紀州鉱山への朝鮮人強制連行・強制労働について

1.はじめに

一九二六年一月に、三重県熊野市(当時、木本町)で県道のトンネル工事のために働き
にきていた朝鮮人労働者を、在郷軍人らを先頭とする地域住民が襲撃し、イギユン氏と
ペサンド氏を惨殺し、襲撃をのがれた朝鮮人とその家族を住民が徹夜で山狩りした。その
後、以前から木本町に住んでいた朝鮮人をふくめ、朝鮮人全員が木本町から追放された。
この「事件」を『熊野市史』中巻(一九八三年、熊野市)では「木本トンネル騒動」
あるいは「木本隧道工事のさいの朝鮮人騒動」といい、熊野市民の朝鮮人襲撃・虐殺を「素
朴な愛町心の発露」であるとしている。三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を
建立する会では、一九八九年の会結成以後、これまで九年間、熊野市と熊野市教育委員会
に『熊野市史』の書きかえと謝罪を要求しつづけている。


三重県熊野市の西隣に紀和町がある。紀和町の北を北山川が、西を熊野川が流れ、熊野
川の対岸は、和歌山県熊野川町と新宮市である。紀和町には紀州鉱山があった。一九四
〇年秋、紀州鉱山から逃亡しようとした朝鮮人が、熊野川で水死した。
紀州鉱山は鉱毒を流しつづけ、一九七八年に閉山した。紀和町の中心部を流れる板屋
川には、閉山後二〇年近くが過ぎたいまも魚がいない。一九九五年四月、紀和町は石原
産業から提供された紀州鉱山事務所の跡地に鉱山資料館を設立した。その二階には、紀
州鉱山事務所の一室が復元され、その入口の壁に、石原産業の創業者石原廣一郎を、
「広く南方各地で地下資源の開発を進める一方、一九三四年から紀和鉱山の開発に着
手し、これを全国屈指の大鉱山に成長させて紀和町の輝かしい近代鉱山史を築きあげま
した」(原文は「元号」使用)とする説明が掲げられている。
しかし、実際には、石原廣一郎は、日本軍のアジア侵略に密着して中国や東南アジア
の各地から、略奪的に鉱物資源を日本に運びこんでいた。かれは、一九四五年一二月から
一九四八年一二月の東条英機らの処刑の翌日まで三年間、A級戦犯容疑者として巣鴨拘置
所に拘禁されている。


かつて、紀州鉱山には、朝鮮の各地から強制連行された人びとが働かされていた。紀州
鉱山で朝鮮人は、「日本臣民にして産業戦士」として「皇国臣民の誓詞」を「奉誦」
させられた。朝鮮人労働者が住んでいた紀州鉱山の「八紘寮」で、日本の敗戦一年まえの
七月に朝鮮人労働者は、怒りを行動で示した。そのとき逮捕された八人は、全員が木
本区裁判所で有罪判決をうけた。
しかし、紀和町の鉱山資料館には、朝鮮人強制連行・強制労働の事実を伝える資料がま
ったく展示されていないだけでなく、紀州鉱山でおおくの朝鮮人が働いていたという事実
すら、入館者がはっきり知ることができるように展示がなされていない。
紀和町は、一九九三年に紀和町史編さん委員会編『紀和町史』下巻を発行したが、ここ
にも紀州鉱山への朝鮮人強制連行・強制労働の事実はほとんど書かれていない。
アジア太平洋戦争をマラヤのコタバル奇襲で始めた日本軍は、マラヤやシンガポールで
イギリス軍兵士を「捕虜」にした。かれらは、「泰緬鉄道」工事などで酷使された。
この工事の際、事故、栄養失調、マラリアなどで死んだ人は、一万人以上の「捕虜」を
ふくめ数万人あるいは一〇万人ちかいといわれている。一九四四年六月に、生き残ったイ
ギリス軍「捕虜」のうち三〇〇人が紀州鉱山まで連行され強制労働させられ、そのうち一
六人が「八・一五」までに事故あるいは病気で命を失わされた。
紀和町教育委員会は、死亡した一六人のイギリス軍「捕虜」の墓のある場所を整備し、
一九八七年に「史跡 外人墓地」とし、紀和町はそこを「文化財」に指定している。 
紀和町も紀和町教育委員会も紀和町民が作った紀南国際交流会も、イギリス軍「捕虜」の
ことは問題にしても、紀州鉱山での朝鮮人労働者の労働実態や朝鮮人労働者の死者につい
ては、明らかにしようとしていない。
紀州鉱山で朝鮮人労働者が何人働き、その家族が紀和町に何人すんでいたかも、いまな
お明らかにされていない。


石原産業は、イギリス軍「捕虜」にかんしては述べても、朝鮮人を強制連行した事実は、
あいまいにしている。その社史には、紀州鉱山で働いていた「半島労務者、捕虜、臨時夫
等」の数として、次表のような数字が示されているが、信用しがたい。

紀州鉱山で働いていた「半島労務者、捕虜、臨時夫等」の数
  各年六月末
一九三六年 二四人
一九三七年 二五人
一九三八年 一九人
一九三九年 四一七人
一九四〇年 四七六人
一九四一年 四八六人
一九四二年 四一〇人
一九四三年 六五三人
一九四四年 二二二人
一九四五年 二七人

石原産業株式会社社史編纂委員会編刊『創業三十五年を回顧して』一九五六年、一一三頁
朝鮮人を虐殺した在郷軍人などの行為を「素朴な愛町心の発露」とする熊野市・熊野市
教育委員会の姿勢は、紀州鉱山への朝鮮人強制連行の事実をあいまいにしている紀和町・
紀和町教育委員会および石原産業の姿勢と重なっている。

日本政府だけでなく、日本の各地域の行政機関は、日本の他地域・他国侵略の過去を事
実どおりにみとめようとしていない。都道府県市町村史のおおくで、侵略を肯定する記述
がなされている。また、大小の日本企業は他地域・他国侵略の過去を反省せず、謝罪も賠
償もしようとしていない。
以下で、石原産業と紀和町に焦点をあわせて、現在の日本の行政機関、企業の侵略責任
(植民地支配責任・戦争責任・戦後責任)の問題を分析したい。これは、謝罪・賠償なし
に二一世紀を迎えようとする日本政府に加担する「女性のためのアジア平和国民基金」な
どの策動を阻止する民衆の研究と運動の展望をいくらかでも明らかにしていく作業のひと
つでもある。

2.紀州鉱山略史
 一九三四年一二月、石原産業海運が三重県入鹿村に、紀州鉱山を創業した。
一九三五年に、紀州鉱山の操業が開始されたが、この年一二月に、
「石原産業紀州鉱山従業員八五名が、待遇改善
を要求して同盟罷業を決行」したという。
一九三九年二月、日本軍が海南島を占領した。五月に石原廣一郎は、軍用機で海南島に
はいり軍の護衛で資源調査をおこなった。八月に石原産業は、海南島の田独鉄山を独占
し、翌年七月以後、鉄鉱石を日本に送りこんだ。
 四月、紀州鉱山に三和小学校が開校した。
三重県は「朝鮮人労働者募集要綱」にもとづき、一九三九年度に二〇〇人、一九四〇年
度に三〇〇人の朝鮮人の紀州鉱山への連行を承認した。石原産業の社史には、一九四〇年
から「朝鮮に労務担当者を派遣し、同年の春、江原道から百名の労務者が来山(ママ)」
したと書かれている。
一九四〇年五月に、石原産業は、北山川の三か所に発電用ダム建設を申請したが、地域
住民が反対し、計画を中断させた。
一九四一年一月、紀州鉱山などの銅鉱石精錬をおこなう石原産業四日市工場が操業を開
始した。都市地域での銅精錬は異例のことであった。この銅精錬所の建設は、日本国内の
鉱山から採掘した銅だけでなく、「南方」で採掘した銅の精錬をも考慮にいれたものであ
った。四日市工場は、たんに日本国内鉱山の活性化のためだけでなく、石原産業が
「南方」で事業拡大するための拠点として建設された。
操業開始後も四日市工場建設工事はつづけられ、工事現場には朝鮮人労働者の飯場があ
った。
五月二四日、紀州鉱山で朝鮮人労働者一一三人(あるいは一三〇人)が、米穀の増配を
要求してストライキをおこなったという。その後、警察は「警察官にたいする暴行事件関
係被疑者」として三〇人を逮捕し、そのうち「首謀者金子命坤外十二名」を、七月四日に
「公務執行妨害並傷害罪」として「送局」した。
アジア太平洋戦争開始の五か月まえ、石原廣一郎は、「あの広い全南洋」を「開発すれ
ば無盡蔵に物が出る」といい、「蘭領印度へわが皇軍が上陸する時には……親善訪問、
親善上陸が成功したと発表になると思はれる」といっていた。
一九四二年一月に、日本軍がフィリピンを占領すると、その翌月、石原産業は、
日本軍が奪ったフィリピンのカランバヤンガン鉱山の鉄鉱の採掘を開始した。
この年二月に、京畿道長端郡から九九人の朝鮮人が紀州鉱山に強制連行
(「官斡旋」)された。中央協和会の文書は、「朝鮮人労働者募集要綱」にもとづいて紀州
鉱山に「雇入」された朝鮮人の総数は、一九四二年六月末までに五八二人であり、
そのときの「現在数」は二二八人であるとしている。
一九四二年八月、紀州鉱山から阿田和まで索道がつくられ、索道による鉱石の輸送が
始められた。
一九四三年一月、江原道伊川郡などから七五人が紀州鉱山に強制連行(「官斡旋」)され
た。 この年四月、三重県協和会鵜殿支部(支部長鵜殿警察署長)が紀州鉱山の紀州会館
で、第三回総会を開いたという。紀州鉱山は鵜殿警察署の管内であった。七月には、阿田
和国民学校で、鵜殿警察署管内の朝鮮人にたいして「徴兵実施を前提とした錬成教育」が
おこなわれたという。この年六月、石原産業海運は、石原産業と改称した。
九月に江原道平昌郡などから九九人が、一二月に江原道旌善郡から九〇人が強制連行
(「官斡旋」)された。一九四三年ころから、「学徒勤労動員報国隊」が紀州鉱山で働きは
じめたという。
一九四四年四月、紀州鉱山板屋会館で協和会鵜殿支部の総会が開かれ、三重県警察本部
長代理、鵜殿警察署長、紀州鉱山の役員らが「増産に挺身するよう訓示」した。このころ
から紀州鉱山で、朝鮮人労働者の「逃亡者が続出」したという。
石原産業は、一九四四年に四日市工場内に、朝鮮人労働者の宿舎として「協和寮」を新
築した。五月、慶尚北道安東郡から二八人、軍威郡から二九人が紀州鉱山に強制連行(「官
斡旋」)された。六月、イギリス軍「捕虜」三〇〇人が強制連行され、板屋につくられた
名古屋俘虜収容所第四分所に入れられた。七月、板屋にある朝鮮人の宿舎「八紘寮」で闘
争。 八月に、江原道鉄原郡から七七人が、一一月に、江原道麟蹄郡などから九八人が紀
州鉱山に強制連行(「徴用」)された。
一二月に、石原産業四日市工場にイギリス軍・USA軍・オランダ軍・オーストラリア
軍の「捕虜」約六〇〇人が連行され、工場内に設置された名古屋俘虜収容所第五分所
に入れられた。三重県内の俘虜収容所は、紀州鉱山と四日市工場の二か所であった。
一九四四年一二月末に、三重県に住む朝鮮人は二五一六〇人で、そのうち鵜殿警察署管
内の朝鮮人は二二八八人であったという。一九四五年一月二五日に、協和会鵜殿支部が鵜
殿興生挺身隊と改称され、紀州鉱山板屋会館で結成式がおこなわれた。
 一九四五年一月、江原道平昌郡などから九八人が紀州鉱山に強制連行(「徴用」)された。
五月、江原道原州などから三六人が紀州鉱山に強制連行(「徴用」)された。
USA軍の爆撃が激しくなったので、石原産業は、日本軍の指示によって、六月に、
四日市工場の「捕虜」の半数を北陸地方へ「転任」させた。六月二六日夜のUSA軍の
爆撃によって、四日市工場は操業不能となった。
「八・一五」のあと、九月四日に、四日市工場の名古屋俘虜収容所第五分所に入れられ
ていたUSA軍、イギリス軍、オランダ軍の「捕虜」二九五人が小牧飛行場から帰国
の途につき、その数日後、紀州鉱山の名古屋俘虜収容所第四分所に入れられていたイギリ
ス軍「捕虜」二八四人が板屋を出発した。
朝鮮人にかんしては、「八・一五」のとき、紀州鉱山と四日市工場に朝鮮人が何人いた
かも、帰郷の時期も、はっきりしていない。
 同年一二月、石原廣一郎が、A級戦犯容疑で逮捕され、後任社長小山卓次郎も公職追放となった。石原産業は、軍事的性格・侵略的性格が強い企業であった。
一九四六年二月一日に、紀州鉱山労働組合が、二月一〇日に、石原産業四日市工場労働
組合が結成された。
紀州鉱山は一九七八年に閉山したが、そこで働き、重症の珪肺病で苦しんだ人びとは、
閉山のときまで、石原産業に賠償を求める訴訟をおこすことができなかった。石原産業は
紀州鉱山でも四日市工場でも有毒物をだしつづけ、四日市工場は一九八〇年に公害企業と
して有罪判決を受けた。
 

3.紀州鉱山での朝鮮人死者

 紀州鉱山で命をおとした朝鮮人労働者にかんしても明らかになっていないことがおおい。
石原産業が一九五五年につくった『従業物故者忌辰録』という「会社創業以来の物故者
」の名簿がある。
この名簿の「殉職者関係分」の部分に、梁四満氏(一九三八年六月二七日「殉職」)、安
謹奉氏(一九四〇年一〇月一七日「殉職」)、崔俊石氏(一九四〇年一二月三一日「殉職」)
の名が、「戦歿者関係分」の部分に、趙龍凡氏(一九四二年一一月一六日「戦歿」)、曽春
木氏(一九四二年一一月二四日「戦歿」)の名が、「病没関係その他未詳分」の部分に、薜
乗金氏(一九三六年五月一五日「病没」)、梁煕生氏(一九四〇年六月一日「病没」)、南而
福氏(一九四五年五月三日「病没」)の名が記されている。
その他に創氏改名させられていたと思われる「安田徳勲」氏(一九四四年八月六日「
殉職」)、「玉川鐘連」氏(一九四二年八月八日「病没」)ら約一〇人の名がある。
「紀州鉱山一九四六年報告書」のはじめの部分には、一九四二年以後の紀州鉱山での朝鮮
人の「死亡者数」は一〇人と書かれているが、名簿部分に名が記されているのは、「玉川
光相」氏(一九四四年三月七日「業務上死亡」)、「海山応龍」氏(一九四五年二月二〇日「病
死」)、南而福氏(一九四五年五月三日「病死」)、「金本仁元」氏(一九四五年六月一日「公
傷死」)、「金山鍾云」氏(「病死」死亡日記載なし)の五人だけである。このうち、「玉川光
相」氏、南而福氏、「金本仁元」氏の名は、『従業物故者忌辰録』にあるが、「海山応龍
」氏と「金山鍾云」氏の名はない。
「金山鍾云」氏の本籍地は江原道麟蹄郡麒麟面とされている。一九九七年五月に麟蹄郡で
聞きとりをしたさい、「金山鍾云」氏は一九四五年春に獄死したという証言を麟蹄邑に住
む金石煥氏から聞いた。死因は心臓病とされていたという。「紀州鉱山一九四六年報告書
」に「金山鍾云」氏が亡くなった日が記載されていないのはそのためであろう。
「海山応龍」氏の本籍地は、江原道平昌郡平昌面とされている。一九九七年八月はじめ
に平昌郡で「海山応龍」氏のことを尋ね歩いたが、遺族にも知人にも出会うことができな
かった。
 紀和町和気村の無住の本龍寺に、朝鮮人の遺骨五体がおかれている。


<関連資料>

(1)紀州鉱山に強制連行された朝鮮人にかんする資料

1.石原産業紀州鉱山が三重県内務部に、1946年9月に提出した報告書(ここでは「紀州
鉱山1946年報告書」とする)。これは、1991年3月に、日本外務省が、韓国政府に渡した
第2次名簿にふくまれていたものである。在日本大韓民国民団をつうじて、1993年夏に日
本で公開された。
(註) 1990年5月25日。韓国政府が日本政府に強制連行された朝鮮人労働者の調査を要
請。
 1990年5月末、日本政府、調査開始。
 1990年5月28日の閣議で内閣官房で調査することに決定→結局、労働省が担当。
 1991年3月、日本外務省が、韓国政府に名簿を渡した(第2次分)。
1992年12月25日、日本外務省が、韓国大使館経由で名簿を韓国政府に渡した(第3次
分。約17100人)。
「紀州鉱山1946年報告書」では、1942年から「八・一五」までに紀州鉱山に「徴用・
雇傭」された朝鮮人は、のべ875人で、そのうち282人が「逃亡」したとされている。
この報告書には、738人の朝鮮人の名と本籍地や「入所経路」が書かれているが、その
うち、9人を除く729人の「入所経路」は、「官斡旋」と「徴用」とされている。この
「官斡旋」とは、1942年2月の閣議決定後の強制連行のことであり、「徴用」とは、
1944年9月からの「国民徴用令」による強制連行のことである(朴慶植「朝鮮人強制連行」、『日本通史』第19巻、岩波書店、1995年、参照)。
(註) 1938年4月 「国民総動員法」公布。
1939年6月 中央協和会設立。
1939年7月 「国民徴用令」(閣議決定)公布。
1939年7月28日 「朝鮮人労務者内地移住に関する方針」、「朝鮮人労務者募集要綱」
(内務・厚生両次官名義の依命通牒)→「募集」方式の朝鮮人強制連行開始。
1942年2月 「朝鮮人労務者活用に関する方策」閣議決定→「官斡旋」開始。
1944年9月 「半島人労務者ノ移入ニ関スル件」閣議決定→朝鮮人「徴用」開始。

2.1945年4月の三重県知事引継書「国民動員計画による移入朝鮮人労働者」
これは、三重県朝鮮人強制連行真相調査団準備会の要請をうけて、三重県が書庫を
探して発見し、同調査団準備会が、1994年11月はじめに確認したものである。
この文書では、1944年末現在で、三重県内の鉱山や工場(紀州鉱山、東芝三重工場、
小野田セメント藤原工場など6か所)に、朝鮮人1767人が強制連行され、そのうち
約3分の1の561人が「逃亡」し、「不良送還者」が82人、帰国者が413人で、
「現在員」は711人とされている。

3.中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」(1942年)。

4.日本鉱山協会『半島労務者ニ関スル調査報告』(1945年12月)。

1と2は、「八・一五」のあと50年ちかくたってから、ようやく出されてきたもの
である。

紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の道別人数

咸鏡南道    6人
平安南道    1人
黄 海 道    4人
江 原 道   555人
京 畿 道    97人
忠清北道    6人
忠清南道    3人
慶尚北道    52人
全羅北道    1人
全羅南道    1人
  不明    3人

(2)「紀州鉱山1946年報告書」の検討        

◆文書が一部脱落している。
「紀州鉱山1946年報告書」の内容それ自体の真実性は、うたがわしいものだが、
それだけでなく、日本政府がだしてきたものは、その全文ではない。
「紀州鉱山1946年報告書」の冒頭部は、もともとは一、二、三の3節にわかれ
ているが、日本政府が韓国政府に渡したものには、一と二がぬけている。
◆いいかげんな記述。
「紀州鉱山1946年報告書」冒頭部の本文では、「徴用・雇傭」された朝鮮人は、
のべ875人となっているが、名簿に記載されているのは、738人である(「雇傭」は
9人のみ)。この名簿には、137人の名がない。
また本文では、「死亡者数」は、10人となっているが、名簿に記載されているの
は、5人(「病死」2人、「死亡」3人)である。
 本籍の住所の誤記・誤字がおおい。

紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の郡別人数。()内は逃亡者数。旌善郡から
強制連行された97人の74パーセント(72人)が「逃亡」している。

 全羅南道
潭陽郡 1人( 1人)
 全羅北道
完州郡 1人
 忠清南道
牙山郡 1人( 1人)
洪城郡 1人
燕岐郡 1人
 忠清北道
堤川郡 4人( 1人)
槐山郡 1人( 1人)
清州郡 1人
 慶尚北道 
安東郡 30人(19人)
軍威郡 32人(10人)
慶州郡 1人
 平安南道
平原郡 1人( 1人)
江東郡 1人( 1人)
 江原道
高城郡 1人
伊川郡 64人(18人)
平康郡 1人( 1人)
鉄原郡 77人(39人)
麟蹄郡 96人( 4人)
襄陽郡 2人
江陵郡 5人( 2人)
洪川郡 1人
横城郡 5人( 3人)
旌善郡 97人(73人)
平昌郡160人(59人)
原州郡 25人( 3人)
寧越郡 11人( 4人)
 京畿道
長湍郡 91人(33人)
開豊郡 1人
坡州郡 1人( 1人)

金浦郡 1人( 1人)
ソウル 2人( 1人)
驪州郡 1人
 咸鏡南道
定平郡 2人( 1人)
安辺郡 2人( 2人)
 黄海道
遂安郡 1人
谷山郡 1人
延白郡 1人
金川郡 1人( 1人)
位置不明
 慶尚南道
榮郡? 1人
 京畿道
宇豊郡? 1人( 1人)
蓮州郡? 1人( 1人)

「窓口募集」
慶尚南道 山清郡2人、
 宜寧郡1人
慶尚北道 達城郡1人
忠清北道 永同郡3人
江 原 道 伊川郡1人
全羅北道 金堤郡1人

 実際なにがあったのか。「官斡旋」(496人)、「徴用」(233人)、「窓口」(9人)の実態は?
 特別手当、帰国旅費はほんとうに支払われたか。
 「解雇」、「転出」、「応召」、「不明(不詳)」の実際の内容は?
 強制連行した朝鮮人を「解雇」したのは、なぜか?
 物理的拘束、内面の拘束、思想的拘束。

(3)四日市工場への強制連行の事実の究明。
石原産業四日市工場への朝鮮人強制連行にかんする事実は、ほとんど明らかにされて
いない。
アジア太平洋戦争開始後まもなく、1942年に、紀州鉱山から掘り出された銅鉱石を
精練する四日市工場が、操業を開始した。都市部で有毒ガスを大量に排出する銅鉱石の
精練をおこなうのは異例のことだという。四日市工場は、1943年4月に、軍需工場に
指定された。
日本軍の「捕虜」とされたイギリス軍兵士は、紀州鉱山と四日市工場で働かされた。
四日市工場で働かされ朝鮮人も多かった。紀州鉱山の名簿では、一人の朝鮮人労働者が
紀州鉱山から四日市工場に「転出」させられている。
石原産業の社史では、1944年に四日市工場内に「協和寮」を新築し、1944年7月
から1945年3月にかけて約300人の朝鮮人を「雇い入れた」としている(江原道から
196人、咸鏡南道から100人)。


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