進化論と創造論専用会議室過去ログ
801→850
2004年11月18日(木)〜2004年12月2日(木)
#835〜#850 投稿者の要望により削除
Re史的イエスについての補足 投稿者:シン 投稿日:12月 2日(木)02時16分2秒 #834
流木さん こんばんは
よく意味がわかりました。観客のいないところをどう書いていたのか、とかそういうことですね。人が見ていない状況だと考えられる出来事も結構詳しく書いてあるような箇所も多い気がします。
一体だれがそれを見て記録を残したのだ?とか私もふと考えたこともあった気がします。これからの一つの課題にしてみます。捕捉ありがとうございました。
史的イエスについての補足 投稿者:流木 投稿日:12月 2日(木)00時09分36秒 #383
*シンさん(Re安息日は人のために 投稿者:シン 投稿日:12月 1日(水)08時49分0秒)
こんにちは。
先の当方の投稿に補足しておきたいのですが、「史的イエス」云々は、イエスという人物の実在性を問題にしているわけではありません。イエスという人物は恐らくは実在したのでしょう。ただ、新約聖書に描かれた数々のイエスの言行は、その場にいたものが状況を克明に描写したとかではなく、いわば想定問答のようなものだということなのです。
姦淫の罪を犯した女を連れてこられて、「律法では石打と決まっているが、あなたはどうするのか」と迫られたイエスは地面に何やら図を描いたまま返事をしませんが、やがて立ちあがると、「では、あなた方の中で罪を犯したことのない者から石を投げなさい」と答えるわけです。結局、群集は顔を見合わせ、1人去り2人去りして、イエスとその女だけがその場に残される。…などは、実話とはいえないのです。むろん、実話でなければいけないわけではありませんし、作り話・物語であっても、無価値なわけではありません(もしそうなら、小説や映画で感動するのは無理でしょうし)。
しかし、イエスが本当に何をいい、どんなことをしたのかを読み取るのは、不可能とはいわないまでも、かなりの困難をともなうようです。聖書学の研究者はそうした困難に挑戦しているわけであり、その成果に注目したいと思っています。
シンさんへ 投稿者:えめ 投稿日:12月 1日(水)22時46分52秒 #832
突然失礼します。Re個人的経験 投稿者:シン 投稿日:11月30日(火)21時00分4秒 に書かれていたオウムへの分析
>1 エリート心がくすぐられる。
>2 社会が自分を認めてくれない。
に同意します。
自分はオウムの幹部だけでなく、一般の信者にも言える事ではないかと考え、その原因を「肥大しすぎた自負心」と見当づけています。社会に出る前に社会の事を知っているかのように勘違いする。例えば大人である教師に対して対等、又は優越感を持って接する。まあ、本来ならそんな事は誰にでもあることなんですが、当然実際社会に出た時にギャップを感じる訳で、普通は「俺ァまだひょっこだぁ」で済むんだけれど。膨れ上がった自負心と現実のギャップを社会の方に埋めさせようとした。
プチ又は疑似社会に所属こから実社会を低く見る事によって己の自負心を納めようしている(進行形)のではないのですか。これはオウムのみならず、今、そこかしこにある現象なのではないっすか。
もう一つ、現代にあるのは「囲い込み」やと思います。
社会が豊かになったおかげでそこそこの年収さえあれば我が子の1人や二人くらいは喰わしていけるようになった。喰わすだけじゃなく色々なモンを与えられる。
又、社会も人同士の煩わしいコミニュケーションを必要としない方に発達している。
そうやって社会や人との接触や、調整能力を持たないままヌクヌクと年月を過ごした「奇妙な子供」は、親が老齢化するなど、廻りがにっちもさっちもいかなくなって初めて表に出てくる。重傷の社会不適格者や時には「犯罪者」として
これから暫くこの手の問題が続くんじゃないですかね。
上二つの問題は現代日本のビョーリの様な気がしますわ
どちらも根っこが一緒じゃないかな。うーん
これは個人的と言うより手前勝手な推理なんだけど
”戦争に負けて以前の価値観が否定されたが、それに変わり得る価値観を手に入れられなかった事”
に有る気がします。
別に戦前戦中の価値観を復活させよとは言ってませんよ、念の為
長くなりそうなのでこの辺で
では
Re安息日は人のために 投稿者:シン 投稿日:12月 1日(水)08時49分0秒 #831
流木さん おはようございます(投稿者:流木 投稿日:11月27日(土)22時59分41秒 )
>福音書が歴史書ではなく宣教の書であって、福音書をいくら読んでみてもそこから「史的イエス」の姿は浮かび上がってこないと判っていても、上記のような言葉に接すると、非キリスト者であっても共感を覚えずにはいられません。
あなたが福音書の教えの部分に関して共感するものがある事は知っています。むしろ宗教家に比べて、とても話がしやすいです。
そして、史的イエスが浮かび上がってこない、というのは客観的にそうなのかもしれません。イエスの史的資料は少なすぎます。しかし旧約聖書を読んで検証してみた私としてはイエスという人を認めざるをえない、というところへたどり着いてしまいました。
もちろんこれも押し付ける気はありません。普段からそういった解き明かしはしているのですが、そのあたりのことはおそらく掲示板で説明を試みるのは無理っぽいです。なのでこの話はこれで終りです。仮にイエスという人物が「後付け」であったとしても、新旧約聖書はものすごい書物だな、と思っています。
>目的と手段との関係がいつの間にか転倒し、手段が自己目的化してしまうことは、そう珍しいことではありません。「偽善」というのも、そのようなところに由来するのではないでしょうか?
私がしたいことは正にこのとおりのことです。形式とその中身は中身が「主」であって形式が「従」であるべきです。殊に聖書に関してはそうあるべきです。
イエス(が、いたとしたら)はそれを徹底的に解き明かし、大胆に語りました。私もそれを自分の出来る範囲でしたい、と思っています。
Re個人的経験 投稿者:シン 投稿日:11月30日(火)21時00分4秒 #830
Kosukeさん こんばんは
こちらの頼みを聞いてくれてありがとうございました。「さほど」酷い目には会っていないと言っているものの私にはとても嫌な目に会ったように見えました。自分も結構宗教によって嫌な目に会ってきた、とか思ってましたが甘ちゃんでしたね。
私だったらそこまでいってたらきっと暴力沙汰になっていましたね。更にそれで家族にサタン呼ばわりされたりしたと思います。Kosukeさんは強いなあ、と思いました。この場合、暴れる人より耐える人の方が強いと思います。
ただ私はあまり統一教会のこと知りません。そのころ生まれてませんし。色々、というか基本的なところだけでも教えてほしいのですが。検索してみましたが、よくわかりませんでした。本を買うほど知りたいわけでもないし、Kosukeさんぐらいの年代の人が持ってる一般常識ぐらいでいいんですが。もし良かったらちょっとだけでも、原理運動とか教えて下さい。
学会の方は大体わかります。また、Kosukeさんが揉め事を避けるため団体名称をあいまいにしているところもわかります(多分)。
ただ、どんなカルトでも何か惹きつけるものがあると思います。私はオウムの元エリートたちについては他の人とのやりとりでこのように分析をしました(当てずっぽうのテキトーな分析ですよ)。
「中略」
>>あなたの言うオウムの人たちはエリート心がくすぐられてやっていたのではないでしょうか。もうひとつは勉強が出来るだけじゃ人は認めてくれない、という今の社会にある、エリート故の弱さに付け込んで彼らを利用した、と考えることもできます。
>私はこのように書きましたが少々説明不足だったかもしれません。
>もう一度私の見解を提示させていただきます。
>1 エリート心がくすぐられる。
>2 社会が自分を認めてくれない。
>この二つのどちらかではないか、と書きましたが、私はその両方かな、と思っています。
「エリート心がくすぐられる」というのは、テレビゲームやペーパーテストのように良い点をとればその(オウムの)世界で出世が出来て、人に認められたい、偉い人と思われ崇められたい、という欲求を宗教的努力で手に入れられる、ということです。
>特に私のような若い世代はゲームやテストの点取りは得意ですから、それで偉くなれるのだとしたら相当魅力的です。これがあなたの疑問の答えに少しは、なっているでしょうか。
>また、2の「社会が自分を認めてくれない」というのもそこには同時に働いているとも思っています。ゲームやテストの点取りが上手いことと世渡りが上手、というのは違います。彼らがエリートはエリートでも、出世欲とか、なしでオウムに入っていた場合、きっと誰にも必要とされていない、という「さみしさ」を抱えていた人たちが多かったのではないか、と予想しています。
>たとえば恋人や友達や家族が「自分を必要としてくれている!」と思っている人が、あの麻原のような男から「あなたが必要だ、私のため働いてくれ」と言われても「バカ言うな、俺は家族のためには働くがお前のためには働くか!」と言うと思います。
>人は最も魅力的だと思える人、または守ってあげなければいけない、と思う人(子供や恋人)の必要に答えて生きるのだと思います。彼らを必要としてくれる人がいなかったから、麻原の必要に答えたのではないか、と私は分析してみました。
>私の場合「主」になりますが、それが人なのか神なのかよく吟味してきたつもりです。私はイエスは神だと結論づけました。少なくとも他の宗教の神よりは「神」だ、と思っています。その理解を押し付けるつもりはありませんのでここは聞き流してください。
>私は「主」の必要に答えたい、と思うと同時に隣人の必要に自分の信仰の範囲で答えたい、と思っています。そう示されたからです。ただ、「主や隣人のために死んでもいい!」とかはまだ無理そうですね。「ここまで」
悪いところはすぐ調べられますが、よいところは調べるのが難しいです。一体何が魅力で入信したのでしょう。少しあつかましい質問ですがKosukeさんは、そんなものに頼るようになったご家族の心理分析は出来ますか?これこれなことがあったからそこに入ってしまったんだと思う、というのが宗教に入った人には大体ありますよね。
これまた
>もし良かったら、差し支えない程度にその個人的経験を教えてくれませんか?だけど嫌なことを思い出すようでしたらやめてください。
でお願いします。
Kosukeさんは「やるせなさ」と「あきれている」という感情を持った、と書いておられましたが、私は読みながら「怒り」と「憤り」がこみ上げてきました。
今回のレスはとても参考になりました。別にこれでこの話題は終りでも構いません。が、もし、何か答えてくれることがありましたらよろしくお願いします。
シンさんへ 投稿者:PEPE 投稿日:11月29日(月)23時36分24秒 #829
お返事ありがとうございます。
だいぶお元気そうなので安心いたしました。とりこし苦労でしたね。
>もし、私もプレッシャーをかける側に回っているように見えたら教えてください。
了解いたしました。(←そんなこと言える立場ではありませんが‥)
丁寧なお返事に対して乱文でもうしわけございません。仕事が立て込んでまして、また
ゆっくりお話できる時間があるときゆっくりと小言につきあって下さい。
個人的経験 投稿者:Kosuke 投稿日:11月29日(月)18時26分20秒 #828
>もし良かったら、差し支えない程度にその個人的経験を教えてくれませんか?だけど嫌なことを思い出すようでしたらやめてください。
そうですね、あの教団には個人的に「さほど」酷い目にあったわけではないので、嫌なことを思い出すというほどのものではありません。いわゆる霊感商法で世間を騒がせたので、統一教会の実態は皆さん良くご存知だと思います。それ以外のことで、あの宗教団体について私がお話できることはあまりありません。
私の個人的な経験とは、一言で言えば「カルトに嵌った人間に愛想を尽かした」と言えば良いんでしょうか。その当事者がたまたま自分の肉親だったのです。そのような肉親に対して愛想を尽かす「やるせなさ」のようなものも同時に感じているわけです。何故彼らは教祖たちに騙されていることに気が付かないのか?という「あきれている」と言っても良い感情ですね。
ただ私の肉親に限って言えば、カルトに嵌っているとはいえ、世間的な意味での悲惨な状況ではありません。家族を持ち、それなりにまっとうな社会生活を営んでいます。財産を巻き上げられたり、健康を害したり、社会性を失っているという事はありません。ですから、今は放っておいている状態です。
始まりはもう四十年ちかく前のことになります。
その頃あの宗教団体は、学生をターゲット(今もそうなんでしょうけど、もっと対象を広げているはずです)にして、日本での信者を増やし始めていました。大きな社会問題になった「原理運動」というやつです。で、私の兄弟もそれに引っかかったというわけです。
未成年者を含む青年に家族を捨てさせ、独特の集団生活に引き入れるあの宗教団体のやり方は、信者の家族(親たち)との間に強い軋轢を生じていました。家族は信仰の妨げになるサタンだ、というようなこともはっきり主張していたのを記憶しています。そのために、父と兄弟の間では、抜けろ、抜けないで、争いがたびたび引き起こされていました。あまり家にはいたくないと感じたこともありました。
そのような出来事は、私に対する父の接し方にも影響を与え、あのような怪しげな宗教に息子まで取られては親としてはたまらないと考えたのでしょう、私を当時彼が入信していた仏教系の宗教に入信させようとしたのです。
私にしてみれば、そっちはそっちでとても信じるに足るような宗教ではないとの認識でしたので、非常に反発しました。しかしとうとうある日、学校を休まされて無理やり総本山(と言えばお解かりでしょうか、「折伏」という強引な勧誘方法を取っている(いた?)宗教団体です)に連れて行かれてしまいました。
ちょうど思春期の不安定な心理状態にあった私にとって、そのような経験はなかなかつらいものがありました。(しかし今思えば、年少のうちにあのようなカルトに対する免疫ができたという意味では、悪いことではなかったと思っています)
話が逸れましたが、統一教会について補足すると、これは私も身近に見ていたので詳しく知っているのですが、日本で活動を始めた最初の頃は、信者の家族とのトラブルはありましたが、一般人を対象とした組織的かつ詐欺的商法のような、あからさまな反社会的悪事はまだ行われていなかった、と記憶しております。当初はそれなりに宗教的な純粋さを持っていたのではないでしょうか、正邪は別として。
それだけに、ある頃からあのような恥知らずなことを始めたのを知ったときは、より一層やるせなさが強くなりました。一体何をやっているのか、と。教団の上部は「末端の信者が勝手にやっていることだ」などと言い逃れをしているわけです。組織からは騙され、自分たちは天国を成就するためと言い訳をして世間を騙すという、二重の意味で愚かなことをやっているわけです、彼らは。
兄弟に頼まれ、都内の「なんとかセンター」に出向き、怪しげなビデオを見せられたこともありましたっけ。霊能者とか称する「セールスウーマン」が出てきて大理石でできた壷をしきりに勧めるのです。工場で大量生産されているビデオを見せておきながら、「教祖様の不思議な力が込められた壷だ」などと言うので、その手法と根拠は?と問い質したら、「あなたには友達が居ないでしょう!」などと怒り出したのは滑稽でした。
これも、カルト(というよりも宗教を利用したキャッチセールスですな(笑))がどんなふうに勧誘するかを身をもって知ることができたのは良い経験でした。肉親が関わっているという意味で大変残念な出来事ではありましたが。
ということで、あの教団に限らず宗教団体に対してはほとほと嫌気がさしているわけです。シンさんの今回の出来事と関連するかどうかわかりませんが、個人的な経験を紹介してみました。
Reここにもおります(シンさんへ) 投稿者:シン 投稿日:11月29日(月)07時59分45秒 #827
Kosukeさん おはようございます。
返事が遅れてすみませんでした。基本的に古いレス順に対応してました。
>おそらく韓国に行って(その前からかもしれない)大変な事があったのですね。
>あまり思いつめず、しかしご自分の信じる所に従っていかれる事を期待します。
大変な事、と言うほどのものではないです。韓国では、、、確かに大変なことがあったかもしれません。けれど、それは韓国で攻撃を受けた、とかそういうことではないです。
(正確に表現するなら帰りの飛行機の中で、です。)
>以前私は
>無宗教と無神論 投稿者:Kosuke 投稿日: 9月14日(火)09時34分37秒
>において
>> 宗教とそれにまつわる人間の愚かさにはほとほと愛想を尽かしております
>と書き込みました。
という境地の極みに達した、という感じです。それは韓国に対してだけではなく、世界中に対して、です。私がとりあえず到達した、と思えるポイントは私の神は(いわゆる)宗教をしていることを悲しんでいる、ということでした。これは確かに受けたもの、と言いたいのですが、ただの思い込み、と受け取ってもらってもかまいません。
>「韓国」ということで、ひょっとして私の個人的な経験ともラップするのでは?と想像をめぐらしておりました。教祖が韓国人の、とある宗教団体のことです。
これは統一教会のことですか?韓国についてはクリスチャンが多いのと同時に社会性のない異端を生み出す要素もまた多い、ということを感じてきました。
私に関しては「いわゆる異端」的な(異端的なものに属されているっぽい方に失礼な書き方ですみませんが)宗教と関わってひどい目に会ったことはありません。
もし良かったら、差し支えない程度にその個人的経験を教えてくれませんか?だけど嫌なことを思い出すようでしたらやめてください。
題名の「ここにもおります」とは「隣人が」ここにもおります、という意味ですよね。本当に励まされました。私もあなたにそうありたい、と思っています。ただ、
「愛は寛容であり親切です。礼儀に反することをしません。すべてを耐え忍びます。」
でしゃばらないことが「愛」である時もあります。ご自分のペースで付き合ってください。熱心に対応することや、神を信じなさい!とプレッシャーをかけたりするのが愛だと思う人もいます。が、それは人の愛です(ここでは悪い意味)。
私はすべてに「時」がある、と示されています。
多分、あなたにも私が流木さんに書いたのと同様、私は何もしません。引き続き同じように付き合ってください。
ReReシンさんへ 投稿日:11月19日(金)03時03分29秒 投稿者:シン 投稿日:11月29日(月)00時15分53秒 #826
自分の記事に対し。
>私が書いてきたことは全て私の信じる神の言葉です。もし教会がなるべく正確に(聖書の)神のことばを伝えてきたのなら、あなたのように共感してくれる人がたくさんいただろうな、と思っています。
少し傲慢な感じがするな。
こう、直させてください。
「自分の信仰に正直に歩んだ結果です」というニュアンスでお願いします。
イエスは「からしだね程の信仰」をよく話題にしましたが、逆に大きいものを使って喩えた話はありません。「信仰が立派だ」とほめた人たちはみんな自分をわきまえた人たちでした。
逆に自分の信仰が立派だ、と思っているような人は本当の意味で恵まれてはいないのではないか、と最近よく考えさせられています。
1の信仰しかないのに5の行いをしようとする、またはさせられる、と(宗教的なもの限定です)悪い実を結ぶことが多い、と分析しました。
1の信仰に1の行いをした時本当に恵まれます。最近それを感じて楽になっています。
自分の報告でした。
Reシンさんへ 投稿日:11月19日(金)03時03分29秒 投稿者:シン 投稿日:11月28日(日)00時39分18秒 #825
PEPEさん こんばんは
私が書いてきたことは全て私の信じる神の言葉です。もし教会がなるべく正確に(聖書の)神のことばを伝えてきたのなら、あなたのように共感してくれる人がたくさんいただろうな、と思っています。
>何か思い詰めてらっしゃる様なので心配です、貴方の隣人はほら沢山いますよ。
あなたのこの言葉にすごく励まされました。ありがとうございます。
ただ、これまで神はこのような状況を許してきたのかもしれない、とか思い込んだりしています。ストレスがないと開放の喜びを感じることは出来ません。
ある部分2000年前のイスラエルに似た状況だと思えます。
今、宗教によって世界は変なプレッシャーがかけられているように思えます。それが開放されるべき時なのか、とかよく悩んだり、考えてみたりしています。
大きいことをやるのなら、その前に身の回りなど身近なところで今は試しているところです。
「小さいことに忠実である人は大きいことにも忠実である。」という言葉があります。
自分が大きいことを任されるかどうかは知りませんが、とりあえず自分に関わった人たちだけでも、私と関わることでちょっとでも楽になってほしい、と考えています。その人の人生を大きく変えてやる、とか大それたことは考えていません。それは神がする、というのが聖書の設定です。
もし、私もプレッシャーをかける側に回っているように見えたら教えてください。
安息日は人のために 投稿者:流木 投稿日:11月27日(土)22時59分41秒 #824
「安息日は人のためにつくられました。安息日のために人がつくられたのではありません」と「マルコによる福音書」にはありますね。
福音書が歴史書ではなく宣教の書であって、福音書をいくら読んでみてもそこから「史的イエス」の姿は浮かび上がってこないと判っていても、上記のような言葉に接すると、非キリスト者であっても共感を覚えずにはいられません。
目的と手段との関係がいつの間にか転倒し、手段が自己目的化してしまうことは、そう珍しいことではありません。「偽善」というのも、そのようなところに由来するのではないでしょうか?
Reシンさんへ 投稿者:シン 投稿日:11月27日(土)17時51分41秒 #823
しろうとさん こんにちは
他の掲示板のやり取りで書いたことを転載します。
まず:mari☆彡☆彡さんという方からの質問。
「1」 >シンさんこんにちわ。今日はお休みですか?大体クリスチャンにもよりますが、その所属する協会によって、活動を自粛される曜日があることを知っています。
日曜日には、教会に赴き、一日買い物や一切の仕事をしないとか、さまざまですね?
もう一つ別の人のレムナントの掲示板への投稿の一部
「2」 >それからもうひとつ教えてください。教会の小学生の女の子が、学校行事の老人施設訪問が日曜日だったので、クラスでひとりだけ行かずに礼拝に来ました。牧師先生はとてもほめていましたが、わたしはその子が老人施設へ行ったほうが有意義なんじゃないかと思っています。礼拝は死守しなさいと言われますが、今の時代では日曜日に働く人のおかげで社会が動いているし、日曜日でないとできない用事もあります。わたしは不信心でしょうか?
これに対し私はこのように書きました。
>ある人たちはその日に仕事をしない、とかの決まりを守りますが、私はそれには縛られていません。活動は自粛されるものではなく、自ら自粛する、というものであるべきです。
>その日、誰かの必要に答えなければならない、と思った時、自粛しているものはいつでも解除します。
>「2」の記事についてですが、 その小学生の女の子は大人たちの宗教に洗脳されてしまった、と考えます(内情を知らずに少し過激な言い回しですが)。主のみこころを行っている、とは思えません。
>もし聖書を持っていたら<マタイ12章8節>あたりから読んでみて下さい。私の言ってる意味はしごく当たり前の事だと思います。
>彼女は信仰が強いから日曜を守った、のではなく、弱いから守った、のです。本当のささげものと礼拝をする機会を失ってしまい、なおかつ、迷っている人たち(学校の同級生やその親たち、先生たち)をむしろつまずかせる結果になっている、と考えます。
>ただ、彼女を責める気にはなりません。彼女は強いように見えて本当は弱くて何も知らないからです。私が責めたいのは、それをほめた牧師や大人たちのような偽善者に対してです。
>あなたは不信心ではないと思います。
上記のような偽善者を責めると同時に、休みをないがしろにし、仕事を追いかけ(追われ、ではありません)自分の体と家族の心を傷つけるような働き者を「主」が喜んでいない、というのは言うまでもありません。
あなたにとっては過激ではないでしょうが、この程度のことがキリスト教会の一部の人たちにとっては過激な内容です。アホらしい、と私は思っていますが、問題は結構深刻です。
こんな感じでどうでしょうか?書いてあることがわかりにくかったら指摘してください。
シンさんへ 投稿者:しろうと 投稿日:11月25日(木)17時35分52秒 #822
>気長にお付き合いください。
ぼちぼちでいいですから何かありましたらお話下さいね。
有り難うございました 投稿者:えめ 投稿日:11月25日(木)12時23分4秒 #821
自分のつまらない質問に対して丁寧な答えをしていただき、感謝しております。
今、宗教はそれぞれの転換期にさしかかっている気がします。
(昔から常にそうだったかもしれませんが…)
宗教と言うより、人(ヒト・又は人間)の価値観を転換する時期かもしれません。
それがどう変わるかは解りませんが、現状はある意味非常に危険な状態だとも言えるでしょう。
テクノロジーや経済、民族と言った「社会のスケール」に宗教が付いていけなくなりつつある。(これも又、昔から常にそうだったかもしれませんが、変容の大きさ、早さに於いて昔とは比べ物になりません。ヒト社会は新たなスケールを得つつある、あるいは得てしまったかもしれませんね)
宗教が社会に対し中途半端に契合することなく、人を支え、人々を結び付け続けるには宗教がもつ様々な部分を削ぎ落として、より本質である事が重要になってくる。この世界に住む万人ではなく、この宇宙に存在する・した億人にまで視野を広げ得た時、宗教は自ずと「進化」しているのかもしれません。
偉そうに物をたれてしまいました。現在ローマ法王がイラク戦争の主催をしているアメリカに対し、キリスト教を代表する者として幾度も強い批判を行っている事は存じております。
私の意見は宗教全般に対する物としてお聞き下さいませ。
では
Re(無題) 投稿者:しろうと 投稿者:シン 投稿日:11月25日(木)01時17分27秒 #820
しろうとさん こんばんは
>>私の言うことはキリスト教信者には過激な内容になります。
>>しかし、真実に道を求める人には真理であり、神のみこころである、と確信しています。
>それでしたらぜひお聞かせ下さい。書き込みお待ちしています。
これについてはこれからの記事で明らかにしていくつもりです。
ただ、私が掲示板を利用するようになった動機のひとつに、本を書くための考えの整理というものが大きかったので、この事をきっかけに書き込むのしばらく止めて、そちらの方に集中しようかな、と思っていました。だから書き込みのペースは落とします。
もし私の受けたものが神からなら、いずれそれは「実」によって明らかになります。
各地で話し、実際に行動し、書き、ここでは少しずつ書き込むつもりです。
いずれかの方法が用いられれば良い、と思っていますが。
気長にお付き合いください。
宗教に関する話題は板違いじゃないです 投稿者:管理者・クハ72 投稿日:11月25日(木)00時07分44秒 #819
これはクリスチャンにもよります。同性愛と同一視する人もいますし(こことかこことか)、理解を示す人もいるようです(ページは見つかりませんでした)。
聖書には性同一性障害についての記述はありませんし、そもそも書かれた時代に性同一性障害は知られていなかったのですから僕は聖書からは判断できません。それに体の性別を決めるのは社会的には外性器ですが、生物学的には染色体ですし、それすらXXYという組み合わせの人がいるくらいです。染色体レベルでさえ男女の定義が明確ではないのに性転換を批判するのは無理があるでしょう。
同性愛についても、全て否定、レズビアンのみ容認、性交渉がなければ容認と言う風に分かれているようです。すべて容認という人もいるでしょう(実際ゲイの牧師もいます)。
女と寝るように男と寝るものは、両者共にいとうべきことをしたのであり、必ず死刑に処せられる。彼らの行為は死罪に当たる。(レビ記20章13節)
と律法にはあります。この聖句をどう捉えるかでしょうね。文字通りなら男性同士のセックスのみ禁止ですけど……。
えめさんへ 投稿者:てつお 投稿日:11月24日(水)16時32分34秒 #818
>キリスト教は同性愛を否定しておられる様ですが、当人が「性同一性障害」であった場合も同性への恋愛感情は許されない物なのでしょうか。又、性同一性障害の人間が性転換手術を行いもう一方の性を得て(外見上)婚姻した場合、本人、及び事情を知って一緒になったパートナーは、教義上どのような立場になるのでしょうか。
>更に将来、DNA治療で遺伝上の性まで変換が可能になった場合、当の治療を受けて性転換した者の教義上の立場はどうなるのでしょう。
不真面目と取られるでしょうが、本人は至って真面目に疑問を感じております。
>都合が良ければ御返事をお願いします
管理人様がお答えなさるところ、横レスしてすみません。
私自身、たんなる平信徒でしかないことをまずお断りして、「キリスト教」というより、イエス様ならどう見ておられるか、という視点でお答えしたいと思います。
もし同性愛や性同一性障害でお苦しみの方がおられましたら、偏見や差別、誤解等、常に戦っておられるかと思います。
イエスは、罪人や遊女、病人といった、当時、差別されていた人々に対して、どのように接したのでしょう。イエスは「私が来たのは丈夫な人のためでなく、医者を必要とする病人のためだ」と言いました。むしろ、そういった人々に向けられる、世間の厳しい判断に対して、時に憤りをあらわにし、激しく責めたのではなかったか、と思います。
同性愛や性同一性障害の方を責めるということは、盲人に対して目が見えないことを責めるということと同じです。イエスは、そのような人々にも友となってくださることを覚えます。
問題をどうこうするというより、問題のある人をまず愛し、抱きしめることから、始めるのが、イエスであり、教会の真に目指すべき姿だと私は思います。
シン様 レス 感謝します 投稿者:ゆうき☆ 投稿日:11月24日(水)06時05分34秒 #817
ハイ 素直に わかりましたん
えめさん 初めまして!同性愛についての議論レムナント,キリスト掲示板でも熱い話あったのよ!もし キリスト教書店立ち寄れたなら レムナント誌11月号に皆さんの書き込み印刷されてますから読んでください。あそこは 過去ログ百までだから もう無くなっていると思いますから‥参考になさって下さい。
始めまして、突然なのですが… 投稿者:えめ 投稿日:11月24日(水)00時45分52秒 #816
管理人様へ
あちらの掲示板では幾度か名前を拝見しております。流木さんのホームページでここを知りました。
申し訳ありません。
板違いは十分承知の上で敢えて質問させていただきます。
キリスト教は同性愛を否定しておられる様ですが、当人が「性同一性障害」であった場合も同性への恋愛感情は許されない物なのでしょうか。又、性同一性障害の人間が性転換手術を行いもう一方の性を得て(外見上)婚姻した場合、本人、及び事情を知って一緒になったパートナーは、教義上どのような立場になるのでしょうか。
更に将来、DNA治療で遺伝上の性まで変換が可能になった場合、当の治療を受けて性転換した者の教義上の立場はどうなるのでしょう。
不真面目と取られるでしょうが、本人は至って真面目に疑問を感じております。
都合が良ければ御返事をお願いします
Reシンさんまだ見てますか? 投稿者:シン 投稿日:11月24日(水)00時30分52秒 #815
ゆうき☆さん こんばんは
私の立場からあなたに少しアドバイスさせていただきます。
まず私は教会に行っていない、と書きましたが、やってはいます。
人が一人でいるのは良くありません。
>しかし祈りも献金も見えないところでやれ、と書いてあるのだからそれは信仰を測る基準にはなりません。普段の生活によって信仰の強さは明らかになっていきます。その上で多分、信仰の強い人はやっぱり祈っていると思います。
私はこう書きましたが、
もし熱心に祈る教会があったら、それに見合う行いがあるか見てください。熱心に宗教的に見える祈るをするより子供のケアをする、とかの方が簡単です。
教会を見る基準のひとつに子供が本当に安らぎと訓戒を得ているか、というものがあると思っています。教会を選ぶ参考にしてみてください。
主はこう言われました。
「(子供たちの)邪魔をしないで私のところへ来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」
教会の雰囲気が子供に荷物を押し付けている感じがあるかどうかがポイントです。子供が安らいでいるなら、あなたもそこで安らぐことが出来ます。
あなたが良い仲間、友、兄弟、先生、に会えるように祈っております。
Reシンさんへ 投稿者:シン 投稿日:11月22日(月)22時04分42秒 #814
流木さん (シンさんへ 投稿者:流木 投稿日:11月18日(木)18時43分5秒)
こんばんは
まずあなたの指摘については、その通りとしておきます。が、しかし主題としては別の件になります。使徒パウロは信仰により「義」とされる、と教え、その一方、行いで「義」を得させようとする人たちと一歩も譲歩せず戦いました。
だから私の言う内容は「ガラテヤ人への手紙」になるのでは、と思っています。
教会では祈らないと駄目、とか献金しないと駄目、と言って強制させるわけではないのですが、それをしないと信仰が認められない雰囲気があります。
しかし祈りも献金も見えないところでやれ、と書いてあるのだからそれは信仰を測る基準にはなりません。普段の生活によって信仰の強さは明らかになっていきます。その上で多分、信仰の強い人はやっぱり祈っていると思います。
今は宗教的行いによって「義」を得よう、という雰囲気が蔓延している気がします。みんなそれは間違っている、という知識は持っていますが、その雰囲気によって、当たり前に聖書の「主」がやれ、と言ってることをやっていません。
それは祈ることよりも献金することよりも簡単です。
私が「宗教の霊」と設定したものはそんな雰囲気のことです。宗教的行いで「義」が得られる、と勘違いさせる雰囲気を「サタンの働き」と仮定しました。それはキリスト教以外にはもっと働いていると思いますが、いかがでしょうか。
正しい信仰の行いとは喩えてみると、
「神があなたの重い荷物を全部持ってくれた。だけど少し悪い気がしたから私にも少し持たせてください。という気持ちになって、神様が背負っている荷物を持たせてください、と頼んでその人は自分の気持ちなりに荷物を背負うようになった。」
こんな感じでしょうか。
だけれどオレがこんなに持ってるんだからお前も持て!と他人を強制させるのは(聖書の)神様の本意ではありません。人には持てないから神様ご自身が持つ、というのが聖書の理論ですから。特にこの点について私は思うようになりました。
イエスは「私の荷物は軽い」と言いました。私は重いものを持たせてください、という気持ちにはなってきましたが、まだ気持ちは軽い荷物を持っているような気楽さです。
ある人はものすごく重たい荷物を自ら背負っています。ある人は全然持つことが出来なくて神様に荷物を持ってもらっていることを感謝しているだけです。だけどみんな(聖書的には)救われています。
これが福音です。福音とは人の持っている荷物が物凄く重くて人には背負えない、ということを知り、それを私(神)が持ってあげるよという提示のことです。
信じるだけで救われる、という内容を少しは説明できたでしょうか。
ただ人は天邪鬼ですから、ずーっと持っててあげるよ、とか言われて持ち続けてもらっているとやっぱり悪い気がして、持ちたくなるんですよね(私の場合)。私の信仰の現れがあるとしたらそんな動機から出ています。
あなたは頭の良い方ですから私の伝道は必要ないと思います。私はあなたには何も勧めません。これは、いい意味で受け取ってください。
とりあえず都合の良い聖書箇所ばかり使わせてもらいましたが、もし「じゃあ、ここの箇所はどうなんだ」とかありましたら、ちょっと今は待ってください。もしあれば、少しずつお願いします。
シンさんシンさんシンさん 投稿者:ゆうき☆ 投稿日:11月22日(月)21時56分15秒 #813
ニッコリ微笑んで
まだまだ 足りない
輝きを ちょうだい
★あせらないで あせらないで
人生は長いわ
ライバルやってこい
#812 投稿者の要望により削除
みなさん 投稿者:シン 投稿日:11月22日(月)01時50分50秒 #811
なんか、とにかく、すごく嬉しかったです。
ずっと書き続けるかどうかはわかりませんが、ここに書かれた書き込みには一つ一つレスしたいと思っています。気楽に待っててください。本当にみなさんご心配ありがとうございました。
ただ、私は思いつめてはいません。長年、明らかにするのを我慢していた本音をぶちまけただけです。匿名性の高い掲示板だから、ある意味で出来た事でした。
それを実際にもするつもりでしたから、まずここでそれをさせてもらいました。
そしてそれをすることで(聖書の)神が願う「良い実」と福音の本質が明らかになるのでは、と考えていました。ただ、ここではてつおさんとしかやりとりをしていない、と思って書いていましたから、本当に予想外のことで複雑な心境です。
とりあえず「さようなら」はキリスト教会に対してでしたので、もう掲示板を見るのを止める、とかではありませんでした。確かに気持ち的にはしばらく止めようと思っていましたが。
とりあえず、現実においてこれから動き始めなければいけない、と考えていましたからここで掲示板を休むのがちょうどいい、と思っていました、が、ここもその一つと考え、続ける方がよい、と判断しました。前よりも更にペースは落ちると思いますが、よろしくお付き合いお願いします。
ただ、宗教的に見える馴れ合いには付き合いません。というか、付き合うのにエネルギーをすごく必要とします。
その点については主が「忌まわしいものだ」と繰り返し言った偽善を暴かなければいけないので厳しく裁きます。私が、ではありません。とりあえずは、それをしている人たちが信じている「書」のことば、によってです。ただ、宗教的であることを完全否定するわけではありません。それをする「自由」もまたあります。
私の事を隣人だ、と言ってくれるのなら私はその人たちに特に誠実でありたい、と考えます。
それが私の示された「ささげもの」と「礼拝」の中の一つです。
みなさんの心配していた点については杞憂だったと思っているのですが、それとは別件の心の傷が癒え、なぐさめを受けました。私は幸せ者です。
「悲しむ者は幸いです。その人はなぐさめを受けるからです。」と、あります。
私はなぐさめを受けましたが、みなさんはこのことばについては何か感じるものがあるでしょうか。(別に答えなくてもいいですよ。)
引き続きよろしくお願いします。
お初投稿します。 投稿者:神は愛(旧HNオイちゃん) 投稿日:11月21日(日)07時52分16秒 #810
あのーオイちゃんです。レムナント掲示板見ればわかるんですが 現実に 池袋教会で シンさんと もう少しでお会いするところだった、リアルな経験しております。彼シンさんも現実に生きる実在の好青年ですし、オイちゃんの親戚のマコトも シンさんではあり得ない実在リアルな好青年です。
二人とも 全くの別人です!オイちゃん 証人として断言しましょう。二人への誤解を解く為に 敢えて 真面目モードでお邪魔しました。真実です。
PEPEさんですか、マコトと親しくしてくれて ありがとう。あれは 新婚夫婦としてシンガポールに商社マンとして常駐しております。連れ合いは本当に可愛い嫁さんですょ。
オイちゃんは仮りの世さん掲示板で 片桐マリアに 捕まってしまいました(これはバーチャルの話・笑)誰か 助けに来て下さい。よろしく。
では では
ありがとう 投稿者:てつお 投稿日:11月20日(土)22時23分39秒 #809
皆さん、ありがとう。
正直言って、私は戸惑いました。
そして私だけでなく、いろいろな方からシンさんに声を掛けてほしいと思っていました。
engelwiseさんに、メール出そうと考えました。流木さんにもメール出そうと考えました。
「レムナント」のキリスト教掲示板のリンクをたどって、
ゆうき☆さんやPEPEさんの出入りしている掲示板にも、何度も訪れました。
声をかけて欲しいと書き込もうと思いました。
けれども、シンさんの名誉を思って、躊躇しました。
KousukeさんのいるNATOROMさんの掲示板にも書こうと思いました。
ですが、やはり、シンさんのことを思うと、これらのことはできませんでした。
けれども、何一つ私がしなかったことは、すべて正解だったと思います。
このように私の思う人がすべて動いてくれたからです。
そして「しろうと」さんも。
このように、祈りが通じるものであるなら、ましてシンさんに届かないはずがありません。
シンさんを導いておられる主が、いつでも共にいて下さることと確信します。
ここにもおります(シンさんへ) 投稿者:Kosuke 投稿日:11月19日(金)06時07分38秒 #808
おそらく韓国に行って(その前からかもしれない)大変な事があったのですね。
あまり思いつめず、しかしご自分の信じる所に従っていかれる事を期待します。
以前私は
無宗教と無神論 投稿者:Kosuke 投稿日: 9月14日(火)09時34分37秒
において
> 宗教とそれにまつわる人間の愚かさにはほとほと愛想を尽かしております
と書き込みました。
「韓国」ということで、ひょっとして私の個人的な経験ともラップするのでは?と想像をめぐらしておりました。教祖が韓国人の、とある宗教団体のことです。
ぜんぜん関係の無いことでしたら失礼。
再びシンさんへ 投稿者:ゆうき☆ 投稿日:11月19日(金)03時57分11秒 #807
あ!PEPEさんだ!こんにちは
マツケンサンバの松平健さんは暴れん坊将軍で徳川吉宗を演じていましたが〜
あのシンさんが実は上様将軍様だった;ダーレも気付かない(一部だけ)
つまりイエスさまが天地創造の主なる神だと ダーレも気付かない
似てませんか、シンさんはPEPEさんのお友達のキリスト掲示板で皆さんに慕われた あの マコトさんではないですか?もしやと思いまして 違っていたらゴメンナサイ
だって良く海外に行くし…
うーん 違うかしら
シンさんへ 投稿者:PEPE 投稿日:11月19日(金)03時03分29秒 #806
僕もあなたに惹かれる者です。正直僕はいわゆる宗教家さん(誤解が生じるかも知れませんが)の考えが苦手でしたがシンさんは、とても、とても共感持てました。あなたの言葉は人の心に届く力が有ると思います。シンさんが見てこられた教会の姿、形式だけの崇拝に対する嫌悪から察するに貴方がまっすぐに何かを求めていることが分かります。
何か思い詰めてらっしゃる様なので心配です、貴方の隣人はほら沢山いますよ。
シンさんのファン 投稿者:てつお 投稿日:11月18日(木)22時05分38秒 #805
みなさん、こんにちは。
みんな、シンさんのファンです。
結局、「論」でも「宗教」でもなく、人は人の魅力によって動かされるのでしょう。
イエスの魅力がそうであるように。
(無題) 投稿者:しろうと 投稿日:11月18日(木)21時19分14秒 #804
>私の言うことはキリスト教信者には過激な内容になります。
>しかし、真実に道を求める人には真理であり、神のみこころである、と確信しています。
それでしたらぜひお聞かせ下さい。書き込みお待ちしています。
シンさんまだ見てますか? 投稿者:ゆうき☆ 投稿日:11月18日(木)20時08分31秒 #803
はじめまして ゆうき☆です。たぶん 通過人投稿だと思いますが…わたしは 主を信じるクリスチャンです。しかし,今はまだ どこの教会に属していません。
礼拝クリスマスあたりから 捜して行こうと思っていますが なんか あなたのカキコ見て 萎えてしまう。イエイエ非難してるんではなく 実はわたしも ある伝道者があなたと同じことを本にしてたのを思いだしました。
デビィッド・ウィルカーソン牧師です。沢山 出版邦訳されていますから是非参考にされてはいかがですか?
角笛出版から「角笛を吹き鳴らせ」その他あります。
霊に燃えて五十年前のニューヨーク ハーレム地区で ラッパを鳴らして福音伝道された方で チンピラと霊のナイフで格闘し 街のギャングをキリストに改心させ,麻薬患者の為にティーン・チャレンジと言う団体をこしらえ
* 「十字架と飛びだしナイフ」に詳しい
タイムズ・スクウェア教会の牧師として マンハッタンの治安回復を祈りと行動で 今や ニューヨークは彼の御蔭で安全になったといっても嘘じゃないわ。本物よ!シンさん!ウィルカーソン氏は本物!ハーザー誌にも連載されているから…〆
シンさんへ 投稿者:流木 投稿日:11月18日(木)18時43分5秒 #802
「シンさんへ」と題名をつけましたが、「さようなら」とのことですので、これを読んでいただけるかは判りませんが…。
シンさんのおっしゃる「宗教に強く働いているサタン」というのは、
「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。」(「ヨハネの手紙第一」4:1)
「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です」(マタイ8:15)
とあるようなことを指しているのでしょうか?言い換えれば、シンさんは、宗教団体の指導的な地位にある人々はいわば「ニセ預言者」であり、彼らに騙された信仰者が「神からでない霊」を信じて、世の中に害悪を撒き散らしているというご認識なのでしょうか?
#801 投稿者の要望により削除