第126回 映し鏡としてのトルコ(2002/11/26)

 

 トルコで先ごろ総選挙があり、公正発展党(AKP)のギュル首相が、学校など公的な場所でのスカーフ解禁を主張した。しかし、憲法で政教分離、世俗主義が規定されていることを楯に裁判所がこれを認めず、セゼル大統領は国是への挑戦と受け止めている。スカーフはもちろん、イスラム教を信仰する女性の服装である。これに対してギュル首相は「思想・表現の自由拡大」を訴えて、素朴な信仰表現を認めるよう世論に訴えている。

 

 なかなか難しい問題だ。思想表現の自由を認めないのはイスラム教のやりそうなことに思われるのだが、いまはイスラム派のほうが思想表現の自由を訴えている。一方、イスラム教による国家支配を否定し、信教の自由を保障している政府のほうが責められている(むろん、私的な場でのスカーフ着用は既に認められているのだが)。

 しかもここはトルコである。トルコは難しいところだ。欧亜の境にあって、近代国民国家としてのトルコはいつも難しい選択を迫られてきた。そして冷戦の崩壊、中東の緊張にあたって、ふたたびイスラム主義も民族主義も頭をもたげている。アメリカの対イラク戦争の可能性が高まる今、アジアの西端にあるトルコを考えることは、東端にあるわが国の多少なりとも映し鏡として役立たないわけではないだろう。

 

 近代国民国家としてのトルコは、第一次世界大戦の最中、青年トルコ党がオスマン王朝を倒して建設された。この青年トルコ党のリーダーがケマル・パシャで、後にアタテュルク=トルコの父、という尊称を送られている。

 ケマルは、トルコ建国にあたり、それまでオスマン帝国下で政権に関わっていたイスラム教の指導者たちを排除した。首都を、あまりに伝統的で由緒の深いイスタンブールからアナトリア高原の一都市・アンカラに移したのもそのためだ。憲法では政教分離を定め、教育の中からイスラム教を排除したばかりか、それまでの公用文字だったアラビア文字を廃した。

 ケマルは、新生トルコをヨーロッパ諸国と同じ「文明」の側にいる国として再建したのである。そしてその究極の目的は、トルコを「ヨーロッパ」の一部として認めてもらうことだった。「ヨーロッパ」の一部になることと、「文明」の一部であることは同値である。植民地支配から逃れるためには自分たちが非文明ではなく文明の側に属していることをアピールしなければならなかったのだ(日本とて同じであった)。廃止したアラビア文字の代わりにケマルが導入したのがアルファベットだったことを思えば、そのことは明らかである。

 もともと「非ヨーロッパ」であったオスマン帝国から出発したトルコにとって、それは涙ぐましい努力であった。「非ヨーロッパ」と思われているかぎり、ギリシアのような、誇りだけは高いが実力はない「ヨーロッパ」の小国の軍隊にちょっかいを出されたりするのだ。そのことから、トルコは近代的な国家の体裁を整えると同時に、ひたすらヨーロッパに追随してきた。

 第二次大戦後もCEATO、NATOの忠実なしもべとしてトルコは振舞ってきた。中東にソビエトが影響力を伸ばし、民族主義と結びついた共産政権が生まれていたときに、トルコはアメリカにとって資本主義圏の防波堤であった。冷戦が崩壊した後も、アメリカに追随を続けている。だが、とりあえず「文明」として認めてもらったことといえば、ヨーロッパサッカー連盟への加盟を認めてもらい、ガラタサライが活躍するところにとどまっている。

 つい先月もEU(ヨーロッパ共同体)への加盟を拒否されてしまった。クルド人問題などの人権問題が片付いていないのが表向きの理由だが、ヨーロッパ各国での貴重な労働力となってきた移住トルコ人が各国で外国人問題となっているなど、ヨーロッパ各国の根強い違和感が根底にあることは否めない。トルコはかれこれ20年も加盟を求めているにもかかわらず拒否され、バルト3国やルーマニアは今回すんなり加盟が認められた。バルカン半島に引かれた文明・非文明の断層線は、戦時のみならず平時においても深い。その点においては、オスマン帝国の時代と変わっていない、とも言える。

 

 冷戦とは、イデオロギー対立だった。イデオロギーの対立が終焉したとき、世界各地で宗教へ回帰する者、民族主義へ回帰する者、かつての帝国へ回帰する者、いろいろと出てきた。トルコにもある。しかも、ヨーロッパに認められたいが認められない、というフラストレーションもあって、トルコでも反欧米、イスラム回帰の動きが強くなっている。イスラムを標榜する政党が政権をとった、ということは近代トルコにとっては衝撃であった。

 しかしそれは、たとえばNY世界貿易センタービルに突撃するような原理主義ではない。むしろオスマン回帰というべきもので、かつて17世紀にはユーラシア最強の国家としてアジア、アフリカ、ヨーロッパを跨ぎ、神聖ローマ帝国を押し込んでウィーンの城壁にまで迫った過去を「イスラム」の言葉の中に甦らせようとしていると言っていい。

 だがそれは、異民族を包摂するという帝国の原理を切り捨てて成立した近代トルコにとっては希望に過ぎない。そして切り捨てたはずのトルコ国内に住む異民族(クルド人)に対しては、トルコ政府は今も容赦ない政策を行っている。

 そしてトルコにはもうひとつ、民族主義がある。トルコ民族はもともと騎馬系と、オアシスに暮らす農耕系の民で、いずれも中央アジアのステップ草原の民だった。騎馬の民は匈奴あるいは突厥と呼ばれて7世紀には草原の帝国を築いた。それを打ち破ったトルコ系のウイグル人たちは玄宗皇帝を助けて唐帝国を滅亡から救い、ときに敵対した唐に進入して洛陽を占拠したりした。

 アッバース朝イスラム帝国の支配下に入ったトルコ人たちはその騎馬の能力を買われて軍人奴隷となり、やがて中央アジアにみずからカラ=ハン王朝を建てる。さらに12世紀、アラル海付近でセルジューク族のトゥグリク・ベクが国を建て、アッバース朝カリフの都バグダードに入場し、カリフから全権を委任された。このセルジューク朝がビザンツ帝国を圧迫して小アジアを領土とするのである。今のトルコがトルコ人の土地になったのは、そのとき以来なのだ。

 したがって、トルコ民族はユーラシア大陸を横断するように今でも分布している。キプロス、イラン、インド、ウズベク、カザフ、キルギス、ロシア、中国に拡がるトルコ人たちは、イスラムと結びついて「大トルコ主義」とでも言うべきた民族主義を主張する可能性がある。すでにそれに基づいて、中国のトルコ人たち(新疆ウイグル自治区)は数年に一度、ウルムチあたりで暴動を起こしている。

 近代トルコは、これらのトルコ系の「兄弟」たちと袂を分かつことで成立した。現実には、オスマン帝国の時代に自由な交流が認められていたこともあって、イスタンブールや小アジア西岸あたりは多様な人種の混血のほうが多いのだが、それを理念的に「トルコ人」としてまとめあげたのだ。しかしいまだに、「兄弟」たちとの連合を図る声は小さくない。

 

 帝国原理の否定、近代化による「文明」への参加、そして単一民族による国家構成。これらはいずれもわれわれが暮らす「近代国家」というものの成立要件である。いまトルコで問題になっているのは、「近代国家」を作るときにトルコが切り捨ててきたものだ。それが亡霊のように時々甦ってくる。亡霊は「近代国家」の危機において頭をもたげるし、国家はその時々に応じた個別的な対処を要求される。

 すでに、ヨーロッパとの依存を強く深めているトルコ一国がその亡霊に真剣に脅かされることは当面ないだろう。しかし歴史的に上述したとおり、トルコにおける問題はオスマンの問題であるのだ。誰に責任がある、というわけではなく、イラク問題、サウジアラビアの国内・国外の問題、そして何よりパレスティナ問題はオスマン帝国の崩壊から生まれた問題だ。

 それはすなわち、オサマ・ビンラディンにもタリバーンにもつながってくるということだ。キリスト教とイスラム教の戦いを文明と非文明の戦いと見なすのであれば、その境界線にあるトルコがどちら側にいるかということはとても重要なテーマになってくる。

 亡霊には亡霊の存在理由がある。それを看過したり、対処を誤ったりしてはならないのは、トルコだけの話ではないのだ。もちろん、わが国にも、見えにくいながら成立要件が存在しているし、それを無視した議論をしても意味がない。アジア大陸の対岸の火事と思わず、トルコを移し鏡としながら、折々はわが国のことを見つめなおす必要があるだろう。


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