第二章 高校一年、冬(冬休み前後)
(4)クリスマスキス
「こんにちはー!」
「おじゃまするわねー。」
和美の元気な声と、落ち着いた感じの和代の声が、お昼過ぎの健一の家に響いた。
「いらっしゃい。ずいぶん早いのね。まだ夜には時間あるけど。」
「いいのよ。今年はこの子が作るんだから、これくらいでちょうどいい感じ。どうせ失敗繰り返すんだし。」
「あっ。ヒドイ言い方。そんなに娘の腕前が信用できないの?」
「そんなことないわ。信用してなきゃ任せたりするもんですか。」
「和美ちゃんの腕前はなかなかのものだと思うわよ。和代もそのうち料理の腕は追い越されちゃうかもね。」
「あー、康子こそひどい言い方ね。高一の娘にまだまだ負けてなんかいられませんよ。」
そんな会話をしながら、三人は和代と和美が買ってきた食材を台所で仕分けしていた。ときおり、家中に響き渡るような三人の笑い声。しばらく自分の部屋で読書に勤しんでいた健一だったが、気が散って読書どころではなくなったからか、それとも和美のことが気になってしまったからか、部屋を出て台所に向かった。
「あっ、健ちゃん。お邪魔してマース。」
台所に入ってきた健一の姿を見ると、和美は笑顔でそう話し掛けた。
「お邪魔してマースって、いつも勝手にお邪魔している台所なんだから好きに使えばいいよ。あっ母さん、俺もコーヒー入れて。」
三人はひとしきり材料の整理を済ませて作業にかかる前にコーヒーを飲みながら一休みしていた。
健一は母親に自分の分のコーヒーを入れてもらい、すすり飲みながら和美に質問した。
「ところで今日のご馳走は何なの?」
「へっへー。中身はヒ・ミ・ツ。あたしの創作料理なんだ。」
「げっ。なんか大変なもの、食わされるんじゃあないだろうな。」
「大丈夫よ。創作っていっても、おばさんのレシピを参考に作ってあるから。」
「母さんのオリジナルがどう変化していくのか、ある意味楽しみだね。」
「どういう意味よ。」
「そういう意味だよ。」
二人の母親は、娘と息子のそんなやり取りをじっと黙って、しかし微笑みながら楽しそうに眺めていた。
「さて、じゃああとは和美、お願いね。」
「あたしたちは居間でゆっくりとくつろいでいるから。」
和代と康子はそう二人に言って、台所から去ろうとしていた。
「エーっ。お母さんたち、一緒に作ってくれるんじゃあなかったの?」
和美は驚いて二人に問いただした。
「あたしたちは、今日は何もしませんよ。作り方は和美が一番分かっているんだし、大丈夫よ。」
「それにお手伝いが必要なら、ほら。そこに頼りになる若い男が一人いるでしょ。」
母親二人にそう言われて、和美は横でコーヒーをすすっている健一のほうを見やった。健一もそんなやり取りを横で聞いていて、あっけに取られた顔をしていた。
「うそ……。」
「マジかよ。」
母親たちは沈黙の続く二人を残したまま、さっさと居間の方へと消えていったのだった。
数十分後。台所はさながら戦場と化していた。飛び交う怒号と罵声。
「何やってんのよ、健ちゃん。それ違うー!」
「エーっ、どれだよ。分からねーよ。ちゃんと指示しろよ。」
「さっきちゃんと言ったでしょ。ジャガイモはアルミホイルに包んでからお湯に漬けるの。」
「聞いてねえーよ、そんなこと。」
「言ったもん、ちゃんと! もう、ぜんぜん役に立たないんだからぁ。」
「うるせー。俺だって好き好んで手伝ってるんじゃあないんだよ。」
あまりに大声なので、居間に座り込んで久々に二人きりでお喋りを楽しんでいた和代と康子の二人にも、ハッキリと聞こえてきていた。子供たちのやり取りを微笑ましく思う二人。と同時に、少し心配にもなっていた。
「ねえ康子。大丈夫かしら、あの子達。」
「心配だけど。今日はとにかく最後まで二人にさせてみましょ。大丈夫よ、ちゃんとやり遂げるわ。」
「そうだといいんだけど。ねえ、和美って、ここに来たとき健ちゃんとはいつもあんな調子なの?」
「一時期はねえ。でも最近はそうでも無くなってきたわよ。すごく落ち着いた感じになってきたし。」
「そう。高校生にもなって、うるさいだけの子だったらちょっと心配だったんだけど。」
「うるさくやりあっていてもさあ。仲が良いほどケンカするって昔からよく言うし。たまには今日みたいな感じでもいいんじゃないの?」
「そうね。それにしても最近落ち着いた感じになってきたって、あなた言ったわよね。あたし最近感じていたんだけど、あの子達、もしかして………。」
「でしょ。実は私も最近そう思っていたところ。」
そう言って和代と康子は目を合わせて微笑みあい、そして相変わらず大騒動を起こしている台所のほうを見やったのだった。
「もう、健ちゃんたら、自分で食べるものくらい、作ったことないの?」
「あるよ。当たり前だろ。目玉焼き作ってソーセージ炒めて、食パンに挟んで……。」
「そんなの、料理のうちに入らないじゃない。健ちゃん、台所仕事はぜんぜん駄目ねー。」
「うるせー。そんな豪勢なもの作れなくたって、人間死にはしないんだよ。」
「強がり言って。ああーっ。健ちゃん鍋、吹きこぼれる! 早く火、弱くして。」
「おわっち!」
和美指揮のもと、健一の情けないくらいに頼りにならないサポートの結果、どうにかこうにか父親二人が帰ってくるまでに料理は完成。無事にクリスマスパーティーの乾杯が出来たのだった。早速アルコールが入って盛り上がる父親二人。和美の作った料理を舌鼓し、とても美味しいと誉める母親二人。苦労はしたものの何とか無事に作り上げ、ちょっと自慢げな和美。肉体労働とも言える手伝いをしたせいか、相当空腹だったらしく、黙りこくったまま無心に料理を平らげる健一。
賑やかな宴がしばらく続いた後、空いた皿を片付けようとする和美を和代が制した。
「いいわよ和美。あとはお母さん達がやっておくから。」
「えっ。でも、片付けまでちゃんとするよ。」
「いいのよ和美ちゃん。今日はお料理ご苦労様でした。美味しいもの食べさせてもらったんだから、後の片付けはあたし達からのお礼みたいなものよ。」
「そうそう。後は自分たちでゆっくり過ごしなさい。ここはお父さん達が盛り上がっちゃっていてうるさいから、健ちゃんの部屋にでも行ってきたら。」
そう言われ、和美はすぐ隣で満腹になったお腹を抱えながら、横になっている健一のほうを見た。
その会話を聞いていた健一が和美に言った。
「それじゃあ、部屋でゆっくりするか。」
「うん、そうだね。じゃあ、お母さん、おばさん、あとごめんなさい。よろしくお願い。」
そう言って、和美は健一と二人、二階へと上がっていった。そして、そんな二人の後姿をじっと見詰め、顔を見合わせて声に出さずに微笑む和代と康子。
部屋に入るとすぐベッドに横たわる健一。
「ああー。食った食ったぁー。これだけ食べたのも久しぶりだなぁ。」
「よっく食べてたねえ、健ちゃん。あんまり食べっぷりがいいから、お腹壊さないか心配しちゃった。」
「大丈夫、胃腸は強いほうだから。」
「ところで、ねえ。正直に答えて欲しいんだけど。料理の感想、どうだった?」
「正直に答えていいのか?」
「うん、正直に。」
「正直に言うと、………すっげー美味かった。」
「……ホント?」
「当たり前だろ? おかげでこんなに胃袋大きくなっちゃったんじゃないか。」
「ありがとう。嬉しい!」
和美は両親や健一の両親に誉められたことも嬉しく思っていたが、それ以上にこの健一の誉め言葉には素直に感動していた。
その後しばらくの間、健一はベッドに横になりながら、そして和美はそのベッドに腰掛け、首を斜め後ろに向け健一を見やりながら話していた。
やがて和美は持ってきたカバンの中に手をやり、健一に分からないように何やら小さい包みを取り出した。それを胸元に抱きながら健一に話し掛けた。
「ねえ、健ちゃん。健ちゃんは今もずっと、小説家になりたいと思ってる?」
「なんだよ急に。うん、そうだなあ。もちろん小説家になりたいっていう夢は持ち続けているけれど。夢と現実の世界の違いは大きすぎるからなあ。」
「でも諦めたわけじゃあないんでしょ?」
「そりゃそうさ。だってまだ何にもやっちゃあいないわけだし。まず今はどんどんといろんな作品を読んで、自分なりに吸収して、それで自分の思い描くことを表現できるように勉強していかなきゃね。」
「そう、じゃあ自分のことを表現するときには、モノを書くペンが必要だよね。あの、もし良かったら、そのとき、これを使ってみて。」
和美はそう言ってベッドの上に体全体を上げて布団の上にちょこんと座り、健一のほうを向いて、先ほどカバンから取り出した小さな包みを差し出した。健一はムクッと起き上がり、真面目な顔をして、それを和美から受け取った。
「クリスマス、の、プレゼント。」
和美は小さくなった声で、健一に囁いた。
「うわぁー。ありがとう。開けてもいいか?」
和美は首を縦に振ると、健一はリボンを外して包装紙を開いた。透明な蓋の中には、黒く光る真新しい万年筆が入っていた。蓋を開け、万年筆を手に取る健一。
「すげぇー。俺、万年筆なんて安っぽい学校の購買で売っているヤツしか持っていなかったから。こんなの初めて手にするよ。和美、ありがとう。大事に使うよ。」
予想以上に健一が感激している様子を見て、和美はとても嬉しくなった。
「これからは小説家もワープロとか、パソコンとかでモノを書く時代になってくるんだろうけど。でもやっぱり基本は自分の手で書くことなのかなあって思って。なあーんて、何にも分かってないあたしが偉そうなこと言えないんだけど。」
「そんなことないよ。和美の言う通り。やっぱりモノ書きの基本は自分の手で書くことだと思うよ。とにかく、大事にするから。」
キャップを開け閉めしたり、眺めたりしながら目を輝かせている健一を見つめながら、和美はこれを選んで良かったぁと思い、ホッとしていた。ここ数日、街の文具専門店に何度も足を運び、どれにしようか迷いに迷った挙句、選んだ一品だった。和美の小遣いからすれば相当な出費ではあったが、健一のためと、思い切って奮発したのだった。そんな事情までも健一に伝わってしまったのか、そっと健一が和美に質問した。
「和美、これって、相当高かったんじゃあなかったの? 嬉しいけど、逆に悪いような……。」
「ううん、そんなことないよ。本当に買える範囲じゃなきゃ買わなかったし。それにこういうのって、一本良い物を持っていれば、長持ちして使えるでしょ。」
「うん、確かに。じゃあ、細かいことはあんまり聞かずに有難く遣わせてもらうよ。でも、和美のプレゼントに比べて、俺のほうは……。」
「えっ? なあに?」
最後のほうが聞き取れなかったので、和美は聞き直した。
「俺のほうは、あんまりいい物とは言えないかも。」
そう言って、健一は勉強机の引き出しを開け、包みに入った本らしきものを和美に差し出した。
「えっ、もしかして、あたしに?」
「うん、ぜひ受け取って。喜んでもらえればいいんだけど。あんまり自信ないや。」
「ええー、なあにぃ?」
そういいながら受け取った包みを楽しそうに広げる和美。中から出てきたのは一冊の本。詩人ハイネの詩集だった。詩集といっても、そのあたりの本屋で簡単に手に入る文庫本のようなものではなく、ハードカバーで表紙は装飾が施され、詩集ならぬ刺繍で彩られていた。
「すごい。あたし、詩集って初めて手にするよ。しかもこんな綺麗な飾りの付いた本なんていうのも初めて。」
和美も結構感動しているようで、健一もまずは一安心だった。健一は、和美へのプレゼントを考える中で、お気に入りの本か詩集などを贈ろうと思い付いたのだが、ありきたりの本を贈ってもインパクトに欠けると考え、いつも入り浸りしている顔馴染の本屋の店主と相談し、綺麗な刺繍の装飾が施された特別本にすることを決め、わざわざ東京の大手出版元から取り寄せたのだった。
やがて、ベッドに腰掛け、パラパラとページをめくる和美。やがて途中のページに、ひとつ付箋がついている個所を発見した。
「あれっ? 何だろう?」
「そのページに書かれている詩が、俺がハイネの中で一番気に入っている作品なんだ。」
和美は気になってそのページを開けた。
「『告白』。………」
その誌のタイトルを声にした和美は、少しドキッとした。
「読んでみて。」
健一がそう言うと、和美は静かに詩を読み上げていった。ゆっくりと、詩の中に描かれた世界を思い描くように。和美はベッドの上で正坐を崩したようなM字の格好に足を置いて座っていたが、健一は和美が読み進めていく間に、そっと和美の傍に来てベッドの脇に腰掛けた。
やがて詩を読み終えた和美。その後も、しばらく開いたページから目を離そうとしなかった。
「すごく、素敵な詩だね。」
和美がなおも俯きながら、ひと言だけ感想を口にした。
「和美。………俺、和美のことが好きだ。」
「…………えっ?」
健一の言葉が、どこか遠くで聞こえたような気がした。しばらく詩の世界の中に入り込んでいた和美は、一瞬間をおいた後、顔を上げながら小さく答えた。
健一は和美の左斜め前方で、和美の顔をじっと見つめていた。
「えっ? 健ちゃん、今……。」
「和美のことが好きだ。」
今度は和美の耳にもハッキリと聞こえた。健一の唇が、好きだという動きをするのもハッキリと見た。
「健ちゃん。…………」
ただ、それしか言えなかった。告白というタイトルに付箋を付けていたのを見た段階から、ドキッとするものがあったが、今この場で、まさに健一から告白を受けることなど、和美にとっては予想外のことであった。だが健一はそんな和美の気持ちはお構いなしに、さらに言葉を続けた。
「和美が俺のこと、どう思っているかっていうこともすごく気になったり、言い出す勇気がなかったりして、今までつい告白できずにいたんだ。本当はその本を渡すって決めた時も、そこに付箋を付けたときも、きちんと気持ちを伝えるかどうかは、まだ迷っていた。でも、こうして和美と二人っきりになって、和美のこと見つめていたら、もう黙ってなんか居られないって思ったんだ。ここでハッキリ言わなくちゃって。だから……。」
「いい。もう。もう全部言わなくってもいい。」
健一の言葉を和美は途中で遮った。
「和美。」
「いいの、健ちゃん。健ちゃんだけじゃないよ。あたしだって、言い出す勇気がなかった。健ちゃんがあたしのこと、どう思っているかがすごく気になった。そうしているうちに、健ちゃんのほうから気持ちを伝えてきてくれた。すごく嬉しい。ホント、涙が出ちゃう。あたしもね。健ちゃんに先越されちゃったけど、言っちゃうね。あたし、健ちゃんのこと、好き。ううん、大好き。いっぱいいっぱい好きだもん。」
和美はそう気持ちを健一に伝えると、涙が頬を伝って流れた。健一が黙って指を和美の頬にやり、一筋の涙をそっと拭ってあげた。
「嬉しいな、和美。和美も俺のこと、同じように思ってくれているって分かって。」
「健ちゃん。」
「でも和美。ばかだなあ。何でこんな嬉しい気持ちで一杯なのに涙なんて流すんだよ。」
「だってぇ、だってぇ。嬉し過ぎるんだもん。嬉し涙なんだもん。」
そういうと、また和美の目から、きれいな涙が一筋こぼれて落ちた。健一はまた指で拭ってあげた。
「和美。」
「健ちゃん。」
二人は一瞬の沈黙の後、互いに体をそっと寄せ合い、腕を回して抱きしめ合った。そのままの姿勢でしばらく動こうとしなかった。健一は和美の柔らかさを感じ、和美は健一の大きさを全身で感じ取っていた。
健一が抱き合った姿勢のまま、ようやく口を開いた。
「和美。」
「ん。」
「今までいろいろあったけど、ケンカも一杯してきたけれど、やっぱり和美が俺には一番大事なんだ。これからもよろしくな。」
「それはこっちのセリフだよぅ。健ちゃん、これからもヨロシクネ。」
そういうと、二人は少し体を離した。しばらく顔を見詰め合う二人。やがて互いの意識が通じ、和美はそっと目を伏せる。意を決したように、健一の唇が和美の唇に近づいて行く。重なり合う唇と唇、と、なる瞬間。またしても二人にとっての邪魔者の声が部屋のすぐ外からこだましてきた。
「健一ぃ−。和美ちゃーん。ケーキ切ったから降りておいでぇー!」
一瞬のうちに現実の世界に引き戻される二人。抱きしめ合っていた腕をさっと離す二人。
「分かったから。今行くよー。」
大きな声でそう叫ぶ健一。
康子は部屋の中までは入ってくる様子はなく、そのまますぐに階段を降りていった。
ドアのほうに向けていた顔を再び和美に向ける健一。和美は少し照れたような顔つきで俯いていた。健一も、ひとまず下へ行くか、と思い、
「ケーキ、食べに行こっか。」
と、和美に尋ねた。
「うん。」
とだけ答え、座っていたベッドの上から降りようとした。
健一は和美からプレゼントされた万年筆を大事そうに元の入っていたケースに戻し、和美は詩集をカバンの中に仕舞い込んでいた。
「それにしてもお袋。相変わらずのタイミングの良さだな。覗いてたんじゃあないか?」
「まさかぁ。でもさあ、今はあの時とは違うから、変に気まずくなったりしないね。」
「あの時と違う?」
「うん。だってあの夏の頃はあたしたち、まだ気持ちがハッキリしていなかった。あっ、少なくともあたしは、ね。健ちゃんはどうだったかわからないけれど。」
「いや、確かに俺もあの頃はまだ気持ちがスッキリしていなかったよ。もちろん、和美を大事にしてあげたいっていう思いはあったけど。」
「うれしいな、そんなふうに思っていてくれて。でね、今と違うのは、そんな頃とは気持ちがぜんぜん違うっていうこと。」
「お互い、気持ちを伝え合えたし。気まずさは無いってことか。確かにそうだな。」
「それにね、通じ合える気持ちがあれば、いつだってできるもん。そのぅ……キスなんかは。」
和美はそう言って顔を赤くした。健一は和美のそんな発言に驚きもしたが、優しく微笑みかけ、
「そのいつだって、って言うのは、もしかしたら今、この瞬間のことかもよ。」
そう言うと、和美に近寄り、そっと和美を抱きしめた。和美も健一の抱擁を自然と受け入れ、自らの腕も健一の背中に回していった。しばらく抱きしめあった後、健一は和美の背中に回していた腕を離し、両手の掌で和美の顔をそっと上に向けた。目を閉じる和美。近づく唇と唇は、今度こそ、しっかりと結びついたのだった。それはファーストキスと呼ぶに相応しい、ほんの軽いキスだったが、二人にとっては決して忘れられぬ大切な思い出のキスになった。キスを終え、和美は再び健一の腕の中で抱かれた。和美の背中と頭の後ろにそれぞれ腕を回す健一。やがて和美のほうから頭を離した。
「じゃあ、ケーキ。行こっか。」
「そうだな。」
そう答えると、健一は部屋の扉を開けた。和美と手を握り締めあったままで。
階段を降りるとき、和美はおどけた様に、そしていつものように健一に話し掛けた。
「わーい、楽しみだぁ。どんなケーキなんだろ?」
「おいおい、そういえば和美、ダイエットしてるんじゃあなかったのか?」
「いいの、今日のダイエットはお休みなの。」
「何だよ、それ。いい加減なダイエットなんだなぁ。そんなんじゃあ効果現れないぞ。」
「ふーん、そんなことないもんねーだ。」
そんな会話をしつつ階段を降りるときも、二人の手は離されようとはしなかったのだった。