第128回 直喩と隠喩(2002/12/16)

 

 アナロジーを発見することは、ものごとを見ていくうえでの楽しみのひとつである。そのアナロジーを巧みに使って、情報を扱う術を人間は用いてきた。それが比喩だ。

 比喩を用いることはコミュニケーションを円滑にする技術のひとつである。ただし、それは比喩を用いれば必ずコミュニケーションが円滑に進む、ということを意味しない。むしろ、比喩を使ってコミュニケーションを図ることによって失われることも多くある。なぜならば、それほどに人の「主観」が認識している内容はずれている。あなたが思っていることと私が思っていることが同一で、だからコミュニケーションが成立するというのはあまりにも安易な見解だ。

 もちろん、いちいちコミュニケーションの正確性を図っていると時間が足りなくなるから、ある程度のことは「確実に伝わっている」と見なして、われわれは話をしたり、議論をしたりする。その「確実に伝わっている」と見なせることの別名を、共同体性と言い換えてもいいだろう。

 しかし、共同体性が存在しないところではもちろん、存在するところでも、コミュニケーションの確実性には何の根拠もない。その状況の中でコミュニケーションを図ることに人間社会の難しさと面白さがあり、その難しさと面白さゆえに、比喩という技術も生きてくるわけである。

 古代インドで仏典を編纂した者たちは、仏に救われた者の数を「ガンジス川の砂の数ほども(=恒河沙)」と形容し、唐土の詩人は憂いの深さを「白髪三千丈」とうたった。意識と無意識の境涯に遊ぶ者を胡蝶之夢に託すのはまたひとつの比喩というものである。

 比喩の面白さは語り尽くせないが、しかし、かりにも責任ある言説を語らんとするとき、それがどういう意味の比喩であるかを知らないで語るわけには行かない。最低限、直喩と隠喩の違いぐらいは意識しなければならない。

 

 スーザン・ソンタグさんが大江健三郎さんを批判していることを何度か紹介しているが(たとえばここ)、ソンタグが「ファシズムは現在隠喩となっているが、隠喩を正確さを欠いたかたちで使いたくはない」と言っているのに僕が共感を示していることに、批判をいただいた。隠喩の意味そのものが不明確で、何をもって隠喩というのか、それは乱雑な議論への扉を開くのではないか、ということだ。

 なぜそういう論旨になるのかよくわからないけど、一応返事を。

 中学校で習うことだけど、比喩には隠喩と直喩がある。直喩は「〜のようだ」といった言葉を使う比喩であり、隠喩はそれを使わない。「髪の毛が霜のように白くなった」といえば直喩だし、「頭に霜を置く」といえば隠喩だ。

 これと同じように、「最近の日本のナショナリズムの動きはまるで昭和10年代のファシズムのようだ」といえば直喩的だが、「最近の日本のナショナリズムはファシズムの復活だ」といえば隠喩的になる。(「的」というのは、ここまでの議論で「ファシズム」の定義をしていないから使った文字だ。)そして、直喩の場合は「AはBだ」というとき、AとBは類似しているが同値ではないことが示されているが、隠喩の場合、AとBの定義が同値でなくても、「A=B」という等式が成立しているように見えてしまう。その問題を、ソンタグは言っている。

 例を示そう。9月11日をめぐる、パレスティナ人のコロンビア大学教授、E.サイードのインタビューから。

 たとえば「テロリズム」という言葉をとってみましょう。この語はいまや、反米主義と同一視されています。そして今度は、反米主義と合衆国に批判的であることが同義であるとされ、ひいては合衆国に批判的であるということは愛国心に欠けるということに等しいとされるのです。こんな無茶な等式の連続は、とても受け入れられません。

テロリズム=反アメリカ主義=政府批判=愛国心の欠如、という等式。この3つの「=」のうちどれが同値を示すもので、どれが隠喩になるのか?はっきり言って、ここにある3つの等式はすべて隠喩だ。正確さを欠いた等式である。なぜなら、アメリカ政府が定義したテロリズムとは、

「政治的・宗教的、あるいはイデオロギー的な目的を達成するため、暴力あるいは暴力の威嚇を、計算して使用すること。これは脅迫、強制、恐怖を染み込ませることによって行われる。」

であり、これはどうやったって反米主義とはつながらない。愛国心に欠ける者を、星条旗を焼く者を「テロリスト」と呼ぶことにはあまりにも無理がある。そして、この定義どおりの「テロリズム」を、アメリカが自身が実行する可能性を否定できないというだけで十分な反証だろう(そしてアメリカは現にやっている。こちら参照)。

 隠喩の不正確さとは、言葉の定義の検証を無視し、不正確な等式と因果関係を積み重ねることによって生まれる。ひとつひとつの等式の不正確さは小さなものでも、その積み重ねは大きくなりうる。

 その積み重ねが、たとえば年末年始にかけておそらく数十万のイラク市民を犠牲にする可能性が高いとき、われわれに出来ることとしては、少なくとも、世に流布している等式に対して分析と反省を加えていくことではないだろうか。論理的に言えばイデオロギー批判、ということになるだろう。作家の言葉を借りれば、それが隠喩であるのかどうかを見極める、ということになるし、少なくとも、このサイトで僕はそれを目指して(失敗していることも多いが)やっているつもりである。

 以上の議論は、むろん、国語学や論理学的な「比喩」の意味合いをすべて捉えたものではない。しかし、比喩を語る上での最低限のものは捉えたものである。そして僕にはせいぜい、この程度の責任感しか持ちえないし、生きていくうえではそれで十分だと思っている。単にスノビッシュに、比喩を用いて建設と解体、意識と無意識の間で遊ぶのであれば、それは所詮、胡蝶之夢の隠喩の域を出ないものである。


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