第52回 「民意」など糞食らえ!(2001/11/22)

 

 ニュースステーションに、鈴木宗男代議士が出ていた。声がでかいのが彼の唯一の取り柄みたいなものだが、それでも、より厳しい世界で鍛えられている久米宏氏や猪瀬直樹氏を前にすると敵ではなかった。彼の議論は、多少抽象的にいえばまったく一般性のないわずかな経験を死守して議論上の自分のプライドを守るだけの子どものそれで、猪瀬氏から突っ込まれるたびに顔を真っ赤にしながらエスケープ、その逃げ先をまた猪瀬氏に封じられてみすみす引き戻されるという惨めなものだった。

 論者として彼は完敗していた。政治家は論者でなければならないと僕は思うが、彼自身がそういう意識を持って、自分の内や外で何かを変革しようという気になるかどうかは定かではない。多分無理だろう。

 

 鈴木氏の来歴とこれまでの言動についてはもはや書くに値する価値もないが、意外と彼の来歴を知らない人が多いので一応触れておく。彼は北海道比例区の選出だが、中選挙区時代には帯広、根室、釧路が選挙区で、自民党のプリンスかつ将来の首相と嘱望された中川一郎氏と同じ選挙区だった。経歴も能力も華やかだった中川氏に対抗するために、看板も地盤も弱い鈴木氏は泥まみれの選挙戦を毎度戦ったといわれる。事実かどうかは知らないが、選対から演説会の参加者に配られたおむすびのなかに五千円冊が入っていたという逸話まである。

 しかし、見識豊かで議論もうまかった中川氏はたった一度総裁選に挑んだだけで自ら縊死し、まったく総裁選に挑む能力のない鈴木氏は生きている。才子短命なのか。世の中は理不尽なものだ。

 以後、鈴木氏は金丸信、小渕恵三、野中広務と経世会の大御所の腰巾着として生き延び、恫喝と公共事業の分配を事とする小子の才能を遺憾なく発揮してきた。彼の小人ぶりは、この夏、週刊誌の記事をもとに「自分を批判した」と、国会の場で醜悪なほど長時間田中外相に噛み付いたことからも明らかである。有徳のかけらもない人だ。

 今回のニュースステーションにしても、当然テーマは高速道路計画の見直しと道路特定財源についてなのだから、「推進派」の野中・古賀両氏がいわば「観測気球」として鈴木氏に出陣を命じたに過ぎない。鈴木氏に政策への意志も貞節もないことは誰もが知っているから、鈴木氏がとっちめられたところで痛くも痒くもない、というわけだ。

 

 さて。

 この国の代議士たちは、ほんとに国策を考えているのか。それを考えるたびに苛立たしくなる。官僚もそうだ。しかし、僕自身は自分の身の回りのことに目を配るだけで精一杯である。何もできないことが、憂鬱である。

 道路はもはや不要、という世論調査の結果と、実地のインタビューを元に攻め立てられても、鈴木氏は抵抗する。「自分は、公正な選挙で信任された町長さんや市長さんから依頼を受けている。だから政治家として実行する責任があるのだ」と。つまり、「民意」によって選出された地方自治体の長たちの「民意」をうけてやっている。民主社会の政治家として当然のことではないか、というのだ。

 「あなたは国会議員なんだから、地方首長の意見を聞くだけじゃなくて、国のことを考えないと」という猪瀬氏の至極当然の指摘に対しても、「あなたはほんとうに、利用者の意見を聞いたんですか」という久米氏の突込みに対しても、「選挙によって示された民意」を楯に頑張っていた。有権者は地方首長や地方議会議員を選んでいる。首長や議員を選ぶことは彼らの民意である。その民意を代表する首長や議員の要求には応えなければならない。まして、私は民意によって選らばれた国会議員である。そのための権限も、責任もある、ということになる。

 この論理が堂々巡りするのは、聴いていて憂鬱になる。誤謬をつくことはたやすい。また、実際の彼の行動との矛盾を指摘することもたやすい。土建業者を選挙事務所に呼びつけ、指3本突き出して「この金がいらないというのか」と恫喝して仕事を呑ませる手法が「権限」というのであれば、民意によって裏付けられた権限など糞食らえである。その「民意」に僕の意志も入っているのなら、御免こうむる。

 断っておくと、僕は政治的には「民主主義者」であって、「民意」は尊重すべきだ。選挙制度を否定したり、ヒトラー並みの統率者の登場を待望したりするのはまっぴら御免だ。とはいえ、現行の民主主義が持っている欠点も理解している。だが鈴木氏も、それを攻める久米氏も、民主主義の「建前」=「民意」を根拠に議論をしているから収拾がつかなくなる。

 

 猪瀬氏はさすがにそうではない。建前は建前として了解した上で議論をしようという姿勢が見える。今日は、「建前は建前と認識したうえで議論しましょう」ということを書きたい。

 建前と実情の齟齬を示すに、ひとつの問題を挙げたい。われわれは選挙で、人を選んでいるのか、政策を選んでいるのか、という問題である。

 われわれ有権者が「人」を選んでいるとすれば、選挙から選挙までの間、われわれは名義上の「主権」を被選挙者に委託していることになる。これは大変ホッブス的だが、上記の鈴木氏の見解はまさにこの考えに根ざしている。

 そして、この考えであれば、われわれ有権者は選挙と選挙の空白期は主権者でも何でもなく、主権を行使できるのは選挙のときだけ、ということになる。間接民主制の欠点として古くから指摘されていることだ。いまの日本の政治でいえば、純朴な田舎の有権者が第一党の自民党の「先生」を選ぶことで政治が動いている。鈴木氏などはそうした「先生」の典型的な例であろう。

 では政策を選ぶとすればどうなるだろう。野党第一党の民主党は「政策本位」を掲げるが、有名な「争点の束」のパラドックスに見られるように、いくつもの政策案件を一度きりの選挙で有効に判断することなど不可能なのである。

 選挙のときはもっとも代表的な論争を伴う政策が争点とならざるを得ないが、それとて、有権者個々人において争点の重みは違ってくる。おまけに、他の政策との関連性や整合性を判断することは難しい。目下大多数の国民にとっては、自衛隊の派遣よりは、地元への利益誘導や税金の問題のほうが重要な案件なのである。そして政治家は、その案件の処理によりエネルギーを費やさざるを得ない。

 かくして、自分の一票では何も動かないということを知った有権者は、投票所に行くよりはせっかくの日曜日、どこかに出かけて有意義に過ごすことのほうを選ぶ。当選者の喜びに冷や水をかけるような投票率の数字がニュースで示される。国政選挙の補選で投票率が30%を切っているのに、当選者に「民意」が示されたなどと、どうやったら言えるのだろうか。

 

 より論理的に言えば、人間が、完全な情報を手にして無謬の決断を下すことができない生き物である以上、誰も理想的な「主権者」ではありえない。現実には政治家が権限を持っているのに、それを選挙という制度によって、名義上国民に主権を持っているように見せかけていることによる「分裂」が、この混乱をもたらしている。名義上の主権者である有権者は自分たちに実際は主権がないことを知って投げやりになり、政治家は事実上の主権者でありながら責任を回避する。

 にもかかわらず、システムは完全無欠の「主権者」を想定しているので、権限と責任の議論が政治家と国民の間を不安定に相互反復して、システムそのものが揺らいでいるのだ。さらに、本来ならば、その揺らぎや、政治家と有権者の間の情報格差を是正することをレゾン・デートルとしているマスメディアも、いまやその揺らぎをさらに増幅させる方向にしか働いていない。

 これは、日本だけにある現象ではない。日本は革命で民主主義を勝ち取ったのではなく、敗戦によって天から降ってきたから民主主義が根付かないのだというよく言われる見解は一理を持っているにせよ、民主主義の崩壊は日本だけの現象ではない。民主制が、くじ引きか、せいぜい人気投票に堕してしまっているのは往年のアテネに始まり、現在では全世界に広がっている。昨年の米大統領選がほぼ「くじ引き」的様相を呈していたのは象徴的だった。

 

 民主主義は進歩してきた、と思う。だが、これだけ情報があふれ、政治がある意味で無意味化している(国家が無意味化しているのではない。注意せよ)状況の中で、民主主義も選挙制度も疲弊していることは確かだ。

 より広い視点で言えば、「近代国民国家」というシステムが変質している(これも無化しているとは思えない。注意せよ)のに、そのシステムを旧来から支えてきた選挙とか、主権者とか、民意という言葉や制度に固執していることが、問題を大きくしているように思われる。

 繰り返しになるが、僕は民主主義者である。いまどき大げさでこっ恥ずかしい言葉だが、あえて言おう。共同体の成員の話し合いによって、共同体の運営方針を決定するという、民主主義の基本的な理念は間違ってはいないと思う。

 ただそれを進めていくのに、選挙という制度がいま適切なのかどうか、を問うべきだろう。そして、僕も選挙に変わる有効な制度をいまのところ想像し得ない以上、手立てとしては、制度に対する態度の変更しかない。つまり、政治家に対して、われわれが全権をあなた方に委任したわけではないこと、選挙制度によって全面的に政府の権限が裏付けられるわけではない、ということをきちんと述べていくことが当面必要だろう。

 だから、鈴木氏のように、選挙で選ばれた首長が要求しているのだからそれは「民意」だということが無謀であるのと同様に、久米氏が、世論調査で「民意」がこのようにでていると主張するのも無謀なことなのである。選挙によって示された民意、などというものに拘泥していては、いつまでたっても政策論議が導かれない。より建設的な議論のためには、「民意」の意義とシステムをいったん棚上げするという、これまでになかった意識的な作業が必要になる。「民意」など糞食らえ、と、政治家の側も、有権者の側も一度言ってみることだ。


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※なお、住民投票制度は個別の案件について住民の「民意」を問うという意味で重要であり、今後、国家レベルでも運用可能な制度への展開が必要となるだろう(電子投票制度はそれを可能にするかもしれない)。ただそれは、一昨年の吉野川可動堰のように比較的「建設的」な議論に資するべきである。最近の原発をめぐる三重県某町のように、データも何もない状況での住民投票が、住民の「良識」を示しているなどということはありえないのだから。


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