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訳注:
「対馬、我々の領土」より抜粋 … 「100年後、対馬島をムクゲの丘(訳注:朝鮮の美称でもある)にして、ハングルを公用語として通用させるのが目標」と話した。
「独立公園になぜ桜?」より抜粋 … 「それでも桜が土地産なのか、日本産なのかを調べ、日本の桜だと判明した場合は切る」と明らかにした。
上記の人々の行動原因はこのページの内容にあるのかもしれません。 しかし、不思議なことにムクゲ抹殺政策を告発するサイトは、韓国ではいくつも見つかりますが、日本では全く見つかりません。 せいぜいハングル板の過去ログで話題にしている程度です。 これは日本がこの事実を隠蔽しているからでしょうか、それとも…。

 
 
◆文献の中のムクゲ .. ◆ムクゲの受難史.. ◆ムクゲ守護
 


人類の歴史で、民族の名前で特定の植物が苛酷な受難を経験したのは、我が国の国花であるムクゲが唯一である。 ムクゲは民族の歴史と共に民族の脈絡の中に息づいてきた花であるため、日帝強制占領期の36年間には民族の受難と共に疲弊して奪われてしまうという残酷な試練を経験するしかなかった。

満州,上海,米国,欧州へ向かった独立志士たちが光復の救国精神の表象としてムクゲを掲げると、日本はこれにうろたえたあまり、ムクゲを見つけしだい燃やしてしまったり、引き抜いて無くしてしまった。

日帝は国花ムクゲを「目に血花」と呼び、見るだけで目が血走るという嘘の宣伝をし、「おでき花」と呼び、手に触れるだけでおできが出来ると言うなど、様々な話で我が民族の気概を表現するムクゲ弾圧に極悪だったのだ。

しかし、国花ムクゲに対する受難が加われば加わるほど、我が民族はよりいっそう自分たちの精神を代弁するムクゲを愛し、隠してまで守ってきた。

日帝のムクゲ弾圧の中で、固い意志でムクゲの民族魂を植え付けて再認識させることに率先した人物として、禹浩翊(ウ・ホイク)と南宮 檍(ナムグン・オク)が代表的と言える。

禹浩翊は我が国の言葉と文字が日帝の鉄鎖に縛られていた暗黒期に、ムクゲを学問的次元で深く体系的に研究し、ムクゲの史的価値を考察して朝鮮の国花として崇拝するようになった由来を論証して見せることで、国花ムクゲとしての位相を定立することに大変な貢献をした。

翰西(ハンソ)南宮 檍は、ムクゲ抹殺のために狂奔する日帝の目を避けてムクゲ苗木を育てて全国に配り、ムクゲが育つのを見守りながら、冷めて消えていく救国魂を呼びおこすことに先鋒的役割をした。

我が国の花として我が民族と共に生死苦楽を共にしたムクゲは、再び恥辱の受難に遭うのだが、それがまさに東亜日報に連載された国花論争だった。

これから今一度、ムクゲの受難を振り返ってムクゲの真価を評価することで、国花としてのムクゲの位置づけを正さなければならない。

ムクゲの受難

ムクゲの試練


日帝の文化抹殺は遂に我が民族の花、ムクゲ抹殺にまで至った。 我が国を象徴する太極旗を全国的に押収して無くしてしまった日本帝国主義は、国旗に次ぐ民族の象徴である国花、すなわちムクゲを無くす作業に着手した。

我が国がムクゲを国花に制定したことは法的になかったが、全ての国民はムクゲを国花として堅く信じてきた。

「三千里半島」という単語の上には必ず付け加えられて「ムクゲ三千里」と呼ばれるのが慣例になっていた。
我が民族は長い間先祖代々愛して守ってきたムクゲを、失ってしまった祖国を愛するように大切に愛し、ムクゲから「散ったあと再び咲く力強い意志」を学んで我々もいつかはきっと独立すると決心し、ばらばらになった民族の心の中で、ムクゲを育てながら独立精神を育てていった。
このような我々の民族性を感知した日帝は、国花に対する悪宣伝に血眼になっていた。
これもやはり民族意識抹殺政策の前哨的な作業であり、国花ムクゲを「眼病になる花(目に血花)」と呼んで近寄るなと言い、「おでき花」と呼んでムクゲの花粉が皮膚に着くとおできが出来るというなど、ムクゲを歪曲,捏造するのに狂奔し、ムクゲ抹殺政策のためのとんでもない術策と計巧を当たり前のように行なっていた。

かくして、いわゆるムクゲ受難の歴史が始まったわけだが、これがすなわち国花抹殺政策だ。

日帝の国花ムクゲに対する残酷な抹殺政策は《朝鮮総督府 高等警察事典》によく現れている。
高麗時代には全国民から熱狂的に愛され、文学上,医学上で珍重されていたのだが、日本のサクラ,英国のバラのような国花になる途中で朝鮮時代に入り、李花が王室花になるとともにムクゲは次第に勢力を失って朝鮮民族からだんだん疎遠になったのである。

20世紀の新文明が朝鮮に入ると、有志たちは民族思想の鼓吹と国民精神の統一を振作するために、文と言葉で、千紫万紅の全ての花は花無十日紅でその寿命は短いが、ムクゲだけは夏から秋にわたって3〜4ヶ月連続で咲くだけでなく、その高潔さは偉人の風貌だと賛美しているのだ。

したがって、「ムクゲ山河」云々は自尊した朝鮮の別称ではあるが、大正8年の己未運動(3.1運動のこと)以来、一般に広く呼用され、主に不穏の意味が入っているのだ。 槿花,無窮花,槿域などは全て不穏な文句として使っているのだ。

《朝鮮総督府 高等警察事典》の規定は、すなわちムクゲ抹殺策動の根拠になっており、指示になり法になっていた。
このような悪宣伝は、すなわち韓半島植民政策の積極的な政策であり、たとえ一株の花木に過ぎないムクゲであっても、ここには民族団結の根拠を作る素地があったからだ。

日帝のムクゲ抹殺事件

<東亜日報とムクゲ>

3.1運動後、新しく赴任した斎藤総督は、憲兵警察統治を止揚し、韓国人の文化と伝統を尊重するという欺瞞政策を標榜した。

統治方法が表面的ながらも宥和されると、《東亜日報》と《朝鮮日報》が民族言論としての旗幟を掲げて創刊された。 《東亜日報》創刊号は <主旨を宣明する> という題で創刊の言葉を載せたのだが、その序盤は次の通りだ。

蒼天に太陽が輝き、大地に清風が吹く。 山静受流し、草木昌茂し、白花爛発し、鳶飛魚躍すれば充満する。 東方亜細亜の無窮花(ムクゲ)の丘の中に、二千万朝鮮民衆は一大光明を見る。 空気を呼吸する。 ああ、実に生きた。 復活する。 将来、渾身勇力を奮発し、遠くて大きな道程を健行しようとするが、その名は何か。 自由と発達だ。
このように朝鮮はすなわちムクゲの丘だと表現し、大きな抱負を表明している。
これと共に題号図案も「東亜日報」の4字の長方形の周りの帯をムクゲにした。

《東亜日報》は1923年から10年にわたって毎年ムクゲの写真を掲載した。 1923年8月18日付の新聞の社会面の上端に3段14pの大きさのムクゲの写真と「雨晴れた朝に新しく飾られたムクゲ」という写真説明を載せた。

その後、1926年8月20日付に「ムクゲはよく咲く」、
1928年8月12日付に「ムクゲが最盛期を迎える」、
1931年8月26日付に「旬を過ぎたムクゲ」、
1935年8月30日付に「住む場所に愛着心を持ったムクゲ」という題でムクゲの写真のみを掲載した。

これはムクゲを通じて民族精神をもっと鼓吹しようというものであり、無言の隠密な抵抗精神の表示であった。

1930年1月1日に《東亜日報》は創刊当時の題号図案を変えた。 隷書で書いた「東亜日報」4字の背景を韓半島地図とムクゲで埋めた図案だった。 現在の東亜日報の題号と同じ姿だ。

1935年4月21日付の <世界各国の国花> という題の記事にこの図案の意味を求めることができる。
1938年になると、題号のムクゲ図案が検閲に引っかかった。 そのため、1938年2月9日付の新聞から韓半島とムクゲの絵が削除され、その場所を横線で埋めた題号が載せられた。

現在の《東亜日報》の題号は1945年の光復後、新聞の重刊と共に元に戻ったのである。

〈朝鮮少年軍・中央学校のムクゲ図案弾圧〉

ムクゲは民族精神の表象だった。 当時、学校や団体ではこの意味を生かし、ムクゲの絵を挿入した象徴物を作って使った。 もちろん、この象徴物は日帝の取り締まりにかかって押収された。
1922年、趙戊M(チョ・チョルホ)は民族の独立を成就する材木を養成するという意志を持って「朝鮮少年軍」を創設した。

朝鮮少年軍はソウルをはじめとする大都市で大きな行事がある時には、場内整理のために派遣されたりした。

1937年7月31日、鍾路パゴダ公園で時局講演会が開かれた時も、朝鮮少年軍が講演場の整理を引き受けた。 この時、朝鮮少年軍の項巾の片隅に染色されている徽章が問題になった。 ムクゲの花輪の中に太極マークと「(ハングルで)準備」という字が彫られている徽章だった。

その日、朝鮮少年軍の全ての項巾が押収され、朝鮮少年軍の幹部たちが拘禁された。 太極、ハングル標語、ムクゲが全て民族精神の表示であり、日本に抵抗する意味が込められているというのが理由であった。 その後、朝鮮少年軍の訓練教科書である教範まで押収され、集会,ハイキング,野営などにも高等係刑事たちがついて行って監視をした。

〈中央学校の帽標〉

中央学校の帽標も「中央」の「中」の字をムクゲの花輪が囲ったものだった。 朝鮮少年軍の徽章と同じく、この帽標も取り締まりにかかって使用を禁止された。 そのため、ムクゲの花輪の代わりに六角形の枠を彫って、1939年5月からは月桂環を囲って使用した。

この学校は帽標だけでなく、校歌も問題視された。 日帝は「白い墓と一つの伽藍はムクゲの真ん中」という一節を問題視し、遂に校歌を歌うことを禁止した。

日帝がこのようにムクゲを不穏視したのは、ムクゲに込められている民族魂を抹殺しようということだった。 しかし、強力な取り締まりの下でもムクゲは民族の胸で絶えず咲いていた。

〈高麗大学校とムクゲ柱〉
1934年に竣工された高麗大学本館の正門に二つの石柱が立っている。 これは高麗大学の前身である普成専門の正門だったのだが、前面には虎が、後面にはムクゲが彫刻されている。ムクゲの彫刻は石柱の後面に彫刻されているため、日本の警察の目につかずに受難を免れて現在まで残っている。

〈槿花女学校の制服〉

ソウルに槿花女学校があるのだが、制服として緑色の地色に紫の縞があるチマを穿いていた。 もちろん、ムクゲの青い葉と紫の花を象徴的にデザインしたものだった。 学校の名前からして槿花だったため、日帝の弾圧はよりいっそう加えられた。

〈五山学校 ムクゲの丘事件〉

南江 李昇薫(イ・スンフン)が建て、古堂 ゙晩植(チョ・マンシク)が校長だった五山学校、この二人の民族指導者の影響を受けて独立の気概が学生たち皆に満ち溢れた所だった。

巷間に伝えられている話では、五山学校の校庭にも民族独立意志の表象であるムクゲがきれいに咲いているムクゲの丘があったのだが、当時、日帝が五山学校のムクゲの丘を自主撤去するように指示した。

しかし、学校当局と学生たちがこれを拒絶すると、日帝は強制的にムクゲの丘を撤去し、燃やしながら踏み潰した。 これに激怒した学生たちが決起し、日帝の弾圧と横暴に抵抗した。

まさにこれが「五山学校ムクゲの丘事件」であり、以後日帝は彼らの魔手をさらに根付かせ、五山学校の授業をできなくして学校を強制的に休校させたという。 この内容が事実かどうかは不明であり、明確な根拠がなく、これ以上詳述できないのが残念だ。

〈大邱師範 ムクゲの丘事件〉
1928年、大邱師範に通っていた安東地方の学生たちが民族資本と自主独立の一環としてムクゲの丘事件を主動したという内容があるが、この事件の内容は論文や著述に記録されて世に知られたものではなく、去る1982年2月3日から2月6日まで社団法人 韓国ムクゲ宣揚会が実施した第1回ムクゲ宣揚指導者のための宣揚指導研修会において、当時のソウル市教育監チェ・ヨルゴンの講義で明らかにされた内容だ。

五山学校ムクゲの丘事件と共に、1928年の大邱師範学校の学生たちのムクゲの丘事件も、もう少し具体的な内容と諸般の資料が明らかにされなければならないだろう。

このように国花ムクゲは日帝の圧迫下で凄絶な悲しみに遭った花だ。 しかし、死を覚悟してまでも国花を守ろうとした我が民族のムクゲに対する熱い愛情は、日帝の苛酷な試練の中でも折れず屈せずに咲き、その民族魂を花咲かせることができた。

ムクゲを単に観賞用の花の一つと見ないで民族の花に昇華させた我々の先人たちの真っ直ぐな志操には、現在、国花としてのムクゲさえ忘却して暮らす現代人が恥かしくなる。 ムクゲは民族の歴史と共に民族の脈絡の中に息づいてきた花であり、国花ムクゲとして三千里の津々浦々に永遠に花咲かせなければならない。

 
 
 

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