「フラグ」                                      1  「1999年、アンゴルモアの大魔王が地球に降臨し、                世界を恐怖のどん底へと陥れる。」  僕は、偉大なる予言者ノストラダムスが残したこの箴言を信じている。  アンゴルモアの大魔王は必ず降臨する。そして、この退屈で、つまらない 何の意味も感じられない「日常」は終わりを告げる。  実は、僕の正体は、世界を救うために神に選ばれし戦士なのだ。大魔王によ って世界が滅亡せんとするまさにその時、僕は超人として覚醒する。そして壮 絶な戦いの末、大魔王は僕の手によって打ち倒されるのである。   ―こうして僕は未来永劫、救世主として崇めたて祭られることとなるだろう― 1999年当時14歳だった僕は、大魔王の降臨を今か今かと待ちわびていた。 けれども、いつまで経ってもアンゴルモアの大魔王は降ってこなかった。そうこ うしている内に1年が過ぎ、1999年は極めて平和に終わっていった。  それから8年が過ぎ、僕は高校を卒業した。その後一年浪人して三流理工系私 立大学に入学し、そこでまた一年留年して卒業した。  2008年現在、大魔王はいまだ降臨しないままである。おかげで僕の人 生設計は台無しになってしまった。大学の同期は皆、どこぞやの会社に就職し ていったが、僕はどうしても就職する気になれなかった。  何故僕が、就職しなければならないのか?  そもそも何故人は、働かなければいけないのか?  どうもそこがよく分からない。公務員の父親を持つ僕は、今日まで金に困った ことがない。朝昼晩の食事は母親が用意してくれるし、部屋にはTVもPCもある。 どうしても買いたいものがそれほど存在する訳でもなく、母親がくれる月五万 の小遣いで、十分優雅に暮していける。  高校卒業後、専門学校を出てすぐに美容師になった妹は、僕のことを「人間 のクズだ」と言ってなじるが、僕は自分のことを「人間のクズ」だとは微塵に も思っていない。  理由もないのに額に汗して働く奴の方がバカなのだ。  父親も母親も、僕に向かってことあるごとに「自立しろ」と言う。けれども 「自立」とは一体何なのだ?  月火水木金と会社に行き、「労働」という作業に従事し、「賃金」というも のを頂戴することが「自立」なんだろうか?  それなら会社の殆ど存在しない国、発展途上国や内乱の起こっている国に住 む人々は、誰一人として自立していないことになるではないか。本当に、会社 に行って働くことがそんなに立派なんだろうか?  正直なところ僕には「労働」などという、どうでも良い作業にかまけている 暇は無いのである。それよりももっと高尚で崇高な、僕にしか果たせない使命 があるからだ。  その「使命」とは、先程言ったように1999年に地上に降臨するはずだっ たアンゴルモアの大魔王を打ち倒すことである。僕の生まれてきた意味、目的 はこれ以外に無い。  にもかかわらず、大魔王は未だに現れる気配すらない。  だから僕は、とりあえず好きなことだけをしながら毎日を生き、大魔王の降 臨を待ちわびている。  14:00に起床し、朝食兼昼食を済ませる。2階にある自分の部屋から階 段を降りて、台所へ行くとラップのかかった食事が置いてある。父親も母親も 妹も既に仕事へと出掛けており、家には僕以外誰もいない。  食事の後はトイレへ行き、ウンコをして部屋へ戻る。部屋に戻ったらすぐに PCを起動し、ネットで落としてきた画像をぼんやりと眺めながらオナニーをす る。オナニーを済ませると大体16:00である。それから近所をぶらりと散 歩して、コンビニで漫画雑誌などを立ち読みし、家に戻って再びPCを起動させ、 ニコニコ動画にアクセスして何か面白いものはないかと探す。かつては「2ち ゃんねる」のVIP板や双葉ちゃんねる等を見ていたが、今は専らニコニコ動画専 門である。  そんな事をしていると22:00くらいになるので、台所に下りて行って夕 食を食べる。家族は既に皆食事を済ませた後だから、一人で食べる。それから トイレに行ってウンコをして、ウンコをしたらトイレを出て部屋に戻って再び PCの前に向かって無修正ポルノ動画をぼんやりと眺めながらオナニーをする。  そうするともう次の日の1:00を回っている。  それで一日は終了である。ベットに潜り込んで眠りにつく。  はっきり言って非常に退屈な毎日である。それもこれも皆、アンゴルモアの大 魔王がいつまでたっても降臨しないせいである。日を追うごとに「生きている」 という実感が薄くなってきている。友達と遊ぼうにも、皆就職してしまっている から非常に声を掛け辛い。  彼らに会うと、毎回仕事の愚痴の話になる。皆それを聞いて「うんうんそうだ よね」と頷いているが、何が「そう」なのか僕にはさっぱりわからない。  仕事が嫌なら、さっさと辞めればいいだけではないか。  それをグズグズと会社にしがみついて愚痴をこぼすのは、負け犬の遠吠え以外 の何物でもないように思う。  うじうじと泣きそうな顔をしながら仕事の愚痴を言っている友人達を見ている と虫唾が走る。このような実に下らない連中の、実に下らない会話に付き合って いたらそのうちに脳味噌が腐ってしまいそうである。だから僕は彼らと縁を切っ た。  要は「金」だろう。金が欲しいから、会社にしがみついて嫌な仕事をしている。 ただそれだけの事ではないか。「社会に貢献する義務」だの「男としての甲斐性」 だの「将来のため」だのと、ぐだぐだと奇麗事を並べて「労働」に従事することを 正当化し、その癖愚痴ばかり言っている分裂症の奴等は一刻も早く死んだ方がいい。 生きていても時間の無駄である。息をしていても地球上の酸素を無駄に消費するだ けだ。  僕の名は「東芝悟(とうしば・さとる)」と言う。この世界における名前なん てものはどうでもいいんだが、このあたりで一応名乗っておこうと思う。  本当の名前は他にあるが、それは口が裂けても言えない。その名前は僕が生ま れる6000年も前から決まっていたのである。  おいそれと口にできるようないい加減な名前ではない。アンゴルモアの大魔王 が降臨し、僕が救世主として覚醒した暁には、その名前を明かそうと思う。  世間では僕のような人種を「ニート」と呼ぶらしい。なんでも、働く意思も職 業訓練をする意思もない連中のことを指してそう呼ぶのだそうだ。何度も言うよ うだが、この世界でどう呼ばれようが、僕にとってはどうでもいいことだ。なんと 言われようが、僕にはどうしてもやり遂げなければならない使命があるのである。 それはアンゴルモアの大魔王を倒すことで、他の事なんて全部どうだっていい。  それにしても、いつまで経ってもアンゴルモアの大魔王は現れない。  これは一体、どういう事なんだろう?その事を小一時間ほど考えあぐねていた ある日、  もしかすると、何らかの<フラグ>を立てる必要があるのではなかろうか?  という考えが浮かんだ。  忘れもしない2008年12月19日未明の事である。    2  <フラグ>とは何かというと、  <あるイベントを成立させるために満たさなければいけない条件>    のことである。例えば、 【入学式の朝に同じ学校の制服を着た少女とぶつかり、少女と口論になる】  という出来事に遭遇したとすると、入学式を終え、教室に入り、自分の席に つくと、隣の席に朝口論になった少女が座っており 「あーーー!おまえわ!!!!!」という事になる。これは、通学途中に少女 とぶつかり口論をしてしたことで、 【その少女と同じクラス、隣同士の席になる】  という<フラグ>が成立してしまったから起こってしまった現象なのである。  同様に【「最近、よく人が神隠しに遭うらしい」という噂を耳にした】とし たら【宇宙人にさらわれる】という<フラグ>が成立したことになる。さらに、 【地球上ではコスプレ風俗店でしか見かけないような、肌もあらわな衣服を着 た女性に路上で遭遇し、助けを求められた】としたら【異次元の穴に吸い込ま れ、気がつくと剣と魔法の世界にいる】という<フラグ>が成立した事になる。 【女房子供の写真を友達に見せてのろけ話を始める】のは【交通事故死する】 <フラグ>を立てる行為だし(専門用語で【死亡フラグ】と言う。)靴紐が突 然ぷつりと切れるのは何か不吉な事が起こる<フラグ>である。もっと言えば 風が吹くのは桶屋が儲かる<フラグ>で、北京でチョウチョがはばたくのは、 ニューヨークでハリケーンが生じる<フラグ>だ。  この<フラグ>理論は、僕にとっては物心ついた時からの自明の理であった。 が、とある友人にこの理論を説明したところ 「おまえ、完全にゲーム脳だな。。。」  と、笑われてキチ○イ扱いされてしまった。それ以来僕は<フラグ>理論を 自分の心の奥にしまいこんで、誰にも話さない様にしている。  話が少しばかり脱線してしまったが、その<フラグ>である。  もしかすると僕は、アンゴルモアの大魔王を降臨させる為に、何らかの<フ ラグ>を成立させる必要があるのではないだろうか?僕が<フラグ>を立てな いから、大魔王は降臨したくても降臨できないのかもしれない。そう考えると 色々と合点がいく。  もしそうだとするならば、僕は何としても大魔王を降臨させる<フラグ>を 探さなければいらない。その<フラグ>にあたる行動とは一体何だろうか?現 時点では皆目見当もつかなかった。  が、とにかく、こうして部屋の中で悶々としても状況は一向に好転しない。  だから僕は<フラグ>を探しに外へ出てみることにした。  そんなわけで<フラグ>探しの旅に出た僕だったが、どこへ行くあてがある わけでもない。少なくとも、日野市の住宅街の真っ只中に位置している僕の家 の周辺に存在するわけはないと思われるので、とりあえず電車に乗ってみるこ とにした。  一体全体<フラグ>はどこに隠されているのだろうか?手掛かりのひとつで もあれば良いのだが、残念なことに何一つそんなものはない。悩んでいても仕 方ないので、たった今ホームに到着した中央線東京行き快速電車に乗り込んだ。  現在時刻は15:00前後で、車内は閑散としており、人はまばらである。 僕はしょぼくれた灰褐色のスーツを着、スポーツ新聞を読み耽っている、いつ 自殺してもおかしくないような顔をした、しょぼくれたサラリーマンの隣の席 にどかっと座り、足を組んで腕組みをしてしばし物思いに耽った。  腐りきった世の中である。暇を持て余し、週刊誌の見出しがずらりと並んだ 吊り広告に目をやると、ロクなニュースがない。政治家の醜聞、芸能人の痴情 沙汰、どこかの企業の不正事件、楽してがっぽり金を稼ぐ方法、女を口説くテ クニック、ポリネシアン・セックス、潮の吹かせ方…あまりにもどうでもいい 情報の氾濫に目も眩まんばかりである。  週刊誌がこの様な破廉恥極まりない記事ばかりを連日連夜垂れ流し続けるの は、つまるところ、大衆がこういった愚劣な情報にばかり興味を示すからであ って、このように情けない我が国の現状を思うと遺憾の念を禁じえない。人間 とはどこまでも愚かしい生き物である。早く絶滅した方が全宇宙の為であろう。  その為にも僕は、一刻も早く<フラグ>を見つけ出し、アンゴルモアの大王 を降臨させなければならない。大魔王さえ降臨すれば、この腐敗した都はたち まちのうちに炎に包まれて火の海と化し、サラリーマンは虐殺され、女達は大 魔王のセックス奴隷と化し、少女は泣き叫び、子供たちは来るべき救世主の到 来を待ちわびて祈るであろう。  その時こそ、僕の出番である。僕の本当の人生はそこから始まるのだ。  と、そのような高尚な思索に耽っていると、電車は新宿駅に到着していた。  特に何の根拠がある訳でもないが、人の流れに乗って、僕は新宿で降りて みることにした。少なくとも、我が家の周辺よりは<フラグ>に近い気がし ないでもない。  新宿は汚い街だ。品性の欠片も感じられぬ、最低最悪の街である。平日の 新宿は、人間でごったがえしていた。行き交う人々は誰もが早足で、怒って いるような、泣いているような微妙な顔をして、全身から「瘴気」とでも言 うべきネガティブなオーラを発散しながら歩いていく。街中に大便と小便と 血と汗の入り混じった異様な臭気が漂っており、とにかく不快極まりない場 所である。性欲、食欲、名誉欲、金銭欲、虚栄心、憎悪、嫉妬心、不安、恐 怖、etc…そういった邪悪な思念がこの町に集中し「マイナスイオン」ならぬ 「プラスイオン」とでもいうべきものが街中に蔓延している。  こんな街に長く滞在していたら、誰だって気がおかしくなるに決まってい る。一刻も早く<フラグ>を見つけ出してこの場から早急に立ち去らねばな らない。でないと僕もプラスイオンにやられて頭が狂い、早足で歩いている 怒っているような泣いているような顔をした人たちの仲間入りを果たしてし まうやも知れぬ。  そういうわけだから、気合を入れて街中を歩き回り、キョロキョロしなが ら<フラグ>を探してみたものの、それらしきものは一向に見つからない。 それどころか、手掛かりのひとつの欠片の十分の一の2%の半分も発見でき ない有様である。二時間ほど歩いた所で僕は疲労困憊し、街に漂っている瘴 気とプラスイオンにやられて気持ちが悪くなり、吐き気がしてきた。お腹は 空いてきたしオシッコはしたいし、とにかく最低の気分である。  その様な最低最悪の心持で歌舞伎町周辺をうろうろしていると、警察官と 思われる青色の服を身に纏った男が鋭い目付きで僕を凝視していることに気 がついた。  警棒を右手に構え、こちらを観察している。今にも僕を逮捕しそうな勢い である。無実の罪で刑務所にぶち込まれてはたまったものではない。  さすがにそれは被害妄想に過ぎないとしても、無職の僕にとって「職務質 問」というやつは天敵と言っても過言では無い忌むべき存在である。先月な ど、日野駅の駐輪場で警官に呼び止められ、2時間37分56秒にも渡る尋 問を受けた。奴等はナチSSや帝国陸軍憲兵隊の如し残忍さで無職の人間を 拷問にかけようと企んでいる。  あんなみじめな思いは二度とごめんであるので、いち早くこの場から退散 することにした。  新宿から退散し、自宅に帰り着くと時刻は18:00を回っていた。  両親と妹は、キッチンで夕食を食べている。僕は、いつものように夕食は 家族が食べた後にしようと思い、二階の自室へ向かおうとした。  その時、 「サトル、ちょっと待ちなさい」と父親が僕を呼び止めた。  僕は顔をしかめ「何?」と父親に問うた。すると今度は母が、 「サトルちゃん、たまには一緒にお夕飯食べましょ、ね?」  と気味の悪い猫なで声を出して僕を制止しようとした。さすがに無視する わけにもいかなくなったので、僕はテーブルの空席にどかっと座り込み、無 言のまま食卓の唐揚げをばくばくと頬張り始めた。  それから暫くの間、気まずい沈黙がキッチンを支配していたが、意を決し た様な目をした父親がその沈黙を破り、僕のほうを見て 「           どうするんだ?               」  と言った。 【どうするんだ?】と父親は僕に問うている。【どうするんだ?】と訊かれて も困るのだ。  どうするもこうするも、僕には一刻も早く<フラグ>を見つけ出し、アンゴ ルモアの大魔王を降臨させ、救世主として覚醒し、世界を滅亡から救うという 崇高かつのっぴきならぬ使命があるのだ。こんな所で油を売っている暇はない のである。  が、父親にこの使命について説明したところで精神病患者扱いされるだけで あるのは、火を見るよりも明らかだ。だから僕は、無難に 「             何が?                 」  と答えた。すると父親の顔面がみるみるうちに赤くなり、両手の拳を震わせ 「何が?じゃない!!!どうするんだと聞いているんだっ!!!!!」    と大声を張り上げた。母親はそんな父親をまあまあとなだめた。妹は不機嫌 そうな顔をして、黙々と白米を食べている。  僕はこれ以上の議論は時間のムダであると判断し「ごちそうさま」と言い残 してその場を後にした。父親はぶつぶつと文句を言いながら「おい、ビール!」 と母親に命令口調で言った。僕は二階へ上がり、自室に入るとベットの上にご ろりと横になった。 「どうするんだ?」  父親のその言葉が耳から離れない。 「どうするんだ?」とは、 「いつ、どこの会社に就職するんだ?」という意味である。直接的に言ってしま うと角が立つからそう言わないだけで「どうするんだ?」という言葉に込められ たメッセージは唯一つ「早く就職しろ」である。  だから「どうするんだ?」という問いに対して、 「一刻も早く<フラグ>を見つけ出し、アンゴルモアの大魔王を降臨させて、救 世主として覚醒しようと思います。」  と正直に答えようものなら、 「何考えてるんだ!?おまえ幾つになったと思ってるんだ!真面目に答えろ!」  と叱責を受ける事は火を見るよりも明らかだ。だから何も言わない。僕は僕の 本心を心に秘めて、ひっそりと守り抜くしかないのだ。  そんな事を考えていたら眠れなくなり、とうとう夜が明けてしまった。8:0 0ごろになってようやく眠りにつき、起きると14:00で、僕はトイレに行っ てウンコをして、それから顔を洗いに一階へ降りた。  家族は皆、既に仕事に行ってしまっている。顔を洗ってからキッチンに向か うと、テーブルの上にラップのかかった昨日の唐揚げの残りが置いてあり、僕 はそれをレンジで温めて食べた。  なんだか頭が猛烈に痒い。そういえばもう三日は風呂に入っていない。僕は シャワーを浴びようと風呂場へ向かった。  洗髪をしていると、不幸なことにシャンプーの泡が目に入った。僕は目薬も させないほど、目に異物が入るのが嫌いなのだ。  目を洗おうと、あわてて蛇口を捻った時、風呂場の床に転がしていた石鹸に 足を滑らせ、湯船の角で後頭部を強打した。その強烈な衝撃と目に入ったシャ ンプーの泡によるダブル拷問で、僕は完全に我を見失い、2分間程ぎゃあぎゃ あと叫び声をあげながらのたうち回った後、やっとの事で風呂場から這い出し た。  まったくツイてない。起床して早々こんな災難に遭うようでは、今日一日が 思いやられる。僕はこの世界を創造し賜うた神を、心の底から呪った。  が、どうやら神は僕を見捨てていたわけではなかったようである。       <交差点>     <芝生>    <コンクリート工場>    この三つの言葉が、脳内に突然降りてきたのである。僕はそれが、大魔王降 臨の<フラグ>に関係するキーワードであることを直感的に悟った。  昨日はわざわざ新宿まで赴き<フラグ>探索を行ったが、何の手掛かりもな い手探りの状態での探索だったこともあって、一切収穫を得られず極めて虚し い気分を味わった。が、今日は違う。この3つのキーワードを読み解きつつ探 索を進めれば、必ずや<フラグ>に到達できる筈である。  僕は意気揚々と服を着、頭髪を整えて家の外へ出た。 「交差点、芝生、コンクリート工場。交差点、芝生、コンクリート工場。交差 点、芝生、コンクリート工場。交差点、芝生、コンクリート工場。交差点、芝 生、コンクリート工場。交差点、芝生、コンクリート工場。交差点、芝生…」  鼻息も荒く、日野市の住宅街を闊歩しながら、僕は三つのキーワードを何度 も連呼した。このキーワードが意味するところは果たしてなんだろう?単純に 考えれば【場所】であろう。交差点があって、芝生があって、コンクリート工 場のあるところに、アンゴルモアの大魔王を降臨させる<フラグ>が隠されて いる…というのが最もシンプルな解答ではないだろうか。  その後、色々と思案をめぐらし、頭を捻ってみたものの、一向にそれ以上の アイデアが浮かばない。うんうんと唸りながら歩いていたら、とうとう駅前ま で辿りついてしまった。電車にでも乗ってみるかな…とも考えたが、はっきり とした行き先を決めないまま電車に乗ると、昨日の二の舞を演じかねない。電 車賃だってタダではないのである。もう少し、熟考してみることにした。  「おう、東芝君じゃない。久しぶりだねえ」  その時、重要な思索に耽っている僕に、男が声を掛けてきた。  振り返って声のする方へ目をやると、そこに大原先輩がいた。  「おーお久しぶりです。」  僕は気のない返事を先輩に返した。  大原先輩と言うのは、高校時代僕のいっこ上の学年で、部活の先輩だった人 物である。当時僕は漫研に所属しており、先輩はその漫研の部長を務めていた。  大原先輩は、僕たち漫研部員の憧れの的であり、カリスマ的存在であった。 何故かと言うと、べらぼうに絵が上手かったからだ。  先輩は、アニメやゲームの中に登場するキャラクターを、原作よりもはるか に魅力的な絵で描くことができる稀有な才能の持ち主だった。先輩はその才能 を使って、当時流行していたアニメやゲームのキャラを裸にひんむいて、エロ い事をさせている同人誌を制作し、即売会イベントで売りさばいていた。本は 16P程度の小冊子で、コンビニのコピー機で原稿をコピーし、それをホッチ キスで止めて制作していた。それを300円ほどの値段をつけて売るのである。  同人誌の即売会イベントが近付いてくると、僕達はコピー誌の制作を手伝う ために、先輩の自宅に集結した。深夜にコンビニに出掛けて先輩の描いたエロ 絵をコピーし、それをホッチキスで止めて本にしていくのである。そうやって 100冊ほど制作したコピー誌を即売会に持っていくと、毎回即座に完売した。  この即売会イベントには、いつも3000人くらいの人間が同人誌を出展し ていたのだが、先輩はその人たちの中でも5本の指に入るくらい絵が上手かっ たのである。イベントに本を買いに来る人たちは、争うようにして先輩の同人 誌を購入していった。  即売会イベントが終了すると、先輩はその日の売上で、いつもラーメンやお 好み焼きをおごってくれた。僕達が通っていた高校ではバイトが禁止されてお り、皆金がなかったので、これはとてもありがたかった。  高校生なのに自力で金を稼ぐことができて、絵もとてつもなく達者な大原先 輩のことを、僕達は心から尊敬していた。僕達は皆先輩に少しでも近付こうと、 必死でデッサンの訓練やアニメ絵の模写をしていた。  そんな大原先輩だったが、高校卒業が近付いたあたりから次第にカリスマ性 が薄れていった。高校時代、大原先輩は 「高校を卒業したら、アニメーターかゲーム会社のグラフィッカーか、漫画家 になりたい」  と口癖のように言っていた。僕達は大原先輩だったら何にだってなれるに違 いないと信じてやまなかった。何せ大原先輩の描く絵は、プロの漫画家やアニ メーターが描く絵よりもずっと魅力的だったのだ。  大原先輩なら、どこへ行ったってひっぱりだこだろうと、僕達は考えていた。    けれども現実は、そんなに甘くなかった。  高校三年生の夏、大原先輩はゲーム会社に就職しようと、色々な会社の採用 情報を調べていた。だが、ゲーム会社の採用条件はどこも大卒か専門学校卒で、 高卒の先輩を採用してくれる会社はどこにも見あたらなかった。  そこで先輩は、ゲームやアニメの専門学校へ入ろうとしたが、先輩の両親は 古風な考えの持ち主で、大学以外の進学は認めないといった感じだった。当然 ゲーム、アニメの専門学校などは論外である。  他に選択肢を失った先輩は、最後の手段として漫画家になるべく、漫画を描 いて大手出版社に持込を敢行した。  そこで先輩を待ち受けていた運命は、実に厳しいものだった。  持込み先の編集者は、先輩の漫画をけちょんけちょんにけなした挙句、先輩 の唯一無二のアイデンティティである絵にまでダメ出しをしたらしい。最後に 編集はこう言ったそうだ。 「人間としてつまらない奴は、どれだけ努力したって無駄。まだ若いんだから 人生の方向性を見直したほうがいい。」  この言葉を聞いた先輩は、完全に自分に自信を無くしてしまった。先輩は元 々ナイーブな人で、特に絵のことに関してはデリケートな人だった。少しでも 絵にケチをつけられると、一週間くらいは落ち込んで何も手につかなくなるこ とがしばしばあった。そんな先輩だったから、この一件から受けたショックか らは立ち直れず、全く絵を描かなくなってしまった。  同人誌の即売会イベントにも行かなくなり、高校卒業後は駅前の本屋でアル バイトをして、ゲーセンとパチンコ店に通い詰めるだけの自堕落な生活を送る ようになっていった。先輩をカリスマ視して、崇拝していた漫研の連中(僕も 含めてだけれども)も、次第に先輩から遠ざかっていき「あの人は終わった」 と陰口を叩くようになった。  それから数年が経過したが、先輩は未だ、このいつ潰れてもおかしくないよ うな書店でバイトしながら生活しているようである。 「元気?」 「はあ…まあぼちぼちっすね。」 「最近何してるの?」 「はあ…まあ色々と…」  先輩は僕になれなれしく話しかけてくる。そういえば漫研時代も先輩は、僕 だけ他の部員とは違って、特別扱いをしていたような気がする。多分、先輩の いっこ下の学年では、僕が一番マシな絵を描いていたせいであろう。思い出し てみると僕は、先輩のコピー誌に何度かラクガキのようなものを寄稿した覚え がある。  と言っても、僕も先輩と同じく、もう何年も絵を描いていない。大学に入っ てからは麻雀とパチスロばかりしていた。もう二度と絵を描くこともないと思 う。  僕には悠長に絵なんかを描いている暇などないのである。僕には<フラグ> を探し出して大魔王を復活させ、救世主として覚醒して大魔王を倒すという崇 高な使命が課せられているのだ。 「東芝君は、今でも漫画描いてるの?」  大原先輩はしつこく話し掛けてくる。うざい人だ。自分は漫画に挫折したくせ して、真剣に漫画を描いていたわけでもない僕に向かって「漫画描いてる?」と はどういう了見だろう?漫画なんてものからは、とっくの昔に卒業している。 「描いてません。」  僕は吐き捨てるようにそう言って、その場を離れようとした。 「そっか…」  大原先輩は寂しそうにそう答えた。  僕は一刻も早くこの場を離れたいと思った。なんだかよくわからないが、こ の人と喋っているとモヤモヤする。僕はなるべく早く、この会話を切り上げた いう気持ちでいっぱいだった。  が、その時大原先輩は意外なことを口にした。 「なあ東芝君、最近ネット界隈で変な噂が広まってるのを知っているかい?」    なんとなくその言葉がひっかかった僕は「何です?」と先輩に聞いた。 「遅れてきたアンゴルモアの大魔王が、ついに降臨するとかそういう話。アン ゴルモアの大魔王ってのは、ノストラダムスの予言のアレなんだけどね。」    僕はびっくりして聞き返した。 「それはどんな話なんですか!?詳細を教えてください!!」  僕は殆ど尋問のような形で先輩に詰め寄った。 「わわっ!話すよ話すよ!落ち着いてくれ…」  予想外だった僕の食いつきっぷりにたじろぎ、よろけて抱えていた本を落と しそうになった先輩は、本を傍らに置いて体勢を立て直し、話し始めた。 「なんでも、ノストラダムスの大予言―アンゴルモアの大魔王降臨が外れたの は【ある人物】がこれを阻止したからなんだそうだ。その人物は太陽系にある 惑星の運行軌道を、ある特殊な方法でほんの少しだけズラして、太陽系の重力 バランスを微妙に変化させたらしい。そんな事ができる人間の存在をまったく 想定せずに宇宙を飛んできた大魔王は、航行ルートを誤って冥王星の重力に捕 まり、冥王星の周囲をぐるぐると回る衛星になってしまったそうなんだ。」  僕は異様なまでに真剣な顔つきで先輩の顔を見ながら話を聞いていた。先輩 は何故そんなに真剣に話を聞くのかわからない、といった風の、怪訝そうな顔 つきで話を続けた。 「それで1999年の大魔王降臨はなんとか避けられたらしいんだが、それも 応急処置にしかならなかったらしく、今年に入って大魔王は、ついに冥王星の 衛星軌道から抜け出したそうなんだよ。今大魔王は、猛烈な速度で地球に向か って飛んできているらしい。ま、ここまではよくある電波ネタなんだけど、こ の話が面白くなるのはここからだ。」 「なんですか!?もったいぶらずに早く話してくださいよ!!!」  …なんという事だ。そいつが余計なことをしてくれたお陰で、僕の人生設計 が台無しになってしまったのか。湧き上がる怒りを抑えつつ、僕は先輩の話の 続きを聞いた。 「でね、その【ある人物】ってのがブログを開設して、  ”立てよ国民!!!来るべきアンゴルモアの大魔王降臨に備えるのだ!”  って感じの日記を毎日のように更新して扇動し始めたわけなんだよ。当然ブ ログは炎上だわな。ニュー速にもVIP板にもブログの直リンが貼られて、無 数のイタズラコメントがブログに寄せられるようになった。そんな中、そいつ が  ”今月24日に○市にある廃コンクリート工場で集会を開く。” なんてことを言い出した。今ニュー速はその話題で持ちきりだ。それで【キチ ○イ観察オフ】と称してこの集会をひやかそうって輩が続出してるんだよ。ね、 ちょっと面白いでしょ?」  これでキーワードの一つ<コンクリート工場>の謎が解けたことになる。そ こに大魔王を降臨させるための<フラグ>に関係する何かが存在する事は間違 い無いだろう。僕は何が何でもこの人物と接触し、再度大魔王の降臨を阻止さ れるような最悪の事態だけは防がなくてはならない。これ以上僕の人生設計を 狂わせるわけにはいかないのである。 「僕そのコンクリート工場に行きますよ。先輩も一緒にどうですか?」  僕は先輩にそう切り出した。先輩は突然の提案に迷うそぶりを見せたが、し ばらくして 「いいよ。面白そうだし、行ってみよかww」  と笑顔で頷いてくれた。                                       3  今日は12月の20日である。集会が行われる予定日の24日までは、まだ 少し日があった。  大原先輩はその日バイトが入っているらしく、もしかしたら行けなくなるか もと言っていた。最悪僕ひとりで向かうことになる事になるだろう。例えそう なったとしても、僕はこの集会に参加しなくてはいけない。この一件には僕の 今後の人生が掛かっているのである。  僕は、アンゴルモアの大魔王降臨を退けたと主張している人物―【玄妖空】 と名乗っているようだ―のブログを見てみることにした。僕の部屋にあるPC は、常に待機状態にしてある。スペースキーをぽんと叩くと、すぐさまモニタ ーにデスクトップ画面が表示された。IEを開いて、先輩から教えてもらった ブログのURLを入力する。  そうして目の前に出現したブログは、とてつもなく詐欺臭い、うさん臭い匂 いの漂うブログだった。  まず字がやけに大きい。ムダにサイズの大きなゴシック体の太字で、  ”立てよ国民!!目覚めよ国民!!約束の日が近付いている!!!!” と書いてある。正直に言って文章の内容からは、深いものが一切感じられない。 ブログを運営している人間の軽薄さと知能の低さが滲み出してくるような、最 低のブログである。  周囲に散らばっているバナーがまたうるさい。紺、黄、赤という、不快なま でに視線を引き付ける派手な色で構成されたバナーが、ブログのあちこちに点 在している。バナーが宣伝している内容はといえば、異常に高額な美容器具、 マルチ商法の勧誘、持っているだけで金運がよくなる水晶のアクセサリー…と これまた実にいかがわしいものばかりである。  このブログはどう見てもインチキにしか見えない。これを見て、さすがに僕 も24日の集会に参加することを断念しようかと迷ったほどである。とはいえ 確かに集会の場所は廃コンクリート工場となっており、キーワードとの関連は 明白である。  集会についての記事の中に、コンクリート工場の住所と、手書きの地図がア ップロードされている。この地図がまた汚い。チラシかなにかにマジックで書 きなぐったものらしく、裏の内容が透けて写ってしまっているし、地図を書く 時についてしまったものであろう指紋までもがしっかりとスキャンされていた。  このインチキ臭いブログを書いている人物―玄妖空―は本当に<フラグ>に 関係しているのだろうか?偶然にしては出来すぎているが、あまりにも信用で きない要素が多すぎるのも確かである。  僕はしばしの間、思案に耽った。  このブログからは、運命的なものが一切感じられない。極めていかがわしく、 うさん臭いインチキなオーラが発せられている。こんなブログを運営するよう な人物に、惑星の重力を操作し、大魔王を冥王星の衛星にしてしまうような、 とてつもない神通力が備わっているとは到底思えない。  本当に、この人物―玄妖空―とコンタクトをとることに意味があるのだろう か?僕は少し不安になってきた。とは言うものの、僕の頭に降りてきた神聖な キーワードのひとつである<コンクリート工場>は、明らかに玄妖空という人 物と接触することを示唆しているとしか思いようがない。結局のところ、この 人物と接触するより他に選択肢はないのだった。  翌日僕は先輩のバイトしている、駅前の今にも潰れそうな書店を訪ねた。集 会の日まではまだ3日あるが、どうせ他にやることもないのだし、暇潰しつい でに先輩と「作戦会議」を行うことにしたのである。  先輩は、月火水木日と、10時から18時まで書店で働いている。店は極め て小さく、店員は一人で十分なので、先輩はいつも一人で仕事していた。  店長は怠け者で、毎日ほとんどパチンコ屋に入り浸っており、滅多に顔を出 さない。それをいい事に先輩は、お気に入りのアニソンを店内に流し、お気に 入りの漫画やアニメ雑誌ばかりを目立つところに陳列して好き勝手し放題して いた。  店内は常に閑散としており、客は一時間に一人訪れれば御の字といった風で ある。先輩はいつも暇そうにレジの前に座っていて、時折思い出したように本 の整理を始める。なんて楽な仕事なんだろう。時給は750円と薄給なことこ の上ないが、レジの前に座ってだらだらしているだけで一時間750円も貰え るのは羨ましい限りである。「無意味な労働など絶対にしない」という僕の信 念も、先輩の仕事を見ているとちょっとだけ揺らぎそうになる。 「おー東芝君。」  店に入ると、やはり客は一人もおらず、先輩はだるそうに声を掛けてきた。 「どうですか?休みとれそうですか?」  僕は聞いた。 「いきなりだなwwうん、まあ多分なんとかなりそうな感じだよ。」  先輩は右手でペンを回しながら煮え切らない返答をした。今どきペン回しな どやっている人間を久しぶりに目撃した。貧乏ゆすりをしながらペン回しをし て、だるそうにレジの前に座っている先輩の姿は、なんだかすごくズレた感じ がする。 「そうですか、それはよかった。」  僕はそっけなく答えると、レジの前を離れて店内を見て回ることにした。  実に冴えない店である。店の面積は10m四方程度で、ハードカバーの類は 話題になっている新刊くらいしか置いてない。店内を中心でふたつに分断する ように配置された棚に雑誌が陳列されており、車とゴルフについての雑誌とビ ジネス系の雑誌、アニメ、ゲームの雑誌、残りは全てエロ雑誌である。全般的 に先輩の趣味が如実に反映されているため、やたらとアニメ、ゲーム、萌え関 連の雑誌、書籍が充実している。  店長にやる気がないのをいい事に、先輩はやりたい放題である。コミックも 萌え系の単行本ばかりが充実し、青年誌系の絵が汚いコミックは売れ線のもの であっても本棚の隅に追いやられている。これでは先輩の部屋の本棚を店で再 現しているようなものだ。  この偏った陳列を眺めていて、僕はふと(そういえばもう随分と漫画を読ん でいないな…)と思った。高校時代は先輩の影響もあって、相当な数を読んで いた気がする。大学生になってからは漫画を滅多に読まなくなった。大学時代 は本当に麻雀とパチスロをした記憶しか残っていない。ギャンブルに明け暮れ ていたらあっというまに四年が過ぎ去った。一体あの四年間はなんだったんだ ろうか?実に無意義な四年だった。それもこれも全て、いつまで経ってもアン ゴルモアの大魔王が降臨しないせいである。大魔王が降臨しないことには、僕 の人生は何の意味もないまま終わってしまう。僕はアンゴルモアの大魔王を倒 すためだけに産まれてきたのだ。一刻も早く大魔王を降臨させて、地球の救世 主として覚醒し、大魔王を倒さなければならない。その為には、まずなんとし ても<フラグ>を見つけ出さなければならぬ。最早一刻の猶予も許されない。 これ以上年齢を重ねてしまったら、救世主としてカッコがつかないではないか。 「三十路の救世主」なんてどう考えてもありえないだろう―  などという思索に耽り、自分の世界にどっぷりと浸かっていると、先輩が僕 を寂しそうな目で見つめていることに気付いた。どうやらかまって欲しいらし い。僕よりいっこ上のくせに困った「かまって君」である。しょうがなく僕は 先輩のいるレジの方へ戻った。 「最近このマンガにハマッているのさ。」  先輩の顔がぱあっと明るくなり、嬉々として僕に話しかけて来た。そして先 輩は、一冊のマンガを僕の手に押し付けた。困った人である。昔から気弱なく せして変な所で強引なのだ。僕はマンガ本などを読んでいる暇はこれっぽっち も無いというのに。 「絶っっっ対面白いから、絶っっっ対読んでね!!」  先輩は僕に念を押した。こうなると先輩は引かない。自分の好きなものを否 定されることは、先輩にとっては自分を否定される事と同義なのでである。こ こで僕がマンガを突き返そうものならば、子供のようにスネて 「じゃあもうコンクリート工場行かない」などと言い出しかねない人なのだ。 それは非常に困るので、仕方なく押し付けられたマンガの表紙に目をやった。  ところが、そこに僕が思いもよらなかったような幸運が待ち受けていた。              【交差点っ娘ナナミちゃん】  それが先輩の押し付けてきたマンガのタイトルであった。  間違いない。僕を<フラグ>へと導いてくれる三つのキーワードの内のひと つ<交差点>は、このマンガの事を指していたのだ。このマンガを読めば<フ ラグ>に関する情報が得られる事は疑いようがない。 「この本貸して下さい!!!!!」  僕が血相を変えて飛びついたので、先輩はびっくりした様子だった。だが暫 くすると何かを納得したかのような顔で 「さすが東芝君、表紙を見ただけでワカっちゃったようだね。もちろん借りて いってくれよ!なにせ俺はこのマンガを保存用、愛読用、布教用に三冊所持し ているのだからね。もちろんその本は布教用だ。遠慮なくどうぞ。」  と嬉しそうに言った。どうやら何か勘違いをされたようだが、そんな事にか まっているような場合ではなかった。  僕は礼のひと言も言わずに【交差点っ娘ナナミちゃん】を小脇に抱えて店を 飛び出し、自宅へ帰って読み始めた。                  4 【交差点っ娘ナナミちゃん】は毒にも薬にもならぬ、くだらぬ話だった。早い 話がラブコメである。主人公であるナナミちゃんは女子中学生で、通学途中で すれ違う男子生徒に恋をする。恋心を募らせたナナミちゃんは、その交差点で 意中の男子生徒を待ち伏せするようになるが、男子生徒に待ち伏せを気付かれ てしまい「何してるの?」と話し掛けられる。  こうして絶好の告白チャンスを迎えたナナミちゃんだったが、テンパってあ ることないことまくし立てた挙句「私、この交差点に恋をしてるの!!!」と 正気の沙汰とは思えぬことを口走ってしまう。朴訥かつ実直な性格の男子生徒 は、こともあろうにナナミちゃんの狂言を間に受け、ナナミちゃんと交差点の 道ならぬ恋をなんとか成就させてやろうと奮闘する…という気の狂ったような 話だ。  内容はスッカスカで、手がつけられない程ダメダメなゴミマンガであるが、 確かにナナミちゃん、というキャラクターは殺人的に可愛らしく魅力的であっ た。至る所に散りばめられたほのかなお色気シーンがこの作品最大のウリであ る。  このマンガが只者でないのは、このお色気シーンが非常に自然な感じで作品 に溶け込んでおり、下品さ、いやらしさを微塵にも感じさせないところにある。  端的に言うところ「萌え」というやつだ。「萌え」というのは、非常に日本 的な文化である。そのあり方は京懐石や芸妓文化に酷似しているように僕は思 う。  こういった文化は「食欲」「性欲」という、極めて本能的で直接的な欲望を 満たしてくれると同時に正当化するシステムを備えている。快楽への要求は存 分に満たし、快楽に伴う罪悪感は見事に消し去ってしまう。その為に何千何万 というロジックを積み上げていくのである。いつの世も日本人は、そうやって 独自の文化を織り成して来た―――  と、話が少し脱線してしまったが、要するに【交差点っ娘ナナミちゃん】は 萌えマンガであるという事が言いたかっただけだ。萌え美少女好きの大原先輩 にはたまらない内容だろう。が、僕はこんなくだらないマンガに萌えている場 合ではない。なんとしてもこのマンガから<フラグ>に関する情報を探し出さ なければならないのである。  であるのだが、一巻を読み終えたら続きが気になって仕方がなくなってきた。 とりあえず先輩に二巻を借りに行こう。<フラグ>探しはその後でも遅くな い。    翌日、僕は【交差点っ娘ナナミちゃん】の2巻を借りに、先輩のバイト先で ある今にも潰れそうな書店を再び訪れた。 「んーどうやらハマッてくれちゃったようだねw東芝君ならワカってくれると 確信していたけどねww」  そう言って、先輩は【ナナミちゃん】の2、3巻と、2巻の初版限定付録と してついてきたナナミちゃんフィギュアと、3巻の初版限定付録でついてきた オリジナルプロモーションアニメDVDを僕に手渡してきた。 「それあげるよ。いーのいーの遠慮しなくったって。俺はもう2つ持っている んだからからね。」  と先輩は不敵な笑みを浮かべながら言った。はっきり言って有難迷惑以外の 何物でもない。僕の目的はあくまで、このマンガに隠されている<フラグ>へ の手掛かりを見つけ出すことあって【ナナミちゃん】にハマっているわけでは ない。まして萌えているなどと言う事は、断じて無いのである。  と、心の中で文句を並べたてていたが、気がつくと僕は無意識の内にこれら の物品を鞄の中にしまいこんでいた。  まあ、フィギュアやDVDの方に<フラグ>の手掛かりが隠されている可能 性もあるわけだし、貰っておいても損はないだろう。    それから僕と先輩は極めてとりとめのない、実に無意義な雑談に興じた。最 近のマンガはどーだとか、萌えはもうダメぽとか、バイト糞だりーとか、ロト 6当たんねえかなあとか、アフィリエイトってマジで儲かんの?とか、そうい う本当にどうでもいい会話を2時間と36分程続けた。驚くべきことに、その 間に客は3名しか来なかった。まことに暇な店である。これで何故潰れないの か非常に疑問に思っていたのだが、今日の雑談でその謎も解けた。例の怠け者 でパチンコ狂の店長の父親が非常に金儲けの巧みな人で、不動産売買や為替取 引等でたんまり稼いでいるらしい。この潰れそうな書店は税金対策用に存在し ているだけに過ぎず、半ばダミー店舗と化しているのだそうだ。故にこの様な 放漫経営がまかり通っているのである。先輩はそこにまんまと潜り込んで店を 私物化し、小銭を稼いでいるのだ。 (まるで寄生虫だな…)  と僕は密かに思ったが、先輩はこの手の冗談が通じるタイプの人間ではない ので、その想いは僕の心の中だけに秘めておくことにした。  そうこうしていると僕は、猛烈な空腹感に襲われた。店の壁に掛けられてい る年季の入った時計に目をやると、もう15:00を回っている。そういえば 今日は朝から何も食べていない。先輩は13:00頃に、自宅から持ち込んだ と思われる焼きおにぎりを食べていた。  僕もそろそろ何か食べることにしよう。何を食べようか?マックのハンバー ガーを食べるか、コンビニのおでんと洒落込むか、吉野家で牛丼などに舌鼓を 打つのもいい。あるいはココ壱番でロースカツカレーという選択もありうる。  なんにせよとにかく腹が減った。何か食わなければ行動不能に陥ってしまい そうである。 「ちょっと何か食ってきますわ。」  そう言って、僕は切りの良いところで会話を中断し、書店の外に出た。  平日の14:00にこのあたりの街を歩いているのは、老人と子連れの主婦 くらいのものである。男衆は皆仕事に出掛けてしまったようで見かけない。僕 はなんとなく居心地の悪さを覚えながら、駅前の商店街を歩いた。  平日昼間の街は、あまりぶらぶらと歩くべきではない。いかにも「僕には目 的があります」という感じを装い、早足で、視線を一方向に定めてきびきびと 歩かなくてはいけないのである。【警察官】という名の国家権力の犬共が「職 務質問」という名の尋問を行おうと、監視の目を光らせていることを忘れては 駄目だ。前述したが、以前僕はそれで酷い目に遭っている。二度と同じ過ちは 繰り返したくない。  そんなわけで僕は、商店街を颯爽と歩いていき、ふと目に付いた定食屋に飛 び込んだ。    しょぼくれた店である。時代遅れな日本風の内装で、見たところ老夫婦が二 人だけで切り盛りしているようだ。亭主と思われる初老の男が厨房に暇そうな 顔をして立っており、その妻らしき老婆がテーブルをふきんで拭いている。   「あ、いらっしゃいませ」  老婆は僕の存在に気付くと、取って付けたように歓迎してくれた。どうやら 客は僕を含めて二人だけのようである。出入り口にいちばん近いところのテー ブルで、無精髭を生やした小汚い男が日本酒を飲んでいる。こんな時間から飲 酒しているところから察するに、ロクな人間ではないだろう。  僕は中ほどにあるテーブルに着席し、壁に掛かったメニューに目をやった。 「さば定食」「山菜そば」「カキフライ定食」「トンカツ定食」etc…  実にぱっとしないメニュー群である。「これだ!」と感じられるものがひと つとして見つからない。21世紀の極めて厳しい企業間の生存競争を勝ち残ろ うとしているようには全く思えない、気の抜けたメニュー群である。大方、生 活の心配が無い年金生活者が、半分道楽でやっているような店なのだろう。給 仕をしている老婆の接客が極めていい加減なのもそのせいだ。  しょうがなく僕は、その中でも一番マシそうな「トンカツ定食」を注文した。  壁の一角に設置されているTVでは、ワイドショーが放映されている。TV は17型の年代物で、明らかに地デジに対応していない。おまけにチャンネル を変える為のツマミが壊れてなくなっており、チャンネル変更が不可能になっ ている。恐らくあのTVはここ十数年間、あのチャンネルだけを映し続けてき たのだろう。  それにしてもくだらない番組である。芸能人の痴情沙汰、激安500円ラン チ特集、芸能人の離婚騒動、両親を刺殺して自宅に火をつけた36歳独身女性 の半生etc…、何が愉快なのかさっぱり理解できない情報が延々と垂れ流されて いる。この世には実にどうでもいい事が沢山あるのものだなと感慨に耽ってい たら、老婆がトンカツ定食を運んできた。  僕は貪るようにしてトンカツを食べ、白米をみそ汁と一緒に掻き込んだ。予 想に反して結構旨かった。空腹だったから旨く感じたという可能性も多分にあ っただろうが、それにしても旨かった。今後は利用することにしよう。ガヤガ ヤとうるさいマックや殺気だった空気の流れている吉野家よりも、閑散として いるこの店の方が僕の性に合う。  20分ほどでトンカツ定食を完食し、僕は代金850円を老婆に支払って店 を出た。  既に16:00を回っている。太陽が今にも、西の方に建っている雑居ビル 群の下へと沈もうとしているではないか。時の流れとは早いものだなと、僕は 感慨にふけった。  今日はもう家に帰ろう。今日の収穫といえば【交差点っ娘ナナミちゃん】の 2、3巻とナナミちゃんフィギュアとプロモーションアニメDVDだけだが、 まあ良しとする。  本番はあくまで明後日、24日のコンクリート工場行きである。それまでゆ っくりと休養し、英気を養っておくのも悪くない。  そう結論し、僕は自宅の方向へ歩いていった。 5  いよいよコンクリート工場での集会が明日に迫った。昨夜から僕は【ナナミ ちゃん】を何度も読み返し<フラグ>についての手掛かりを必死で探してみた。 が、それらしきものは何ら見つける事が出来なかった。アニメの方も5回ほど 観たし、フィギュアも穴が空くほど鑑賞したが、これといった発見はできず終 いである。もしかすると【ナナミちゃん】を読むことそのものが<フラグ>に 近付く為の条件になっているのかもしれない。  ともあれ、これ以上できる事は何もないので、僕は手掛かり探索を終了し、 PCを起動した。コンクリート工場のある場所を確認しておきたかったし、本 当にバイトを休めるのかどうか、先輩に確かめたかったという事もある。さす がに一人で玄妖空に会いに行くのは心細い。  何せ玄妖空という人物は「私がアンゴルモアの大魔王降臨を食い止めたのだ」 と声高らかに主張するような人種である。普通に考えれば、100%キチ○イ だ。どんなメンヘル野郎が飛び出して来るのか、さっぱり見当がつかない。い きなりナイフを突きつけてくるかもしれないし、オシッコをひっかけて来るか もしれない。下手すればその場で脱糞しかねない勢いである。そのような危険 人物と対峙しようとしているわけだから、用心に越した事はない。  モニターにデスクトップ画面が表示されるや否や、僕はIEとメッセンジャ ーを開いた。現在時刻は19:30である。そろそろ先輩はバイトから帰って 来ているはずだ。メッセンジャーのウィンドウを確認すると、やぱり先輩はオ ンラインになっていた。どうやらバイトから帰ってきてすぐにメールチェック を行うのが先輩の日課らしい。  僕は先輩のハンドルネーム【プリン体@ナナミちゃん最高\(^0^)/】のア イコンをクリックして、先輩に話しかけた。 『おつかれです。』 『おードモドモ。おつかれーーーo(*^▽^*)o』  先輩は普段はとても物静かで、どちらかと言えば根暗な感じの男だが、ネッ ト上でのコミニケーションになると、異常なくらいハイテンションになる。正 直なところ、僕としては顔文字などはウザいだけであるので、用件のみを簡潔 に書いて欲しいところである。 『明日大丈夫そうですか?』 『OKOK!行けそうナリー(^0^)ノ』 『それはなによりです。』 『どうでもいいが、昨日アニメの録画予約してたのにスポーツ中継が延長しや がって録れてなかったっスOTLモウイヤ』    まったくもってどうでもいい話だ。何故このような些細な事件をわざわざ絵 文字顔文字混じりの文章で僕に報告するのか?実に不可解極まりない。とは言 え『どーでもいいじゃんそんなもん』と正直にレスをしようものなら、ヘソを 曲げて『じゃー集会行かない』とこの後に及んで言い出すかもしれないので、 『それは残念でしたね。』  と、無難な返事を返した。  僕はどうもこの顔文字、絵文字というものが好きになれない。顔文字、絵文 字という文化が生まれたのは、文字のみのコミニケーションによって引き起こ される可能性がある「摩擦」を緩和するためだ。文字のみでのコミニケーショ ンにおいては、表情や声色といったニュアンスが相手に伝わらないため、実際 に会って行う会話よりも無機質で冷たい印象を相手に与えてしまうことがある。 これを回避、緩和するために絵文字、顔文字という文化が誕生したのである。  例えば、 『おまえ馬鹿じゃねえの?』というメッセージと、 『おまえ馬鹿じゃねえのwwwwwwwww(^▽^)』というメッセージでは、  相手に伝わるニュアンスが全く変わってしまうのだ。前者の「馬鹿」からは 「相手の発言、行動に対する全否定」という否定的なニュアンスしか感じられ ないが、後者の「馬鹿」からは「愛すべきバカ」といった感じの、やや肯定的 なニュアンスが感じられる。相手を責めるつもりは毛頭ないが、取り合えずツ ッコミを入れときたい時などには、このように顔文字を使って表現するとコミ ニケーションが円滑になるわけである。  僕はこういった「人間関係の潤滑剤」が嫌いだ。何故そこまでして人間関係 を維持するべく努力しなければいけないのか、まるで理解できない。僕に言わ せれば文字によるコミニケーションの利点は、感情や仲間意識の入る余地のな い簡潔かつドライで殺伐とした空気感である。いつでもどこでも馴れ合おうと するのは日本人の悪い癖だと思う。 『それじゃ明日、17時日野駅改札前集合って事で。』  そんなことを思いながらキーボードを叩き、僕は端的に用件のみを伝える、 簡潔でドライな文章を打ち込んでEnterキーを押した。 『ういうい〜そんじゃ明日〜(^▽^)/』  それに対して先輩は相変わらずハイテンションな顔文字入りメッセージを寄 越した。僕は苦々しい気分でメッセンジャーからサインアウトし、PCの電源 を落とした。  そして明日に備え、早めに床に就く事にした。  翌日17:00、大原先輩と僕は、日野駅の改札前に集合していた。 「いやあ、何かワクワクするねえ!」  先輩は能天気な笑顔を浮かべながら言った。こちらはワクワクどころではな い。僕の人生設計を台無しにした張本人に会いに行こうとしているのである。 今日の集会に僕の人生の今後が掛かっているといっても過言ではない。   それにしても玄妖空とは、一体全体いかなる人物であろうか?ネットで調べ てみたものの年齢、経歴など、確かな情報は一切得ることができなかった。実 際に会って確かめてみるしか術はないようである。どんな奴だかは知らないが、 とにかくこれ以上僕の人生を狂わせるわけにはいかない。  集会が行われる○市の廃コンクリート工場の最寄り駅は○×駅である。○× 駅には、JR線と西武線を乗り継がなくてはいけない。YAHOO!の路線情 報を調べた所、日野駅から○×駅までは平均一時間半で到着するらしい。  先輩と僕は、切符を買って電車に乗り込んだ。17時台の中央線は、どこも かしこも人に溢れている。先輩と僕は、立川で青梅線に乗り換え、拝島まで行 って西武線に乗り換えた。玄妖空のブログには、集会の開始時刻は19時と書 いてあった。多分それよりも少し早く○×駅に到着するだろう。  この時間帯、JR線はどこもかしこもひどく混雑していたものだが、西武線 の方は静かなものだった。いかにもローカル線、といった感じである。窓の外 に流れる景色にも明かりはまばらで、夜の闇の中を街路樹が微妙なスピードで 駆け抜けていく。 「こうして二人で出掛けるのもひさしぶりだな、東芝君。」  先輩は拝島駅の自販機で購入した缶コーヒーをちびちびとやりながらそう言 った。 「そうですね。」  僕はそっけない返事を返し、そういえば大原先輩と一緒に行動するのは高三 の時の冬コミ以来だな…ということを思い出していた。  あの時先輩は精神的に参っていて、新刊を作ることができなかったんだった。 丁度出版社に持込をした直後のことだ。  先輩が持込をしたという漫画原稿を、僕は読んだことがない。持込から帰っ た夜、先輩はその原稿をビリビリに破いて捨ててしまったらしい。その次の日 から、先輩は学校に来なくなって、漫研部員たちとも疎遠になっていった。  それから3ヶ月ほど経った卒業式の日、先輩が母親に半ば強制連行される形 で登校させれて来た時の事は今でも克明に記憶している。その時僕は、廊下で ばったり先輩に出くわしたのだ。僕はものすごく気まずい雰囲気になって、先 輩の顔をまともに見ることもできず、気付かないフリをして通り過ぎたんだっ た。  思えばあれから既に6年が経過している。こうして先輩とまた出掛ける事に なるなんて、考えたこともなかった。   僕と先輩は、○×駅へ到着するまでの間【ナナミちゃん】のこととか、アニ メの話とか、近頃はニコ動も腐ってきやがったな、とかロト6やっぱ当たんね えよ、やっと1000円当たったんだけどそこまでに5万は遣ってるんですけ どとか、本当にどうでもいい、とりとめのない事を話した。  ふと気になった事がある。4日前に再会した時、先輩は 「最近漫画描いてる?」と尋ねてきた。  先輩の方はどうなんだろう?持込の日以来、大原先輩は漫画を描く事はおろ か、ラクガキをすることさえぷっつりとやめてしまったと僕は聞いた。だが、 それは漫研の部員達からの又聞きの話で、先輩本人に確かめたわけではない。  もしかすると、僕達が勝手に「やめた」と決め付けていただけで、本当の所 先輩は今でも漫画を描いているのではないだろうか――そんなことを考えてい るうちに、僕はその事がものすごく気になってきて、本当はどうなのか、先輩 に聞いてみようと思った。 「あの、先輩…」  と僕がそのことを聞こうとした時、先輩が 「着いた」  と言った。  どうやら○×駅に着いてしまったらしい。僕はタイミングを逃してしまい、 結局その質問をできないまま電車を降りた。  既に辺りは真っ暗である。○×駅周辺は殆どが住宅街であり、雑居ビルや飲 食店のようなものは殆ど見当たらない。12月も終盤の空気は冷たく、風は身 を切るようで、僕達は震えながら無人のホームを歩いていき、改札を出た。  静かな町である。時折通り過ぎる車のエンジン音以外、何の音も聞こえない。 丁度夕食時だからだろうか、道を歩く人もおらず、とても寂しい雰囲気だ。  僕は少し心細くなってきた。だが、こんな所で心細くなっている場合ではな い。アンゴルモアの大魔王降臨を阻止したと主張する人物―玄妖空と対峙する 瞬間がすぐそこまで迫っているのである。僕は深呼吸をして気合を入れなおし、 ブログからプリントアウトした地図を頼りに、廃コンクリート工場への道のり を急いだ。                6  そのコンクリート工場は、想像よりもはるかに小規模だった。10m程度の 高さの、中ほどがふくれている筒状のタンクを中心に、パイプが縦横を走って いる。そのすぐ傍に砂山があり、少し遠くの方に、コンクリートのブロックが 大量に積んである。恐らく工場が潰れてしまったので、製造されたまま放置さ れているのだろう。  僕と先輩は鎖で繋がれている鉄格子の扉をよじ登り、工場の中へと入った。 時刻は18:30である。【キチガ○観察オフ】の参加者と思われる数名の男 女が、携帯のカメラでぱしゃぱしゃと工場の設備などを写している。恐らく自 分のブログにでもアップする気なのだろう。  僕は少し不安に思った。こんな連中がぞろぞろいるようでは、玄妖空は警戒 してしまって、現れないのではないだろうか。   「先輩、奴は本当に現れますかね?」  不安を紛らわすために、僕は先輩に話しかけた。 「うーん、どうだろうねえ…」  先輩は首をポキポキと鳴らしながら、道端にあった自販機で購入した缶コー ヒーをちびちびとやった。本日二本目である。本当に缶コーヒーの好きな人だ。 そんなに飲んで、気持ち悪くならないのだろうか。  時刻は19:00を回った。予定の時刻である。【キ○ガイ観察オフ】の連 中はべらべらと喋り、時折どっと大きな笑い声を上げる。何かこう癪に障る連 中である。ヘラヘラとした顔が気に食わない。早く消えてくれると有り難いの だが、砂山に登ってみたり、コンクリートブロックを落として割ってみたり、 「アチョー!」と叫んでブロックに正拳突きを入れ「 痛い痛い」と言いなが ら飛び跳ねておどけてみたりと、実に不愉快極まりない。先輩も彼らの方をチ ラチラと見ては顔をしかめている。どうやら僕と同じで、ああいう連中は苦手 らしい。  19:30を過ぎ、20:00になっても玄妖空らしき人物は姿を見せなか った。僕も先輩もさすがに寒さがこたえてきて、二人して肩をすぼめ、ピョン ピョン飛び跳ねた。【キ○ガイ観察オフ】の連中は「来ねーじゃん!」と不平 を洩らし始めた。女達の機嫌が悪くなってきた頃、男の一人が「もういいや、 呑みに行こう呑みに!」と提案し、全員がそれに賛同した様子でぞろぞろ歩い て工場を出て行った。  よかった、これで五月蝿い奴等がいなくなった。結局あいつらは呑んで騒げ ればなんだってよかったのだ。酒の肴にちょっとした刺激が欲しいだけなので ある。そういう連中は白木屋にでも行って仲良くホッピーでも呑んでればいい。 【キチ○イ観察オフ】の連中が帰ってしまうと、工場内は先程までの喧騒が嘘 だったかのように静まり返った。踏切の警告音、電車の通り過ぎるゴトンゴト ンという音、救急車のサイレンの音、あとは風の吹く音だけが聞こえてくる。  僕は携帯を取り出し、時刻表示に目をやった。既に20:30を回っている。 「そろそろ俺たちも帰ろうか?なんか、出て来る気配ないみたいだし。」    先輩は僕に帰宅を促した。が、僕はその提案に賛同するわけにはいかない。 <コンクリート工場>が<フラグ>発見への重要な手掛かりとなる事がはっき りしている以上、玄妖空は必ず現れるはずだ。でなければ<フラグ>への道は ここで途切れてしまう。 「もう少し待ってみましょう。」  僕はあくまで残ることを主張した。  だが、21:00を過ぎても玄妖空は現れなかった。先輩は寒さに堪えかね て、ひゅーひゅーと呼吸しながら身体を左右に振っている。さすがに僕も先輩 に悪いなと思い始め、 「一度ファミレスでも行って、温まりましょうか。僕奢りますよ」  と言って、鉄格子の扉の方へ歩いていこうとした。  その時、 「待ちなさい。」  と、砂山の方で女の声がした。アニメ声の出来損ないみたいな、鼻が詰まっ たような甲高い声だった。その声に僕と先輩は驚いてびくっとなり、砂山の方 を振り返った。  すると砂山の頂上に、背の低い、切れ長の目をした少女が立っているのが目 に入った。 「寒い思いをさせてご免なさい。冷やかしの馬鹿共が消えるのを待っていたの。 私が、玄妖空です。」  その少女は甲高い声でそう言って、砂山をずざざと滑り降りるようにして下 ってきた。僕は宿命のライバルについに出会えた事に興奮し、すぐさまこの少 女を問い詰めて、質問攻めにしようと思った。が、少女が 「どうかご無礼をお許しください。こうでもしなければ、有意義な集会にはな らなかったと思うので…さぞかし寒かったでしょう。ファミレスにご一緒しま す。代金は私が払いますので。」  と切り出したため、ひとまずコンクリート工場から離れて、ここから少し離 れた街道沿いにあるというファミレスに向かうことになった。  街道沿いのファミレスは、まだ21:00を回った所だというのに閑散とし ていた。  今にも潰れそうなファミレスである。内装が時代錯誤もいいとこで、壁のあ ちこちに染みがある。天井でシーリングファンが回っているあたり、全く意味 不明だ。観葉植物は枯れかけていて、床には踏み潰されたフライドポテトの残 骸が片付けられもせず残っている。接客をしている給仕係も、死んだ目をして いる中年の女と、お世辞にも美人とは言い難い20代中盤と思われるメガネを かけた女性が担当しており、厨房からは皿を洗う音に混じって男の下品な笑い 声が聞こえてくる。明らかに、このファミレスは流行っていない。  僕と先輩と玄妖空の三人は、給仕係のメガネ女に案内され、窓際のテーブル 席に座った。僕は嫌煙家なので、是非とも禁煙席に座りたかったのだが、先輩 も玄妖空も煙草を吸いたいというので、喫煙席に座らざるを得なかった。  意外にも先輩は煙草を嗜むようになっていた。僕の目の前で二人が煙草をス パスパ吸うので、一人だけ煙草を吸えない自分が、なんだかすごく子供みたい に感じられ、恥ずかしくなった。  それにしても玄妖空が女性だとはまったくの想定外だった。ブログの極めて いかがわしく大雑把なデザインから想定するに、男に違いないと思い込んでい たのである。  玄妖空はおかっぱ頭で、切れ長の綺麗な目をしている。全体的に整った顔立 ちで、どちらかと言えば、というよりかなり可愛い方だと僕は思った。小柄の せいで幼く見え、コンクリート工場内では少女かと思ったのだが、こうして近 くで対峙してみると、20歳中盤くらいにも見えてくる。もしかしたら僕より 年上かもしれない。まるっきり年齢不詳の女性である。  僕はメニューを眺めながら、何を注文しようか思い悩んだ。初対面で、素性 の知れない女性にご飯を奢ってもらうというのは、なかなかに精神力を要する 体験である。相手の懐ぐあいに配慮しなきゃなと思う反面、明らかに気を使っ ている事がバレバレな安い注文をするのもなんだかな、という感じで微妙だ。 僕はこのように、複雑に入り組んだ要因を考慮しつつ、最適なバランスを見出 そうと気を揉んでいたが、先輩が 「東芝君何食べる?僕はハンバーグセットにするよ。」  と先陣を切ってくれたお陰で、非常に選択がラクになった。昔からこの人は なんというか、こういう気苦労をしない人なのだ。それ故高校時代は、同級生 から「大原は空気が読めてない」と散々陰口を叩かれまくっていたが、僕はむ しろ先輩のそういう部分に助けられることの方が多かった。 「じゃあ、僕はパスタセットで。」  と僕は、さりげなく似たような値段のメニューを注文した。玄妖空は銀ダラの 西京焼き御膳にするそうだ。実に渋いチョイスである。  玄妖空が給仕のメガネ女を呼び、各々が自分の注文をメガネ女に報告していっ た。3人とも注文を言い終わった後、先輩が 「あ、セットでドリンクバーをお願いします。」と言ったので(ここでも先輩は 先陣を切った。常にチャレンジャーである。) 「じゃ、僕も。」と続くと、 「じゃ、私もドリンクバー。」と玄妖空も続いた。  そんなわけで、3人でドリンクバーのコーナーへ向かった。僕はコーラを、先 輩はカルピスウォーターを、玄妖空は玄米緑茶を選択した。相も変わらぬ渋すぎ るチョイスである。 「で、本題ですけれども。」  テーブルに戻ると、玄妖空が口火を切った。  そうだった。この緊張感のない雰囲気に流されて、僕達がここに集結した意味 を危うく忘れそうになるところだった。 <フラグ>である。アンゴルモアの大魔王を降臨させる<フラグ>を見つけ出す ために、僕はここにいるのだ。その<フラグ>に辿り着くためのカギを、目の前 にいる年齢不詳の女性―玄妖空が握っている事は疑いようがない。 「破滅の時が、刻一刻と近付いています…!」  玄妖空はその切れ長の瞳で、僕達を見ながら真剣な顔で言った。彼女にしてみ れば、極めて深刻に話しているつもりなのだろうが、アニメ声の出来損ないみた いな鼻のつまった声では、いまいち緊迫感が伝わってこない。 「アンゴルモアの大魔王ですか。」  とりあえず僕はそう返した。 「ええ…。」  玄妖空はこっくりと頷いた。先輩はにやにやしながらやり取りを眺めている。 この人にしてみればこの会話は、単にメンヘルの誇大妄想トークに過ぎないだ ろうから、当たり前の反応といえばそうだろう。 「で、どうすれば大魔王の降臨を食い止められるのですか?」  僕はそう聞いてみた。これはいわゆる”カマかけ”というやつである。何と しても大魔王に降臨してもらわなければならない立場にある僕としては、玄妖 空がどうやって大魔王降臨を食い止めるつもりなのか、具体的な方法を知って おく必要があった。  それさえ知っておけば、あとは玄妖空がその行動に出ることを阻止してしま えば、大魔王を降臨させることができる筈である。  そんなことを考えていた僕に玄妖空が言った。 「<フラグ>です。」    僕は戦慄した。玄妖空は僕と全く同じ結論に達していたのである。これでは っきりした。これまで半信半疑だったが、玄妖空は本物である。この年齢不詳 の女の行動さえ阻止すれば、アンゴルモアの大魔王は必ず降臨する。僕はそう 確信するに至った。 「<フラグ>って一体何なんですか?」  先輩は半笑いの顔で、玄妖空に問うた。この期に及んでまだ事の重大性に気 付けていないようである。が、これは僕にとって幸運な出来事だった。僕はあ まりの急展開に頭が混乱してしまっていて、このまま会話を続けていたら声が うわずってしまいそうだったのだ。玄妖空に僕の真意を怪しまれるようなこと だけは避けなければならない。   「<フラグ>というのはですね…」  玄妖空は落ち着いた目で先輩を見つめながら<フラグ>の説明を始めた。 「<フラグ>というのは、中々説明しにくいのですが、端的に言ってしまうと ある現象とある現象を繋ぐ【鎖】のようなものです。【縁】とか【シンクロニ シティ】という言葉で呼ばれているものも、<フラグ>が引き起こした現象で あると言えます。」  驚いたことに、玄妖空は、どうやら僕よりも<フラグ>について多くの事を 知っているようだ。 「一般の方はあまり意識されていないようですが、私たちのとる行動の全ては、 他のあらゆる現象と見えない所で繋がっています。ある出来事が、全く関係が ないように思える他の出来事の原因となっていることがしばしばあるのです。 私が1999年にアンゴルモアの大魔王降臨を阻止することができたのも、大 魔王の降臨阻止を引き起こす<フラグ>に該当する行動をとったからでした。」  玄妖空の話を聞きながら、僕は興奮と動揺を隠すのに必死になっていた。こ の年齢不詳の女は、これまで僕しか知らないと思っていた世界の秘密を、僕よ りも遥かに正確に理解しているように思える。玄妖空は僕の最大の敵であるが、 少しだけ好意を抱き始めていた。何せ僕は、これまでずっと<フラグ>の件で キチ○イ扱いされてきたのだ。僕がキ○ガイのゲーム脳患者ではなかったこと が、たった今玄妖空によって証明されたわけである。   「で、その行動というのは、具体的には何だったんですか?」  先輩は明らかに面白半分に玄妖空に質問した。 「それは、今は言えません。」  玄妖空は先輩に厳しい視線を向け、そう返す。 「ふーむ、ここまでお話を聞かせて頂いたところから察するに、要は再び大魔 王の降臨を阻止するための<フラグ>に当たるアクションを起こせば、今回も 大魔王降臨という最悪の事態を免れることができると、そういうことなんです ね。」  先輩はいつになく饒舌になっている。 「はい。」 「じゃあ、そのアクションというのは具体的には何なんですか?」 「それは…」  と玄妖空が答えようとした時、給仕係のメガネ女が、ハンバーグセットとパ スタセットと銀ダラの西京焼き御膳を運んできた。玄妖空は少し顔をしかめた 後、すっくと立ち上がり、こちらの方へ歩いてきて僕の右手をぎゅっと掴んだ。 そして僕の目を見て、 「あなたです!!!!!!!!!!!!」  と大声を上げ、早足で歩き出した。僕は玄妖空の手に引かれるまま、ファミ レスの外へと飛び出した。 「わわっ!!!」  僕は想定外の出来事に呆気にとられてばかりで、玄妖空に導かれるまま、街 道沿いを300m程歩いた。気がつくと、雪が降り始めていた。  残された先輩はというと、しばらくの間呆然とハンバーグセットとパスタセ ットと銀ダラの西京焼き御膳、それからセットのドリンクバーを眺めていたら しい。  そして、こう呟いたそうだ。 「ちょっと待ってよ。もしかしてここの代金俺持ち?」                7  玄妖空の小さな手に導かれ、僕はとあるマンションの前にまで連行された。 そこでマンション名が書かれたプレートを目にして、再び戦慄した。              【レジデント芝生】  それがこのマンションの名前だった。玄妖空はここの7階に私は住んでいる と言った。このマンション名は「れじでんと・しばふ」ではなく「しばお」と 読むらしい。マンションの管理人兼オーナーの苗字からつけた名前なのだそう だ。  7階にあるという玄妖空の部屋まで、僕達はエレベーターを使って昇った。 レジデント芝生はかなりの高級マンションで、入り口にあるロビーの壁は全て 大理石でできていた。エレベータも、マンションにしては広い。まるで百貨店 のエレベーターのような豪華な造りである。  上昇していくエレベーターの中、僕は猛烈なスピードで頭を回転させ、ここ まで身に降りかかった一連の事件を整理していた。  アンゴルモアの大魔王を降臨させるために、僕は<フラグ>を探し出す必要 があった。4日前、風呂場で頭を強打した際、神の啓示としか言いようがない <コンクリート工場><交差点><芝生>という3つのキーワードが僕の頭に 降りてきた。この3つのキーワードを読み解くことで、僕は<フラグ>に確実 に近付いていった。  3つのキーワードは明らかに、この年齢不詳で小柄の女―玄妖空を指してい る。  が、気になる点がないわけではない。キーワードのひとつ<交差点>の事だ。 僕はこのキーワードは【交差点っ娘ナナミちゃん】のことを指していると考え ていた。しかし、玄妖空と【ナナミちゃん】の間には何の関係も見あたらない のである。もしかすると僕は<交差点>というキーワードの解釈を間違ってし まったのかもしれない。考えてみれば【交差点っ娘ナナミちゃん】からは<フ ラグ>への手掛かりを、何も見つけられていないのである。  だが、何にせよ大魔王降臨の<フラグ>へ辿り着くための鍵を、玄妖空が握 っていることは間違いない。僕は確実に<フラグ>へと近付いている…  そう結論した時、エレベーターのドアが開いた。  玄妖空に連れられるまま、僕はマンションの一室へと入っていった。  玄妖空の部屋は2LDKで、一人で住むには少し広すぎる部屋である。「誰 かと一緒に住んでるんですか?」と玄妖空に訪ねてみたが、 「他には誰も。私一人で住んでいます。」という答えが返ってきた。  リビングには大きな水槽が置かれており、中に世にも奇妙な形をした、不気 味な魚が泳いでいる。「グリーンテラー」というらしい。極めて凶暴な性格を しているので、他の魚を入れるとみんな食べてしまうそうだ。彼女に言わせれ ばコイツがこの世で唯一心を開ける相手…との事である。  リビングの角には57インチの薄型液晶TVがあり、向かってガラス製のテ ーブルと赤いソファーが置かれている。高そうな絨毯も敷かれており、どうや ら玄妖空は相当の金持ちだということがわかってきた。 「コーヒーでも淹れましょう」  玄妖空はそう言ってキッチンの方に歩いていった。僕はしばらくの間リビン グの隅に突っ立っていたが、他の部屋に続いていると思われる2つのドアの内、 一方が開いているのが妙に気にかかり、ふらふらとそっちの方へ歩いていって 部屋の中を見た。明かりがついたままになっており、その光がこちらに漏れて いる。  そこは仕事部屋のようだった。作業用と思われるデスクの上に、トレス台と 何本かのペン、それに漫画原稿用紙が置いてあった。どうやら玄妖空の本業は 漫画家のようである。そう考えると、やけに広いこの部屋に一人で住んでいる 事にも説明がつく。アシスタントが来て作画を手伝っているのだろう。広い部 屋の方が何かと都合が良いのだ。  それにしても、これだけの高級マンションに住み、豪華な家具を揃えている ところを見ると、玄妖空が描いている漫画は相当売れているようだ。一体どん な漫画を描いているんだろう?もしからしたら僕も知っている漫画なのかもし れない。  そう思った僕は、描きかけの原稿用紙を手に取った。 「これは…!!!!!」  思わず僕は声を上げた。ここまでの流れから、もしかしたらもしかしてもし かするぞとは薄々考えていたのだが、その原稿は紛れもなく 【交差点っ娘ナナミちゃん】のものだったのだ。 「ああ、その漫画ですか。」  玄妖空がコーヒーを持ってこちらの方に歩いてきた。僕はびくっとして後ろ を振り向いた。 「私、副業で漫画を描いているのですよ。」  玄妖空は無表情でそう言った。 「副業って…コレ、交差点っ娘ナナミちゃんですよね?」 「ああ、知ってるんですか。そうですよ。お陰様で売れ行きはまずまずみたい ですね。アンゴルモアの大魔王降臨を阻止するのには何かとお金がかかります から、有難いことです。」    …ちょっと待って欲しい。また頭が混乱してきた。 「まあ、どうしようもない最低の漫画ですよ。こんな漫画を読んで喜んでいる 人たちはロクな人間ではないと思います。私は単純に(こういうのを描いたら 頭の悪くてスケベでバカな人達は喜ぶだろうな…)って思って描いてるだけな んですけど、何を勘違いしたのか”何話目には感動した”とか、”ナナミちゃ んギザカワユスww僕ちゃんナナミちゃんの事いつでも考え中ー♪”とか、わ けの分からないことを書いたファンレターを送りつけてくる人がいるんですよ。 こっちはお金の為だけに描いているっていうのに、お笑い種ですよねえ。当然 迷惑以外の何物でもないので、全部古雑誌と一緒に捨てちゃってます。」  …ちょっと待ってくれ。それじゃあんまりだ。夢中になっている大原先輩が 浮かばれないではないか。先輩にとって【ナナミちゃん】は、己の存在理由と でも言うべき大切な作品だというのに。僕にとってもあまり気持ちのいい話じ ゃない。正直【ナナミちゃん】には結構萌えていた。僕も先輩も、玄妖空の掌 で踊らされている操り人形に過ぎなかったってことなのか? 「まあ、そんなクズ漫画のことなんかどうでもいいじゃないですか。それより ももっと、重大な話をしましょう。私たちは、何としてもアンゴルモアの大魔 王降臨を阻止しなくてはならないのですから。」  玄妖空のその言葉に僕ははっとなった。そうだ、<フラグ>である。今、僕 にとって一番大切なことは、アンゴルモアの大魔王を降臨させ、救世主として 覚醒することだった筈だ。その為にここまでやって来て、ついにその核心に辿 り着こうとしている所ではないか。  それなのに、なんだ?この胸に引っ掛かっている意味不明の感情は。  胸がモヤモヤする。心がザワつくのだ。驚きと混乱だけでは説明できない、 意味不明の悔しさが沸々と湧き上がってきた。   「こちらの部屋へどうぞ。」  玄妖空は僕にマグカップを渡し、リビングへ戻ってもう一方の部屋に入って いった。正体不明のモヤモヤした気持ちを抱えたまま、僕は玄妖空についてい った。  その部屋は寝室だった。やや大きめのベッドの傍らに小さな本棚があり、そ の上にヴィレッジヴァンガードに置いてありそうな、お洒落な間接照明が置い てあった。窓のカーテンが半分開いており、外の景色が見える。どうやら雪が 降り続いているようだ。殆ど吹雪の様相を呈してきている。 「アンゴルモアの大魔王降臨を食い止める手段はひとつしかありません。」  そう言って玄妖空はベッドに座り、手招きして僕に隣に座るよう促した。言 われるままに僕は、玄妖空の傍らに腰を下ろし、コーヒーに口をつけた。  旨い。これは間違いなく純度100%のブルーマウンテンだ。先輩が喜び勇 んで飲んでいた120円の缶コーヒーとは格が違いすぎる。さすがは【ナナミ ちゃん】の作者である。漫画家を志望して挫折し、近所の書店でバイトをして いる先輩とは、飲んでいるコーヒーまで違うようだ。  僕と玄妖空はしばらく無言のまま、ブルーマウンテンを啜っていた。僕はそ れを飲み終わると、マグカップを玄妖空に渡した。玄妖空はそれを自分の分と 一緒に、本棚の上の空いたスペースに置いて、再び隣に座りなおし、僕の顔を まじまじと見つめた。  僕の視線も自然と玄妖空の顔に行く。やはり結構可愛い。相変わらず年齢は 不詳のままだが、切れ長で、睫毛の多い神秘的な瞳に、僕は少し心を奪われつ つあった。早い話が好みのタイプなのである。 「その手段とは…」  そう言い終えるや否や、玄妖空は僕の上に突然覆いかぶさってきた。  玄妖空のやわらかい指先が、僕の首筋に絡みつく。 「うわあっ!」  思わずすっとんきょうな声を上げてしまった。おいしいと言えばおいしい展 開である。が、一体なんだこのあり得ないシチュエーションは?想定の範囲を 遥かに超えた不測の事態の連続に、僕の混乱は頂点へと達しつつあった。  あれよあれよという間に着ていた服を全て脱がされ、玄妖空と僕は、裸で抱 きあっていた。  やわらかくて、あったかくて、とても心地よい気分だ。「これが女のひとの カラダなのか…」と密かに感慨に耽った。胸の高まりが収まらない。頭は混乱 しっぱなしでテンパっている。  何を隠そう、僕は童貞である。この世に生を受けて23年、女性の手さえ握 った事がない。それはちょっと嘘だった。高校生の時に林間学校でキャンプフ ァイアーを囲ってフォークダンスを踊った時、同級生だった二村さんと服部さ んと市川さんと吉田さんと大川さんの手を握ったことを思い出した。それはと もかくとして現在僕が置かれている状況が僕にとって空前絶後で未曾有の超絶 マッハ未体験ゾーンである事には変わりない。 「怖いのですか?ふふふ、大丈夫ですよ。私がエスコートして差し上げます。」  玄妖空が耳元で囁く。怖いというかなんというか、とにかく不安と期待で胸 が張り裂けそうだ。上手くできるんだろうか?どこかおかしいところはないだ ろうか?いざ、という段階になって勃たないなんてことはないだろうか?よし んば首尾よく、その、何というか、いわゆる所のセックスまで無事に辿りつい たとして、あまりにも早く果ててしまって軽蔑されないだろうか?彼女をきち んと満足させてあげられることはできるんだろうか?不確定要素があまりにも 多すぎて冷静かつ客観的にこの状況において最も適切であると考えられる行動 が何なのか、判断することができない。どうしてよいやらまったくもってわか らず、僕はひたすらベッドの上で固まっていた。  そんな僕の動揺をよそに、玄妖空は僕の体をゆっくりと愛撫していく。耳元 から首筋、そして乳首へと、玄妖空のやわらかい唇が這うように伝っていく。 僕は全身から力が抜けてしまい、へなへなになって玄妖空のされるがままにな ってしまった。いわゆる所の「マグロ」というやつである。「男として、こん なことでいいんだろうか?今、俺にはもっとやるべき事があるんじゃないだろ うか?」という僕の葛藤をよそに、玄妖空の唇は腹部を通り過ぎてついに局部 まで達した。 「ウフフ、可愛いい☆」  そう言って玄妖空は、僕の陰茎を舌で愛撫し始めた。玉の根元から裏筋を通 って鈴口へと、つうっと玄妖空の舌が走る。  こんな体験は、エロゲーの中だけの事だと思っていた。  快感には違いないが、全く現実味が感じられない。僕は、夢の中にいるよう な気分だった。 「ふふふ、固くなってきましたよぉ」  僕の外部生殖器付近にある玄妖空の顔が、僕の目を見てそう言った。やばい、 もうなにがなんだかわからない。思考力が完全に停止してしまい、前も後ろも 右も左も上も下も天地無用の前後不覚である。全く意味がわからないが、とに かく僕はテンパっているのだ。  そうこうしているうちに玄妖空は、僕の敏感になりすぎている海綿体に吸い 付いた。いわゆるひとつの「フェラチオ」である。玄妖空は頭をリズミカルに 上下させ、じゅぽじゅぽと僕のボクちゃんを吸って舐めて舌を絡めてとんでも ないことにした。童貞の僕にこの刺激はあまりにも強すぎ、ザーメンが尿道を 通過して噴出しそうになってしまった。   「ダメです。まだ出してはイケませんのよ♪」  玄妖空は悪魔のような笑みを浮かべて僕の陰茎の根本をぎゅっと握り、射精 を阻止した。その苦痛まじりの切なさに、僕は 「ぐうっ」という実に情けない声をあげてしまった。その声を聞いた玄妖空は、 サディスティックな目をして微笑した。 「うふふ、どうやらコチラの経験はあまり豊富でないようですね。そんなに緊 張しなくてもいいんですよ。私、漫画家になる前は風俗嬢を生業としておりま したから、殿方の扱いには自信がありマスの。とは言え、今果てて貰っては困 ります。」  そう言って玄妖空は、僕の身体に馬乗りになった。そして陰茎を優しく掴み、 玄妖空の秘所へと誘導していった。秘所の感触が、陰茎を通じて伝わってくる。 やわらかくて、熱くて、ぬめぬめとしている。濡れているのだ。僕は何の刺激 も与えていないにも関わらず、玄妖空の秘所は既に準備完了となっていった。  情けないことに、完全に玄妖空のペースに乗せられている。 「私が先日、神から授かったお告げによれば…」 「……」  まるで催眠術を掛けられているみたいに、僕は動くことも、口をきくことも できなくなっていた。 「アンゴルモアの大魔王降臨を防ぐ方法は、ひとつしかありません。」  玄妖空が僕を潤んだ瞳で見つめながら語りかけてくる。一体、大魔王降臨を 阻止する方法とは何なんだろう? 「集会を開き、集まってきた殿方の中の一人と…」  殿方の中の一人…それって僕のことか? 「交わって、子供を身篭ること―――」 「…!!!」  なんということだ!それは困る。  キモチいいのは大歓迎だが、それはちょっと困るのである。ここで玄妖空を 孕ませてしまったら、それこそ人生設計は台無しだ。こんな所でパパになって いる訳にはいかないのである。僕は<フラグ>を探し出してアンゴルモアの大 魔王を降臨させ、救世主として覚醒し、その後に運命の糸で結ばれたヒロイン と出会い、恋に落ちるのだ。そのヒロインは大魔王に攫われて貞操の危機に陥 るが、すんでのところで僕が救出し、大魔王を倒した後になって初めて結ばれ るのである。  玄妖空は確かにちょっと好みのタイプだけれども、運命の糸で結ばれたヒロ インではない。こうなれば何としても、玄妖空と繋がってしまうのを拒否しな ければならない。  そう考えた僕は、勃起して、今にも玄妖空に喰われようとしているナニを萎 ませようと必死になった。心の中からエロスな感情を根絶するため、僕はエロ スとは程遠いものを思いつく限り想像した。  大原先輩のふんどし姿。母親のネグリジェ(ベージュ)。小島よし夫のビキ ニパンツからはみ出したヘア。微分方程式。オイラーの位相幾何学。ハイゼン ベルグの不確定性原理。いい国作ろう鎌倉幕府。白紙に戻そう遣唐使。犬のフ ン。猫のバラバラ死体。生ゴミ。三年B組金八先生…僕は全身全霊をかけて海 綿体に集中した血流を戻そうとした。  その甲斐もあって、僕のボクちゃんはみるみるうちに元気を失っていった。 「…!!!!何故拒むのですか!?貴方は、貴方はアンゴルモアの大魔王が降 臨しても良いのですか!?」  良いも悪いも、こっちは大魔王に降臨して貰わなければ困るのだ。 「…なるほど。もしかすると責任を取らなければならなくなることを恐れてい るのではないですか?ご安心ください。これはあくまで、私が神より授かった 使命です。貴方に父親としての義務を果たせとか、子供を養えなどという気は 毛頭ございません。私がひとりできっちりと面倒は見ます。貴方は、私の子宮 に種を植え付けて下さりさえすれば良いのです。」 「…!!!!」  この時、僕の中に、今まで思ったこともなかったある考えが浮かんだ。  今、僕には、童貞を捨てられる千載一遇のチャンスが訪れている。この様な 機会は、女の子に全く縁のない人生を23年送ってきて、恐らくこれからもそ うであろう僕には二度と巡ってこない可能性が高い。  それをみすみす見逃すようなことをしていいのだろうか?  ここで玄妖空に童貞を奪われれば、多分大魔王降臨を阻止する<フラグ>が 成立してしまうだろう。そうなれば当然大魔王は降臨せず、僕が救世主として 覚醒する機会も永遠に奪われることになるだろうかもしれない。  それは確かにそうだ。  それは確かに、そうだが―――  今、僕の中に生まれた考えは、これまでの僕ならば絶対考えない類のものだ った。それは、  アンゴルモアの大魔王降臨なんて、単なる妄想に過ぎないんじゃないか?  というものだ。僕はそんな恐ろしいことを考えてしまった自分に激しく動揺 していた。そして僕の中で、ふたりの僕が口論を始めた。 僕A(いいか、冷静になって現実を見つめてみろ。お前は本当にアンゴルモア    の大魔王が降臨するなんて馬鹿げたたわ言を信じているのか?そんなの    妄想に決まってるじゃないか。何のかんのと理由をつけて、働かないこ    とへの罪悪感をごまかしているだけだろう。) 僕B(違う!アンゴルモアの大魔王降臨は、妄想なんかじゃない!!) 僕A(それに比べておまえが今、童貞を卒業するチャンスにあるって事は紛れ    もない現実の話だ。玄妖空を受け入れてしまおうぜ。こんなオイシイ思    いはもう二度とできないかもしれないんだぞ?) 僕B(何を言ってるんだ!!大魔王降臨を否定する事は、僕にとってこれまで    全人生を否定することと同じ事だ。何があったって僕は、大魔王は降臨    すると信じる。) 僕A(まあそう意地を張るなって。好みのタイプなんだろ?受け入れちゃった    方が絶対トクだってば。おまえはオタクで、ニートで、女にモテる要素    なんてひとつもない人間だ。ここを逃したら、一生童貞かもしれないぞ。    いいから難しいこと考えずにヤっちゃえって!!そしたらラクになるさ。) 僕B(・・・・・・・・・・・でも・・・・。) 僕A(「でも」じゃないよ。いい加減目を覚ませ。大魔王なんて振ってきやし    ないに決まってるじゃないか。お前は救世主なんかじゃなくて、只の人    間だ。どこにでもいる夢見がちなニートだよ。) 「…?どうしたんですか?」  頭の中で、もう一人の自分と議論している僕を不審に思ったのか、怪訝そう な顔をして、玄妖空が言った。 「いや…なんというか…その…」  僕は白とも黒ともつかない煮え切らない返事をした。 僕A(ホラ、早くしないとこのキ○ガイ女の気が変わってしまってセックスで    きなくなるかもしれないぞ?いいのか?) 僕B(…じゃあ、玄妖空はどうして僕と同じ<フラグ>という結論に達したん    だ?僕が考えていることが全て妄想だとしたら、赤の他人である彼女が    同じ事を考えていたことに説明がつかないじゃないか!) 僕A(アホか。そんなものはゲームばっかして青春をムダにしてきた妄想狂が    誰でも一度は考えることなんだよ。前に言われただろ「お前はゲーム脳    だ」って。ゲームばっかやってる奴等は皆脳味噌が腐ってるんだよ。こ    のキ○ガイ女もお前と同じ穴のムジナだっていう、ただそれだけの事だ    ろうが。) 僕B(それは…違うと思う。僕は<フラグ>は確かに存在すると思う。4日前    にひらめいた3つのキーワードは、僕を必然的に玄妖空の元へ導いた。    ただの偶然とはとても思えない。) 僕A(こじつけだよ。日常のあらゆる出来事から都合のいい事例だけを引っ張    り出してきて<フラグ>とかいうワケのわからんものと無理やり関係付    けているだけだ。妄想を正当化するための確証バイアス以外の何物でも    ないじゃないか。) 僕B(違う。僕は<フラグ>を信じた。そして行動を起こした。初めは本当に    些細な出来事だったことが、複雑に絡み合っていって、全く想像もでき    ない事態へと僕を導いた。全ては<フラグ>から始まったんだ。僕が<    フラグ>を信じていなければ、何も起こらないまま退屈な日常を過ごし    ていたと思う。これは絶対に偶然なんかじゃない。意味のある事なんだ。) 僕A(屁理屈なんていくらでも捏ねられるさ。なあ、お前本当にこのままでい    いと思ってるのか?今のまま妄想の中にずっと閉じ篭っていたら、取り    返しのつかないことになるぞ。お前はまだ若い。今ならまだやり直せる。    さあ、もうこんな馬鹿げた妄想のことは忘れよう。現実を生きようじゃ    ないか――) 「嫌だ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」  僕はそう叫んで起き上がり、ベットの上に仁王立ちになった。玄妖空は驚い てベットから転がり落ちた。 「な、なんですか突然!?」  玄妖空が抗議する。 「玄妖空さん、悪いけど僕は貴方とは交われない。僕はアンゴルモアの大魔王 にどうしても降臨してもらわないと困るんだ。大魔王が降臨し、世界が滅亡の 危機に瀕する時、僕は救世主として覚醒する。そして僕が大魔王を倒し、世界 を救うんだ!!!!!」  僕は玄妖空を真っ直ぐ見て、そう言い放った。 「はぁ…!?なんという利己的な発想ですか!たとえ貴方が本当に救世主とし て覚醒する運命にあったとしても、大魔王の降臨さえ事前に阻止してしまえば、 そもそも戦う必要などないではありませんか。アンゴルモアの大魔王が降臨し てしまったら、貴方が救世主になる前に、何億という人の命が奪われる可能性 だってあるんですよ!!!」  う…なかなか痛いところを突いてくる。確かにそうだ。大魔王が降臨しない のならば、救世主が存在する必要もない。けれども僕も男だ。一度タンカを切 ってしまった以上もう後には引けない。 「何言ってるんだ!!そうやって大魔王の降臨を遅らせているうちに救世主で ある僕がじいさんになってしまったらどうするんだ!!で、その後に大魔王が 降臨してしまったら、もう世界を救う術はないんだぞ!だいいち年を食えば食 う程救世主としてカッコがつかなくなっていくだろう!ホントは1999年に 14歳で大魔王と対決してる筈だったんだからな!これ以上待つわけにはいか ない!三十路の救世主なんて、絶っっっ対嫌だ!!!!!!!!!!!」  僕は無我夢中で屁理屈を並べ、あることないことまくし立てた。 「恐ろしい男…!!貴方のような人間を生かしておいてはこの惑星にとって極 めて有害です!私が成敗してくれましょう!!!」  玄妖空は顔を真っ赤にしてそう言った後、台所のほうに駆けていって包丁を 手にした。  やばい事になったものである。このままでは僕は殺されてしまう。こうなっ た以上一刻も早くここから脱出しなければならないのだが、いかんせん今僕は 全裸である。外は吹雪だ。全裸のまま飛び出したところで待っているのは凍死 か、猥褻物陳列罪で逮捕→投獄の二択であろう。  そのどちらもまっぴら御免であるので、僕はとりあえず服を着ることにして、 急いでパンツとズボンを履いた。Tシャツを着ようとした所で包丁を手にした 玄妖空が鬼子母神の如き凄まじい形相をして飛び掛ってきた。  咄嗟に僕はTシャツをひるがえし、玄妖空の攻撃をなんとかかわした。 「きいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃいいいいいいいいいいぃぃぃぃいいい!!!」  玄妖空はヒステリックな金切り声を上げて暴れまわっている。怒りで完全に 我を忘れているみたいだ。このまま刺殺されてはたまったものではないので、 僕は床に転がっている玄妖空の衣服を投げつけて応戦した。  うまい具合に上着が玄妖空の頭にすっぽりとはまり、視界を塞いだ。玄妖空 は我を失っているせいかそれを脱ごうともせずにキイキイ言いながらブンブン 包丁を振り回して暴れている。よく見ると包丁は、ゾーリンゲン製だった。さ すがは売れっ子漫画家である。包丁まで最高級品かよと一瞬感慨に浸ったが、 そのまま感心していると多分殺されてしまうので、僕は上半身裸のまま玄妖空 の部屋を抜け出し、廊下をダッシュしてエレベーターの前に着くと、速攻で下 降ボタンを押した。  運がいい事にエレベーターはこの階で停止しており、すぐにドアが開いた。 僕はエレベーターの中に乗り込むと同時に「閉」ボタンと1階ボタンを連打し た。  下降していくエレベーターの中、頭上で「きいいぃぃぃいいいいい!!!!」 という玄妖空の叫び声が聞こえた。まだ全然安心はできない。一階に到着し、エ レベーターのドアが開くと同時に僕は外へとダッシュした。  外は大雪である。気温は恐らく氷点下である。にもかかわらず上半身裸で全 力疾走している僕は、寒さを感じず、むしろ暑い位だった。  少しでもスピードを落としたら玄妖空に追いつかれて殺されるかもしれない。 その恐怖が僕をどこまでも全力疾走させた。こんなに走ったのは産まれて初め てである。僕は中学生時代の持久走も適当にしか走ったことがない。1500 m10分を切れないという事で体育教師にあきれられた男である。  だが、今僕は多分陸上選手並のスピードで街道を走っている。これが火事場 のバカ力という奴なんだろうか。なんだかよくわからないが、テンションが上 がってきて、僕は笑い出した。笑いながら、上半身裸のまま、街道をひたすら 駆け抜けた。  それにしてもすごい雪である。よく考えてみれば今日はクリスマス・イヴで はないか。とんでもないクリスマスになってしまったものである。クリスマス なんていい思い出はひとつもない僕だけれど、今年は間違いなくぶっちぎりで 最低最悪のクリスマスになってしまった。                8  翌日、僕は先輩のバイトしている書店へ行き、ファミレスで別れてからの顛 末を話した。  僕は玄妖空の部屋から脱出した後、街道沿いのファミレスに駆け込み、11 0番をお願いした。それから玄妖空の部屋に警察が立ち入った。  玄妖空はこの地域でこれまでも何度か奇行を繰り返しており、近隣住民から 警察へ苦情が寄せられていたらしい。警察は玄妖空を覚せい剤の常習犯として マークしていたそうである。警察の立ち入り調査で、寝室のベッド下から2. 6gの覚せい剤が発見され、玄妖空は逮捕された。    「人気漫画家覚せい剤使用!!仕事のストレスが原因か!?」  なんて話題でワイドショーとか週刊誌が盛り上がるんだろうね、という話を 先輩と2時間程展開したが、その間に客は2人しか来なかった。まったくもっ て暇な店である。 「まあ、東芝君の命に別状がなくて何よりだよ。もっとも、ファミレスでハン バーグセットとパスタセットと銀ダラの西京焼き御膳とドリンクバーと一緒に 置き去りにされた瞬間は、僕の方が君たちに殺意を抱いたけれどもねw」  と、先輩にしてはめずらしく毒交じりの感想を述べた。  玄妖空が【交差点っ娘ナナミちゃん】の作者平野レミ子だったという事実を 告げた時、意外にも先輩はそこまでショックを受けていない様子だった。 「まあ、作者は作者、ナナミちゃんはナナミちゃんでしょ。例え作者が覚せい 剤常習者だったとしても、ナナミちゃんが萌えキャラであるっていう事実は揺 るがないじゃない。それより東芝君、今一番熱いのは【ヘッドフォン天使リリ ィ】だよ!!このアニメを観ればナナミちゃんの事なんてどうでもよくなるん だから。僕が昨日録画したDVDを貸してあげよう。心配しなくていい。僕は 保存用と観賞用と布教用に3枚バックアップをとったからね。ゆっくり観てく れたまえ。」  と言って無理やりDVDを押し付けてきた。ナイーブな人とばかり思ってい たが、どうしてなかなか、頑丈なものだ。ここ数年で精神が鍛えられたのだろ うか?そうなのかもしれない。昔の先輩は、もっと繊細で、壊れやすい人だっ た。  それからしばらくどうでもいい雑談に花を咲かせた後、書店を後にした僕は、 一昨日見つけた例のひなびた定食屋へと足を運んだ。そしてカキフライ定食を 注文し、定食が運ばれてくるまでの間、思索に耽った。  今回起きた一連の珍騒動は、もとを正せば全て<フラグ>から始まったのだ った。  僕は1999年に降臨するはずだったアンゴルモアの大魔王が、いつまで経 っても降りてこないことに業を煮やしていた。何故かといえば、僕の正体は大 魔王を倒す使命を背負った救世主だからだ。早く大魔王に降臨して貰わない事 には、いつまで経っても使命を果たすことはおろか、救世主として覚醒するこ とも出来ない。結果僕は、世間からニート呼ばわりされて肩身の狭い毎日を送 っていた。  僕はどうすれば大魔王を降臨させる事ができるかを必死で考え、悩みぬいた 末、大魔王を降臨させるための<フラグ>を立てればよい、という結論に達し た。その次の日<コンクリート工場><交差点><芝生>というという3つの キーワードが頭の中に降りてきて、このキーワードに導かれるままに行動を起 こした。  その結果、玄妖空という少々頭のおかしな女に出会い、情事に発展しかけた あげく、危うく殺されそうになったわけである。  一体この事件には、何の意味があったんだろうか?結局のところ、いまだア ンゴルモアの大魔王を降臨させる<フラグ>は見つかっていない。玄妖空は僕 の子供を妊娠することが、大魔王の降臨を阻止する<フラグ>を成立させると 言っていた。それが真実だったのか、嘘だったのか、全く持って謎のままであ る。  昨日僕は<フラグ>の核心に、確かに近付いた気がしていた。様々な出来事 が複雑に絡み合いながら、確実にひとつの方向を指していた。が、今に至って は運命の糸は切れてしまったかのように、全ての手掛かりを失ってしまった感 がある。  これから僕は何をすればよいのか、どこへ行けばよいのか、皆目見当もつか ない―  とここまで考えた時点で給仕係の老婆がカキフライ定食を運んできた。  僕は思考を中断し、少し遅い昼食に舌鼓を打った。  自宅に帰ると、以前とまったく変わらぬ、くだらぬ日常が待ち受けていた。  19:00頃父親が帰宅し、2階にいる僕の部屋に向かって母親が「サトル ちゃんご飯よー」と叫ぶ。僕は階段のところまで行って「さっき食べたばっか だから後で食う!」と返答する。すると父親と妹の、僕を罵倒する声が聞こえ てくる。「あいつはどうなっとる」とか「お母さんはお兄ちゃんに甘すぎる」 とかそう言った言葉のオンパレードである。この手の言葉の暴力には、既に馴 れっこになっているので何の痛みも感じない。あの二人の発言は、僕の耳を右 から左へと通り抜けて行き、脳内に蓄積されることは決してないのである。  にしても、これからどうすべきだろう?<フラグ>を指し示していたはずの、 3つのキーワードの謎は解けたように思えるが、肝心の<フラグ>を発見する ことは出来ず仕舞いのままである。  僕は途方に暮れた。これではまるで、行き詰ってしまったRPGのようだ。 行けるフィールドには全て行き、村人全員に話しかけ、怪しそうな場所は全て 調べるコマンドを入力したにも関わらず、一向にストーリーが進んでくれない というやつである。  こういう場合、ゲームならば攻略本なり、インターネットの攻略サイトを調 べるなりして対応ができるのだが、生憎これはゲームではない。れっきとした 現実世界の話である。無論攻略本や攻略サイトが存在するはずもなく、自分自 身の知恵に頼るしかないのである。  小一時間ほど首を捻り、頭髪を掻き毟り、うんうんと唸りながら苦悩してみ たものの、答えは一向に見つからない。考えるのにも飽きてきたので、僕はP Cの起動スイッチを押した。  マザーボードの製造会社のロゴがでかでかと画面に表示された後、メモリが どうだ、HDDがどうだと白い文字が羅列し「WINDOWS XP」のロゴ が長々と表示された後、ようやく待望のデスクトップ画面が現れる。  PCを起動させる度に思うのだが、この起動の遅さはなんとかならないもの であろうか。70年代にパソコンが登場して、はや30年が経過しようとして いる。その間にPCの性能は驚くべき進化を遂げ、スピードは30年前とは比 べ物にならない程上昇した。  にも関わらず、起動速度だけは速くなるどころか、遅くなっている気さえす る。もしかしたらここには国家レベルの陰謀が存在しているのではないかと疑 いたくなる程に、とにかく起動が遅い。21世紀に入って、既に10年近い年 月が経過しているのだ。テレビみたくスイッチを入れたら一発で起動しろよこ の野郎と行き場の怒りを抱えつつ、メッセンジャーを起動した。  何かモヤモヤするのだ。原因は明らかに、いつまで経っても<フラグ>に近 付けないでいる事にある。この憤りを、誰かと会話でもして少しでも和らげた い。そう思ってメッセを起動してみたものの、誰も居ない。皆オフラインだっ た。もう20:00になるから、少なくとも大原先輩くらいはオンラインだろ うと思っていたのに、居ない。  僕はどうしようもなく寂しくなってきた。大学の同期も、高校の同級生も、 今や皆就職してしまっている。この時間帯にはまだ会社だろう。大学を卒業し て数ヶ月の間は、 「お前もダラダラしてないで早く就職しろよ」とか 「大丈夫?最近病んでない?」とか、  色々といらぬお節介をやく輩もいたものだが、最近ではそれもなくなった。 きっと皆、自分のことで精一杯なのだろう。もしかすると、僕という人間に愛 想を尽かしてしまったのかもしれない。   まあそれもいい。あいつらには到底理解できないのだ。僕がどれだけ重要な 使命を背負って産まれて来たのか、知らないんだから仕方ない。もっとも、 「僕は、アンゴルモアの大魔王を倒すために産まれてきた救世主なんだ。」  と、大上段に説明した所で、精神病患者扱いされて友達の縁を切られるのが 関の山だろう。  ああ、嫌だ嫌だ。嫌な世の中だ。僕にとって面白味のあるものが年を重ねる ごとにどんどんと減っていく。その代わりに「甲斐性」だとか「面子」だとか 「義務」だとか、どうでもいいものばかりが増えていくのだ。実にくだらない、 嫌な世界である。こんな世界は早く滅びてしまえばいいんだ―――  僕は自暴自棄になってきた。愉快なことは何一つない。嫌なことばかりが積 み重なる。全てがどうでもいい。生きていることに、何の価値があるというの だろう。  やるせない思いを抱えつつ、この鬱屈した気分を吹き飛ばすようなネタは無 いものかとニココ動画にアクセスし、色々と物色してみるが目の覚めるような 素敵なネタは何ら見つからない。僕は、 「ここも腐った場所になっちまったもんだな…」    と呟き、舌打ちをした。ニコニコ動画もあと一年くらいしたら廃れて、面白 いものは見つからなくなるのだろう。2ちゃんねるもそうだったし、双葉ちゃ んねるもそうだったし、mixiもYouTubeもそうだった。初めは心を奪われるよう な熱いネタが次々と登場して、僕の荒んだ心を癒してくれるのだが、すぐに似 たようなネタやあからさまな模倣、テンションの低い二番煎じなどが横行し始 め、腐臭を放つネタ墓場に成り下がる。  もっと僕を熱くさせてくれる「何か」は無いものだろうか。一度夢中になっ たら、死ぬまで色褪せずに僕の心を掴んで話さない、そんな「何か」を僕は心 の底から欲している。  僕にとって、唯一それらしいものといえば「アンゴルモアの大魔王降臨」で あり<フラグ>だった。大魔王の降臨を信じ、救世主としての覚醒を待ち続け てる時だけ、僕は生きる意味を感じられた。  万が一、それが単なる妄想に過ぎないのだとしたら、僕が生きていることに 一体何の意味があるというのだろう。  玄妖空に肉体関係を迫られた時、あろうことか僕は葛藤してしまった。  アンゴルモアの大魔王も<フラグ>も、僕の妄想に過ぎなくて、僕は「自立」 という誰もが受け入れなければならない運命から逃げるために、その妄想を利 用しているだけなのではないか、と疑ったのである。  もしその疑念が正しいとしたら…僕はどこにでもいる感じの妄想狂のニート で、人間のクズで、生きていても何の役にも立たないウンコ製造装置以外の何 物でもないということになる。  働く気なんてさらさらない。僕はそんなことに重要性を感じないし、月火水 木金と朝早く起きて通勤ラッシュの電車の中で人に揉まれながら出社し、終電 間際まで残業してボロボロになって帰宅することをひたすら繰り返す、なんて 到底できっこない。  さりとて別段やりたい事があるわけでもない。唯一のやりたいこと、僕がこ の世に存在し続けるただ一つの理由―それこそが          「アンゴルモアの大魔王を倒す事」 だったのだ。それが単なる妄想に過ぎないのならば―現実には大魔王なんて存 在せず、この退屈でくだらない日常の中で生き続け、いたずらに年を重ねてい く事だけが人生の本質なのだとしたら――生きている意味などないではないか。  ならば、僕は死を選ぶより他に、道は無いだろう。  とそこまで考えたとき、PCから「ペコポン」という間の抜けた音が鳴り響 いた。 『おーい( ^∇^ )ノ』  それはメッセンジャーの受信通知音だった。 【プリン体@リリィちゃん命っス\(〃^▽^〃)/】こと、大原先輩の登場で ある。 『どうもです』  キーボードを叩き、先輩に返事する。 『まあ、なんというか、色々と乙カレーーwwwwww』 『いえ、別に疲れてはいません。』 『そかそか(^-^)』  相変わらずいちいちwやら( ^∇^ )ノやらのレトリックが大好きな人であ る。ネット界における修辞学を心から敬愛しているのであろう。  それはともかく、先輩のオンラインが、今の僕にはとてもありがたいもの に感じられた。あのまま思索を続けていたら、どんどんネガティブな方向に 思考が傾いて鬱状態となり、死にたくなるのが関の山だからだ。こんな時は 誰かと会話をするに限る。といっても家族ではダメだ。家族と会話なんかし ても、必ず「どうするんだ」、即ち就職についての話題へと発展していくか ら、余計にディープな気分になるだけである。会社員になってしまった友達 との会話も最適とはいえない。そういう輩と話をしたところで、仕事の愚痴 を散々聞かされた挙句「家」とか「保険」とかの話をされて、余計に焦りと 孤独感を募らせるだけの結果に終わる事は目に見えている。  そう考えてみると、今僕の話し相手になってくれるような人は、先輩以外 誰もいないのかもしれない。 『あのさ…ひとつ相談があるんだけれど』  と、めずらしく先輩はレトリックを使用せずにメッセージをよこした。僕 はそこにただ事ではない「何か」を感じつつ、 『何でしょう?』  と聞いた。 『この頃、同人誌でもまた作ろうかなーって気になってるんだけど、東芝君 手伝ってくれないか?』  それを聞いて、僕は(何だ、そんなくだらない事かよ)と思った。生憎だ がそんな暇はない。僕は一刻も早くアンゴルモアの大魔王を降臨させて、救 世主として覚醒し、世界を救わなければいけないのである。  僕は『すいませんが、今その余裕はありませんね』と断りのメッセージを 返すべく、キーボードを叩いた。  だが、僕の指は、僕の意思とは裏腹のメッセージを勝手に打ち込んで、先 輩に返答していた。 『マジですか!別にいいですよー。今ヒマですし』 『ホントかい。助かるよー(*^▽^*) 東芝君は、今は漫画描いてないらしい けど、もしよかったらまた原稿ちょうだいよ。まあ無理だったら売り子だけ でもやってくれたら非常にありがたいwww』 『了解です。とりあえず売り子の方向で。。。』 『ノープロノープロ(^-^ ) いやあ、やっぱり一人でイベントに復帰するの はちょっと心細くてさ…なんせ7年ぶりだしね。ラクガキ程度のことはちょ くちょくしてたんだけどさ。絵板とか。。。』  やっぱりそうだったのか。先輩は漫画を完全に捨ててしまったわけではな かったのだ。今思えば、先輩が僕に声を掛けたのも、同人活動の仲間に誘う 魂胆があったのだろう。初めからそれが目的だったわけだ。  でも、ちっとも嫌な気分ではなかった。むしろ僕は、少しだけワクワクし 始めていた。それがどうしてなのか、自分でもわからなかった。大原先輩が 漫画を描こうが描くまいが、僕にとってはどっちでもいい話の筈だ。  なのに、僕は先輩から同人活動を再開すると聞かされたとき、すごく嬉し かった。  何故だかわからないけれど、これからすごく楽しい事が始まるような予感 がしたのである。                9  12月30日、僕は大原先輩と一緒に、東京ビックサイトにいた。建物内は 「ある特定の人種の人々」でごった返し、汗のすえた匂いが充満している。外 気は氷点下近いにも関わらず、この空間は、ものすごい熱気で満ち溢れていた。  昨夜、僕と先輩はコピー本の制作を行った。先輩はこっそり冬コミに参加申 込をしており、ちゃっかり受かっていた。そこで僕達は、急遽冬コミあわせの コピー本を作ることになったのだった。  本を作っていく作業はとても単調なものである。まずは先輩が紙に描き散ら した絵や漫画を、コンビニのコピー機でコピーしていく。コピー作業中、小銭 が切れたり、紙が詰まったり、用紙が切れてトレイの交換を店員に頼み、店員 に嫌な顔をされるなど、様々なハプニングに見舞われながらも、僕達は作業を 完遂することができた。  次に待っているのは紙折り作業である。コピー本を作るときは、紙を二つ折 りにしてホッチキスで止めていくのが一般的な方法である。僕達二人はコンビ ニでコピーしてきた360枚ほどの紙を延々と二つに折り続け、これを一冊の グループごとにまとめてホッチキスで止めていった。先輩は、今回は五年ぶり の12Pの本を60部作ることに留めておくと言っていた。5年もブランクが あるのだし、告知等もまったく行っていないため、本が売れる見込みは少なく、 この選択は妥当であると僕は思った。  製本作業を全て終えたあと、僕と先輩は、近所のファミレスでささやかな打 ち上げを行った。打ち上げといっても二人とも下戸なので、チョコレートパフ ェとドリンクバーという、大の男が二人で行うには微妙過ぎるチョイスでの打 ちあげと相成った。深夜に男二人がチョコパフェを食べながら談笑している姿 というのは、傍から見れば気色悪いことこの上ないものであろうが、僕達ふた りはそんなことおかまいなしで、色々な事を話し合った。  冬コミは10:00に開場し、16:00に閉会となった。その間に、先輩 の本はなんとか完売した。五年ぶりの出品だから、先輩のサークルを知ってい る人間は誰もいないだろうと思っていたのだが、驚いたことに本を買っていっ た何人かの人は、 「プリン体さんですよね?うおー久しぶりですっ!サークルカット見て、もし かしたら…って思ってたんですけど。活動復活されたのですね!いやぁ感激で す!」  などと先輩に声を掛けていた。先輩はその事にとても感激した様子で、 「東芝君、やっぱり出てよかったよ。イベントっていいものだなぁ」    と何度も言っていた。  僕自身も、言葉にできない不思議な高揚感を体験していた。  何と表現すればいいのだろう、なんだかよく分からないんだけれども、コピ ー本を作って、即売会に参加し、本を売るという一連の作業が、とても楽しく 感じられた。「楽しい」という言葉は不適切かもしれない。ここ数年間、僕に 空いていた「穴」が埋まるような感覚、とでも言うべきだろうか、イベントの 間中、そういう満ち足りた感覚を僕は味わった。  僕の生きている意味、人生の目的は「いつか降臨する筈の、アンゴルモアの 大魔王を倒すこと」で、それは今もブレてない。けれどもアンゴルモアの大魔 王はいつまで経っても降ってこなくて、実際には何もすることがなかった。高 校を卒業してから6年間、ただただ大魔王を降臨を待ち続けるだけだった僕の 人生は、とても味気ない、空疎なものだった。  僕は多分、何らかの目標に向かって、一歩一歩近付いていく感覚に飢えてい たのだと思う。高校を卒業してから、僕の時間はずっと止まったままだった様 な気がする。詰まってしまったRPGみたいに、何のドラマも、イベントも起 こらない毎日がだらだらと過ぎていった。  両親も友達も、口を揃えて「就職しろ」と言う。けれど、僕は就職には何の 意味も魅力も感じられなかった。「皆そうしてるんだから」などという理由は 到底受け入れられるものではないし「お金を稼がなきゃいけない」って言った って、親にねだれば必要なだけのお金は手に入った僕にとって、お金は就職す る理由にはなり得なかった。「男の甲斐性」とか「国民の義務」とか、そんな 道徳めいた価値観は、僕の一番信用していないもので、就職の動機になること はあり得ない。  とにかく僕には就職しなければいけない理由は見つからなかったし、就職し たいという気持ちも全く起こらなかった。だから就職するわけにはいかなかっ たのだ。こんな精神状態で就職するということは、周囲の圧力に流されて仕方 なくする行為に過ぎず、僕自身の選択でもなんでもない。  それは僕の人生にとって「敗北」以外の何物でもなかった。  結局のところ僕は、自分の道を探しあぐねていただけなのかもしれない。誰 かに期待されているから、誰かが「そうしろ」と言ったから選んだ道ではなく、 自分自身が求め、選び取ったのだと胸を張って言える「道」。そういうものが 僕の人生にはどうしても必要だったのだ。他人の顔色を伺って、他人が喜ぶよ うなことばかりをしていると、自分はどういった事を楽しいと感じ、どういっ た事を楽しくないと感じるのか、どのような物が好きで、どのような物が嫌い なのか、ということがわからなくなってしまう。世の中にはそうやって、いつ の間にか全く望んでいなかった場所に自分を連れて行ってしまい、不平不満の 虜になってしまう人があまりにも多い。僕はそういう人間の仲間入りだけは絶 対に避けたかった。  だから僕は「選ばない」事を選択し続けたのかもしれない。  アンゴルモアの大魔王なんて、本気で信じていたのではないかもしれない。 玄妖空に童貞を奪われそうになったとき、もう一人の僕が言ったように、僕は 「アンゴルモアの大魔王の降臨→救世主として覚醒」  という幻想をスケープゴートにする事で「選ばない」自分を、前に進まない 自分を正当化したかっただけなのかもしれない。  けれども、そんな時期もそろそろ終わりに近付いているようだ。  きっと大原先輩も、僕と同じようにこの6年間、ずっと足踏みを続けてきた のだろう。 「夢に破れた自分」「才能を否定された自分」「そこから立ち直れない自分」  そんな失意と挫折と自己嫌悪に塗れながら、今日までの日々を生きてきたの だと思う。  でも先輩は振り払ったんだ。自分を覆っていたどす黒い霧を。  そして一歩を踏み出した。別段大儲けしたわけでもないし、このまま同人活 動を続けたからといってプロの漫画家になれるとは限らない。今日の先輩の一 歩を褒めてくれる人は、もしかしたら誰もいないかもしれないけれど、それで も先輩にとっては、とても大切な一歩だったと思う。  僕も前に進みたい。  妄想の中ではなくて、  目の前に広がる、この世界で。  自分の中の新たな可能性を見出し、挑戦していきたい。    冬コミから帰るゆりかもめの中で、僕はそんな事を思った。  その時、僕の耳の中で<カチャリ>という音が響いた。  大きな音ではなかったが、とても鮮明で印象的な響きを持った音だったので とても気になり、隣に立っていた先輩に 「今の音、なんでしょうね?」  と訪ねた。先輩は「え?何か音した?」と不思議そうな顔で聞き返してきた。 どうやら先輩には、その音は聞こえなかったらしい。    単なる空耳だったんだろうか?  何故かはわからないけれど、僕はその音のことが気になって仕方なかった。                  エピローグ  その日、僕は求人情報誌を見ながら、例のしょぼくれた定食屋でトンカツ定 食を食べていた。  僕はアルバイトでもしながら、自分は何をしたいのか、ということをゆっく りと考えてみることにした。実に恥ずかしい、月並みな言葉で言うならば「自 分探し」というやつである。  母親は「サトルちゃんのひきこもりがついに治った」と嬉し泣きして、親戚 中に電話を掛けまくった。父親は「自分探しもいいけど、なるべく早いうちに 就職するんだぞ」と僕に釘を刺したがまんざらでもなさそうだ。妹は、 「人間のクズがやっとスタートラインに立っただけ、お母さんもお父さんもお 兄ちゃんに甘すぎる。」  と相変わらず辛辣である。  先輩は相変わらずあの潰れそうな書店でバイトを続けている。冬コミ以来僕 達は何度か一緒に即売会イベントに行き、同人誌を出品した。先輩がしつこく 頼んでくるので、しょうがなく僕もラクガキのようなものを寄稿するようにな った。  何かが大きく変化したわけじゃない。  けれど僕は、少しずつではあるけれども、確実に変わりつつあった。  これまで僕は、この世界に何の希望も抱けなかったけれど、今は違う。  この先に何か、とても楽しい事が待ち受けているような気がするのだ。  そんなことを考えていた時だった。定食屋の天井付近に設置された、時代遅 れのTVが驚愕のニュースを報道した。 「今日未明、地球に向かって正体不明の物体が、秒速60000kmの速度で 接近しているとの発表がありました。」 「あの巨大な物体は、一体なんなんでしょうか!?人間の形にも見えますが、 とてつもない大きさです!」    頭の禿げかけた中年のレポーターが、口から泡を吹き飛ばしながら、殆ど絶 叫といってよい声でカメラに向かって叫んでいる。僕はTVに映った「巨大な 物体」に目をやった。そして直感した。       ―――あれは、アンゴルモアの大魔王だ―――  何故かは分からないが、僕にはそれが明白に理解できた。僕は不安そうな顔 でニュースを見ている老婆の給仕に1000円札を渡し、会計を済ませると急 いで店の外に出て空を見上げた。  既に「正体不明の巨大な物体」は肉眼で観測できる距離にまで接近していた。 町の人々は一様に空を見上げ、不安そうな顔をしている。道路をパトカーが何 台も走りぬけ「皆さん!!自宅で待機して下さい!外は危険です!!」と拡声 器を使って呼びかけている。今にもパニックが起こりそうな雰囲気だ。  僕は徐々に近付いてくるアンゴルモアの大魔王を見上げながら、冬コミから 帰る時に聞いた<カチャリ>という音について考えていた。  もしかするとあれは<フラグ>が成立した音だったのではないだろうか?あ の時僕がとった行動のうち、どれが<フラグ>を成立させる行動だったのか、 僕には見当もつかない。もしかしたら玄妖空が大魔王降臨を阻止する<フラグ >を成立させる行為―即ち僕とのセックス→妊娠に失敗した時点で、アンゴル モアの大魔王降臨は避けられなかったのかもしれない。  が、ふと思った。これはあくまで仮定に過ぎないが、僕が 「アンゴルモアの大魔王なんて本当は存在しないんだ」  と、これまで抱いていた幻想を捨て、現実世界で実行可能な「やりたいこと」 を探し始めるという行為こそが、大魔王を降臨させる為の<フラグ>だったの ではないだろうか。そう考えると、あの時聞いた<カチャリ>という音の意味 もはっきりするし、14歳の時点で大魔王が降臨しなかった事にも説明がつく。  誰でもこんな馬鹿げた妄想とは、14歳位で縁を切るのが普通だ。それなの に僕は、延々とこの妄想にしがみつき続けた。結果としてその事が、アンゴル モアの大魔王が降臨しない原因になっていたのではないだろうか。  もしそうだとしたら、何という皮肉だろう。  妄想を妄想であると認めた時点で、妄想が妄想でなくなるなんて。  この世界を作り賜うた造物主は、よっぽど性格の捻くれた天邪鬼で、僕達の 葛藤したり苦しんだり悩んだりという日常を眺めることだけが楽しみなんじゃ ないだろうか。僕は、なんだかすごく悔しくなった。  ともかく、こうなった以上救世主である僕は、今にも世界を破滅させんとす るアンゴルモアの大魔王を、なんとしても倒さなくてはならない。  それが僕の使命なのだ。  僕はその為にこの世界に生まれてきたのだから。  そして僕は空を飛んだ。  遥か下の方で、人々は僕を指差し、驚きの声を上げている。  今こそ僕の、本当の名前を教えよう。  僕の名は「アドリエン」という。  僕は、世界をアンゴルモアの大魔王から救う為だけに産まれた。  僕の職業は「救世主」である。                 完