第116回 「田中角栄」幻影の真相・前編(2002/08/11)

 

 国会閉会後の微妙な時期に、田中真紀子さんが衆議院議員を辞職した。今後のことについては触れていないけれども、おそらく、息子に席を譲るのではないかと僕も考えるし、大方の考えも同じのようだ。中央政界に追い込まれた母親に変わって息子がふたたび新潟から立ち、東京へ行く。そして不条理な政界に挑む。まだ二十代の青年を乗せるには悪くないストーリーである。

 僕自身は田中さんの言葉にあまり感心していなかった。仲間を作ろうとしないくせに権力だけは志向する政治姿勢、反米・親中を露骨に見せる外交姿勢。そしていずれも、その背後に、真剣な検討や思考が感じられないところが気に喰わなかった。所詮は、姿勢のおばさんなのだ。政治家としては科学技術庁長官あたりが適任だったろう。だから批判的なことをたくさん書いてきた。

 ただ、日記などをずっと読んできていただいた方にはわかると思うが、僕は、真紀子さんが汚い手を使い死力を使って逃げ切ろうとしたことそのものを、いいことだとは思わないが否定してはいない。憤りはむしろ、同じ罪に問われて辞職したり自殺したり刑務所に入った人間たちのことを思えば、真紀子さんを本気になって追及しない追求側に向けられていた。その追求が本格化する前に、真紀子さんはみずから身を引いた。息子への禅譲と考えれば、悪くない判断である。

 

 しかしながら、どうしても閉塞感が残る。嫌な感じだ。最近Co-Respondingで使っている言葉でいえば、真紀子さんに「知性」が不足していた、という理由で彼女が追い込まれていったというような閉塞感。これを期に、われわれ平民が言葉を発する機会がますます失われていくだろう、という閉塞感。テクノクラシーに政治が負けた閉塞感。

 真紀子さんへの尋常ならざるかつての人気は、もちろん、野中広務さんが言うように「ワイドショーが作った劇場型民主主義」の一典型ではあっただろう。だがそれだけで説明がつくわけではない。もちろん人々が、特に彼女の支持世代が、故田中角栄元首相の幻影を彼女の重ねていたからに相違ない。

 では、角栄氏の幻影とは何だったのだろうか?角栄氏の「負の遺産」が、現在の自民党政治をして公共事業のカネ分配ゲームとしてしまい、政治としても経済としてもにっちもさっちもいかないところまで追い込まれているのに、政治家たちは解決能力を持たない。だから、頭が切れて柔らかい若手政治家と若手官僚が、(「知性」を武器に)現在の国家観を解体し、再建しなければならない。

 識者の論調はおおむねそんなところだろう。だが、角栄型政治はほんとうに「国家観」だったのだろうか。真紀子さんに大衆が期待したのは、「国家観」だったのだろうか?そのことを、ちょっと強引に振り返ってみたい。

 

 戦後の日本政治の大半は、過半数前後の与党自民党と、そのまた半数程度の野党第一党の社会党という、二つの政党の歴史として語られる。自社体制、あるいは55年体制と呼ばれるものだ。でも、社会党は実質的に政権に参与したことはないわけで、むしろ自民党のなかを見つめたほうがよい。

 そのときに浮かび上がってくるのは、岸信介あるいは「宏池会」系の政策と、田中角栄あるいは「木曜会」系の政策の対立構図である。現在の派閥で言えば、旧加藤紘一グループと、橋本派である。どちらも、政官が一体となって政策を推し進めるという点では一致しているが、しかしながら相違点も多い。その相違点は、戦後日本政治のひとつの特徴として考えられなければならない点だ。

 

 まず「宏池会」系の話から。

 自民党・保守本流の戦後は、巣鴨拘置所から出てきた岸信介元首相に始まる。帝大法学部で首席を争うという優秀な頭脳に恵まれた岸は、しかし、期待されたアカデミズムの道を選ばず官僚となった。しかも官僚の中のエリートコースである内務省や大蔵省ではなく、彼が入ったのは商工省、つまり現在の経済産業省である。彼はあまり権力とは縁のない通産官僚の道を選んだのだが、それは彼なりの計算の故だった。

 当時の日本の経済政策は、凶弾に倒れた井上準之助、高橋是清という二人の蔵相に象徴されるように、現在同様自由主義経済に大きく依存していた。井上は国際経済に合わせた金解禁を強行して大恐慌の余波をもろに被り経済を悪化させた。高橋は軍部の要求で膨らむ支出を抑えて財政を健全化し、半ば成功したが、2・26事件で射殺された。当時は失業は日常茶飯事でありながら社会保障は薄く、失業者は共同体的な扶助原理(「助け合い」の心)で何とか救われていた。だが、現実的には扶助原理が機能しない新たな都市住民たちの不安を自由主義的な経済政策では救済することができず、彼ら新都市民の不安はマスメディアの発達もあって「想像的な共同体」として回復され、それがファシズムの温床となったことは否定しようがない。

 そのころ、若き岸は同志の若手官僚とともに商工省も飛び出して、満州に渡った。まだ建国後間もない満州国で、官僚が主導した計画に基づく重工業経済の壮大な実験を試みていたのである。すでに張学良は中華の地に追われており、関東軍の専権は既成事実化されていたので、関東軍に認められてさえいればどんな実験でもできたのだ。

 岸は、満鉄(南満州鉄道株式会社)と組んで線路を引き直し、時速100キロを越える超高速特急「亜細亜号」を走らせ、その駅を中核として工業都市を作り始めた。壮大なインフラ整備である。幸い、満州には撫順などに石炭が豊富にあった。石油の開発も試みていたらしい。

 岸がこんなことを考えたのは、1930年代後半以降、二度の5ヶ年計画によって革命の荒廃から驚異的な経済回復を果たしたソ連のことが念頭にあったのである。そしてまた、そのソ連の計画経済とほぼ同じくに見えたはずの、ナチス政権下のドイツの驚異的な経済回復があったのである。どちらも、官僚主導によって国家支出の投資比率を決め、インフラを整備して経済発展を促す姿勢であった。

 日本国内でも、英米派は経済自由主義を守ろうとし、親独派は計画経済を試みていた。岸は、その計画経済の成功例を満州で作ろうとしたのである。

 敗戦後、岸は満州国官僚としての地位を問われてGHQに捕らえられる。そして巣鴨プリズンから出てきた彼はこんどは政界入りし、壮大な計画経済実験の続きを始めたのだ。

 満鉄と組んで「亜細亜号」を走らせたように、今度は国鉄と組んで「新幹線」を走らせようとしたのだ。猛烈な世論の批判の中、東京〜大阪の夢の超特急を走らせ、そこに重工業地帯を作ることに岸は首相在任前、在任中、在任後を注いだ。相方となった国鉄総裁十河信二は元満鉄官僚で岸の満州時代からの同志であり、争議や事故で幾度かのピンチを迎えた十河を岸はたびたび救った。そして岸は見事に、日本を戦前のタオルと石鹸を輸出する国家から、重工業コンビナート国家として作り直したのである。

 

 そのころ、田中角栄は、政治家としてのキャリアを歩き始めたばかりだった。

 田中は戦前、日本有数の軍需財閥だった「理研」関連の会社に入る。そして朝鮮にあった理研の軍需工場に渡る。ここで田中は、大河内正敏らの満州官僚と繋がりを持ったようである。大河内らは、同じ満州官僚でも岸らのように本土から途中渡ってきたのとは違い、満州国建国時から理念的にも関係していた集団である。そして満州国建国の理念をもっともよく体現していた人物は、関東軍参謀として満州事変を奇跡的な圧勝に導いた石原莞爾であった。

 石原は、工業が中心となる世界的な潮流に反して、農業を中心とした生活の中に工業を成立させる、つまり農が本であるということで「農本主義」と呼ばれる思想に共鳴していた。人々は農を本とすれば、ほどほどではあるが貧せず、満ち足りた生活を送ることができる。現状がそうなっていないのは、国家が税を取り立てたり、工業用の土地を取り立てたりして経済的に農民を追い詰め、かつ、農民の善良な心を乱すからだ、という考え方だ。この思想は決してファッショや帝国主義の鬼子ではなく、古くは「新しき村」の武者小路実篤、ついで花巻で独自の思想を展開した宮沢賢治から連なる系譜である。

 満州国建国の功労者である石原は、しかし、建国後岸ら本土の官僚が渡ってきて重工業を軸とした強引な政策を推し進め、さらにはその後ろ盾である東条英機が関東軍総司令官となるに及んで満州国から足を洗う。戦後、戦犯とすらされなかった石原は故郷に「西山農場」なる農場を作り、農本主義的生活を細々と継続することになる。

 それはともかく、田中角栄が、戦争をはさんだ時期に、農本主義的な思想と接触したのは重要なことだ。福田和也さんが最近指摘しているように、田中角栄の新潟における強大な支援組織「越山会」には、その創設時から多くの農本主義メンバーが入ってきていたのだから。そして角栄の政治的組織は、1970年代には毎週木曜日に会合を持つことから「木曜会」と呼ばれ、強大な田中派となっていった。

後編に続く)


[PR]DoCoMoご利用の方必見!:無料の運命鑑定≪スピリチュアルの館≫