進化論と創造論

――ある進化論キリスト者の主張――

 

 生命がどのように今の姿になったか、大方の科学者はダーウィンが提唱した進化論を支持している。そして世の中の多くの人も進化論が正しいと思っていることだろう。僕もそう思うのだが一部キリスト教徒の中には「科学的に考えて進化論は誤りで聖書の記述通り神に創造されたのが正しい」と信じる人もいて、学校でも創世記を進化論と対等に教えよ、と主張する。
 中には「『進化は科学、創造は宗教』と洗脳されている」などと言う人もいたりする。おそらく進化論というものがどういう説か知らないために起こる誤解だと思われるが、進化論が正しいと思っている人にも進化論は誤解されてるんじゃないかと思う(実際僕もそうだった)。

 さて、創造論者は「進化論者は自分の間違いに気付かない、あるいは間違いを認めようとしない」と主張するのだが、進化論に間違いがあるのならとっくの昔にそれに気付く人がいてもいいんじゃないかと思う。「科学者は頭が堅く、自分自身の間違いを認めようとしない権威主義者だ」という誤解は世間一般にもあるのだが(だから『神々の指紋』などというインチキ本がベストセラーになる)、本当に科学者の頭が堅いのなら(中にはいるのだろうが)それまでの学説を覆すような新たな発見は黙殺されたはずである。

 あまり関係はないのだが阪神・淡路大震災の前まで「関西には大きな地震は来ない」といわれていたそうだが、そのような事を主張していた地震学者は果たしていたのだろうか。もしいたと言うのならいつ何処で誰が主張していたのか示していただきたいものである(参照:教育社『Newton』1993年9月号)。
 これに関連して昨今の三宅島の噴火や伊豆諸島の群発地震が東海地方や首都圏の大地震に結びつくのではないかと言われているのに対して地震学者は否定的なコメントをしているが、これは地震が起きないと言っているのではなく伊豆諸島とは無関係に起きると言う意味なのである。ここまで説明しない学者にも問題はあるのだが、そこまで突っ込んだ質問をしないマスコミもまた問題である。

 ある創造論者に言わせると「進化論は仮説に過ぎない」そうだが、仮説は仮説でも今現在最も正しいと考えられている仮説であろう。実際進化論でしか説明のつかないことは多いし、傍証となる発見はあるが反証となる発見は(少しはあるかもしれないが今のところ)ない。が、今後進化論を否定し創造論が正しい事を示す証拠が得られれば大半の研究者は創造論支持に回るに違いない。
 これに対し創造論はどうだろう。無知と誤解に基いて進化論を否定し「神が創った」と主張するだけで、進化論の根拠となっている様々な事実に対して合理的な反論がまるでないのである。そればかりか既に否定されたものを証拠として持ち出すということまでやっている。つまりそれだけ根拠に乏しいのである

 創造論者の主張で一番ナンセンスなのは「進化論という自分勝手で独り善がりな考えが今日の社会の荒廃を招いた」ということである。これも進化論に対する誤解から来るのであるが、現在の人間の言動にどういう影響を与えるかによって(進化したかどうかという)過去の出来事が変わってしまうというのである。過去には進化論を根拠にした人種差別も行われていたのだが、これは進化論が悪いのではなくそれを悪用した人が悪いのだ。ドイツ国民が自国の歴史に誇りを持てなくなるからナチスによるホロコーストはなかったと主張すると同じくらいのすり替えである。
 こういうのを「自然主義的誤謬」というのであるが、科学理論から道徳や倫理を導き出してはならないし、道徳や倫理を基に科学理論を組み立ててはならない。

 人間は進化の頂点にいるのだから、人間としてやりたいことをしたらいい……このような人間中心主義が自己中心の社会を生み出し混乱させています。(堀越暢治『疑問だらけの進化論』)

 それはちょうど、ノアの箱舟に乗った人だけが、洪水の引いた地に立つことができたのと同じです。しかし、このイエス・キリストの再臨を認めない人々は人生に希望を失ってゆくというのです。そのためか、刹那的犯罪が増え続けています。進化論教育で人々を整えることはできないのです。世はこのまま破滅に向かって進むのではないこと、すなわち、「創造主がいらっしゃって地球が滅びないように介入してくださる」ことを知るなら希望も出てきます。しかしこのような希望は進化論では決して出てこないのです。(宇佐神正海『崩壊する進化論』)

 誰も「人間は進化の頂点にいる」とか「進化論教育で人々を整える」などとは主張していないのであるが、ある意味脅しである。これではどんなに進化論を支持する強力な証拠が出てきてもそれを隠蔽しなければならないことになる

 上に述べた誤解ははおそらく自然淘汰から来るのであろうが、種族を保存させるためには協調や利他行為といった助け合いや思い遣りの精神が必要なのである。もっともそのような精神が結果的に利己的な行為となってしまうのではあるが、『北斗の拳』のような強者が弱者を食い物にする社会は内部から崩壊する(言い換えれば「淘汰される」)。独裁者による政権が民衆の叛乱で倒された例は歴史上いくらでもあるのだ。

 進化論が社会の荒廃を招いたというのであるのならダーウィン以前の世界には犯罪などは皆無だったはずである。これが間違いである事は明白なのであるが、皮肉にも聖書を元にした人種差別も行われていたし、世界中で植民地侵略を繰り返したのも大部分がキリスト教国であった。人口の11%しか進化論者がいない米国は、そのほとんどがそうである日本よりも犯罪が少ないのであろう……!?

 信仰とはその人にとってアイデンティティの根幹を成すものである。新たな証拠をもとに修正や否定がなされることは皆無だ。しかし科学は(自然科学に限らず社会科学や人文科学も)時代と共に絶えず修正や否定がなされてきた。今正しいとされている科学理論が未来永劫正しくあり続けるとは(少なくとも建前上は)誰も言っていない。

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
『新約聖書(新共同訳)』「ヘブライ人への手紙」11章1節
信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
『新約聖書(新改訳)』「ヘブル人への手紙」11章1節

 どちらの訳が適切かはギリシア語がわからないので判断しかねるが、信仰は明らかに科学とは違う。

 聖書の記述は非科学的である。しかしだからと言って聖書やキリスト教に価値がないと言っている訳ではない。過去においては十字軍や植民地支配といった過ちもあったがリンカーンやキング牧師のようなことは聖書がなければなかったに違いない。

 僕がなぜこうも「科学的」創造論を批判し進化論を擁護するか、それは僕が創造論者と同じクリスチャンだからだ(「近親憎悪」ともいう(笑))。
 創造科学と言う名の擬似科学を枕に伝道する信仰者は多い。つまり彼らの信仰の根底には創造科学があるのである。それゆえ自分自身の主張に誤りがあっても絶対に認めないのである。
 神の創造をただ信じるだけなら何も問題はない。しかし何も知らない人に対し「進化論は科学的に誤りだ」とか「創造論は科学的に正しい」という間違った科学知識に基く信念を吹き込むのは多いに問題である

 

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