
第96回 政治家の仕事(前編)(2002/03/31)
政治家の仕事とは何だろう?
この世には世論とか民意とかいうのがあって、世論調査というのが新聞やらテレビやらで盛んに喧伝され、その支持を熱烈に受けた首相が、これまでの政党政治の常識を覆すかたちで組閣の大命を受けた。
一方で、「庶民感覚」を代弁する、元首相の娘がその首相を最初は指示し、後に恨み節とともにこき下ろし、彼女への支持は増え首相の支持率は下がっている。
首相の支持率を下げた原因のひとつは、自党の有力代議士の疑惑だったが、まさに「庶民感覚」で彼を追及した野党の有望な女性代議士は、迂闊なことに身内のカネの不始末が発覚してこれまた庶民感覚で辞職に追い込まれた。
世論とか、民意とか、そういうのがつまらないものだと言っているのではない(まあ半分は言っているのだが)。
この国が民主主義国家である以上、そして僕が、日本は一党独裁国家でも啓蒙君主国家でも女性にスカーフを巻くことを強制する宗教国家でもたったひとりの首領様に忠誠を誓う人民民主主義国家でもなく、フツーの議会制民主主義国家であってほしいと考えている以上、世論とか民意とかを否定することはない。
が、しかし、である。世論とか民意とかのみで政治を動かすのであれば、政治家も議会も必要ない。マスコミがいう民意を信じるならば、できうれば久米宏さんと筑紫哲也さんと田原総一郎さんに政治の総てを任せておくがよかろう。さすればたいそうな善政となろう。
でも、そうはならない。彼らが無能だから、というのではない。政治というのは、政治家というのは仕事の種類が違うのである。庶民の声を代弁することは政治家の仕事のひとつだろうが、しかし、庶民の声をそのままに拡声することが政治家の仕事ではない。
政治とは、あるいは、政治家が果たすべき役割とは?どうもそれがいま、政治家も、マスコミも、主権者であるわれわれにも見えにくい。咎のひとつは、わかりやすくてきれいな政治を求めた結果であろうけれど。
ちょっとここで、三権分立の話をしたい。
僕は法学を専門的に勉強したことはないので、以下の三権分立の知識は高校生の「公民」のレベルである。
フランスの思想家モンテスキューが『法の精神』に書いたところによれば、権力の独占を防ぐためには国家を統治する権力を立法権、行政権、司法権に分けるとよい。
そしてこの三権をそれぞれ独立性のあるものとして、互いの暴走を牽制するシステムをとるべきである。また、民主主義国家として、主権者である国民の投票による権利の裏打ちを三権それぞれに与える。もし主権者である国民が三権を認めない場合は、選挙によってこれを交代させることができる。
わが国では、立法権が国会、行政権が内閣、司法権が裁判所(最高裁)に属している。主権者の選挙によって選ばれた議員たちが国会を構成し、これのみが立法の権限をもつ。一応、憲法で国会が国権の最高機関ということになっている。
行政権は内閣に属し、省庁が実際には行政を行う。これに対して国民は直接的に選挙権をもたない。主に国家一種試験をパスした頭脳優秀な官僚たちが仕事をしているわけで、国民が官僚を選挙で選んでいるわけではない。議会によって承認された内閣とその各大臣が責任を持って各省庁の行政を掌握する、ということになり、いわば間接的に関わるわけである。
司法権は、司法試験をパスした法学の専門家のうち裁判官になった者たちが組織を構成する。これも、国民が選んでいるわけではない。10年に一度あるかどうかの「最高裁判所裁判官国民審査」なるものがあって、最高裁判所裁判官のうち辞めさせたい裁判官の名前に×をつけるというのが衆議院選挙と一緒にある。これが、主権者によるコントロール、ということになる。
かくして、三権が、主権者の承認のもとに確立している、というのが三権分立の基本的な考え方である。
だが、三権はわれわれの意志を直接反映しているわけではない。われわれの意志による裏打ちはあるが、それぞれの立法行為、司法行為、行政行為はわれわれのいちいちの判断に基づくものではない。
たとえば、いちばんわかりやすい「司法」を例に考えてみよう。
わが国では陪審制をとっていないので、われわれ国民は裁判を傍聴するだけで判断に関与できない。判断は、法のロジックの専門家である裁判官、検察官、弁護士の間の討議によって、法のロジックにしたがって決定される。法のロジックの専門家ではないわれわれは、司法判断に関与できない。
これはときどき、民意との齟齬を起こす。
先日、二年前に山口県光市で奥さんと11ヶ月の赤子を絞殺した19歳の少年に対する判決があって、無期懲役だった。ニュースの扱いは小さかったけれどもこれはとんでもない事件で、女を犯したいと団地をウロウロしていた少年が旦那さんが留守中の家に侵入し、奥さんに暴行したが抵抗されたため絞殺、しかも死体と事に及び、泣きながら母親の死体に近づいてきた赤子をさらに絞め殺したという書いているだけでも怒りが爆発しそうな事件だ。残された夫は僕より若く、これから背負っていくものは絶望的に大きい。
こんな人非人は吊るし首なんて緩すぎる、手足釘で打ちつけた上で身体を膾のように刻んで、そこに塩でも埋め込みながら悶絶させてやるべきだ、お前が殺した相手の苦しみを思い知れ、と、まあちょっと過激だがそれに近いことを僕は考える。少なくとも死刑は当然だ。
しかし判決は無期懲役だった。通例からして7〜8年で出所、その後は娑婆の生活ということになるだろう。旦那さんは「法が裁けないというのであれば、自分が殺しに行く」と言っていたが、気持ちはわかる。僕が同じ立場だったら、出てきた相手を殺しに行くだろう。死刑か、さもなくば私刑。だが司法はその前者を認めず、後者を許さない。
当然「民意」に基づく、あるいは「民意」との乖離を非難する意見はあったが、しかし、それは却下された。なぜなら法のロジックに即していないからだ。法のロジック=法理とは、暴君や悪代官のわがままな決定を防ぐべく、誰にも等しく適用するよう決定されたルールだ。それは「民意」から乖離することがあるかもしれないが、しかし、それはわれわれを守るものでもある。
もう一例を挙げよう。いわゆるロス疑惑の三浦和義氏の例だ。あれだけの疑惑と状況証拠、おそらく、やったのだろう。奥さんを誰かに依頼して殺し保険金を手にしただろう。だろう、と思う。世の大半の人がそう思っただろう。
だが、東京地裁の第一審はひどいものだった。三浦被告、無期懲役。氏名不詳の某人と共謀し、奥さんを保険金目的で殺害、である。これは司法が「民意」に従属したケースだ。名無しのごんべさんと一緒にやったので君は無期懲役、なんてことがまかり通ったら、いつ何時われわれも有罪にされるかわかったもんじゃない。黒に近くても灰色であれば、それを黒と証明できなかった警察、検察の力のなさを責めるべきであって有罪にすべきではない(控訴審では東京高裁が無罪判決。当然だ)。
主権者の承認はあるが、それをそのまま反映させるわけではない。そのことが、独立した「司法権」に必要なのである。それが、絶対的な主権者が存在しない国家体制にあっては重要なのだ。「民意」から見れば、それに適うときも適わないときもある。もちろん、そこには誤りもあるだろうけど、それをリスクとして吸収しながらやっていくのがいまのこの国の体制だ。
(後編に続く)