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◇日々の稽古で思う事あれこれ◇ |
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質的転換 シアトルの支部長でもある友人と話しをしていて、「これ からはもっと稽古の量より質に集中しようと思う」、との コメントがあったのは数年前の事かもしれない。氣持ち年上の 友人は大企業に勤める身でありながら週7日間稽古しているの ではと思わせる熱中ぶり。ニューヨークで共に稽古をしている 頃は徒手でも武器でも氣を抜いたら怪我をするのではと感じさ せる真剣ぶりだった。そんな彼が結婚して子供が出来、仲間と、 「彼の今後の稽古はどうなるのだろう?」、と噂したものである。 帰国して約2ヶ月半。ニューヨークにいた頃と比べると圧倒的 に稽古時間が減ってしまった。友人の合氣道の自主練に参加した り、セミナーに顔を出したり、遠方からわざわざ会いに来てくれ た友人の柔術家と稽古をしたりしているが、これが足りているか と問われると厳しい所だ。自分自身で空き時間に身体を動かすよう にしているがなかなか思うように行かない。 だからと言う訳でもないのだが、最近、稽古の質的転換について よく考える。技を次の段階にステップアップさせる為の方法だ。10 代、20代の頃はガムシャラに身体を動かしても良い。今は30代半ば。 今でも身体は動くが単純に量をこなして身体を動かすだけでは先行 きが見えてしまうのではと言う懸念もある。 質を重視すると言うのは非常に細かな作業だ。たとえば立ち方一つ、 指の曲げ方一つ、腕の上げ下げ一つ、考え出すとキリが無い。が、 これまでお会いしてきた上のレベルの人達はその辺りがきちんと 出来上がっている人達だった。彼等の動きはそれ故、無駄が無い。 ただ歩いて近づいて来るだけなのに間が読めない。ゆっくりと伸びて 来る腕なのに払う事が出来ない。傍目にも軽く動いているだけなのに 技をかけられている方は弾け飛ぶ。このような圧倒的な差異を埋める には自分自身の身体が同様に無駄無く、効率良く動いているか考察 するしかない。その為には稽古内容の質的変換が不可欠だ。 ここで個人的に難しいなと感じるのが自分の中で感じる充実度。 たとえば突きでも蹴りでも素振りでもある一定量をこなす事で自分 の中で、「稽古をした」、と実感する事が出来る。相手がいて共に 型稽古や組手が出来れば尚更だ。汗だくになって息があがって、 それ故に充実感が得られる。難しいのはそれが必ずしも質的向上に はつながらない事だ。場合によってはただの自己満足で終わってし まう。 無論、上記が出来ないのは論外。ここで言いたいのはその次の ステップがあると言う事。その為には食事中でも通勤中でも常に己 の姿勢を顧みて、力みが無いか不自然なゆがみが無いか内観しなく てはならない。この細かな作業はどこでも出来るが逆にやるのが難 しい。姿勢は作ったと思った矢先に崩れてしまう。ただ立った姿で 呼吸をするのも難しい。感情や氣分にも左右されるし動くのは更に 至難の技だ。そして何よりもこれは多大な集中力を必要とするもの の、最初の内は汗をかく事も無ければ息があがる事もない。よって 稽古をしている実感が湧かないのである。 喩えて言うなら現場レベルの仕事と管理職との仕事の違いとも言 えるかもしれない。一定規模以上の会社組織ではどちらも大切だ。 現場レベルで与えられた仕事を処理するのは相応の充実感がある。 が、管理職となったら部下と同じ目線で仕事をしていては意味が 無い。より大きな目標の為に部下に仕事を与えて動かすのが上に 立つ管理職の務め。業種にもよるだろうし、仕事としてどちらに充 実感を得るかは個人差が ある所かもしれないが、これも進歩する過程で経なくてはならない 変化と言えるかもしれない。
私はどっちつかずですが・・・
稽古も仕事も中途半端な感があります (しかし、ここで踏み外してしますとどっちも取り 返しが付かない所が恐怖です ) ◇過去の武道ログはこちら ◇「ねなしぐさ」メインはこちら |