第69回 NとLの野球帽(2001/12/25)

 

 12月25日、九州の、心底野球を愛する人々にはたまらないクリスマスプレゼントだった。かつて西鉄ライオンズでエースを張っていた池永正明氏が、31年ぶりにマウンドに立ったのだ。スポーツ新聞等でかなり大きく報じられていたから、ご存知の方も多いだろう。

 もちろん僕は、彼の現役時代を知らない。それでも、寝物語に「一番高倉、二番豊田、三番中西、四番大下、五番関口…」と子どもの耳に全盛期西鉄のラインナップを語るほど、心底ライオンズを愛する父親に育てられた九州生まれの野球ファンとして、感に堪えなかった。泣きそうになった。

 

 ビッグイベントの2週間ほど前、僕は九州の佐賀で仕事をしていた。口数の少ない、いかにも佐賀育ちの男といった感じの実直なタクシーの運転手さんが、池永再登板の話になると突然饒舌になった。「25日ですよね。楽しみですね。」「いまから見に行けるでしょうか?」「いや、もうあの日はドームはいっぱいらしかですよ。うちの同僚でも、何人か行くていいよっとのおるですもんね。」そして最後に彼は無念そうに付け加えた。「あの人は濡れ衣ですもんね…。」

 

 もちろん、31年前の事件は、池永氏当人がもっとも無念であったに違いない。5年間で100勝を挙げた23歳の青年が、突然、野球界からの永久追放という罪を負ってしまったのだ。

 でも、それだけではなぜ彼の再登板を、地元がこれほどまでに歓迎しているのかはわからない。彼の無念さに、九州、特に福岡の人々はまた別の無念さを託しているのだ。それが、完全な形とは到底いえないまでも、少しだけ晴らされたという気分がある。

 今日は、全国紙では絶対に紹介されない、一地方の選手とファンの共感をご紹介したい。そのためには、昭和30年代の日本社会へ向けて、少々想像力を働かせていただきたいのだ。

 

 経済企画庁が白書に「もはや戦後ではない」という名言を載せたのは昭和31年のことだった。東京では街の再建が次々と進み、経済規模も着実に回復していた。

 そのころ、福岡を中心とする北九州もまた、かつての輝きを取り戻していた。この一帯は、日清戦争で勝利した日本がその賠償金を元に八幡に製鉄所を作って以来、あるいは長崎に世界最大級のドッグを備えた造船所を作って以来、この国の重工業を支えてきた地域だ。

 中国やインドシナから船で運ばれてきた鉄鉱石は、周囲をぐるりと溶鉱炉に囲まれた海・洞海湾に入る。そこには、筑豊炭田で掘り出された大量の石炭が鉄道で運び込まれていた。そして熱い鉄が打たれ、あるいは鋼鉄となり銑鉄となり、鉄路海路で大阪へ、東京へと運ばれていったのだ。かなり大雑把な言い方をすれば、東京のブルジョワ産業の基盤を、九州のプロレタリアが支えていたといってもいい。

 

 その西国のプロレタリアたちの心の支えは野球だった。

 戦前にも社会人野球の名門・門鉄(門司鉄道管理局、いまのJR九州)があったし、中等野球も強かった。熊本工業からは川上・吉原という名選手が出た。筑豊炭田には「炭田リーグ」があり、このリーグの名選手だった原貢は後に三池工業の監督として全国の頂点に立ち、関東に呼ばれた後は息子の原辰徳を主軸に東海大相模で何度も甲子園を沸かせた。

 そんな野球ファンの心の中核になったのが、西鉄ライオンズだ。名前からわかるとおり、現在所沢にある西武ライオンズの前身である。北部九州を電車とバスでつなぐ西鉄、こと西日本鉄道はプロレタリアートたちの生活と通勤の足であり、彼らは生活のさまざまをライオンズの活躍に託し、また憂さを晴らした。

 いつの世も、プロレタリアの生活は楽ではない。そんな生活に希望を与えるのが、ライオンズというチームだったのだ。

 

 ライオンズは「野武士集団」と言われたが、まことに、プロレタリアートのためのチームにふさわしかった。

 東京から呼ばれて4番を任された「青バット」大下は、後に監督を務めたときにチームにノーサイン・門限なしを打ち出したほどの朴訥な選手で、チームプレーなぞとは縁遠い選手だった。そこに水戸からやってきたやんちゃ坊主のような豊田、高松からやってきた怪童・中西などが集まった。今からは考えられない個性的なチームだった。

 そこに、三原脩がやってきたことで、東京への、ジャイアンツへの対抗意識が芽生えた。三原は戦前の巨人を支えた選手で、戦後は監督としてチームを支えていたが、三原の大学時代からのライヴァルであり生粋の巨人エリートだった水原茂がシベリアから帰参し、後楽園球場で「水原、ただいま帰ってまいりました」とファンに挨拶をした時点で、水原が監督になり三原は総監督として現場を追われることが決まっていたのだ。昭和24年のことである。

 三原は総監督職を断り、はるか九州の西鉄の監督に就任する。「雌伏していつの日か中原に覇を唱えん」と、古代中国の言葉を引いて巨人への復讐を誓った三原は、個性豊かな選手たちを競わせ伸ばし、西鉄を南海に匹敵する強豪チームにまで育て上げる。この時期に、後に大エースとなる稲尾和久が大分から入団し、昭和29年には初のパ・リーグ優勝を飾る。鼻息荒い選手たちが存分にグラウンドを駆け回るプレースタイルは、腕っ節の強い肉体労働者のファンたちと、その子どもたちの夢をかきたてるに十分だった。

 

 チャゲと飛鳥の二人は、それぞれ小倉と福岡の出身である。

 チャゲが詩と曲を作り、好んでコンサートでも歌う曲に「NとLの野球帽」という歌がある。この歌は見事なまでに、西鉄ライオンズが当時の九州の野球ファンにとってどんなチームだったかをとらえている。NとLは、もちろん、西鉄ライオンズのベースボールキャップだ。

もくもくと煙を吐き出す 工場の敷地の裏にある
砂利の山をかけのぼり そして滑り落ちる
でこぼこだらけの空き地で仲間を待ったんだ

いつも兄貴のおさがりの ブカブカの服でバットを振る
空に突き刺さるあの鉄塔にねらいを定め
夢はいつでもどでかい ホームラン

 昭和31年から昭和33年まで、西鉄はリーグを3連覇し全盛時代を迎える。そして日本シリーズでは巨人と3年連続で戦った。そして3年連続で勝った。

 特に昭和33年のシリーズは、最初3連敗した西鉄がその後4連勝して大逆転でシリーズを制する劇的な展開だった。エース稲尾は5連投で4勝すべてに絡んだ。九州の野球ファンは、野武士集団がエリート野球の巨人を打ち破る姿に快哉を叫んだ。(巨人はこの年で川上が引退。ルーキー長嶋は最終戦で稲尾から唯一の得点となるランニングホームランを放った。翌年の入団が決まっていた早実3年生の王貞治は、後楽園球場のスタンドで試合を観戦していた。)

 けれども、これが西鉄のたった一度の黄金時代の終わりだった。

 

 昭和30年代に入ると、エネルギー転換が起きる。石炭の需要が減り、輸入石油の需要が増大した。石炭が基幹産業である九州にとっては大きな痛手だ。昭和33年、原監督のもとで三池工業が優勝した年、福岡の最有力炭田だった三池炭鉱で400人以上が亡くなる大事故が発生した。翌年には人員整理をめぐって400日に及ぶ戦後日本最大の労働争議が起こった。炭鉱で働かなければ食べていけない労働者たちと、組合運動のためピケを張って彼らの入山を阻止しようとする組合派の分裂はそれまでの活力をこの地域から失わせ、最終的には敗北した。これは九州のみならず、日本のプロレタリアートにとっての敗北でもあった。

 西鉄の収益も急速に悪化し、当然、実力ある選手やコーチを雇えなくなった。まだドラフト制度もないころである。三原監督は中原に覇を唱えるために福岡を去り、新興の大洋ホエールズの監督として巨人を破り、宿敵水原を監督の座から引き摺り下ろしたが、西鉄にはもう何も残っていなかった。昭和38年に最後のリーグ優勝をするも、往年の力はなく日本シリーズでは川上巨人に敗れた。エース稲尾は多投がたたって故障に苦しみ、それに代わる投手もいなかった。

 

 そんななか、ひとりの才能ある投手が西鉄に入団する。池永正明投手である。

 下関商業で選抜大会を制覇した池永には、巨人、南海も獲得を図ったが、西鉄が必死になって口説き落とし獲得に成功した金の卵だった。成績不振と観客動員数の減少に苦しむ球団にとって、実力とスター性を双方兼ね備えた池永氏は絶対に必要な投手だった。

 彼の現役時代のフォームをビデオで見たことがある。これほど力強いフォームは、過去にも現役にも見たことがない。

 左足の振り上げは小さいが、前への踏み出しは大きい。大きく踏み出すことで、かなり低い位置に重心が入る。

 重心が入ると同時に腰骨から背骨を通って頭蓋にいたる上半身の中心軸が垂直に立ち、次のスムーズな回転に準備する。これほどすばやく回転軸を確立できる投手を僕は見たことがないし、また、軸を立てたときにまだ上半身が捻られたままで少しも回転していないという投手も見たことがない。回転軸が立ったとき、おそらく、人並みはずれて背筋が強いのだろう、胸が反り返るようになって次のエネルギーを貯めている。

 十分に貯めをつくると、腰の回転が始まり、同時に背筋の束縛が解けて上半身がものすごい勢いて回転してスピードを作る。ここでも低い重心は揺らぐことなく安定し、生まれたスピードを確実に右腕の振りに伝えている。重心が低いから、リリースポイントも打者に近くなる。

 切れがよければ、打者の目線から見ると一度バウンドしそうなぐらい低いボールがぐんとホップして浮き上がってくるように見えただろう。かの張本勲氏をして、「調子のいいときの彼の球をインハイに放られたら、何もできなかった」と言わしめた球である。

 

 池永投手は、5シーズンと3ヶ月の実働期間で106勝64敗の成績をあげた。金田、江夏に匹敵する数字だ。しかも、西鉄という貧打にあえぐチームを背にしての数字である。彼があと10年投げられたら、どんな成績を残していただろうと思わない者はいない。

 しかし終局は突然やってきた。

 

 昭和44年に球界を襲った「黒い霧」事件は、八百長が球界に蔓延していたことを太陽の下に明るみにした。なかでも、弱体球団で給料も安かった西鉄の選手にそれは多く広まっていた。池永氏も、先輩から渡された札束を受け取ったことは認めた。そしてその札束を押入れに押し込んだことも認めた。しかし、「決して敗退行為はしていない」と主張した。

 だがコミッショナーは「疑わしきは罰する」態度で臨み、池永投手をはじめ四選手に二度と球界に復帰することができない永久追放処分を課した。池永氏のみならず、将来を嘱望されていた東映の森安投手も同じ憂き目を見た。

 しかし、「疑わしきは罰する」というのは建前でしかない。池永氏のように敗退行為を否定した選手が永久追放という重い処分を課されたのに、敗退行為と現金の授受を認めながら出場停止処分にとどまり、その後も活躍を続けた選手もいる。なぜその差が生まれたのか。西鉄球団が球界の政治力の上でも弱体化し、選手たちを守ることができなかったのだ。守る、という言い方は不当かもしれない。より正確に言えば、公平な処分を要求することすらできなくなっていたのである。すべては、経済的な苦しさの故だった。

 「NとLの野球帽」では、1969という年号が歌われる。まさにこの昭和44年だった。コミッショナーがファンに対して「反省」を示すために、もっとも弱い球団だった西鉄の選手たちがスケープゴートにされた。九州のファンはそのことをよく知っていた。東京への憤りと悔しさを誰もが感じていた。池永氏の永久追放処分は野球のみならず、九州にという地域が東京に残忍に誇りを奪われた、あまりにも酷い敗北だったのである。NとLの、くたびれたベースボールキャップがそこにあった。

 

 最後のスター選手、池永氏を失った西鉄はいっきに消滅への道を転がり始める。

 成績は目に見えて下がった。和歌山・箕島高校からドラフトでやってきた若き東尾投手がエースを張ったが、その成績は15勝22敗とか、彼が初の最多勝タイトルを取ったときの成績22勝24敗とか、エースからして必ず負けが込んだ。東尾投手はその後もライオンズ一筋に活躍するが、彼の通算での勝敗数が並んだのは西武時代で214勝214敗目のことだった。それまで彼は、西鉄時代に積み重ねた借金を背負って投げていたのだ。

 処分後の池永氏は、中州で飲食店を経営して暮らす。おそらく堅実な経営なのだろう、30年にわたって店を張っている。

 東尾は、福岡に行くたびに池永氏を訪れて、若い選手に野球をできない辛さを語ってやってくれ、と頼んだという。そのたびに、池永氏はそれを「迷惑がかかるから」と断ったという。現役選手と接触することすら、彼は禁じられているのだ。

 昭和47年2月、西鉄は球団を太平洋クラブに譲渡し、球団経営から撤退した。僕は11月生まれだから、西鉄と同じ空気を吸うことができなかった。太平洋クラブはやがてクラウンライターに球団を譲渡した。クラウンライターでも成績は向上せず、最後のドラフトで引き当てた法政大学の怪物・江川には入団を拒否された。江川は会見の席で、「九州は遠いから」とその理由を述べた。

 江川獲得に失敗したクラウンライターは、西武に経営権を譲渡する。西武は、鉄道開発の街・所沢にライオンズを持っていった。福岡から野球チームがなくなったのである。いつしかそういう球団があったことも、池永氏のことも、人々の口端にのぼることも少なくなった。

 平成元年にホークスが平和台球場にやってきたときも、九州のファンの反応は複雑だった。できれば、ライオンズに帰ってきてほしかったのだ。だがダイエー球団の懸命の努力と、ダイエーが強くなったことによってファンの心理をつかむことができた。いまやホークスは紛れもなく、福岡のチームになっている。

 そしてその誇りを回復することによって、池永氏への関心がまた高まってきたのだ。

 

 西鉄OB会による請願、ファンの請願と、池永復権への動きは年々高まった。むろん、コミッショナーはいまだそれを認めていない。それでも、ファンの心のうちでは確実に彼は復権している。

 そしてまた、東京にしてやられ悔しい思いをした昭和44年の事件から立ち直って、誇りを取り戻そうとしている。

1969 1969 愛するものが近くにあった
俺が笑ってる 俺が突っ立ってる 不器用そうな親父の背中をおふくろが見ていた

NとLのくたびれたベースボールキャップ
なくしたものは景色だけさ 一緒に歩かないか

 「NとLの野球帽」はこうして終わる。人々の誇りは生活する街の誇りと結びついている。その誇りを、31年ぶりに、不完全なかたちとはいえ取り戻し、再スタートさせたのが先日の池永氏の、本拠地・福岡での「再登板」だった。池永氏は最初、「迷惑がかかる」とまた断ったそうだ。それを往時の稲尾監督が「気にするな」と言ってチームに呼んだという。単なるイベントではない大きなものが、その背景にはある。

 たかが野球、されど野球。人々の誇りにとって、街の誇りにとって大事なものは何かということを、教えてくれそうな出来事だった。


 トップページへ   孤言的時評一覧へ


[PR]女性が輝く公文の先生募集中!:全国で教室開設説明会開催