

第105回 「成り上がり者」の逮捕に思う(2002/06/20)
鈴木宗男代議士(われわれ国民によって選出された代議士であるからして、決して「ムネオ」などとカタカナで貶めることはすまい)がついに逮捕された。いささか別件逮捕の観は否めないけれども、今後、彼にまつわる疑惑の全容が解明されることを願う。その意味するところは、彼のみをスケープゴートにするのではなく、それにまつわるすべての人々の関与と責任を明らかにして欲しい、という「公正さ」への願望である。
日記などで、僕は、宗男さんに対するアンビバレントな記事を書いてきた。それを批判するメールもいただいた。だが、アンビバレントの意味するところは、以下のようなことである。
まず、ひとりの納税者としては、税金を自分の選挙区にバンバンつぎ込んだことに憤りを感じる。意味のない北方領土への投資だけならまだしも、日露交流を名目として来日したお嬢さんたちを侍らせて六本木で飲んでいるのは許せない。これは、誰しも批判するところだろう。
しかしながら一方で、「成り上がり者」を体現したような宗男さんが逮捕されるというのは、今の政治を覆っている悪い流れを加速させるのではないか、という危惧がある。そのことを、詳しく書きたい。
宗男さんの来歴は、今日のニュースなどでさんざん放送されていたので言うまでもないかもしれない。かつて、北海道出身で将来の首相候補といわれた故中川一郎代議士の秘書を、拓殖大の学生時代から務めた。昭和58年、いまだに宗男さんの暗躍が囁かれる中川代議士の謎の自殺のあと、中川氏の息子と骨肉の争いを覚悟で立候補。自民党の公認を取れなかったにもかかわらず当選した。
以後、経世会にぴたりと寄り添い、金丸信、野中弘務と仕えて来た。卓越した集金力は報道されている通りである。脂ぎった、かつアグレッシブな活動態度。上に対しては徹底的に卑屈、下に対しては恫喝するほど高圧的。媚を売って出世の階段を上り、上った階段は徹底的に活用して人を追い込む。
これを成り上がり者と言わずして何と言おう。いまの政界の中で、政治の汚い部分を知りぬき、人情の機微を知り抜いてそれを賢しく活用する、泥水をすする政治家は貴重である。成り上がるためだったら何でもする。師匠を自殺に追い込むことも厭わない。そんな政治家は貴重であり、重宝されるのは当たり前だ。
しかしこれを逆に見れば、宗男さんのような政治家が貴重なほどに、他の大多数の政治家が無味乾燥に成り果ててしまった、ということもできる。何を言わんとしているかといえば、あまりに二世議員が増えすぎているのだ。国民生活の現場を知らないでも、政治と金の動きを知らないでもやっていける政治家が増えすぎたのだ。
むろん、小泉首相は祖父の代からの衆議院議員である。一度落選したから多少の苦労をしているとはいえ、財務、厚生、防衛の3つには血筋もあって顔が利く。最近妙に権力者めいてきた“I hope so”の福田官房長官の父親は故福田赳夫元首相である。
余談だが、その政敵だった故田中角栄元首相の娘さんも代議士だし、その夫も代議士だ。時折テレビに顔を見せる安倍晋三官房副長官の父親は、ポスト中曽根の首相までもう一歩というところまで行った故安倍晋太郎代議士だ。ということは、祖父のひとりは安保闘争のときの故岸信介首相だ。そして岸さんの前の世代で、吉田茂と保守勢力を二分した故鳩山一郎元首相の息子は、かたや自民党の議院運営委員長、かたや野党第一党の党首におさまっている。
いまや、野党もそうなのだ。共産党の代議士ですら世襲が増えてきた。「鳩山さんはね、政治がなくても生きていける人なのよ。だから、言っていることがわけわかんないのさ」という松山千春の弁は正しい。
もちろん、政治家の世襲は昔からあった。だが、昔と比べて今なくなったのは、人材を見抜き、金をかけ、それぞれの人物に育てるという美習である。吉田茂は熱心に佐藤栄作を育て、彼の絶体絶命のピンチには同志の犬飼法相を使って逮捕を止めさせた。その佐藤は田中角栄を一人前の政治家に育て、腹芸役として金丸信をつけた。直系でないながら田中に私淑した中曽根康弘と後藤田正晴。そして田中自身は、最後に裏切られたものの竹下登を育てた。竹下は小渕恵三を育てた。腹芸役は青木参議院幹事長である。
このように、かつては、二世なり官僚なりのなかから逸材を見つけ、トップはトップなりに、補佐役は補佐役なりに育てる人がいたのである。そのための金も使った。中にはハマコーさんのように、役職にはほとんど関与しなかったが彼なりにポジションを与えられ、幸福な代議士人生を全うした人もいる。
しかしいま、そのように、人を育てようという気概の代議士は見当たらない。したがって、自分の思うままの政治を行い、汚い部分には手をつけない。その格好の引き受け役として宗男さんがいて重宝されたのである。昔の泥かぶり役は、それでも、誰かを補佐しているという気概があったろうし、その気概を与えてくれる先達がいた。しかし宗男さんにはいなかった。ひとりでなりあがって、重宝され、捨てられた。文字通りの古雑巾である。
さて、どっちの時代がいいのだろうか。政治家どうしの結びつきが密接で面倒でも後輩を育てていた時代と、個人個人が勝手に政治家をやる時代。
前者は、もちろん、階級的なものにつながっていく。庶民階級と政治家階級である。でもこの状況のいいところもある。社会には階級がある、という現実に意識的になれるところだ。そのうえ、政治家階級が、庶民階級の面倒を見てやらねばならない、というノブレス・オブリージを持ってさえいれば、この社会はうまく行く。国家、あるいは政府としての政策意識の一貫性が保たれるのも捨てがたい。
後者は、平等社会である。だが、社会には階級があるという現実に気づかないし、目をつぶる。小泉さんの「感動癖」は庶民に受けるが、その実、庶民階級の問題などまったくわかっていないだろう。結局のところ、X Japanを歌うのが好きな、そしてその程度のことで大衆に受けると過信しているボンボンである。他の政治家も大同小異だ。
だからこそ、投票率は下がる。政治不信は増大する。だがその不満を政府にぶつけて政治から離れていると思っているのは大衆だけである。現実は、庶民階級は選挙を通し、小泉さんの支持率を通し、あるいは世論調査を通して不満をぶつけることによって政治に「関与」できているように見せかけられている。その「見せかけ」が、庶民階級の苦労を増す政策の通過をオーソライズする。
その構造の背景にあるのは、小泉さんたちの意識の根深にある「同階級」意識である。われわれのためにやっていることだ、われわれはみんな平等だ、そういって政策は決定される。だがどうやらそれは社会の現実に目をつぶっている。それだけでなく、現実には平等ではないのに平等であるという仮定を設けることで、これから庶民大衆をふるいにかけていくことになるだろう。それはまず、経済的なものとしてあらわれる。このドサクサの中成立しそうな医療保険法案など、その典型的な例である。そして生き残るのは、政治家たち上層階級なのだ。
本来政治というものは、清濁併せ呑むものである。人間に欲望があり、誰だって楽な暮らしがしたくてたくさん金が欲しい以上、その分配過程では泥水を啜る人間が必要になる。かつては、政治家がそれを意識していたし、意識しつつその役割を担う人間がいた。
いつごろからか、政治家も大衆も清ばかりを望むようになった。政治家は清のポーズを取るようになり、濁は、秘書なり、宗男さんのような特定の政治家に押し付けて事足れりとしていた。ばれたら、それを切り捨てる。誰も清濁併呑を意識しようとしないし、目を瞑り、清ばかりを見てそれでは生きていけないことを悟った人間は濁ばかりを見る。だがその清は、いま、庶民大衆のためにはきっとなっていない。むしろ、われわれ庶民大衆の前の道を暗くしている。
問題の根は深い。鈴木氏の逮捕に際してマスコミ各社はヘリを飛ばし、この事件が、一度検察が立件を見送ったことにすら触れず、ひたすら、鈴木宗男というゴウツクな成り上がり者が苦しみ、転落していく過程をドキュメントタッチで報じる。そして視聴者はそれに喝采を送る。でも、われわれにとって本質的な部分については、喝采を送るような話ではないのだ。よりたちの悪い階級社会がどうやら、口を開けて待っているような気がする。