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「君だけを守りたい」と【朝鮮総督府の朝鮮文化保護政策】


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青空がある限り 風は時を運ぶよ 勇気がある限り 夢は必ず叶うよ
涙があふれるまま Hey! Hey! 走り出せ 赤い地平の彼方 明日があるのさ
誰よりも 何よりも 君だけを守りたい いつまでもどこまでも 君だけを守りたい
Wow Wow Wow 叫ぼう 世界は終わらない

中島文明の「君だけを守りたい」の曲紹介である。
さて、「守る」と言うと、何はさておき、「朝鮮総督府の朝鮮文化保護政策」について語らずにはいられない。

李朝時代において、書院・書堂・郷校といった存在は、表面上は李朝時代における人材育成の教育機関であった。
実際の書院は、李朝によって弾圧された、高麗朝における寺院の役割を受け継ぎ、地方官僚の権威と象徴的存在として、広大な荘園と多くの奴隷を所有していた。さらに、免税と免役の特権を持ち、国家財政を逼迫させていた。
この書院には、政争に敗れた両班など、無頼の輩が集まるようになり、国家の監視の目が届かないことを良いことに、殆ど犯罪者達の巣窟となっていたのが事実である。
李朝末期、大院君は1871年3月に「書院閉鎖令」を出し、このような国家財政を食いつぶす、或いは、犯罪者の巣窟となっていた書院の一掃を断行した。
全国13道650を超える書院を、1道に2カ所以下とし、それ以外の書院を順次閉鎖していった。
この書院閉鎖断行政策によって、650を超える書院は、そのご47の書院にまで激減した。
しかし、この書院で悠々自適に過ごし、特権を振りかざしていた両班階級にしてみれば、この書院閉鎖はたまったものではなく、大院君の政敵であった閔妃一族と手を結び、その後の大院君失脚の原動力となった。

さて、この書院とは先にも述べたように、朝鮮半島唯一の「教育の場」であった。
日本で言えば「寺子屋」にあたるのだろうが、寺子屋が一般庶民も対象に文字の読み書きなどを教えていたのとは違い、あくまで両班階級、つまり貴族階級の師弟のみを対象とした教育の場であった。
それも、教育とは言うが、実際には上記のように無頼の輩や犯罪者達の巣窟であり、まともな教育が行われることは、李朝末期の時点では殆どなかった。
記録に残る、書院での教育内容は、「漢字の読み書き」だけであったようだ。

ここで注目しなければならないのは、こういった朝鮮での教育機関では、殆ど自国史・自国の文化について研究・保存が行われることがなかったということである。
朝鮮史を紐解くと、それは前王朝文化の破壊の歴史でもある。
新羅が初の統一王権を朝鮮にうち立てると、直ちに中国「唐」の文化を取り入れ、自国の朝鮮文化を根絶やしにしていった。
そして、李朝が高麗朝を倒すと、今度は「斥仏揚儒」政策のもと、高麗朝の文化が根絶やしにされていった。
外圧によって、自国の文化が消えることはあるが、朝鮮の場合は明らかに内在的に、自ら進んで文化破壊を行ってきたのである。
文化の継承・保護を伝統とする日本とは、対極にある朝鮮の考え方である。

かつて「創氏改名」問題でも触れたが、例えば、元が中国で王権をうち立てると、当時の高麗朝の朝鮮人達はこぞってモンゴル文化を取り入れた。それこそ、頼まれもしないのに名前までモンゴル風に改名するという有様であった。これで「日本は、極悪非道にも朝鮮から名前を奪った」と主張するのだから何をかいわんやだ。さて、モンゴル文化は名前にとどまらず、当時のモンゴルの服装も高麗朝の朝鮮人達は取り入れていった。現在に至る韓服と呼ばれる、韓国の伝統の着物は、実はモンゴルの着物が元なのである。こういった朝鮮の文化の為、朝鮮の過去の文化は、朝鮮人自身の手で守られるどころか、破壊の繰り返しだった。

「日本人が朝鮮半島に侵入してくると、、すぐに京城の書院を襲い、貴重な文化財を掠奪して、日本国内に持ち帰り、歴史書を没収、焼却した」と韓国の歴史書にはよく書かれているが、とんでもない大嘘であることが、上の書院の実態を見ても理解出来ると思う。それどころか、朝鮮総督府は、朝鮮史上初の文化保護政策を実施し、その一環として、例えば、朝鮮文化研究を促進し、旧慣民俗に関する調査を綿密に行い、膨大な書籍を発行し、中枢院は、李朝時代の法典類を編纂刊行している。
朝鮮で初めての朝鮮史研究が、併合時代の総督府を中心として「日本人」の手によって行われている事実を見ても、当時の朝鮮人達がいかに自国の歴史や文化を尊重していなかったかが分かるだろう。

1915年から1920年にかけては、「朝鮮古跡図譜」7冊と解説書5冊を公刊した。そのご、1919年から11年間をかけて古跡を再調査し、「古跡調査特別報告」12冊を刊行している。さらに、1925年6月には、勅令で「朝鮮史編集会官制」を公布し、独立官庁として「朝鮮史編集会」が作られている。
また、総督府は独自に1922年12月に「朝鮮史編集委員会」を設け、15年の歳月をかけて、計35巻2万4千ページに及ぶ朝鮮史の総編纂といえる「朝鮮史」を勧告している。さらに付随して、20種100冊に及ぶ「朝鮮史料」及び「朝鮮史料写真及びその解説」を刊行している。

これを見ただけでも、朝鮮総督府がいかに朝鮮史を研究し、その保護に務めたか理解出来るだろう。
しかし、何故日本がここまで朝鮮史研究に力を注ぐ必要があったのか?簡単である。李朝末期に至るまで、朝鮮史は朝鮮人自ら一顧だにされず、まともな研究が存在しなかったからである。朝鮮の唯一の知識階級である、両班階級は中国史を研究することに全力を注ぎ、朝鮮史研究など見向きもしなかったのである。故にこそ、朝鮮史に関しての体系的な研究書籍などが朝鮮には残されなかったのである。余談であるが、韓国人の誇るハングルにしても、その最初の体系的研究は1880年のフランス人宣教師によってパリでハングル字典が刊行されたことが始まりであり、その後、1890年にH・G・アンダーウッドが横浜で、1897年にイギリス人のゲイルも同じく横浜でハングル字典が刊行されている。朝鮮総督府も、1920年に「朝鮮字典」(日韓対訳)を刊行している。自国の朝鮮では、このような字典編纂作業は李朝末期に至ってもなされることが無かったにも関わらずである。朝鮮人が初めてハングル字典を作ったのは、1939年の文世栄著作の「朝鮮語辞典」であることを考えれば、いかに朝鮮人達が自国の文化をないがしろにしてきたかが分かるはずである。

このように、実際の歴史と韓国で語られる虚偽の歴史には大きな差があり、それがひいては反日へとつながる要因でもあるのだ。
韓国人は、冷静にまた客観的に、朝鮮総督府の朝鮮における功績を再評価しなければならない。