第83回 さよならP.B.(2002/02/11)
 

 P.B.が死んだ。

 
 P.B.が死んだのは1月23日のことだった。それを僕が知ったのはつい一昨日、2月に入ってからのことだった。P.B.が死んだとき、僕は北海道の田舎にいた。いちおう一般誌も毎日目を通してたのだが、フランス人であるP.B.の死は東洋の島国の北辺に届くにはあまりにも小さなニュースだったのだろう。

 

 P.B.を初めて読んだのは大学生になってからだった。思想の類に関心があった青年としては遅いアプローチだった。最初に読んだ本は『ディスタンクシオン』だったと思うけど、大変難しい本だという印象しか残っていない。難解で有名だったドゥルーズ=ガタリよりもわからない印象が強かった。ひょっとして翻訳が悪いのかと思ってフランス哲学を専攻する友人に聞いてみると、原語でも十分に難しいとの答えだった。

 そのうち僕の関心が社会学的な文化論に向くにしたがって、彼のレポートや論文を読む機会も増えた。

 他の社会学者と同様に、彼もフィールドワークが大好きでいろんな取材をしていた。そして他の社会思想家たちと同様に、理論は魅力的であった。P.B.の理論には地べたの匂いがして、田舎の地べた階級から出てきてアカデミズムの世界に放り込まれた僕は共感し、また尊敬した。

 そして何より、P.B.は古典ではなかった。ライヴな世界と常に対峙していた。場所と相手に遠慮することなく自分の意見を明快にかつ痛烈に述べる。フランクフルトでドイツ中央銀行の総裁をこき下ろすなど、EUの知識人にできる芸当ではない。

 しかしP.B.のテーマはそれだけではなかった。そのことを知ったのは、僕が社会人として、いや給与労働者として生活しはじめたこともある。そしてこの5年から10年の間に、世界が大きく変わってしまった、ということもある。

 
 この10年、P.B.の戦いはグローバル資本主義、あるいは思想的な表現ではネオ・リベラリズムと呼ばれる者たちとの「象徴領域」をめぐる戦いだったのだ。

 合理主義の名のもとに、理性の名のもとに、これまで人々が獲得し、それは国家の責務であると認めさせてきた社会政策が次々と撤廃されている。

 かつて第三世界から奪った資源で先進国の国民の生活水準を高めてきたかつての「第三の道」は、いまや、一部の政治エリートと経済エリートの利益を圧倒的に増大させ大半の国民からも資源を奪うという恐ろしい形相でやってきたのだった。

 テクノクラシーが、デモクラシーを抑圧しつつある。政府も、企業家も、メディアもその加担者となり、それに反対することは「理性の敵」のレッテルを貼られる。テクノクラシーだけが理性を持ちうるかのように。「理性」はIMF的な高級数学的モデルを持ち出し、文句があるならこれを批判してみろ、と言う。そのため誰もが口をつぐむ。

 経済学を生半可にかじった政治家が、社会政策の放棄を「改革」の名のもとに断行し、資本家と投資家、そして優秀経営者が時代を象徴する知識人面して浅薄な理論を語る。「競争力」、「自己責任」、「弾力性」。その言葉は持てる者を持たせ、持たざる者から奪う。そうして抑圧は進行していく。テクノロジーの発達とともに、失われているものは大きいのだ。

 P.B.はあくまでも社会学者として、そして公的なものに奉仕する知識人として、その構造を明らかにしようと執拗に戦っていた。


 P.B.の同志は大衆たちだった。エリートたちが「ポピュリズム」の言葉で、まともな思考ができない無知な人間どもと蔑んでいる人々だった。P.B.はその「大衆」に向かってビラを作り、珍しく読みやすい本を書いて励ました。

 テレビにも出た。カット割りもカメラワークも一切ない奇妙な番組だった。P.B.は、テレビ演出が人々に資本主義的な意識を刷り込んでテクノクラートによる「象徴領域」の掠奪に貢献し、「大衆」の生活レベルを下げることを助長していると批判したのだ。

 98年には、母校エコル=ノルマルを占拠したホームレスたちを激励し、支援した。P.B.に賛同する人々は彼を「行動する思想家」と呼び、批判する人は「時代遅れの左翼」と軽蔑した。左翼から理性を奪った保守はいまやネオリベラリズムの衣をまとい、条件付きの自由競争を讃え、それを批判する人々を「時代遅れ」と批判する。

 

 でも僕にとってのP.B.は、保守/革新とか、左翼/右翼という問題ではない。P.B.自身も、自分はもちろんマルキストだが、それ以上にパスカリアンだとどこかで語っていた。彼の目線は理論と人間、両方に向けられていた。


 その彼にとっての問題は、デモクラシーによって守られてきた公的(パブリック)なものがテクノクラシーによって破壊されていく、その「公的」なものをいかにして回復するかということだ。

 ネオ・リベラリズムは、公的なものの回復を目指す動きを「前近代」とか「ファッショ」とか「ナショナリズム」とか呼んで批判する。でも結局、自立できるだけの経済的基盤を生まれながらに持っていない大多数の人々にとって、「公的」なものは重要なのだ。そのことに目を向けず、資本主義的成功者を讃える社会ではいけない、それは国内的にも国際的にも。P.B.はそう言い続けてきた。
 

 不幸なことにP.B.の敵はどんどん強大になっていった。アメリカを中心とする資本主義・市場主義勢力は世界中を席巻している。国のために経済があるのか、経済のために国があるのかわからないほどだ。

 そしてどの国でも、基本的にはアメリカと同じ価値観を持つ指導者たちが立った。サミット・G7・ダボス会議などにはその指導者たちが集い、政治的・社会的問題について討議している振りをしてその実、いかに自国が魅力ある投資先であるかを欧米の金持ちに訴え、資本の回転を助長している。それがロシア・タイ・韓国・ブラジル・アルゼンチンなどでひどい結末を生んだ。

 

 最悪の結末は昨年のテロ事件である。NY、WTCの崩壊はその後の展開も含めて、P.B.が言ったような「西欧の似非普遍主義」、あるいは「普遍性の帝国主義」を露わにした。テロの原因のひとつは明らかに経済的な、古い言い方でいえば南北問題であり、その南北問題を正当化するために「普遍性」とか「理性」が用いられることに対して、イスラム諸国から西欧に対する不信感が呼び起こされていた。

 にもかかわらずこの事件は、政治のみならずメディアや経済界の反応も含めてすべてが「理性/非理性」あるいは「文明/野蛮」の軸に置き換えられ、誰もいま精神的にも物理的にも地球上に深刻な災厄をもたらしつつあるネオ・リベラリズムへの再検討にはなりえなかったのだ。もしそういう検討を試みれば、あの自信満々のブッシュ大統領とその同志から「テロに味方する」「文明の敵」とされたことだろう。そして爆撃をくらったことだろう。
 P.B.は、そんな世情の中で死んでいった。
 庶民の、存在感のある生活に触れていた彼のことだからセンチメンタルな悲観はしていなかっただろう。しかし、敵の圧倒的な優勢の前に無力感を感じつつ逝ったのではないだろうか。僕にはそう思えてならず、彼のために泣きそうになる。
 


 P.B.亡き後。P.B.、事態はさらに悪くなっています。

 アメリカの大統領は、国民から社会保障のために集めた金を減税の穴埋めに回して資本の活動を刺激するとともに、国債を発行して軍事的プレゼンスを拡張し、みずからの誇り高き「理性」を維持拡大しようとしています。そしてそれに協力するように各国に求めています。
 ダボスで行われる会議をわざわざNYに呼ぶパフォーマンス。デモも威力はなく、メディアはもはや力を無くし、せいぜいできることと言えば一般教書演説で起こる拍手の数を予測することしかできない(しかもそれも科学的・数学的アプローチによって!)のです。
 日本では、世界のグローバリズムを体現した元ルノーのNo.2が、予定より一年も前に瀕死の日産を再建しました。驚くほど多くの犠牲とともに。しかし彼はヒーローとして称賛され範とされ、批判の声は聞こえません。それでも国民から高い支持を得ている内閣はアメリカに追随することを表明し、改革はどうやら持てる者の既得権を守りつつ持たざる者の既得権を奪いそうな勢いです。
 P.B.、こんなときにどうすれば「公的」なものを取り返すことができるでしょう?わが国を代表するひとりの知識人が、地域通貨をベースとする新たな共同体の構築を目指し始めたのを知っていますか?むろんそれは十分魅力的な理論ですが、それは多くの人のための理論になりうるかどうか、僕は疑問なのです。
 なぜなら、彼らのいう共同体は十分に公的な性格を持つアソシエーションなのですが、しかし、「公的」なものが自由な参加と自由な離脱を認める“清潔な”ものとして成立しうるのかどうか、僕には確信がないのです。むしろそれはアソシエーションを見事に運営していくリーダーシップに基づく暴力性か、またはテクノクラシーに転化していく危険性をはらんでいると思うのです。
 その意味で、あなたが言っていた「公的」なものについてもっと発言してほしかった。「公的」なものはナショナリズムに発する偏狭なものではない、とP.B.は言いますが、ではどういうものだったのか。ある程度のヴォランタリーを基礎とするものであれば、そのヴォランタリーの性質はいかなるものだったのか。


 そう考えるとき僕は思うのです。P.B.の言葉が難しかったのは、単に文体が難解だっただけではなく、P.B.が、リヴァイアサンによる統制と、公的共同体による束縛の間にある一種の「社会形態」を、いまだ見ぬ言葉で探し当てようとした苦しみのせいだったではないでしょうか?
 その苦しみを知らず、何事も二項対立に持ち込んで明快に分析する、プラトンの言うdoxosopheたちがわが国にもたくさんいます。フランスにはより権威主義的に存在したでしょう。しかしP.B.はそれに対抗しようとしました。人々を覆いつつある事態を知らせるための叢書シリーズを迎い火contre-feuxと名づけました。ネオリベラリズム、グローバル資本主義という劫火に対する迎い火です。(偶然にも、日本のある知識人は資本主義をガンとし、自分たちの運動を対抗ガンと名づけています。)

 その火はいかなる放ち方をすればよかったのか。P.B.にはまだ聞きたいことがたくさんありました。今回の死で、P.B.の著作が大学に巣食うdoxosopheたちの書棚の奥に古典として閉じ込められてしまうことが、僕にとっては痛恨事です。


 わが国では、こういうとき故人を偲びつつ生きる者は明日への希望を語るのが慣例です。P.B.もまた、たびたびペシミスティックになることを戒めていました。

 しかし、いまの僕は(フランスから遥かに離れた東洋の小国にあってさえ)、理論と現実にともに真剣に向き合いうる、影響力があり、かつ、その姿勢と強い意志は、現在の事態に対して建設的な改革をわずかでも志す人間にとっての希望であった、ひとりの知識人を喪失したという、大きな落胆の中に居るより他ありません。


※フランスの社会学者でピエール・ブルデュー(Pierre Bourdieu)は2002年1月23日、パリ市内の病院でガンのため死去した。享年71。以下、私的に紹介する。
1930年に生まれ、若いころはアルジェリア戦争に従軍したこともある。のちコレージュ・ド・パリ教授。フランスを代表する社会学者として活躍した。
 彼のユニークさは、典型的な思想家たち(たとえばボードリヤールとか、哲学者でもポール・リクールのような)のように象牙の塔に籠もることなく現場へ出続け、しょっちゅうストライキを繰り返す労働者たちとの接点を失わなかったことだ。これは、多くの1968年の5月革命の敗北を経験したフランスという国にあっては異色の存在なのだ。

 同時に彼は、典型的なフィールドワーカーたちと違って理論化への努力を怠らなかった。フィールドワークの結果に取ってつけたような理論モデルを当てはめるのではなく、常にそこから理論を抽出しようとしていた。理論化への意志をもたないアカデミズムに批判的であっただけではなく、理論を都合よく利用しようとする姿勢を心底嫌っていた。近年は上述のとおり、グローバリズム、ネオ・リベラリズム批判の論客として世界を代表する存在になっていた。
 彼の著作は数多い。個人的に社会学的研究として面白いのは『ディスタンクシオン』上下と『芸術の規則』上下だが、この4冊は難しいのみならず全部買うと20000円ぐらいかかってしまうのが痛い。よほど暇と好奇心がある人にお勧め。
 なお、上記でも紹介した叢書は「シリーズ社会批判」として、『市場独裁主義批判』『メディア批判』の2冊が出ていて、翻訳にややイデオロギッシュなきらいがあるが、難易度、入手しやすさ、価格ともにお手ごろである。お手ごろと言いつつ、そこに込められた決意と苦悩は感じてほしい。
 合掌。

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