第104回 日本サッカーの現在・過去・未来(2002/06/18)

 

 サクラチル。日本代表チームのワールドカップが終わった。

 僕はそれほど熱烈にサッカーをみているわけではない。でも今日の2試合は、感じるものがあった。

 

 まず日本戦。

 久しぶりに、全身全霊を込めて試合を見た。試合中は喉が渇き、全身が上気し、試合後は虚脱した。こんなに熱が入るのは、5年前のジョホールバルでのイラン戦以来である。予選リーグを平気で見ていたのに、決勝トーナメントになった途端こうなったのはやはり試合の重みだったろうか。

 日本代表はよく戦った。トルコは個人技でもスピードでも日本を越えていたが、そうしたチームと戦う組織力を日本が持っていることは存分に見せてくれた。そしてサッカーという競技の性質上、戦力のポテンシャルがたとえ8対2で負けていても、運が味方すれば試合に勝つことができる。だから日本は、そのために戦った。よく戦ったと思う。

 むろん、勝てる試合でもあった。小野選手が言ったように、負けた気がしない。失った1点は、コーナーキックで相手の長身選手をフリーにしてしまうというあまりにも基本的なミスの故だった。さらに言えば、そのミスは、最終ラインでのパス回しをカットされて、かろうじて中田選手が追いつき、ゴールラインに逃れたというイージーなものであり、その悪い流れの中でおそらく選手の集中力がふっと途切れていただろう事を思うとなおさら惜しい。

 よく攻めた。雨中の試合でボールコントロールがままならないながらも、三都主選手はよく走ってあと一歩というチャンスを作った。後半、右サイドの市川選手の上がりは何度も絶好のチャンスを作っていた。僕はテレビを見ながら、あと一回、あと一回右サイドからクロスを上げてくれ、と祈っていた。

 NHKの中継解説だった加藤久さんは、「中央フリーになる中田英が左サイドに流れ、相手をひきつけたところで大きなサイドチェンジをすれば点につながる」と何度も繰り返した。その通りだと僕も思った。だけど中田英選手は右サイドからの小野、鈴木両選手を使いなかなか市川選手を使わなかった。

 残り5分での、市川選手と森島選手の交代は、もう時間がないのでなりふりかまっていられない、サイドからの攻撃を諦めて中央から攻めよう、という交代だ。作戦変更なので理は通っているが、結果論から言えば5分遅れた感が否めない。何より、負けているチームがあと5分で選手交代をするというのはいささか暴挙にも思える。でも、それでも組織、システムを重視したのがトルシエ監督の代表チームだった。

 このチームは3年半、それでやってきたのである。決定力不足、と批判するのは簡単だ。確かに今日の西沢の動きは悪かったが、それでもまずまずだった。このチームで西沢に期待されているのは点を取ることよりも、チャンスのポイントになることのほうだからだ。何より、この国に点を取れるフォワードがいるだろうか?その育成を怠ったとトルシエを責めるのは酷である。FWが育たない咎の過半は、外国人FWに頼るクラブチームにあるだろう。その選手層を抱えて代表チームを作るとき、このチームの選択は、「組織力」だったのである。

 

 3年半、われわれと連れ添ったトルシエ監督とも、おそらくお別れである。

 彼の業績で忘れがたいのは、アジアカップ制覇である。中田英と衝突しながら、名波を軸にして鮮やかにアジアを制したあの戦いをいちばんよき思い出としたい。そのほか、フランスに0−5で負けたかと思えばスペインと接戦を演じ、イタリアと引き分ける。不思議な監督だった。日本社会との軋轢もあった。詳細は別項に譲ろう。ただ、日本にこれほどの「組織力」を植付け、同時に、過去の実績に捉われない競争原理を導入して選手層を分厚くしたのも彼の実績だ。FW鈴木選手は、トルシエの申し子といってよい。

 土壇場このワールドカップ前になって、チーム全体の調子が少し下がり気味になったのが不幸といえば不幸だった。チームの調子が落ちただけでなく、森岡、小野、西沢、高原、名波各選手の怪我が痛かった。高原、名波は帰ってこず、森岡は出場1試合のみ、小野は全試合に出場して軸となったが、その活躍はどちからといえばディフェンシブな面に割かれ、攻撃にはあまり見られなかった。彼にしては精度の悪いクロスやフリーキックが彼の体調の悪さを物語っていた。

 今日の西沢、そして出場しなかった柳沢、途中交代の稲本各選手の疲労もみてとれた。その意味では、ここまでだったのかもしれない。トルシエ監督は自分の実績に満足していることだろう。この結果をもってすれば、監督にも、代表選手にも、日本サッカー界にも明日がある。まあ惜しかったが悪くない。

 

 僕もそう思い、今日は家に帰ってひとりトルシエ・ジャパンとの惜別の麦酒でも飲むか、と思い、早めに会社を後にした。

 しかし、その酒のつまみとなるはずだった韓国−イタリア戦の凄絶さに、酔いどころではなくなってしまった。

 序盤、安貞桓選手がPKを外し、それほど時をおかずヴィエリ選手が得点を入れると、もうイタリアの勝ちを確信した。自慢のディフェンス陣はマルディーニを中心に崩れる気配を見せず、逆にデル・ピエロが何度も得点機をつかんでいた。けれども、何か不穏だった。スタジアムの熱狂は常軌を逸していたし、韓国チームの選手たちの目はもう理知的ではない何かを見ていた。

 後半、デル・ピエロを下げてイタリアが逃げにかかる。間違った選択ではない。でも結果論から言えば先に動きすぎたのかもしれない。そこからの韓国の攻めは尋常ではなかった。全選手前がかり、しばしば決定的なカウンターを浴びながらの波状攻撃である。見ている者の興奮を掻き立てる。韓国サイドの人間のなかでただひとり冷静なヒディング監督は、何とDFの中核洪明甫を下げ、攻撃しか能がない大学生の車ドゥリを投入した。何を考えているんだ、と、トルシエ・ジャパンに慣れた僕の脳味噌が悲鳴をあげた。

 その攻めは、狂気だったし、また、背負っている何か、目指すべき何かがイタリアの選手と韓国の選手とではまったく違うことを印象付けた。優雅に振舞う貴族の剣捌きに向かって、獰猛な野獣が牙をつき立てるようなものだった。イタリアの強烈なカウンターアタックにさらされた韓国DF陣の中に、洪明甫に代わって、FW柳想鉄の姿があった。若手が狂ったように前がかりになっているとき、ベテランの彼はギリギリの体力を使ってゴール前に戻り、DFを支えていたのだ。馬鹿馬鹿しいが、胸が熱くなった。

 牙は、貴族の象徴トッティが退場させられた後の延長後半についに突き刺さった。動かない足をかき回し、プライドにかけてボールを競ったイタリアDFの頭の上に、2時間前にPKを外した安貞桓選手の頭があった。今日、あれだけ当たっていたGKブフォン選手で止められなかったのだから、仕方がない。

 

 韓国の勝利は賞賛に値する。なにせ、アジア勢のベスト8は、イングランド大会の北朝鮮以来である。ヒディング監督の采配も完璧だった。

 ヒディング監督は言うまでもなく、前回大会では予選リーグで韓国を完膚なきまでに叩きのめしたオランダ代表監督としてベスト4まで進んでいる。かつて華麗な攻撃サッカーの一翼を担ったオランダらしく、オフェンシブなサッカーがスタイルだ。システム重視のトルシエサッカーを長いこと見せられていたわれわれの目には、その采配は「いいか、サッカーというのはな、相手ゴールにボールを蹴りこむスポーツなんだ」と言っているように見えた。

 トルシエ采配を、精神論で批判するつもりはない。トルシエジャパンだって闘志においては負けていなかった。(観衆の熱狂振りではさすがに負けていたかもしれない。仙台なら負けても拍手で送られるが、大田のスタジアムでは負けられない、きっと。)

 ただ、残り5分、なぜ明神か戸田ではなくて、そこまで何度もいいクロスをあげていた市川に代えて森島投入、だったのか。守りを半ば捨ててでも、サッカーというのはゴールを取りに行くスポーツなんだ、と言えなかったのか。

 トルシエならこういうだろう。「日本に、デル・ピエロがいるか?ラウルがいるか?せめて柳想鉄、安貞桓がいるか?」いない。いないなら、いないなりのサッカーをしなければいけない、というのがトルシエ監督の考え方だ。

 しかしヒディング監督は、就任以来、グーリットも、ライカールトも、ファンバステンも、オーフェルマースもゼンデンも、もちろんクライファートも、過去にも現在にもいなかった韓国で、攻撃的なサッカーを作り上げた。結果論で是非を言うのは卑怯だけれども、日本が次、誰を監督として招聘し、どういうサッカーを目指すのかの鍵はここにあるように思う。


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