救世軍による犯罪部族更生事業
インドにはかつて「サッグ」「タッグ」「サギー」「ダコイ」と呼ばれる犯罪部族が存在し、19世紀末の推計では少なく見積もっても 100万人の男女が殺人と窃盗を生業としていたとされます。死の女神カーリーを崇拝し、インド国内の富裕な旅行者を標的とし、悟られないよう巧みに接近し、熟練した技により一切苦痛を与えずに一瞬にして犠牲者の命を奪いました。
インド植民地政府は、これら犯罪部族を撲滅するために、刑罰や社会改良など、あらゆる方策を試みましたが、ことごとく失敗に終わっていました。
1908年に連合州行政委員で、ロヒリカンドの行政官であったツウィーデー氏が、救世軍インド司令官のフレデリック・ブース-タッカー中将に対して、犯罪部族更生事業の委託が可能かどうか、打診しました。連合州副知事ジョン・ヒューイット卿はひとつの部族を選定し、試験的に救世軍が更生事業を行い、その成果を見た上で他の部族についても委託するかどうか決めるよう、手はずを整えました。
ブース-タッカー中将夫妻は犯罪部族のひとつ、ドム族の首長を訪問しました。警察は護衛を申し出ましたが、中将夫妻は辞退しました。最初ドム族は、救世軍が更生事業を行うことについて難色を示し、自分たちが飲酒や賭博を捨て去ることは不可能であると言いました。しかし、会談の終了時には、警察よりは救世軍の方がいくらかましであろうという理由で、救世軍を受け入れることに同意しました。
最初300人のドム族が救世軍の管轄下に入り、入植民となりました。連合州行政府は大きな刑務所跡地を救世軍の使用のために提供しました。入植民は次第に整列して行動するようになり、さまざまな仕事を学習し、勤勉に働いて生活費を得るようになりました。
この実験の成果に連合州行政府は非常に満足し、他の部族の入植地もすぐに設置されました。このために、さまざまな建物が救世軍に対して提供されましたが、そのひとつに、城壁と堀で囲まれたアリガル要塞がありました。犯罪部族の方から救世軍に更生援助を求めてやって来ることもありました。はるばる遠隔地から、昼間は密林に隠れ、夜は徒歩で歩いて、集団で救世軍の入植地に向かっているとの連絡が、盗賊団の首領から届いたこともありました。金管バンドを編成した入植地もありました。楽器が不足していたので、楽器がない者たちは靴を手にもって打ち鳴らしました。行政府の絞首刑執行人がバンドの楽長を務めました。バレイリーの入植地では、大きな醸造所の跡地が救世軍に提供されました。モラーダバードでは約80万平方メートルの土地が救世軍に提供され、入植地と病院が設置されました。ナジーババードでは古いイスラム教徒の要塞が救世軍に提供されました。
犯罪部族では、一日にひとつの仕事を勤勉に行うということに、みんな未経験でしたので、いかに入植者に仕事を教え、生活を自立させるかが最も困難な課題でした。工芸品を作ったことのある者は、だれもいませんでしたし、農業に関心を持つ者もいませんでした。しかし、入植者の生活が急激に改善されたために、連合州行政府の経験を積んだ行政官でさえ、その成果に驚きました。すべての入植地が、1923年までに入植者自身の労働によって経済的に自立しました。これにより、行政府の補助金は、学校の運営や建物の維持、監督、高齢者と障害者への給付金のみに充てられるようになりました。しかし、そこに至るには決して道は平坦ではありませんでした。中には、更生を拒む人もいましたし、そのために、救世軍士官たちは命の危険にさらされることもありました。
ベンガル州前知事のロナルドシェイ伯爵は、インドの公衆衛生に関する王立調査委員会に対して、次のような報告をしました。
われわれは救世軍が行っている生糸工場について、非常な注目を払っている。犯罪部族の若者たちが、楽しそうに仕事を行っている。ジョン・ヒューイット卿の行政府は、初めて犯罪部族更生事業を救世軍に委託したが、これは、目に見えて明らかな成功を挙げている。行政府が抱える最も困難な問題に対して、これにより解決が与えられた。現在の成功のゆえに、救世軍に対して大きな信頼を寄せてしかるべきである。
連合州によって示された模範に、パンジャブ州、マドラス州、ベンガル州、ビハール州、オリッサ州の行政府もすぐに倣いました。救世軍の入植地に入ったのはサンシア族、ブハート族、ハブラー族、ナト族、カルワル族、ドム族、マガヤドム族、イェリクラ族、ヴェップルパリア族、コラカ族などです。すべての入植地に学校が設置されました。ある入植地では、必要とされた
16人の学校教師のうち9人は入植者の中から出ました。1939年には、刑務所から救世軍の入植地に移された男の息子が、試験に合格して、マドラス大学で修士号を取得するまでになりました。この青年は、社会問題を討論する能力を持ち、スポーツマンであり、模範的なクリスチャンの紳士であるとの評価を、大学当局から受けました。
犯罪部族更生事業で最も目覚しい成果を挙げたのは、アンダマン諸島のポートブレアでの入植事業です。連合州で最も悲惨な部族がそこに移住させられました。エドウィン・H・シアード中校(後に大佐)が最初の責任者に任命されました。シアード中校は入植計画を立案し、建物の配置図を決め、入植者に全く新しい生活を始めさせました。農業と織物業が導入されました。シアード中校の家では、地元の刑務所から派遣された囚人が使用人として働きました。その中には殺人犯の夫婦もいました。毎週日曜日の午後には聖書研究会が行われ、約100人の人々が全くの自由意志で参加していました。その多くが若者たちでした。入植地が設立されて2年後、アンダマン諸島主席行政官は、一般住民よりも入植地の方が治安が良いことを証言しました。
かつて無法の生活をしていた犯罪部族が、救世軍の入植事業によって更生に成功した結果、これらの入植地は姿を消し、現在はもう存在していません。かつての入植民の子孫が、少数ながらいくつかの救世軍の入植地に今も生活していますが、入植民のほとんどは、犯罪部族法が廃止された結果、すべて解放されて、一般住民の中に溶け込みました。インド植民地政府は、犯罪部族更生事業で働いた救世軍士官に「カイザリ・ヒンド勲章」を授与しました。その中には、エドウィン・H・シアード大佐(1916年に銀賞、1924年に金賞)、ソロモン・スミス中佐(1925年に金賞)、ウイリアム・フランシス中佐(銀賞)、レスリー・R・ゲイル少佐(銀賞)がいます。
出典:The History of The Salvation Army, vol.iii,
pp.274-278.
キャプテン・マクによる若干の解説
19世紀末から20世紀初頭の植民地政府による犯罪部族更生事業については、現代インドでは批判的に見る立場が存在します。カーリー女神を崇拝する暗殺教団「サッグ」は文献学的には13世紀まで遡ることが出来、インド植民地政府は
現実にその撲滅に手を焼いたとする見方が
ある一方、犯罪部族はイギリスの植民地統治によって比較的近代に誕生したとする見方もあります。この立場では、
イギリスがインドで行った産業政策によって土地を奪われた人々が、やむなく犯罪に手を染めるようになり、犯罪部族が誕生したと
考えます。
また、イギリスは数百もの藩王(マハラジ)に独立自治を保障することによって、植民地経営を安定させて
いましたが、抑圧的・搾取的な政策を行うマハラジに対しては、武装した住民(ダコイ)による反乱がたびたび
発生しました。こうした反乱民を社会的に封殺するために、犯罪部族というカーストが19世紀に新設され、反乱者は
すべてそのカテゴリーに入れられたのだとする見方もあります。また、犯罪部族は、南アフリカのブッシュマンや
オーストラリアのアボリジニと同様の、定住生活をしない「放浪民」(ノマド)や、塩産地から消費地へと遠路
塩を輸送することを生業とする「キャラバン」だったとする見方もあります。こうした見方に立ちますと、
救世軍の犯罪部族更生事業は、イギリスによるインド植民地統治に協力するものであり、かつ、放浪民の文化人類学的な独自性を否定するものであり、功罪を問うならば、
罪の方が大きい、とする評価の仕方も成り立ちます。
植民地政府によって廃止された「犯罪部族法」は、独立後のインド政府によって別のかたちの法律に姿を変えて、
ある部分は継続されることとなりました。このため、近年まで「犯罪部族」として法律上の指定を
受け、行政の監督下に置かれる人々も存在しました。また、インドの各地では今でも、武装したギャング団や
強盗団が「ダコイ」と呼ばれて、タブロイド紙の紙面を飾ることがたびたびあります。また、変死事件や
怪死事件が起きると、「サッグ団の暗躍」が話題に上り、恐怖する人々も存在します。こうして、
犯罪部族というレッテル貼りが繰り返され、人々の中の差別意識が強められているのです。
21世紀の地点に立ったわたしたちは、救世軍の犯罪部族更生事業をどのように評価することが可能でしょうか。
植民地政府が犯罪部族を指定して、15万人の警察と70万人の夜警を投入し、監獄と社会改良に巨費を投じても、願ったような
治安の向上を見ることが出来なかったという状況が、救世軍に更生事業を委託したことによって、飲酒や賭博の悪癖が除かれ、
農業や織物業への就業が成功し、経済的に自立して、強盗や窃盗をしなくても生活出来るようになり、結果として治安が向上したということは、動かすことが出来ない歴史的事実でありましょう。
しかし、植民地政府が望む治安の向上とは、結局、植民地経営の安定を保証するものでしかないという
見方に立つならば、救世軍の挙げた「成功」を、体制による「ゆるやかな抑圧」と見ることも可能になってしまいます。この
場合は、救世軍がどんなに成功したとしても、人が救われて安定した生活をするようになるということ自体が、最大の批判点とされて
しまうのです。
救世軍に対するこのような批判的視点は、19世紀の革命思想家ブレヒトの戯曲『屠殺場の聖ヨハンナ』に
代表される視点でありましょう。この視点によれば、救世軍は困窮している人々を救済して、
「社会的に自立した善良な市民」へと変えてしまうので、困窮者を生み出している社会体制は
温存されることになり、また、そうした社会体制を転覆させようとする大衆の革命的情熱が冷まされて、
革命が起きなくなってしまうのです。
革命というダイナマイトに火をつけるには、怒れる人々が必要なのですが、救世軍はパンと仕事と
キリスト教信仰を与えて、怒りの火を消してしまったのでした。
このことは、救世軍の創立者ウイリアム・ブースが「いつ到来するかわからない革命のために
人を飢えさせておくよりは、目の前のお腹を空かせた一人に、パンとココアと毛布を与えて
今すぐ助けることのほうが大切だ」という「現実主義」に立っていたことに負っていると言えるでしょう。
特殊協議資格NGO(旧カテゴリー第2類NGO)
国連経済社会理事会の活動の特定分野のみに関心があり、能力を有し、その分野で国際的に知られているもの。
国連経済社会理事会の活動の若干の部分にのみ特別の関係を持つNGO。
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