

第86回 貴乃花主義賛否(2002/02/18)
もう一月も前の話になるけれども、大相撲初場所は盛り上がってよかった。両横綱不在だったが、優勝した栃東、準優勝の千代大海、それに琴光喜がテンションの高い相撲を見せてくれたおかげでいい内容になった。九州場所のような無闇に座布団が舞うこともなく、ファンのほうもしっかり評価していたように思う。さすがに東京のファンは一味違う。
相撲人気は低迷してしまって久しいけれども、若貴時代がいささかバブリーだっただけで、この初場所でいわば底を打ったというところだろう。バブル期にはさして相撲を見る目があるとも思えず愛着があるとも思えないファンがやんややんや言って、それに相撲界全体が混乱させられていた節があるが、この不人気のおかげでそうしたいい加減なファンが去りコアなファンが残ったと思えばそれはそれでよかったように思うし、現に相撲のレベルは落ちていない。(余談だが、我が愛する東京巨人軍にもそういう選別的な不人気がいちど訪れてほしいものだ。)
こうなると、あとは貴乃花が帰ってくるのを待つのみである。さして技術がなく、自力と体格で勝ってしまう武蔵丸に対して、貴乃花はやはり相撲道とでもいうべきものを心得ている。横綱として恥じぬ、という意識が根底にあるところが彼をして一流力士たらしめている。個人的には同年ということもあって、是非彼には復活してほしい。
ところで、貴乃花が欠場したのは秋場所千秋楽、前日の膝の大怪我を押して出場した本割、決定戦の武蔵丸との2連戦である。もうみんな忘却の彼方かもしれないが、全勝の貴乃花が足を引きずるような怪我を負いながら出場して本割では武蔵丸に負け、決定戦では勝って優勝を決めた。総理大臣杯授与のときに小泉首相が「感動した、おめでとう!」と声をかけたあの一戦である。
どうもこの一戦が、僕の周りではいまだに評判がよくない。
「あの一戦を勝つことよりも怪我をきちんと治し、次の場所に備えるほうがよかったのではないか」
「あの一戦で無理をしたから、こんなに長期欠場になったのではないか。それはそれで無責任ではないか。」
「怪我をした状態で無理をして出場しても、武蔵丸だって思い切って勝負できないわけだから、そんな勝負はフェアではない。」
挙句の果てには、
「小泉首相の『感動した』っていうのは単純かつファッショ的でけしからん。」
という見解まである。まあそれは貴乃花の責ではないだろうけど。
しかし、違うのだ、と僕は言いたい。相撲はそういうものではないのだ。極端なことを言えば、相撲はスポーツではないのだ。
上に書いたような意見は、ひとつの見識だ。しかもきわめて合理的な見識だ。合理的とは、次のような意味だ。怪我をした状態で出場し、優勝して得られる名声と成果をたとえば+10としてみよう。ただし優勝できる可能性は50%として、実質的には+5だ。しかしこの状態で出場すれば、長期欠場を余儀なくされることは目に見えており、その場合の損失は4場所欠場するとして、もしそれぞれの場所で優勝可能性が50%であれば、損失のリスクは−20となる。つまり、出場した場合の合理的計算による期待値は−10だ。
一方、怪我を理由に欠場した場合、この場所で失うものは−10だが、欠場によって次の4場所の出場を確保すれば、獲得が期待できる値は+20となる。したがって合理的計算による期待値は+10だ。
千秋楽を休んだ場合は+10、休まなかった場合は−10。もし合理的な判断をすれば、とうぜん、休むという選択をとるべきなのだ。なのに貴乃花はとらなかった。これは「非合理的」な判断である、というのが「合理主義者」たちの言い分だ。
馬鹿馬鹿しいと思うなかれ。現実の世界でも、経済的な活動はこんな計算が複雑になったかたちで行われている。反論するものには高度な計算を見せ付ける。
だが、誰が何をどういう場所でどのように数値化するのか。
そもそも相撲はスポーツではない、と僕が言ったのは、そのような合理的な計算がまかり通らぬ世界である、ということが言いたかったためである。相撲は番付の世界だ。番付は、勝ってポイントを重ねれば上位へ行けるというただのランキングとは違う。大関になるにも、横綱になるにも、審議委員会という謎の「有識者」組織の認可が必要だ。これは番付の昇進が成績だけでなく、その他の要素を要求しているからである。いわゆる心技体というやつだ。
さらに、言うまでもないことだが相撲には土俗宗教的な要素がある。僕の子どものころまでは田舎の神社には必ず土俵があり、収穫が終わると田舎の神社で男たちが集まって相撲をとり、いちばん強かった男が注連縄を締めて米俵を担ぎ四股を踏んだ。横綱こそが四股を踏むという地鎮の行為を通じて五穀豊穣の神と交信できるのである(だから土俵入りというのは大変重要な儀式なのだ)。江戸の勧進相撲も近代の大相撲もその流れを汲んでおり、そのことがわからなければ横綱の意義はわかりにくい。
横綱は、勝つということ以外に相撲のポリシーというか、精神を象徴することを求められている。だからこそ横綱なのである。ただのランキングであれば、調子が悪くて弱くなれば下位に落ちて再起を期せばよい。実際、大関は負け越したら落ちる。だが横綱は弱くなって負け越しても、どうしたらいいか決められていない。「横綱」という概念はそもそもそういう事態を想定していないし、もしそういう事態が発生すればそれは「横綱」ではない、というゼロ記号、あるいはトートロジーがこの世界の中核をなしている(過去には大乃国が負け越したことがあったけれども…)。
だから、怪我をしましたので千秋楽は休みます、というのでは横綱ではないのだ。横綱に求められているものを知っているからこそ貴乃花は出た。もし怪我をして相手に同情心を起こさせる状態で戦うのがフェアでないというのなら、そういう相手にみすみす心の隙を見せてしまう人間こそ「横綱」にふさわしからず、というのが僕の意見だ。貴乃花のストイックな姿勢には、バブリーな相撲人気で合理主義の跋扈を許し、「ただのスポーツ」に成り下がってしまいかねない大相撲への批判が垣間見える。
相撲は他のスポーツと違ってきわめて特殊だ。もちろん無慈悲な苛めがあっていいとは思わないが、精神の部分で「非合理的」要素を孕んでいるのは否めないし、むしろそれを持っていなければ相撲は、いやもっと極端に言えば文化というのは存在しない。
合理性というのはそうした非合理性に支えられている部分があるが、最近の頭のよい人たちはなかなかそこのところがわからない。すべてが合理的な世界なんて何て非合理な!
非合理な、無理無体な理由で人々が苦しむのはよろしくない。そういうことを擁護したいのはない。高校野球に非合理な「健全さ」を求めるお爺さんたち(選抜の出場校を選ぶお偉方はまるで横綱審議委員面である)には言いたいことは山ほどある。それは簡単にいえば、野球というスポーツをダシにして意味不明な精神論を騙らんとする横暴さだ。
だが相撲はそもそもの出発点にある精神論を抱え込んでいて、それがなくなれば相撲でなくなる。相撲にしても祭礼にしても男女差別的なところはあるし、階級差別的なところはある。しかしそれがゆえに文化が支えられているという側面もあることから、目をそらすな、ということだ。僕の見解に反論があってもいいけど、目をそらしてはいけない。
自分に害がないかぎり、そうした文化的側面はある程度保持されてもやむを得ないのではないか、と近頃思ったりもするのである。進歩派市民運動家の方々は、それでも、土俵に女性が上がれないということで精神的苦痛をお受けになるのかもしれないのだが、当面僕は角界の慣習で苦痛を受けることはない。
もっとも、そうした精神を余計な部分まで拡張するのはよろしくない。貴乃花は偉いだろう、だからお前も同じようにやれと日常生活の職場で言われるのはたまらない。そこの分別はしっかりしておきたい。そういう意味では、小泉首相の「感動癖」に注意せよ、という指摘は当たっているのである。
さようなわけで、人々は合理主義一辺倒の世の中に、意地を張った貴乃花に拍手を送るわけである。ただ貴乃花ももう30歳だ。かの大鵬が32回というとてつもない優勝記録を残して引退したとき、30歳だったのだ。二子山親方(先代大関貴ノ花)が大鵬に初挑戦した年のことである。回復が早いうちに早く帰ってきてほしい。そして角界の精神を保ってほしい。
幸い、今度の内閣改造で、おそらく歴史上もっとも横綱たらんとし続けた横綱・北の湖親方が相撲協会の理事長に就任した。どのような方針を組み立ててくるのか、しばらく注目したい。
※ところで最新号の『週刊ポスト』に北の湖新理事長のインタビューが載っている。これは驚くべきことだ。『週刊ポスト』はかれこれ20年以上に渡って大相撲の八百長疑惑を追及し続け、一時は協会を瀬戸際まで追い込んだこともある。(果ては八百長疑惑だけでは足りずに、元関脇琴錦の二股疑惑とかまで追及してたけど。)
そんなわけで国技館に出入り禁止だった『週刊ポスト』のインタビューに理事長が応じたというだけでも驚きなのに、北の湖理事長はちゃんとまじめに答えているからなおさら驚きで、インタビュアーのほうが飼いならされた感すらある。さすが北の湖理事長、頭脳のほうも只者ではないとみた。角界に関心のある者は急ぎ手にとるべし。