

第36回 「柔らかなファシズム」と国家論(2001/10/15)
数日前の朝日新聞を読んでいたら、ここ最近の小泉政権によるテロ対策支援法を、気づかないうちに国民を戦争へと巻き込んでいく「柔らかなファシズム」である、と表現していた。柔らかなファシズムとはどういう意味なのかさっぱりわからない。語感として何かを感じさせようというつもりなのだろうけど、あまり伝わってこない。
おそらく、戦争に国民を導くものをして「ファシズム」と総称しているのかもしれないが、これは言葉に対してあまりにも無関心すぎだ。ファシズムと同様、大衆民主主義でも戦争にいたるに十分すぎる原因になる。
事実、第二次世界大戦はファシズムの国と、大衆民主主義の国と、ほとんど非人道的な社会主義国家の戦いでもあったのだ。ついでに言っておけば、ファシスト政権が巧みなプロパガンダを展開したドイツと違い、日本の場合、ファシスト的な軍部の独走を、大衆民主主義を背景としたマスコミが煽ったのだ。よもや、われわれは騙されてプロパガンダをさせられたのだ、とは言いますまいな、朝日さん。
さて、この言葉に僕が反応したのは、最近読んだ猪瀬直樹氏の『小論文の書き方』(中公新書)に「柔らかなファシズム」についての言及があったからだ。『小論文の書き方』はタイトルに反してノウハウ本ではなく、著者の過去の評論(というとおかしいか。彼は作家だから)のなかから、自薦を集めたものである。
そのなかに、99年に朝日新聞に公開書簡の形で掲載された大江健三郎氏とスーザン・ソンタグ氏の対論である。これは僕も読んだのだが、一向要領を得なかったことだけを覚えている。猪瀬氏はかなり強い批判を大江氏に加えている(p.242〜)。たとえば、大江氏の以下のような表明。わたしはこの国に超国家主義がゆるゆると、しかし突然に復活してしまっているという『物語」を考えずにはいられません。それは今この国で宣伝されている近未来のアジアの災厄の、どれよりも色濃いリアリティーを持つように感じられます。
あるいは、以下のような。
わたしはこの国に柔らかなファシズムの網がかけられるとき、若者たちが国境の外へインターネットの窓を開ける、そのような共同体を夢想します。
言葉がことごとく「曖昧」な比喩に堕していてるし、「近未来のアジアの災厄」の物語についても、インターネットについても、まるでリアリティーのある知識をもち得ていない、というニュアンスが伝わってくる。日本は対等な相手として認められていない。今回も、アメリカは大事なことは何も日本には伝えていない(あれだけ口の軽い外相がいる国を信用しろ、というのも無理な話だが)。
もちろん、現役のなかでは世界を代表するソンタグは、世田谷の高級住宅で暖かい日に当たりながらコラムを夢想する大江氏とは違い、みずからコソヴォ紛争渦中のユーゴに足を運んだ経験から、このように手厳しく批判している。日本の重要な作家が、自国の具体的現実について見解を述べられたのに、外国人の私が異論を唱えるのは僭越な行為との謗りを免れないでしょう。でも、現実を理解するために私たちが用いる方法に付いて、と限定した上で言わせてください。
私は、(中略)現実を隠喩として語るほとんどの実例に対して、もっと懐疑的になるべきだと訴えてきました。ファシズムは現在、隠喩になったと思います。私はこの言葉を隠喩として、あるいは厳密さを欠いた形で使いたくありません。ミロシェビッチが率いるセルビア政府は、今日の世界で見るかぎりもっともファシスト政府に近いものです。しかし、単に排外主義的、順応主義的、また、ある面では抑圧的ですらある社会を、それだけでファシスト的だとは呼べない、というのが私の見解です。
猪瀬氏は、「大江が隠喩としてのファシズムをもてあそんでいるとき、彼女は眼前のファシズムを語っているのである」と的確にコメントしている。
ソンタグ、あるいは、朝日的論調が戦後民主主義の論理的基盤としてきたハーバーマスも、NATOによる空爆を支持した。「アウシュビッツを阻止するには、たった一つしか方策がない−それは戦争だ−」からである。NATOは、いやドイツは、と言っていいかもしれないが、3年という長い間ユーゴの混乱を放置した末、最後には爆撃に転じた。
これとて、ソンタグが言うような単に人道的な決断ではない。その夜、ハーバーマスがこの決断がいかにやむを得ないものであったかをラジオでとうとうと語った一方で、ドイツ軍参謀本部では、第二次大戦以来はじめて、ドイツ軍が国境を越えて活動したことに対して祝杯をあげていたという(シュピーゲルより)。現実はどうしても清濁併せ呑まねばならぬ。ファシズムという簡単な言葉で語る事態の、いかに複雑なことか。
では、大江氏らの、そして世論の大半を形成していると思われる戦後民主主義的な考え方が言うファシズムとは、何なのだろう。ちなみに、大江氏がこの記事で直裁に批判していた日の丸・君が代法制化の動きについての甘い認識に対しても、ソンタグはこう切り捨てている。
古いナショナリズムの道具立てを持ち出して情念を掻き立てる、哀れなほど貧弱な動きがあるというだけでは、私のなかでは、今の日本がファシズムや軍国主義に転じようとしているという確信にはつながりません。
確かに日の丸=ファッショ、という認識はあまりに時代錯誤だ。いつもこの議論は、論点がアジアの人々の心境を考えろ、というふうに拡大していくことで、日の丸=ファッショという構図を維持しようとするのだが、決して議論が執着することはない。なぜならば、ファッショという言葉があまりに曖昧で、集権的・抑圧的な傾向をすべてファッショと言い換えることができるからだ。
こうして見てくると、こうした議論が何度も繰り返され、かつ、成果を生まない問題点が見えてくる。たとえば日の丸がそうだが、日本という国家が主権者として立ち現れるときには必ず、それを「ファッショ」という便利な隠喩で批判してるだけなのだ。
先の戦争の反省として、国家主義的傾向を阻止しようという気持ちはわかる。主権は国民ひとりひとりに存すべきだし、憲法にもそう規定してある。現実的には権力と暴力を国家が支配しているとしても、建前上、国民主権であるべきだ。そのことはわかる。だが論理的にも建前上も、国家が主権者として立ち現れざるをえない場面がある。それは国際関係だ。国際関係は、国家を対等な主権者として成立している。そして、国家主権は自律的なものとみなされているが、しかし、現実に国家が独立するときには他国からの承認が必要なように、相互に他律的なものだ。そして、この、相互に他律的な国際関係に国家が放り込まれたときには、国は否応なく主権者としての表情をしてあらわれる。
これはダブルスタンダードな、誤魔化しではあるのだが、日本のみならずどの国も同じ構造を抱えているし、この構造を抱えていなければ国際社会のなかで生きていけないという要請もある。いわば、現在を生きていく上での前提条件なのだ。この意味で、国家は典型的には絶対主義国家時代に構築した国際関係の中にある。国家論を考えるとき、絶対主義国家をモデルとして理論展開したホッブスに立ち返らざるをえないのはそのためだ。そして、国家はcriticalな状況においてもっとも典型的に主権者としての表情をあらわす。criticalな状況とは、たとえば戦争だ。あるいは、それに類する国家としての判断をせざるをえない場合だ。第二次世界大戦では、ドイツはヒトラーという、アメリカはルーズベルトという主権者の顔をして現れた。
日本はそうした主権者をもち得なかった(これは日本という国が、近代国際関係を生きていく上でつきまとっている弱点でもある)が、それでも、国民や他のアジア諸国(彼らは当時国際関係のなかで主体として活動していなかった)の権利を奪い、みずからが主権者として立ち現れたことには変わりがない。そして平時でも、criticalな状況になれば、当然、国家は対外関係における主権者としての顔をあらわす。国旗・国家もまた、対内的なものというよりは、こうした対外的主権者としての問題に属する。
思うに冷戦の頃、日本は国家として、そうした主権者としての表情を出さずともよい状況にあった。アメリカに依存していればよかったのだ。そして、主権者としての表情を出そうという動きを、世論は「ファシズム」という言葉で批判して、押しとどめた。
ところが冷戦が終わってみると、いつまでもアメリカに依存して主権としての国家という表情(当然それには責任も伴う)を出さないわけには行かなくなった。湾岸戦争時の失態は、その意味で無様な試行錯誤だった。「ファシズム」という隠喩が幅を利かせすぎたために、国際関係のなかで「日本という国」がどういう表情をすればよいのか、それがどう受け止められるのかわからなくなってしまっていたのだ。
その状況は、今も変わらず続いている。よかれ悪しかれいろんな動きはあるが、日本が対外的な主権者としての表明をしなければならない、ということには変わりがない。そして、国家が主権者としての表情を持つことへの嫌悪を曖昧な隠喩に託すような議論は、現実の諸前提を無視しているばかりか、己だけが普遍的な高みにのぼったかのような大変無責任なものである。
おそらく、ここ十年から二十年の間に、日本は国家として、大きな決断をしなければならない時期が来る。その決断とは、大雑把に言ってしまえば、アメリカにつくのか中国につくのか、という二択になる可能性が高い。そしてまた、どちらとも仲良くする、というような子どものような結論が許されない、厳しい決断になる可能性が高い。
そのときに、主権者としての国家を「ファシズム」などと言って批判することは許されない。それは国益などというレベルではなくて、とりあえず、この国をベースとして暮らしている人々の生命や財産の安全を脅かすからだ。曖昧な言葉で批判だけし、みずからへの批判をかわすのはわが国の論者に少なからず見られることだが、それが現実的な判断をゆがめる方向へ働くようなことは断じてあってはならないと思う。
そしてそろそろ、「柔らかなファシズム」といったいい加減な言葉を、ノーベル賞作家が使うからといってありがたがるのではなく、きちんと論理的に批判する力を、国内においても養いたい。
なお、主権者としての国家を否定することは許されないのか、と言うとそうではない。僕はあくまで、国家を、国民の生命と財産を維持発展させるために必要な機構と捉えていて、断じて過剰に国民の主権を制限すべきではないが、しかし、政治的、経済的、文化的な領域で、「人間」形成のために不可欠なもの(それには長所も短所もあるが、それらは諸前提なのである)と考えている。したがって、上述のような議論になる。
もちろん、アナーキズムでもコミュニズムでも、主権者としての国家を否定する議論はありうるし、その議論自体を否定することは大変広義かつ世間に流布している隠喩的な意味での「ファシズム」であろう。だが、そうした反国家的な議論とて、国際関係のなかで国家が主権者としての表情を持つという現実の前提条件を踏まえた上で進めなければ、何ら成果を生まないばかりか、かえってスターリン主義や毛沢東主義的な抑圧的な国家を作り出すだけになるだろうことは、歴史が教えているとおりだ。本気で主権者としての国家を否定したい人は、国家という形態を揚棄する方策を考えるべきなのだ。そうでない議論には、僕は反対する。