

第97回 政治家の仕事(後編)(2002/04/01)
(承前)
ひるがえって、政治家の舞台、「立法権」あるいは「行政権」ではどうだろう。むろん、司法ほど厳格ではなく曖昧なのだが、それでも考えることは現状を分析する一助となるだろう。
一昨年の徳島県・吉野川河口堰のときに、住民投票をめぐって「民主主義の誤作動」と言った大臣がいた。住民投票とはまさに、直接的な民意の反映である。それが民主主義の誤作動だとは僕は思わない。だが、それだけで政治ができるわけはもっとない。
簡単な例を考えてみよう。
今日、「所得税の大幅な減税を行うか否か」という国民投票をやれば、圧倒的多数で承認されるはずだ。
一ヵ月後、「社会福祉事業の減額」という国民投票をやれば、圧倒的多数で否決されるはずだ。(主権者は万能であって、数千万の有権者すべてがこの相反する二つの命題を完璧に成立させる方策を考えることができる、と考える理想主義者さんはこの議論の埒外である。)だがもちろん、民意が顕在化するための機会は重要である。
政治家の仕事とは、そうした顕在化した民意を吸収し、発言へあるいは政策へと練り上げていくことだろうと思う。
庶民感覚を持つことは重要だろうと思う。だが、それが政策と化すとき、庶民感覚だけではやっていけないはずだ。相異なる「民意」を調整し、利益を分配し、損益が出るところは説得する。だから政治家に弁舌とロジックは必要なのだ。そしてその作業を、与えられた舞台に合わせてやっていかなくてはならない。
たとえば、この間の証人喚問を考えてみる。
鈴木宗男さんは「根室の人たちのために」「北海道のためになると考え」と、「有権者」のためにしたことである、と述べ続けた。
しかしこれは二つの点で間違っている。ひとつは、国会議員という国政に携わるものでありながら特定の地方に肩入れしたこと。彼が国会議員である以上、根室の有権者の意見も東京の有権者の意見も対等に聞くべきなのだ(キレイゴトとは知りつつ書きますが)。
もうひとつは、「民意」をダイレクトに反映させすぎ(むろん言い訳に過ぎないが)たことである。そこに政治家としての技量や仕事が介在していない。
宗男さんを攻めた辻元清美さんにも僕は不満がある。
彼女が宗男さんを「嘘つき」と呼んだことだ。証人喚問という場にあって、かたちとしては、限りなく黒に近い被告に向かって検察官が「おい犯罪者」と呼ぶのと同じことだ。
おそらく、宗男さん、ロシアと通じていただろう。密漁を逃れる手形を発行し、外務省の役人を小間使いし、NPOの代表を怒鳴りつけ、役人の顔を殴っただろう。だろうが、それが真実かどうかを明らかにする場にあって、「嘘つき」と呼ぶのは、苛立ちといい痛快さといい庶民受け、世論受けはするだろうが、政治家としては失策だ。自分のロジックの敗退を認めたに等しい。
田中真紀子さんも同じことだ。
いまは庶民感覚で言いたいことを言って受けているが、それは政治家の仕事ではない。もし彼女が自分と違う民意とぶつかってどうなるかといえば、外務省とのいざこざから推して知るべしだ。もしそれを、たとえば「気に喰わない議員の質問を止めさせろ」というようなことになれば、それはもはや三権分立でも議会制民主主義でもありはしない。
いくつもの「民意」に対して硬軟織り交ぜ、清濁併せ呑み、公明正大な手と後暗い手を駆使しながらでないと自分の意志は達成できない、そのようにこの政治体制はできている。世論をその方向へ練り上げられない政治家は、政治家としての力量に残念ながら劣るといわざるを得ない。
そして問題は、そういう「劣る」政治家が圧倒的に増加しているだけでなく、有望株として注目されていることだ。どうしてそんなことになってしまったのか?
長くなったので残りは簡単に書くが、立法も司法も行政もそこに「練り上げ」「組換え」「解釈」といったものが存在するかぎり、大きな意味でひとつの「文化」と呼べるだろう。
そして、「わかりやすさ」、「合理性」、「比較選択」、「目立ちやすさの誇張」、「短期的な視点」といった経済的(グローバル資本主義的?)な、思想的には「新自由主義(ネオ・リベラリズム)」的な風潮が、「文化」の崩壊を加速させている。
見るからに政治家、といった風貌風格の人はいまほとんどいなくなってしまった(せいぜい中曽根さんか。それもさびしい)。そして、下手に風潮に乗り浅はかな経済理論武装をした若手が跋扈している。
わかりやすいのはいいことだ。だが、わかりやすくするにも技術がある。
単純なわかりやすさが流布すれば、国家的な単細胞化と白痴化が進むだけである。そして最悪なことは、そこで、啓蒙君主の衣をまといさらにわかりやすさを説く暴君的な指導者が登場することではないのか。
それこそ、左派諸君が「敗戦によって乗り越えた」と信じている道ではないのか。その左派諸君たちがいまや中心となって、さして政治的な力量があるとは思えないが政治文化を「旧弊」と攻撃し崩壊させているネオ・リベ的若手政治家を礼賛しているのを見ていると、みずからが潰した道を逆戻りしているかのようで、「右翼ナショナリスト」としては何とも複雑な感慨に捉われるのである。