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11 わが国の議員立法とその課題
〜ダイオキシン類対策特別措置法を事例として〜
青山貞一(あおやま ていいち)
「闘うシンクタンク」環境総合研究所所長。
環境にかかわる政策、施策、計画などの代替案を国民、納税者の立場から立案、提案し、自然保護、公共事業の見直し、地方財政健全化等に成果を上げている。
《280〜281ページ》
図表11ー3 ダイオキシン類対策特別措置法の立法経緯
平成10年9月16日 公明党、ダイオキシン規制法案化作業、第1回打ち合わせ実施
平成10年9月25日 山下栄一参議院議員、議員立法に関連し摂南大・宮田秀明教授と意見交換
平成10年9月29日 山下議員から法案制定支援を環境総研青山貞一に要請その後、頻繁に参議院会館で意見交換を行う
平成10年10月2日 衆議院環境委員会でダイオキシン規制についての参考人意見聴取あり。青山貞一が民主党と自由党の推薦により証言。わが国におけるダイオキシン汚染対策の遅れを指摘。早急に立法措置をとるべきこと、特に高濃度地域を対象とした総量規制を政策提言
平成10年12月10日 公明党環境部会でダイオキシン対策法案議員提案が基本了承
平成10年12月14日 公明党両院議員総会、ダイオキシン類対策特別措置法案内容を了承
平成10年12月15日 「ダイオキシン問題を考える市民と国会議員の懇談会」で公明党が法案を説明。青山らは参議院議員会館で法案制定上の課題につき講義
平成11年1月11日 公明党ダイオキシン対策会議、関係省庁ヒヤリング実施 青山同席
平成11年1月14日 公明党ダイオキシン対策会議、市民グループなど各団体からヒヤリング実施
平成11年1月27日 公明党山下議員他3名が「ダイオキシン類対策特別措置法案」を参議院に提出
平成11年2月17日 民主党小川勝也議員他4名が「ダイオキシン類汚染対策緊急措置法案」を参議院に提出
平成11年2月25日 民主党と公明党との間で第1回打ち合わせ実施
平成11年3月4日 参議院予算委員会で青山貞一がダイオキシン類対策特別措置法の必要性を公述。同日、自民党が法案に基本的に賛同する意向を示す。ただしその前提は日耐容1日摂取量(TDI)を4ピコとすることにあった
平成11年3月10日 第1回自民、民主、公明3党実務者協議開催
平成11年5月13日 社民党清水澄子議員他6名が「化学物質に係わる環境リスク対策の推進に関する法律案」を参議院に提出
平成11年5月14日 法案共同提出について自民、民主、公明3党実務者レベルで合意
平成11年5月20日 共産党岩佐恵美議員他2名が「ダイオキシン類に係わる発生の未然防止、排出の規制及び汚染の除去等に関する緊急措置法案」を参議院に提出
平成11年6月3日 法案提出につき自民、民主、公明3党が正式合意
平成11年7月5日 参議院全会派で法案正式合意
平成11年7月6日 国土環境委員長、「ダイオキシン類対策特別措置法案」を参議院に提出
平成11年7月7日 参議院本会議において全会一致で法案可決
平成11年7月12日 衆議院本会議においてダイオキシン類対策特別措置法案が可決
平成11年12月17日 ダイオキシン類対策特別措置法の政令、総理府令等の制定
平成12年1月15日 ダイオキシン類対策特別措置法施行
《289ページ》
最後に、参議院先議のダイオキシン類対策特別措置法の議員立法に関与する貴重な機会を提供していただいた山下栄一参議院議員、同法制定に向け全力を投入された加藤修一参議院議員、福山哲郎参議院議員ら参議院議員諸氏、さらに参議院議員会館に何度となく一緒に通ってくれた環境総研の池田こみち、鷹取敦両氏にも、この場を借りて感謝の意を表したい。
青山貞一(あおやま ていいち)
日本で唯一の「闘うシンクタンク」環境総合研究所の設立者。日本には珍しい環境ロビイストとしても活躍。東工大・早大講師を兼任。川崎市環境基本条例や環境基本計画など先駆けとなる立案を行う。NGOとして、湾岸戦争とナホトカ号重油流出の環境予測や30件余りの住民支援等を行う。とくに環境情報収集とインターネットによる情報公開に力を入れている。
著書は『ダイオキシン汚染』(法研)ほか。
《196〜197ページ》
(9)具体的な政策提言の手法を学ぶ 青山貞一
有効な政策手法がなければ始まらない
私は今52歳、昭和21年生まれの団塊の世代の走りである。根っからの技術屋で、大学を出てアジア経済研究所の関係組織に3、4年おり、その後、ローマクラブ日本事務局に移って環境問題の解決のためコンピューターシミュレーションを仕事にした。今から25年ほど前の話だが、このまま先進国が石油を消費し続け、ウランを使い、右肩上がりの経済発展を続けていき、一方で途上国では人口爆発が起こり、食糧生産が人口増加に追いつかなくなると、地球温暖化も含めて、21世紀半ばに地球は壊滅的なクライシスを迎えるだろうと警告した。
それを「成長の限界」という報告書にまとめて世に問うたところ大きな反響があった。そのまま資源が有限だとか地球の人間の活動が有限だという話になっていけばよかったのだが、残念ながらそうはならなかった。結局、人間というものは、物理的な成長や経済的な成長から解き放たれることがないのか。案の定、資金援助をしてくれた経団連までが、途中から手を引き、世論も私たちを袋叩きにし、ローマクラブは、アルマゲドンではないが、終末論者であるというような烙印を押されることになった。
私の学生時代は学生運動のど真ん中にあって、そのせいか私は工学部を出てもソニーやホンダに勤める気をなくしてしまい、たまたま身を寄せたところが今でいうシンクタンクだった。周りには社会科学や人文科学の人間ばかりいて、彼らと議論しているうちに、学際の必要性を、つまり学問が先にあるのではなく、問題があって、その問題を解決するためにどういう道具を用意するか、どういう手法でやるかということを考えるようになった。
《201〜202ページ》
いま私とテレビ朝日は所沢のダイオキシン訴訟で被告になっている。要するにおまえたちが余計なことを言ったから農作物が売れなくなったといって裁判になった。では、余計なこととは一体何なのか? 環境ホルモンだのダイオキシンだのがこれほどまでに騒がれている時代である。私たちは非常に高い値のダイオキシンが所沢にあるということを知って、アメリカの環境庁ともインターネットで情報交換をし、この値は異常だということを言った。あれほどの焼却炉と農地が共存しているのだから、そこのお茶、というより農作物一般の濃度が高くなっても別におかしくない。実際、環境庁が発表した日本近海の魚のダイオキシンの平均濃度より高くなっている。
私は当然ながら危機感を募らせた。そして報道の中で自分の考えを述べた。少なくとも自分が事実だと思っていることを述べるのは、法的にも問われることではない。こんなことで報道の自由がなくなったり、研究者の自由がなくなったり、あるいは農協への賠償をその都度払っていたりしたら、もうこの国に未来はないだろう。だから私もテレビ朝日も断固戦おうということで一致した。
政府は何もしない。濃度を測りもしない。データも公表しない。そういう中で民間の研究者が自前で自主的にやって、テレビでそれを論評した。それでこういうことが起きたというのは、おそらく前々からあそこではこれは危ないんだという認識があったのだろうと思う。なぜ私たちを訴えるのか。訴えるべきは焼却炉を許認可したところや、毎日煙を出しているところではないのか。
環境総合研究所所長。東京工業大学・中央大学・福島大学・早稲田大学・慶應義塾大学非常勤講師(環境政策論、環境アセス論、大気環境論)。元ローマ・クラブ日本事務所。
●連絡先
■環境総合研究所(シンクタンク)
ホームページ http://www.bekkoame.or.jp/~t-aoyama
■環境行政改革フォーラム(NGO/NPO)
ホームページ http://www.bekkoame.or.jp/~k-ikeda
まえがき
(略)
本書の企画・編集に関しては、数回にわたる企画会議を開催し、より幅広い観点から議論を行った。(財)電力中央研究所・加藤芳夫氏、(社)科学技術と経済の会・橋本六郎氏、日本放送協会・加藤辿氏、(株)環境総合研究所・池田こみち氏にひとかたならぬ御協力をいただいた。
また、各執筆者諸氏と(株)エネルギージャーナル社・清水文雄氏の熱意あふれる尽力なしに本書の刊行はありえなかった。この場をかり、感謝の念を表わしたい。
昭和61年6月 青山貞一((株)環境総合研究所所長)
〔本書の執筆者等一覧〕
青山貞一 (株)環境総合研究所所長
飯沼和正 科学ジャーナリスト
伊藤桃子 エネジー コンバージョン ディバイシス社国際担当副社長・日本ECD(株) 代表取締役社長
片岡勝 プレス&オールタナティブコーディネーター
小暮仁 (財)電力中央研究所室長(高度情報化担当)
近藤悟 (財)未来工学研究所主任研究員
笹原克 (有)オイコス計画研究所所長
清水文雄 週刊「エネルギーと環境」編集発行人
細川護熙 熊本県知事
増田辰弘 神奈川県商工部産業政策課
丸毛一彰 (社)科学技術と経済の会主任研究員
森谷正規 (株)野村総合研究所主任研究員
山口務 基盤技術研究促進センター総務部長
吉川宗史郎 前科学技術庁計画局計画課長補佐
座談会出席者
後藤典弘 国立公害研究所主任研究官
丸毛一彰 (前出)
森敬 慶応義塾大学工学部教授
(敬称略、アイウエオ順)
1946年愛知県生まれ。1970年電気通信大学通信工学科卒業、アジア経済研究所出版会、(社)科学技術と経済の会を経て、現在、(株)フジミック環境総合研究所所長。専門分野は環境計画、適正技術、地域経済等。
著書・訳書『地域「紛争」の研究』(共著)、学陽書房、『地域経済の構想』(共著)、学陽書房、『市民のための環境アセスメント行動指針』(ニール・オロフ著)、武蔵野書房、『ノーマンの技術文明論』(共訳)、学陽書房、他多数
《24〜31ページ》
私の小エネ履歴書
ここで、私の履歴を書いておこう。
母によると、私は小さい頃から、機械いじりが異常に好きだったらしい。小学校に入ると、三年生ぐらいから秋葉原の電気屋街に通いはじめ、いわゆるジャンク屋で格安の部品を買ってきてはラジオや通信機づくりに日夜没頭していた。中学二年のとき、当時の最年少ハムとなったが、小中高校時代を通して半田ゴテとテスターを一日たりとも手離さないぐらい、メカキチだった。
そんなわけで、大学もラジオづくりの趣味の延長(?)で、電気通信大学の通信工学科に入ってしまった。
こう書くと、よくある技術者の少年期にすぎないわけだが、私の場合少々変わっていた。実は、小学生の頃から機械いじりと同じくらい、自然が好きだったのだ。母や姉にせがんで、高尾山や奥多摩に通い植物や昆虫の採集をしたり、一日中ボーッと森や林の中にいるのが好きだった。
高校の時は、生物部に入って、毎週のように新宿駅23時45分発のドン行列車で八ヶ岳や南アルプスに先輩たちと出かけ、土、日を水とみどりと太陽に浸って過ごしたのである。
この一見すると矛盾し相対立する「技術」と「自然」とのアマルガムが、自分のなかで化合物として融合するきざしを見せはじめたのは、大学を卒業する直前からであった。
私の生年月日を言えば、ハハーンと気づく読者もいると思うが、大学を卒業する昭和45年頃は、いわゆる大学紛争、大学闘争のまっただ中にあった。
一日中半田ゴテを握るか、長野の山に出かけるかの私の日常に、生まれてはじめて社会とか政治といった文脈が物理的に入ってきたのである。
私のいた電通大も、例外なく大学闘争の荒波にまき込まれた。私自身の卒論の研究テーマが、実は当時ベトナム戦争でアメリカ空軍が北爆のために使う赤外線写真機のエレクトロニクス版であることを聞かされたとき、政治や社会に鈍感だった私も、技術の進歩が手ばなしで喜こべないこと、いや逆に、その進歩が自然や生態系の破壊を通して人間社会の破滅をもたらす危険性を持つものであることを実感することになった。なにしろ、私がいいきかされていた卒論のテーマは『超薄型の壁かけテレビ』であったからだ。
こともあろうに、自分が幼い頃からなによりも愛した自然が、同じく飯より好きだったエレクトロニクスの成果によって、骨のずいまで破壊され人間社会が根底からつきくずす可能性を持つことに気づいたとき、それまでほとんどノンポリだった私も、単純に大学を出、電機メーカの技術者となることをためらわざるをえなくなったのである。
このときから私は、物をつくる技術者や自然を理解する科学者である前に、人間と社会を肌で感じられる人間になりたいと決意したのである。
私が学校を出て最初に勤めたのは、『アジア経済研究所』といって、南アジアや東南アジアなど発展途上国の農村社会構造や地域経済を実証的に分析する通産省と農林省の共管による特殊法人の出版会であった。
ここには、いわゆる技術者や科学者はほとんどいなかった。そして、社会科学や人文科学に全く音痴、無知であった私は、この研究所で「異文化」との接触を経験することになった。大学時代の専門からはなんと百八十度異なる分野、人間との出会いである。
当時、研究所にはインド、スリランカなど南アジアの農村共同体を現地調査を繰り返すなかで熱心に調査されていた中村尚司さんや、中国の農村工業化政策や人民公社内部の技術と経済を集中的に研究されていた小島麗逸さんらがおられたが、中村さんや小島さんの技術論に、私は魅せられてしまった。
それは、一般的にみれば近代化から取り残されたアジアの片田舎の農村共同体に、自然と人間と技術のほぼ理想的な共生関係をみたからだ。
そこでは、日常レベルで生態学的な物質エネルギーの循環が行われており、きわめて小規模ではあるもののエネルギーの自給がなされていた。
“規模の経済”や効率を追い求め巨大化し、分析科学の延長で複雑・専門化する現代の技術と経済のあり方に、はじめて根底的な疑問を感じたのはこの頃だった。そして、技術や経済のあり方をそのままにして、いくらエネルギーや環境問題を論じても限界がくることに気づいたのもこの頃であった。
中村さんや小島さんは、私よりずっと早く現代技術のもつ歪みや跛行性に気づかれていたから、技術と人間と自然の新たなシステムのモデルをインドや中国に求められていたのかも知れない。
そこで、地域の自然、文化、人間の社会的関係、風土のあり様に適合した技術のあり方をさぐることをめざして、中村さんと二人で「地域技術研究会」を細々とはじめることになった。ちょうど、昭和46年の頃である。
当時、私も中村さんも地域技術をたんなる農本主義的なロマンティシズムの延長ではイメージしなかった。たとえば、石油は確かに非更新性の非常に貴重なエネルギーだが、問題なのは石油を安易に燃やしてエントロピー(汚れ)を高めることにあるのであって、石油自体を使うことにあるのではないということだ。すなわち、石油は燃料としてではなく、耐久消費財の原材料、素材としてこそ、使うべきだということを考えた。これと同じことは、現代技術や先端技術の全てが問題なのではなく、跛行性や歪みが多く地域社会や暮らしになじまない技術や製品が問題であるということについても言える。
確かに、南インドや中国の事例は私達にとって魅力あるものだったが、かといって日本の現実から全く離れてロマンや理想を追い求めても意味のないものとなってしまうわけだ。その意味で、先端技術であれ、伝統技術であれ、自分達の感触なり理解の範囲におさまるものについては、なんでも地域技術のメニューに入れて考えようとした。
オイルショックが起きる前年に、大学時代の友人でハム仲間の金子俊夫氏がもってきた朝日新聞の求人広告で、「成長の限界」リポートで有名なローマクラブの日本事務所があり、科学技術庁の外郭団体でもある『科学技術と経済の会』の門をたたき、職を移すことになった。
勤めてから2年間は、ローマクラブ関係の仕事とテクノロジー・アセスメント(TA)の研究をしていた。
TAとは、科学技術の開発に先だって、環境への影響や社会経済への波及効果を予測、評価し、適切な開発を誘導する方法論である。当時科学技術庁は、原子力発電所から農薬までいろいろなTAを手がけていたが、私自身が最初に手がけたのは集合住宅の給排水システムであった。
テクノロジー・アセスメントの研究はこの後、環境アセスメントへと進むが、『科学技術と経済の会』に移ってからも、「環境マネジメント研究会」と「地縁技術研究会」を主唱して、自然のエネルギーや浄化力を使った地域技術による地域社会づくりの研究を続けた。
「環境マネジメント研究会」は、どちらかというと国や自治体の若手の実務担当者と一緒に、技術や計画がつくられていく過程に、環境上の配慮を導入していくための新たな政策や方法論を模索する自主研究会であった。通称、「環マネ」と称したその研究会から、「計画アセスメント」といった新たな理念と方法が生まれたり、この分野の実務担当者の全国的なフォーラム「日本環境プランナーズ会議」(NEPA)も50人の発起人をそろえ昨年産声をあげるに至った。
一方、「地縁技術研究会」では、技術開発の現場にいるエリート技術者から、有機農業による村づくりをめざす住民運動団体まで一堂に会して、徹底的に事例研究を行い風力発電、太陽熱利用、メタン発酵といった個別の技術に加えて、エネルギー会計学やソフト・エナジー・パスといった新たな方法論や政策論のオープン・ディスカッションを重ねた。
二つの自主研究会は途中で何回か合同ミーティングやセミナーを開き、国や自治体の政策や計画の担当者と、現場の技術者、研究者、さらには運動家との交流も開始されだしたのである。
ところで、ローマクラブ東京大会で知り合った大竹財団の大竹慶明さんや当時ミネソタ大学から帰ってきたばかりの宝田武さん、それに国学院大経済学部の大崎正治さん達と、財団を舞台に「コミュニティ研究会」を昭和53年よりはじめることとなった。
この研究会の参加メンバーは、私以外のほとんどが経済学や社会学分野の行動する学者で構成されていて、しかも、「地域社会」を原点にすえ、エネルギーやエントロピーをみていこうとするユニークなものだった。
以上、長々と履歴を書いてきたが、これらの自主研究会の活動のほとんどは、現在の職場であるフジミック・環境総合研究所に移るまでの5年間編集長を務めた月刊『技術と経済』誌上で、さまざまな特集を組み紹介してきた。具体的には、「人間復興の社会を考える―エネルギー再考」、「急がば廻れ、省エネルギー」、「省エネから小エネへ」、「エネルギー・コストの徹底研究」、「地縁技術入門」、「純国産エネルギー・中小水力」、「超小型コンピュータは社会を変える」、「先端技術の可能性と危険性」などである。
そうこうしているうちに、自主研究会の小エネ仲間の何人かが、これまでの研究を基にそれぞれ具体的に実践に移そうということになった。私の場合は、幸いにも姉の土地、約100坪が神奈川県の厚木市郊外にねむっていたので、それを借りて小エネ実験にとりかかることになったのである。
1946年愛知県生まれ。1970年電気通信大学通信工学科卒。アジア経済研究所出版会、(社)科学技術と経済の会を経て、現在、(株)フジミック環境総合研究所所長
専門分野としては、環境計画、適正技術、地域経済等。
まえがき
(略)
国連環境計画(UNEP)とワールドウォッチ研究所は、本書の基となった研究や論文の執筆に対してともに援助の手をさしのべてくれた。それらの援助に感謝の念を表したい。ワールドウォッチ研究所のレスター・ブラウン所長は、本書の企画に対し独創的な示唆を与えてくれた。また、彼の研究に対する熱意と励ましは筆者にとってかけがえのないものであった。
(略)
訳者あとがき
(略)
訳者(青山)は、五年間編集長を勤めた「技術と経済」誌で、上述の各労作を日本の読者に紹介してきたが、それらはいずれも日本に技術政策や技術文明論について新たな論議をまき起こすものであった。
(略)訳出作業は、主として東京大学医科学研究所の実験動物繁殖室の一室をお借りして行ったが、心よく場を提供していただいた鈴木教授、須藤先生、また、終始、私達を励まし訳文に対して適切なアドバイスをいただいた学陽書房編集部の樋口滋氏に、この場をかりて心から感謝の念を表したい。
1982年7月 青山貞一 池田こみち
フジミック環境総合研究所にて