進化論と創造論専用会議室過去ログ

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2004年12月5日(日)〜2004年12月11日(土)

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#893〜#900 投稿者の要望により削除


RE:二度目まして(^^) 投稿者:てつお  投稿日:12月11日(土)15時56分24秒 #892

片桐さん。こんにちは。
大変素晴らしいことを語ってくださいましたね。
いつもの片桐さんも良いですが、母親としての真剣な片桐さんは、もっと素晴らしいと
率直に申し上げます。

何かの話ですが、妻が痴呆になると、多くの男性は狼狽し、
まず何を求められているのか、理解できないのだそうです。
同じことは、赤ちゃんの泣き声や表情から、
今何を求められているのか察知することができる母親、
できない母親にも言えますが、それでも男性のなかでは、
日頃から牛や馬など動物の世話に慣れている人には、
そういった混乱は起こらないのだそうです。
なるほど、と思わされました。
いかなる生活も生きものであることが根底にあるのですがね。


#891 投稿者の要望により削除


二度目まして(^^) 投稿者:片桐マリア  投稿日:12月11日(土)15時36分42秒 #890

どうも管理人さんをはじめとして、みなさま初めまして、昨日初めて「レムナント掲示板」に投稿したものです。以前、こちらのてつおさんと、「進化論と創造論」の掲示板にて、某氏のことで、少しだけ意見の相違があり、そのまま投稿を控えさせていただいておりました。少しだけ、横レスになり、大変恐れ多いのですが、私の経験談ですから気になさらないで下さい。

子育ては決して、育児書のマニュアル通りには行きません。むしろマニュアル通りにやりこなそうと思ったら、わが子を殺めてしまう危険を伴います。それほど、赤ちゃんには、突発的な問題がいつも発生します。現代の若い母親が生まれたばかりのわが子を持て余して、その挙句に自らの手にて、その生を奪っている、マニュアルに頼る優等生の母親の実に多いことを、嘆くものの一人です。悩む前にどうして、何処かの機関や友人、隣人、伴侶、両親に相談出来なかったのでしょうか?それは、優等生だからです。自分の産んだ子が自分の思い通りになると勘違いしているのです。試行錯誤を忘れているのです。子供に負けているのです。本来、生まれたての赤ん坊は、動物と同じです。お乳をほしがる時に泣き、オムツが汚れているからと泣く、夜中に訳もなく、夜鳴きする。この動物的本能でしか表現出来ない赤ん坊を、育児書のマニュアル通りにならないからと言って、母の判断にて、この子はオカシイとか、自分の手には負えないなどと狼狽し、折角生まれた命を簡単に殺めてしまう。何と悲しいことでしょうか?

大らかさがないと子育ては出来ません。試しに試して、何度も何度も同じことを繰り返しながら、成長していく、その過程を親はずっと見守って行かなければなりません。簡単ではありません。決して大人の思い通りにはなりません。また思い通りにしてはいけません。放置してもいけない、過保護にしてもいけない、攻めてもいけない、甘やかしてもいけません。強制することなど、以ての外です。生ものですから、悲しいかな子供が悪いことをして叱り、反省して悔い改める行為において、知る限りにて、一度では無理です。
何度も何度でも、繰り返します。一回で過ちを悔い改める子供の存在を知りません。

反抗期大いに結構です。子供は親の背中を見て育ちます。反面教師もあり、親のいいなりにスパルタする、将来何らかの形として、歪みが現れてきます。大人から見て、大人しい、素直な子供は育て安いし、教師もそのような子供を好みますが、決してそれが本来の子供の姿ではないのです。無理しているのです。成長の過程に置いて引きこもり、閉じこもりの問題が今深刻です。其処に至るまでの過程においての葛藤が無かったら、親は成す術を知りません。その子供は我慢に我慢をして限界に達した未熟な精神の結果であり、誰のせいでもありません、しかし、其処から学ぶことも残されていてほしいものです。

試してみるのです。いろいろなことを試してみて、試食してみて初めて、本物がわかってくると思っています。失敗を恐れない、恥をかいても決して、奢らない昂ぶらない、この精神を鍛えることは、本のマニュアル通りには行かない、自ら試して、試して、チャレンジする心を鍛える、血と骨です。
私は目の前にある対象が、偽物でないか詐欺でないか、偽善でないかを見極めるために、たとえそれが、神であっても、自分の子供のためにも、家族のためにも、両親のためにも、いつも試してきました。それは病院選びであったり、塾であったり、友人であったり、隣人であったり、まず、いきなり意気投合することもあり得ますが、それは極めて稀です。

仕事もそうです。傍目から見て、羨ましい様な仕事も実際に中に入って見ると実に、オドロオドロしている。逆も真なりで、見た目は悪いが、大変中身は素晴らしい人間の集まりだったりします。試して見ないと判りません。私は盲目ではありませんが、人間は愚かなものです。本来弱い生き物です。すべての事を、頼って生きているのです。

自分で決めて決断した事に対しての責任を問われれば、最早自殺するしか方法を見出せないような切羽詰った環境を自ら作ってはなりません。自分を苦しめてはいけません、
自分を苦しめることは、他人をも苦しめる。自分が我慢すれば、解決することもあります。何事もその場の状況に応じて対策を講じることの出来る、人間の尊厳を忘れてはなりません。私信ですが、経験上ただ人生のレールに乗っかってわき目も振らずに、優等生で生きた来た人間でもありませんので、人よりも人の痛みだけはわかる、これだけで充分に生きていける。


#883〜#889 投稿者の要望により削除


Re素人ですが(横レスです) 投稿者:シン  投稿日:12月11日(土)03時50分11秒 #882

>能は型よりい出て心に至り
    心よりい出て型に至る

また、あなたから真理のことば(だと私が思っているもの)が出てきました。

ここから先は「えめさん」にではありません(が、もし良かったら読んでください)。

型を守ることによって中身を学ぶことが出来ます。
だから私は型を破りなさい、とは教えません。

イエスは律法という「型」から学ぶべき中身を教えました。<マタイ5章後半>
それは現代でいうのなら、例えば「交通法規」この律法は「人の命を守る」というのが中身です。警察がお金をとるためのものではありません。罰金を払うことによって学び、より安全になる、というのなら罰金も納得出来ます。(しかし警察にその態度をあまり感じないところに腹が立ちます。)

だから救急車がその交通法規を破って人を助けたり、また急いで急患を自分の車で連れて行くとき、(この場合事故を起こさないように配慮すること)破っているのに実はこの律法をまっとうしていることになります。明らかに事故を起こすほどの運転をし、実際悪い実を生じた時この律法は守れなかったことになりますがね。

私は配慮が足りないドライバーかもしれません。しかし私は法廷速度をきっちり守らされること、救急車であるのに逆走出来ない、そんな状況でたくさんの人が手遅れで治療が間に合わなかったのを見てきました。ただ私も配慮はしています。そしてそれは書くまでもありません。もうどこかで書きました。

私が見てきたものは、たくさんの人が待っているのにきまりがあるから、と順番待ちになっている病院のようです。待たされすぎてたくさんの人が手遅れ、になっています。

「偽善」とは原語では「中身がない」という意味です。他者への愛というポイントにおいて客観的に見たとき、どちらが中身がないかは明らかです。

自分を満たそうとする行為と他者を満たしてあげようという行為、どちらが神の前に優れているかは言うまでもありません。


#881 投稿者の要望により削除


素人ですが(横レスです) 投稿者:えめ  投稿日:12月 9日(木)18時28分12秒 #880

能は型よりい出て心に至り
    心よりい出て型に至る

世阿弥の言葉だと思いましたが‥
自分はこの言葉を知ってから「マニュアル」に拘らなくなりました
   ずれた話なら無視して下さいな


#879 投稿者の要望により削除


つまり、、、 投稿者:てつお  投稿日:12月 9日(木)14時36分38秒 #878

>プロテスタントです。家庭の事情とわがままな事情で日曜礼拝は月に1,2回行っています。(中略)

 教会の小学生の女の子が、学校行事の老人施設訪問が日曜日だったので、クラスでひとりだけ行かずに礼拝に来ました。牧師先生はとてもほめていましたが、わたしはその子が老人施設へ行ったほうが有意義なんじゃないかと思っています。
 ですが、その女の子は老人施設訪問に行くことよりも尊い何かが示されて、礼拝に来ていたのかも知れず、私には本当のところ、偽善や優越感からなのか、あるいは聖霊の導きによることなのか、わかりません。また、もし牧師や会衆がその女の子を過度にほめたことが適切でなければ、神様から示されるでしょう。ただ、私が牧師に反発を感じるのも、何か私の欠けたところを責められているかのような思いがあるからかも知れません。
 礼拝は死守しなさいと言われますが、今の時代では日曜日に働く人のおかげで社会が動いているし、日曜日でないとできない用事もあります。
 日曜日でなくても礼拝できる教会もありますが、いずれにせよ、すべての人が一時でも心を静めて、主を覚えることができたらと、ささやかながら思います。
 けれども、かく言う私も「わがままな事情」で休むことがあり、私の礼拝生活のためにぜひ皆さん、お祈りください。そして、さらなる義の道を飢え渇き、導かれるよう、お祈りくださいますようよろしくお願いします。

となぜ言えなかったのでしょう。


偽善 投稿者:てつお  投稿日:12月 9日(木)12時57分16秒 #877

>あなたが書いていることは間違っていません。しかし、それは宗教のマニュアルです。

マニュアルでいいと思っています。アッシジのフランチェスコも、マニュアル通り生き抜いた一人ですから。

>レムナントの板で(中略)私の理解は合っていない部分もあるかもしれません。だから「もしかしたら」と書いておきました。

いいえ、そういうことが問題でないのです。
「その意図は自分の信仰が小さい、と思っている人を建て上げるため」であっても、「主が望むことは忠実である」ということを示すために、「偉い」とか偉くないとか、論じて欲しくなかったのです。「ものの喩え」に過ぎないでしょうが、あなたはご自分で気付こうとしないけれど、あなたが心に抱いていること、そのままの現れだと感じたから言ったのです。

 私ももう一度言います。

 何が偽善かは、結局の所わかりませんよ。
 学校行事の老人施設訪問で、

>だから、その小学生の女の子のすべき礼拝は、神の神殿であり教会である自分の体を示された隣人の元へ持って行きそこで光を見せ、塩で味付けをすることです。

だったかも知れないけど、ボランティアが最善でしょうか?
 今後ますます、より多くの老人施設が必要でしょうが、さらに多くの教会も必要でしょう。より多くの介護福祉士も必要でしょうが、その比率のうちごくわずかでも良い、魂の救いを求めるクリスチャンが必要なのではないでしょうか?
 イエスはある村で豚の群を崖から突き落としてまで、悪霊につかれた一人の男を救いましたが、村の公共の利益、福祉を押しあてて考えてみると、追放されて当然です。
 通俗の社会通念にそぐわないものを偽善だと言うなら、祈るかわりに政党に参加すべきであり、悔い改める変わりに精神科の医師を訪ねるべきであり、教会だった更地に老人施設を建てるべきです。
 ついでに神殿での商売をつぶしたイエスに、もう少し配慮があってもよかったですね。

>こんな偽善の牧師より、義に飢え渇いて、自分の心が貧しい、と悩んでいるこの人のような人のために天の御国はあります。なぜならこう書いているからです。

 あなたの言うことは、わからないわけでありません。わからないのは、なぜに「偽善」を批判することで、自己を得ようとしているか、ということです。

>私は安息日を守ることの尊さを知っている上でこのように言っています。そして本当は守っている上で言っています。

 ならば、礼拝していない人のふりをして、書くべきことではありません。
 クリスチャンでない人と「同じ」くなろうとするためには、実はクリスチャンでない人と極度に「ちがって」いなければならないのだと思います。

>形の礼拝を最終目的にした時、その人の信仰はそこでお終いです。日曜礼拝を守ろうとして洪水を起こしている川を歩いていける、と信仰を持って渡ろうとしたが4人とも溺れ死んだ。このような死が待っています。これは韓国であった実際の話ですが、もう彼女たちはそれ以上の礼拝はささげないだろうから死んだ方が幸せだったのかもしれません。過激な言い回しですが。

 私が以前、書いたことは、礼拝が最終目的なのでなく、礼拝から礼拝へ、祭壇から祭壇へ、という往復運動だったつもりですが、祭壇へ戻る帰り道が、あなたの言うことには含まれていないので、疑問だったわけです。

>しかし、その土俵にも乗っていません。その知識も与えられていません。
>教会は良い事がしにくい場所です。それは私が身をもって体験してきたことでした。

 ごめんなさい。あなたの教会の内情を良く知らないので、言いかねるのですが、一度牧師と相談されてはいかがでしょうか。
 いづれにせよ大事なのは、あなたも土俵に残ることです。

>私はその日、本当に安らいでいます。なぜなら主も6日働き7日目に安息されたからです。見える部分では他の人々の安息のために働いていますが、全く疲れません。働いている人が疲れずに安らいでいるのですから、ただ、来る人にはもっと安らぎがある、と思っています。

 その土俵に多くの人が詰めかけ、押し寄せるでしょう。あなたから去る必要はありません。例の小学生の女の子のためにも。


#875〜#876 投稿者の要望により削除


Reシンさんへ(2)  投稿者:シン  投稿日:12月 9日(木)02時31分32秒 #874

あなたが書いていることは間違っていません。しかし、それは宗教のマニュアルです。

>自分にとっての「ささげもの」とは何かと聞かれて、それは「私」です、としか答えようがないのですが、主イエスキリストのために言いたくないことも言い、聞きたくないことにも耳を傾け、苦しむことを苦しみ、喜ぶことを喜びたいとは願っています。

あなたのささげものは辛そうですね。これは聖書の理解としては合っていると思います。たしかにささげものは「私」です。

しかし、言う事も喜び、聞くことも喜び、苦しむ事も喜び、喜ぶことは更なる喜び、です。
あなたの理解は人に重荷を背負わせます。

しかし、主は「私のところに来れば休ませる、私の負わせるくびきは軽い」と言いました。

あなたはそれを頑張ってやってください。私は楽なほうをやらせてもらいます。

>レムナントの板であなたの投稿を見たので、ここで取り上げることをゆるして頂きたいのですが、

の記事についてですが、私の理解は合っていない部分もあるかもしれません。だから「もしかしたら」と書いておきました。が、その意図は自分の信仰が小さい、と思っている人を建て上げるためです。

主が望むことは忠実であることだけです。この点において私は書きたかったのです。他の部分はあまり関係ありません。「偉い」とかはものの喩えで書いたようなもんです。


Reシンさんへ(1) 投稿者:シン  投稿日:12月 9日(木)02時10分40秒 #873

元気な人は主の本当の言葉に躓きます。

傷ついて、弱い人は主の言葉によって建て上げられます。
私が何を書いてもあなたは信仰を捨てることはありません。
だから安心してこのように書いているのです。

私が主に非難される時は、傷ついて弱っている人を更に傷つけたり、重荷を負わせてしまった時にです。当然それをやってしまう可能性はあります。やっているかもしれません。絶対にやりたくありません。そのようなことをする者は石臼を首にくくりつけられ湖の深みに沈められる方がましだ。と知っているからです。

私はもう一度言います。主の権威を貶めないためです。

>プロテスタントです。家庭の事情とわがままな事情で日曜礼拝は月に1,2回行っています。(中略)教会の小学生の女の子が、学校行事の老人施設訪問が日曜日だったので、クラスでひとりだけ行かずに礼拝に来ました。牧師先生はとてもほめていましたが、わたしはその子が老人施設へ行ったほうが有意義なんじゃないかと思っています。礼拝は死守しなさいと言われますが、今の時代では日曜日に働く人のおかげで社会が動いているし、日曜日でないとできない用事もあります。わたしは不信心でしょうか?

こんな偽善の牧師より、義に飢え渇いて、自分の心が貧しい、と悩んでいるこの人のような人のために天の御国はあります。なぜならこう書いているからです。

「心の貧しい者は幸いだ。天の御国はその人のものだからです。」
もし
「心の豊かな者は幸いだ。天の御国はその人のものだからです。」
であったら、間違いなく私は天国に行けません。

私は安息日を守ることの尊さを知っている上でこのように言っています。そして本当は守っている上で言っています。

私はその日、本当に安らいでいます。なぜなら主も6日働き7日目に安息されたからです。見える部分では他の人々の安息のために働いていますが、全く疲れません。働いている人が疲れずに安らいでいるのですから、ただ、来る人にはもっと安らぎがある、と思っています。

形の礼拝を最終目的にした時、その人の信仰はそこでお終いです。日曜礼拝を守ろうとして洪水を起こしている川を歩いていける、と信仰を持って渡ろうとしたが4人とも溺れ死んだ。このような死が待っています。これは韓国であった実際の話ですが、もう彼女たちはそれ以上の礼拝はささげないだろうから死んだ方が幸せだったのかもしれません。過激な言い回しですが。

だから、その小学生の女の子のすべき礼拝は、神の神殿であり教会である自分の体を示された隣人の元へ持って行きそこで光を見せ、塩で味付けをすることです。
これが出来る出来ないを非難しているのではありません。
出来ないときは主の憐れみを求めればいいだけのことですから。
ただ、これが主のみこころです。
しかし、その土俵にも乗っていません。その知識も与えられていません。
言わば日曜礼拝はそれをするためのプラクティスです。旧約でやっていることと変わりがありませんから。
イエスは真の礼拝とささげ物を教えました。そしてどこででも礼拝をすることが出来るようになる、と言いました。

教会とはそれが出来るように聖徒たちを整える集まりです。

塩に塩気がなかったら踏みにじられます。

人を殺す命令を出すような偽善の指導者でさえ救われているのだから、全ての人が救われるべきです、と主は言われます。

ただパリサイ人、律法学者の義に勝る義でないといけません。

それは彼らより良い事をしなければならない、とかではなく、偽善をやめ、それぞれの信仰の量りに応じたそのままの歩みを主にあってすればいいだけです。

教会は良い事がしにくい場所です。それは私が身をもって体験してきたことでした。

あなたが躓いたままでいることは主と私にとっては好都合です。それにより神の義が明らかになるからです。

ただ、個人的には知っている人はあまり攻撃したくないので、出来れば私のことは無視してください。だからあなたが何も返事を書かなければ、やはりこれで最後です。

私が攻撃されるのは覚悟の上ですから、書きたいことはガンガン書いてもらって構いません。

>自分はひとりでやっていけるのだ、という、その自負かも知れません。

私はひとりでは何も出来ません。主が共におられます。


シンさんへ(2) 投稿者:てつお  投稿日:12月 9日(木)00時47分0秒 #872

レムナントの板であなたの投稿を見たので、ここで取り上げることをゆるして頂きたいのですが、

>リバイバルを起こした牧師や伝道者より、こじんまりとした生活ながら、神を愛し、家族を愛し、隣人に親切にして歩んできただけの人の方がもしかしたら天での報いは大きいかもしれません。
>この場合伝道者は多く与えられているから多く働かなければなりません。
>仮に、その人は10000人に対し福音を語らなければならなかった、とします。
しかし5000人にしか語らなかったのなら、わずかなものに忠実であったその人、、、もう一人の人が語るべき人数は100人としましょう。その人は100人に語りました。
>人の目には5000人の人を偉い、と見るでしょう。が神の目には100人の方が偉いのです。

 なぜ、どちらが偉いかというようなことをあなたが話題にしたか、分かりませんが、確かに「人の目には5000人の人を偉い、と見るでしょう。」と言われたように、人は量的な尺度を用いて評価することがあるでしょう。けれども逆に神が「わずかなものに忠実であった」がゆえに人を質的に評価することはあっても、人と人を比較してどちらが偉いかといったような評価はしないと思います。
 逆を言えば、先の日曜礼拝といい、「どちらが偉いか」というようなそのような評価に、今のあなたはとらわれているのです。

 マタイ25:14 からは、「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。」とたとえ話が続けられますが、 五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけ、同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけます。ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠しました。
五タラント預かった者、二タラント預かった者は「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。」と主人からほめられますが、一タラント預かった者は「ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。」と主人に言い、その者はお前は役に立たぬしもべだと主人から責められ、外に追い出されます。
 この物語の趣旨は「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられる。」ということになりますが、そのことはルカ8:18では「だから、聞き方に注意しなさい。というのは・・・」という風にも語られています。
「商売」というのは、なかなかユニークだと思います。いくら能力はあっても、商売人は人との関わりなしではやっていけないからです。
 つまり、天の御国の福音は主から聞き、主から預かるのですが、福音の価値は、人との関わりのなかにあるのであって、単独な信仰などと言うものは虚妄に過ぎないと言い得るのではないでしょうか。
 赦しと愛を得た者は、ただで得たものをただで与えます。その愛に応じて、あなたは神の国を言い広めなさい。せめてもの、自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝(施し)を天に積み上げなさい。隠したままでは、あなたは決して豊かになることはないでしょう。
 そう言われたのかも知れません。

>場合によってはこれで最後になるかもしれません、が、質問させてもらいます。
 あなたにとっての「ささげもの」とは何でしょうか?

 自分にとっての「ささげもの」とは何かと聞かれて、それは「私」です、としか答えようがないのですが、主イエスキリストのために言いたくないことも言い、聞きたくないことにも耳を傾け、苦しむことを苦しみ、喜ぶことを喜びたいとは願っています。


シンさんへ(1) 投稿者:てつお  投稿日:12月 9日(木)00時44分57秒 #871

engelwise さん、ありがとう。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

>とりあえずこれでわかりました。あなたは私が何を言っても信仰を捨てたり弱くなったりしないでしょう。安心です。だから私のことは無視する方がよいでしょう。
私は嫌なことを書く、と、あらかじめ書いておきました。

 私も同じことをシンさんに期待したいです。
 その上で言いますが、主イエスキリストにある兄弟に対して、engelwiseさんが危惧して、途中まで言いかけ、(今また書いてくれましたが)さらに私がこれほどまでに苦言を呈するのは、シンさん、あなたの言葉がいつも優しさと励ましに満ちたものであることを思うにつけ、なおのこと非常に惜しいと思うからです。

 以前、あなたはある方の話題に触れられていましたが、
>プロテスタントです。家庭の事情とわがままな事情で日曜礼拝は月に1,2回行っています。(中略)教会の小学生の女の子が、学校行事の老人施設訪問が日曜日だったので、クラスでひとりだけ行かずに礼拝に来ました。牧師先生はとてもほめていましたが、わたしはその子が老人施設へ行ったほうが有意義なんじゃないかと思っています。礼拝は死守しなさいと言われますが、今の時代では日曜日に働く人のおかげで社会が動いているし、日曜日でないとできない用事もあります。わたしは不信心でしょうか?

 教会の小学生の女の子が、学校行事の老人施設訪問が日曜日だったというので、ひとりだけ行かずに礼拝に来たことを、ほめそやす牧師も牧師ですが、こういった問題への対処云々というより、冒頭の自己紹介で「わがままな事情」とほのめかしつつも、この問題を取り上げた質問者の自己正当化を、あなたはなぜ見抜けなかったのでしょう。
 
>私は「(聖書で言う)迷った羊」にしか興味がありません。ただ、私自信もその「迷った羊」であることは理解しています。

 イエス様は常に囲いに属さない、ほかの羊を求めておいでです。
 けれども、自分は囲いから離れて、ひとり迷った羊を探し求めるのだという自負は、どこから来るのでしょうか?私が責めているのは、囲いなしに自分はひとりでやっていけるのだ、という、その自負かも知れません。
 確かに「安息日は人のためにつくられました。安息日のために人がつくられたのではありません」と主は言われました。そうです。安息日を守らないのも、人間のためでしょうが、安息日を守るのも、人間のためなのです。


#870 投稿者の要望により削除


ちなみに 投稿者:シン  投稿日:12月 8日(水)01時57分39秒 #869

>私の家はクリスチャンの家庭でもありませんが、私の信仰が弱くなることは、私以外の人にとっても非常に迷惑なのです。

信仰が弱くなると、どのように他の人に迷惑がかかるのかはわかりませんが、私の場合を言います。私の信仰は「からしだね」ほどしかありません。教会生活を守れない、とか祈れない、とか、賛美出来ないとか知っての通り私の信仰はごまつぶより小さく弱いです。だから他の人に迷惑をかけてきました。なので主の憐れみを求めています。


Re短レス  投稿者:シン  投稿日:12月 8日(水)01時28分41秒 #868

Kosukeさん こんばんは

最近のものは自分で調べてみます。気長に待っていますので。


(無題) 投稿者:シン  投稿日:12月 8日(水)01時25分16秒 #867

「これらの中のもっとも小さい戒めを破るように教えるなら、その者は呪われるべきです。」

「私は形式を壊しにきたのではありません。それに中身を与え、成就するために来ました。」これらのことは神の霊がすることです。私がしているのではありません。

私は自分の供え物については示されています。心配無用です。

とりあえずこれでわかりました。あなたは私が何を言っても信仰を捨てたり弱くなったりしないでしょう。安心です。だから私のことは無視する方がよいでしょう。
私は嫌なことを書く、と、あらかじめ書いておきました。

私は「(聖書で言う)迷った羊」にしか興味がありません。ただ、私自信もその「迷った羊」であることは理解しています。

場合によってはこれで最後になるかもしれません、が、質問させてもらいます。

あなたにとっての「ささげもの」とは何でしょうか?

別に何を答えても、合っているとか間違いだ、とかはないと思います。が、もしよかったら、それだけ聞かせてくれないでしょうか。


短レス 投稿者:Kosuke  投稿日:12月 7日(火)22時11分9秒 #866

シンさんへ。
統一教会の最近の動向についてはあまり知りません。関心が無くなったと言うのが実情です。いろいろ調べてみたら、反統一教会の運動にもきな臭いものを感じて、ちょっと怖くなっています。

初期のころの原理運動については、そのうち何か書き込めるかもしれません。今はプライベートでいろいろあって、掲示板に書き込む余裕がありません。


お別れのご挨拶 投稿者:ゆうき☆  投稿日:12月 7日(火)21時01分49秒 #865

 突然ですが 皆さんへ:特にシンさんへ:一身上の都合により 一度すべての掲示板サイトから身を引く事になりました。(理由は他サイトで詳細を)
 とにかく 皆さんクハさん、短い間でしたが お世話さまでした。茶碗蒸し!?
 シンさんへ:S子さんとの事 我がまま勝手でごめんなさいね(内緒よ)
 さようなら またお会いできること楽しみにして
 在主。清美より


#851〜#864 投稿者の要望により削除


湿った雪は嫌いだ、パウダースノーきぼんぬ 投稿者:管理者・クハ72  投稿日:12月 5日(日)16時51分51秒 #853

 リンク切れご指摘ありがとうございます。次の更新時に別の方からご指摘のあった誤字と共に治すす予定でしたが、後進が滞っているため放置していまして申し訳ありません。年内には行うつもりです。
 それから美味しい話題で盛り上がっているところ恐縮ですが、携帯電話の絵文字のご使用はPCだと表示されませんのでご遠慮願います。


リンク切れ 投稿者:通りすがり  投稿日:12月 5日(日)16時28分40秒 #852

>ダーウィンの後悔 new
>こちらは腰越独立教会によるもの。
  ↑
リンク切れてますよ。


#851 投稿者の要望により削除


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