
南山宏『地球史を覆す「真・創世記」』(学研)に「自然主義と科学は同義ではない」と題する以下の文章がありました。
ダーウインがその進化論を唱えるにあたって基本理念としたのは、いわゆる自然主義(ナチュラリズム)の概念である。わが国では文学や美術の技法のひとつとされることが多いが、本来は哲学の領域の用語で、宇宙のあらゆる現象を科学的法則で説明できるとし、超自然的要素を認めず、目的論的自然観を無価値とする世界観・自然観のことだ。
実証主義とか経験論、機械論、唯物論と重なるところも多々あり、科学者の多くが無意識のうちに大前提とするイデオロギーである。(中略)しかし、純粋に公平で客観的立場から見れば、自然主義イコール科学の基準とする考え方は、自然を初めて機械論的に解釈したニュートン物理学以来のドグマ(独善的教義)にすぎない。あくまで合理的な論理を重んじるならば、真の科学のよってくるところは本来、普遍的な〈真理の探求〉以外の何ものでもないのだ。非常にわかりやすい愉え話を紹介しよう。
ある刑事がどこかに消えた車を捜索しているとする。その刑事は、必ずしもそれを最初から自動車泥棒の仕業とは決めつけないだろう。車の停め方によっては、サイドブレーキの故障で坂道を転げ落ち、坂下の池に沈んでしまったという可能性も考えられるからだ。
この場合、前者(自動車泥棒)は創造論上の超越的存在(神)に相当し、後者(車が坂道を転げ落ちる)は失踪原因の自然主義的解釈に相当する。要するに、この刑事は真実を捜し求めること、すなわち“真理の探求”を行っているという点で、真の科学者と同じなのだ。両者の共通点は、どう説明するにしろそれはあくまで経験的証拠、五感によって観察できる証拠に基づかなければならないということであり、そのような探求の仕方こそが本物の“科学”なのである。
つまり、現在の進化論/斉一説的自然観の信奉者たちが、「科学は自然主義を基本理念としなければならない」というのは、自分たちにだけ都合のよいドグマにすぎないわけだ。公平な見方に立てば、超自然主義的な創造論/激変説的自然観であっても、科学的であり得る。はたして自然主義に基づく進化論が正しいか、それとも超自然主義に基づく創造論が正しいかは、真の科学=真理の探求によっていずれ決定的証拠が発見される日が来るまでお預けとするのが、いちばん公平公正な態度なのである。
進化論=斉一説と短絡的に決め付けているのはこの際おいておくとして、太字で引用した部分に着目すると南山氏の主張は自己矛盾しています。そればかりか「自然主義は科学と同義である」と言ってるようです。
南山氏の自然主義の定義に基づいて議論しますが、「決定的証拠が発見され」なければ「お預け」というのであれば「実証主義」や「経験論」そのものですし、そもそも「科学的法則」というものが「決定的証拠が発見される」ことにより「真理(というほど大袈裟なものでもないだろうが)」とされて来たのではないでしょうか。
これは進化論についても言えることです。ダーウィニズムが広く支持されているのは生物の地理的分布、種間の比較による相違点といった「決定的証拠」があるからなのです。「超自然主義に基づく創造論」を支持する「決定的証拠」は今だ「発見され」ておりません(あるなら教えて下さいな)。
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