紀州鉱山・石原産業関係年表

 

1920年9月、石原広一郎(1890〜1970)、南洋鉱業公司設立(台湾銀行融資。本社大阪)。
1934年 南洋鉱業公司が石原産業海運に改組。
12月〜38年7月 朝鮮慶尚南道の石峰鉱山探鉱。
1935年紀州鉱山操業開始。
12月「石原産業紀州鉱山従業員八五名が、待遇改善を要求して同盟罷業を決行、
同月二十九日解決」(三重県警察本部警務部警務課編刊『三重県警察史』第三巻、
1966年、224頁)。
1939年日本軍が上陸したすぐ後に、石原広一郎が軍用機で海南島に。
8月以後、田独鉄山の資源を強奪して日本に送る(「中国人労務者」7500人)。
1940年から、朝鮮に「労務担当者を派遣」。
5月、石原産業、北山村の3か所に発電用のダム建設計画。地域住民が反対。
計画中断。
11月、入鹿村板屋に紀州鉱山本部開設。
1941年8月、阿田和までの鉱石の索道輸送開始。
1942年四日市工場操業開始(紀州鉱山の銅鉱石精練。都市地域での銅精練は異例)。
アジア太平洋戦争開始後石原広一郎は、日本軍占領地域の鉱山資源強奪の手先と
して「活躍」。戦争末期には海南島やマラヤなどで抗日部隊が、石原産業の社員を
攻撃。
1943年4月、四日市工場、軍需工場に指定。
6月、石原産業海運が石原産業と改称。
学徒動員報国隊が紀州鉱山で働きはじめる。
1944年ころから、朝鮮人労働者の「逃亡者が続出」。
6月19日 「軍当局からマレーで捕虜となった英兵三〇〇名が配置され、
軍監督のもとに、板屋選鉱場の裏側、所山に収容所をつくった」
(『創業三十五年を回顧して』255頁)。
「大東亜戦争中の一九四三年[ママ]、南牟婁郡入鹿村に捕虜収容所が設置され、
シンガポール方面で降伏した英国軍の一部約三〇〇名が石原鉱山[ママ]の
採鉱作業に従事」(『三重県警察史』第三巻、230〜231頁)
12月 石原産業四日市工場に捕虜収容所。「捕虜となった米、英、蘭、豪の
兵士約六百名が、一九四四年一二月に割り当てられ……」(『創業三十五年を回顧
して』258頁)。三重県内の捕虜収容所は、紀州鉱山と四日市工場の2か所のみ。
1945年 6月 四日市工場の「捕虜」の半数を「北陸地方へ転任させた」
(『創業三十五年を回顧して』258頁)。
8月までに紀州鉱山でイギリス人捕虜16人死亡(『創業三十五年を回顧して』
では12人にしている)。
12月、石原広一郎、A級戦犯容疑で逮捕(48年12月に釈放)。後任社長小山も
公職追放。
1958年2月、インドネシアに石原産業の現地法人設立。
1978年、紀州鉱山閉山(最盛時の坑道総延長310q。立坑7本。中央立坑421m)。
1980年3月、公害企業石原産業に有罪判決。
1980年代、農薬(除草剤、殺虫剤、殺菌剤)、酸化チタン、磁性酸化鉄などを生産。
シンガポール、マレーシア、フィリピン、台湾、アルゼンチン、インド
などに事業所。
1993年現在、資本金370億円。従業員1700人。
1995年4月、紀和町鉱山資料館開館(紀州鉱山事務所の跡地に紀和町が設立)。
  石原広一郎を「……広く南方各地で地下資源の開発を進める一方、
1934年から紀和鉱山の開発に着手し、これを全国屈指の大鉱山に成長
させて紀和町の輝 かしい近代鉱山史を築きあげました」と説明。


[PR]アナタのウラ県民性をチェック:こっそり一人で?ワイワイ皆で?診断しょ