第34回 テロ事件とアメリカとの付き合い方(2001/10/7)

 

 以前、欧米どっちにつきますか?で書いたように、国際社会における日本の特色は、白人国家中心の国際関係のなかで、唯一、有色人種として先進国に仲間入りしていることである。というよりも、まあ、一応まともな国として認められ、彼らからすれば仲間入りを「認めてやっている」というところだろう。

 決して誇張ではない。日本をサミットやG7に呼ぶ気なんて彼らには最初なかったのに、日本のカネがないと動かない問題があるからしょうがなく呼んだようなものだ。各国のトップですらそうなのだから、ハワイ沖で潜水艦にもぐっていて、よしんば潜望鏡で見えても「ジャップの船か、まあいいや」なんて発想にご機嫌な庶民たちがなっても何ら不思議はない状況なのだ。

 日本は対等な相手として認められていない。今回も、アメリカは大事なことは何も日本には伝えていない(あれだけ口の軽い外相がいる国を信用しろ、というのも無理な話だが)。しかしそれだけを言っていてもコラムにはなりそうもない。

 実は、今回の事件に関して、日本と少しだけ似た立場の国がある。そのことを材料に考えてみたい。その国とは、トルコだ。

 

 トルコは、日本とは比較にならないぐらい華麗で雄大な歴史を持っている。セルジューク朝からオスマン朝にいたる大帝国はヨーロッパ人から地中海を奪い、心の故郷・ビザンツ帝国を滅ぼし、圧倒的な栄華を誇った。その近衛軍は世界最強と言われ、ウィーン城壁を二度にわたって陥落寸前まで追い込んだ。

 トルコ風文化は花開き、寒冷で貧相なヨーロッパ半島の王侯貴族たちはイスタンブールの繁栄に憧れ、17〜18世紀には滅亡寸前に追い込まれたハプスブルク王家の宮殿ですらトルコ風が流行した。その宮殿でモーツァルトはトルコ軍楽隊のマーチにヒントを得て、名曲ソナタ第11番Kv331を書いた。

 民族としてのトルコ人はアナトリア半島にとどまらず、遠く中央アジアから東アジアにまで広がっている。古く唐帝国と戦った遊牧国家突厥は「テュルク」の音訳だし、トルコ民族の独立運動は中国、旧ソ連、イラン、イラクとユーラシア大陸を横断するように存在するのだ。トルコ共和国の中には、これらを糾合したいわば「大トルコ主義」を唱える人々もいる。

 

 しかしトルコは、19世紀のわずか100年間の間にあっという間に凋落していく。エジプト、メソポタミア、パレスチナなど中東の領土をほぼ失い、どさくさにまぎれてギリシアその凋落したオスマン朝を倒し、現在のトルコ共和国を建国したのはケマル=アタテュルクである。 

 ケマルは、イスラム教の国でありながら、欧州諸国に先んじて男女平等の普通選挙など、「文明」的な主張を唱え、それを導入した。これは、単にケマルが開明的であったということを意味するのみではない。こうした開明的な政策をとることによって、「文明の向こう側」として列強から位置付けられていたトルコを、「文明」の側に再配置させようという意思なのだ。

 トルコはいわば、現在世界の主軸を握っている白人諸国家から見れば、文明と非文明の境界線に位置する。政治的には十分文明的でありながら、肌の色その他の問題で微妙な位置にある。この点では、日本とよく似ている。

 今回のテロ事件でも、トルコは真っ先にアメリカを支持し、NATOの一員として国内の基地を米軍が使用することを認めた。これには二つのポイントがあって、ひとつはトルコにとって国内テロ問題でもあるクルド人問題で欧米の批判を避けること。もうひとつは、自分を「文明」側に位置付けることである。(事実、トルコはNATO加盟に際して、「文明国」かどうかの審判を下されて苦い思いをしている。将来的にはEU加盟も目指していることだろう。)

 もちろんトルコは今もイスラム国家であり、大トルコ主義を唱える人々の間ではこうした政府の姿勢に対して反発がある。だが、それを封じ込めてでも文明に、いわばアメリカについていかなければならない、という国際政治上の、そして経済的なやむを得ない立場というものがある。

 同様のことは、サウジアラビアやパキスタンにも、さらに深刻なケースとして当てはまる。パキスタンは軍事政権だが、その正統性を承認してもらうためにはアメリカに追随するしかない。もともとアメリカに追随してきたサウジアラビアは、王家と政府の米石油資本と結託した無為無策のために膨大な負債を抱え、アメリカについていくよりほかない。そしてそのことで、国内の反発勢力を押さえ込んでいる。

 

 例示していくときりがないが、つまり、文明の境界線上にある各国ともが文明国かどうかということを実質的にアメリカに今回問いただされているのだ。これは、たとえば日本がアメリカにつくのか中国につくのかというレベルではない。巧みなアメリカの外交戦略によって、中国・ロシアを巻き込んだ「文明」のボトムラインが引かれ、それについてくるかどうかを試されているのである。 

 

 わが日本も、文明の境界線上という意味では同じ状況にある。この状況を踏まえずに、思うところの正論をぶちまけていても仕方がない。

 10年前の湾岸戦争で日本はout of memberの扱いを受けた。それ以来、out of member的扱いが継続されている。過剰な言い方ではないだろう。

 1990年代の10年間、日本は急速に国際関係のなかで力を失い、アメリカからもあまりまともに扱ってもらっていない。もちろん、経済大国として先進国の仲間入りを「許されていた」日本が経済的に失墜し(とはいえ奈落の底に落ちていく蜘蛛の糸の一本を握っているという意味で変わらず重要ではあるが)、中国・北朝鮮の危険度増加にもかかわらずアメリカは取り立てて日本との同盟関係を見直そうという姿勢は見られない。

 特に、8年間の民主党クリントン政権のときがそうだった。不審船やら拉致疑惑で問題の多い北朝鮮にオルブライト国務長官が出かけていって、平壌のスタジアムでマスゲーム見て笑っていたときは腸が煮え繰り返りそうになった。こうなったら、日本は自力でこの問題を解決する術をもたなければならないのではないか、と。

 もっとも、日本の政府も離合集散を繰り返し、現在の小泉政権も外交能力においてはあまり信用ならないとあってはアメリカのほうも相手をする気にならないかもしれない。だが、国家・政府の第一義的な存在価値が、国土の保全と国民の生命・財産の保全である以上、アメリカが日本のために何もしてくれないのであれば日本は日本なりの手段を考えるべきなのだ。そして今回のケースも、とりあえず、その観点から考えられるべきだろう。

 

 選択肢はいくつもある。いわば国際政治の舞台から「下りる」のもあるし、独立独歩の道もある。だが現実的には、日米安保を主軸としたアメリカとの同盟関係を中心にやっていかざるをえない。これは巨大化することが確実な中国に、日本が対抗しうる唯一の道といってもいい(ちなみに最悪のシナリオは、アメリカと中国が手を組むことだ)。

 だがアメリカは、日本をあまりパートナーとして信用していない。在沖縄米軍の兵士が事件を起こすたびのアメリカの報道の仕方も、日本とアメリカの片務的な関係に飽き飽きしている、といった感じだ。だから、日本がどうだろうと、アメリカは自国の利益と見るや中国とも北朝鮮とも交渉を持つ。おそらく世界で、もっとも友好的な同盟国にして価値観の理解者である日本なぞ、いざとなればほっぽりだしてもかまわないのだ。


 たとえばこういうケースを考えてみよう。北朝鮮からミサイルが日本のどこかの町に降ってくる。核はさすがに搭載していないとしても、万単位の死者が出る。そのとき、米軍が動かない、ということは現在の状況ならありうるシナリオなのである。

 安保条約を結んでいる以上、米軍が動かなければ自衛隊も動けない。「安保条約を何のために結んでいるんだ」と泣きついてみても、米軍が動くことで自国の政治・経済を危機にさらすのであればアメリカは動かないだろう。そこで「痛みに耐えて話し合いを」などと馬鹿な議論が許されるわけがないし、そもそも、そういうシナリオを想定させる状況が問題なのだ。

 これを解消するには是非、アメリカが思っているほど日米関係は片務的ではない、ということを主張するべきである。もちろん、憲法と安保の条文上、片務的な部分は完全に除くことはできないが、さまざまな部門で、日本が決して片務性に甘えているわけではない、ということをアメリカに認知させなければならない。

 そしてそれは、どうしても自衛隊か、政府の部隊か、いずれにせよ日の丸を背負った人々がやらなければならない。民間の活動を否定するつもりはないが、日の丸を背負った人たちが仕事をすることで、アメリカの片務性に対する不信感も軽減されるだろう。そしてこれは、日本でも一朝事あったとき、片務性を理由にアメリカが責任を回避することを防ぐための戦略でもある。

 僕の結論としては、今回の自衛隊の派遣に反対する理由はない。ただ、いささか事態の進行が性急過ぎて、いったいどこに三権分立のブレーキングがあるのか、と疑いたくなる。よくわからない間に小泉さんが思いつきのように言ったことが次々と決まっていき、それに対して議会はまったくの無抵抗だ。これも、日本がアメリカ的文明観の庇護下でのんびり暮らしていたために、そんなこと考える必要がこれまでなかった、という証拠だろう。

 繰り返しになるが、僕はこの議論で、民間の活動を否定してはいない。民間、NGOによる活動は効果的だし、何よりUNHCRとその協力者たちの活動は賞賛に値する。が、政府はやはり、日の丸を背負っていなければならない、という意味で、政府の活動と民間の活動は両立すると思う。

 民間だけで日本の国際関係の中のポジションを維持するのはかなり難しいことだ。それは何より、外国がわれわれを日本人と規定していることに由来する。だからこれは、ドメスティックな議論であるようで、インターナショナルな議論である。われわれが、行動し参加する日本について考えるのは、われわれが日本人だからでなく、その規定要因であるところの、外国がわれわれを日本人とみなし、われわれの国を日本とみなしているからである。

 だから、ここまでの議論は、自分を日本人と規定して、日本という国について考える人たちに向けたものである。別の私の知らない日本の人が拉致されようが知ったことじゃない、とか、政府がアメリカと行動をともにするのは反対だが国際社会で日本が中立的に活躍すべきだ、という夢遊病のようなことを喋る人とか、日本政府が何かやるのは胡散臭いしアメリカもあんまり好きじゃないけど、いずれはアメリカが助けてくれるだろうというノーテンキな人たちとは一線を画したところで書いてるので、悪しからず。


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