第121回 パックス・アメリカーナ?(2002/09/20)

 

 Co-Respondingのお相手Igarashi氏が、日記の中で、岡崎久彦氏の言をようやくして以下のように引用していた。

「アメリカは、まどろっこしい国連なんか無視してイラクを徹底的にやっちまうべきだ。そうすりゃあ、北朝鮮は震え上がるし、中国もおとなしくなる。パレスチナ問題も解決するだろう。
 20世紀はアメリカの世紀だったというが、あんなにも戦争が多かったのは、不完全なアメリカの世紀だったが故だ。21世紀は、世界史上類を見ない圧倒的な力を持つ本物のアメリカの世紀になる可能性があり、そうすりゃあ、世界はパックス・ロマーナ(ローマ帝国による平和)以上のパックス・アメリカーナ(アメリカによる平和)になる。
 日本は、四の五の言わず、パックス・アメリカーナを作るために粉骨砕身努力するのが国益だ。デモクラシーだの、ユニラテラリズム(一国主義)だの、ガタガタ文句をいってる場合じゃない…。」

 Igarashi氏が言うように、この言葉は、半ば以上当たっている。冷戦構造の崩壊によってアメリカは存在価値がなくなるなんて暢気なことを考えていられたのははるか遠い昔、過去に例がないほどに圧倒的に強力な軍事力と経済力に支えられた「本物のアメリカの世紀」が到来しつつあるように見える。おそらくかなりの確立で来るであろうフセイン政権殲滅のための戦争は、その嚆矢となるはずだ。

 岡崎氏についていえば、この人の議論のベースは徹底して単純かつ一貫している。つまり、「近代日本はアングロ・サクソンと組んで勝ち(日露戦争のこと)、ゲルマンと組んで負けた(第二次世界大戦のこと)。近代日本は、海洋勢力(イギリスのこと)と組んで勝ち、大陸勢力(ドイツのこと)と組んで負けた。だから、アングロ・サクソンであり、海洋勢力であるアメリカとの手を離してはいけない」というものだ。(中公新書の『戦略的思考とは何か』に詳しい。)したがって、大陸勢力である中国と手を組んでアメリカと離れるという選択肢は決してありえないことになる。

 そうした、おおむね妥当な地政学的見解だけならばよい。だが彼の言葉で気になるのは「パックス・アメリカーナ」である。アメリカの覇権の元での平和…この言葉の意味を、対イラク戦争を進めるアメリカ政府の要人たちは、単なる戦略的な意味以上に捉えているに相違ない。

 

 ヨーロッパの国々にとって、ローマ帝国とは永遠に範とすべき覇権の姿である。西はジブラルタル海峡から東はユーフラテス川までの広大な地中海世界を、ひとつの国家の権力のもとに維持したことは、それ以後のヨーロッパ国家にはない。シャルルマーニュが、オットー・ハプスブルクが、ナポレオンが、ヒトラーが目指したが挫折したものである。とりわけ、紀元1世紀からおよそ100年間にわたる五賢帝時代、この領域のほとんどに戦乱がなかったために、それはパックス・ロマーナ(ローマによる平和)と讃えられる時代となった。

 その言葉は、18〜19世紀、世界に覇権を維持した大英帝国のもとで「パックス・ブリタニカ」として甦った。もっとも、ナポレオン戦争後第一次世界大戦に至るまでの平和は「イギリスの平和」であり、ヨーロッパでは次の覇権をめぐってロシアが、ドイツがしたたかに戦争を繰り広げていた。何より、ヨーロッパの外では激しい植民地戦争が繰り広げられていた。したがって、それは決して「イギリスの覇権のもとの平和」ではなかった。

 そしてパックス=ロマーナが西欧人のものである以上、ローマ以上の覇権と安定と平和を誇った非西欧国に対してはその称号は使われることはない。アッバース朝のイスラム帝国をしてパックス=アラビアと呼ぶことはほとんどないし、唐帝国、あるいは近くて清帝国による安定的な平和をパックス=シニカと呼ぶこともかなり専門的なジャーゴンに属する。

 

 ヨーロッパ人種の国家が作った覇権に基づく、世界の平和。それを作った国にラテン語のパックス(平和)という称号が与えられるとするならば、確かに今のアメリカにはその可能性がある。可能性がある以上やらねばならないというのは、メイ=フラワー号で新大陸にやってきて以来のピューリタンたちの基本的な信念である。信念のみならず、野心もあるだろう。そして戦略的にそれを歓迎する岡崎氏のような外国人もいる。

 だが、それはほんとうにパックス・ロマーナと同じ意味での「パックス」なのだろうか。

 今月号の『文芸春秋』で石原慎太郎氏は、今後到来するかもしれないアメリカの覇権をモンゴル帝国に比していた。圧倒的な軍事力。そしてその軍事力を常にどこへでも展開させる機動力。それを持っていながら、覇権下の地域を決して組織的に統治しようとはしない。インフラの整備も行わない。ただ、支配下の地域でいざこざが起きれば出て行って圧倒的な軍事力で紛争を解決し、何事もなかったかのようにまた本国へ帰っていく。

 イタリア半島の本国から見れば無駄とも思える道路整備や水道整備を行い、属州総督を派遣してローマ法を行き渡らせその文明を広げたローマ帝国と違い、遊牧民出身のモンゴル帝国には伝えるべき文明もなかったし、またその意思もなかった。その証拠に、チンギス=ハンの死後、統一的な統治機構をもち得なかった帝国はたちまち4つに分裂した。オゴタイ=ハンの国は国家なんてものを忘れたかのような草原の遊牧生活に戻り、イル=ハンの国は所領のイスラム文化に飲み込まれた。チャガタイ=ハンの国はやがてロシア人に国をのっとられ、唯一堅固な統治体制を築いた元帝国も、明の勃興を契機に国家統治に飽き飽きしたように北方の草原へと帰っていった。

 それは確かに平和ではありながら、被統治民としては決して居心地のよいものではない。市民権を奪われ、国家や民族としてのプライドを奪われたままに統治される状態。それをロシア人たちは「タタールのくびき」と呼んで忌み嫌い、その抑圧から脱するためにキエフに、モスクワに集結して国家を作った。それがイワン雷帝のロシア帝国となる。(20世紀に入ってソビエト・ロシアがモンゴルを事実上の属国にしたときに、その歴史からチンギス・ハンを抹殺したのは後日談である。)文明の流布を伴わないモンゴル的支配の帰結は、否応なくそうなる。

 

 いまのアメリカに、ローマ帝国のように伝えるべき文明があるだろうか。マクドナルドとコーラ、それにハゲタカヘッジファンドの文明ではあまりに弱すぎるし、そこまでの責任感があるようにも思えない。ローマの貴族たちが軍団を率い先頭になって闘うことで他国や属州に対して示したノブレス・オブリージが、現今のアメリカの「王朝」であるところのブッシュ・ジュニアには残念ながら見られない。

 見えるのは、軍事力を背景に自分たちの得になることをして、得になる地域を支配下におきたいという欲求でしかない。それを昨今では「ユニ・ラテラリズム」ということで言うようになった。もちろん、ローマ帝国とてそのような欲求がなかったわけではない。ただそれと同時に、その後千年に渡ってヨーロッパ文明のベースとなる「普遍性」を示した。そのためには、求心性を失わせるような市民権の全面的な付与や大規模な奴隷解放も厭わなかった。モンゴル人による官僚機構を崩さなかったモンゴル帝国とはあまりにも違う。

 アメリカはどちらの道を進むのか。白人世界の代表的な国家でありながら、ヨーロッパに対してはやや屈折した感情をもつこの国に、自信を持った「パックス」の姿勢を求め続けることは難しいだろう。もしアメリカが覇権を持つとすれば、それはモンゴル帝国的なものになる可能性が高い。

 そのときにわれわれは、かつてエジプト王国やヌミディア王国がローマに対してとったような形式的には対等な友好国の姿勢をとってももはや無意味であることを知るだろう。むしろ、いまだロシア人たちが怨念を込めて語る「タタールのくびき」に近いものになるだろう(むろん、部分的にはそのくびきのもとにすでにある)。そのくびきを甘んじて受ける覚悟を決めてから、「パックス・アメリカーナ」への賛意を示して欲しいものである。


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