迷宮内はひんやりと静まりかえっている。整然と並べられた石造りの壁を、
ランタンの薄明かりが照らし出す。俺は真っ直ぐに伸びる回廊を、周囲に警
戒しながら歩いていった。屍鬼共はいたるところに潜んでいる。長い傭兵生
活で研ぎ澄まされた俺の感覚は、敵がどこに隠れていようがその「殺意」を
読み取り、攻撃を予測できる。だが、屍鬼達にはそれが通用しない。奴等に
は「殺気」だとか「気配」というものがないのだ。既に生命体としての生涯
を終えているあのおぞましい化物共には意識というものがない。操られるよ
うにしてただただ生き物の肉を貪り喰っているだけなのだ。だから、奴等と
戦う際には目と耳だけを頼りにしなければならない。幸い屍鬼共の動きは鈍
いから、大勢に囲まれたり、不意打ちさえ食らわなければ怖れる相手ではな
い。数年前、死霊使いの率いる反乱軍の掃討作戦に参加した俺は、屍鬼共と
の戦い方を嫌というほど学んでいた。
俺は目を凝らし、動く影がないかを慎重に調べ、耳を澄まして物音に気を
配りながら、カビ臭い匂いの漂う迷宮を前へ前へと進んでいった。
しばらく歩くと、T字路に突き当たった。左側の通路から冷たい空気が流
れてくる。俺は左の道を選んで歩き出した。
その先は、大きなクレバスが道を塞いでいた。クレバスの向こうに目をや
ると、暗がりの中にT字路が見える。この先にも迷宮は続いているようだ。
穴の深さを確かめるため、小石を拾いクレバスに投げ入れてみた。少しの
間待ってみたが、石が地面にぶつかる音は聞こえてこなかった。どうやらこ
の穴はかなり深いようだ。落ちれば命はないだろう。
俺は来た道を戻り、右に進路を変更するか、クレバスの先へ進む方法を考
えるかを暫くの間迷った。直感的にはこちらの道が正しいような気がするが、
それを確かめる為にはクレバスを越えなければならない。クレバスの幅は、
目測で3m程度だ。鎧を装着した状態では飛び越えられるかどうかわからな
い。こんな所でくたばるのだけは御免だった。
さて、どうしたものかと思案していると、後方からズゥゥン、ズゥゥンと
いう音が聞こえてきた。その音は一回ごとに大きくなってきている。
俺はハッとして、腰に下げた長剣に手をかけた。全身の血管が収縮し始め
る。全身がどくどくと脈打ち始め、体中に力がみなぎっていく。戦いの予感
を俺の肉体が感じているのだ。俺はランタンの火を松明に移し、振り返って
その炎をかざす。燃えさかる松明の炎が、迷宮の暗闇を照らした。
途端、俺の顔は見る間に青褪めて行った。こちらへゆっくりと近づいてく
るものの正体は見たこともない、醜悪で、おぞましい怪物だった。ぬめぬめ
とした粘液で覆われた全身には、赤と青の血管が無数に鼓動している。ぶよ
ぶよとした足先からは黄色い爪が四本生え、爪は湾曲し、あちこちが黒ずん
でいて、ところどころがひび割れている。グロテスクな贅肉に包まれた巨人
である。
歩くのがあまり得意でないのか足元がおぼつかず、赤子のような動きでこ
ちらに近づいてくる。ニヤニヤした口元からは泡混じりの涎を垂らし、真っ
赤な舌を出している。歯は数えるほどしかなく、目も見当たらない。暗闇の
中の生活で、モグラのように視覚が退化してしまっているようだ。
俺はこの醜い肉の化物に強い嫌悪感を感じ、吐き気を催した。化物はただ
醜悪であるだけでなく、とてつもない悪臭を撒き散らしていた。
ズゥゥン、ズゥゥンと鈍い音を立てながら、ゆっくりと化物が近づいてく
る最早躊躇している余裕はない。クレバスを飛び越えるにはどうしたって助
走が必要だ。
「上手くいってくれよ…!」
俺は祈るような気持ちで化物の方向、クレバスとは反対側に駆け出した。
走りながら、右手は懐に伸びていた。俺の装備している胸鎧には皮でできた
小さなベルトが三つ付いており、そこに刃渡り20cm程の短剣が三本装着
されている。
卑しくも傭兵ならば剣、戦斧、戦鎚等、ありとあらゆる武器に精通してい
なければならない。短剣は、俺にとって切り札の一つである武器だ。盗賊ま
がいの卑劣な戦い方だと笑う奴もいるが、俺に言わせれば殺し合いに卑怯も
糞もない。生き残ることだけが唯一無二の目的なのだ。短剣の投擲による牽
制で間合いを制し、長剣で切り付け機を制し、小剣で急所を突いて敵を仕留
める。誰がなんと言おうと、これこそが必殺の戦法だという確信を俺は持っ
ていた。
瞬っ
短剣が空気を切り裂いていく音。次の瞬間、短剣は化物の眉間を正確に捉
えていた。
「ぶぉぉぉぉぉぉぉっ!」化物が世にも奇妙な悲鳴を上げてのたうつ。俺は
すぐに踵を返し、クレバスの方に走り出す。
(届いてくれ…!)石の床を蹴り、クレバスの端から飛んだ。今や足元は漆
黒の闇だ。俺は下は決して見ないと決めていた。前方のT字路の一点をじっ
と見つめ続けた。
ずざざざざざざっ
俺は前のめりに床を転がった。実に無様な体勢だが、なんとかクレバスを
飛び越えることに成功したようだ。亀裂の向こう側では例の怪物が相変わら
ず醜悪な声を上げて、地団太を踏んでいる。得体の知れない化物である。何
をしてくるかわかったもんじゃない。急いで立ち上がると、俺は前方のT字
路を左に曲がった。