* ビーズ manoa*

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2009年 4月12日(月)   もの思う・・・。


   
息子だけを持った友人の潔さに 感服しながら我が身の不甲斐なさを思い知ります。
   何事も時間が解決してくれると、頭の中では分かっているのですが、
   今日の自分は前を向いているのに 明日の自分は 元に戻っています・・・。
   みんな、こんな風に自分を立て直しながら 現実を受け入れていくのでありましょうか。

   30数年間、違う環境で育った人間が一気にお互いを理解し合えるものではないし。
   しかしながら、家を出れば お互い、無関係になるような親子関係は悲しい。

   どんなに時代が変わっても 変えてはいけないものがあると私は 考えています。
   こういう考え方を 今の人に言ったら「うざい!」としか取られないと思いますが、これが私の信念で
   変えようもないのです。

           春・・・・、私にとっては もの思う悲しい季節です。

   
    

2009年 3月18日(水)   息子の結婚式に・・・。


       雲一つ無い暖かい小春日和の15日、息子は沢山の方達の祝福を受け、結婚式を挙げました。
   人前では涙を見せずに息子を見送ろうと決心していたのに、涙で息子の姿が滲みました。
   
   お相手を紹介されてから、あっという間の半年でした。
   私は 心の準備も追いつかず、ただただ、この日が一日でも遅く来ることを願っていました。

   式まで後2日に迫ったとき・・・・・・、
   息子の寝顔を見ていたら涙が溢れてきました。
   式が終われば息子は もう、この家に帰ってくることはない・・。
   毎日見ていた息子の寝顔は もう、見られない。
   何と言うこともなく過ごしてきたかけがえのない日常でした。

   式の前日の夜、寝ようとしていた私の部屋を開けて息子が言いました。

   「32年間、ありがとう。」

   私は布団を被って泣きました。

   一昨日、
   式を終わった息子夫婦が 荷物を取りに家に来ました。
   息子が使っていたベッド解体し、衣類の大部分を運んだ息子の部屋は広々として寒いです。
   運びきれずに残った息子の背広やワイシャツが余計に寂しさを誘います。

   今、息子が使っていたこの部屋にいると思い出すのは楽しかった日々ばかりです。
   私は 決していい母親ではなかったかも知れません。間違った育て方をしたかも知れません。
   でも、いつだって我が子には真剣に向き合っていました。

   巣立っていった息子夫婦の幸せを願いながら、今は 涙が止まりません。

 

 

2009年 1月14日 (水) なんともビックリ!


                   ある日、突然、妹からメールが来た。
    「ねぇ、我が家の仏壇に小さい位牌があったよね?」(妹)
    「分からない。誰の?」 (私)
    「父の一番上のお兄さん」 (妹)
    「それがどうした?」 (私)
    「無い!」 (妹)

あぁ、嫌だ、なんで こんな大事なことを一々、メールでやりとりしなくてはならんの。
電話しろちゅーの!

              (以下、妹とのやりとり)
    「なんだ、何がどうしたって言うんだ?」 (私)
    「それがねぇ、仏壇に花を供えようとしたら 何だかお位牌の位置がおかしいのよー。
    お位牌いくつあるの?」 (妹)
    「えぇとー、5つだよ。」 (私)
    「だよねー、無い。 無いのよー、 一番小さいお位牌、父の一番上のお兄さんのお位牌。」 (妹)
    「無い? 無いってアンタ、何で無いの?」 (私)
    「もしかしたら もうろくバアサンが捨てたのじゃー?」 (妹)
    「聞きなよー、本人にー、 何処にやったのかさー?」 (私)
    「無理だ! 三歩、歩かないうちに忘れる。」 (妹)・・・・・・・(ちなみに実家の母は惚けています。)
    「探せよ、探せー! あのお位牌はねぇ、生まれてから一月も生きなかった父の一番上のお兄さんだよ。
    お祖父さんとお祖母さんは 戦火の中をお位牌を持って逃げたんだよー。
    無いで済むかい。 探せー!」 (私・・・、少し狂乱)
    「でもさー、多分、大分、前にいじったんじゃないかと思うんだよねー。
    と、言うことは ゴミと一緒に捨てているかも知れない。どうしよー、お姉ちゃん」 (妹)
    「アンタ、どうしようたって、どうすればいい。」 (私)

 かくて、この前代未聞の話は
我らに収束が着けられる筈もなく、菩提寺に相談する羽目になりました。

そこのお坊さんの答えがまた、きわめて簡単。
「いいですよー、無くたってー。今まで回向したんだしー。
おばあちゃんも そうしたくてそうしたんだからー。」

そうしたくってー? なんじゃい、それ? そうはいくかい!
戦火の中を位牌を持って逃げた祖父母の心をそのままに出来るか。
ならば、我らが作ろう、妹よ。

結局、小さい位牌を作って、魂を入れて貰いに菩提寺に行くことになりました。

雨の中、館林まで行ったら、約束の住職は 法事で出払って、従兄弟という方に拝んで貰いました。
「仏さんも思い出して貰いたくてこういう事が起こったのかもしれませんよ。」

なるほどー・・・・。今まで考えてみたこともなかったけれど、思えば 早く亡くなった父の兄弟を
弔った事もなかったのですよね。
きっと、思い出して貰いたかったのかも知れないねと、妹と話しながら家路についたのでした。

 

 

10月4日(土) ハワイにて・・・・。


        ハワイで二回もベッドから落ちてしまいました。
        何故だか分からないけれど 気がついたら床に寝ていました。

        私は繊細なので外泊すると、なかなか寝付けないのです。 (歳のせいとも言えますが・・。)
        下手をすると朝焼けを拝んでしまうと言う恐ろしい事態を招きます。
        これは 翌日のショッピングに差し支える重大な問題であります。

        問題解決、誘眠剤だ! 疲労回復、活力温存!

やったね、爆睡。

その結果が 3日目の真夜中、ベッドから落下。
痛ってぇ〜〜〜!       (体全体に むら無く広がる衝撃波。 )
瞬間移動か! 
仰向けにベッドの右下に落ちているではあーりませんか。

「あんたー、寝ているのに煩いよー。」 (娘の怒号が うっすらと寝ぼけた頭に響く。)

私は 事の事態が飲み込めない。
何で自分が こんなところに寝ているの?
寝ぼけ頭で ベッドのはい上ろうと頑張る・・・。
両手を床について足からベッドに這い上がろうと もがくが戻れない! (逆上がりじゃない!)
しかし、何とか、もがきながら、いじらしい努力でベッドの戻る。

私って どうしちゃったの?あり得ない。

あぁ、なのに 更に悪夢が追い打ちを・・・。

その翌々日、今度は うつ伏せのまま頭から落下、背負い投げのごとく一回転して大の字に床にのびた。

信じられないけれど首がグキグキと言う音が聞こえた。
あぁ、とうとう私はハワイで植物人間か・・・・。
ちぇっ、救急車で病院行きだよ。お金高いだろうなぁ。救援者は誰が行くかで取り合いになるだろうなぁ。
走馬燈のごとく 脳裏をよぎる不安。

と、その時、私を現実に引き戻す娘の声、「だいじょーぶかー?」
娘め、よりによって、あんなにすごい音がした首を持って起こそうとする。
普通、首を持って起こそうとするかー?

「やめろー、死ぬーーーーー!」

Leave me alone !   (ダイアナ妃みたい!)

翌日、私は パパイアを食べながら娘に すごい勢いで怒られたのであります。

「あんたって ほんとーに信じられない。いい加減にしてよー、迷惑!」

広いベッドは 考えものです・・・・・。時計になって回っていたのかも。

回るぅ〜、 回るよ 時代は回る♪ 喜び悲しみ繰り返し ♪

 

 

2008年9月2日(火)  見つめ直す機会を・・・・。
            
7月は当然、暑い。暑い季節は 例年出来るだけ外出を控える私が 歳のせいか、とち狂って
舞台を見ようなどと思った。  あり得ない暴挙だ。

おまけに これまた、あり得ないことに怪獣(妹)めが同席。
「アンタが見る舞台じゃないよ。」と説得してみたけれど怪獣も歳のせいか、暑さでいかれたか、見てみたいなんて
とち狂って譲らない。  しっかたないなぁ・・、姉ちゃんは 辛い。 

なんたって、怪獣は血も涙もいない女である。 かって、どんな作品にも涙を流したことがない。
ある意味、むかつくヤツなのだ。 

その怪獣が泣いた!

あっりえない!

舞台の中央で処刑されていく若き兵士が 未来の若者に向かってメッセージを語るシーンで泣いた。

劇団四季恐るべし。
「南十字星」は 怪獣の心をもうった。

怪獣談・・・ 「私だって泣くわよ。 だって、今の若者が あまりに情けなくて世を憂いちゃったのよ。」

これは余談として 皆さんも 少し、耳を傾けてみませんか?
このメッセージを受けたのは 今の若者だけでは 無いはず。
歴史で習わなかったなどと理由づけて、知ろうとしなかった罪は 私たちにもあったのではと
この歳になって 気がつきました。

      明日の日本の若者達よ、戦争の中で生きた若者の言葉を聞いて欲しい。
      歴史の大きな転換期には 名もない多くの人々が犠牲になる。
      その小さな小さな死の積み重ねが 世界の歴史を進めてきたことを、今、私は実感している。
      戦火を生き延びてきた命を ここで失うのは悲しい。
      が、この無価値の価値を信じて私は未来のために死んでいく。
      日本の変革はおそらく劇的に進むだろう。その発展の物語が 私の死後に始まり、
      成果を見届けられないのは残念だが・・・例えこの身は滅んでも
      
私の代わりに新たな役割を担ってくれる明日の若者達に未来は託せると信じている。

      明日は君たちのものだ。

      50年後、100年後の日本を 未来の若者達よ、よろしく頼む。

この物語は インドネシアの独立に関わった日本軍の話なのだが、アジア各地では
無実の罪にとわれ、900名を越すBC級戦犯が死刑になったそうである。
懲役刑に処された人たちは3000人を超えたそうだ。

戦後63年。

改めて歴史に埋もれた真実を私たちは認識しなければならない。
今の平和を貰ったお礼は埋もれた歴史を知ることにある。

 

2009年5月2日(金)  年の初めの辛い出来事

昨年後半から 我が家は激震に揺れていた。
長い人生には 山も谷もあると言うけれど 渦中にあれば そんな言葉では済まない。
この歳だというのに 大切な半年が 無くなったしまった。
取り返すべし!これから本腰を入れて前進しなくては。(と、やっと、ここまで言えるようになりました。)

話は違うのだけれど、 今年のお正月は 伊東に行って辛い現実に出くわしてしまった。

私たちが 伊東に行き始めてから四半世紀、行く度に寄っていた喫茶店が跡形もなくなっていた。
お嬢さんが我が息子より一つ下で 東京のT美大を卒業していたはずだ。
夏に行ったときは ご夫婦とも元気で店を切り盛りしていたのに 何があったのだろう。

さらに 追い打ちを掛けるように行きつけのレストランも3日後に店をたたむと言う。

食事を終えて出て行った私たちの後を追ってマスターが 突然、お礼を言いに来た。
バブルの頃、 保証人になった友人のせいで レストランの土地も建物も競売にかけられてしまうと言う。

「明後日からホームレスです。」と、マスターが言った。

こんな時、何が言えるだろう・・・・、主人さえ言葉を失った。
奥さんは 私たちが行くようになってから お子さんができ、今は 多分、大学にはいるくらいの歳に
なっているのではないかと思う。

いつも、大きな声で明るくレストランを切り盛りしていた人だった。
私たちが予約を入れたときも いつもと変わらぬ大きな声で元気に挨拶してくれた。
横で食事をしている別のお客さんが「ここに来るのが楽しみなのよ。また、春に来るわね。」と言っていたのに。

「お待ちしています。」と答えていた奥さん。不安や悲しみを顔に出さず、接客していた姿が悲しかった。
もし、自分だったら 笑顔をお客さんに向ける心の強さはないと思う。
 

みんなが楽しい気持ちでいる年の初めのお正月に こんな悲しい思いをしている人たちが居た。
私たちは 二つの悲しい現実を受け入れるのが あまりに悲しくて翌日、東京に戻ってきた。

みんな、みんな、誠実でいい人達であった。
真面目に働いて、夫婦二人で店を一生懸命に頑張って繁盛させてきたのに・・・。

世の中は こういう真面目な人たちが 時として悲しい思いをさせられる。

「あれだけの腕があるのだから、きっと、又、お店が開けるよね。」と、みんなで話しながら
彼らがもう一度、幸せを感じられる日が来ることを願っている。

真面目で働いている人たちが不幸になる世の中なんて絶対に許せない。

 

 

1月 1日 (火)   もの思う・・・・。

この頃、静かに生きると言うことに 執着するようになった。

阿川弘之氏の言葉に惹かれたのも今の自分の歳だからだと思う。
「人間、歳をとったら静かに生きることを考えなければいけない。」

先日、ある方に薦められ「文藝春秋」に掲載された石原都知事と龍源寺前住職松原泰道さんの対談を読んだ。
名僧と言われる松原さんのモットーは「三しない」と言うことだそうである。
{無理をしない」「無精をしない」「無駄をしない」
松原さんは その中で「無理をしない」と言うことは「道理に外れたことをしない」と言うことだと語っておられた。

歳をとると我を張るようになる。周囲も年寄りの言うことだと思って遠慮するようになる。
すると、いい気になって道理に外れたことをするようになる。
親が亡くなり、先生も亡くなり、先輩も亡くなったら、自分で自分に厳しくしなかったら堕落する。

年寄りだからこそ、自らを戒め、我を張らず、無理をしないようにしなくてはいけない。

自分も我が儘な年寄りにはなりたくないと、つくづく思うのだけれど・・・・。

人生、死ぬまで修行。  静かに修行。

 

 

2007年 10月31日 (水)  阿修羅像!


興福寺の阿修羅像は 美しい。

眉間に少し、しわを寄せ愁いを含んだ正面の面立ちの美しさは 例えようもない。

左のあどけなさが残る面立ちと、右の精悍な完成された美しさ。

不思議な調和である。

asu(生命)ra(与える)

a(非)sura(天)

相反する意味は 未だ解明できないらしい。初めは 戦闘神であったと言われている。

それにしても この美しさはどこから来るのだろう。
三年ぶりに 時間を忘れて 阿修羅と向かい合っていた幸せな一時。

ふと、気づくと娘がいない。
 出口に行くと 娘が ニコニコしながら待っていた。
「良かったねー、阿修羅と会えて。40分くらい見ていたよ。」

そうかー、今回も 阿修羅像の魅力に釘付けだったかー。

 

2007年 8月10日 (金)  正直者の頭に神宿る! (武勇伝、武勇伝)

あり得ない!
こんなミスを許してなるものか
4200$の入金が 600$の入金になっていた!
ギャオ〜〜〜〜!  (目が充血)

事の経緯は ↓です。

私たちは ホテルに着くと39階のラウンジに直行する。支払いは 何年も そこで済ませることになっている。
顔見知りのスタッフと娘の目の前で トラベラーズ・チェックにサインをして支払いを頼んだ。
1000$4枚、100$2枚。 

そこで普通は受けとったスタッフがフロントに降りて支払いの手続きをしてくる。

ところが 運悪く受け取ったスタッフが忙しかった。
やむなく そのスタッフが アシスタント・マネージャーを呼び、 フロントで入金してくるように依頼した。
スタッフ、口頭で封をした封筒に4200$が入っていることをマネージャーに告げた。
マネージャー、頷いて封筒の中身を確認することなく受け取った。

ここまで、私の目の前で事が進行していった。  私は しっかり見ていた。(manoaは見た!)

なれど 心をよぎる嫌ーな予感・・・・・・、ゲストから預かったお金だぞ。何で確認しないで受け取るんだ。

口に出したい・・・、しかし、彼女は 日本にいたときは銀行員だったし、責任感は半端じゃないし・・・。
おまけに受け取った相手は アシスタント・マネージャーだし。
あぁ、言い出したい・・、言い出せない。 疲労と寝不足で目が回る・・・・。
ここで言えば信頼関係が 崩れるかも・・・・。  (あぁ、我が心の葛藤は続く・・。)

一年来ないうちに こんなやり方になったのか、このホテル・・・。大丈夫かぁ?日本ではあり得ない。

しかし、どうしても 消えない嫌な予感。

駄目だ、確認すべきだ!

夕方、ラウンジに行き、スーパー・バイザーのベンに入金の確認を頼んだが どうにもこの男が頼りない。
こんな時は直接、フロントに行き、自分で確認するしかない。(頼れるのは自分だけだ!)

      私・・・・・・・・・「申し訳ないんだけど、今日、私が入金した金額を確認したいんですが・・」
      スタッフ・・・・・「はい600$受け取りました。」 
      私・・・・・・・・・「ローッピャク・ドルゥ〜〜? な・何ー?今、何て言ったあんたー!
             もう一回、確認してよー。
             600$の訳ないべがー!バカ言ってんじゃーないわよー、確認しなさいよー。」

      スタッフ・・・・・「間違いない。600$ですっ。」
      私・・・・・・・・・・「せ・責任者を呼べー!責任者を呼べー!私が入れたのは 4,200$だー!」
         
          
責任者、のこのこ登場  「後で調べる。問題ない。サンキュー」

問題ないだとー!  な・何だ、その言いぐさは・・。
サンキューじゃーないだろうが!  
4,200$が600$だぞー、問題なくないっ!
プッツン、切れた!  血圧アップ!
3,600$は何処?


電話をかけてラウンジからスーパー・バイザーのベンを呼ぶ。アシストだー。
「ラウンジで 私がこの目でチェックを 今すぐにするから 立ち会え。
今すぐだー! 一分以内だー!

ベン、真っ青

フロントで私が払ったトラベラーズ・チェックを出させる。
フロントのスタッフ、自分の前にトラベラーズ・チェックを並べて「600$でしょ。」と言いおった。

何ーー、 何ーー!   こっちにかせー!
これのどこが 100$に見えるっ!
100$はこの2枚だっ!
この4枚を目ん玉、よっく見開いて見てみろ。1,000$だろーがー、アンポンタン!

「これが 1,000$だ、1,000$だ、1,000$だ、1,000$だー!」
思いっきりフロントの大理石にトラベラーズ・チェックを4回、叩き付けてみた。

この剣幕に周りは何があったかとフリーズ状態。
フロントのスタッフは さすがに間違いに気がつき、「私のチェックの間違いについて謝りたい・・・・・」

うっせー! 怒り頂点に達す。

「知らないよっ、英語、話せないもんねー。(怒りで すっかりひねくれてしまった。)
ベン(スーパー・バイザー)、フロントのトップから然るべき挨拶させてよ。
何で 先ずは アイム・ソーリーが出ないんだよー。人のお金を 日本円にして40万近くも無くして
ミスして悪いで済むと思っているのかー! ざけんなよー! そんな簡単に考えるんじゃーないよ。
それが 一流のホテルのすることかー。日本人を舐めるなよ、始末は しっかりつけなさいよー!」

ハワイに行く前から多忙で目の下にクマを飼っている可哀想な私は このアクシデントで
しっかりフェイス・アップ。

この事は 後になれば笑い話かもしれないが 本当はとても恐いことだと思う。

もし、この時に私がチェックをしていなかったら ホテル側は 10日後のチェックアウトの際に
ホテル側がミスした金額を さらに要求してきたはずである。
スタッフは コンピューターには600$しか入っていないと主張するはずだ。
そうなれば 押し問答の末、調べる時間がないのだから、 飛行機に乗るためには クレジットで
一端、その金額を払うしかなくなるだろう。 後日、調べて戻すったって 悠長な国なのだから
一月で返れば儲けもので どうなるやら分かったものではない。
レートだって違ってくるし、押し問答に時間をかければ 飛行機だってキャンセルの憂き目にあいかねない。

こういう先の事まで考えを巡らせる危機意識が 全く無いという感覚が恐ろしい。
私は行きなれているから こういった場合でも対処できるが これが初めての人だったらどうするだろう。
もし、帰りに こういう事が起こったら・・・・・・・・・・・・。

今回のことで しっかり、認識した事が一つ。
どうやら私には 神様が宿っているらしい。 何か 危機が迫ると ご託宣があるとみた。

う〜〜ん、何て言うんですかー?

正直者に神宿る?

皆さん、石をぶつけないでー!

武勇伝、武勇伝

 

2007年5月28日(月)   難しい人付き合い

一年ぶりに友人と会った。
歳がかなり離れているので いつも、なるほどと勉強になる話を聞かせてくれる。
今回は 人とのつきあい方について教えられた。

その方の友人には 心に針を持った人がいるらしい。
若い頃からのつきあいだったらしいが他人の幸せに直面したとき、
素直に喜びの言葉をかけるどころか、何かチクリと気に障るような言い方をしてくると言う。  
  性格なのか・・・、その方の生きてきた歴史なのか

若い頃から70歳を過ぎるに至ってまで その調子なのだから 今更、治るはずはない。
気の毒な性格とは言え、周りは気が重いだろう。
我慢して、いなしている友人は さすが、お慈悲の人。  私なら、とてもとても・・・・・。

私の友人がある時、「育ちが分かるわね。」と言う台詞を吐いたことがあった。
この言葉、大嫌いだ。  こういう言葉を言う本人は どういう気持ちで言うのだろう。
本当に驚き。   何様のつもりなのかと思ってしまったのだけれど・・・・。

決して 面と向かって他人に言うべき言葉ではないと思う。
私は本当に この言葉でいろいろなことを考えてしまった。
私も気をつけているつもりでも 人様に不愉快な言葉を吐くこともあろう。
そうしてしまったときの他人様の気持ち、取り返しがつかない。

この歳になったら 若い頃と違って、人とのつきあいに より一層、神経を使わなくてはならない気がする。
嫌なことは誰だってされたくないし、嫌な言葉は聞きたくない。
反面、優しい言葉や思いやりは 生きる張り合いになる。

嬉しいとき、親切にして貰ったとき、心は優しくなれる。

 

2007年 4月26日 (金)  カナダ旅行も往復災難!

今頃になって やっと、カナダの旅行記を書こうと思ったら ほぼ忘れていた。
な、訳で遅ればせながら・・・・。

今回のツァー・コンダクター・・・・、若い。 入社3年目の新米お兄ちゃま。
ふと心によぎる不安。  頼れるのは己しかないかも。
こういう風に自由行動ばかりのツァーに行かせて 修行させようってか。  (授業料、払って欲しいぞ。)

今回は いい方ばかりみたいでよかったねと娘と話していたら やっぱりいました、問題一家。

父親&父親うり二つの中学生の男の子と、 どう見ても いってしまっているとしか思えない母親&
えらく口が達者なちび娘。 飛行機で席を取っているからには 二歳を超しているのだろうけど。

こういう場合、嫌ーな予感は的中します。     なんでや!
 飛行機の席は娘の後ろにちび、私の後ろに母親ときたもんだ。
二人共、煩い。  ものすごく騒々しい。  声が でか過ぎる。 おまけに席を二人して絶え間なく蹴る。

寝られねーよっ!

何回か、席の間から後ろを睨みつけて因縁をつけてみる。
動じない、この馬鹿母親・・・・。クゥ〜〜〜。

ヨーロッパは 眠れなくても夜中に現地に着くので ホテルで寝られるけれど、アメリカ方面は
朝、現地入りなので睡眠不足は 応える。   歳だし、・・・・。

ずっと、この状態でした、飛行機の中。 おまけに座席で オシメを替えていたのにはあんぐり。
この母親、どこまでアホなんだ。
大体、オシメも取れない子供を連れてツァーに参加するかー?

ツァーでは いろいろな人に出会うけれど この家族は ちょっと異常でした。
子連れの再婚同士なのか、兄弟の年も離れすぎだし、何よりもツァーの方達が
気になって仕方なかったのは 男の子の話し方の不自然さ。

母親は 歯を磨きながらホテルのショップを覗いているような非常識人間で。(信じられますか?)
チビは 猫かわいがりのくせに 息子に対しては 見るに忍びないほど冷たい。

こうやって 親の顔色をうかがいながら おもねるような話し方をしているこの男の子は
将来、どのような大人になるんだろうか・・・・。
子供が 自分の一生を選べない悲しさを目の当たりにしたような気がした。

本当にぶっ飛ばしてやりたい馬鹿親

ちなみに新米コンダクターのお陰で 帰りも同じ状態の席になってしまった。
勉強しろ新米。  奴らのせいで9時間半、えらい目にあったと現地に着いたときに言ったろうが!

着陸時に飛行機は 大揺れするし、スカイライナーは 人身事故で止まっているし、疲れた〜〜・・・・。

カナダの感想?  うーーーーーん・・・・・・・・・・。二度は行かなくてもいいかな・・・。
 

 

2007年 2月5日 (月)   電子レンジ、壊れる・・・。

電子レンジが壊れた!
またしても この季節になると起こるいやーな出費。
ナショナルだわー、このレンジ。
ナショナルは 部品代、高い。技術料、高い。出張費、高い。しかも なかなか来ない。
ちっ、新しいのを買うか・・・。
いや待て、一応、電話をかけて状態を話してみるか。

(サービスセンター談) えーっ、何ですってー、全部で8,000円くらいー?しかも二日後に来てくれるってー?
本当なの、確かなの?  夢か幻か、はたまた幻聴か・・。狂喜乱舞!
新しいのを買わなくても済むではないか。

お出でくださいナショナル様。 お待ち申し上げております。 直してください。お願いします

で、今日 来てくれました。
そして 修理費を宣告されました。 「1万5千円でーす。」
へっ? 何?  もう一回言って・・・・。(/_・)/

うっそー!電話のおねぇちゃま、部品代4,000円位、出張費と技術料で4,000円位と言っていましたよー。
目ん玉、ウルル・・・。

修理人さん、「そう言われましてもー。」と強固な姿勢。

じゃー、何ですか?貴方は 正直な話、このレンジは直した方が得だと思われますか?
はたまた、新しいのを買い換えた方が いいとお考えですか?

これ気に入っています。もう少し、安く直してください。  再び、目ん玉、ウルルで訴えてみる。

「では、出張費を無しと言うことで 12,000円位でどうですか?」
まだ高い! しかし、ここで引くのも手だ。江戸っ子は引き際が大切だ。)
「申し訳ありませーん、ではそういうことでお願いいたします。」

ひたすら 恐縮しまくり、お茶なんか出してみる。

はい、結果はどうなったでしょう。

実に8,820円でしたー!

修理人さん自身、言っていました。高いですよねぇ修理も。部品代、安くしておきましたから・・・。

あんがとね。(^▽^)V

でも、これって考えてみれば 修理ってかくも安く出来ると言うこと何じゃーないの?

 

 

2006年11月10日(金)  キャッチに捕まる!

朝から 青山に行っていた。
クアアイナのアボガド・サンドを どうしても食べたくて、
用事が済むやいなや、外苑前から神宮前までの地下鉄一駅を 猛スピードで歩いていた。
何とか、お昼前に入らなくてはならん。

と・・・、スーパーの前で 女性に話しかけられたような・・・気がした。 多分、目があったかも知れない。
しかし、2メートルは 通り過ぎている。  行っちまおうか・・・、でも、道が分からなくて聞いたのなら不憫だし。

仕方ない、聞いてやるか。 「何でしょう?」
相手は 気が弱いのか 私の勢いに押されているのか 伏し目がちに何かつぶやいた。
「○☆%△#〜・・・」  えぇい、聞こえん!

「何でしょうっ?」  
「おきれいにして
いらっしゃるから○☆%△#〜・・・」 けっ、気の弱いキャッチか、猪口才な。

「実践は ご自分で。」笑って応答してみました。 。。。タタタッ。ヘ( ・・)ノ サンドイッチ、サンドイッチ

とうとう、目の前にクアアイナが見えるところにたどり着きました。急げや、急げ!
青に変わった信号めがけて ダッシュしようとしたその時、

「あんら〜〜、あなた〜〜!」 
 な・何? (/_・)/  すれ違ったオバサンに大声で呼び止められた。

知り合いか? よく見てみる。  違う。  乱視の目を開いて凝視してみたが 知らない。
オバサン、フリーズしている私に お構いなくこう言った。

「貴女、額から光が出ていますよ。」・・・・・・・(クゥ〜、今度は 霊感商法かよー。) (;´_`;)m

「 クリリンじゃーねーよ!」 (▼▼)  目力のあるオバサンを さらに上回ってみました。
(ったく、この忙しいときに片桐はいりに話しかけられたかと思ったよ。)

いよいよ、クアアイナは この信号を渡った真ん前に。  感動の一瞬は もはや目の前にある!
(いいわぁ、このときめき。)

走って渡り終わった途端、突然、何処からか目の前にオネェチャン出現。 \(Q)/ 
危ないじゃーないの、あんたー。  踏みつぶすところだったよ。 何の用よ、今度は?

「宜しかったら こちらの美容院に・・・・。」 
ヘッ?  昨日、美容院に行ったばかりなのに オネェチャン、私に喧嘩を売る気か? ☆α==(・・#)

青山は変わった!
キャッチが現れるとは知らなんだ。

もしかして この町に 私は不似合いってか。  
はたまた私がキャッチに引っかかると思ってか。

上等だ!  今度、空腹ではないときに 相手になってやる!

恨み骨髄。

 

 

2006年 10月31日 (火)  忘れてならないもの

今年は 戦後61年。
いくつかの戦争を題材にした映画が封切られた。
戦争にまつわる話は 例え、それが脚色であっても悲しい。
私自身、戦争については 教科書でも習った記憶がない。何も正確な歴史を知らない。

この何年か浅田次郎の本を読むことが多くなった。「壬生義士伝」「シェエラザード」 「日輪の遺産」
どれも日本人の根源に問いかける本である。
しかし、この重い課題に 私は 当初、戸惑い、多少の反発さえ感じた。

今、再読すれば 素直に心に響き、涙する内容であったのに・・・。

私が もし、あの苦しかった時代に生きていたら あの本を読んで反発の気持ちなど起きただろうか・・・。

起きるはずはない。

私たちは「忘れてはならない過去」を 知ることなく育ち、親になった。

今、封切られている「父親たちの星条旗」も 複雑な映画である。
日本だけではなく アメリカでも 勝つためには あのような事実があった。

日本は 圧倒的な生産力と豊かな物資を持つ国と はなから負けると分かっていた戦争をした。
冷静な分析力よりも 精神論を優先させ、徴兵された多くの兵士と民間の非戦闘員を死に至らしめた。

あの戦いが如何に惨い戦であったか、否応なく徴兵された兵士たちが どの様な思いを残して
屍となったか、日本人は 知らなければならない義務がある。
復員後も 戦勝国の報復ともとれる裁判でどれ程の人が罪に問われただろうか。
戦後のこの国の発展は あの戦いで亡くなっていった多くの人たちが築いたものである。

はからずも「亡国のイージス」にはこんなの台詞があった。

「平和ボケした日本人、これが戦争だ。」

 

 

2006年 8月16日 (水)  ハワイにて・・・。

毎年、ゆとりを持って 旅行に行こうと思っているのに 現実は 日々、追われて
 旅行前のわくわく感などどこ吹く風・・・・。 
やっとこ、広いシートを取ったというのに 一睡も出来ず、ホノルル着時は まるでパンダご一行さまに。
成田での顔は 憔悴しきった病人のよう。 娘曰く、「栄養剤を飲め、まずいぞ その顔つき。」

今年で 29年目になるハワイ、変わったなぁ・・。
昔は もっと人の心が温かく感じられたような気がする。
多分、現地に住んでいる人たちは気がつかないのだろうけど これも観光客が荒らしてしまったのだろうか。

Mahinaさんに聞けば 日本人は あちこちで顰蹙をかっているとのこと。
言えるだろうなぁ、何処に行っても 今の日本人は 大人も子供も マナーなどどこ吹く風だし。

外国に行くのに その国の文化を学ぶことさえ知らないで行く人は確かに多い。
例えば チップ。
チップという習慣がない日本人は そう言う点でマナーを欠いていることさえ気がつかないのだろう。
確かに 観光客と見くびって たいしたサービスもしないで 当然のようにチップを要求する店もある。
あちらは 時間給が低いので チップは 収入を左右するからなのだが・・。

でも・・・・・・、

以前は、Hyattでもチップを 予め請求書に付けていたことがあった。
これには さすがの私も怒った。 この金額に見合うサービスをしたか、あんたー?

マネジャーを呼びんしゃい!

「チップは 客が テーブルを担当したスタッフのサービスに対して決めるもの。
ホテル側で担当したスタッフの現状も分からないまま、かってにサービス料を決めるとは何事か!
それが 一流だと豪語しているHyattのやることか!
サービスがよければ15%と言わず20%でも 付けてやるわぃ。
そうして貰えるサービスを心がけろ!」 (その時は かなり気が立っていたのだと思うが・・。)

これ以来、Hyattでは 良心的にチップの掲載は辞めたが 他のレストランは 逆に付けている事が
多くなった。  多分、観光客のせいだろうが・・・・。

文化の違い、ものの考え方の違い・・・・、今年のハワイは いつも しっかり受け止めて融合してきたことが
うまく、受け入れられない。  何でだろう・・・・・・・・。
 

そろそろ、宿泊ホテルを変えようかな・・・・。

私たちって 本当のところ、今年もハワイに何をしに行っているんだろう?

買い物だってかー!   それはそうだけど・・・・。

 

2006年 7月3日 (月) ナイチンゲールの心よ何処・・。

この前、嫌な看護師の話を書いたばかりなのに またもや、遭遇。こんなヤツ、本当に看護師か?

先週の金曜日、娘が肘を痛めて帰ってきた。 腕が曲がらないという。 そりゃー、仕事にならん、一大事だ!

翌日は 土曜日で休診なので やむを得ず、救急で伺う旨、病院に連絡し、
何故か、行くのを渋る娘に 脅しをかけながら E病院に向かった。

先着一名!
廊下に6個ばかり置かれた椅子に 若い男の人が 横になっていた。
よほど具合が悪いのだろう、私たちが 横に座っても 起き上がれない。  顔色、真っ青、 否、 土気色。

そのうちに4組ほど患者さんが来て、一時間あまりが経過したが ぜーんぜん、医師が来ない。
と、そこに 怒り肩の怒り顔の看護師が 娘の前に立ちはだかった。

いきなり、診療時間を書いた病院の案内書(?)を娘に突きつけて こう言いやがった。

「ここはねー、8時半までしか診療しないのよー。夜は 診療しないからねー。何処か他を探すのねー。」

何? 何、言ってんだ、このオバハン?  訳、分からん。  娘の顔を思わず見る。

「何なんだ、あの言い方は? まだ、あんたの診療だってしていないうちに 角が立つ言い方するねぇ。
誰が はなから 夜しか来られないと言ったのよ。来られる日が あるかないかは
見て貰ってからの話しだろうが!   それは 診療後の話しだろうが!」

娘、ボソッと言う。
さっき電話したときに 「教師をしているので 授業を抜けられず 昼間、来られませんでした。
申し訳ないと思いましたが こんなお時間に電話させていただきました。」と言ったからかも・・・・。

何? そんな下出に出て電話したのに その言葉の揚げ足をとったのか?
それで あんた、行くの、気が重かったのか?    くぅ〜〜・・・。(ワナワナ・・・。)

どうしてくれようかと思ったその時!

そのアホが 大声で廊下を通っていきました。「こっまるのよねー、診察室で寝ているのよ。何だろうねー。」
何事だ、今度は?
気がつけば 横に倒れていたお兄ちゃんがいない。  彼のことかー?

そこに 診察室から よろよろと真っ青なお兄ちゃんが出てきました。 再び、椅子に倒れ込みました。

看護師、近づきます。 「誰に断ったの?」  
「急患の受け付けで 寝ていていいと言いました。」 (お兄ちゃん)
「はぁ〜? 困るのよー、迷惑よー、診察室なんだからさー。」 (鬼)

ピキッ!

お兄ちゃん、とうとう、切れました!
後は ご想像通り・・・。責任者を出せ、おまえ、何様のつもりだ、弱いものいじめをしてんのか云々。

気がつけば 先ほどまで土気色だったお兄ちゃんのお顔は 真っ赤っか。
しっかり床を踏みしめているし、言葉もはっきり、巻き舌に。
よかったと言うべきか、お気の毒と言うべきか・・・・。

但し、悲しいかな、若さ故か、病故か、お話が いまいち、理路整然と行かない。
あぁ、せっかくの怒りは あんたが正しいのに 不利な方向に流れていく・・・。

ねぇ、誰が見たって 意地が悪い看護師の仕打ちでしょう。 これでは 誰だって怒る。

 この看護師は 多分、病人にたいして いつも上から ものを言っているんだろう。  
強い口調でものを言うことも (励ますという意味では) 時に必要なことがある。
 しかし この人のもの言いは 冷静な心を持ってしても 悪意を感じる。

大の男が 人目を気にすることも出来ないで、起き上がれずにいる姿を見て、
「迷惑」と言えるであろうか?

この看護師も この前の嫌な看護師と同じ顔つきをしていた。
苦労の多い仕事だと思う。  きつくて大変な仕事だと思う。

でも、彼女だって ナイチンゲールの精神を かつて習ったはず。
病人は 心も体も弱くなっているのだから その職業に従事している誇りを持って接して欲しい。
 

 

2006年 6月9日 (金)   ロイヤルホストの馬鹿!

お使いの帰りに友人と ばったり会ったのです。

時間が時間だから ちょっと、お昼でもと言うことになった。

おお真横に ロイホ。
こんな所にいつから ロイホが?

探す手間が省けるというので ここに入ってライチを注文。

唐揚げ〜!

って、なんだー?
親指の先ほどの唐揚げが 5個。
下に2ミリくらい 器用にキャベツらしきものが
乾燥寸前に敷いてある。

な・なんだ?  銀座だって ランチ、もっとちゃんとしているぞ!

これって おつまみかよ?

つぶれろロイホ!

浅草から 消えろ!

おまえなんか 一等地に 出しゃばるな!

食べ物のことになると 異常にテンションが
あがってしまうmanoaさんでした。

もう一回、何か食べよう。

 

2006年 5月 12日 (金)   まさに万里の長城!

連休の伊東行きは 何故か去年を参考にしている、とち狂ったタヌキのお陰で6時間もかかってしまいました。
今年は今年、去年は去年、全く何を考えているやら ヤツの考えは分からないのであります。
未だに人間界の法則に慣れていないとは 情けなや。  私としたことが 不覚・・・・。

しかし、問題は 帰った途端に勃発したのでありました!

先に家に入った娘とタヌーが キッチンで大騒ぎをしている。
「なにー! どうすんだー! 母、ひっくり返るぞー!」(娘) 「こりゃー ひでーや! ケケケ・・・!」(タヌー)

ええい、煩い、何を帰った途端にわめいている?ドスドスとキッチンに踏み込んだ私の目にしたものは・・。

調理台の上に鎮座ましましている、どでかい箱。
まさに ミニ物置、あるいは 上置き式衣類乾燥機、はたまたギゼーのピラミッド!

娘、おそるおそるメモを私に手渡す。
「母の日のプレゼント。大きすぎると文句を言わないで受け取ってね。 by息子」

って、食洗機かねー! それはいいけど どうするのこの大きさ、調理台からはみ出しているじゃないか!
食洗機を使う前に これから 何処で調理をするの? 我が家って 何人家族なの?

と、ここで 我が家は パニックになったのです。
シンクの両側に調理台があるとは言え 水回りは 左しか使えない。 右側は ガス台があるから不可能。
それより なにより この大きさ、到底4人家族には 誰がみても不必要、不経済。

あぁ、頭が痛い・・・、息子の気持ちは嬉しいに決まっているけど 不可能なものは 不可能。
タヌーは だめなんだから 返すしかないと単純に言うけれど 返せば 息子の言う言葉は百も承知。

「もう 二度とあげない。」

でも、そう思う気持ちは よく分かる。  自分でも 多分、同じことを言うだろうから・・。
しかし、どう考えたって 我が家には 無理な大きさ。

息子は 何故か 食洗機に去年から ずっと こだわっている。
けれど、その話が出る度に 私が必要としていない理由は言ってきたはずだ。

1,一番に置き場所がないこと。 2,全員が揃う機会は 一週間に2〜3回しかないこと。
3,息子自体、 朝早いから食事をしないこと。
4,娘は 朝、自分の使った食器くらい 自分で洗わせるべきだと思っていること
5,今の自分の歳で 食洗機に頼ったら その先は 食事の支度自体が 嫌になって辛くなることが
自分で分かっていること。(ここが 私には 大きなポイントだった。)

息子は 自分が遅く帰ったときに 自分の食器を洗わせずに済むとか、私が楽を出来るとか
単純に考えたのだろうが、正直、私は あれほど言ったのに 何を理解していたのかと
思い悩んでしまった。     男とは こういうものなのか・・。
 タヌーが言うように 事前に一言聞いてくれればと思うが
本人にしたら 黙っていて脅かそうとしているのだろうから 話しがかみ合うはずもない。

結局、私は悩みに悩んだ末、購入先に 交渉して引き取って貰うことになった。
その後の 我が家の葛藤は 予想通りで 私の誕生日は かくも無惨な状態に相成ったのであります。

あぁ、針のむしろ・・・。  万里の長城めが・・・・。

本当は 血圧が上がって 倒れそうなんだぞー!
 

 

2006年 4月17日 (火)   締めくくり

えー、皆様、AVAのツァーには 注意しましょう!
さすが 安全度業界29位のJALの手下です。  親方日の丸の元にやることが違います。
今回のツァーのホテルの立地の悪いこと、他に類を見ません。

最後のホテルの場所・・・・、バチカンのはずれ、バチカンまで30分もかかるようなところでした。
以前、同じ時期に行ったツァーは もっと安価でしたが ホテルは 街から ここまで外れていませんでした。
私たちは ポンペイのツァーに参加しましたが フリーの方達、街に行くも帰るも 大変だったと思います。

そうそう、それで ポンペイのツアー、これが又、腹が立つのです。
ホテルを7時前に出発しました。 他のホテルの人をピックアップして、ナポリ港に お送りしてから、
さらに 行きたくもないカメオ工場によって余計な時間を費やして・・・、やっとポンペイです。

ここでイタリア人の美人ガイド、マルちゃん(マルゲリータさん)と ポンペイ入場。
バスに乗ってきた現地の日本人ガイドは 付いてきません。 (結構なお身分でいらして・・)

「行ってらっしゃーい。 ユックリ一時間、見てきてくださいねー。 その後、ユーックリ、ランチでーす。」

な・何? ちょっと 待てぃ!  1万7千円も とっておいて 一日でも見られないポンペイを
一時間だってー?  あんた、気は確かか?  おかしい、こんな筈はない!
来る前に ちゃんとAVAに電話して ポンペイの観光が二時間だという事を確認した上で参加したんだ。

参加者、一時間の観光に動揺するが 誰も確認できない。  それじゃー済まないよ!

「ちょっと ちょっと、マルちゃん、二時間だよね? あのオバサン、一時間なんて言っていたけど
二時間だよね? 一時間じゃー、なんにも見られないよね。 二時間て聞いたから参加したんだよー。
ねぇ、どっち? 答えて!」 と、とち狂った私は 自分もオバサンであることを忘れてしまったのでした。

マルちゃん、悠然と微笑んで言いました。
「二時間、見たいー? いいよー。」  (うぅ、あんたは いい人、美しい人。)

曇天、寒い・・・。  「ここは 晴れていると 素晴らしいのよー。 私たちだって この前に来たとき
青空の下に広がっている この町並みを見て感激したもの。」 と、娘がつぶやく。

残念・・・・。もう、二度と来られないかもしれないのに・・・・。無念・・・。

観光中、日本人ガイドからマルちゃんに帰れコールが・・。  どこまでも むかつく現地の日本人ガイド。

レストランで 腕組みしながら目を引きつらせて待っていました。
「急がないで食べていいですよー。」なんて まるで嘘を言っているのが 吊り上がった目で 分かる。
アルデンテであろうが 噛み砕いて早食いしてやる!  目にもの見せたるぞ!

要するに 3時半にナポリ港に着く船を 早めに迎えに行きたかったと言うことですな。

翌日、数々のアクシデントを乗り越えた健気な一行は ローマを後にし、ドゴール空港に向かったのでした。
ここでの 乗り継ぎ時間は 一時間十五分。  これって かなりきつい。
JALのチケットを 貰う為、急ぎ足で 出国ゲートに向かい、蟻の大群のように早足で行進。

がーー、人、人、人、人で ゲートのはるか手前が 大混雑。  添乗員さん、焦りはじめました。

事件です!

不審な荷物があったそうです。 
フランスのドゴール空港は 過去にテロの被害にあった苦い経験があるため
不審な荷物を見つけた場合は その場で コッパミジンコに爆発するそうです。

でも、それって かなり危険。  爆破の威力を どうやって調べるの?
万が一、全部、この場所が 吹き飛んだら どうするの?  もっと、下がれったって そういう問題か?

「もう どうだっていいよねぇ。  こんなに肉厚な人たちが前にいるんだから 爆発しても
破片は 突き刺さらないんじゃーないのー?  振ってきても肉片なら そんなに固くないんじゃーないの?」

後ろで たまプラーザお住まいのマダムが「私、そういう考え方、大好き!」と 妙に同調している。
結局、何が何だか 分からないまま、爆発は無しと言うことで ひたすら走らされてJALに乗ったのでした。

PS.
         飛行機の中で見た「Always  三丁目の夕日」は 心にしみました。
行ったか、行かなかったか、分からない忙しい旅でしたが 
この映画を見て 心が和んだような気がしました。 幼い頃の懐かしい風景・・・、まだ、覚えている・・・・。


「10年後も 50年後も 美しい夕焼けは 必ずある!」 そう願いたいですね。

あれ?50年後?  生きているわけないじゃん!
 

 

2006年 4月3日 (火)   フィレンツェにて・・。

三日目は連泊。  あぁ、嬉しや、荷物を ホテルに置いておける!  楽!
ホテルの場所は 「フィレンツェ又は 近郊」・・・??? こういう書き方は 要注意。
絶対に 「近郊」と相場は決まっている。    一応、覚悟はしていたけれど・・・。

パンフレットが届いてみたら 「カレンツァーノ」と書いてある。
なんだー? カレンツァーノだー? 何処だ?  地図、地図!  無い、何処なんだ?
ガイド本なんかに載ってない。  まさかー・・・。

ありました、やっと探しました、大きな地図で・・。  

「近郊」だってかー?  「近郊」に引っかかっているかもだろうが、フィレンツェから。
タクシーで30分以上かかる!  舐めてんのかー。

この移動時間は 本当にもったいなかったけど フィレンツェで 午後は 待ちに待った自由行動。
ウフィッツ美術館で 解散後は 脱兎のごとく 「肉」を食べに。

???「イエロー・スナック・バー」だって。  アメリカか? 「バール」じゃないの?
でも、ここは 地元のガイドさんのお薦めだし、お腹がすいて歩けないから妥協し。

何々?Tボーン・ステーキは 800グラムから?  ただし、200グラムくらい前後しますだって。

「ねぇ、試しに800グラムって言ってみようよ、絶対に 1キロで お勘定してくるよ。」
「そうかなぁ?」  
「そうだよー、あんた甘いのよ。ちなみに 骨の重みが 150グラムで肉は 50グラムくらいだな。」 
「まさかー。」  「ねぇ、二つ取ろうよ。」  「馬鹿か?大きいんだぞ! 絶対に食べられない。」
「何、言っているのよー。大きいのは 骨でしょうが。肉が足りなかったら 暴れちゃうよ。」  
「では 一応、来てみてから決めてよ。 Tボーンを二つも取っている人いないよ。恥ずかしいよ。」
「チッ、ここまで来て・・・。」

肉・・・・、はい、驚く大きさでは ありませんでした。
大きな骨でした。  しかも ミディアムと言ったのに 完璧にレア。
もう少し、焼いてくれといたら 厚いからこれ以上焼けないと来た。
食い下がって焼かせてみたけど 何処が焼けたのか変化無し。  あぁ、肉食獣になった感じ。
娘は お腹いっぱいになったねと言っていたけど そうかなぁ・・・。
はっきり言って 「足りない!」

それでも 上機嫌の娘は 意気揚々と かねて目を付けておいた手作りの掛け時計のお店に。
ウ〜〜、またしても 選ぶの長い!   お腹がすいていたら 絶対に 絞めてやるところだけど、
経営者のおばあちゃんの笑顔を前にして 急かせるわけにもいかず じっと我慢の母でした。

「娘よ、頼む。ドルチェ、食べよう。疲れた・・・。本当に あんたと買い物、するの嫌い!」

かくして、午後の自由行動の時間は 瞬く間に過ぎていったのでした。

私たちが言うフィレンツェは イタリアでは「フローレンス」と呼びます。
きれいな呼び方ですねぇ。
その呼び方通り、観光客であふれかえっていながらも 重厚さを失っていない街でした。
フローレンスの夕暮れは 重厚で哀愁があって闇の中に 歴史の息づかいを感じます。
この街、好きです。

 

2006年 3月24日(土)  イタリア part1


今回は 小出しに日記を書こうかなんて思ってます。

イタリア・・・・、寒い!
日本人は 大体において、イタリアは 日本より暖かいと思っているでしょう?
ねぇ・・・。
寒いの。

この頃は 経費削減で添乗員が事前連絡をしないツァーもあるけれど
 たかがグループの代表一人の連絡ごとき 何故やらないのだ。

私たちは 「外国にとっては外国人」(?)なんだから気候のことは PCで分からない部分があるのだー!
ねぇ・・・・・。

その寒い中、二日目に行ったベネツィアでは 水が大嫌いなのに ゴンドラなんかに乗せられた。
小さな親切大きなお世話、ありがた迷惑、計画殺人。
私は 泳げない!  しかも なんと40分、5人乗り。  私は知りました、寒さは恐怖に勝つ!

凍えきった体を引っさげて ツァーから2時間離脱し、娘が行きたいと言っているガラス工房を探しに・・。
イヤーな予感・・・。
案の定、迷路、迷路、迷路、迷路・・・、娘よ、母を置き去りにしないで。ぜーったいに元に戻れない。
イタリアでホームレスは 惨めだ・・・・。
「聞け!」  「誰に?」 「誰かだ!」 「居ないよ。」 「探せ!」 「いた!お爺さんだー、突撃ー!」

教えてくれました。  とーっても ご親切。  わざわざ案内してくれました。
「こっちさ、来い!」  と、多分、イタリア語で言っていたのでは ないか・・・。

でも、ノックしているところが 変。   ただの家のドア。  大丈夫かー。
「ここかー?」 「う〜ん」 「う〜んじゃないんだよ。なんでショーウィンドウがない?」 「う〜ん・・。」

違う!  イタリア人は 親切(?)だから分からなくても ここだろうと言うところを教えてくれるから
注意が必要だと 自分で言っただろうが。 あんた、さっきから冷えてトイレに行きたいのに〜〜。(うぅ・・・。)

かくして振り出しに戻った我らは やっとこさっとこ執念で見つけたのであります。(早く買ってたもー。)
ところが 慎重と言いましょうか、単なる目移りと形容しましょうか、娘の買い物は とにかく、選ぶのが長い。
もう、早くしてってばー!  「いい加減にしろよっ!」  ついに ぶち切れました。
何回、選んだものを変えるんだ! おじさん、奧に ひっこんで呼んでも出てこないじゃーないか!
あんた、一目見たときに目をひいたものが いいと おじさんが言っていたろうが!
(私には 分かります、おじさんの心と 私の心が一つになりました。)

こうして なんとか価値ある作家が作った繊細な「カニ」の製品を手に入れ、娘、喜ぶ。
そして 私は やっと戻ること30分、しずしずと滑るように 衝動を避けながら トイレに向かったのでした。

ゲッ、インフォメーションのトイレが1ユーロだってー!
クッ、10ユーロしかない。  おにいさん、おつり、早く〜〜〜・・・。

2006年 2月23日 (木)   変身ホテル、あらビックリ!

我が家の近くに、何故か 一軒だけ、「ラブホテル」なるものがあった、住宅地の真ん中に。

二年くらい前まで本当に 気がつかなかった。(その位、何の変哲もないと言う建物で・・・。)

最近、地下鉄の駅から やけに多くの外人さんを見かけると思ったら、
なんとそのラブホが 外人専門のホテルに変身を遂げていた。

例のバックパッカー用のホテル。

頭いい!  先見の明!

しかも これが 結構繁盛しているところが なんともすごい。
でも、どうやって外人さんをだまくらかしているんだべ。

地下鉄の駅からは かなり遠いし、出口は三つもあって 出る口によって かなり距離があるし・・・・。
外人さんの感覚は 日本人には やっぱり理解できない。バックパッカー、恐くて出来ない。

この間なんか 朝早くからジョギングしている外人さんを見かけた。

すごいわー、外国に来てまでジョギング。 これも出来ないわぁ!

ホテルの前は 何故かベランダ用の円テーブルと椅子が3セットくらいあって、
どう考えても脈絡のないライオンの汚れたぬいぐるみがデーン。

金儲けってこういう風にやるんだわねぇ。

出来ないわー。出来ないことだらけだわー。

 

2006年 2月9日 (木)   むかつく看護師

目のまわりの骨の手術が無くなったので 予定通り、息子が 昨日、○察病院で
扁桃腺の切除手術を受けた。 個室でなかったので 他の患者さんの遠慮もあって
面会時間の三時に病院に行った。 先ず、ナース・ステーションに寄って 親としてご挨拶。

「今日、手術を受けました○○の母でございます。
この度は いろいろとお手数を おかけしますが宜しくお願い申し上げます。」

ナース・ステーションには 二人看護師さんがいて型のごとく挨拶を交わし、
さて、息子の病室へ行こうと思ったら 奥から「あのねぇ・・。」と声が。

「息子さんね、止血がなかなかうまくいかなくて 時間が かなりかかったのよ。
さっきまで先生がいたんだけどねぇ、さっきまで。
もう今、手術に入っちゃっているから 四時半か五時過ぎないと 先生、来られないからね。
先生じゃないと説明できないからね、私では。  待合室ででも待っていてよ。」

 説明できないって あんた、十分、親を心配させること言っているよねぇ。おまけに何と攻撃的な物言い。

どうも この手の看護師の言うことは 素直に納得がいかない。他の人に聞き直したくなる。
そこに 優しそうな看護師さんが来たので もう一度、先生にお会いできる時間を聞いてみると

「はっ?手術に入っている?誰が言ったんですか? ちょっと先生に聞いてみますから
息子さんのそばでお待ちください。」

すぐに戻ってきて「先生は ただ今、外来の診察に当たっていますので 四時半か遅くても
五時までにはお出でになれますので・・・。」と言う。(話が ちょっと違うなぁ・・・。)

それならば 仕方ない、待とうホトトギス。

でも、意識が朦朧としている息子のそばで一時半以上も待つには その前にやらなくてはならないことが。
遅くなるとなれば娘に夕食の支度を頼まなくてはならないし、
息子を 心配している主人に連絡も取らなくてはならない。

電話は 携帯を使えないから一階の公衆電話まで行かなくてはならない。
一時間半ほど費やして、戻ったのが四時五分過ぎ。

エレベーターを降りて病室に5〜6歩踏み出したところに 
先ほどの嫌みな看護師が目を吊り上げて迫ってきた。

  「あら〜〜、あら〜、○○さん、何処に行っていたのー?今さっき先生が 見えたのよー。
何処に行っていたのよー。あちこち探したじゃないのー。(嘘こけ!)
荷物だってないし 帰ったと思ったじゃないのー。(大きな紙袋が目の前に置いてあっただろうが)
何処かに行く時は ナース・ステーションにことわって行ってよね、ことわって。」

安静にしていなければならない患者さんもいるだろうに 病室の前でこの大声。
息子の容態も 未だ、聞いていないので とりあえず、謝っておいたら
これが根っから意地悪い性格らしく息子の枕元まで追ってきて同じ事を繰り返しはじめた。
いるのね、下出にでると 笠にきる人間が。

ブチッ! 切れた!

なんで 手術をしたばかりの患者の前で親を頭ごなしに 叱りつけるんだ。あんたは何様だ?

こういう場合、私は まるっきり見えなくなる。その人間の存在が眼中から消える。顎が上がってくる。
何か まだ、言っているが もう無視。
(さぁ、頭がフル回転。   もっとも有効な方法で叩きのめしてやる。
看護師の立場もわきまえずその態度、許さん。)

病室を出て ナース・ステーションに直行。

そこで 極めて丁重に話を切り出す。
「お仕事中、すみません。申し訳ありませんでした、何か 大変ご迷惑をおかけしてしまったようで・・・。」
看護師、キョトン。(ここだ、攻め込むぞ!)
「私、親の代からK病院にしか入院しておりませんので こちらでは 家族が病室を離れるときは
看護師さんにことわらなくてはいけないというマニュアルがあるのを知りませんで・・・・。
本当に申し訳ありませんでした。」(青菜に塩状態でうなだれてみる。)

その途端、奥から婦長さんが出てきた。
「とんでもありません。そんなこと、ことわらなくていいのですよ。誰が言ったんですか?」

やっぱりね!  さて もう、一責め。
「はぁ〜、家族と連絡を取りに一階まで降りていたことで 
ことわって行かなかったと 今、すごく怒られてしまいまして・・・。」

ナース・ステーションの看護師さん、みなビックリ顔。今度は あちらが平身低頭

やったぜぃ!


病院と言うところは 患者もその家族も かなりナーバスな状態に置かれているはずだ。
であるならば 医師に限らず看護師も 口の利き方等に配慮していかなくてはならないのではないか。
恐ろしもので性格は 歳をとるにしたがって顔に表れると最近、つくづく思うようになった。
人を 勇気づけられるのも人間なら 深い傷を負わせるのも人間である。
病気になった人間の心は弱い。 家族もまた、同じ重荷を背負っている。
プロというものはどんな職業であれ、仕事の意味を理解しなければならない。

看護師というものの意味は?
 

 

2006年2月3日 (金)   恐い!

珍しい!  二日続けて日記を書いている。
だって、すごいことが 二連発なんだもの。

その一

月曜日に仕上がる洗濯物を 例によって愚図な私は 今日、取りに行った。
ところが 何故か、手前に立ち入り禁止の 黄色いリボンが道をふさいでいる。
すわっ、殺人事件か! 胸が高鳴る。 
「すみませーん、入っていいですか? クリーニング屋さんに行きたいんですけどー。」
警察だか消防署だか町内会だか分からないおじさんにリボンを上げて貰ってクリーニング屋さんに
行ってみたら・・・・・、

無い! クリーニング屋さんが無い! 焦げている、真っ黒!

へっ? と言うことは 息子の新しい背広、焦げたんかいな。私のものは 預けてあったかいな?

まぁー、どうすんだべか。  あぁ、面倒くさがらないで火曜日に行っておけばよかった。

その二

近くに 地下一階に大手のスーパーが入っている大きなビルがある。
上の階は 本屋や用品店が入っている大きなビルである。
でも、このビルは 階段の下などに不思議なものがある。

盛り塩

白いお皿に入った盛り塩

初めて気がついたのは 一年以上前だった。 ビルのまわりに塩がまいてあった。
その時は前後して外壁を工事していたのでお清めかなと思ったのだが 
考えてみると 入り口のところの両脇に置いてあったこともあった。
先日は 女子トイレの両側。  なんか変じゃない?
そう言えば たまたま、そのビルの一階の喫茶店に入ったとき、
背広姿の男性が八人ほど集まっていて 聞こえてしまった言葉が「まっ、塩を置いておこうか。」

何なのー、このビル、何かあるのかー?
娘に このことを話したらもう、興味津々で
なんで もっとよく聞いてこなかったって・・・・、 一足遅れ。

ところが たまたま、今日、娘が休みなので 一緒にスーパーに行ったら
スーパービックリ! 
娘は さすがにびびってしまいました。

な・なんと 一階と地下のエスカレーターの両脇、エレベーター二機と隣の搬入口のそれぞれ両脇、
おまけに エレベーターの前の通路にある男子トイレの両脇、その先の階段の両脇、
搬入用のエレベーターの両脇に 白いお皿に盛り塩が置いてあるではないですか。

これって、何?

ねぇ、皆さん、何だと思う?  出るんでないの?  恐いよー!

見えないけど 一応、恐いよ。 今まで こんなに盛り塩がしてあるところ見たこと無いよね。

霊感、ないから後ろにいても 踏みつぶして来ちゃうけど何だろう?

誰か教えて!

 

2006年 2月2日 (木)  「言霊」について

新年早々、わずか二週間の内に 三回もアクシデントに見舞われるとこの私も さすがにまいる。

「一年の計は元旦にあり」、 今年は ずっと波瀾万丈か、などと ついつい弱気になる。

こんな時は 家に閉じこもっているのが 一番、精神に悪い。

そこで 前々から約束していた食事会に出かけたけれど ついつい愚痴が口をついて出てしまう。

楽しい食事会に 本当に申し訳ないけれど・・・・・。

「何で こんなに新年早々から いろいろなことが起きるのかなぁ・・・。」などと・・。

友人曰く、「大丈夫よ。二度あることは 三度あるって言うじゃない。 

 もう 三回あったからこれでお終い、お終いよ。」

何という優しい言葉、温かい励まし。 胸のつかえが 降りていくのが分かった。

娘が よく言葉は「言霊」というのだと言っていたことの意味が この瞬間、理解できたように思った。

口をついて出た言葉は その瞬間、「言霊」となって人の心に入り込む。

「言霊」は 作り出す人の人格によって、人を支えもすれば 落としめることさえしてしまう。

私は 友人たちが 私にくれたような美しい「言霊」を 今まで作り出していただろうか?

友人が辛い立場にいたときに 少しでも励まして来られたであろうか?

「大丈夫よ。」と言ってくれた友人たちに深く感謝し、これから自分も美しい「言霊」を

手繰れるようになりたいと思った。

友人のありがたさに胸に浸みた素晴らしい時間だった。

 

 

2006年 1月10日(火)    大変だー!

元旦は 初めて主人の実家に行かなかったので いいお正月と思って伊東に行ったら なんたる出来事!
大体、暮れから五日は 曇りか雪だと天気予報が出ていたのに、 強情な主人は
ここは絶対に雪が降らないと言う。
まぁ、新年から 喧嘩するのも億劫だし、たまには 言うことを聞いてあげようと思ったのが間違いの始まり。

朝、起きたら 窓の外が やけに明るい。何だろうねぇ・・・。

ん〜?なにー? あれは雪? これも雪? 多分、雪? きっと雪!

ぐぁ〜、  雪が降っているぞー!   雪、雪、雪だー!

娘と主人、飛び起きました! 外は すでに積雪、8cm以上..
みんな、まっ青。   どうする・・・?  帰れないぞ。  チェーン、無いしー。

主人の提案で 先ずは チェーンを買ってこようと言うことになったのであります。
しかーし、タクシーが 我が家まで 上がってこられない。
と言うことは 誰かが 歩いて山を下りて 買いに行かなくてはならないと言うこと?

会議です!

  娘     「無理、無理。ヒールだもん。」
  私     「もっと 無理、無理、体、弱いしー、腰痛いしー、腱鞘炎だしー、女だしー。」
  娘&私  「あんたしかないねー、ジィサンだけど一応、男だし。 頑張れ! 応援しているぞ!早く行け!」

かくして 主人は 往復一時間の予定で出発しました、11時。
別人28号になって帰還しました、12時40分。 

娘、驚く!「あんらー、マリー・アントワネットが 一夜にして白髪になったと言うのは 本当なんだ!」

違う! オトッツアン、、雪だるまになっているんだって。  でも、顔、キモイ・・・。

 それでも 何とかチェーンを 装着して 出発したものの これが 滑る、滑る。ブレーキ、効かなーい!
ひぃ〜〜〜・・・、落ちる〜〜!

どうにかこうにか車を路肩に止めて 三者会議に再突入!こういう時に 如実に出るものです、性格の違い。

   主人 「○○(息子)に 迎えに来て貰おう。車は 雪が解けて 動かせるまでここに置いていこう。」
   私  「何、言っているのー?私の車だよー。 JAFを 呼んで絶対に この車で帰る!」
   娘  「まっ、帰れるときは 帰れるからサー。」
   私  「何、言っているの。三十何年間も会費、払ってるのは 何のためさ。」

  二時から待つこと三時間。やっと来た積載車は 急勾配で上がってこられず。
再度、JAFから来たスタッドレスの積載車も私も車を目の前にして立ち往生。

こうなると またもや先の会話の繰り返しになる。
何を 言っちょるの?可愛い私の車を置いて帰れるか。 諦めない、私は諦めない!
プロでしょう?何とかしてたも・・・・。

願ってみるものです。言ってみるものです。  さすが ベテランさん、アイディアを出しました。
「4駆のスタッドレスタイヤ4本にチェーンをして 逆牽引で降ろそう。」

あぁ、まぶしい・・・、後光が見えました。

かくして 伊東の街におりたときには 9時半をまわり、小田原で 11時に食事をして 夜中の一時に
東京にたどり着いたのでした。

成せばなる!  帰ったぞー!  私は 強い!

PS・  やっと 帰った翌日から息子は風邪。  おまけに室外機が壊れて この寒空に
我が家は トイレ用のヒーターで 震えているのであります。 
電気器具ばかりというのも不便・・・・。
でも、今年は 早々から一年分のアクシデントが あったような・・。

 

2006年 1月1日 元旦   年頭に・・!

昨年は 自分にとって 一年が半年しかなかったように思うのです。
親になって初めての試練の年だったかもしれません。
 家族のあり方、親子の絆について真剣に考えさせられた年でありました。
前半は ほぼ毎日が 苦しく辛く、なんのために自分がこの世に存在しているのかさえも考えてしまいました。
その中で考えたことは 自分にとって 如何に子供という存在が 大きなものであるかと言うことでした。

その苦しさから 救われたとき、初めて この無信心な私が、 
この世には 見えない力が 自分を護ってくれているのかもしれないと 思うに至ったのです。
私には その事を難しい言葉や今、流行のこととして現すことは出来ないけれど、
ただ一つ言えることは、 どんなときにも 真面目に一生懸命に生きていくべきなのではないかと思うのです。

辛かったときに 沢山の友人から 暖かい励ましを戴いたことのありがたさは 生涯忘れることはありません。
辛いときこそ 人の優しさが身にしみます。

今、辛い思いをしている人も 信じてください!  必ず、春は訪れます。
人間、苦しいときばかりではありません。真面目に生きていれば必ず、苦の後には 楽も幸せもやってきます。

いつまでたっても 不器用な生き方しかできませんが 自分は 生涯このまま、まっすぐな生き方を
通していこうと思います。

最後になりましたが 昨年も はるか彼方のスペインに一緒に行ってくれたフレディさんに深く感謝します。
今年も 「そんなことも あったんだね。」と、笑い話にしながら 旅に出ましょう。

今年が 皆様にとって幸多き年でありますように 心から祈っております。

 

2004年 12月19日 (月)  「四季」の「異国の丘」


先月、「四季」のミュージカル「異国の丘」を見に行った。
ミュージカルは いまいち、苦手なのだけれど テレビで宣伝していた挿入歌にひかれて
去年から 見てみたいと思っていた作品だった。脚本を書いた浅利慶太氏の思いは 戦後60年を
経て今の世代に生きるものたちに 熱く問いかけているように思えた。
私の感想より「明日への祈り」の語りと詩を書いておきます。
 

シベリアの荒野に命を奪われた者、およそ6万人。その一人として九重秀隆は死にました。
いえ、太平洋戦争の戦死者155万人。それだけではない、米軍による無差別空襲などの死者30万人。
広島長崎の原爆の犠牲者35万人。沖縄戦の住民の死者、15万人。さらに戦後の満州で
ソ連軍に蹂躙されて命を失った者。平和を守ろうとして命を失った者、戦争を終わらせようとして
命を奪われた者、戦勝国の報復感情のために些細な理由で戦犯に問われて刑死した者たち。
それらすべての理不尽な戦争犠牲者の一人として九重秀隆は死んだ・・・・。
あの戦争では、名も無き無数の人々が、その青春と未来と、時には全存在をも
投げ出さざるを得なかった。戦後日本の驚異的な発展と繁栄は、これら何百万の人々の
貴い犠牲を礎としてもたらされたものです。

亡き人々は いったい我々に何を語りかけているのでしょうか。   「語り」

「明日への祈り」

                      涙さえ凍り付く最果ての白い野に
                      つながれた 我が友よ 明日を信じよう

                      音もなく 降り積もる シベリアの 雪の原
                      魂は 彷徨いつ 異国の丘に

                      苦しみの果てに はかなく消えた 名もなき命
                      祈り続けた
                      愛する人の 明日の幸せを

                      国破れて 山河あり
                      父母を敬い 兄弟結ばれ
                      妻を愛し 友を信じ
                      幼きを護れ 愛しき者たちよ

                      時はうつろい 生命 果てても
                      いつかは とどけ 我が心の声

                      いつの日か 蘇る 故郷の青い空
                      妻よ 子よ 父母よ
                      燃ゆる思いを

戦争を知らない私たちも 折に触れ、あの戦争の背景を理解し、犠牲になった人たちの思いを
伝えて行かなくてはいけないのでしょう。
本当に 涙が止まらない舞台でした。 浅利慶太氏に拍手!

(今後は 名古屋、大阪で公演するそうです。)

2005年 10月28日 (金)   ネコ喧嘩の始まりは〜

寒くなってくると布団の中で 丸まっている時間が至福のひとときである。

起きる前の30分は ことに 誰にも邪魔されたくない・・・、でしょう?   

グァ〜〜、ギェ〜〜、ミェ〜〜

くぅ〜、また、始まったぞ、ネコのでいり。  しかも、我が家の駐車場でだわ。

堪忍してくださいよ、6時前だってばー。

せめて 後30分、お静かに どうぞ・・・。

あぁ、眠い・・・、うるさい・・・、体が動かない・・・、目が開かない・・・、うつら うつら・・・、

早く、どこかに行ってくれないかなぁ・・・。

息子は 昨日、30時間労働で疲れているから可哀想に。

(と、優しい母は 頭の中でおぼろげに考えていたと思う。)

その時、息子の部屋から 大音響の着メロが!

さぁ さぁ 用意は いいですか?行きますよー!  フォ〜〜!

きっかけはー?  ハード・ゲイ!

バフォー! ギャフォー! ミャフォー!ミギャー!

我が愛車の下が戦場と化しまして 戦いが始まりました!

ボッコン、バッコン車にぶつかっている音が響いております!
 

???ネコの飛びかかる合図が ハード・ゲイとは これ如何に?

息子よー、その着メロ やめて。

母は 驚いて布団の中で 飛び上がったよ。

早朝から あのテンションは 辛すぎる。用意なんか いい訳ないだろうが。

 

2005年 10月15日 (土)   恐ろしい乳母車


若いお母さん達は 当然のように乳母車で電車に乗ってくる。

歩道を一列になって乳母車と一緒に歩いてくる。

いつから こんな事が当たり前になってしまったのだろう。

一昔前なら 外出するときは コンパクトにたためるバギーが当たり前で 電車に乗るときは

当然、たたんでいたのに・・。  いつだったか電車の中で乳母車が倒れて子供が怪我をしたと、

JRに文句を言っていた記事を読んだことがあるが それってどっちの責任?

乳母車を作っている会社のコメントは 縦揺れには考慮して設計しているが

電車などの横揺れに対応する設計はしていないとか・・。

そうすると 恐ろしいもので 何故、横揺れに対応しなかったかと言うコメントが載る。

JR側も謝罪する。

なんでー? 

大体、 あんなに大きな乳母車で 混んでいる電車にも当然のように乗るって変じゃないの?

外国では 手に持てる程度の荷物しか許されないんだよ。

トランクなんか人の邪魔になるから 許されないんだってば。

何も 外国の習慣がいいとばかりは言えないけれど マナーというものがあるではないの、人間には。

何をしようが 自分さえよければいいと思う風潮。 自分の楽しみを優先させる若いお母さん。

最近、乳母車に乗っている子の大きいこと。

 足を折り曲げているし、頭が上に突き出ているときた。

これを おかしいと思わない人間性が恐い。

抱いて歩くより楽だものねー。人のことなんか関係ないか・・・?

そうして 親が苦労しないと 子供に対する愛情も軽くなってしまうかもよ。

子供を抱くことは 重くて手が痛いし大変だけど、 それが子供が大きくなっていくことを

実感できる幸せなんだと思う。 体重の分だけ 親の愛も増えていくんじゃないのかな。

なんて しょっちゅう、乳母車に足を引かれる私は思っている。

本当に痛いの! よく見て歩けってー!

 

2005年 9月12日 (月) 外壁工事だー!

我が家の外壁工事が始まりました。

窓という窓は ビニールでふさがれ、密閉状態です。

く・苦しい!(感じがする・・・。)

あぁ、いつになったら終わるんだろう。 職人さん達、良く出かけるヤツだと思っているだろうな・・。

何だか、囚人になったような気がする。幽閉されているような気もする。

早く終わってくれー! 鬱になってしまうぞ!

毎日、毎日、朝夕、トイレ掃除だわー。  もう、10年分位したと思うけど・・・。

工事が終わったら 駐車場をどうやって片付けるの?

あぁ、頭が痛い・・・・・・。

 

 

2005年 8月16日 (月)   私のハワイ

あぁ、今年も 私のハワイは 遠くに過ぎ去ってしまった。

何回、来ても空港に降り立ったときに感じる風の匂いの優しさ、レインボウ・シャワーの美しさ。

ハワイに行っても 私は海に入ることはない。

 何故、海に一回も入らないのかと 聞く人がいるけれど、

私にとってのハワイの海は ハイアットの部屋の真下から見る水平線に他ならない。

その水平線を眺めながら聞くハワイアンの「ワイキキ」は 素直に心にしみ入る。

静かに、静かに 自分の原点に戻っていくような気がする。

心が ピュアーになるというのは こういうことを言うのかと思う。

こんな非日常的な暮らしが 毎日、神経をすり減らすことが多い私を癒してくれる。

贅沢と言われるかもしれないが ハワイに行くという目標が 私を支え続けてくれたのだと思う。

いろいろな国を訪れ、素晴らしいものに感激するけれど、何処にっても ホノルルに帰りたいと願う。

優しい友人達の笑顔や心遣いが ここにある。 

言葉に尽くせない優しさで包んでくれる友人 達と 優しい風に会える感謝の念は 年々深くなるようだ。

ハワイとは 私にとって そう言うところなのだと思う。

あと、何年、ホノルルに帰れるか分からないけれど 優しい友人達やホノルルの風を

大切にして生きたいと 改めて思った今年のハワイ行きであった。

 

2005年 7月 23日(金)  とうとう抜歯・・・。

とうとう、親知らずを抜歯しました。

恐かったです!  一週間前から おどおどでした。

しかし、これが不思議なもので 一週間も前から 神経を使っていると

前日になると もう、どうでもいいや状態になってしまいます。(歳のせいで持久力が欠如か・・。)

先生は きれいなお姉様。   嫌だな、本当は・・・。

こういう人って 案外、残酷。

いたって痛さに弱い私は この際、恥を忍んで言いました。

「すみません、麻酔の注射を打つ前に 麻酔をしてください。」 先生、多分「、ケッ!」

いいや、痛くなければ 私のちっぽけなプライドなんか・・。

先生は 抜く前に「痛かったら 手を挙げてください。」と 優しいお言葉を。

抜歯開始!

「痛い!」  手を挙げてみました!

先生、「まだ、何もしていませんっ!」  (`´メ)   「・・・・・・。」 (/_・)/

でも まぁ、何とか無事に、 しかも 案外、簡単にすんなりと抜歯成功。

あぁ、後、二本も親知らずを 抜くんですってさー。

本気かねー、気は確かかねー、きれいな先生。

頼みますよー、気が小さいから 痛くすると先生を突き飛ばしてしまうからね。

無意識に凶暴に変化してしまうから 上手に避けてね。

 

2005年 7月11日(月)   スペインのホテルは・・・。
 
今回の旅行で 特筆すべきはホテル。 皆様に ご紹介します。

一日目は 先にも書きましたように 初っ端からホームランの工場の跡地。

二日目は なんと、飛行場の真横ときました。 いや〜な予感がザワザワと・・・。
バスが 裏から ホテルの前に回り込みました。
なんだか、がれきの山が ホテルの裏に散乱。   営業しているのか、このホテル。
申すまでもなく、お店おろか なーんにも付近にはない。
またか・・・・・。(-_-メ)
しかし・・・、 おぉ、ロビーは 一応、きれい。  中庭らしきものまである。
大丈夫かも、このホテル。(自己暗示)
恐る、恐る部屋に入ります・・・。   あんれ? 真っ暗!
何故だ? 白夜なのに 何故に カーテンが閉まっている? 不吉な予感がーー。

Open theカーテン!  ゲッ!   何なんだよー、この部屋?
胸の高さに窓の下枠がー。  と言うことは ここって中一階? 半地下?
胸の高さに 道路があるって どういうこと? 窓開けたら丸見えじゃないか!
で、窓は 騒音防止の二重ってか?  しかも、鉄格子まで。

こらー、我らは 囚人かー?  出してくれー!
PS・パエリャ、不味い・・・・。

三日目、山のてっぺんだわ。
見晴らしがいくら良くても なーんにも無いって。  まただよ・・。
おまけに部屋、掃除しているのか、いないのか?  この床、埃だらけだわね。(キモイ!)
私と違って そこのところ気にしない大らかな友人。  あんたは偉い!

と、そこに来ました、苦手な黒砂糖をまぶしたような例の親父の片割れ。
あろう事か 我らの部屋のベランダに靴下を干させて欲しいだって。
(何故か、私には言わないところがミソ。バリア強健、あっぱれ私!)

怒りました、友人。 怒髪天です。
「なんで、あんたの靴下を干してあげなければいけない!他のおねぇちゃんに頼めよ。」
そうだ、その通り、あんたが 正しい!

四日目、ホテル着11時。
疲れた・・。  夕食、不味くて食べられなかったし・・。
やっと、ベッドに入ったのが1時近く。   友人は ぐっすり。
ここで 何事も慎重な私は 部屋の鍵を確認。 何気なく洗面所のドアに手をかけた。
 
って、開かない!  ドアが 閉まっている!  押しても引いても開かない!
ギャー! トイレが内側から閉まっているよー。起きてフレディさん!
起きないぃー!

ここでパニックに陥った私は 友人のフレディさんを叩き起こし添乗員さんの部屋の番号を聞く。
電話、電話・・、指が震える・・・。神様 Help me!

添乗員さん「ファー? どなたですかー? 添乗員さん?」
ち、違う、添乗員は あんただ! 私はお客!
「す、すみません。トイレが内側から閉まってしまいました。フロントの電話番号、
教えてください。もしくは フロントに電話してください。」
(電話に平身低頭。 それでも友人はぐっすり。 本当に殴ったろか。)
友人は その夜のことを ぜーんぜん、覚えていない。
くっ、あんた、私が 朝、機嫌が悪いったって 寝ていないのっ。
朝、窓を開けてみたら 人里離れていたけど 実は 今回一番、いいホテルだった。残念・・・。

最後の二日は マドリッド。一応、町中だけど なんだか危ない雰囲気、この立地。
ガードマンが 入り口で睨みをきかせている。 恐っ! だめか?私の愛想笑い・・・。

添乗員さんは 危ないからバッグは 持たないで食事に行ってくれと言う。
どうする?  お金は何処に入れるの?
ポケットは だめ?     ブラの中ー?   えっー、どっちの?

また、私かー!

わいのわいの頑張って ツァーのご夫婦と それでもタクシーに乗って食事に行きました。
スペイン語は話せなくても ご飯のためなら えーんやこら。

パアリャだ。 エビだ。ステーキだ!
フレディさんは 「こんなところに来ても 肉、食べるの?」と言うけれど、
私は 肉食です。  肉、肉、肉、美味い!

 

2005年6月20日(月)   バカップル VS 気の弱いオバサン!  (part1)


私等、付いたその日から ショックを受けました。
ホテル・・・、町の灯が見えない。 何故かって?ホテルが建っている所ときたら工場の跡地よ。
 私らは 廃棄物かよ〜

翌朝は それでも立ち直って 友人のフレディさんと楽しく朝食を取っておりました。
来ました。  傍若無人な親父二人組の片割れが。 
テーブルが 殆ど空いているのに「ここ、いいですか?」だって。
いいわけ無いだろうが。(チッ、嫌いなタイプ。しかも隣に座りおったよ。)

しかし、フレディさんは 大人だ。「どうぞ、旅は道連れと言いますから。」(アホー。余計なことを)
遅れてきた片割れは さすが、常識の域から出られないタイプで 
「席は いっぱい空いているのに・・。」と恐縮の様子。(でしょう、でしょう。)

それ位で旅行が終わらないのは何故なのよ。
いたのねー、新婚のバカップル。

食事の時、殆どのツァーは 各自で飲み物を オーダーしますね。
フレディさんは バカップルと同じビール。私は どうでもいいけどジュース。
私たちは 一番、端に座っていたんです。
奥ゆかしいでしょう?私らしいでしょう? (トイレに行きやすかっただけなんだけど・・。)
ウェイターが 各自の右に飲み物を配るじゃないですか。

♪あやまちは その時起こった!フレディさんは 我慢できない。♪(古いけど知っている?)

フレディさんの右にビールが置かれました!
その時!
フレディさんの隣に座っていたバカップルの♀が 手を伸ばして フレディさんのビールを
素早く取った! 言っておきますが 端にまわす出もなく、♂にわたすでもなくです。
もう、私は 何事が起こったかと 目が点。 フレディさん、ビックラ。

このバカ女がー!自分の右にウェイターが 飲み物を配るから 静かに待っていろ。
し、しかも 「えっ?」という疑問の声を発したフレディさんに気がつかない。
おまけに バスケットに入ったパンを己だけが 食べおって こちらにまわさない。

あぁ、いやだ! ついに 私は 隣に座っていたバカップル♂に 言いましたよ。
きわめて慇懃無礼に・・。
「お食事中、恐れ入りますが パンを取っていただけますでしょうか?」
応えたよ♂、「はい、何でも言ってください。」
アホー、言われる前に気を使うんだ!あんたの♀は 気にしないでバカバカ食べているだろうが。

「恐れ入ります。」 一応、言っておいた。(なんと常識のある私)

フレディさんの怒りは収まらず!

で、話は まだ、終わらないんであります・・・。

帰りは チューリッヒまで 行かなくてはならない。
小さい飛行機だから 私たちのように友人同士だと 席が離れるケースが多い。
二人で 心の中で手を合わせましたね、あのバカップルとは隣同士にならないように・・。

ビンゴ!

私だよ!しかも私は窓際だー。(-_-メ)
はい、チョコレートを配り始めました、当然、奥の私から。
手を出しました、バカ女、頭の上にある箱に伸び上がってチョコを取りました。

飲み物を聞きに来ました、奥の私から。
注文しました、通路側のバカ女。
あんたは まだだよ。(もう、殴ったろか!)

哀れな私は 二時間半、読んでいたはずの本の内容も 頭に入らず、ひたすら
着陸を待っておりましたです。

降り立った途端に「御苦労さん」って、 フレディさん、目眩が・・・

あぁ、疲れ3倍・・・・。

 

2005年 3月28日(火)   ポルトガルは・・・。
 遠かった! ポルトガルは とにかく遠かった!

成田から乗ったANAは 離着陸に手間取って、缶詰状態にされること13時間。
 ヒースロー空港では念願のフィッシュ・アンド・チップスも食べられずに、さらにポルトガル航空で
飛ぶこと3時間ときたもんだ。  うぅ・・・、辛すぎる。
ホテルに着いてみたら自分の足は 足全体が腿になっていて直接五本指が付いているみたいな・・・・!

ポルトガル、○○カードの宣伝文句「お金で買えない物、プライスレス」のCMに憧れてしまった。
思えば遠くに来たものだ。ヨーロッパの西の果てに来るなんて。

しかーし、
ツァーにとって一番肝心なのは 添乗員の善し悪しだと言うことを痛感させられる羽目になろうとは・・。
悪かった!  とにかく気が利かない。時間を上手に使えない。(顔は悪くないけど・・・。)

例えば・・・、(皆さんご承知の通り頼み事一つするにも私は気を遣う。)
※「(恐る恐る)あのー、部屋が暑いんですけど」・・・
「はっ?窓を開けてくださいっ!」(それだけかい?)
※ 「あのー、ホテルの部屋を変えて頂けませんか。」・・・・
「ホテル側でやっていますので出来ません。」
クゥ〜、んじゃ、あんた、何のために来ているんだよ。あんたの仕事は何なのさ?
私たちはね、何回も洗面所に閉じこめられたんだぞ。風邪、ひいたんだぞ。
あられもない格好でフロントに電話できるか。変態親娘と思われてしまうじゃないか!

この手の添乗員は 必ず最後にホームランをかっ飛ばしてくれる。
やったよ!   最終日、ポルトガル空港に着いてみたら 一人ホテルに積み残してきた。
あ、あんたねぇ、バスが来たのを知っていてスーパーにいく人もアホだけど
あんたは もっとアホだわー。
お陰で我らは全員、空港の前で20分間待ちぼうけを食わされた。(お茶も飲めなかった。)
「24人位なんだからさー、 番号でも言わせればいいのよー!」と、Aさん。
「毎回、遅れ癖があった人なんだから 目をつけておくべきよねー。」と、Bさん。
でも、おばさん達は さすが!遅れてきた人に 何事もないように「いいのよー。」と笑っていた。

まぁ、そんなエピソードもあったけどポルトガルはいい国であった。

国民は穏やかで ギリシアより もっと 時間の流れが遅い。
商売っけも無い!  なんと観光客にとって 楽なことか。
何処の町に行っても せかせか観光をしている私たちには全く無関心で
自分たちの生活のペースを崩さないヨーロッパの西の果ての国。

 こんな生き方があったのかと戸惑う。 毎日、時間に追われて過ごしている私たちには
おそらく、生涯に一度もこの国(町)を 出ずに終わるかもしれない人々の生き方が理解できない。
先進国と言われ、老いも若きも 簡単に外国に飛び出している日本人の生き方が
本当に幸せなのかと考えてしまう。
ユーロ圏の中で一番、貧しいと言われているポルトガル。
それを旅行の途中で一度も感じなかったのは 何故だろう。
私たちが とうの昔に忘れ去ってしまった「足るを知る。」民族なのかもしれない。
外国に行くたびに感じる外側から見た自分たち国の反省も 帰ってみれば忘れてしまうけれど、
本当の幸せって なんだろうかと旅の途中、考えていた。
日本て本当に豊かなのだろうか・・・・・・?

 

2005年 1月 20日(木)  (鹿、恐い!)

暮れに娘と思い立って関西へ・・、「そうだ、京都行こう!」

で、大好きな興福寺の阿修羅像を見に奈良?に行った。
お天気は上々、気分も上々。  で、終わらないのが我等の旅の常。
二月堂の前で よりによって私のたっかーいデジカメを娘が落としおった。
最近、歳のせいか、腹が立つと執念深くなった私は この恨みを何とか娘に報復しようと企んだ。

娘は かなり恥ずかしがり屋で引っ込み思案だ。
そうだ、ここをつくのが一番効果的。
 ^m^

「ねぇ、せっかくだから鹿に餌でもあげなよ。」
「えっ?  う・・うん・・・・・。」 (娘の顔に恐怖がはしる!)
おぉ、嫌がっているぞ。 デジカメを落とした娘は 逆らえず下出に出ている。
思う壺だー。   カイカーン!

財布を手にえさ売り場へ。
チッ、後ろでショルダーの紐を引っ張って抵抗している。
なんだよー、往生際が悪いヤツだネェ。「えいっ、離せって言うの!」と、思いっきり振り払ってやる。
が、しかし・・、それでも懲りずに今度は 両手で私のコートの後ろを引っ張っている。
「あんた、いい加減にせいよ。」
 (ーー゛)と 振り向こうと思ったら
その上をもう一箇所、引っ張られた。

な、何?手が三本?あんた、阿修羅に変身したってか?

と・と・と・・・・・・!  あんれー? 前方に娘がいるじゃなーい!
んじゃー、後ろを引っ張っているのは誰ー?

って、鹿だよ!

「ええい、離せ。汚い。何するんだー。」 ○△■☆*#×〜!(パニック状態でしばし呆然自失)

後で娘、曰く 「お母さん。鹿御一行様が後ろをピッタリくっついていたよ。
誘い合って買いに行ったのかと思ったよ。」
って、そんな訳ないだろうが!
あんた、母が鹿にかじられているのに(噛まれるではない)黙って見ていたな。
報復返しか・・?

ちなみに娘は 鹿せんべいを持った途端、鹿団子状態となり、せんべいをコッパミジンコに
握りつぶして鹿に投げつけ逃げた。
早い! 俊足、衰えず!

かくして私の下ろしたての白いコートとショルダーバッグの紐は 鹿のよだれで惨いことに。
残念! (ToT)/

「奈良のお鹿さんは 偉いでっせー。ちゃんと行儀良く お辞儀しはります。」

あぁ、修学旅行の感激は 遠くなりにけり・・・。

 

2005年 元旦  京都大仙院 尾関住職のお言葉から・・。

年頭にあたり、少し真面目に 尾関住職のお言葉を・・

                 「今こそ 出発点 」

               人生とは 毎日が訓練ある
               わたくし自身の訓練の場である
               失敗も出来る訓練の場である
               生きているを喜ぶ訓練の場である

               今この幸せを喜ぶこともなく
                        いつどこで幸せになれるか
               この喜びを もとに全力で進めよう

               わたくし自身の将来は
                      今この瞬間  ここにある

               今ここで頑張れずに いつ頑張る

               

「大丈夫や! きっと、うまくいく」

              京都 大仙院 尾関宗園

さぁ、今年も 頑張りましょう!  焦らず、ゆっくり、御身大切に・・・。

 

2004年 12月17日(金)   今年の思い出!


早いもので 今年も残すところ 後、数日。
毎年、思うのだが 私にだけ11月と12月が ないのでは・・?
と、思わずにはいられないほど、何して過ごしたか分からない疑問の二ヶ月。

で、今年の嬉しかったことを考えてみた。
第一は ギリシアに行けた事か。
考え方がかわるほどのショックを受けたギリシア。
行けるとは 夢思わなかった遠い地であった。(あぁ、叶うなら もう一度。)

そして その次は 中高の友人フレディさんとシンガポールに行けた事。
フレディさんと旅行できる日が来るなんて、これ又、夢思わなかったことである。
友人と 旅を共にする機会は多々あるが 本当に楽しい旅であったと思う。
楽しい気分にさせてくれたフレディさんに 心から感謝、感謝。

さて、来年は どんな楽しい旅が 待っていてくれるだろうか。
いつか 行こうではなく、今、行けるうちに 少しでも 多く海外に出たいと願う。

この願い、どこまで叶うやら・・・・。


 

2004年 10月17日 (日)  「電動車」に疑問

私が住んでいる区は かなり、リッチである。
老人施設は いたるところに建てているし、電動イスや電動車(?)まで 補助がおりる。
区在住でない方が入居している老人施設の件は 今回はさておいて
「電動・・・」を買い与える家族、区に 疑問を持つのは私だけであろうか?

先日の事である。人ごみの嫌いな私は 日曜日は 買い物に出ないことにしているのだが
どうしても行かなくてはならない用事が出来、仕方なく自転車で 出かけた。
買い物を終わり、沢山の人たちと一緒に 信号待ちをしていた時のこと、
なにやら、小さい声で何か言っているような気がした。(道路を走る車の騒音で聞き取れない。)
人垣が 前後に分かれたかと思った瞬間、私の乗っている自転車の後ろに
かなりの衝撃が来た。  左足にサドルが食い込む。

「痛ってぇ〜〜」 (心の声)

左右を見渡すと 左側の道路を「電動車」が 全速力で走り去っていくではないか。
しかも、何事も無かったように・・・。      あのねぇ〜・・・。 
「電動車」は かなり車体が重い。 しかしだ、人の自転車にぶつかっておいて、
自分は 揺れることもないだろうが  何も気が付かないということがあるか?

私が住んでいる区の歩道は 狭い。 「電動車」が通れば 人も自転車も横を通ることが出来ない。
しかし、今まで 「電動車」に付き添っている家族を見たことも無ければ 後ろで 繋がっている人に
挨拶しているご老人を見かけたこともない。

ご老人が 表に出ることは とてもいいことだ。  それ自体に意義を申し立てるつもりは
さらさらない。 でも、「電動車」を使うには 使いこなせるだけの能力があるかの判断を、
家族や 補助をくだす区は 見極める必要があるのではないだろうか。

悲しいことだが 誰もが歳をとれば 判断力も 瞬発力も衰える。
「電動車」の時速が たとえ、10キロ程度のものであれ、歩いている方にとっては
目前を疾走してくる「電動車」は 結構、恐い。
信号の変わり目に 無理やり渡っているご老人もよく見かける。
この様子を 果たして家族や区は 把握しているのであろうか?
お金を出せば なんでも手に入れられる世の中の危険な落とし穴を感ぜずにはいられない。
事故がおきて 責任を取らされるのは どちらなのだろうか。
 

2004年 9月18日(土)  心遣いに・・・。

昨日、外出先から戻ってみると「不在配達票」が郵便受けに入っていた。

早速、連絡して持ってきてもらう。

おや?二つも・・・。

どちらも 夏に弱い私の為に 友人たちが送ってくれた物だった。

「夏に弱いMちゃん(私のこと)、これを食べて元気を出してね。」

「いつか、貴女が美味しいと言っていたのが見つかったから・・。」

なんだか、胸がいっぱいになって涙がこぼれた。

離れている友人が 私のことを気遣ってくれることのありがたさを噛みしめる。

自分くらいの年になると そう言う優しさが 本当に嬉しく、心にしみる。

人付き合いの大切さと、 優しい友人に恵まれた幸せを改めて思いながら

今日は 刺繍に向かっていた。

2004年 8月13日 (金)   私のハワイは何処へ・・。
 

暑い!  今年は 何処に行っても暑い!

行く前は 準備万端、余裕で行きたいと、いつも思いながら 一回も実現したことがない。

今年も例のごとく、せかせか、準備を楽しむゆとりもなく気がつけば、ハワイ行きの機上に・・。

暑い日本を脱出したはずなのに 着いて見れば 何故か、今年はハワイが蒸し暑かった。

その上、行ってみれば ビーズの依頼まで待ち受けていた。(えっ?私、遊びにきましてん。)

時差ぼけ、疲労蓄積の頭は 回転が鈍ってノーと言えない日本人になりさがり・・・。(トホホ・・)

おまけに 電光石火のように浴びせられる質問。(分からないよ、早口英語)

はいはい、もう どうでもいいわぃ。この場を なんとか切り抜けよう。

帰ったら 断ればいいし・・・、忙しいだってばー!(今年は 追われたくないのっ。)

ゆっくり、本を読もうと何冊も持っていったのに 開いたとたんに眠っている。

おまけにベッドから落ちた。(下の階の方、申し訳ありません。)

気がつけば 私のハワイの大切な日々は 半分も過ぎていた。

今年って 私、本当にハワイに行ったのかナァ??


PS.  帰って来たとたん、主人の母が いつもの不摂生から入院した。

なんなのよー!

 

2004年 7月5日 (月)   シンガポールは楽しい!

シンガポール初めての私達は 翌日、ツァーに参加してみた。

一応、名所を少ーし、回って (本来の目的)免税品を買わせてマージンを

取ろうツァーである。(せこい我等は 昼食つきに目が眩んだ。)

で、昼食時・・・、間違いはその時、起こった!

旅行社の写真係りらしき人物が 小冊子のように閉じた写真を個人に

配布し始めたではないか。

なんだ? あれは何なのだ?(思わず友人と顔を見合わせる。)

配られた写真を見ると なんだー? 個人の写真がいつの間にか

撮られているではないか。(肖像権の侵害だぞ。)

おまけに 一枚、8ドルだと。  な、なんでこんな写真が8ドルなんだよー。

しかも、何で私の写真だけ4枚もあるんだ?(みんな。集合写真以外、一枚なのに)

ふざけるんじゃない!・・・・・・・・・・・・が、しかし・・・・・・・、

もしかして この写真を買わなかったら バスから降りるときに

踏み絵のごとくバスのステップの下に敷いてあるのではないだろうか。

あるいは ライターで燃されるのではないか。

それは辛すぎる。

かくて気の弱い私は 集合写真以外の3枚を24ドル出して買ってきたのである。

ちなみに デジカメで撮った写真を現像して見たら すべて同じアングルだった。

ムカー!

今回は 中高の同級生だったフレディさんとの旅行だった。

方向音痴の私に勝る方向音痴のフレディさん。

お陰で 地図を見れる技を身に着けました。

 

2004年 6月30日  古い友人から・・・。

    

    昨晩、古い友人から 電話があった。

    15〜6年、音信が途絶えていた友人だ。  昔から気の強い友人で 物事を一方的に

    解釈すると どうにも修正が聞かない。 私は 喧嘩したと言う意識事態無いが

    向こうが 勝手に勢い込んで 音信普通になってしまった。

    今、思えば あの時の友人は いっぱい、いっぱいの張り詰めた状態で毎日を

    綱渡りしていたのだろう。  肩肘張った生活は 疲れる。

    お母様とは 個人的に親しかったので 私の性格もよく把握しておられ、その件に

    関しては 随分、心を痛めておられた。  しかし、こればかりは 無理押ししても

    本人が 心にゆとりを持たないことには 話にならない。

    いつもいつも、時間を掛けて説得するのは こちらも疲れるし、問題は もっと、

    違うところ・・・、例えば 生活の根源のようなところに根ざしていたのでは

    ないかと思う。
 

    その一人暮らしをしておられたその友人のお母様が22日に亡くなられた。

    遺品を片付けていたところ、あちこちから私の電話番号が出てきたそうな・・。

    友人曰く、これは きっと、無くなった母が 私と仲直りしろと言っているのだと思い、

    思い切って私に電話を掛けたとのこと。

    15〜6年前と言えば 我が家の電話番号は 変っていた筈。

    お母様は そこまで気にかけて ご自分が 万が一、亡くなられる事があっても

    私の連絡先を 娘に伝えて 付き合いを再開させたかったのかと胸が熱くなる。

    元気だった頃の お顔が目に浮かび、しばし、涙が止まらなかった。

    苦労をされた方だけに 最後まで優しい方であった。

                                合掌

2004年 5月23日(日)   早朝の電話は 恐い!

      私は どうも、昔から寝起きが 異常に悪い。
    友人から妹に至るまで 寝起きで電話に出ると 何故か、おびえる。
    ひどい時は 「また、掛けるね。」と言って 電話を切られてしまう。
    本人は 普通に出ているつもりなのに 失礼な話だ。
    (「・・・・・・。」が多いだけだと思うのだけれど、よく分からない。)

    先週の木曜日、朝5時少し過ぎに枕もとの電話が鳴った。
    この時間帯と言うのは 6時に起きなくてはならない為の葛藤真っ只中にある。
    起きるための準備と このまま、もっと寝ていたいと言う願望が戦っている。

    多分 、私は 布団の上で身体が 宙に浮いた・・・、と思う。
    早朝や深夜の電話は 危険な匂いがする。
    無意識のうちに受話器を耳に当てる。

    「はい、○○です。」と 名乗った・・と、思う。(多分)
    「もしもし? もしもし?・・・・・・あれ? ○○ですけど。」
                               などと言っていた、・・ように思う。(多分)
    「????」分からん。  名前に頭が反応しない。聞いたことがあるかもしれない。
                    聞いたことがないかもしれない。
    あちらさんは しきりに話しかけていた・・・、ように思う。
    私は 「・・・・・・・・・・。」だったかもしれない。(多分) 何故か、意識が途切れている。

   
 そのうちに 電話が勝手に切れてしまった。(私が切ったのではない。名誉に掛けて!)
    私の部屋においてあるのは子機で しかも電池が切れ掛かっているので
    2〜3分で 勝手に切れてしまう。(言い訳とも言えるが。)

    その後、どうも そのまま、眠ってしまったらしく、 寝過ごして娘に起こされた。

   ーそして、娘は見た!ー    叫んだ!
   「うわっ、なんだ? 火曜サスペンスかー?  お父さーん!」

   そうです、私は 受話器を握り締めたまま、半身、布団から抜け出して、
   うつぶせに 眠っていたのでした。

   「火曜サスペンス」の死体のごとく。

   ※  ちなみに 電話の主は 息子の同僚でした。  (ざけんなよ!)

                                              

2004年 5月8日(土)   タイミングが悪い

歳のせいか最近、妙に気になることがある。
こんなことが気になるのは 私だけだろうか?

今日、K病院に出かけた帰りMホテルで ランチを食べた。
ナイフとフォークを置いて残りのパンをちぎっている最中に、通りすがりの黒服が
「宜しいですか?」と言うなり 左側のお皿に手を伸ばしている私の右下から
お皿を抜いたのである。(フォークを置くやいなやである。)

何だ?  むかつくぞ! いいかと言われても パンが口に入っているのだから
何とも応えられないではないか。
大体、お皿を下げるタイミングが 異常に早いぞ。
プチッ!  (切れた。)

これは 最も効果的な方法で嫌味を言うしかないな。会計の時にいくか・・。

では、優しく微笑んで・・・・・・、

「ナイフとフォークを置いたとたんに お皿を下げるのは 早すぎますよ。
まだ、パンを食べている最中でしたよ。
客が 全部、食べ終わって 手を下げてから、一呼吸置いて お皿を下げなければ
いけないのですよ。    ここは ファミレスではありませんでしょう。
一呼吸と言う間が大切なのですからね。」

しんねり・・・・・・・・・。マネージャー、非を認めて平身低頭。

友人曰く、「貴女のねぇ、その優しく言うところが恐いのよ。
逆らったら完膚なきまでに叩きのめされるし・・。」

いいえー、とんでもはっぷん。気が弱いから下でに出ているだけですねん。


                             

2004年 4月6日(火) ギリシャにて ・・・・。


   ギリシアを旅する日本の若い女性は まだまだ、少ないようです。
   大概は 私達のような年齢のおばさんたちであります。
   今の時期、ギリシアは ヨーロッパの中学生や高校生が沢山、修学旅行に
   訪れています。
   ヨーロッパの学生にとっては さしずめ、日本の奈良、京都といったところなのでしょう。

   今回の旅行は 娘にとっては ハプニング続きで、おかしいやら気の毒やら、なんとも
   面白い旅行になってしまいまし
た。

   先ずは アムステルダムからギリシアに向かう飛行機に乗る時の出来事。
   新幹線のような飛行機で飛ぶのですが、 三人がけの席の窓際に座っていたのが
   まさに「ハリー・ポッター」そのもののような青年。(可愛い!)
   その男の子が 娘が隣に座ろうとしたとたんに うっれしそーな顔でにっこり。

   私はねぇ・・、思わず、娘を突き飛ばして横に座ってやろうかと思ってしまいました。
   (多分、私が座ったら 反対に私が突き飛ばされて鼻血を出していたかも・・・。)

   次は 翌日のエーゲ海クルーズでの出来事。
   昼食中に ギリシアのダンスを男性二人、女性一人で踊って見せてくれたのですが
   「トリビアの泉」の高橋克実さんの様な頭の男性が、出てきたとたんに
   娘の頭を二回もタッチ。  
      これは 何かあるぞと思っていたら、
   ダンスの途中で 嫌がる娘を強引に引っ張り出して一緒に躍らせて、挙句の果ては
   ギリシアの婚約の仕方なんかを披露し始めたのであります。
      (おぉ、娘のむかついているのが手に取るように分かる・・・、おっそろしい〜!)

   なんと言っても 人前に出るのが 死ぬほど嫌いな親娘でありまして
   母としては 娘が 我慢している姿に 大人になったものだと感心するばかりで・・・。
   (まっ、娘とは言え人事だし・・、どうせ、私はオバサンで誘われなかったし・・。)
   と、ここまでは まだ、よかったのですが 最後にやってくれましたよ。
   ギリシアでは 仲人さんに 女性側からお礼のキスをホッペにしなくてはいけなんて。
   (妙なことに 仲人の方が若い。なんと作為的な・・。)
   私のように洞察力の鋭い人間は すぐに分かるわけです。(コホン!)
   キスしようとしたとたんに正面を向くなって。( どうしよう、娘があの力で張り倒して
   しまったら・・・・・・。)

   しかし、敵は知らなかった、 娘の反応のよさを。(あんた、早いのは足だけでは
   なかったか!)  なんと、避けるのが早いこと・・。もったいない!(って、母だけか・・。)
   よくぞ、我慢をした! 張り倒すと思ったよ。    娘よ、大人になったねぇ。
   ※ 司会の人がハンサムな青年と言っていたけど 眉毛がつながりかけた
     漫画チックな濃い男だった。 ギリシア人は濃い!

   その次は 帰りのギリシア空港で ・・・・・、
   ヨーロッパの高校生の集団と一緒になってしまった。(煩い!)
   私達は ツァーの女性二人と、四人で意識朦朧と歩いていたのであります。
   と、突然、男の子が 娘の前に踊り出て、写真を撮り、脱兎のごとく逃げていったのです。
   振り向くと仲間たちから 小突かれたり、頭を叩かれたりして、大喜び。

   お前さんがたも深夜に起こされて美意識が鈍ったか・・・。
   見ろ、娘の寝ぼけた顔を。  これのどこがいいのだ?
   (寝ぼけていなかったら、あんた、娘に半殺しにされるぞ。)
   どうも、ギリシアでは 日本の若い子が 珍しいらしい。嗜好の違いってか・・・・。

   まだまだ、ありますぞ。
   ツァーに参加した人たちの中に4月から高校生になる男の子が
   いて(結構、可愛いお醤油顔)、娘を高校生と初めから思い込み、
   気に入ってくださいまして・・・、いやはや・・・。)

  
 あんたたちを教えている側だと言っても ちっとも、めげない。(強い子だ。)
   娘はといえば もう、面倒くさい。  冷たい。 素っ気ない。
   アムステルダムの自由行動でも ずっと、母親とはなれて私達と一緒に行動して
   おりましたです。  おまけに 成田では娘の携帯の番号を聞き出せなくて
   うつむいておりましたです。  (諦めてくれぃ、男に興味がないんだから・・。)

   まぁ、何とも不可思議な旅でありました。
   生まれてから 一度もボーイフレンドのいない娘が 何故にもてた?
   (何故、私でない?  分からん。 疑問だ。)
   ギリシアの魔よけの目玉を沢山、値切って買ったご利益か?

   娘よ、ギリシアに今のうちに行けば 結婚相手が見つかるぞ。
   富豪を捕まえろ!

                                   

2004年 3月10日 (水)  悲しい出来事・・。


      昨年の暮れも押し迫った日、仲良くしていた友人のお嬢さんが 急逝した。 
      娘とは 小学校の同級生であった。
      わずか、階段、三段から転落して・・・、 救急車で病院に運ばれた時には すでに、
      脳死状態だったという。

      彼女は 中学から私立に進み、高校には行かずに結婚の道を選んだ。
      二人の子供に恵まれたが離婚。 小学校三年と一年の息子が残された。
      嵐のような速さで 駆け抜けた人生であった。

      まるで、眠っているような安らかな顔で 横たわっている彼女の横で お父さんは
      放心したようにパジャマのまま、座っていた。
      体格のいいお父さんが 二周りも小さくなったように見えた。

      看護婦をしている友人は そんなときにでも 弔問客や孫のことに気を使う。
      そんな友人の手を 私は握り締めているだけで言葉もかけられなかった。

      彼女は 職業柄、沢山の悲しい別れを見てきた。
      だから、いつでも、どんな人にも優しい。
      そんな彼女に 神様は一人娘を取り上げるという試練を与えた。

      葬儀の日、棺にすがって「ママ、ママ」と泣いている子供の姿は 悲しすぎる。

      昨日まで 新年を迎える喜びに満ちていた家族が 
      一瞬にして 悲しみの中に落ちていく現実の酷さ。

      これを 他人事と思って新年を祝えるほど私は 若くなくなった。
      元旦、「忌中」と張られたドアの中で友人や子供たちはどのような気持ちで
      過ごしているのかを思うと 「自分さえよければいい。」としか考えない養父のもとに
      集まって過ごす元旦の空しさが 胸を満たす。

                  悲しく、辛い新年の始まりであった。
 

2004年 2月12日 (木) 「ロード・オブ・ザリング」の名訳!

  
 私が 感激した「ロード・オブ・ザリング」のラストシーン。
 戸田 奈津子さんが訳したサムのセリフです

     心に深く残る物語の中に入り込んだ気がします。
     暗闇と危険に満ちた物語・・
     明るい話になり得ないので 結末を聞きたくない。
     悪いことばかり起こった世界が 元に戻ります?

     でも、この暗闇も いつかは消え去っていくでしょう。
     暗黒の日々にも終わりが・・・。

     新しい日が来ます。
     そして太陽が より明るく輝く。

     そういうのが 心に残る意味の深い物語です。
     子供の時は 分からなくても 
     何故、心に残ったか
     今は よく分かる気がします。

     物語の主人公たちは 決して道を引き返さなかった。

     何かを信じて歩み続けたんです。

     この世には 
     命を懸けて戦うに足る尊いものがあるんです。

 戸田さん、上手!  何故か「指輪物語」の本よりも この訳に感動してしまった私でした。

 それにしてもサムって いじらしくて泣けてきます。
 

 

2004年 元旦


 今年も皆さんにとって よい年でありますように!

 そして 今も世界のどこかで戦火に眠れない夜を過ごしている人々、飢餓に

 苦しんでいる人たちに 平和な日が 一日も早く、訪れることを 心から願います。

 誰もが 等しく、安らかな毎日を送れますように・・・・。                                                        

                                   

2003年 12月11日 (木) コンサートにて・・・。


ハワイから帰って まだ、余韻に浸っていると言うのに なんで 2日後に コンサートに

行かなくてはならない。

そうです、例の妹が とち狂って取ってしまった「さだまさしのコンサート」です。

一曲目、知っている。

その後、ぜーんぜん 知らない曲ばかりだわ、堪忍してよー。

おぉ、子守唄だ!目が閉じてくる!

  しかし、しかし・・・・・、それで 終わらないところが さだまさしの才能か。

エンディングの曲の導入の素晴らしさに 隣の人が 泣きながら 鼻をかんでいる。

   ええい、うるさい!

横を見ると な・なんだー? 怪獣が 啼いているではないか!(間違いです。泣いてでした。)

鬼の目にも涙とはこのことか。   恐ろしい!

私と言えば 感動で 滲んでいた涙も 引っ込み、素晴らしい瞬間を逸してしまったので

ありました。

コンサートに行く時には 人選が重要であります。

 

2003年 11月21日 (金) またしても・・・。


世の中には まことに悪運の強いヤツがいる。 我が妹である。

ヤツは 何をとち狂ったか 昨年あたりから 広東語を習い始めた。

どうやら 日本人をあきらめて 中国映画の俳優に 熱を上げているらしい。

(アホか、あんたは。どっちにしたって 振り向きはしないよ、いい歳してさー。)

先日、試写会で香港行きのツァーが当たった。

仕方ない、アジアは あまり気が進まないが 一緒に行ってやろうかと思ったら

私は リストに載っていない! 何なのだ、世話になっているお姉様を差し置くとは?

文句を言えば「だって、あんた、中国嫌いじゃない。」で、終わり。話しにならん!

聞いて見たら この旅行の行程が また、恐ろしい。

現地に夜、着いて 翌々日の 早朝に 出発。  なんだ、それって 一泊三日かい。

しかも、珍しく ましな、お土産を買ってきたと思ったら 私のハワイ行きを

当てにしているときたもんだ。  「海老で ロブスターを釣るのだ!」そうだが・・・・、

「オキアミでロブスターを釣る。」の間違いだろうが。

どこまでも したたかなヤツ。

 

2003年 11月9日 (日)  物心が付いたらサバイバル!


娘が 学校で生徒から意見を聞かれて・・・、

「中学の頃、女の子ばかりが話しているところに 一人の男の子が 中に加わって

きたの。  そうしたら 先生が からかって 男の子に‘‘おまえ、その子のこと、

好きなんだろう?”って、言ったのね。  そうしたら 男の子が すごく気に病んで

何を思ったか 放課後、窓から飛び降りて 自殺を図ったんだよね。

幸い、木に引っかかって死ななかったけど 私は そんなことで 死のうとするなんて

すごく気が弱いと思うし、分からない。先生、どう思う?」

娘の回答、

「私も そんなことぐらいで 死のうとするなんて 分からない、気が弱過ぎると思う。

私なんかね、サバイバルで育ったんだよ。

父には スキーで 崖っぷちを滑らされるし、海に行けば足がたたない所で

ホッポリ出されるし・・・。 おまけに 何かと言うと やらないとご飯を食べさせない、

って 言われたんだから。  ご飯が食べられないと 困るから、仕方なく

やったけど 今、思うと サバイバルとしかいえないよ。 おまけに 母は 口より

手が早いんだからさー。」  「凄すぎる。」・・・by生徒

    おいおい、娘よ、あんたは そのお陰で 強い子に育ったんでしょう。

   これも愛情、愛情!  母の愛は 正義感の強い子に育てたじゃない。

   感謝せい!  (母はグータラ)

 

 

2003年 10月24日 (土)   恐るべき妹!

 
  最近、妹めに 悩まされっぱなしである。

 彼女は とにかく、人の話を噛み砕いて聴いていない。

 そのくせ、用件をメールで打って来る。  返事を メールで返そうものなら

 必ず、食い違いが起こるから始末に悪い。

 ある日のメールである。

 妹・・・・・・「さだのコンサートあるんだけど 発売されてしまったから 今から 
       電話で取ると二階席だと思うよ。」

 私・・・・・・「二階席ならいい。後ろの席は 懲りた。」

 このメールのやり取りが 翌日には 「取れた。二階席の前から8番目。」と、返って
 来る。

 こんな単純なメールがですぞ。

 思えば 夏にも 「コンサートに行く?」「そうねぇ?」の会話が 「取れたよ。」で

 突然、返って来た。  しかも、場所は京都で お盆の最中ですよー。

 いい加減、あんただって歳なんだから、人の話を ちゃんと聞き分ける癖を
 つけようよ。

 他人にも、こんな事をしているのか、あんたは?  あぁ、疲れる、私だって

 いつまでも若くないんだから体力も気力もない!

 

2003年9月7日 (日)    トイレの床が・・・!

 
 
た、大変だー!
トイレの床が 抜けてしまった!  なんなのだ、これは一体!
「誰だ?」   「誰が 踏み抜いた?」

目を血走らせて 犯人を捜しを開始。(以下、質疑応答)

主人  「息子じゃない?  一番重いし、自分は三階しか使わないから。」

息子  「二階しか使ってないよー、一階を使っているのは 母と妹でしょ。」

   「私のはずないじゃないのよ、軽いんだからさー。」

  ハァ〜〜?  じゃ、犯人は 私だってか?

なんとーーー、ムムム・・・、結局、犯人かー、この私が!

 ダイエットだ、ダイエットするしかない。

      
こんなことで犯人にされるとは 無念じゃー!

 

2003年8月9日 (土)   ハワイにて・・!

  ハワイから 泣く泣く帰ってきて 成田に降り立ったら ゲッ!
 空気が臭い! おまけに重い!(ついでに 自分の身体も重い!)困ったことです。


ハワイに行くと 毎回、必ず旅行者から 道を聞かれたり、質問されたりする。娘に言わせると どう見ても私の色の黒さは 旅行者を超えているらしい。

別に焼きたくて焼いているわけではないから これが悲しい。今回だって 「絶対に焼きたくない人130」とか言うものを三回も塗りたくっているのに
こんがり、どす黒く、赤くもならず、ヒリヒリもせず初日に ロコにすかっり変身。

これでは 何のために日焼け止めを買ったのやら・・・、トホホホ!

まぁ、これを 懲りもせず、毎年、繰り返している自分にも感心しているような次第で・・。

 こんな具合なので ウォードセンターに行った帰りも 思いもかけない下記のような質問をされた訳でして、いやはや。 答えられないって。無理、無理!
              
「この島にウサギはいるの?」  ←(これ、突然、言われた。)

「はぁ〜?」 (何、言ってんの、あんた 唐突に。)
「さぁ、私は 旅行者なので 分からないんですけど。」 (優しい笑顔、表面ニコニコ)

おぉ、ごめんなさい。ロコかと思ったもんで・・。何故かと言うと あそこを走っている
バスにウサギの絵が 描いてあるでしょう。それで聞いてみたんですよ。」

 ゲッ !」 ( ^;)。 ←manoa心の声  「私は日本から来たんです!」←笑顔!
(そんな単純なことで 聞くか、しかも 私の色の黒さで判断したな。)←本音

と、まぁ こんな質問をする彼は ナバホ族だそうでお母様と ハワイに旅行に来て
観光バスに ウサギの絵が描いてあるのを見て 思わず素朴に疑問を持って
しまったようなのです。 (なーる程ね。)

帰ってから友人に聞いたら、答えが また、すごい。

「さぁ、いるんじゃない。だって、シーライフパークの近くにウサギの形をした岩が
あるじゃない、きっと どこかの島には入るわよ」 だ、そうで・・・。

本当に アホか あんたは?

こっちが言っているのは この島を指しているんだって。それじゃぁ、動物園に
いるっていうのと、食べたことがあるって言うのと 大して変らない次元だわ!

あんたと 性格が似ていると言われていることが 今更ながらに恐ろしい。


 

2003年 7月20日 (日)   カウントが・・・。

 
   な・なんだー!

いつの間にか カウントがリセットされているではないか。

そんな ばかな!   せっかく、皆様に遊びに来ていただいた足跡が・・・。

  あぁ、立ち眩み。

私にPCを ご指導くださった大先生、どうしたらいいのでしょう?

 

2003年 7月10日 (木)   別れ

 
  七日の日に 娘の大学の同級生が 急逝した。

あたら26歳だったそうである。

10人足らずの少数精鋭の学部の染織で 三年間、ともに作業に 汗を流した仲間だった。

最後の別れをしても どうしても亡くなったという実感がわかないと娘は言う。

  二年前の謝恩会のとき、「さようなら」と、言うと涙が出そうで 友人の陰に隠れて

よく顔も見ていなかったことが悔やまれてならないと泣く。

娘に先立たれたご両親の気持ちを思うと 心が痛む。

   卒業制作のステキなドレスは どうしているだろうか。

 

2003年7月5日 (土)   不思議な出来事

 
  今でも 不思議に思うことがある。   父が亡くなった日の事だ。

そのとき、私は娘とハワイにいた。 病気の父をおいて 何故、ハワイに?と、聞かれても

今にして分からない。  只、どうしても その時は ハワイに行きたかったのだ。

もちろん 父の病状が落ち着いていたせいもあるが どうしても・・、何かにせきたてられて。

      その日、私達は アラモアナにいた。 友人と 三時に待ち合わせをしていたからだ。

アラモアナを前にして 何故か急に父のことが胸に浮かんだ。本当に 突然、ざわざわと。

「まさか」という思いを 無理やりに振り払う。  「何を考えているんだろう。先生が

急に何かが起こることなんかない。と、言ったのに・・。」

約束の時間に まだ、一時間もあるからと 私達は 店に入って時間を潰す事にした。

小さな模型が目に入る。 それは自然の音を収録して 聞ける様にしたオルゴールの

ようなものだ。  「父に買って帰ろう。この音を聞かせたら目を開けてくれるかもしれないから・・・。」

本当に何故だか 父のことばかりが思われる。

そして 待ち合わせの場所に行って見ると 店員さんが ものすごく遅刻だ、と 言う。

友人も 首を横に振っている。    だって 朝、お昼は ランチでお茶が飲めないから

三時にしようと約束したじゃない。お昼を食べようなどと 二人揃って聞いていない。

訳が分からず双方チンプンカンプンだ。

ホテルに帰ってみると息子から 留守電がはいっている。「また、後でかけるから。」

とうとう  ・・電話の意味が 私には理解できた。  妹のところに電話をかけてみる。

義弟がでた。      「お父さん、亡くなられました。」

娘に告げると「やっぱり!昨日、この部屋に来たよ。」と言う。  ????なに それ?

娘が言うには 午前二時か三時頃、ベランダの方から足音がしたので 私がトイレに

立ったのかと思って横を見たら ベッドに寝ていた。  でも 確かに足音を聞いたと言う。

父が足を引きずっていたのと同じ音を。  そんなことがあるのだろうか。

しかし とにかく その時は帰ることを画策しなければならなかった。

スタッフに電話すると馴染みのスタッフが部屋に飛んできた。

そして 大きな腕に私と娘を抱きしめてくれた。明日、必ず 帰れるように最善を尽くすと言う。

私達は 翌日に備え 荷造りをしてベッドに入った。  私は誘眠剤を念のために服用した。

そして 同じ時間、私は 確かに 父の足音を聞いた。  少し引きずるような父の足音を。

娘も同じ時間に聞いていたと言う。  私には 自分の足元でしか聞こえなかったが

娘は 二人のベッドの間を通り娘の枕元まで来たのだという。

枕元は 壁である。 人が立てるはずはない。

    父は「雨月物語」の「菊花に契り」のように百里の道のりを飛んで 可愛い孫娘に

会いに来たのだろう。  一番、会いたかった孫娘に・・・。

朝、友人が私たちの起きた気配を察して 朝食をトレーに載せてフライトが取れたことを

告げに来た。 大きな瞳に涙を溜めて。  そのとき 私は 初めて友人の胸で泣いた。

あぁ、父は 自分の最後を私に見せないためにハワイに来させたのか。

私が 少しでも慰められるように、 思いっきり 誰かの胸で泣ける場を与えてくれたのか。

 

私たち、日本人には 悲しくても人前では 抱きあって泣くことさえ躊躇する。

ましてや この歳になれば・・。  もろい私が少しでも救われるよう 父は 私をハワイに

行かせたのだ。  

今も 忘れることの出来ない不思議で悲しい出来事である。

 

2003年 5月21日 (水)   思うこと・・・・。

 
  年に何回か どうしようもなく 落ち込むことがある。

そんな時は 自分を取り巻く環境すべてが マイナス方向に向かって見えてしまう。

まさに この先、なんぼの世界だ。

こういう時を 鬱状態と 言うのだろうが、入り込んでいる時は 辛い。

自分が 生きてきた今までの軌跡のなんと中途半端なこと・・、挫折感に 苛まれる。

それでも 外に出て 他人と接触すれば 変らず、ひたすら笑顔を作り、気を使う。

そして より神経をすり減らす結果になる。

  自己嫌悪・・・・。

今回は 悲しくも その状態が 自分の誕生日に来た。

なんで また。  (何にも やりたくない。)

一週間、格闘する!   しかし 最近は 幸い(?)、持続性が なくなったようだ。

ケ セラ セラ   なるようにしかならない。

そう、いつだって そうだ。    なるようにしかならないのだ。

不器用な生き方も変えられない。  どこかで 答えを出さなくてはいられない自分を

なだめて 方向転換するしかないのだ。

上を見ても 下を見ても 限がない。   分かっているのだが 人間は弱い!

 

2003年 4月25日 (金)   京都大山院、尾関住職

 
 古い話で恐縮ですが ・・・、京都の大仙院で 懐かしい尾関住職にお会いしました。

むかーし、私が高三の修学旅行で 写真に一緒に入ってもらった方です。

○十年たって 今度は娘が 高三の修学旅行で同じ場所で 一緒に写真に納まって

いました。  不思議なこともあるものですねぇ。しかも、三度、大学の卒業旅行でもです。

久しぶりにお会いしたご住職は あの頃と代わらぬ笑顔で 応対しておられましたけど・・。

 当たり前なことですが 年を召されたのですよね。 ペンを持つ手が震えておられました。

でも 観光客一人一人のパンフレットに 記念にと名前を書いておられるのです。

私が 「二人とも同じ高三の時、同じ場所でお写真に入っていただいたんですよ。」と

申し上げると 感慨深げに「そー、高三の時、同じ場所で。」と 私たちを見比べておられ

ました。

ひとしきり騒がしかった観光客が去ると ご住職が 娘の目を 見つめて

「先生は 偉いなんて思ってはいけない。生徒さんに 先生が教えてもらうのや」と一言。  

   大丈夫ですよ、ご住職。娘は 自分が偉いなんて 少しも思ってはいませんから。

自分が 先生から戴いた沢山の素晴らしいことを 今度は 自分が返すために

教師になったのです。  お言葉、心に いつまでも忘れず留置きます。

                 なんだか 懐かしく そして 胸が熱くなるひと時でした
  
 

2003年 3月24日 (月)   娘へ 2

 
  2月25日〜3月2日、やっと こぎつけた卒業修了展でした。

小学校のころの先生、中学校のころの先生、折に触れ お世話になった

方たちが 来て下さいました。

懐かしい方たちは 皆、それぞれに年輪を重ねられ 小さなギャラリーの中で

時間が タイムスリップしていきました。

アクシデントに負けずに頑張った娘の 姿を後ろから見ながら 娘を励まして

下さる方たちが 居てくださることに感謝していました。

一つの 節目を無事に通過して これから人生の新たな挑戦が始まります。

九年間の生活は 何物にも変えがたい素晴らしい宝物を残してくれたに違い

ありません。    これからは 困った時、宝が沢山詰まった自分の引き出しを

開けて 自分の力で 這い上がって欲しいと思います。

今まで 培ってきた物は 必ず、娘の力になってくれるはずです。

 この大学に行って 染織を学んだことを 誇りにして しっかり大地を 踏みしめて欲しい

 そう思う母心です。

 

2003年 3月19日 (水)  娘へ (1)


  あっと 言う間に 二ヶ月が過ぎていきました。

娘にとっても 母親にとっても なんと 忙しない日々であったでしょうか。

一月半ば過ぎ、娘たちの作品が 研究室から 無くなりました。

一年間、試行錯誤 作り上げた作品でした。

娘たちの気持ちは 計り知れません。  どんなに 悔しかったことでしょう。

でも 我が娘は 負けませんでした。 「下を向いたら 負けになる。私は 

絶対に負けない。もっと いい作品を作ってやる。」

何かあったとき、往復五時間の壁が 厚く立ちはだかります。

娘は 毎晩、紙のような顔色をして帰宅しました。

深夜、二時過ぎまで デザインを おこしていましたが 泣き言一つ言いません。

  娘は 気力で 立ち向かっていたのでしょう。

卒業講評の前日、作品が仕上がりました。   そして  就職先が

決まりました。 娘からの報告に 思わず 二人で 涙しました。

 神様は 本当にいるのかもしれない!

これからも いつも 前を向いて頑張れ! どんなことにも 負けるな!

自分の信じる道を 歩くために。

 

2003年2月6日 (木)  くいっぱぐれい!


それは 徹夜明けの日に 起こったのであります。

雲の上を歩くような頭で 娘を送り出し、いつものように家事をこなし・・。

そして おつかいをしてから 学校の終了式に参加。

夕方、帰宅して ここで寝たら 起きられないと老いたる身体に鞭打って

夕食の下ごしらえをしたのです。(なんと 健気な私!)

八時半に娘から 駅についたと電話があり 急いでガス釜のスイッチを入れて

準備万端整えて さぁ、ご飯。 ・・・・・・・・が・・・!

  しゃもじがない。 ん?  エッ?

どこだ、何処さ行った?      そして ふと 心に浮かぶイヤーな予感。

まさかね、と思いつつ お釜を開けてみる!

 ヒェ〜 キェ〜 ☆*○>?★<〜    めしが ねぇー!

エッ? エッ?  といでなかったってかー!

お釜にそこに残っていたのは 朝炊いたご飯が 茶碗に三分の二。
     (湯気が ホカホカ!  残りご飯に 火をつけたってかい。)

 母  「どうぞ 召し上がれ、お嬢さま。」(トホホホ)

 娘  「とーぜん! 母よ、あんたの肩に くいっぱぐれい(食いっはぐれ霊)が

     見えますぜ。」

  チッ!  きれい(き霊)じゃなかったよ。

 

2003年1月31日 (金)   チッ!


昨日、妹と見に行った「ゴーストシップ」は あんまりだー。

テレビの予告で いかにも恐そうに宣伝していたので 恐い映画、大好きの

妹と忙しい時間を遣り繰りして見に行ったというのに あれは一体、何なのだよ?

エッ、だから どうだっていうのー?

ちっとも 恐くないじゃないのよ。  テレビ映画を 劇場で見せられたようなものだわよ。

終わったとたん、妹が 口を尖らせて ぼそりといったわよ、「無理やり落ちを

つけちゃって あれで二流映画が 三流映画になったよ。」って。

おい おい 31日までだから 見に行こうって 強引に誘ってきたのあんただべ。
 

2003年1月13日 (月)  なんと したたかな!


まぁ、今年も 我が妹の年賀状には驚いた! 娘に届いた年賀状。

「美しすぎるオバを 許して!」だってさー。

全く、何をこいてるんだよ。台詞が違うだろうが。

「うとましすぎるオバQ」の間違いだろうがっちゅーの。

こう何年も 何年も 性懲りも無く 書いてくる図々しさには 全く 負ける。

あんたねぇ、鏡と言うものが あるだろうが。  少しは 現実に目を向けなさいよ。

新年から うなされちゃったわよ。

 

2003年 元旦 (水)    明けましておめでとうございます。


去年は ひたすら忙しい年でした。
毎日、毎日 時間に追われて あっという間の一年であったように思います。
娘が大学に入ってからの一年、一年は瞬く間で 振り返ると 自分は 何か大切な物を
忘れて来たように思え、不安になることもしばしばでした。

右も左も分からないまま、立ち上げてしまったHP。
自分のところに来てくれる人が 果たしているのかと 本当に不安でした。

それが こんなに 優しい素敵な方々と お友達になれ いろいろなことを教えて
いただけるとは思っても見ませんでした。

みなさん、本当に ありがとうございました。
辛いとき、苦しいとき、みなさんの優しさにどれほど救われたことでしょう。
何も 取り得の無い私ですが これからも どうぞよろしくお願いいたします。

本年が 皆様にとって良いお年になりますように 心から 祈りもうしあげます。

                             一月一日
                                       manoa

 

2002年12月25日 (水)   看護学生のクリスマス・プレゼント!

 

今日、慶応病院のフィットネスから帰ろうと思ったら ロビーに 楽器を持った若者が
集結し始めた。
さて 何を 始めるのかと思ったら サンタさんの帽子を かぶって
クリスマス・ソングを 患者さんのために 演奏してくれるという。

クリスマスに 病院に来なくてはならない人たちのための ささやかなプレゼントであった。
   (慶応病院の看護学生達だそうである。)

何故か 駅まで歩く道のり、胸がいっぱいになった。
とっても 暖かい感動である。

なんてステキな演奏会だろう。   
あの子達なら きっと 立派な看護士になってくれる。
きっと 患者も 安心していられる。
     世の中、捨てたものではない。

若者たちの演奏は 今まで聞いたどんな演奏より上手で 心に沁みた。
感動的なクリスマスを ありがとう!

 

2002年12月12日 (木)   あさま山荘事件


このところ 麻生 幾の本に はまってしまった。
      「消されかけたファイル・昭和・平成裏面史の光芒」
自分たちが 生きてきた時代にあった事件の数々である。
私たちが知らない事件の全容に触れ、なんども胸が詰まる。
特に胸を打つのは 「あさま山荘事件」。
 
今年になって相次いで 「あさま山荘事件」をとりあげたテレビの番組(NHKのプロジェクトX 等)や映画が放映され 本が出版された。
なかでもこの本は 客観的に事実を記しているだけに 迫るものがある。

不祥事で揺れる警察は 今、批判の的になっているが いつの世も 命がけで
市民を守っている警察官もいることを 理解してあげなくてはいけないのでは
ないだろうか。
私たちに 親、兄弟、子供がいるように 警察官も また、人の子である。
任務とはいえ 危険に身をさらしてくれる姿に感謝しなくてはいけないこともある。
あの凄まじい局面で 身を挺して任務を遂行することは 誰にでも出来ることではない。
満足な防寒具もなく、氷点下20度にも及ぶ雪の中で 降り注ぐ銃弾の恐怖に耐え
犯人検挙にあたった警察官たちには 頭が下がる。
二人の機動隊隊長が 銃弾に倒れた場面は どの本や放送を見ても 涙が止まらない。
残された御家族の悲しみを思うと 本当に胸が詰まる。

これを任務というなら なんと重い職業であろうか。
このような悲惨な事件が 二度と起こらないことを 心から願う
 

2002年11月30日 (土)   車の接触事故!

 く、車を ぶつけられたー!
30年無事故、無違反?で 走ってきたのに、なんでやねん。

ミスドの手帳なんかとりに行かなければよかった。
ただほど高いものはないとは よく言ったものであります。

そうだ!事の起こりは 松戸のミスドに 手帳がなかったことなのだわ。
毎年、娘が 使っているから 買い物の帰りに 家の近くのミスドに 車で
そのまま、寄ったのが運のつきだった。
それで 車を出してすぐに 左に停車していた車がウィンカーも出さずに発進。
急いでハンドルを切ったけど後輪の部分がよけきれずに接触してしまった。

 
 頭、来た!
「あんた、何処見て 今、車出した?後ろ見ていなかったよね。ウィンカー出して
なかったよね。」

思わず、言葉がほとばしる!
だって、しつこいけど 無事故、無違反?なのです。
「すいません。」 よく見たら 若い女の子。 すれていない・・ようだ。

で、動く電話帳の頭をフル回転させて 自動車屋、主人に電話をかけまくって
指示を仰ぐ。
と、そこに運良く若いおまわりさんが自転車で通りかかったので ヒッチハイカーの
ように手を上げて止めてみた。
若いおまわりさん、真剣に「事故ですか?怪我はありませんか?」と矢継ぎ早に
質問する傍ら交番に連絡。

あらー、4人も来てしまったわ。
事故証明を書いて貰って 友人の自動車屋に預けてきたけど すんなり終わって
くれるといいな。
こういう事故って 向こうが100%悪くても こちらに過失をかけてくるいやな
保険やもいるし・・・あー、気が重い。

それに 何が気に入らないって同乗していた母親らしき人物。
とうとう 最後まで お詫びの一つも口にしなかった。
私だったら 平身低頭して謝るところなのに。

車をぶつけられた上に いやなやつに出くわしてしまった。
それにしても 私って本当に運動能力抜群だわー!


 

2002年11月16日 (土)  大切なNさんとYちゃん!


70を過ぎて ますます元気なNさん。
50を過ぎて手話を学び 現在もボランテァで 手話の先生をしている。
コーラス、フラダンス、テニス、編み物、海外旅行、Nさんの趣味は 
留まる事を知らない。

歳をとったらNさんのようになれと 娘は言う。
私はNさんに 実に多くのことを教えてもらってきた。
人との付き合い方も 装うことも すべてはNさんの後ろを 見て学んで
きた。
人に喜ばれることが好きで 根っからお人好し。
そんなNさんを 私は 家族のように大切に思ってきた。
人に尽くすことをいとわないNさんに 私は 自らNさんのPTA会長を
名乗り、電話の声を聞いて体調を推し量り、心配し・・・。

Nさんは いつも言う。「自分より 若い人と付き合うことが大切!」と。
10年位前の私には そのことが何を意味するのか、
深く理解できなかった。
でも 今、
そのことが 何を意味するのかやっと分かってきた。
今年から 始めた勉強の場で 私を心配してくれる優しい人にめぐり合えたからである。
娘と同じ名前のYちゃんは 今の人には 珍しく正義感が強く裏表のない
きれいな心の持ち主である。
彼女の率直な意見や 真っ直ぐな眼差しは とても美しい。
身内以外の若い人が 自分に優しい眼差しを向けてくれることの幸せを
噛み締めながら、Nさんが 言った言葉を深く思う。
大切にしなくてはいけない付き合いは いつも同じ線の上ばかりではない。
自分が 忘れそうになっている情熱や素直な反応を 今、彼女が 私に
教えてくれている。

友達になる上で一番大切なことは 相手の立場を思いやれる優しさでは
ないかと私は思う。

  そうそう、最近、彼女が 私の夢を見たそうな。
  私と彼女で 掃除婦をやっている夢!  分からない夢である。???

 

2002年11月1日 (金)  負けるな!純粋な心


昨日・・・、一つの純粋な心が 世の中の不条理に流された。
不正と不条理は 真の情熱をも葬り去った。
教育者としてのあるべき姿を見失い、神に仕える身を 不正にゆだね・・
またも 繰り返される醜い利権。
教育者に一番大切なものは 子供たちに 純粋な心で向かい合っていこうとする姿勢で
あらねばならない。
上に立つものは 今こそ、このことを 再任識せねばならぬ。
子供たちの成長過程で出会う先生の影響力は 時として その子の人生をも
左右することがある。
大切な時期だからこそ 「給料をもらって穏便に」式の教育者ではいけない。
聖職と言ったら 古臭いと笑うだろうか。
しかし、今の世の中だからこそ 求められているものもある。
立ち返らなければならないものもある。
不正が まかり通ってはならない!
  「どこにでも あることだよ。」 と、冷めた目で見てはいけない。
私たちが 他人事として関わりを怠った付けが 今、社会を滅ぼし始めた。

  
 負けるな! 真の勇者たち。  顔を上げて前を見つめ続けよ!

いつか 必ず、あなたたちが報われる日は来る。
 あなたたちが 見つめているものを捨てず、この世の中の不条理をバネとして
 飛躍することが きっと、いつかあなたたちの糧になる。
 どこかで あなたたちを評価する正当な目は 必ずあるから・・・。
 


さださんの言っていたこと。
 「誰でも 道に迷うことがある。  そんな時、迷いに迷って決めても
インスピレーションで決めても どちらにしろ 自分で選んだ道を 後悔するのはやめよう。
あっちの道に行けばよかったとか・・。
もしかして 違う道を選んでいたら大変なことになっていたのかもしれないのだから。
この道を選んだ自分を もう許してあげようと思うようになった。
自分もそんな年になってきたように思う。
本当に大切なことは 何かをやったとき 成果や過程ではなく
自分が 見つめ続けられるものを持っていられることだと思う。」

私も 最近、もう少し人に対して自分を 通していけるようになりたいと思ってきた。
きっと 我儘だと言われることもあるかもしれない。
子供を 育てると言うことは、 自分たちの年代は 我慢と忍耐と協調性に
縛られてきたように思う。  
そのことは 決して悪いことばかりではなかった。  しかし、人の中にあっては
協調性という名の元に 私は主張することの大切さも忘れ去った。
「生きることの三分の一」と言う歌にあるように
前に向かって! もっと素直に!  生きていきたい歳になってきた。 

 

2002年10月17日(木) 「WIND TALKERS」は 面白かった!


ニコラス ケイジって チョット苦手。 それで 見ようかどうしようか迷って
いたのだけれど やっぱり、気になる内容だから見に行ってきました。

第二次世界大戦でアメリカ海兵に従軍した先住民ナバホ族と 彼らを
護衛することになったアメリカ兵との 「心のきずな」を 描いています。
ただし、護衛とは 人命保護が 第一義ではなく  「暗号の 機密保持」
つまり、通信兵が 捕虜に取られる前に 抹殺せねばならないというのが
本来の任務であったそうです。
海兵隊では 未だに この事実を 認めていませんが・・・。

ナバホ語を 暗号として使うことを 思いついたのは 幼少時、宣教師だった
父親と共に ナバホ族の居留地で過ごしたアメリカ人だったというのですから
驚きです。
 文字を持たず わずかな抑揚と発音の違いで 全く違う意味になってしまう
ナバホ語を 軍用語に置き換え、暗号として通信していたそうです。
太平洋戦争末期には 400名にものぼるナバホ族を 徴兵して
彼らを 最前線で 通信兵として使っていたとは なんたる事実。
戦闘シーンや日本に対する描きかたは さておいて

 ラストシーン、
共に戦った親友や 結局、自分を護衛して死んでいったアメリカ兵の為、
ヤージー(ナバホ族の青年)が 故郷のモニュメントバレーで 自然に向かって
ナバホ語で 祈りを唱える姿は 感動物です。
コードトーカーとして使われたナバホ族は 「風と自然」を 崇拝する誇り高い
「Wind Talker」なのです。

 

2002年10月4日(金) 今日は 父の誕生日


今日は 父の誕生日です。 生きていれば今年で76歳になります
肉親の死とは 不思議なものだと 最近、つくづく思います。
どんな悲しみも 時間が 解決してくれると いいますが 私の場合は
 時間と共に 死を確認すると言うより むしろあの時のことは 夢だったのでは
などと思えてしまうのです。
また いつものように 仕事帰りに 父が ふらっと玄関先に 現れるような・・・。
「子供たちは どうした?」と言う声が 聞こえてくるような・・。

先日、30代で 同じ時期に 父を 亡くした友人と話をしました。  時間が
悲しみを 運んでくれると言うけれど 自分たちに その日が来るとしたら
それは どれ程の悲しみの先にあるのかと・・・。
今だけなのかもしれませんが 会えないという実感は 時がたつほど  私には
深い悲しみになってくるのです。  こんな状態を 父は 決して喜びはしないと
分かっていながらも・・。
子供たちが言います。  自分たちの生き方は 私の父から受け継いだものだと。
その度に 私は 心の中で 子供たちに感謝しながら 父に手を合わせます。
 「よかったね、パパは みんなの心の中で ずっと 生きていけるよ。」と。

寂しがり家の父は 天国で 親兄弟と 幸せにやっているのかな?
そういえば 生前、父はよく言っていたっけ。
  「子供たちは いつでも お前の見方だよ、大事にしなくてはいけないよ。」


                      
 信じて 頑張ってみます。

 

2002年9月30日 (月)   ホノルルの友達へ

ホノルルには 大切な友達がいます。 YokoさんとMichelineさん.二人とも
私と同じ年なのに 世界を相手に活躍するスケールの 大きな人たち。
私は この二人に 会うためにホノルルに行くようなものです。
この二人の共通点はと言えば 兎に角、優しい。 裏表なく優しい。
私たちくらいの年齢になってくると 心のつながりが とても重要になってきます。
見せ掛けや たてまえは疲れます。
本音で 物を語ることができる人、人の善さを まず見ようとしてくれる人、
それが 友達でいられる最重要課題であるのです。
多分、  二人とも ここまで来るのには 随分と 人に言えない苦労も
あったのではないかと思います。  
そして それが 二人を あんなに優しくスケールの大きな人間にそだてたのでしょう。
狭い日本と言う国の中でしか生きていない私には いつも うらやましくもあり
自分を 見つめなおす反省の糧です。
人が 人を好きだと言うことは 何事にも 大切なことだと いつもYokoさんと話します。
どんな仕事でも 人と関わる以上、まず 人が人を好きなことって大切だよね、と・・。

だから 子供たちに言います、人が見ているところでだけ働いている素振りを
見せる人間にだけはなってくれるなと。
人間って 捨てたものじゃないよ、必ず それを 見ていて評価してくれる人も
いるんだからと・・。
外国にも 心が通い合える友達をもてるなんて なんと幸せなことでしょう。
そう!  三人とも 涙もろい。 (心のつながりは 言葉の壁も 乗り越えます。)

  ホノルルは 風も 人も 優しい!    

 

2002年9月25日(水)  4回目の秋

今、息子の部屋で このPCを 叩いています。 部屋のすぐ外にある金木犀が
今年も きれいに咲き始め息子の部屋は 金木犀の香りに包まれています。
息子が 寮に入って4回目の秋が来ました。 
こうして 一人家にいて、息子の匂いが だんだん消えてくる息子の部屋にいると
余計に寂しさが募ります。
親は こうして早かれ遅かれ子供たちと離れ いつか永遠に別れていく日が来るのだと 頭では分かっていても 心の寂しさは 拭いようがありません。
息子が 寮に入ったときは 毎日、毎日 部屋に入るたび 涙がこぼれました。
 家にいたときは寄ると触ると 喧嘩ばかりしていたくせに・・。
なんと 親ばかなと 自分で思っても どうしようもない寂しさというものがあるのです。
主人を見ると まるで寂しがる様子もない.    なんと男親とは強いものと
感心していたら 主人が さだ まさしの「案山子」を 口笛で吹いていたり・・・。
あれ? こんな曲を いつ覚えたのかしら?

   
 元気でいるか  町には慣れたか  友達できたか
    寂しかないか  お金はあるか    今度いつ帰る

「親思う心に 勝る親心」とはよく言ったものです。
大好きな金木犀が咲く頃は 夕方になると特に人恋しくなるのは私だけでしょうか?
親は 病気をしても 子供たちには いつも健康でいてほしいなんて いつも思いながら・・・。

  PS.   今、娘から電話で アパレル関係の会社に合格したよし。

 

2002年9月24日(火)  J美のあなたたちへ

土曜日に 娘の同級生の絵画終了展を見てきました。 感激です!
よくぞここまでと言う想いと その子の高校の頃の思い出が 重なります。
その子は 写実的な絵、娘は抽象的な絵と好対照な 二人の絵は いつも隣同士に
貼られていました。   娘は大学で染色の道を歩き、その子は日本画の道を歩き。
みんな、悩み 苦しみながら一生懸命、自分の道を踏みしめている姿に 拍手を
贈りたいと思いました。  思えば、高校説明会のとき 当時の校長先生が 言われたお言葉は 今でも 耳に残ります。
「ご父兄の中で 学校で躾を望んでおられる方が おられたら もう一度、お考えください。躾は 家庭でするものです。 この学校は
本当の絵などの芸術に 触れることで 心の情操教育をします。ですから お帰りになったら お嬢さんと もう一度、ご相談なさって お受けください。」

    「ここだ!  ここしかない!」その時、心からこの学校に 娘を入れたいと思いました。   2〜3年次の持ちこしのクラスが 娘たちには 特によかったらしく
毎日、毎日が かけがえのない日々であったようでした。
何をするにも クラス全員が一緒なんて 今時、考えられない話です。
本音でものを 言える幸せ、裏のない付き合いが あの子たちには 現実に あったのです。  でも 親たちの心配は そのことが 今の世の中では あまりにも
ぬるま湯で 世間には通用もしないし 受け入れられないと言うことでした。
あの子達が 培われてきた本質を (人にも 物にも)見抜いていてしまう目は きっと
世間では 変わっている位の目でしか見られないでしょう。
本質を見抜いてしまうから 苦しむことも多くなる。  本当は このことは素晴らしい
宝なのだけれど、そして 自分たちを成長させてくれる源なのだけれど、 若いあの子達は きっと辛い思いも 人より多くしていくのでしょうね。
でも 頑張れと あえて言います。  若いときの苦労は 後の自分自身の宝だ!
ひるまないでほしい、高校時代に あんな素晴らしい思い出と 前に向かって進んでいける力を 身につけることができたのだから!

そして ありがとう、あなた達と知り合えて 私も幸せでした。あなた達が 声を
かけて来てくれる事が どれほど幸せだったでしょう。
もうすぐ 残った貴女たちとも別れる日が来ることを 親も 辛いのです。


 

2002年9月14日(土)  ハワイ(1)

もう何年前に なるでしょうか、まだ我が家の子供たちが 小学校低学年のころ
ホテルのラウンジにセピア色の古い写真が掛けてありました。
約100年前のカラカウア通りから ダイヤモノドヘッドを写した写真でした。
建物一つない緑の台地の先に ダイヤモンドヘッドだけがあります。
そのころのHAWAIIのホテルといえば ロイヤル・ハワイアンホテルと
モアナ・サーフライダーホテルの二つだけ。
本当に何もない南国の島でした。 この何もない島に入植した日本人たちの
苦労は 並たいていな言葉では 語れません。

数年前まで 宿泊していたホテルのテレビでHAWAIIの歴史をビデオで流していたことがありました。
その中で 入植した日本人たちが 笑顔で 手ぬぐいで汗を拭いているシーンが
ありました。  私は いつもそのシーンを見ると悲しくなりました。
不自然な笑顔、不自然に何度も汗を 拭うしぐさ。
このビデオは どんな人が撮ったのでしょうか。
だって 日本人が 住んでいた家は・・・、あれを 家と言わなくてはならないとは・・

家を売り、田畑を売り、帰るところう失った日本人は 過酷な労働と 不当な賃金
で 働きながら今に至る歴史を 築いていったのです。
第二次世界大戦での 日本人二世の働きは まさに移民の悲しみに ほかなりません。   アロハシャツも 思えば悲しい日本人の歴史です。

私が HAWAIIを好きなのも 日本人の歴史によるものなのだと思います。

WAIKIKIの浜辺に 夕日が沈みかけ「WAIKIKI」というハワイアンメロディーが
流れるビデオを見ると 子供に笑われるのですが いつも涙が出ます。
この歌の歌詞のように WAIKIKIは私にとって 魔法のようなものです。
また、来年も 戻ってくることが出来るように。
そして、WAIKIKIに 来ることを目標にして 苦しいことがあっても 頑張ろう。

   WAIKIKIには 魔法の力が きっとあるのです。

 

今日、久しぶりに帰ってきた息子と 群馬県の館林にある父の墓に     参って来ました。
 父を亡くして今年の春で 三回忌を むかえました。 寂しがりやだった父が こんな寂しいところに入ってしまったのかと思うと 涙が出ます。 そして 思い起こせば後悔する事ばかり。   
もっと はやく父が脳梗塞の発作を起こしたことを 私が知っていれば
こんな寂しい死に方は させなかったのにと・・・・。
父が亡くなるまでの二年間は 入退院のくり返しでした。  年よりは  無理にでも 早めに家に連れて帰らないと 自分の家でも 拒絶反応を      
起こすと医師に忠告されながらも 家族がそのことを理解できず・・。
いつまでも 歩けるようになるまでと 無理なことを父に強いていた家族。
脳梗塞は やる気が無くなってしまう病気なのだから 無理なのだと  いくら
一人で 説得してみても分からせる事が出来ずに終わってしまいました。
亡くなる前の夏、リハビリ病院に 主人と父を訪ねたとき、車いすの父が
「帰りたいなー。」といった言葉。 私はきっと 一生、この耳から離れないと思います。

父は 自分の家に どんなに 帰りたかった事だろうか。  もし 私が つれ合いの立場になったら やはりこうするのだろうか。   いや 私には 出来ないだろう。

父の葬儀の日、私は 父のそばを離れられませんでした。 「パパ、パパ・・」
呼んだら父が いつものように「うるさいねー。」と言って 答えてくれそうで
いつまでもいつまでも 呼びかけ続けていました。
涙より先のない悲しみ・・・・・、親を 亡くすということはそんな事かもしれません。

 
2002年8月22日(木)チョッコっと高価なのよー!外国のお友達の指が
太くても平気、テグスだもんね!昨日から よく働かされてるわー。ただで・・。
2002年8月22日(木)いかがー?今日も 働いてみました!
 
2002年8月21日(水)おおとり様、ペン千代(友情出演)
2002年8月21日(水)作らされた数は こんなものではありません!
スワロフスキーで作れないと言ったのに「ウフフ、お願い!」と言った
古き私の強引な友達、肩が こってしまったではないか!  
2002年8月16日(金)半襟です。間に合わない!肩がこる。
 
2002年8月16日(金)出来上がるまで模様は 秘密!(期限が迫る、苦しい!  あぁ、もっと早くからやればよかった・・・。
2002年八月九日(金)長崎にて(コルベ神父記念館より)
長崎にいったもう一つの目的は コルベ神父の記念館を訪ねることでありました。          
遠藤周作の小説に 何度か出てくる人物です。「コルベ神父は  第二次世界大戦の最中、日本で布教活動をしていたのですが、ユダヤ人狩りの嵐の
吹き荒れるポーランドに戻り、そこでナチスの手により アウシュビッツの
収容所に 収監されました。
おりしも、ナチスは 脱走をはかった者の見せしめとして 10人のユダヤ人に
餓死刑を 宣告しました。
その時、家族のためにと 必死に許しを請う男がいました。
コルベ神父は その人の身代わりを申し出ます。
10日のうち、9人の人々は 次々と死んでいくのですが コルベ神父は
17日間生き延び、毒薬の注射により命を 落とします。」

遠藤周作の 「ワルシャワの日本人」や アウシュビッツを訪ねたときの随筆に登場するコルベ神父の印象は 鮮烈です。
その人が どういう人なのか、未消化な部分を 埋めてみたいという思いを
ずっと持ち続けていました。
ここも、大浦天主堂脇の 小さな見過ごしてしまうほどの建物でありました。
そして私は 再び、自分には 計り知ることの出来ない信仰を観ました。

多分、曽野綾子や遠藤周作を 読まなければ知られることもないのだろう、と言う思いと共に・・・・・・・。
  そんな 密やかな所でした。


 
2002年8月5日(月)  長崎から帰って(1)
にわかに 思い立って7月31日から二泊三日で長崎に行ってきました。
娘と 二人旅です。
初めて 長崎に行く娘と 昔、修学旅行で来た街を ゆっくりと歩いて
来ました。  長崎の街は 神戸や横浜と違った明るさがありエキゾチックな
雰囲気が漂います。   この美しい街が57年前、一発の原子爆弾の為
焦土と化したとは なんとむごい現実でしょうか。
戦争を知らない母たる私は 娘に 歴史を教えるべく浦上の街を
訪ねました。   真夏の青空の下、浦上の街はとても静かで平和でした。
永井先生の暮らした如己堂は 悲しいほどに小さな小さな住居でした。
かそけく流れる「長崎の鐘」のメロディーが胸に染み入ります。
どうして こんなに強い信仰心を 人は 持つことが出来るのでしょうか。
「苦しい時の 神頼み」で生きてきた私には 一生近づくことの出来ない
世界であるのかもしれません。
浦上天主堂を過ぎて 平和公園への道を娘と共に それぞれの思いを
胸に下っていきました。
さだまさしの「祈り」という曲が 心の中によみがえってきます。

     この町がかって 燃え尽きたときに
     私たちは誓った 繰り返すまじと
     命を心を 奪い去ってゆく
     ちからも言い訳も すべて許せない
       私は祈る以外に 知恵も力も 持たないけれど
       短い花の生命(いのち)を ささやかなこの愛で染めたい

今日、彼は長崎の稲佐山から 広島に向かって平和へのメセージを
送っているのではないでしょうか。
 平和について 考える機会を与えられた旅でありました。

大浦天主堂

めがね橋の近くのレストラン「花の蔵」行くべし!

めがね橋

小川はた店

風頭山で出会ったカブトムシ君

2002年7月26日(水)  ウ〜ン暑い!
こんにちわ! manoaです。このHPを開いてくださった皆さん、元気で頑張っていますか?今日はその元気についてお話します。                    実は、私、遠藤周作氏とさだまさしさんが大好きなのですよ。五年前、初めて さださんのコンサートに行った時のことです。フィナーレで彼が言ったんです。    皆さん、この次お会いするまで どうぞ元気でいてください。元気でいるという ことは 頭が痛いとか、どこが痛いとか言うことではなく 心が元気でいてほしいということです。私たちは 誰もが両手に元気勇気をもっているのですから・・。 元気と勇気は使えば使うほど増えていきますよ。」と・・。                なんだか その時、その言葉がとっても心に沁みて おもわず涙がこみ上げてきたのですよ。それは、前年に 思いも寄らぬ大病をしたことがきっかけで、 自分の今までの生き方を見つめなおしたこともあるのですけど・・・。               では、そこで あなたの勇気ってなんなのよ?と、聞かれてしまいますと    ウ〜ン!本当にチョットした勇気も なかなかなくって イジイジ後悔すること のみ多かりき・・・、トホホ!  おまけに あの時、これからは自分の人生が終わるまで 精一杯頑張っていこうと殊勝に思ったことさえ 年がら年中忘れ、頭が痛いの 疲れたの、ダルイの、面倒くさいの、と・・。アー、私って何なのよ。           でも、時々、ハッと我に返って思うのです。自分の最後の日まで いつも何か 学習するものを もちつづけていけたらいいなァ・・・・・と。   by   manoa