられ、ひいては発狂の要因が次第に明らかになってからも、適切な防衛手段が講じられにくかった。また欧米列強の植民地では、住民の保健衛生よりも産業開発が優先され、むしろ疫病の頻発を促したように見える。いずれの場合も、清潔さをモットーとする支配的な文化との統合を拒否された結果である。(69,高木勇夫)
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今日からみれば相当大雑把な「思弁的な」議論と、実際読んでいて気が滅入るような細かなデータの集積。コレラの伝染のメカニズムをめぐる議論は、以上の二点につきるといっても過言ではないだろう。(102,見市雅俊)
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コレラに限らず、病気の原因物質にたいする詮索は古来十分すぎるほど行われてきた。病気を媒介するものを示す言葉が、以下に示すように、きわめて多岐にわたっていることからも、そうした事情が窺えるであろう。目に見えない病原一般にたいして用いられるラテン語のウィルス(もと毒液・毒物 virus)、ギリシア語起源のバクテリア(bacterie 細菌類の総称、一八世紀ドイツの博物学者C・G・エーレンベルクによる造語)などは、たとえ目に見えなくとも、病原となる生物の存在を予想していることになる。病原微生物を表現する言葉として、動物的(animalcule)と植物的(semence)との二様のイメージが、細菌学成立以前から存在していたことも、こうした語源探索からえられる知識である。/病原のイメージの歴史自体が遠い昔に遡り、豊かな広がりを見せることを指摘しておこう。