
3.捕虜観について
(1) 日本の捕虜対策
最近よく『国際性』とか『国際協調』という言葉を耳にする。
要するに、世界各国の政治・経済・社会・教育・文化・伝統等のそれぞれについて、お互いに尊重し、理解を深めながら、協調・友好関係を培っていかねばならないことだと思っている。
ましてや、現在世界でも有数な経済大国となっている日本の役割が、今日ほど世界の国々から注目を浴びている時期はないと思う。
それだけ日本の果たすべき役割の重要性が増大していることを意味しているものと考えるべきであろう。
私はここで、いささか堅苦しい話になることを承知で、シベリア抑留、すなわち『捕虜』の問題について若干触れておきたいと思う。
この問題は、決して過去の問題として葬り去ることのできるものではなく、まさしく現代の問題であり、将来の問題としても極めて重要な要素を含んでいると思うからである。
昭和7年、世にいう『上海事変』の際、第一線の指揮官であった空閑昇少佐は、負傷して敵の手に落ちたが、奇しくも少佐を収容した敵司令官は、かつての陸士時代の教え子、甘海潤中国軍少佐であった。
自決をはやる空閑少佐は、教え子の情にほだされて、恥を忍んで帰国した。しかし、日本の伝統はこれを許さず、結局は『自決』の道を辿らざるを得なかったという。
私が小学校5、6年生頃の話で、今も頭の隅に僅かに記憶が残っている。
昭和14年『ノモンハン事件』の空中戦で被弾し、敵地に不時着した原田文雄少佐、伊藤曹長の二人はソ連軍の捕虜となった。
伊藤曹長はそれまで敵機25機を撃墜し、『ホルンバイルの華』とまでうたわれた逸材であったが、捕虜送還で帰ってきた彼らを待ちうけていた運命は非情なものであった。
原田少佐は『自決』を強要され、伊藤曹長は軍法会議で『有罪』となり、ともに人生から消え去ったという。
ノモンハンの捕虜で、帰国後の運命を恐れて、ソ連の地に残留を望んだ将兵は1千名を超えていたといわれている。
祖国の栄光のために戦いながら、祖国からの報復を恐れて帰国を断念し、ソ連に永住したのである。
私たちが入ソした当時、行く先々で、既に市民権を獲得したソ連人としての彼らに接触した人も多いという。
多くは鉄道員とか大工とか、出征前の職業を生かして生活している者が多く、ロシア人と結婚して子どももあり、私たちの帰国に際してもさほどの郷愁も示さなかったという。
昭和19年6月、マリアナ諸島、サイパン島が『玉砕』したことは、時の東条内閣の崩壊(昭和19年7月)にまで及んだ基となったのであるが、このとき島の守備隊は43,000人、民間人はおよそ15,000人といわれている。
これを機に、B29の日本列島各都市への連続爆撃はその極に達するのであるが、この時のサイパン島の捕虜将兵2千名、民間人多数についてアメリカは、中立国スイスを通じて、この名簿を日本政府に送付してきた。
しかし、『神国日本』には、捕虜はあり得ない、として我が国はこの名簿の受け取りを拒否したという。
ことほどさように、日本軍隊の捕虜観は徹底していたことを物語っている。
(2)一銭五厘の思想
戦闘中人事不省に陥り、やむを得ず敵の捕虜になり帰ってきた場合、日本にはこれを処遇する国内法はなかった。国際法はあってもこれは全く無視されていた。
捕虜は自決を迫られたり、銃殺に処されたり、世に潜んで生きるしか他に方法はなかった。
日本の軍隊は、兵隊の命を一銭五厘で計算していた(当時はがきが一枚一銭五厘で、招集令状の通知郵便料も一銭五厘であった)。 だから、捕虜になった者は、使い古した草履のように捨てられていた。
その為、捕虜に対する同情が国民の間から出るのを恐れた軍部は、捕虜が卑怯者か犯罪者であるかのように世論を煽ったのである。
人道的配慮など微塵もない、いわゆる我が国独自の一銭五厘の思想であった。
日本の無条件降伏が決まったとき、軍上層部が最も恐れたのは、軍隊が捕虜になることであった。予想を困難視し出されたのが、天皇の『今次敵に降る者は、捕虜とみなさず』という勅命である。(大陸令−大陸令とは大本営陸軍部命令の略−、第1385号、昭和20年8月18日)
捕虜の地位を認めることは、本来捕虜の人道的処遇を約束するものであるが、我が国の倒錯した捕虜観念の下では、こうでもしなければ事態の収拾ができなかったことを露呈したものであった。
(3)戦陣訓と兵十戒
戦陣訓という言葉を思い起こしていただきたい。
陸軍大臣、東条英樹が昭和16年1月8日、陸訓第1号として全軍に布告した、我が国の基本的な戦争観であり、捕虜観であった。
入隊直前にあった私などは、あの長い軍人勅諭と並んで、この戦陣訓の暗誦に夢中になっていたことを、いま哀しく思い出す。
この戦陣訓は、文豪といわれた島崎藤村と、詩人として著名な土井晩翠の手によるものとされているが、日本軍隊の当時の思想を余すところなく表しているものといえよう。
『恥を知るものは強し。常に郷党家門の面目を思い、いよいよ奮励してその期待に応うべし。生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ……』と。
前述の一銭五厘の思想と同じ体系の中に汲み込まれているものであった。
ここには人道のひとかけらもなく、万一捕虜となった場合には自決を強要するのみで、捕虜となった場合の心得など一切教えなかった。
だから、シベリアに抑留された私どもは、ただソ連側の要求のまま生きるより外に方法はなかった。
同じ敗戦国で、シベリアに送られてきたドイツの捕虜たちは、ジュネーブ条約の下に生きたため、ソ連側にとっては実に扱い難い存在であったに違いない。彼らはジュネーブ条約に詳しく、ソ連側との交渉は一事が万事これによっていたという。
ドイツにも戦陣訓はあった。『兵十戒』と称するもので、神がかり的な日本のそれに比べてはるかに具体的であり、戦争のルールを解説したものであり、一兵残らず戦場に携帯していたという。
その内容は、
@ 不必要な野蛮行為を避け、騎士道を守って闘うこと。
A 必ず兵服を着用して闘うこと。
B 降伏した敵兵の生命は、これを奪わぬこと。
C 捕虜を人道的に待遇すること。
D ダムダム弾の使用を避けること。
E 赤十字を尊重すること。
F 非戦闘員を殺害せず、略奪をしないこと。
G 中立・非戦闘諸国を尊重すること。
H 捕虜となった場合は、自分の姓名は述べるが、
軍の組織・秘密は遵守すること。
I 敵が上記の規則を破ったときは報告すること。
以上
ドイツ兵捕虜の間にシベリアで民主化運動が起きなかったことについて、上記の兵十戒を見る限りにおいても当然であり、ドイツ兵が思想的に遅れていたと考えるのは早計である。
だからといって、日本人の間にシベリア民主化運動が澎湃として起きたことを、進歩的であったと見るのも皮相的である、と考えるのが自然であろう。
(4)日本における捕虜観の変遷
話は一寸古くなるが、明治37年の日露戦争開戦のときに、天皇が発した詔書の中には、
「……凡そ国際条約の範囲に於いて、一切の手段を尽くし、違算なからしむを期せよ……」という言葉が挿入されていた。
つまり、国際条約に違反しないようにという意味合いであった。
これは明治27年の対清国との詔書の中にも、また大正3年の対独宣戦の詔書の中にも同義語の言葉が入っているという。
ところが、昭和16年12月8日の米英等に対する、いわゆる『大東亜戦争』の詔書には、見事にこの国際条約遵守の文言が抜け落ちているのである。
この間、軍部の間に1929年(昭和4年)のジュネーブ条約の批准に反対し、欧米思想を排撃し、いわゆる日本独自の戦陣訓を昂揚するという、愚を犯した結果から出たものといわれている。
その間の細かい経緯は省略するが、この明治期における日本の戦争観・捕虜観との間に、大きな差異のあったことは否めない事実であり、ここにも一銭五厘の思想が色濃くにじみ出ていると思われる。
そして、このことがシベリア抑留の悲劇へと連なっていったことも当然の帰結であった。
戦後各地で行われた、B・C級戦犯の裁判においても、まさにこの国際法の捕虜対策の欠如が大きな原因となっていたことは、歴史の示すところである。
ことほどさように、日本の捕虜否定の精神と国際法の無視は、結果的に大きな損失を招く基となったことを、忘れることはできない。
(5)国際法の無視
当時の日本陸軍刑法には、捕虜となった者を直接処罰する条項はないが、敵に軍事情報を漏らせば死刑にする、という別の項目があり、通常この条項が適用されていたという。
もともと捕虜になった者を犯罪として処罰することは、国際法に反するものであることはいうまでもない。
ところが、日本の軍隊は捕虜になることを認めていなかったから、捕虜になった際の心得や身の振る舞いは、軍隊でも学校出も教育されていなかった。
本来、捕虜は氏名・階級を述べる以外、他のことは一切本当のことを言わなくとも良い、とされている。
これがハーグ条約以来の国際間の取り決めであった。
かつて、満州国の承認をめぐって、日本の国際法観は42対1で孤立した。
日本は残念ながらその意義を悟ることができず、真珠湾の奇襲攻撃も日本流に解釈して平然たるものがあった。
日本の一貫した国際法違反の行為は、敗戦によってストップしたものの、それが根本的に是正されたと見ることはできない。
それゆえ、この条約の定める戦争ルールの義務教育はもとより、これらに関する普及訓練すら全くないといってよいほど、実施されていないという。
日本は依然として、国際法上の『無法者』の立場にあると指摘される所以である。
私どもも、これらの批判を謙虚に受け止め、一層の精進に励む必要のあることを痛感するのである。
up date 2001/10/22
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