晴明はひとり、濡れ縁で杯を傾けていた。
朧の月が、淡く庭を照らしている。
そこにひっそりと咲く、白と紫色の紫陽花。
可憐な丸い花たちが、梅雨の長雨に濡れ、重く頭を垂れている。
見るともなく、晴明はその紫陽花を眺めていた。
そして――思い出すのは、あの日の夜。
それは晴明が、初めて『人』に心を奪われた日だった。



『紫陽花』〜上〜



「おるか、晴明」
足音も高く廊下を渡り、蜜虫に伴われて現れたのは、若き殿上人である
源 博雅という男だった。
濡れ縁に寝そべる晴明の姿を認め、そのだらしない姿に一瞬眉をひそめたものの、
すぐに穏やかな笑顔が広がっていく。
宮廷を護る武士であり、従三位という高い身分を持つこの男に出会ったのは、
内裏で些細な揉め事があり、己の術を見せなくてはならない状況に陥った
あの時だった。







ひらりと舞う美しい蝶を、一枚の葉で両断する術に怖れおののく殿上人たち。
季節外れのあの蝶を殺めてみせよ、と囃しておきながら、見せられた
その術の凄まじさに、怖れをなして足早に立ち去っていく。
尾ひれがついた話は、噂となって内裏中に広まっていくだろう。
やはりあれは、狐の血をひく忌わしい男だ――と。
廊下に落ちた蝶を拾い上げ、懐紙に包んだ晴明は、まだそこに立っていた
ひとりの殿上人に気がついた。
黒い束帯の背をぴんと伸ばし、じっと己を見つめている。
内裏には似つかわしくない、清涼な気と澄んだ瞳を持った男だった。
晴明は、卑しい笑みを浮かべ己を煽る殿上人の中で、ただひとりこの男だけが、
やんわりと非難の言葉を口にしていたことを思い出した。
澄んだ黒い瞳が、立ち上がった晴明をまっすぐに見つめている。
何も言わず。
ただ、深い哀しみだけをその黒い瞳に滲ませて。
これはまやかしなのだと、晴明が思わず口にしてしまいそうなほど、悲哀に
満ちた瞳だった。
非難ではなく――悲哀。
それが、わけもなく晴明の胸を締め付けた。
「……あの男も、おれを狐だと思うたことだろうな」
きり、と痛んだ胸に、晴明は他人事のように驚く。
あの男にだけは、真実を伝えたい。
あれは、まやかしなのだと。
あの蝶は、再び舞うことができるのだと。
だが晴明には、それを伝える術がない。
軽々しく口を利くことなど赦されぬ、身分違いの殿上人。 
遠ざかる男の背が、視界から消えていく。
そして晴明は、静かに眼を伏せた。








――源 博雅。
その名を知ったのは、それからすぐのことだった。
博雅本人が、晴明の屋敷を訪れたのである。
直属の上司である兼家に、怪異の解決を内々に頼まれた所為だった。
瓜にかけられた呪を解き、帝の御子に憑いた物怪を祓い、それを
きっかけにして、言葉を交わすようになったのである。
それからである。
互いの人となりを知り、身分を越えて付き合うようになったのは。
博雅は、帝の血をひく殿上人でありながら、澄んだ魂を持つ希有な男だった。
何よりも、武士でありながら楽に秀で、朱雀門の鬼から譲られたという
龍笛を持っているということに、晴明は驚いた。
その龍笛の名は――葉双。
葉双の音を初めて聴いたとき、晴明は博雅の魂そのものを感じた。
天地に、そして自然に。
万物に愛される、この存在。







――まさか。







もしかしたら、この男が――







――この男が、そうだというのか。







いつか、今は亡き師に言われたことがあった。
信じるどころか、耳も貸さなかったはずの『予言』。
現実(まこと)しか信じない己の師が、その人生においてただ一度、
賀茂の屋敷で卜(うらない)を行ったことがあった。
皮肉屋の兄弟子を交え、まだ幼い晴明を前に行った卜。







それは。







『おまえは、都の護り人だ』







「……!」
信じられず、茫然とした晴明に、兄弟子がくすりと笑う。
「父上の卜を疑うのか?晴明」
兄弟子の悪戯っぽい顔を見やり、晴明は口籠りつつも言った。
「しかし、お師匠様……私は」
「案ずるな、晴明」
晴明の言葉を遮り、師は優しく笑った。
「護り人は、おまえひとりではない」
「!」
「もうひとり……おまえの片翼となる方が現れよう」
師は、言った。
「出逢うのが何時になるのか、それは儂にも判らぬ。だが見落とせば、
永遠に逢うことは叶わぬであろう」
「永遠に……」
「そうじゃ、晴明」
師が、頷く。
「もし見落とせば、おまえひとりで……この都を護らなければならぬのだ」







都など。
――どうなろうと、構わぬ。







狐の子。







そう忌み嫌われる己が、何故都を護らなければならぬのか。
都が、己に何をしてくれたというのか。
陰陽寮に身を置くのも、生きるため。
それすらも、億劫になることがある。
いっそ、遁世してしまおうとすら思うのだ。
あの、道摩法師のように。
人を疎み、
世を疎み。







それが、今は――







「なぁ、晴明」
杯を干した博雅は、柱に凭れ掛かる晴明を見つめながら言った。
「何だ、博雅」
「……おまえは、運命というものを信じておるか?」
「運命?」
「うむ」
博雅は、手酌で杯に酒を満たすと、空いていた晴明の杯にもなみなみと注いだ。
「……おまえはどうなのだ、博雅」
「おれか?」
「ああ」
晴明の声に、博雅は微笑んだ。
「おれは、信じておる」
「ほう」
意外な博雅の言葉に、晴明は眼を細めた。
「何故そう思うのだ、博雅」
晴明の問いに、博雅は言った。
「あれを見てみろ、晴明」
博雅が指差した先には、紫陽花が揺れていた。
白と紫の可憐な丸い花が、闇にも融けず咲き誇っている。
「あの花は、誰かに見られようとして咲いているのではない」
博雅は、言った。
「だが、それを見た心ある者は、必ず何かを感じるであろう。美しいとか、
良い香りだとかな。……運命も、そのようなものだ」
「どういうことだ、博雅」
晴明は、博雅の言葉の真意を測りかね、怪訝に訊ねた。
「つまり……運命というものは、出逢いではないのかと云いたいのだ、晴明」
博雅は、晴明を見つめて言った。
晴明は、黒く澄んだ博雅の瞳に、己の何かが吸い寄せられていくのを感じていた。
仄かに甘い、心地よい感覚。
それでいて、苦しい。
まるで、あの感情のような――。
「おれは、晴明……おまえという男に出逢うた」
博雅は、ふわりと微笑みながら言った。
「だがそれも、おまえに出逢おうとして出逢うたわけではない。あの日偶然に
術を使うおまえを見なければ、おれは……おまえという男を、こうして知ることも
なかったであろうよ」
博雅は、微かにはにかんだ表情を浮かべた。
「それに……」
「それに?」
「兼家様が、おまえの許にゆけとおれを遣わしたからこそ……こうして酒を
酌み交わすようになったのだぞ」
「そうなのか」
「……そうなのだ」
博雅は、くいっと杯を干した。
「おまえを知り、おまえの心を感じたからこそ……おれは、こうしてここに
来ているのだからな」
「おれの……心?」
心。
他人に易々と悟られるような心など、ついぞ晒した覚えはない。
だが博雅は、自然に、呼吸をするように言った。
「おまえは、優しい心を持っている」
博雅の言葉に、晴明は沈黙した。
「蝶を……蜜虫を殺めなかった。それに、おれの笛を……いつも黙って、最後まで
聴いてくれるであろう」
「……それは」
苦し気にも聞こえる晴明の声に被せるように、博雅は言った。
「おまえは、気付いておらぬのかもしれぬが……晴明」
博雅は、静かに微笑んだ。
「……それが、優しいということなのだよ」







『心』。
『優しい』、『心』。







そんなものは――ない。
あるとすれば、眼の前の博雅の『優しい』『心』が――そう見せているに
違いなかった。







このまま博雅と共にいれば、きっとその『心』を求めてしまう。
自分にはない、穢れのない『心』を。
そして博雅の『心』だけではなく、その『心』を包む『器』ごと、
欲してしまうであろうこともわかっていた。







それが――己の『片翼』であろうとなかろうと。







惑う晴明の視線の先で、紫陽花が揺れる。
晴明は、博雅に満たされた杯を、無言のまま静かに傾けた。







『紫陽花』〜上〜/〜下〜







PAGE BACK 『紫陽花』(下)






エイリさま16000(+2)ヒット、キリリクです。
お題は「晴明が、博雅に恋情を抱いている、と自らに認めた瞬間。
その、契機となるエピソードと共に」です。
私としては非常〜〜に難しく、ヒントをいただきました。
『映画+護り人』絡み……コレで何とか書き始めることが
できました。良かった良かった♪そしてまた続くのですが(汗)。
護り人を告げたのが師匠というのが、ささやかな変更点と
いうことで(笑)、次回エピソードへと続きます!


[PR]DoCoMoご利用の方必見!:無料の運命鑑定≪スピリチュアルの館≫