
第107回 針小棒大・日韓蹴球文化論(2002/06/27)
あらかじめ断っておく。サッカーのプレースタイルや応援にそれぞれのお国柄=文化性があらわれるのは当然のことである。しかし、それをもってひとつの国の文化を論じられるほど、文化というものは甘くない。
だから、以下に書くことは、このFIFAワールドカップ2002Korea/Japanの観戦の中で思った文化論的な事どもをあえて針小棒大に描いている。もちろん、一方で「神は細部に宿りたもう」という格言もあることだし、そこに一片の真理は含まれているかもしれないが、論を根拠に誤解されることだけは避けたい。以上、一言しておく。
今回のワールドカップ最大のニュースは日韓の躍進であろう。いや、そう書くと偏向的に思えるほど、ベスト16に終わった日本と、ベスト4まで進んだ韓国の差は大きい。
そして韓国の勝利には常にゴシップがついてまわった。アメリカ戦での「オーノ・ダンス」、ポルトガル戦での不可解ともいえる猛攻、イタリア戦、そしてスペイン戦での、明らかに誤審と思われる、それでいてことごとく韓国に有利に働いたジャッジ。相手チームに与えられる容赦ないサポーターのブーイング、狂気のような応援。
もちろん、僕は現場を見ていない。だから、確信をもって書いているわけではない。ただ、そのことを、韓国に敗れた各国、そして、隣国の快進撃をいささか複雑な気持ちで見つめている日本から、快く思っていない発言が相次いだ。
取るに足りない戯言の応酬が相次ぐなか、スポーツ関係サイトとしてはおそらく最良の質と速度を保つスポーツナビで交わされた議論はなかなか魅力的だった。かたや、日韓をイングランドとスコットランドに喩えて韓国批判する主張を擁護するものあり、99年のラグビーW杯に喩えて他国のプレーに不寛容な日本を批判する主張があったり。
これについては、往復書簡を交わしているYas-Igarashi氏も書いている。そして氏が言うように、二つの意見はどっちも正しく、そして、どちらも少しずつ間違っている。そして氏は、今大会を「終わりの始まり」ではないかと言っている。正しいと思う。
ただ、その理由として、この稿ではあえて特異な理由を挙げよう。イングランドとスコットランド、あるいは英仏にたとえて日韓関係を考えることの誤り。サッカーを思い切り外から眺めて見えるもの。
それは、日韓両国がヨーロッパではなく、東アジアにある、ということだ。南北アメリカでなく、南アジアでなく、アフリカでなく、中国ではなく、東アジアにある、ということ。飛躍ではある。であるが、この意味を少し誇張して考えたいのだ。
誰が何と言おうと現実として受け止めなければならないこととして、近代世界(政治、経済、文化)はヨーロッパにおいて作られた。そして、植民地を介してそれが世界中に広まった。
そのことは、スポーツの世界にも当てはまる。相撲でどんなに強くなっても、それは世界的には意味をなさない。せいぜいオリエンタリズム趣味のシラク・フランス大統領の喝采を浴びる程度である。だが、サッカーで、あるいはテニスで、あるいはラグビーで、ヨーロッパ母体のスポーツで勝利することは、意味合いが違う。
だが所詮、それらのスポーツはヨーロッパのものである。ヨーロッパの文化である。ヨーロッパの国々が主流をなし、そのスポーツにおいて「美しい」と呼ばれるスタイルを決め、ときにルールを変更する決定権を持つ。
そこに、その世界に、そのシステムに、ヨーロッパ以外の国々、ヨーロッパとは違うシステムを持つ国々が入り込んでいくことができるか。残念ながらそれは困難なことだと言わざるをえない。過去の世界史上、みずからのシステムをみずから改変し、自らの意志でヨーロッパ・システムに飛び込んでいった非ヨーロッパ国はひとつしかない。
もちろん、それは日本だ。台湾・朝鮮を併合していた事情を考えれば、東アジア世界のみだ、と(批判覚悟で)敢えて言おう。巨大な中国、意欲的なはずのベトナム、おとなしいタイ、いずれも自分からヨーロッパのシステムに飛び込むことをしなかった。白人とその混血によって制圧された南北アメリカ、骨抜きにされたアフリカ、いまだ結束した近代国家として成立しない中東・南アジアは言うに及ばない。そのいずれでもなく、東アジア世界だけが特異な歴史を歩んできたのだ。
それは紛れもなく、「近代化」の過程であった。19世紀後半に東アジアを襲った「近代化」。今回のワールドカップにおける欧州の反応、そして日韓の反応は、そのことを僕に思い起こさせた。
今回、日本は、フィリップ・トルシエというフランス人監督に長い時間を委ねて、サッカーのナショナルチームを育ててきた。そしてそれは日本の初勝利、予選リーグ突破という果実をもたらした。
結果を残したことは評価するが、しかし、ユニークな監督だった。コロコロ代わる意味不明の選手起用、「システム」を植え付けようとする執念と怒声、人事権を楯に選手を恫喝する姿勢、あからさまに「サッカーというもの」を知らない日本人選手&マスコミを侮蔑する態度、そして時折見せる、黄色い肌の人間に対するレイシスト的視線。
僕はトルシエを見ていると、幕末から明治期の米国総領事タウゼント・ハリスを思い出す。幕府を恫喝して日米修好通商条約を結んだハリスは、明治になっても新政府高官を前にして、「国際的な信用というものはちょっとしたことで」と言い置いて、ワインが入った自らのグラスを床に叩きつけ、「このように粉々になるのだ」と語ってふんぞり返ったという。
事実はそうとして、何と傲慢な態度だろう。明らかに最初から日本人を侮蔑している。それは、たたき上げのハリスがインド・中国で領事館務めをしているときに獲得した、「東洋人は嘘をつく、騙す、信用ならない。東洋人を御する方法は怒鳴り、脅すことだ」という信念の故である。もちろんサッカーファンならここで、トルシエが日本チームに来る前に、ブルキナファソや南アフリカで「未開人」相手に監督をしていたことを想起する必要があるだろう。
日本は、トルシエのごときお雇い外国人を通じて「ヨーロッパ」というシステムを学んだ。世界で認められるにはヨーロッパの「ルール」を学び、そのシステムに入っていくよりほかないからだ。トルシエが大会前に自国のメディアに「日本はベスト4まで残らないほうがよい」と語った。権威あるワールドカップで、近代化間もない日本がそんなことおこがましい、というわけだ。明治時代のドイツ人医師ベルツが日記の中で、日本が分不相応にも「憲法」などというものを持ったことを嘲っていたのと同じである。
だが日本は必死に頑張った。その必死な努力の結果が、日露戦争の勝利だった。政治においては憲法を作り外交手腕を学び、文化においては牛肉を食って体力をつけ学校を作って文盲をなくし、軍事においては戦略と戦術を習得して、それも全部必死にやって、その結果として勝ったのだ。
だが、勝利に対する欧州諸国の反応は、「不気味なものがあらわれた」という印象だった。負けたロシアは言うに及ばず、ドイツの皇帝はわざわざ黄色い人間の勢力拡大を警告する手紙をロシア皇帝に送った。その印象は日本と同盟を組んでいたイギリスにおいてすらそうだった。
ここがこの論の肝だ。難しいところだ。南北アメリカやアフリカといった、言葉はもちろんその精神性まで、つまり骨の髄までヨーロッパに植民地化された国々は、そのロジックゆえにヨーロッパを脅かす危険もない。カメルーンやナイジェリアがサッカーで躍進してもヨーロッパ諸国にそれほどの違和感を与えておらず、むしろ欧州のビッグクラブが争って選手たちの獲得に走るほどである。
だが、アジアの躍進はそのように受け止められていない。肌が黄色く無個性な顔をした背の小さい連中のやることはわからない。彼ら(アジア人)は、精神性においてヨーロッパと同じものを持っていない。にもかかわらず、ヨーロッパのシステムを身につけ、何となればヨーロッパを脅かそうとする。それはヨーロッパにとって不気味であり、不可解なものであろう。
そして、システムだけを習得し、同じルールにのっとって戦おうとするわれわれアジア人の姿は、ヨーロッパから見れば醜悪である。システムは、美的文化的価値観までをフォローしない。
韓国についても触れなければならない。
韓国の場合、日本がヨーロッパとの間でもった文化的な緊張関係にさらに重ねるようにして、隣の日本から植民地支配を受けたという事実に基づく文化的な緊張関係を持たなければならない状況にある。したがって、韓国のスポーツや文化における「勝利」は、ひとまず、日本に対しての「勝利」として見出されてきた。
サッカーにおいては戦後、メキシコ五輪の例外を除いてほぼ韓国が日本に対して優位であった。ここ数年それが逆転したかのように思われ、それを巻き返す(それがためにヒディングというお雇い外国人まで呼んだのだ)ことを今大会の目標としてきたはずである。
韓国は、日本チームを上回る好成績を収めた。しかしそれ以上に、世界から注目され、特にヨーロッパから非難され、不気味がられた。日本との緊張関係、そして、東アジアの一国として持たざるをえないヨーロッパとの緊張関係を一挙に打破したために、それは余計に無気味に見えただろう。
ひるがえって日本は、そこまでのナショナリティの団結を発揮できなかった。それを「先進国の余裕」という人もいるけれども、むしろ、「ヨーロッパ」というものと、システムを超えた部分での価値観、文化的な部分で激突して手痛い大敗北を喫したという諦念のように僕には思える。そこが日韓の相違だろうと思う。
(しかしながら今大会の中田英寿選手は、日本として頑張る、ナショナリティの発露として頑張る、あるいは個人として頑張るというものを越えて、「ヨーロッパ」というシステムとさらにいかにして伍していくか、という姿勢が見え、それは各選手にも伝わっていたように思う。今後が楽しみである。)
ところで、先の戦争において日本がヨーロッパと凄まじい激闘を演じたことは、ヨーロッパによって始まりヨーロッパが支配してきた、ヨーロッパの目から見て麗しき「近代」を終わらせた。別に右翼のように戦争擁護論をしたいわけではないけれども、結果として先の戦争を契機として植民地はほぼなくなり、貴族文化をベースとした麗しき欧州は消えつつある。むろん、アメリカという平板文化国家の勢いは無視できないが、いずれにせよそれは「ヨーロッパ」にとっての終焉を意味していた。
いま、「ヨーロッパ」的な麗しいものをスポーツに見出そうとすれば、それはレイシズムと貴族性に圧倒的に支えられたラグビーか、金持ち趣味に裏打ちされたF1ぐらいなものである。1980年代にあってホンダエンジンが一度追い出されたり、ブラジル出身のアイルトン・セナが露骨な嫌がらせに遭ったりするほどにF1はいまだ「ヨーロッパ」的なのだ。
サッカーの「ヨーロッパ性」は、本場の欧州と移民の国南米の間で支えられてきた。しかし今回、初めて、大会そのものが東アジアにやってきて、なおかつ、東アジアの得体の知れない国が2つも決勝トーナメントに残り、ひとつはベスト4まで生き残った。しかもイタリア、スペイン、ポルトガルといった「美しいサッカー」を、システムだけは猿真似したが精神性は不可解な闘志剥き出しの「醜いサッカー」で打ち破ることによって。
折りしも今日、FIFAのブラッター会長は「今大会のレベルは最高とは言えなかった」と露骨な総括発言をした。トルシエが「日本はベスト4まで行かないほうがいい」と言ったのと同様、欧州人としてアジアに対して投げた、存分に侮蔑的な発言である。
だがそれは、日本の戦争によって「ヨーロッパ的な近代」の終焉が始まったように、サッカーにおいては今大会をきっかけに「終焉」が始まることだろう。ヨーロッパはその落日に耐えつつ自らの矜持を保持する運命に向かい合わなければいけない。きっとFIFAは、今後二度と、アジアのような不気味な場所でワールドカップを開催することはないだろう。
そして、日本はこれからも否応なく、仲間なのに仲間に入れてもらえないというヨーロッパに対しての緊張関係を前提として生きていかなければいけない。韓国はこの先の時代に初めて、その緊張感を日本という媒介なしで抱かなければならないだろう。
そして、それに時に勝利しつつ、時に妥協しつつ生存の道を模索しなければならない。その道は、サッカーにおいては、あるいは中田英寿が、あるいは安貞恒が見出していく可能性は高い。しかしその他の分野では誰が見つけていくのだろうか。候補者の固有名が挙がるだけ、サッカーのほうが幸せなのかもしれない。